2010年1月31日日曜日

*Divorce & Depression

【夫婦の問題】

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100組の夫婦がいれば、100の異なった事情がある。
1組とて、同じ事情の夫婦はいない。
しかも複雑。
大小のちがいはあるだろうが、みな、それぞれの事情の中で、
何らかの問題をかかえている。
問題をかかえていない夫婦はない。
みな、懸命にふんばっている。
ぎりぎりのところで、ふんばっている。
東北地方に住んでいる、HY氏もその1人。
HY氏からのメールを、改めて、読みなおしてみる。
HY氏の問題というよりは、私自身の問題として、
読みなおしてみる。

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【HY氏より、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。
今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としております。
どう解決していけばいいかわからない状態です。
先生のお知恵をいただき、何とか解決の糸口を見つる事ができればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し、23年になります。
私は外科医師で妻は元看護師です(結婚と同時に退職)。
結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり、私を無視するところがありました。
離婚を匂わせる発言も数回ありました。
私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3ヶ月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別々で、家庭内別居の状態が続いています。
元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上げて嫌がります。

激高したちょっとしたことについて少し書きます。

・・・早めに病院に行かねばならず、家内が車庫から車を出した際、車庫前に駐車していた隣人の車にぶつかった。
急いでいたしその車が誰のものかもわかっていたので、不覚にも私は家内に、「送っていってから隣人に詫び言って弁償相談して」と言ってしまい、家内にそのようにしてもらった。
しかし家内が帰宅すると隣人の車は出発していたので、家内は隣人に詫びを言い、隣人の車が帰ってきたのは夕方だったとのこと。

その後車庫内に置こうとした私の自転車が、代車がそこにあったことで、うまく駐輪できず、内開きになっている駐車場のドアにかかってしまっていた。
家内が車庫に物を取りに行ったとき、自転車を倒し、自転車が代車にぶつかってしまい、代車が傷つき、家内にそのことを強くとがめられた。

そのまま謝ればよかったのだが、私も眠くイライラして「僕も悪かったが車をとめる時、自転車があるのだから、もうちょっと気をつけてくれてとめてくれても良いのではないか」と抗議してしまった。
非常に雰囲気が悪くなったので、慌てて車を見に行き、かすり傷が、代車についているのを認めた。
車庫内で家内は興奮し、近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝りに謝った。
翌日自動車会社から私に、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と言ってもらった。
その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。
私の両親にも献身的で祖父母が存命だった時は病院への送り迎えや、母が仙台で手術を受けたときなどは、家族のためにウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれたり、至れり尽くせりで家族は感謝していました。

また私の父も1年6ヶ月前に亡くなり、秋田で暮らしていた母と、重い精神病の妹が2人残されたので2ヶ月ほど前、仙台市内の我が家から500mはなれたところのマンションを借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な挨拶も全くありません。

12歳になる長女は3歳頃から「どうして、どうして」といいながら2~3時間は泣くことがしばしばありました。
家が微妙な状態になった頃、突然受験すると言って中学受験を決意しました。
私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。
今は片道1時間半かかる仙台市内まで、バスと電車を乗り継いで通学しています。
しかし今だ1週間に1回くらいは「自分だけどうして、どうして」と2~3時間大声で幼児返りのようにして泣き続けます。

私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は反抗期も重なりイライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきています。
中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら数秒で立ち上がることを繰り返し、下の子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。
もちろん成績も200人中160位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくんだ」と言い聞かせているようにつぶやきます。

今は下の子と帰ってきてから2~3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9時頃から1時間かけて10分くらい宿題をして寝てしまいます。
制服も帰ってきてからどんなに注意しても、脱いだままにしています。
「勉強したほうがいいのでは」などというと「今しようと思っていたところなのに、いわれたからやらない!」と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。
娘はここぞとばかりに、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪いのに」と言ってまた泣きます。
家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するのと同じように、「触られたくない」と拒絶します。
弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家庭内のギクシャクのためか切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことをできるだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のOK先生に円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。
家内に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと、いっしょに相談にのってもらおうと話を持ちかけましたが、家内は、「それは修復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてやる。
あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言います。
全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。
「子供には両親が必要だし下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ精神科の先生にも相談し安定剤を処方したことがありますが、「私が神病だって言うのかい!」といわれ、1回内服してくれただけで拒絶されました。

それからは何か相談しても(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病の人に聞かないで」と言われてしまいます。
出来るだけ家内を解放して、実家のK町に少しでも帰るように仕向けていますが、外へ向けての完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないように雁字搦めになっています。
今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりしています。

ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきて、どうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。
わたしの精神もかなり磨り減っており、カーネギーの「道は開ける」や、心の学校のST先生の、「捨てる生き方」など読み漁っています。

とに角怒らないようにし、子供を過保護にしているのかもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベッドで家内は寝ていますが、私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝ることが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてきているのではないかと心配しています。

最近は(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良いのでしょうか?
無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
家内は非常に勘が鋭いので、何かありましたら私の携帯(090-xxxx-xxxx)にかけていただければと思います。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司よりHYさんへ】

●離婚

 こうした問題は、なるようにしかならない。
また(そうなる)ときは、本当に、自然と、(そうなる)。
水が高いところから低いところを求めて流れていくように、(そうなる)。
たとえば離婚にしても、「離婚する」とか「しない」とか、がんばっているときは、離婚などしない。
言い争っている間は、離婚などしない。
「子どもはどうする」「親はどうする」などと騒いでいるときも、離婚などしない。
本当に夫婦が離婚するときは、ごく自然な(流れ)の中で、離婚していく。
そのときは、子どもの姿も、親の姿もない。
もちろん夫婦の間の会話も途絶え、「話し合っても、無駄」という状態になる。
たがいにサバサバした状態で、夫婦は離婚届に署名し、押印する。

●干渉

 で、改めてHYさんからのメールを読みなおしてみる。
1年前にいただいたときには感じなかった重みを、今は、感ずる。
しかしこれメールだけで、返事を書くことはできない。
夫婦にはその夫婦にしかわからない、深い事情がある。
いくら想像力を働かせても、そこにはかならず限界がある。
このことは反対の立場を経験してみると、よくわかる。

 私もいろいろな経験をした。
けっして平穏、無事な人生ではなかった。
そうした中で、あれこれと私に意見を言ってくる人がいた。
こちらの事情を表面的な部分だけを見て、そこに自分の解釈を加えてくる。
しかもわずか数歳年上というだけで、ものの言い方が説教ぽい。
偉そうな顔をして、「浩司クン、君はねエ・・・」と言ったりする。
あのとき感じた不快感は、今でも忘れない。
ガラス板を、つめ先でひっかくような不快感と言ってもよい。

 そういう私を知っているから、こうした問題、つまり夫婦の問題にかぎらず、
家庭内の問題については、私は、首をはさまないようにしている。
もちろん相手から相談があれば、話は別。
が、それでも一方的な話だけでは、
何とも答えようがない。

 このHYさんにしても、私はHYさんから相談を受けた。
おそらくHYさんは、自分につごうの悪い話は書いていない。
あるいは自分でも気がついていない問題が、ほかにもあるのかもしれない。
正当に判断しようと考えるなら、HYさんの妻の話も聞かなければならない。

 が、それはさておき、メールからもわかるように、HYさん夫婦は、現在、
危機的な状況にあることだけは、よくわかる。

(1) 寝室は別々で、家庭内別居であること。
(2) 妻の体に触れただけで、はげしく拒否されること。
(3) ささいな会話が、そのまま爆発的に、夫婦喧嘩になってしまうこと。
(4) 意思の疎通も、ままならないといった状態、など。

●がんばる当事者たち

 私は若いころ、アメリカ人の離婚率は高いと、よく聞かされた。
しかし現在、アメリカ人の離婚率も、日本人の離婚率も、それほどちがわない。
それだけ生活が欧米化したともとれる。
が、ともに心のブレーキがはずれたことも、理由のひとつと考えてよい。

 日本では、女性の側が、がまんした。
「離婚は恥」という文化性も、まだ色濃く残っていた。
それに離婚したばあい、女性のほうが決定的に不利な立場に置かれた。

 一方、アメリカでは、宗教的な制約から、離婚したくても離婚できない夫婦が多くいた。
今もそうなのかもしれない。
もしその制約が緩めば、離婚率は、もっと高くなるかもしれない。
ともかくも、(離婚)イコール(悪)という考え方は、今では通用しない。
日本では、女性ががまんする時代は、終わった。
5組に1組は離婚する状態である。

●男親

 それはそれとして、私も「男親」の1人として一言。

 男親というのは、仕事をすることで、家族への義務を果たそうとする。
また仕事をしていれば、家族への義務を果たしていると思いやすい。
しかし残念ながら、(仕事)の力は弱い。
安定した仕事をしていればしているほど、家族は、それを(空気)のように思う。
つまり男親が自負しているほど、家族は、それを評価しない。
私も、よく言われた。
「パパは、仕事ばかりしている」と。

 そういう状態になると、男親の苦労話など、家族にとっては、愚痴になってしまう。
HYさんも「家族のために……、がんばって……」という言葉を使っている。
しかしそうした(思い)というのは、家族には通じない。

 もっと具体的には、現在、親に感謝しながら高校へ通っている高校生など、さがしても
いない。
大学生でも、少ない。
つまりそういう幻想をもたないこと。
またそういう幻想に、しがみつかないこと。
バートランド・ラッセルも言っているように、(親として、すべきこと)はする。
しかし常にその限度をわきまえる。

●拒否

 メールを読むかぎり、なぜHYさん夫婦が離婚しないかという問題より、なぜ
夫婦でいるかということのほうが、理解できない。
仲がよくても、セックスレスの夫婦はいくらでもいる。
一方、セックスをしているからといって、夫婦仲がよいということにもならない。

 が、「妻の体に触れただけで、はげしく拒否される」というのは、ふつうではない。
妻のほうに、何か、理由があるのだろうか?
夫のほうに、何か、原因があるのだろうか?
しかしもしそうだとするなら、HYさん夫婦は、他人以上の他人になっている。
私がHYさんだったら、1日だって、そういう状態には、耐えられないだろう。

●子どもの問題

 こうした離婚では、いつも子どもが問題になる。
しかし一度離婚を決意した夫婦は、子どもの姿さえ、見えなくなる。
子どものことはどうでもよくなるというのではない。
「離婚することが、子どものため」というような考え方になる。
言い換えると、HYさんは、まだその段階ではないということになる。

 だから以前、このメールをHYさんからもらったとき、私は返事に、こう書いた。

「離婚するときは、未練を残さないようにしたらいい」と。
未練を徹底的に、燃焼させる。
燃えカスが残らないほどまでに、燃焼させる。
未練が残った状態では、離婚はできない、と。
HYさんのばあい、その未練は、どの程度、残っているのだろう・・・?

●私たちのばあい

 実のところ、私たちも、2010年の1月、かなり危機的な状況に追い込まれた。
危機的といっても、たがいの間に、何か問題が起きたというわけではない。
が、三男が、私たちから完全に去ったのを知ったとき、たがいの間を結びつけていた、
(かすがい)が、消えたかのように感じた。

 「さみしい」と感ずる私。
「何でもない」と割り切るワイフ。
その間に、私は遠い(距離感)を覚えた。

 「あなたは親意識が強すぎるのよ」と、ワイフは、私を批判した。
「勝手にやりすぎただけよ」と、ワイフは、私を責めた。
それでワイフを、遠くに感じた。
それでいつものように、「お前なんかとは、離婚してやる」
「今度こそ、離婚しましょう」となった。

●下田にて

 で、今、私はこの原稿を、下田の白浜海岸そばにある、ガーデンビラ白浜という
ホテルで書いている。
星は4~5つの★★★★。
夏場に訪れたら、最高!、というペンション風のホテルである。
金儲け主義のホテルとちがって、経営者の個性が随所でキラキラと光っている。

 そのホテルに、今、ワイフといっしょに泊まっている。
これから食事をしたあと、貸し切り風呂に入ることになっている。
風呂からは、太平洋が一望できるとか。

 おかしな夫婦で、一方で離婚を口にしながら、こうして旅行している。
「なぜついてきた?」とワイフに聞くと、「あなたの体が心配だからよ」と。
「どこでぶっ倒れようが、ぼくの勝手だ」と言うと、「迷惑するのは私よ」と。

 この正月、狭心痛(?)なるものを、数回経験した。
どういうのを狭心痛というのか知らないが、胸がしめつけられるように、痛かった。
以来、ときどきその痛みを感ずる。

 あるいは、ひょっとしたら、逆流性胃炎かもしれない。
2年ほど前、一度、それになったことがある。
そのときも、胸全体が焼けるように熱く感じた。

●1月30日

 で、今、そのワイフは、どこかよそよそしい。
どこか他人ぽい。
「簡単には仲直りしませんよ」という態度である。
そういう態度を見ていると、私のほうも、「そっちがそっちなら、今度こそ、
本気で離婚してやる」と考える。

 しかしこういう状態で、離婚するのもたいへん!

仕事の問題、財産の問題、それに老後の問題。
ワイフは「親戚がどう考えようと、私には関係ない」と言うが、そういった問題も
ある。
それを考えると、気が重くなる。

 まあ、しばらくは様子を見たほうがよいのかも・・・?
ワイフもそう言っている。
ふだんはやさしいワイフだが、喧嘩状態になると、貝殻を閉ざしたように、頑固に
なる。

●離婚

 ・・・ということで、どんな夫婦にも、問題はある。
問題のない夫婦はない。
それぞれがそれぞれの立場で、悩み、苦しみ、懸命にそれと闘っている。
HYさんにしても、そうだろう。
「今ごろは、どうしているだろう?」と考える。
が、私のできることは、ここまで。
私たち自身でさえ、四苦八苦している。
どうしてそんな私が、HYさんのような人の相談に乗ることができるだろうか。
おこがましいというよりは、その一歩手前で、おじけづいてしまう。

 ただ先にも書いたように、今どき、離婚を重大視するほうが、おかしい。
結婚があれば、離婚もある。
もともと(性的関係)で結びついた人間関係だから、壊れるときには、壊れる。
友情や親戚関係とは、中身がちがう。
深みも、ちがう。
だから「離婚は悪」という前提で、ものを考えてはいけない。
人生は短いが、やりなおしは、何度でもできる。

 子どもの問題にしても、離婚そのものは、子どもにはほとんど影響を与えない。
与えるとしたら、離婚に至る家庭騒動。
夫婦喧嘩。
それが長ければ長いほど、子どもに与える影響は、大きい。

 離婚するとしても、「明るく、さわやかに」(某テレビタレント談)ということになる。

●補記

 先ほど、ホテルの露天風呂に入ってきた。
ちょうど満月が、頭上高く昇り、太平洋を、美しく照らし出していた。
今までいろいろな露天風呂に入ってきたが、ここ、ガーデンビラ白浜のそれは、最高!
時間割で、家族風呂として使うことができる。
先ほど星は4つと書いたが、料金も勘案すると、5つの★★★★★。

 伊豆の下田のほうへ来ることがあったら、一度、このホテルを検討してみたらよい。
小さいがプールもある。
夏場には、どう開放されるかどうかは知らないが、眼下には、コバルトブルーの
入り江も見える。

 さて私のワイフ。
一方で離婚を口にしながら、私が「今度、金沢(石川県)へ行ったら、前泊まった
ホテルと同じところにしようか?」と言うと、「うん」と。

 おかしな夫婦である。
本当におかしな夫婦である。
私自身がそう思っているのだから、まちがいない。
こういう感じで、もう40年も、いっしょに、過ごしてきた。

(注)「ガーデンビラ白浜」・・・室内の案内書では、「ガーデンヴィラ白浜」と
なっている。
電話は、0558-22-8080。
住所は、〒415-0012 静岡県下田市白浜2644-1。

 建物はやや古いかなという感じだが、どこか明治時代の洋館を思わせるような
雰囲気。
アガサ・クリスティの推理小説に出てくるような宿屋(Inn)という感じ。
大ホテルにありがちな垢抜けたサービスも悪くないが、私は久しぶりにくつろいだ
ひと時を過ごすことができた。
とくに露天風呂は、最高!、の一言。
よかった!

 私は今、そのホテルの306号室で、このエッセーを書いている。

【ガーデンヴィラ白浜】

●もと物産マン

帰りの車の中で、ホテルのオーナーが、三井物産元社員だったということを知った。
「父は、商社マンでした」と、その女性は言った。
娘さんだった。
「バンクーバー勤務を最後に、商社を退職し、あそこにホテルを買い求めました。
8年前のことです」と。

 オーナーの男性が、昭和22年生まれということは知っていた。
チェックアウトするとき、立ち話だったが、そういう話になった。

私「商社って、どこですか?」
娘「三井物産です」
私「エッ、物産マン?」
娘「そうです」
私「私も、そうでした」

娘「あなたもですか?」
私「大学は……?」
娘「東大です」
私「東大の……?」
娘「理2、化学です」と。

 オーナーの名前は聞いていなかった。
それに理2といえば、恩師の田丸先生が当時、教授をしていた。
そこにいた人が、東大を卒業し、私と同じ年に三井物産に入社した。

私「先にそれを知っていたら、話がはずみました」
娘「そうですね」
私「残念です。とても残念です」
娘「父は、化学部で、化学プラントを担当していました」
私「はあ、私は繊維です」
娘「繊維ですか?」
私「そうです。でもサラリーマンがいやで、物産をやめました」と。

 私は早口でまくしたてた。
車はすでに下田の街の中を走っていた。
瞬間、Uターンして、もう一泊しようかと考えた。
しかしその思いは、車が止まったとき、消えた。

私「だったら、ずっと営業畑だったんですね?」
娘「そうです」
私「私も、入社直後に、営業へ回されました」
娘「そうですか……」と。

 三井物産という会社では、内部では、自分たちのことを「物産マン」と呼んでいた。
それに社員は、「管理」と「営業」に分かれていた。
商社マンの世界では、営業マンこそが、商社マンということなる。
その営業マンの中でも、海外へ出るのは、約30%。
物産マンの中でも、エリート。
70%は、国内営業ということになっていた。

 もっと話をしたかった。
私の過去の中でも、三井物産時代だけが、スッポリと抜けてしまっている。
つきあっている友人もいない。
それだけに残念だった。

私「海外勤務だったということは、正社員だったんですね」
娘「そうです」
私「あそこには、いろいろな社員がいましたから」と。

 あわただしい会話だった。
ふつう「物産マン」というときは、正社員をいう。
子会社から派遣されてきた嘱託社員は、「物産マン」とは呼ばない。
内部ではかなり差別的に扱われていた。

 そのホテルのオーナーは、サラリーマンがいやで、現在のホテルを買収して、
自分でそのホテルを経営するようになったという。
その気持ちは、よくわかる。
わかりすぎるほど、よくわかる。
だから、よけいに残念だった。

私「よろしくお伝えください。また行きます」
娘「おいでください」と。

 父親とともに、海外をあちこち回ったらしい。
日本人にはない、センスが光っていた。
私たちは何度も頭をさげて、その女性と別れた。

 書き忘れたが、下田へは、講演でやってきた。
講演の内容は、下田の有線放送で、流されるとか。

●HYさんへ

 HYさんからのメールについて書いているうちに、離婚から、下田の話に脱線して
しまった。
ついでにガーデンヴィラ白浜の話になってしまった。

 で、このエッセーの結論。
気が腐ったら、旅行をする。
すてきなホテルに泊まる。
温泉に入る。
とたん離婚旅行が、再婚旅行に変わる。

 よかった!
明日からまた仕事。
がんばるぞ!

 HYさん、ありがとう!
ガーデンヴィラ白浜のみなさん、ありがとう!
ついでに、我がワイフ、晃子、ありがとう!
これからもよろしく!

 本当によい旅だった。
そうそう最後になったが、講演の主催者の下田地区教職員組合のみなさん、ありがとう!
(2010-01-31)

(はやし浩司 離婚 再婚 ガーデンビラ白浜 白浜温泉 ガーデンヴィラ白浜 ガーデン ヴィラ 白浜 ガーデン ビラ 白浜 リゾートホテル 白浜リゾートホテル)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
 
●うつ

++++++++++++++++++

うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。

そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。

たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。

++++++++++++++++++++

●私のばあい

 うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。

 が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがっている」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。

 で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしまう。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。

●タネ

 うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。

 で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。

 どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。

●買い物

 で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?

 多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。

 これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。

●発散

 どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。

 頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。

 で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。

●仲良くする

 要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)

 しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。

 私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。

 「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。

●長い間、ありがとう(?)

 どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。

 で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。

 私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。

 息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。

 だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。

 ・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。

 あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。

 みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

2010年1月30日土曜日

*Don't make the intellectual the God

【知性vs人間性】

●人間性の喪失

+++++++++++++++++

近くの郵便局で、元局長が、客や仲間から、
数億円を詐取するという事件が起きた。
「儲かるから、投資しないか」と、客たちに
呼びかけていたという。
あるいは客からの預かり金を、そのまま、
ネコババしていたという。

+++++++++++++++++

●他者との共鳴性

 人間性は、一言で表現すれば、「他者との共鳴性」で決まる。
共鳴性の深い人を、人間性の高い人という。
そうでない人を、そうでないという。
他者を平気で(?)だます人は、それだけ人間性が低いということになる。
ここにあげた事件では、元局長(当時は局長)が、客を、つぎつぎとだまして、金をネコババしていた。

 罪の意識はあったのだろうか?
それともなかったのだろうか?
他人への迷惑を考えるなら、とてもできなかった犯罪である。
身近で起きた事件だけに、いろいろ考えさせられた。

●親をだます子どもたち

 親に学費を出させ、その学費で、遊びまくる。
勉強など、しない。
専門書も、買わない。
買うといえば、漫画やコミック本ばかり・・・。
親子の関係とはいえ、これは立派な犯罪である。

 今、そんな学生がふえている。
・・・というより、もとから学ぶ意識など、ない。
目的もない。
だから遊ぶ。
で、金がなくなると、「~~の資格を取るために、30万円、必要」とか
何とか言って、親に金をせびる。
あとはバイト、バイトの生活。

●知的な人間

 このタイプの学生にかぎって、外面(そとづら)だけはよい。
ボーイフレンドやガールフレンドに、献身的に仕えたりする。
服代や化粧代だけに、金をかける。
あるいは相手の両親には、献身的に仕えたりする。
実家では掃除の「ソ」の字もしたことのないような学生が、正月には、相手の家で、
大掃除を手伝ったりする。

 一事が万事。
万事が一事。

 はげしい受験競争をくぐり抜けた学生ほど、そうで、あのアインシュタインも、
こう書いている。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。

いろいろに解釈できるが、「知性」と「人間性」は、別物と考えてよい。

●予兆

 数億円・・・新聞の報道によれば、7億円~とか!
どこかの投資会社にのめりこんで、それで金額がふえていったということらしい。
私はその記事を読んで、その犯罪性よりも、その男性の過去に興味をもった。
年齢は、40代半ば。

 「こんな男なら、親をだますのは、平気だろうな」と思った。
あるいは「親は、それに気づかなかったのだろうか」とも思った。
あるいはその逆でもよい。
バカな親がいて、息子をして、そういう息子にしてしまった。
が、こうした予兆は、早ければ子どもが小学生のときから、見られるようになる。

●小ズルさ

 「ズルイ」といっても、2種類ある。
子どもらしいズルさ。
表面的で、どこかイタズラぽい。
もうひとつは、その子どもの奥深くから発している、ズルさ。
「ズルい」というより、「狡猾(こうかつ)」。

 親のキャッシュカードから現金を引き出して、遊んでいた子ども(小学生)がいた。
あるいは親と教師を、その間に立って、自分の意のままに操る。

 親には、「あの先生は、依怙贔屓(えこひいき)する」と訴える。
一方、先生には、「ぼくのママが、先生のことを、教え方がヘタだと言っていた」と言う。
こうして親と先生の信頼関係をこわしながら、自分にとって居心地のよい世界を作る。

●親バカ

 結局、行き着くところは、「親バカ」論。
本来なら、こんな子どもには、1円も渡してはいけない。
必要なことはしても、それ以上のことをしてはいけない。
が、親にもメンツや世間体がある。
「何とか、学歴だけは・・・」という弱みもある。
そこで金を出す。
出しつづける。

 が、肝心の子どもは、感謝の「か」の字もしていない。
中には、「親がうるさいから、大学だけは出てやる」と豪語(?)する子どもいる。
大半の学生は、大学を出ると同時に、「ハイ、さようなら!」。

 内閣府の調査によっても、「将来、親のめんどうをみる」などと考えている若者は、
28%前後しかいない(後述、注※)。

 で、親は、あるとき、ハタと気がつく。
「私の子育ては、いったい、何だったのか」と。

●ツケ

 ずいぶんときびしいことを書いたが、結局は、そのツケは、子ども自身に回ってくる。
目一杯の派手な生活。
余裕のない生活。
その先で待っているのは、孤独。
「豊かな貧困感」。
見た目には豊かだが、心はいつも飢餓状態。
貧しい。
しかも、都会の一流大学を出た子どもほど、そうなるというのは、人生の皮肉としか
言いようがない。

すべてをあの受験競争のせいにするわけにはいかない。
が、受験競争が影響を与えていないとは、もっと言えない。
思春期前夜から思春期にかけて、成績という数字だけに振り回されるようになると、
子どもは、とたんに冷たくなる。
その(冷たさ)は、親にはわからない。
が、私には、わかる。

 私は、この40年間、幼稚園の年中児から高校3年生まで、子どもたちを教えてきた。
そういう(流れ)の中で、子どもたちの心が、あの受験期を境に、どんどんと
変わっていくのを知っている。
それを毎年のように、目の当たりに見ている。
わかりやすく言えば、過酷な競争は、その子どもから共鳴性を奪う。
人間性を殺す。
親は、「おかげで一流大学に合格できました」と喜んで見せるが、そのうしろで
吹きあげている秋の空風(からかぜ)には、気づいていない。

 40代で郵便局の局長をしていたということだから、きっと頭のよい男だった
のだろう。
そこそこの学歴もあったに、ちがいない。
しかし7億円とは・・・!

 「これでいいのか?」と、疑問をぶつけて、このエッセーを終える。
これでいいのか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 受験教育の弊害 人間性 共鳴性 スポイルされる子どもたち 親バカ論)

(参考)

(注※)日本と韓国の若者は、将来、親の面倒を見ようという意識が低い・・・。日韓、欧米の計5カ国の若者を対象にした内閣府の調査で、こんな実態が浮き彫りとなった。
調査は日本、韓国、米国、英国、フランスで、18~24歳の男女各1千人前後を対象に5年ごとに面接方式で実施しており、今回(2009年)で8回目。

現在、母と暮らすのは韓国が77%(父とは74%)と最も多く、次いで日本が74%(同68%)で、欧米3カ国の平均は48%(同37%)だった。

「親から経済的に早く独立すべきだ」という考え方について、「そう思う」が各国とも75%を超え、日本は89%と最も高く、次いで韓国の84%だった。

一方、将来、年老いた親を「どんなことをしてでも養う」と答えたのは英66%、米64%、仏51%と欧米が高かったが、日本は28%、韓国も35%と低かった。逆に「将来、自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたいか」の問いでは、「そう思う」は欧米3カ国の平均67%に対し、日韓は40%台だった。

日韓の若者の傾向について、内閣府の担当者は「親との同居世帯は多いが、将来への独立志向が高く、親の面倒をみるという意識も低い。欧米に比べると親子関係はドライなのかもしれない」と話している。(石塚広志氏HPより引用)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

2010年1月29日金曜日

*An Article written by me 50 years ago

●『アバター』と私

+++++++++++++++++

私が中学1年生のときに書いた作文を
紹介する。
今からちょうど50年前に書いた。

当時まだ、コンピューターというのは
なかった。
私がはじめてコンピューターなるものを
見たのは、大学2~3年生のとき。
工学部の実験室にそれがあった。

当時のコンピューターは、コンピューターと
いっても、紙テープに、点字で使うような
穴を無数にあける程度のものだった。

もちろん今でいう、モニターなど、なかった。

そういう時代、つまり私が13歳のときに
書いた作文である。
どうか一読してほしい。

・・・というより、私は、こうした情報を
どこでどう手に入れたのか、よく覚えていない。
手塚治虫の『鉄腕アトム』というのは、
すでによく知っていたので、その影響を
受けたのかもしれない。

が、最近見た、映画『アバター』にも
負けないような内容(?)と思っている。

(これは私の自慢!)

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http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4313002066/sizes/l/

http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/4312266761/sizes/l/

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

*0~7 months Babies

●臨界期(0歳~7か月ごろ)

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生後直後から、約7月前後までの期間を、
「臨界期」という。

この臨界期には、特別の意味がある。

++++++++++++++++++

●特別な時期

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
とたえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しなくなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話ということだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもである。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでいる(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわかってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。
こうした相互の働きかけを「相互アタッチメント(mutual attachmennt)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエンス」で27日発表した』(10年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウスの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがあるのではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってからも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らかの治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)
『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られることを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質については明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現した細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日かけて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

*Magazine Jan 29th

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●認知症と激怒(認知症の前駆的初期症状)

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認知症になりかけた人は、どうして怒るのか?
まちがいを指摘したりすると、パニック状態になる。
ささいなことで、激怒する。
まちがえたら、まちがえましたですむ話。
しかし認知症になりかけた人は、それができない。
心の余裕を失う。
認知症を意識するあまり、それが激怒に変わる。
あるいは自分がそういう状態になっていることを、
人に知られるのを、たいへん恐れる(?)。

+++++++++++++++++++++++++

●認知症

 「もしかしたら……」と思うことは、恐怖以外の何ものでもない。
たしかに恐怖。
私も、最近、よくその恐怖を味わう。
もの忘れというのは、若いときからよくした。
今も、若いときとそれほど状態は変わってしない。
しかし若いときは、「忘れた」ですむ。
が、私の年齢になると、それが「もしかしたら……」となる。
あるいは「もしかしたら……」に、結びつけてしまう。

 たとえば同時に、2つ、3つの用事を予定したとする。
デジカメに充電し、めがねを取り出し、戸棚に本をしまう……と。
そこへ電話がかかってきたりすると、電話で話している間に、用事を忘れてしまう。
そのまま書斎に入ってしまったりする。
そこでどっかりと腰をすえたとき、「あっ、忘れた!」となる。

 注意力は、確かに散漫になってきた。
それは認める。
それに若いときは、触角が四方八方に向いている。
が、今は、その範囲が狭くなった。
ひとつの用事をこなしていると、ほかの用事を忘れてしまう。

●脳の乱舞

 が、まだ(恐怖)という段階ではない。
しかしそれがある一定限度を超えると、自分自身が信じられなくなる。
私も一度、チョコレートを食べ過ぎて、幻覚(?)を見たことがある。
幻覚というよりは、脳みそが勝手に乱舞してしまった。
あのとき覚えた恐怖感は、今でも忘れない。

 認知症になりかけのころは、こうした恐怖感が、日常的にその人を襲う(?)。
これはあくまでも私の想像だが、その恐怖感が緊張感となり、そこへ心配や不安が
入り込むと、一気に情緒が不安定になる。
それが多くのばあい、(怒り)に変わる。

●T氏(75歳)のケース

 T氏に会ったのは、10年ぶりだった。
私とワイフが山荘を造成しているころには、ときどきやってきて、私たちを手伝ってくれ
た。
T氏は、山荘の近くで、製剤工場を経営していた。

 そのT氏は、私たちのことを忘れていた?
「お世話になりました。あのときの林(=私)です」と、あいさつしたのだが、覚えてい
ないといったふうだった。

 T氏は、そのつど、いろいろな材木を届けてくれた。
その材木を使って、私は、テラスを作ったり、椅子やテーブルを作ったりした。
で、今回は、座卓の柱を切ってもらうことにした。
長さを、何ども「36センチ」と念を押したのに、家に帰って寸法を測ってみると、30
センチしかなかった。
ワイフも、「あれだけ言ったのに……」と、残念そうだった。
夜になっていたこともあり、その日はそのままにした。

 で、翌朝、電話をした。
が、私がミスを指摘したとたん、Tさんの様子が急変した。
私はていねいな言い方をしたつもりだったが、Tさんは、怒ったような雰囲気だった。

「紙に書いてくれればよかった」と、私をなじった。
そうかもしれない。
そのときも、心のどこかで「あぶないな」と感じた。
だからこそ、何度も念を押した。
「36センチですよ」と。

●恥

 Tさんは、こう言った。

「私のミスだから、作り直す」
「作り直して、お宅まで、届ける」
「会社のほうへ、取りに来てくれるな」
「家族には、ミスしたことを話さないでくれ」
「私の恥だ!」と。

 私が「作り直しておいてくれれば、受け取りに行く」と言ったのだが、そのあたりから、
声の調子が大きく変わった。
Tさんは、「恥」という言葉を使った。

 ふつうなら、こういうとき、「ハハハ、こちらのミスです。作り直します」という程度の
会話で終わる。
が、Tさんは、そうではなかった。
ミスをした自分が許せないといったふうだった。
そういう自分に怒っている。
私はそう感じた。

 その話をすると、ワイフは、こう言った。

「きっと、家の中でもいろいろミスをしているのよ。
それでそれをみんなに知られるのを、恐れているのよ」と。

 Tさんが認知症になっているかどうかは、わからない。
年齢的には、認知症になっていても、おかしくない。
が、認知症の初期の人が、怒りっぽくなるという話はよく聞く。
先にも書いたように、心の余裕を失う。
そのためささいなことで、激怒する。

●段階論

 私なりに、認知症の初期症状を段階論的にまとめてみる。

(1)疑惑期……「ひょっとしたら……」と、不安、心配になる。
(2)確認期……「たしかにおかしい?」と、自分でもそれがわかるようになる。
(3)隠蔽期……おかしくなりつつある自分を隠そうとする。
(4)否認期……とりつくろい、つじつま合わせがうまくなる。
(5)混乱期……だれかにミスを指摘されたりすると、激怒したりする。
(6)拒絶期……まわりの人たちが、診断を勧めたりすると、それをはげしく拒否する。
(7)治療期……認知症と診断され、治療期へと入っていく。

 上記、混乱期の特徴は、ささいなことで、パニック状態になること。
いわゆるヒステリー症状を示す。
ギャーギャーと泣きわめきながら抵抗したり、反論したりする。
まわりの人が、「わかった、わかった」となだめても、効果はない。
手がつけられないといった状態になる。

 Tさんについて言えば、あくまでもこれは私の印象だが、(3)の隠蔽期から(4)の否
認期に向かいつつあるのではないか。
心の緊張状態がつづき、やがて心の余裕を失っていく。

 先にも書いたが、75歳という年齢からして、今、そういう状態にあってもおかしくな
いし、またそういう状態にあることは、じゅうぶん、疑われる。
今回会ったときも、Tさんは、メモ帳を片時も離さないでもっていた。
TさんはTさんなりのやり方で、自分の年齢と懸命に闘っているようにも見えた。

以上、あくまでも私の勝手な判断によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 認知症の初期症状 痴呆症の初期症状 初期の初
期 認知症段階論)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●「濃い男」

++++++++++++++++++

「濃い男」「薄い男」という言い方は、
私が考えた。
もう20年以上も前のことである。
そのころ書いた本の中で、この言葉を
使った。

濃い男というのは、性的な意味で、
女性にしか興味を示さない男性をいう。
女性の肉体には強い関心をもつが、反対に
男性には手を触れられただけで、ぞっとする
ような嫌悪感を覚える。
つまり性的な意味で、男性にはまったく
興味を示さない男性をいう。

一方、薄い男というのは、性的な意味で、「女性
でもいいが、男性もいい」と考える男性をいう。
同性愛者は、そういう意味では、たいへん「薄い男性」
ということになる。

+++++++++++++++++

●文化

 先日、テレビを見ていたら、この言葉を使った人がいた。
「ぼくは、濃い男ですから……」と。
驚いた。
もっともその人は、最近流行している、「草食系男性」「肉食系男性」という
意味にからめて、そう言った。
要するに性的な意味において、つまり女性に対して、より能動的、かつ攻撃的な
男性という意味で、そう言った。

 で、しばらくして、こう考えた。

 こうして断片的ではあるにせよ、無数の人たちの文化が、無数にまざりあって、
つぎの世代の文化を創りあげていく、と。
私も、その一部でしかない。

「草食系」「肉食系」という言葉にしても、今ではだれが使い始めたかさえわからない。
しかし言葉として、私たちの文化の中に、定着している。
私自身も、だれが使い始めた言葉かを知らないまま、その言葉を使っている。
同じように、「濃い男」「薄い男」という言葉にしても、今、ここで私が、「もともとは
私が使い始めた言葉だ」と叫んでも意味はない。
すでにこの言葉は、ひとり歩きしている。
しかも意味が、私が考えた意味とは、少しちがう意味で使われている。

●オリジナル

 こうして私がオリジナルで考え、そののち、広く一般に使われているのが、
たくさんある。

 時計のお絵かき歌というのもある。
「♪丸描いて、チョン、上、下、横、横……」という歌である。
その歌が、ある幼児教育雑誌に、紹介されていた。
楽譜も載っていたが、「似ている」という程度だった。
もともとの私の歌い方とはちがう。
が、その歌詞について、何と、「作者不詳」となっていたのには、やはり驚いた。

 ほかにも、「道づくりゲーム」がある。
正方形のカードに、(直線道路)(三叉路)(十字路)(曲がった道)が描いてあり、
それをつなげて遊ぶというものである。
このゲームは、私は20代のころ、学研の「幼児の学習」という雑誌で発表した。
たいへん好評で、その1、2年後、同じ付録が、復刻版で出た。
たしか当時、学研で、実用新案として申請、登録されたと思う。
(発案者には、権利はない。
申請者に、権利が残る。
発案者は、「はやし浩司」、申請者は、「学研」だったと思う。)

 そのあと、そのゲームは、「ヘビ・ゲーム」とか、「水道管ゲーム」に変形され、
市販化された。
が、今では、このゲームは、あちこちで無断で(?)、使われている。

 ほかにもある。

 東京の私立小学校で使われている入試問題の何割かが、私が考えたものである。
ウソだと思う人がいたら、「主婦と生活」(1975年11月号の巻末付録)を見て
ほしい。
ちょうど35年前である。
それを見た人は、こう思うだろう。
「私立小学校の入試問題と同じ」と。
(そのときの私のHPに、収録しておく。)
 
 それ以前に、どこかの小学校の入試に、似たような問題が使われていたとしたら、
私がまねて、雑誌に発表したことになる。
が、そういうことは、ない。

 ……ということで、いろいろ書きたいことはあるが、ここまで。
書けば、どうしてもグチになる。

●文化

 私だけではない。
いろいろな人が、いろいろな立場で、無数の文化を創りあげている。
それが積み重なって、また別の文化を創りあげている。
そのときには、もう「私」はいない。

 あのお絵描き歌にしても、「道作りゲーム」にしても、入試問題にしても、
はやし浩司の痕跡は、どこにもない。
考えてみれば、さみしく思わないわけではないが、その一方で、私は無数の人たちの、
これまた無数の文化を継承している。
「団塊の世代」という言葉にしても、もとは、ある評論家の考え出した言葉である。
そういう言葉を使いながら、それがだれの考えた言葉かは、いちいち考えない。
それが「文化」ということになる。
  
 大切なのは、そのときは意識しないかもしれないが、常に前向きに創りあげていく
ということ。
どんなことでもよい。
何でもよい。
その積極性が、人間の文化を前へ前へと、進歩させる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 文化 文化論 道作りゲーム 道づくりゲーム 時計のお絵描き
歌 はやし浩司 濃い男 薄い男)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の壊れた人たち

++++++++++++++++++

他人の不幸を、楽しんでいる人がいる。
さも同情しているかのような顔をして聞き、
内心では笑う。
心が壊れた人というのは、そういう人をいう。

自己中心性が肥大化すると、自己愛につながる。
自己愛に陥った人を、「自己愛者」という。
「自分を大切にする人」という意味ではない。
「自分のことしか考えない、愚かで、あわれな人」
という意味である。

このタイプの人のやっかいな点は、演技がうまいこと。
さも同情したフリをして、他人の不幸話を聞き出す。
誘導の仕方が、うまい!
聞き出し、それを酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
うわさ話をしながら、「あいつはダメだ」とか、「こいつは
バカだ」とか言って、笑う。

あるいは自分は人格者であるかのように振る舞う
こともある。
むしろほかの人よりも、高邁で立派な人に見える。
が、年季が入っているから、ちょっとやそっとでは
見抜けない。
10年くらいつきあって、「?」と思う。
20年くらいつきあって、やっと、そういう人とわかる。

そんなわけで、価値観、幸福感も相対的。
他人が自分より不幸であれば、「私は幸福」と
喜ぶ。
笑う。
他人が自分より幸福であれば、「私は不幸」と
嘆く。
ねたむ。

++++++++++++++++++

●「私はふつう」

 一度壊れた心は、生涯、なおらない。
そう思って、ほぼまちがいない。
心というのは、そういうもの。
作るのは、むずかしい。
壊すのは簡単。
ほんの1、2年、はげしい受験勉強を経験させるだけで、壊れる。
あるいは、不幸にして不幸な家庭に育った子どもも、そうだ。
愛情飢餓、虐待、無視、冷淡、さらに嫉妬や日常的な欲求不満を経験すると、子どもの心
は壊れる。

 が、ここから先が、心の恐ろしいところ。
壊れた心をもちながら、壊れていることに気づく人は、まず、いない。
自分では、「ふつう」と思い込んでいる。
あるいは「他人も、自分と同じ」と思い込んでいる。
その一方で、心の暖かい人が理解できない。
そういう人が近くにいても、その人を信ずることができない。
何かのことで親切にされても、それを素直に、受け入れることができない。
どこまでも心のさみしい、かわいそうな人ということになる。
が、それも、このタイプの人には、わからない。

●不信

 こういう心の状態を、心理学では、「基本的不信関係」という言葉を使って説明する。
多くは、乳児期の母子関係の不全によって、そうなる。
わかりやすく言えば、相手に対して、心を開けない。
心を許さない。
疑い深く、嫉妬深い。
心のクッションが薄いから、ささいなことで激怒したり、相手を必要以上に嫌ったり、避
けたりする。

 が、「不信」である分だけ、「孤独」。
だから勢い、たとえば、「信じられるのは、お金だけ」となる。
名誉や財産、地位や学歴にしがみつく。
ときに孤独に耐えかねて、集団の中に入る。
大判振る舞いをする。
しかし気が抜けない。
疲れる。
そういう生きざまになる。
言い換えると、そういう生きざまの人は、すでに何らかの形で、心が壊れている人と考え
てよい。

●受験競争

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その(心の壊れた人)かもしれ
ない。
程度の差はあるだろうが、私たちの生活は、何らかの形で、お金に毒されている。
「私は、そんなまちがったことできません」などと言おうものなら、社会そのものからは
じき飛ばされてしまう。
子どもの受験勉強にしても、そうだ。
あんな子どもが、点数だの、成績だの、順位だので追いまくられて、まともに育つはずが
ない。
ないことは、子どもを年中児から高校3年生まで教えてみるとわかる。

 子どもによっては、夏休みの間、どこかの受験塾が主催する夏期講習に入っただけで、
激変する。
親は、そういう子どもを見て、「やっとうちの子も、(受験を)自覚できるようになりまし
た」と喜んでいるが、とんでもない誤解。
あるいは親自身も、心が壊れているから、それに気づかない。
心の壊れた親が、自ら、自分の子どもの心を壊している。
受験塾の講師にしても、そうだ。
ああいった指導(教育ではないぞ!)が、平気でできる人というのは、そのレベルの人と
考えてよい。
まともな心の持ち主なら、ぜったいにできない。

 人間が人間に点数をつけ、順位をつけ、進学指導の指導(?)をする。
もちろん金儲けのため。
しかもそんな汚い仕事を、20代とか30代の、人生が何であるかもわからないような若
い講師がする。
まずもって、その異常さに、みなが気がついたらよい。

 まわりくどい言い方をしたが、受験競争の弊害を、心という面から、考えてなおしてみ
た。
さらに一言付記するなら、そうした受験競争をうまくくぐり抜けた人ほど、社会のリーダ
ーとなっていくのは、まさに悲劇としか、言いようがない。
現在のこの日本が、まさにそうであると断言してよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 受験競争の弊害)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

【Boys, be ambitious】

●大卒の就職内定率

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大卒の就職内定率が、60%前後という。
浜松市内で、リクルートの会社を経営している
N氏は、こう言った。
「現状(09年12月現在)は、50%前後では
ないでしょうか」と。

わかりやすく言えば、大卒のうち、2人に1人しか
就職が決まっていないということ。

+++++++++++++++++

●仕事は自分で作るもの

 「就職」という考え方にこだわるかぎり、「50%」というのは、深刻な数字ということ
になる。
18年間も勉強してきた……というよりは、親の立場で言うなら、18年間も、学費を負
担してきた。
その結果として、息子や娘たちの就職さえも、ままならない。
見返りを求めるわけではないが、こうなってみると、何のための学費だったかということ
になる。

 が、ここで早合点してはいけない。
就職できないことイコール、(失敗)ではない。
またそんなことで、へこたれてはいけない。
日本人は、江戸時代の昔から、「仕事は与えられるものという意識」を強くもっている。
「会社に仕えるものという意識」という意識と、言い換えてもよい。
しかし(仕事)は、もらうものではない。
与えられるものでもない。
自分で作るもの。
仕事がなければ、自分で作ればよい。
それこそ「リヤカーを引いて」でも、自分で作ればよい。

 こんなことを書くと、「何をバカなことを!」と思う人も多いかもしれない。
しかし私は、若いころ、そう考えたし、そうしてきた。
浜松に住み始めたころのこと。
画家の男と手を組み、その画家の父親の絵をリヤカーに積み、住宅街を売って回ったこと
もある。

 そういう(たくましさ)を、今の若い人は失ってしまった。
失ったというより、知らない。
また皮肉なことに、そういう(たくましさ)のある大学生ほど、就職内定率50%といい
ながら、就職できる。

●日本人の集団性

 日本人の集団性は、外国へ出てみると、よくわかる。
集団の中の一員としては、行動できる。
1人になると、何もできない。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
中には、1人で、がんばっている人もいる。
しかし全体としてみると、きわめて少ない。

 一方、オーストラリア人などは、独立心が旺盛で、かえってそれが弊害となって現れて
いる。
オーストラリアの友人はこう言った。
「オーストラリアでは、大企業が育たない」と。
彼らは、高校や大学を卒業すると、車1台と電話1本で、開業する。
集団性がない分だけ、組織が育たない。
大企業が育たない。
あるといっても、鉱山会社のような大企業だけ。
友人は、それを言った。

 で、ここでふと考えてみる。
「どうして日本人は、こうまで就職を深刻に考えるのか」と。
言い換えると、どこかの組織に属していると、本人も安心する。
まわりの人たちも、安心する。
そうでないとそうでない。
銀行ですら、相手にしてくれない。

 江戸時代の昔から、(組織)あっての(個人)。
組織から離れて生きることさえ、難しかった。
実際には、「無頼(ぶらい)」とか、「無宿者」とか呼ばれて、見つかればそのまま佐渡の金
山などへ送られた。

 あの武士道にしても、徹底した主従関係で成り立っている。
保護と依存、命令と服従の関係。
「主君に仕える」が、のちの「会社一社懸命」(友人のM君)という、あの精神につながっ
た。
で、この精神は明治政府へとそのまま引き継がれ、一般民衆は、「もの言わぬ従順な民」へ
と育てられていった。
そういう民衆を作りあげたのは、言うまでもなく、(教育)である。
学校神話や学歴信仰、さらには「まともな仕事論」などは、そうした(流れ)の中ででき
た、副産物ということになる。

●まともな仕事論

 この世界に入ってから、「まともな仕事論」というので、私はどれほど痛めつけられたか
わからない。
私の母ですら、M物産という商社をやめて、幼稚園の講師になったときのこと。
「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。
あるいは私に面と向かって、こう言った男(当時、50歳くらい)がいた。

 「お前は学生運動か何かをしていて、ロクな就職ができなかったのだろう」と。

 こうした常識というか、偏見は、かなり若い時期にできるものらしい。
アインシュタインは、「18歳前後」にそれができるというようなことを書き残している。
が、日本人のばあい、江戸時代の昔から骨のズイまで、そうした偏見が叩き込まれている。
身分意識という偏見である。
その常識を打ち破るのは、簡単なことではない。
またその常識と闘いながら生きるのは、簡単なことではない。

 ある新聞社で記者をしていた人が、ある日、私にこう言った。

「林さん(=私)、あなたのような生き方をしている人が、成功すると、私たちは困るので
す。
あなたのような人が成功すると、では私たちのようなサラリーマンが、いったい何なのか
ということになってしまいますから」と。

 が、実際には、20代のころ、私と同じような立場にいた人は、まわりに10人ほどい
た。
しかしうち生き残ったのは、私1人だけ。
どこかへ消えてしまった人もいるが、大半は、再びサラリーマンの世界へと戻っていった。

●少年よ……

 あのクラーク博士は、札幌の農学校去るとき、『少年よ、大志を抱け!』と言ったとか。
しかしこれはおかしい。
「Boys, be ambitious」と言ったのを、当時の貧弱な英語力で翻訳したから、そういう訳が
生まれた。
クラーク博士は、「あのなあ、お前たち、チマチマした生き方をしないで、もっと野心的に
生きろ!」と言った。
そのことは、アメリカ人の視点に、当時の日本の大学生を置いてみればわかる。
最近の大学生でもよい。
私に言わせれば、「就職、就職って、バカみたい」(失礼!)ということになる。
繰り返すが、「仕事というのは、もらうもの」という発想が基本にあるから、「就職、就職」
と騒ぐ。

「少年よ、大志を抱け」については、以前、こんな原稿を書いたことがある。
日付は2003年になっている。
青年というよりは、私たち老人に向けて書いた原稿である。
 
+++++++++++++++++++

●Ambitious Japan

●『ただの人(Das Mann)』

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「(ハイデッガーは)、自分の未来に不安をもたず、
自己を見失って、だらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・
PHP)と。

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●堕落人間

 堕落人間(ハイデッガー)は、いくらでもいる。
ここにも、そこにも、あそこにも……。
年齢が若いならともかくも、60歳代ともなると、言い訳は通用しない。
いまだに「老後は孫の世話と、庭いじり」と言っている人が多いのには、驚かされる。
「晴耕雨読」というのも、そうだ。
そういうバカげた老人像を、いつ、だれが作り上げた?

 私の知人に、公的機関の副長職を、満55歳で定年退職したあと、以後、30年近く、
庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
30年だぞ!
年金だけで、毎月30数万円。
妻も公的な機関で働いていたから、2人の年金を合わせると、相当な額になる。

 ここで「庭いじりだけ」と書いたが、本当に庭いじりだけ。
子どもはいない。
孫もいない。
近所づきあいもしない。
まったく、しない。
もともと農家出身だったらしく、裏には、100坪前後の畑ももっている。
そのくせ周囲の家にはうるさく、隣の家にある木の葉が落ちてきただけで、樋(とい)が
つまると、その家に苦情の電話を入れたりする。

 最近、私はそういう老人がいるのを知ると、腹の底から怒りがこみあげてくるように
なった。
加齢とともに、その怒りは、ますます大きくなってきた。
ねたみとか、ひがみとか、そういう低次元な怒りではない。
人気として許せないというか、そういう次元の怒りである。
が、そういう私の気持ちを、あのハイデッガーは、みごとに一言で表現してくれた。
『ただの人(das Mann)』と。

●生きがい

 世の中には、恵まれない老人はいる。
が、その一方で、恵まれすぎている老人もいる。
その知人にしても、介護保険制度が始まって以来、週に2回、在宅介護を受けている。
……といっても、どこか具合が悪いということでもない。
ときどき見かけるが、夫婦で庭の中を、歩き回っている。
元役人ということで、そういう制度の使い方は、よく心得ているらしい。

 その知人をよく知る、同年齢のX氏は、こう皮肉る。
「あれじゃあ、まるで、毎月30数万円の税金を投入して、庭の管理をしてもらって
いるようなものですナ」と。

 が、うらやましがるのは、ちょっと待ってほしい。
いくら年金がそれだけあるといっても、また庭いじりができるといっても、私なら、
そんな生活など、数か月も耐えられないだろう。
何が「晴耕雨読」だ。
自分がその年齢になってみてはじめてわかったことがある。
それがこれ。
「老人をバカにするにも、ほどがある!」と。

 私たち老人が求めるものは、「生きがい」。
わかりやすく言えば、「自分を燃焼させることができる仕事」。
晴れの日に、畑を耕して、それがどうだというのか?
雨の日に、本を読んで、それがどうだというのか?
「だから、それがどうしたの?」という質問に、答のない生活など、いくらつづけても
意味はない。
ムダ。
そういう生活をさして、「自己を見失って、だらだらと生きる」という。

 私はその知人に、こう言いたい。
「お前らのような老人がいるから、ぼくたちは肩身の狭い思いをしているのだ」と。
若い人たちは、そういう老人を見て、老人像を作ってしまう。
誤解とまでは言えないが、しかし懸命に生きている老人まで、同じ目で見てしまう。
だから腹が立つ。

 いいか、老人たちよ、よく聞け。
あのクラーク博士はこう言った。
『少年よ、野心的であれ!』と。
本当は少しちがった意味で、「Boys, be ambitious」と言ったのだが、同じ言葉を、
私はそうした老人たちに言いたい。

『老人よ、野心的であれ!』と。
この意見は、少し過激すぎるだろうか?

(付記)

「少年よ、大志を抱け」で検索してみたら、6年前に書いた原稿が見つかった。
そのまま掲載する。

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●納得道(なっとくどう)と地図

●納得道

 人生には、王道もなければ、正道もない。大切なのは、その人自身が、その人生に納得
しているかどうか、だ。あえて言うなら、納得道。納得道というのなら、ある。

 納得していれば、失敗も、また楽しい。それを乗り越えて、前に進むことができる。そ
うでなければ、そうでない。仮にうまく(?)いっているように見えても、悶々とした気
分の中で、「何かをし残した」と思いながら生きていくことぐらい、みじめなことはない。
だから、人は、いつも自分のしたいことをすればよい。ただし、それには条件がある。

 こんなテレビ番組があった。親の要請を受けて、息子や娘の説得にあたるという番組で
ある。もともと興味本位の番組だから、それほど期待していなかったが、それでも結構、
おもしろかった。私が見たのは、こんな内容だった(〇二年末)。

 一人の女性(二〇歳)が、アダルトビデオに出演したいというのだ。そこで母親が反対。
その番組に相談した。その女性の説得に当たったのは、俳優のT氏だった。

 「あなたが思っているような世界ではない」「体を売るということが、どういうことかわ
かっているの?」「ほかにしたいことがないの?」「そんなにセックスがしたいの?」と。

 結論は、結局は、説得に失敗。その女性は、こう言った。「私はアダルトビデオに出る。
失敗してもともと。出ないで、後悔するよりも、出てみて、失敗したほうがいい」と。

 この若い女性の理屈には、一理ある。しかし私は一人の視聴者として、その番組を見な
がら、「この女性は何と狭い世界に住んでいることよ」と驚いた。情報源も、情報も、す
べて、だれにでも手に入るような身のまわりにあるものに過ぎない。あえて言うなら、あ
まりにも通俗的。「したいことをしないで、あとで後悔したくない」というセリフにしても、
どこか受け売り的。そのとき私は、ふと、「この女性には、地図がない」と感じた。

 納得道を歩むには、地図が必要。地図がないと、かえって道に迷ってしまう。しなくて
もよいような経験をしながら、それが大切な経験だと、思いこんでしまう。私がここで「条
件がある」というには、それ。納得道を歩むなら歩むで、地図をもたなければならない。
これには若いも、老いもない。地図がないまま好き勝手なことをすれば、かえって泥沼に
落ちてしまう。

●地図 

 人生の地図は、三次元で、できている。(たて)は、その人の住んでいる世界の広さ。(横)
は、その人の人間的なハバ。(深さ)は、その人の考える力。この三つが、あいまって、人
生の地図ができる。

 (たて)、つまり住んでいる世界の広さは、視点の高さで決まる。自分の姿を、できるだ
け高い視点から見ればみるほど、まわりの世界がよく見えてくる。そしてそこには、知性
の世界もあれば、理性の世界もある。それをいかに広く見るかで、(たて)の長さが決まる。

(横)、つまり人間的なハバは、無数の経験と苦労で決まる。いろいろな経験をし、その中
で苦労をすればするほど、この人間的なハバは広くなる。そういう意味で、人間は、子ど
ものときから、もっと言えば、幼児のときから、いろいろな経験をしたほうがよい。

 が、だからといって、人生の地図ができるわけではない。三つ目に、(深さ)、つまりそ
の人の考える力が必要である。考える力が弱いと、ここにあげた女性のように、結局は、
低俗な情報に振りまわされるだけということになりかねない。

 で、もう一度、その女性について、考えてみる。「アダルトビデオに出演する」というこ
とがどういうことであるかは別にして、……というのも、それが悪いことだと決めてかか
ることもできない。あるいはあなたなら、「どうしてそれが悪いことなのか」と聞かれたら、
何と答えるだろうか。この問題は、また別のところで考えるとして、まず(たて)が、あ
まりにも狭い。おそらくその女性は、子どもときから低俗文化の世界しか知らなかったの
だろう。テレビを通してみる、あのバラエティ番組の世界だ。

 つぎのこの女性は、典型的なドラ娘。親の庇護(ひご)のもと、それこそ好き勝手なこ
とをしてきた。ここでいう(横の世界)を、ほとんど経験していない。そう決めてかかる
のは失礼なことかもしれないが、テレビに映し出された表情からは、そう見えた。ケバケ
バしい化粧に、ふてぶてしい態度。俳優のT氏が何を言っても、聞く耳すらもっていなか
った。

 三つ目に、(深さ)については、もう言うまでもない。その女性は、脳の表層部分に飛来
する情報を、そのまま口にしているといったふう。ペラペラとよくしゃべるが、何も考え
ていない? 考えるということがどういうことなのかさえ、わかっていないといった様子
だった。いっぱしのことは言うが、中身がない。

 これでは、その女性が、道に迷って、当たり前。その女性が言うところの「納得」とい
うのは、「狭い世界で、享楽的に、したいことだけをしているだけ」ということになる。

●苦労

 納得道を歩むのは、実のところ、たいへんな道でもある。決して楽な道ではない。楽し
いことよりも、苦労のほうが多い。いくら納得したからといって、また前に別の道が見え
てくると、そこで悩んだり、迷ったり、ときにはあと戻りすることもある。あえていうな
ら、この日本では、コースというものがあるから、そのコースに乗って、言われるまま、
おとなしくそのコースを進んだほうが得。楽。無難。安心。納得道を行くということは、
そのコースに背を向けるということにもなる。

 それに成功するか、失敗するかということになると、納得道を行く人のほうが、失敗す
る確率のほうが、はるかに高い。危険か危険でないかということになれば、納得道のほう
が、はるかに危険。だから私は、人には、納得道を勧めない。その人はその人の道を行け
ばよい。私のようなものが、あえて干渉すること自体、おかしい。

 が、若い人はどうなのか。私はこうした納得道を歩むというのは、若い人の特権だと思
う。健康だし、気力も勇気もある。それに自由だ。結婚には結婚のすばらしさがあるが、
しかし結婚には、大きな束縛と責任がともなう。結婚してから、納得道を歩むというのは、
実際問題として、無理。だから納得道を歩むのは、若いときしかない。その若いときに、
徹底して、人生の地図を広げ、自分の行きたい道を進む。昔、クラーク博士という人が、
北海道を去るとき、教え子たちに、『少年よ、野心的であれ(Boys, be ambitious!)』と言
ったというが、それはそういう意味である。

 私も若いときには、それなりに納得道を歩んだ。しかしそのあとの私は、まさにその燃
えカスをひとつずつ、拾い集めながら生きているようなもの。それを思うと、私はよけい
に、子どもたちにこう言いたくなる。「人生は、一度しかないのだよ。思う存分、羽をのば
して、この広い世界を、羽ばたいてみろ」と。つまるところ、結論は、いつもここにもど
る。

 この「納得道」という言い方は、私のオリジナルの考え方だが、もう少し別の機会に、
掘りさげて考えてみたい。今日は、ここまでしか頭が働かない。
(03ー1ー10)

+++++++++++++++++++

●氷河期とは言うが……

 今さら野心的に生きろと言っても、今の若い人たちには、無理。
社会制度そのものが、資格と法律で、がんじがらめになっている。
今では、地方の田舎町でガイドをすることにさえ、資格がいる。
野心的になりたくても、なりようがない。

 ……と言っても、若い人たちには、理解できないかもしれない。
が、現実に、私は、浜松へ来たころ、ワイフと2人で、電柱に張り紙をして歩いた。
「翻訳します」と。

 当時は資格など、必要なかった。
浜松市の商工会議所に、翻訳家として登録していたのは、私を含めて2人だけ。
仕事はいくらでもあった。
お金にもなった。

 仕事がなかったら、リヤカーを引けばよい。
電柱に張り紙をすればよい。
(そう言えば、今では電柱に張り紙をすることさえ禁止になっている。
リヤカーなど、どこにも売っていない。)

 ……という原点に、私たちは一度、戻ってみる必要がある。
つまりその(たくましさ)がないと、この先この日本は、このアジアの中でさえ、生きて
いくのさえ難しい。
理由は簡単。
中国人にせよ、インド人にせよ、かつての日本人のように、たくましい。
中国人やインド人を猛獣にたとえるなら、現在の日本人は、ニワトリのようなもの。
まともに戦ったら、勝ち目は、ない。
ぜったいに、ない。

●補記

 10年ほど前、「フリーター撲滅論」を展開した、どこかの高校の校長がいた。
「撲滅」というのは、「棒か何かで、叩きつぶす」という意味である。
ほかのだれかが言ったのなら、まだ許せる。
校長だから、許せない。
しかも自分は、権利の王国に住みながら、そういうことを言うから、許せない。
何が、撲滅だ!

 言い換えると、日本人が、こうまでキバを抜かれてしまったのは、現在の教育制度に問
題があるというよりは、教師自身の生き様に原因がある。
よほどのヘマをしないかぎり、クビになることはない。
生活に困ることもない。
そのため教師自身から(たくましさ)が消えた。
その結果として、子どもたちから、(たくましさ)が消えた。

 では、どうするか?

 ひとつには、この(完成されすぎた社会のしくみ)を、ゆるめる。
わかりやすく言えば、行過ぎた官僚制度を、一度、解体する。
「制度」というより、そうした制度の中で、がんじがらめになった「心」を解体する。
若い人たちは、「これが社会」と思っているかもしれないが、それこそ、世界の非常識。
がんじがらめにされていることにさえ、気がついていない。

 だからこそ、クラーク博士は、こう言ったのだ。
「Boys, be ambitious!」と。
「大志」ではないぞ。
どこか出世主義の臭いがする、「大志」という意味ではないぞ。
「野心的」だぞ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
ashi 林浩司 BW はやし浩司 boys be ambitious 野心的であれ 大志)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

☆●移りゆくネットの世界


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来年(2010年)早々、BIGLOBEの電子マガジンサービスが、
廃止されることになった。


理由は、「スパムメールと誤解され、また各プロバイダー(サーバー)の
ほうで、スパムメールとして処理されることが多くなったため」とか。


電子マガジンを利用して、スパムメールを流している人も多い。
勝手にアドレスを代理登録して、1日に、何十通も流すというやり方である。
そういうトラブルが跡を絶たない。


この世界は、変化がはげしい。
新しいサービスがつぎつぎと生まれ、古いサービスがつぎつぎと姿を消していく。
私のように(?)、まじめに電子マガジンサービスを利用している人も多いはず。
そういう人たちが、そうでない人たちの心ない利用の仕方によって、影響を受ける。
とても残念。


その代わり、今は、BLOGが全盛期。
BLOGだけでも、毎日、3000~4000件のアクセスがある。
ほんの一部だけを読んで、「バ~~イ」という人も含まれるので、3000~4000件、
イコール、読者数ということではない。
それはよくわかっている。


さらに今では、TWITTERや、FACEBOOKというサービスも生まれた。
急速に利用者がふえている。
また個人のHPよりは、ポータルサイトのほうが、勢力を伸ばしつつある。
どうであれ、この世界は、今、どんどんと変化しつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●私は私

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Aさんは、Xさんを、「すばらしい人」と評価する。
しかし同じXさんを、Bさんは、「下衆(げす)」と評価する。
こうした場面には、よく出会う。

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●印象の種

 人の印象は、第一印象で、そのほとんどが決まる。
一度できた印象は、そのあと、よほどのことがないかぎり、変わらない。
で、最初の印象を「種」とするなら、人はその種を育てるようにして、その人の
人物像をつくりあげていく。
よい点だけを見て、ますますその人をよい人と思うようになる。

 が、最初の第一印象が悪かったら、どうなるか。
今度は逆の現象が起きる。
悪い点ばかりが気になり、ますますその人を悪い人と思うようになる。

●鬼みたいな人

 もう7、8年前になるが、近所の女性が亡くなった。
そのとき88歳くらいではなかったか。
穏やかでやさしい人だった。
いつも歩行器を押しながらやってきて、ちょうど私の家の前で反転し、
自分の家に戻っていった。

 で、亡くなってからしばらくしたときのこと。
その女性の隣に住む男性と、立ち話になった。
私が「あの方は、仏様のような方でしたね」と言ったら、その男性は、顔色を変えて
こう言った。
掃き捨てるような言い方だった。

「とんでもない! あの人は、若いころは、鬼みたいな人でした!」と。

私はその落差というか、印象のあまりのちがいに驚いた。

●長電話

 実は、昨夜、長電話の最長記録を作った。
ある従姉(いとこ)と、1時間55分も、話した。
従姉だから、伯父、伯母の話になった。
私には母方だけで、13人の伯父、伯母がいた。
そのうちの10人は亡くなったが、現在、3人の伯父、伯母がまだ生きている。
いとこにしても、母方だけで、正確に数えたことはないが、40人以上もいる。
父方も含めると、63、4人になる。
話の種は尽きない。

 長電話の中で、伯父や伯母、いとこたちに対する印象が、ときどき、まったく正反対
なのを知って驚いた。
その人がよい人と言うときも、そうでないと言うときも、電話の向こうの従姉は、そのつど理由を言った。
一方、私はいちこたちとの交際が希薄なこともあって、驚くばかり。
「浩司君(=私)、知らなかったの?」と言うから、そのつど「ヘエ~、知りませんでした」
と答えるだけ。

●決め手

 話の内容は、ここでは重要ではない。
またそんなことを書いても、意味はない。
私はいとこの話を聞きながら、同じ人なのに、どうしてたがいがもつ印象がこうまで
ちがうのか、それが不思議でならなかった。

 あえてその理由を並べてみる。

(1)金銭問題が、ひとつの決め手になる。
(2)たがいの連絡の親密度が、ひとつの決め手になる。
(3)が、何よりも重要なのは、第一印象、と。

 私も従姉も、金銭問題で悪い経験をもった人には、悪い印象をもった。
疎遠になればなるほど、よい印象でも悪い印象でも、熟成される。
よい印象をもった人は、さらにその人に対して、よい印象をもつようになる。
そうでなければ、そうでない。
そうした印象の基盤は、第一印象で決まる、と。

 が、その人の印象というのは、離れて住んでみないとわからない。
さらに(時の流れ)の中に置いてみないと、わからない。
その上で、「あの人は、すばらしい人」ということになる。
「あの人は、悪い人」ということになる。

●みなによい顔はできない

 私のばあい、いとこたちの間で、どう思われているか、知らない。
知りたくもない。
私は私だし、それがよいものであっても、悪いものであっても、私の知ったことではない。
見方によって、私は善人にもなるし、悪人にもなる。
相手の見方しだい。
それを知っているから、「どうでもいい」となる。

 同じように、私がだれか1人の人を、「いい人」と思ったところで、それは私だけの
印象。
その印象を、他人に植えつけようとは思わない。
反対にばあいも、そうだ。
私は私、人は人。

●決め手は親密度

 ……ということで、1時間55分になった。
で、その結論。

 誠実な人は、よい印象をもたれる。
不誠実な人は、悪い印象をもたれる。
長い時間をかけて、そうなる。

 ……とは言っても、他人の目など気にしてはいけない。
その必要もない。
どんなに誠実に生きても、みなによい顔はできない。
とくに親戚関係というのは、一方的な意見だけを聞いて、その人の人物像を作りあげる。
そういうことが多い。
その点、密度、つまり親密度がものを言う。
悪人どうしが近くでワーワーと騒げば、どんな誠実な人でも、悪人に仕立てられる。
(だからといって、親類に悪人がいるということではない。誤解のないように!)

 仮に悪く言われていても、遠くに住んでいると、反論することもできない。
だから「私は私、人は人」となる。

 1時間55分の長電話で、私は、それを学んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●山のあなた

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。

あなた=かなた
尋(と)めゆきて=たずねて行って
涙さしぐみ=涙ぐんで

(カール・ブッセ)(上田敏訳)

+++++++++++++++

 小学5年生が使うワークブックに、カール・ブッセの詩が載っていた。
何度か読んでいるうちに、切なくなってきた。
意味はよくわからないが、切なくなってきた。
解釈の仕方はいろいろある。
読む人によって、思いもちがう。
ただ「幸せ」というのは、そういうものかもしれない。
ここでいう「幸せ」というのは、「亡くなった人」とも解釈できる。
「あなた」が、「遠くに」と、「あなた」の掛詞(かけことば)になっているようにも
思う。
愛する人が亡くなった。
そのさみしさに耐えかね、幸せを求め、遠くまでやってきた。
しかし幸せは、さらに遠くにあって、手が届かなかった。
私には、そんな情景が浮かんでくる。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●正常と異常

++++++++++++++++

何をもって「正常」といい、何をもって
「異常」というか?
実のところ、正常には基準はない。
異常にも、基準はない。
たとえば精神医学の世界では、「正常」という
概念はない。
わかりやすく言えば、この世界には、
「正常な人」というのは、いない。

また「異常気象」とはいうが、気象学の
世界では、「異常」という概念はない。
その定義すら、ない。

その気象。
09年を振り返ってみて、特異だったのは、
長梅雨。
そのため日本各地で、記録的な日照不足が
起きた。
正確には、「観測史上初の短さ」ということに
なる。
が、だからといって、「異常」とは言わない。

+++++++++++++++++

●異常気象

 いくら「おかしい」と思っても、そこには原因がある。
原因がある以上、いきなり「異常」という言葉で片づけることはできない。

たとえば09年の日照不足にしても、その原因は、長梅雨。
さらに長梅雨の原因はといえば、「エルニーニョ現象」。
太平洋東部(南米沖)の海水温があがると、相対的に、日本の南の海水温がさがる。
簡単に言えば、太平洋という海をはさんで、東部と西部が、シーソーをしているようなも
の。
太平洋東部の海水温があがれば、「エルニーニョ現象」。
太平洋西部(日本の南部)の海水温があがれば、「ラニャーナ現象」。
09年は、エルニーニョ現象のため、相対的に、西部の海水温がさがった。
そのため日本に張り出す太平洋高気圧が弱くなり、夏らしい夏がこなかった。
そのため長梅雨になり、日照不足が各地で観測された。

 こうした現象を、「異常」とは言わない。
しかし「異常気象」という言葉だけが、今、ひとり歩きしている。
言うなれば、「異常」という言葉を使うことによって、思考することをやめてしまっている。

●子どもの世界

 子どもの世界でも、(もちろん)、「正常」「異常」という言葉は、存在しない。
その概念もなければ、定義もない。
あるはずもないし、またあってはならない。

 「問題のある子ども」というのはいるが、しかし仮にそうであるとしても、そこには原
因がある。
理由もある。
ほとんどは子ども自身の問題というよりは、子ども自身には責任のない問題である。
また「問題」といっても、それは固定された視点から見て、「そうだ」と言うにすぎない。
別の視点から見れば、問題が問題でなくなってしまう。
言い換えると、「問題」というのは、その子どもを見る「視点の問題」ということになる。
さらに言えば、「問題のある子ども」というのは、存在しない。

 たとえば不登校にせよ、学習障害児にせよ、AD・HD児にせよ、「学校教育」という枠
(わく)の中で、「問題のある子ども」と言うにすぎない。
学校教育という枠をはずれれば、何でもない。
むしろ別のすばらしい才能を発揮することもある。

 言い換えると、「正常」「異常」、さらには、「問題」にせよ、これらはすべて人間が勝手
に作りだした言葉にすぎないということ。

●まず、認める

 そこで重要なことは、たとえば現在の気象状態を見ながら、「異常」「異常」と騒ぐこと
ではなく、冷静に原因と理由を見つめていくということ。
この世界では、思考力のない人ほど、「異常」「異常」と騒ぎやすい。
またそういう言葉を使うことによって、自らの思考力を停止してしまう。

 子どもの世界も、またしかり。
そこにそういう子どもがいるなら、そういう子どもと認めた上で、その子どもに合った指
導をする。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
とくに教育者は、ドクターとは立場が異なる。
診断名をつけて、治療するなどということは、ドクターに任せておけばよい。
もちろんその知識をもつことは重要なことだが、だからといって、私たちには、どうする
こともできない。
その子どもを、そこを原点として、前向きに伸ばしていく。

 実際、私の経験からしても、問題のない子どもはいない。
どんな子どもにも、それぞれ何かの問題がある。
だから「問題がある」という前提で子どもを見るのではなく、「その子はそういう子どもで
ある」と認める。
へたに「なおしてやろう」と考えると、教えるのもたいへんだが、子どもも疲れる。
指導法をまちがえると、子どもをかえって悪い方向に、追いやってしまう。
だから、「あるがまま」。

●一言

 これは、私たち自身の問題と直結している。
つまり私たちは、常に自分に問いかける。
「私は正常」と思い込んでいる人ほど、あぶない。
「私はだいじょうぶ」と思い込んでいる人も、あぶない。
たいへん興味深いことは、認知症の初期段階では、「自分はおかしい?」と思うこともある
らしいが、さらに進んでくると、それもわからなくなるらしい。
(認知症の種類にもよるが……。)

 私もこんな経験をしたことがある。
どこか認知症ぽい女性(当時、63歳くらい)に、こう言ったときのこと。
その女性のまわりくどい言い方に閉口していた。
「私は、そんなバカではないと思いますが……」と。

 するとその女性は、何をどう誤解したのかはわからないが、「私だって、そんなバカでは
ない!」と言って、叫んだ。
私はそのとき、「この女性は、本物のバカだ」(失礼!)と思った。……思ってしまった。

 「私」を知るためには、常に私を疑う。
こと「私」について言えば、「私はおかしい」という前提で考えるのがよい。
「私はまちがっている」でもよい。
ばあいによっては、「私は異常かもしれない」でもよい。
つまりそうした謙虚な姿勢が、「私」の発見につながっていく。

 「正常」「異常」という言葉が、あまりにも安易に使われているような気がしたので、(私
自身も、使っているが……)、ここでそれについて考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 正常 異常 正常論 異常論 異常気象論 異常気象)


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●i7、64ビット・パソコン

++++++++++++++++++

昨日、待望の(i7、64ビット)パソコンが
届いた。
注文してから、2週間も待たされた。
もちろんOSは、WINDOW7・プロフェッショナル。

すごい!
パフォーマンス評価をしてみたら、ハードディスクの
転送速度以外は、何とスコアは、7・5~7・7!
(7・9が満点とか。)
今までのビスタパソコンは、5・5~5・9だった。
ワクワク、ドキドキ・・・。
そんなわけで、今朝は午前5時に起き。
6時間かけて、設定をすませた。
6時間だぞ!

「プロフェッショナル」にしたのには、理由がある。

WINDOW7・プロフェッショナルでは、
仮想(バーチャル)XPというのが使える。
それを使えば、ビスタで使えなくなったソフトを、
再び生き返らせることができる。
今までビスタ上で、だましだまし使っていたソフトを、
WINDOW7上で、堂々と使える。

が、ひとつ大きな問題が発生した。
Adobe(アドビ)が、64ビットパソコンに
対応していない。
そのため、YOUTUBEなどの動画が、見られない。
FLASH画像も(×)が出て、表示されない。
そこでAdobeベータ版(試作版)をダウンロード。
が、それでも動画を見ることができない。

?????の連続。

あれこれ原因をさぐったり、いじったり……。
削除したり、再インストールしたり……。
1時間ほど、回り道をした。
それが楽しかった。

【解決法:表示されない画面の状態で、
(スタート)→(すべてのプログラム)→
(Internet Explorerを右クリック)→
(管理者として実行)を順にクリック。】

終わったときには、むずかしい数学の問題を解いたような
満足感を覚えた。
ほっとした。
気持ちよかった。
そのあと少し横になったが、頭が冴えて、眠れなかった。

あとは時間をみて、ファイルを、古いパソコンから
新しいパソコンへ、ゆっくりと移すだけ。

(実際には、Dディスクにコピーして、ディスクごと、
新しいパソコンに移動する。
作業は、簡単。
それはこの正月の楽しみ。)

この原稿は、そのパソコンを使って書いた、はじめての原稿。
記念すべき原稿。

時は2009年12月23日。

晃子へ、

こんな道楽を、好き勝手にやらせてくれて、ありがとう!
プラス、パソコンの世界は、それを専門にしている人は
別として、私たちには、少し荷が重すぎる。
どんどん進歩していく。
変化していく。
ついていくだけで、たいへん。

++++++++++++++++++++

●うれしいメール

 幼児クラスで教えたことのある、Dさん(小3・女児)が、数か月前、私の教室に戻っ
てきた。
お母さんの話では、いろいろあった。
それについてはここに書けないが、ともかくも、いろいろあって、Dさんは、元気をなく
してしまった。
そこで私のところに相談があった。
お母さんが、「娘が、BWのHPを、なつかしそうに見ていました」「それで、BWへもう
一度、通ってみる?、と声をかけたら、そのとき、はじめてニコリと笑いました」と。
BWというのは、私の教室をいう。

 私はDさんを迎えるため、1か月かけて準備をした。
とくに心の暖かい子どもだけを3~4人集め、お母さんの仕事時間に合わせて、新しいク
ラスを作った。
『子どもの先生は、子ども』。
子どもは子どもの影響を受けて、変わる。
それに、私の教室で幼児期を過ごした子どもは、(心の基礎)が、しっかりとできている。
ちょっとやそっとでは、崩れない。
私はそれを信じている。

 で、Dさんは、やってきた。
ほかの生徒たちには、それとなくDさんのことを話しておいた。
みな、快く協力を申し出てくれた。
「私が抱っこして教えてあげる」と言ってくれた中学生もいた。

 ……それからちょうど3か月。
Dさんのお母さんからメールが届いた。
それを読んで、思わず涙が出た。
うれしかった。
そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

>『はやし先生へ
>
> こんばんは。いつもDがお世話になっております。
>
> 林先生に再びお世話になるようになってから、Dの様子が変わって来ました。
>
> あれだけ無表情でやる気の無かったDが、このところテストで90点や100点を取っ
て来るようになり、話しかけても返事もしなかったのに、この頃は呼ぶと「ハイ!!」と
大きな声で返事をし、にこにこと元気があふれる表情に変って来ました。
>
> しかも、ビックリしたのが、「負けるのが嫌だからスポーツはやらない。」と言っていた
のに、自分から「バスケットボールやりたい。」と言い出し、半信半疑で体験させたところ、
「楽しい!頑張る!」と言い、練習日には自分で仕度をして元気に出かけて行きます。
>
> 今日、持久走大会があり、48人中17位になったと嬉しそうに報告してくれました。
>
>
> 以前のDに戻ってくれたと、私は感激で胸がいっぱいになりました。
>
> やっぱり、はやし先生にお願いして良かったと心から感謝しています。あまりの変わり
ように、魔法にかかったような信じられない気持です。
>
> どうしても、先生にお礼と報告がしたくて、メールさせていただきました。
> ありがとうございます。これからも宜しくお願いします。
>
> 急に寒くなりました。お体に気をつけてください。
>
> (Dの母より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 どうかBW教室の宣伝と、とらえないでほしい。
私には、もうそういう気持ちはない。
ただ、うれしかった。
それだけ。

 そうそう、昨日、先日講演をした、秋田県の横田市のみなさんから、講演の感想が届い
ていた。
みなさん、ほんとうに暖かく、迎えてくれた。
それが私は、うれしかった。
片道7時間前後の長旅だったが、疲れはまったく感じなかった。
その感想の一部を、ここに抜きださせてもらう。
(原稿は、EXCEL版なので、そのまま転載できないので……。)

SKさん、ありがとうございました!!!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●とてもすばらしいお話でした。自分自身を見つめ直す機会にもなりました。ありがとう
ございました。

●非常に良い講演でした。今日は、参加できなかった妻にも聞かせたかった。

●分かりやすく明快な講演でした。来年も是非企画してください。

●友達に誘われてきましたが、来て良かったと思います。子育てに対する情熱を感じまし
た。また子育てという視点だけでなく、自分自身を見つめる機会になりました。一番最後
の「私の○○、私の××、というものがあるから死に対して臆病になる。だったらそれを
捨てればいい」という部分が印象的でした。なかなか自分のしがらみというか、防御する
心は捨てられないし、舞い戻ってしまうけれど、「やっていこう!」と行動をおこすことが大切だと思いました。HPを見てみたいと思います。

●とてもいい講演でした。手帳にたくさんメモしました。最後のお子さんの話には、とて
も感動しました。いつか将来私の心にも子育てをやりとげたとおいう風が吹く日が来たら
幸せだろうなあと思いました。

●普段の自分の子どもへの接し方を改めて考えさせられました。親も余裕をもって接した
いなあと思いました。ありがとうございました。

●色々な深い話を聞けて大変参考になりました。遠くからどうもありがとうございました。

●とても心にしみるお話でした。子育てはもちろん、いろいろ考えさせられ、とてもよい
お話でした。ぜひHPも見たいと思います。

●とてもいいお話を聞きました。HP絶対見ます。ありがとうございました。働いている
と情報が遠いような気がします。こういった会の開催など、簡単に確実に情報を得たい。

●とても充実した時間を過ごすことができました。

●お話がおもしろくて楽しかった。子育てにはユーモアが大切なのだな~と実感しました。
あ~でも私は、子供をあたたかく見守ることができるのかな~なんて思ってしまいました。

●大変すばらしい講演会でした。ありがとうございます。

●参加して大変よかったです。先生の体験談、特に息子さんのお話に深く感銘し感動しま
した。悩みながらの子育て中ですが、参加したことが、私にとって大きな改心の第一歩に
なると思います。素晴らしいお話をありがとうございました。

●今日のお話の中にあった「東洋医学的な抵抗力を育てる」ことが、実は秋田県や横手市
の子育て支援にも大切なことだと思った。子育て中のお母さんたちを本当の意味で支援す
ること、お母さんたちの自立を促すような内容をみんなで考えていけたらいいですね。講
師の先生、すばらしかったです。実行委員の皆様お疲れ様でした。

●HPも見ておりましたが、実際に聞いて、とても感動しました。これからの子育て孫育
てに役立てたいと思います。

●自分は64歳ですが、先生のお話に大いに共感いたしました。ありがとうございました。

○チラシをコンビニなど手に取りやすい所に置いてほしい。
○資料の隅でもいいので、メモが少しあったら嬉しかったです。
○講演の内容はすばらしく、聞きやすかったです。
○講演内容からすれば、より来場者があってもいいはずで、PRの方法を、様々な団体検証した方がいいと思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【横手市のみなさんへ】

 またいつか、おうかがいしますよ!
ワイフも、たいへん喜んでいました。
SKさんにいただいた、ぜんまい、たいへん、おいしかったです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

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【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

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●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
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.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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2010年1月28日木曜日

*So-called "Game Brain"

【ゲーム脳】

++++++++++++++++++++

「ゲーム脳はあるのか、それともないのか?」

これについての記事を、「毎日JP」より、抜粋
してみる。

++++++++++++++++++++

●火付け役は、、森昭雄・日本大教授(脳神経科学)。
曰く、

 『・・・「15年間、ゲームを毎日7時間やってきた大学生は無表情で、約束が100%守れない」「ゲームは慣れてくると大脳の前頭前野をほとんど使わない。前頭前野が発達しないとすぐキレる」
 森教授は02年、「ゲーム脳」仮説を提唱した。テレビゲームをしている時には脳波の中のベータ波が低下し、認知症に似た状態になると指摘。その状態が続くと前頭前野の機能が衰えると警告した。単純明快なストーリーはマスコミに乗って広がり、暴力的な描写に眉(まゆ)をひそめる教育関係者や、ゲームをやめさせたい親に支持された』(毎日JPより)と。

 これに対して、「森教授の意見には、学術的な裏付けがない」と批判する人も多い。

『・・・森教授は一般向けの本や講演を通して仮説を広めてきた。本来、仮説は他の科学者が同じ条件で試すことで初めて科学的な検証を受けるが、その材料となる論文はいまだに発表されていない。
 手法にも批判がある。森教授は自ら開発した簡易型脳波計による計測で仮説を組み立てたが、複雑で繊細な脳機能をその手法でとらえるのは不可能、というのが専門家の共通した見方だ』(毎日JPより)と。

●利潤追求の世界

 こうした批判を尻目に、ゲーム業界は、大盛況。
その先頭に立たされているのが(?)、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳機能イメージング)。
ここで注意しなければならないのは、川島隆太教授自身は、「加齢医学」が専門。
その研究に基づいて、

『・・・認知症の高齢者16人に半年以上学習療法を受けてもらった結果、認知機能テストの成績が上がったと報告。何もしなかった16人の成績が低下傾向だったことから「認知機能改善に効果がある」と考察した』(2003年)(毎日JPより)と。

 これにゲーム業界が飛びついた(?)。

『・・・こうした成果を企業が応用したのが、脳を鍛えるという意味の「脳トレ」だ。06年の流行語となり、川島教授の似顔絵が登場する任天堂のゲームソフト「脳を鍛える大人のDSトレーニング」は、続編も含め1000万本以上を売り上げた』(毎日JPより)と。

 こうして今やこの日本は、上も下も、「脳トレ」ブーム。
「1000万本」という数字は、そのほんの一部でしかない。

 もちろん批判もある。

『・・・ ただ、脳トレの過熱を心配する声もある。日本神経科学学会会長の津本忠治・理化学研究所脳科学総合研究センターユニットリーダーは、「川島氏の研究は科学的な手続きを踏んでいるが、認知機能の改善が本当に学習療法だけによるかはさらなる研究が必要だ。『改善した』という部分だけが拡大解釈され広がることで、計算さえやれば認知症にならないと思い込む人が出てくるかもしれない」と話す』(毎日Jより)と。

●三つ巴の論争

 現在、「ゲーム脳支持派の森教授vsゲーム脳否定派の川島教授」という構図ができあがってしまっている。
しかし実際には、この両教授が、ゲーム脳を間に、対立しているわけではない。

 森教授は、「ゲームばかりしていると、危ない」という警鐘を鳴らした。
一方川島教授は、ここにも書いたように、「老人の認知機能」が専門。
その立場で、「脳トレは(ボケ防止には)効果がある」と、自説を発表した。

 が、一方、教育の世界には、『疑わしきは罰する』という原則がある。
(私が考えた原則だが・・・。)
完全に安全が確認されるまで、あやしげなものは、子どもの世界からは遠ざけたほうがよい。
事実、私は1日に何時間もゲームばかりしている子どもを、よく知っている。
中には、真夜中に突然起きあがって、ゲームをしている子どももいる。
もともとおかしいから、そうするのか、あるいはゲームばかりしているから、おかしいのか?
それは私にもわからないが、このタイプの子どもは、どこか、おかしい。
そういう印象を与える子どもは、少なくない。

(1)突発的に感情的な行動を繰り返す。
(2)日中、空をぼんやりと見つめるような愚鈍性が現れる、など。

「ゲーム脳」があるかないかという論争はさておき、その(おかしさ)を見たら、だれだって、こう思うにちがいない。

「ゲームは本当に安全なのか?」と。

 そうでなくても、「殺せ!」「つぶせ!」「やっつけろ!」と、心の中で叫びながらするゲームが、子どもの心の発育に、よい影響を与えるはずがない。
ものごとは常識で考えたらよい。
(もちろんゲームといっても、内容によるが・・・。)

 仮に百歩譲っても、認知症患者に効果があるからといって、子どもや、若い人たちにも効果があるとはかぎらない。

●脳トレへの疑問

 私も脳トレなるものを、さまざまな場面で経験している。
それなりに楽しんでいる。
しかし子どもの知能因子という分野で考えるなら、脳トレで扱っている部分は、きわめて狭い世界での訓練にすぎない。

 たとえば教育の世界でいう「知的教育」というのは、広大な原野。
脳トレというのは、その広大な原野を見ないで、手元の草花の見分け方をしているようなもの。
あまりよいたとえではないかもしれないが、少なくとも、脳トレというのは、「だからそれがどうしたの?」という部分につながっていかない。

 仮にある種の訓練を受けて、それまで使っていなかった脳が活性化されたとする。
それはそれで結構なことだが、「だからといって、それがどうしたの?」となる。
もう少し具体的に書いてみたい。

 たとえば脳トレで、つぎのような問題が出たとする。

+++++++++++++

【問】□には、ある共通の漢字が入る。それは何か。

 □草、□問

+++++++++++++

 答は※だが、こうした訓練を重ねたからといって、それがどうしたの?、となる。
というのも、私はこうして今、文章を書いているが、こうした訓練は、常に、しかも一文ごとにしている。
的確な言葉を使って、わかりやすくものを書く。
的確な言葉をさがすのは、ほんとうに難しい。
さらにそれを文章にし、文章どうしをつなげるのは、ほんとうに難しい。

つまりこうした脳トレを繰り返したところで、(よい文章)が書けるようになるとは、かぎらない。
・・・書けるようになるとも、思わない。

 それ以上に重要なことは、本を読むこと。
文章を自分で書くこと。

 つまり本を読んだり、文章を書くことが、先に書いた「広大な原野」ということになる。
(※の答は、「質」。)

●疑わしきは罰する

 子どもの世界では、疑わしきは罰する。
先手、先手で、そうする。
以前、ゲーム脳について書いた原稿をさがしてみた。
5年前(05年9月)に書いた原稿が見つかった。
それをそのま、手を加えないで、再掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【ゲーム脳】(05年9月の原稿より)

++++++++++++++++++++++

ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

+++++++++++++++++++++++

最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲーム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」とは、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働かなくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。このゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、ものすごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到している」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうしてそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづけたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとんどが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか? 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強してからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などない。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのときは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつつ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判されたりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピカチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえいた。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間には、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだだけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまった若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはなく、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリスで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS WEB JAPANの記事より)。

(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、していることもある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているかのようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみしがっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けがをしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのですが、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取りあげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやってきた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。そのときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化した。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2~3時間はつづけるそうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをしていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介する。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、ああ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答えた先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(14%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲームをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりやすく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊をあげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されている。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から220人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていることがわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30~36人のばあいでも、もう1人教員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校では、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たとき、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらにある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられるという。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだと、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動そのものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなりに、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、これから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとたん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言ったでしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そしてこの前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくなってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそうである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したりするということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力といったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激されることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にとらえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに40~50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌などに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということになる。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そのものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」というのは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。

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Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

2010年1月27日水曜日

*Essays this morning

●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

●突発性難聴

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朝、起きたら、音が聞こえない!
自分の声が、海の底でキンキンと響くだけ!

・・・ということで、私は正月早々、
突発性難聴という病気になってしまった。
幸い、処置が早かったので、現在は、80%
前後まで、聴力は回復している。
よかった!
が、この先、まだ2か月ほど、薬をのまなければならない。

++++++++++++++++++

●「波がある」

 ドクターは、「波がある」と言った。
つまり数日おきくらいに、聞こえるようになったり、聞こえなくなったする、と。
で、ドクターの言ったとおり、たしかに数日おきに、聞こえたり、聞こえなくなったりする。
薬のせいか、音が二重に聞こえるときもある。
反対に過敏になっているときは、ゴーゴーと、川の水が流れるような音がする。

 今朝は、調子が悪い。
(朝は、このところ毎日、そうだが・・・。)
感じとしては、70~60%前後というところではないか?
朝、目を覚ますと、まず自分の声を出してみる。

「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 低音部がよく聞こえれば、OK。
そうでなければ、よくない。

●『サロゲート』

 昨日は耳の調子がよかった。
うれしかった。
・・・ということで、仕事が終わってから、久しぶりにワイフと、深夜劇場に足を運んだ。
観たのは、ブルース・ウィリス主演の『サロゲート』。
星は3つの、★★★。

(ドクターは、「できるだけ安静にしていたほうがいい」と言ったが・・・。)

 先日、『アバター』を観たので、どうしても採点がきびしくなる。
内容的には、つまりロボットに自分を代行させるという発想は、よく似ている。
個人的には、『サロゲート』のような映画は好きだが、なんと言っても、『アバター』の与えたインパクトは大きかった。
それで、星は、3つ。

 今週から観たい映画がつぎつぎとやってくる。
忙しくなりそう。

 ・・・昨夜、家に帰ってきたのが、午前0時ごろ。
それで今朝は、耳の調子がよくないのかも?

●ストレス

 とにかくストレスはよくない。
今回の突発性難聴も、原因はストレス(?)。
いろいろあった。
たいへんだった。
そんなわけで、心はいつも明るく、朗らかに・・・。

 が、ときとして、それがむずかしくなる。
ストレスを抱え込んでしまう。
悶々と、気が晴れない日々を過ごす。
とたん、悪玉ホルモンがあれこれ悪さを始める。
体の抵抗力を落とす。
いろいろな病気になる。

●生徒たち

 この仕事をしていていちばんすばらしいのは、・・・というより、今回、改めてそれを実感したが・・・、子どもたちからエネルギーをもらえること。
かなり落ちこんでいても、生徒たちに接したとたん、パッと気が晴れる。
どこかうつ病的な私には、たいへんありがたい。

 もしこういう仕事でなかったら、私は今ごろ、精神病院かどこかで、寝たきりになっているはず。
だから今では、こう思うようになった。
「生徒を教えているのではない。助けてもらっているのだ」と。

 そんなこともあって、最近では、生徒を私の孫のように思うようになった。
かわいいというより、いとおしい。
おもちゃをあれこれ買ってきて、教室に並べておく。
めざとい子どもをは、そのつどそれを見つけ、「ほしい」などと言う。

 が、1度や2度では、与えない。
3度、4度と、「ほしい」と言い、それが本気とわかったとき、そのおもちゃを、その子どもに与える。
子どもは宝物でも手にしたかのようにして、喜んで帰る。
それが私にとっても、うれしい。
楽しい。

 で、ワイフも同じような気持ちでいるのを知った。
このところ幼児教室のほうを、楽しそうに手伝ってくれる。

●同窓会

 近く金沢で大学の同窓会がある。
4年ぶり?
ワイフが行きたいと言うので、行くことにした。
が、まだ出席のはがきは出していない。
その前に、ホテルの予約をしなければならない。
どういうわけか、この時期、いつもホテルは、満杯。
学会や研究会がつづく。
どこか、ホテルの予約が取れたら、「出席」のはがきを投函するつもり。

●1月26日

 ・・・ということで、今日も始まった。
朝、起きるとすぐウォーキングマシーンの上で、運動。
このところ1回で20分間の運動を基準にしている。

 それがすむころ、体がジワーッと暖かくなる。
庭に朝日が差してくる。

 とくに今日の予定はなし。
いつものように、いつもの仕事をこなす。

 みなさん、おはようございます!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アインシュタインの言葉

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The
other is as though everything is a miracle.
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもない
と思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this
but have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it
is the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can
reveal it.
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰
り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定
したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、
宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造
について、無限の崇拝の念でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful
muscles, but no personality.
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、
強い筋肉はあるが、人間性はない。

(以上、アルバート・アインシュタイン言語録より)

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●奇跡

 生きていること自体が、奇跡。
そこに見えるのは、分子と光が織りなす、摩訶(まか)不思議な世界。
その世界で、音を聞き、光を見る。
肌で冬の冷気を感じ、餌をあさる小鳥のさえずりを聞く。

 60億年の瞬時の、そのまた瞬時の、この瞬間において、私は生きている。
あなたも生きている。
しかしつぎの瞬時には、私もあなたも、再び、永遠の虚の世界に戻る。
「無」ではない。
「虚」の世界である。

 人生が50年であろうが、100年であろうが、瞬時には変わりない。
その瞬時に、私たちは、今、この世界に生きている。
これを「奇跡」と言わずして、何という。

●宗教

 アインシュタインは、「a personal God(個人的な神)」を信じていなかった。
つまり、無神論者だった。
が、そのアインシュタインですら、こう言っている。
「・・・the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can
reveal it.(科学が明らかにした範囲における、世界の構造について無限の崇拝の念)」については、宗教性を認める、と。

 わかりにくい言い方だが、こういうことではないだろうか。

 私も記憶にあるかぎり、生涯において2度、満点の星空を見上げて、涙をこぼしたことがある。
1度は、オーストラリアで。
もう1度は、近くの山の中で。
あのとき天空の星々に感じた神々しさは、忘れない。
それを「宗教性」というのなら、「宗教性」と言ってもよい。
言い換えると、だれにでも、つまり「私は無神論者」とがんばっている人にも、宗教性はある。

 大宇宙への畏敬の念と言い換えてもよい。

●人間性

 「知的な人ほど、心が冷たい」。
それはもう常識と考えてよい。
言い換えると、心の温かさは、人間的な不完全さから生まれる。
渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を、頭の中に思い描いてみれば、それがわかる。

 ドジで、間抜けで、アホ(失礼!)。
それを知り尽くした人のみが、人間が本来的にもつ不完全さを、包容することができる。
そうでなければ、そうでない。
反対に冷酷な数学者を思い浮かべてみれば、それがわかる。
(数学者がみな、冷酷というわけではない。誤解のないように。)

 ものごとを数字だけで考えるような人に、人間的な温もりは感じない。
だからアインシュタインは、こう言った。
「知的な人間を、神にしてはいけない」と。
つまり知的な人間になることだけを、人生の目標にしてはいけない、と。

 さらに言えば、損ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
裏切られてばかりいる人ほど、幸いなるかな。
失敗ばかりしている人ほど、幸いなるかな。
そういう人ほど、知的な人たちより、人生の真理にはるかに近いということになる。

 人間がなぜ人間であるか。
それは、その人の心の温もりで決まる。
その(温もり)を、私たちは、「人間性」と呼ぶ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 奇跡論 宗教論 人間性 人間的な温もり アインシュタイン 奇跡 奇跡論 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●平成版、『忠臣蔵』

++++++++++++++++++

2010年という、この年。
未だに動物的隷属意識が、この日本に
残っていたとは、知らなかった。
称して、『平成版、忠臣蔵』。

あの小沢一郎は、中国人も笑うような
大名行列を演出して見せた。
300人もの国会議員と合わせて、総勢
600人!
連れていったアホもアホなら、ついて
いった国会議員も、アホ。
そのアホどもが、さらにアホの上塗り。

民主党の高嶋副幹事長は、「検察側が意図的に、
政権つぶしをしようとしている節がある」と、
かみついた(jiji.com)。

民主党は、検察側が事務ミスだけで、小沢一郎を
事情聴取したというふうに、世論を誘導しよう
としている。

バカめ!
そんなことで、東京地検が動くか!

検察側の目的は、ズバリ、贈収賄罪!
天下の大罪!
まず、3つの記事を並べて読んでみる。

++++++++++++++++++++

++++++++++以下、JIJI.COM+++++++++
 
(インタビューに答えて、高嶋副幹事長曰く、)『あくまで小沢事務所の問題だ。ただ、検察側が意図的に政権をつぶそうとか、民主党に打撃を与えようとしている節がある。小沢さんが怒っているのは「なぜ、党大会の前日に逮捕するのか」ということ。明らかに民主党に対する検察の攻撃ではないか。こういう部分については党として反撃しなければならない。検察の捜査の在り方に問題があれば当然、政党として言うべきだ』と。

++++++++++以上、JIJI.COM+++++++++

++++++++++以下、時事通信++++++++++

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、中堅ゼネコン「水谷建設」(三重県桑名市)の元経理担当者が、東京地検特捜部に対し、「小沢事務所に持って行くため、5000万円ずつ2回、現金を用意した」と証言していることが27日、関係者の話で分かった。

 水谷建設元幹部は1億円を小沢氏側に裏献金したと供述。特捜部は、陸山会が購入した土地の代金に、水谷側からの裏金が含まれていたとみて捜査している。

 水谷元幹部は特捜部の事情聴取に対し、2004年と05年に、小沢氏側に各5000万円、計1億円の裏献金を渡したと供述している。

 関係者によると、水谷建設の元経理担当者は、「元幹部から『小沢事務所に持って行く』と言われ、04年10月と05年4月ごろに、それぞれ現金5000万円を用意して渡した」と証言したという。

 04年に現金を受け取ったとされる衆院議員石川知裕容疑者(36)は、翌銀行営業日に同額を陸山会の口座に入金。ほかにも数千万円の入金を繰り返し、これらの資金で土地を購入していた』

『・・・小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」による土地購入をめぐる事件で、逮捕された衆院議員石川知裕容疑者(36)が、同会や関連政治団体名義の複数の口座に入れてあった計8億円を、土地購入の前日に一つの口座に集約させていたことが26日、関係者の話で分かった。石川容疑者はこの中から土地購入代などを支払った。

 東京地検特捜部は、ゼネコンからの裏金と、政治団体にあった「表」の資金をいったん同じ口座に入れることで、出どころを分からなくする「資金洗浄」の狙いがあった疑いがあるとみて捜査。一連の経理操作への小沢氏の関与も調べている。

 石川容疑者は、陸山会が2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入した際、同会の口座に入金した4億円を、政治資金収支報告書に記載しなかった疑いが持たれている。特捜部はこの4億円には、水谷建設(三重県桑名市)の裏献金が含まれるとみている。

 関係者によると、石川容疑者は同月中旬以降、4億円を数千万円ずつ、陸山会の複数口座に分けて入金。同28日に全額を一つの口座に集めた。

 石川容疑者は同日、この口座に、小沢氏関連の3団体の口座にあった計約1億8000万円も移動。もともと口座にあった資金と合わせ、計8億円が1口座に集約された。

 翌29日午前、石川容疑者はこの8億円のうち約3億5000万円で土地を購入。午後に4億円で定期預金を組み、これを担保に同額の融資を受けた。

 こうした経理操作により、個々の入金が何に使われたかは、口座記録上は判別できなくなった』

++++++++++以上、時事通信++++++++++

●贈収賄

 金を送ったほうは、「送りました」と、すでに認めている。
それを「もらってない」とか、「知らない」とか、さらに「会ったこともない」と。
時事通信の記事を読めば読むほど、あきれる。

 小細工に小細工を重ね、実の巧妙に、資金隠しをした。
しかも汚い仕事の現場には、自分は顔を出さず、後々の保身のために、秘書を利用した。
で、最終的に、小沢一郎は、時価4億円という自分の個人名義の土地を、手に入れた!

 それを「検察側の政権つぶし」とは!?
この隷属意識。
畜生根性!
こんなレベルの政治家たちが、日本の政治を牛耳っている。
少しは自分の恥じたらよい。

 で、沢一郎の「続投」をいちばん喜んでいるのが、自民党。
そのため自民党は、音無(おとなし)の構え。
小沢一郎が続投すればするほど、民主党は、そのまま自滅。
自民党もそうだったが、民主党にも、これほどまでに自浄能力がなかったとは!

 それもこれも、結局は、日本人の政治意識の問題ということになる。
その政治意識は、江戸時代の封建意識のまま。
それを変えないかぎり、こうした茶番劇は、いつまでもつづく。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

*Magazine Jan 27th 2010

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 27日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【常識の壁】

●思考のパターン化(思考回路の形成)

+++++++++++++++++++++++

同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。

たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。

もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。

私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。
「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。

だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。

++++++++++++++++++++

●思考回路

 ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。 
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記
憶」とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)

 たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと
打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。

同じような現象が、「思考」についても、起きる。

 たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多
分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
(多分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。

 人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。

●常識(?)

 それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがって
いく。

 アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というような
ことを書き残している。
「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実
である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのま
ま、その人のものの考え方の基本となる。

 たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だ
ろが!」「何と言っても、親は親だからな!」とか言う。
そういう言葉をよく使う。
何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができ
る。
Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍してい
た。

●思考回路への挑戦

 私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。

 この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだと
いうことを書きたかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。
許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「お
めでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕
事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。

彼は「ブタ」という言葉を使った。あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識
そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オー
ストラリア国内で、と考えていたようだ。

また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊
に入るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本
五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、
マルコス政権下。軍人になることイコール、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティ
と呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運
転手つきの車があてがわれた。

またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間
では英雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各
国の植民地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそ
んなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあ
るごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言ってい
た。ほかに自慢するものがなかった。

が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえ
ば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じて
いた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い
知らされた。時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いて
いた)に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化
するのを、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだ
った。

たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るな
ど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。

一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく
変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。
そのときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いてい
ると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も
最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。

しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(い
たみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについ
てからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。

それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人
が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車
率が、130~150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。
そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっ
ているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代
名詞にもなっている格言である。

その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。
が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高
度成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられる
ような人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。

しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。
やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になって
いる。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるよう
なことは、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろは
もっと後悔しているかもしれない。

そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をや
めるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

【補記2】

 やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救わ
れました。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがと
う。

 そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話です
が……。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。
ごめん!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 話は前後するが、私はこんな経験もした。
私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレード市の近くにある友人の牧場へ行って、そこで
いつも一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場
で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、
おびただしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹い
るかいないかという程度。しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊ん
でいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。

あのパイドパイパーの物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いている
が、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そ
んなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。農薬は羊の
健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い
保障制度が発達している。

そこで私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。まずドラム缶の中に水を
入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いておく。こうすると両側か
ら無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ち
た。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ
絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人
に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かっ
たかのどちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、
即座には信じられなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。ネズミ
には、どれも個性があった。

そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはお
ろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがし
たが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テーマの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、
戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテーマだった。が、たまたまその研
究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学で
は説明できなかった。

そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズ
ミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。わかりやすく
言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクローン技術で生まれた二頭の牛が、壁
で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」
があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身の
ことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくち
がった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方
角に歩いてみる。私は、あえて、それになってやろう」と。

日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考回路 

 何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、も
のごとをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。

 しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちは
だかることがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。
その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。
ときにはそれがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。

 そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、
つまりそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。

 ……というような経験は、日常生活の中でもよくする。

 そこで2つのことを提案したい。

(1)常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこ
と。
(2)常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。

 つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界
を求めて、集まる傾向がある。
暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。

 私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会がある
というわけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚
れていることを知ったりする。

 ……ということで、思考回路について、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦)



【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●新しい日本の流れ(再考版)


++++++++++++++++++


古い原稿を、読み直している。
日付は、2007年となっているが、
実際には、もっと古いと思う。
記事の内容からして、2000~2001年
ごろ書いたものではないかと思う。


こうして古い原稿を読みなおしてみると、
古い原稿そのものが、私の一部になっているのが
わかる。


私は(過去)の上に立っている。
と、同時に、2つのことに気づく。


ひとつは、「その通りだ」と思う部分。
もうひとつは、「少し、おかしいぞ?」と
思う部分。
この10年の間に、世間の事情も大きく
変化した。
私自身も、変化した。


が、基本的には、私は(過去)の上に
立っている。


つっこみの甘いエッセーだが、「10年前に
は、こんなことを考えていたのか」と
思いながら、読んだ。
現状に合わない意見もあるが、それはそれとして
許してほしい。


が、その一方で、今、教育の世界が、私が予想
した通りに動きつつあるのを知るのは、
楽しい。


たとえば「学力」の見直しも進んでいる(09年)。
入試制度も、この10年のうちに、大きく
変わりつつある。


そんなことも考えながら、以下の原稿を読んで
いただければ、うれしい。


+++++++++++++++++

 
 日本の教育は、今、知識偏重の詰めこみ教育から、議論をしながら考える教育へと、そ
の転換期にある。
多くの学校で、今まで私たちが知らなかった試みが、なされている。


 今までは、知識詰め込み式の教育でよかったが、これからは、もう、そういう教育は、
通用しない。それはもう、だれの目にも、明らかである。
(しかしその亡霊は、社会や化学など、いたるところに残ってはいるが……。)


 と書いても、私に、何か、具体的な方法論があるわけではない。私は、こういうとき、
つまり、自分がどこか袋小路に入ったのを感じたようなときは、ネットサーフィンをしな
がら、あちこちで世界の賢者たちの言葉を読むことにしている。


 世界の賢者たちの言葉を、あちこちから拾って、訳をつけてみた。


+++++++++++++


★The important thing is not to stop questioning. ー Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることだ」(A・アインシュタイン)


★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave
only life, those the art of living well. ー Aristotle
「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。なぜなら、両親は、命を与える
だけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるから」(アリストテレス)


★They were majoring in two subjects: physics and philosophy. Their choice amazed
everybody but me: modern thinkers considered it unnecessary to perceive reality, and
modern physicists considered it unnecessary to think. I knew better; what amazed me
was that these children knew it, too. ー Ayn Rand
「彼らは、物理学と哲学のふたつを専攻していた。その選択は、私をのぞいて、みなを驚
かせた。しかし近代の思想家は、現実を認知することを、不必要と考えた。そして近代の
物理学者は、思索することを、不必要と考えた。しかし私は、私を驚かせたことは、これ
らの子どもたちも、それを知っていたということを、よりよく知っていた」(A・ランド)


★"Most of all, perhaps, we need an intimate knowledge of the past. Not that the past
has anything magical about it, but we cannot study the future." ー C.S. Lewis
「私たちのほとんどは、たぶん、過去をよくしる必要がある。それは、過去が何か神秘的
であるからということではなく、過去を知らなければ未来を学ぶことができないからであ
る」(C・S・ルイス)


★Frederick Douglass taught that literacy is the path from slavery to freedom. There
are many kinds of slavery and many kinds of freedom. But reading is still the path. ー
Carl Sagan
「フレドリック・ダグラスは、読み書きの能力は、奴隷を解放する道だと教えた。いろい
ろな種類の奴隷制度があり、いろいろな種類の自由があるが、読書は、まさにその道であ
る」(C・サガン)


★I hear and I forget. I see and I remember. I do and I understand. ー Confucius
「私は聞いて、そして忘れる。私は見て、そして覚える。私は行動して、そして理解する」
(孔子)


★The true genius shudders at incompleteness ー and usually prefers silence to saying
something which is not everything it should be. ー Edgar Allen Poe
「真の天才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを
語るよりも、沈黙をふつう、好む」(E・A・ポー)


★To know what to leave out and what to put in; just where and just how, ah, THAT is to
have been educated in the knowledge of simplicity. ー Frank Lloyd Wright
「どこにどのように、何を捨て、何を取り入れるか……つまりそれが、単純な知識として、
教育されるべきことである」(F・L・ライト)


★You cannot teach a man anything; you can only help him find it within himself. ー
Galileo Galilei
「あなたは人に教えることなどできない。あなたはただ、人が彼の中にそれを見つけるの
を、助けることができるだけである」(G・ガリレイ)


★What office is there which involves more responsibility, which requires more
qualifications, and which ought, therefore, to be more honourable, than that of
teaching? ー Harriet Martineau
「教育の仕事以上に、責任があり、資格を必要とし、それゆえに、名誉ある仕事が、ほか
のどこにあるだろうか」(H・Martineau)


★A child's wisdom is also wisdom ー Jewish Proverb
「子どもの智慧も、これまた智慧である」(ユダヤの格言)


★The teacher, if indeed wise, does not bid you to enter the house of their wisdom, but
leads you to the threshold of your own mind. ー Kahlil Gibran
「本当に賢い教師というのは、あなたを決して彼らの智慧の家に入れとは命令しないもの。
しかし本当に賢い教師というのは、彼ら自身の心の入り口にあなたを導く」(K・ギブラン)


★We have to continually be jumping off cliffs and developing our wings on the way
down. ー Kurt Vonnegut
「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼を開発
する」(K・Vonnegut)


★Just as iron rusts from disuse, even so does inaction spoil the intellect. ー Leonardo Da
Vinci
「鉄がさびて使い物にならなくなるように、何もしなければ、才能をつぶす」(L・ダビン
チ)


★Truth is eternal. Knowledge is changeable. It is disastrous to confuse them. ー Madeleine L'Engle
「真実は永遠である。知識は、変化しうるもの。それらを混同するのは、たいへん危険な
ことである」(M・L'Engle)


★Never let school interfere with your education. ー Mark Twain
「学校を、決して、あなたの教育に介在させてはならない」(M・トウェイン)


★Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that
nothing that is worth knowing can be taught. ー Oscar Wilde
「教育は、賞賛されるべきものだが、しかしときには、価値ある知識は教えられないとい
うことも、よく覚えておくべきである」(O・ワイルド)


★You must train the children to their studies in a playful manner, and without any air
of constraint, with the further object of discerning more readily the natural bent of their
respective characters. ー Plato「あなたは子どもを、遊びを中心とした方法で指導しなけれ
ばならない。強制的な雰囲気ではなく、彼らの好ましい性格の自然な適正を、さらに認め
る目的をもって、そうしなければならない」(プラト)


★In every man there is something wherein I may learn of him, and in that I am his
pupil. ー Ralph Waldo Emerson
「どんな人にも、彼らの中に、私が学ぶべき何かがある。そういう点では、私は生徒であ
る」(R・W・エマーソン)


★We, as we read, must become Greeks, Romans, Turks, priest and king, martyr and
executioner, that is, must fasten these images to some reality in our secret experience,
or we shall see nothing, learn nothing, keep nothing. ー Ralph Waldo Emerson
「読書することによって、私たちは、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、王
にも、殉教者にも、死刑執行人にも、なることができる。つまり読書によって、こうした
人たちのイメージを、私たちの密かな経験として、現実味をもたせることができる。読書
をしなけば、何も見ることはないだろうし、何も学ぶことはないだろうし、何も保持する
ことはないだろう」(R・W・エマーソン)


★Education is a sexual disease, IT makes you unsuitable for a lot of jobs and then you
have the urge to pass it on. ー Terry Pratchett
「教育は、性病だ。つまり教育によって、ジョークがわからなくなり、そのためそれをつ
ぎつぎと、人にうつしてしまう」(T・プラシェ)


★I am always doing what I cannot do yet, in order to learn how to do it ー Vincent Van
Gogh
「私はいつも、まだ私ができないことをする。それをいかにすべきかを学ぶために」(V・
V・ゴッフォ)



【考察】


●これらの教育格言の中で、とくにハッと思ったのが、エドガー・アラン・ポーの「真の天
才は、未完成さに、身震いする。つまり真の天才は、それがすべてでない何かを語るより
も、沈黙をふつう、好む」という言葉である。


 わかりやすく言えば、「ものごとを知り尽くした天才は、自分の未熟さや、未完成さを熟
知している。だから未熟なことや、未完成なことを人に語るよりも、沈黙を守るほうを選
ぶ」と。私は天才ではないが、こうした経験は、日常的によくする。


 私のばあい、親と私の間に、どうしようもない「隔たり」を感じたときには、もう何も
言わない。たとえば先日も、こんなことを言ってきた母親がいた。


 「先祖を粗末にする親からは、立派な子どもは生まれません。教育者としても失格です」
と。


 30歳そこそこの若い母親が、こういう言葉を口にするから、恐ろしい。何をどこから
説明したらよいかと思い悩んでいると、そのうち私の脳の回路がショートしてしまった。
火花がバチバチと飛んでいるのがわかった。だから私は、「ハア~?」と言ったまま、おし
黙ってしまった。


 私自身は、先祖を否定したようなことは、一度もないのだが……。(念のため。)


●つぎに「私たちはいつも、崖(がけ)から飛び降りる。飛び降りながら、その途中で、翼
を開発する」と言った、K・Vonnegut。英語では、何と読むのだろうか。それは
ともかくも、これは私の持論でもある。以前私は、「人間の創意工夫は、絶壁に立たされて、
はじめて生まれる」と書いた。


 少し前だが、ある教育審議会のメンバーをしたこともあるF氏から、相談を受けた。「学
校教育に蔓延(まんえん)している沈滞感は、どうしたら克服できるか」と。


 それに対して私は、「教師を絶壁に立たせないと、ダメです」と。


 こう書くと学校の先生は、不愉快に思うかもしれないが、ここは怒らないで聞いてほし
い。


 学校の先生たちは、たしかに忙しい。同じ公務員でも、給料が20%増しという理由も、
そこにある。納得できる。しかしそれでも、一般世間の、つまりは民間企業に働く労働者
とは、待遇や職場環境が、基本的に違う。


 たとえば私立幼稚園にしても、今、少子化の波をもろにかぶり、どこも四苦八苦してい
る。経営のボーダーラインといわれている、200人(園児数)を割っている幼稚園は、
いくらでもある。
もっとも経営者自身は、それほど深刻ではない。すでにじゅうぶんすぎるほどの財力を蓄
えている。悲惨なのは、そこで働く保育士の先生たちである。安い給料の上、いつリスト
ラされるかと、ビクビクしている。中には、園児獲得のノルマを、先生たちに課している
幼稚園もある。(ほとんどの幼稚園が、そうではないか?)


 だから毎年、10月前後になると、先生たちは、案内書や簡単なみやげをもって、幼児
のいる家を、1軒ずつ回っている。「教える」だけではなく、生徒集めにまで、神経をつか
っている。しかも、その先は、まさに絶壁!


 こうした危機感があるから、当然のことながら、教えることについても、ある種の緊張
感が生まれる。その緊張感が、教育の質を高める。もし本当に、教育の質を高めようと思
うなら、こうした緊張感を、人為的につくるしかない。


 残念ながら、それから先の方法については、私もわからない。しかしこれだけは言える。
学校の先生たちも、勇気を出して、崖から飛び降りてみてほしい。翼、つまり創意工夫は、
飛び降りている間に生まれる。


●三つ目に、アリストテレスの、「子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。
なぜなら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与
えるから」という言葉。


この訳は正確ではないと思う。思うのは、冒頭の「Those」を、「親」と訳すべきか、
「教師」と訳すべきかで、意味がまるで変わってくる。


「親」とみると、「だれでも子どもを産めば親になるが、生きる技術を与えて、親は、真の
親となる」と解釈できる。


 一方「教師」とみると、「生きる技術を与える教師は、親よりすばらしい」と訳せる。ど
ちらが正しいかわからないという意味で、「この訳は正確ではないと思う」と書いた。


 一般論として、欧米の教育の「柱」は、ここにある。どの人に会っても、彼らは、「教育
の目標は、「子どもに生きる技術を与えること」と言う。オーストラリアの友人(M大教授)
も、かつてこう教えてくれた。


 「教育の目標は、私たちのもつ知恵や経験を、子どもたちがつぎの世代を、よりよく生
きていくことができるように、それを教え伝えることだ」と。


 つまり「実用的なのが教育」ということになっている。しかしこの日本には、むしろ実
用的であってはならないという風潮すらある。日本の教育は、将来学者になるためには、
すぐれた体系をもっている。しかし、だ。みながみな、学者になるわけではない。あるい
は将来、学者になる子どもは、いったい何%、いるというのか。


 英語にしても、数学にしても、将来、英語の文法学者や、数学者になるには、すぐれた
体系をもっている。しかしそのため、おもしろくない。役にたたない。しかしこんなこと
は、30年前に、すでにわかっていたことではないか。最近になって、やっと「役にたつ」
という言葉が聞かれるようになったが、それにしても、30年とは!


 要するに、子どもを産むだけでは、親ではないということ(失礼!)。自分の生きザマを、
子どもに示してこそ、親は、親になる。そしてそれが親の役目ということになる。



+++++++++++++++++++

【新しい教育】


 教育を考えるときは、当然のことながら、年齢別、学年別に考えなければならないこと
は、言うまでもない。


 その中でも、とくに幼児教育の重要性については、私は、たびたび書いてきた。


 それはともかくも、今度は、子ども自身がもつ、方向性にあわせた教育を考えなければ
ならない。


 将来、すぐれた研究者になるための教育もあれば、その研究を利用した分野で活躍する
人材を育てるための教育もある。どちらが正しいとか、有用とかいうのではない。どちら
かの立場で、一方的に、相手に押しつけるのは、正しくないということ。


 そこで登場するのが、「教育の多様性の問題」である。アメリカの小学校を例にあげて考
えてみよう。



●アメリカの小学校


 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、そ
の「楽しさ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。


たとえば、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイ
ザ・E・ペリット小学校。児童数370名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊
具があったりする。


 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。


まずカリキュラムだが、州政府のガイダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決め
ることができる。オクイン校長に、「ガイダンスはきびしいものですか」と聞くと、「たい
へんゆるやかなものです」と言って笑った。


もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小
学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年
中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その
分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。


驚いたのは4歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧米では、図書室での
教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、子どもの読書指
導にあたっていた。


 授業は、1クラス16名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大
学から派遣されたインターンの学生の3人であたっている。アメリカというと、とかく荒
れた学校だけが日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。
周辺の学校もいくつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導
をしていた。


 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科
書の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、そ
れは民間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的
事実については検定してはならない」(南豪州)ということになっている。


アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースク
ール、さらには学校券で運営するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、
問題になっている部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミック
なものにしている。


 ドイツでは、中学生にしても、たいていは午前中だけで授業を終え、そのまま、それぞ
れのクラブに通っている。


 運動クラブだけではない。科学クラブもあれば、それぞれの趣味に合わせたクラブもあ
る。そしてそうした費用は、「チャイルドマネー」と呼ばれている補助金によって、まかな
われている。


【後書き】


内閣府の調査でも、「教育は悪い方向に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇
〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえた。むべなるかな、である。


 もう補習をするとかしなとかいうレベルの話ではない。日本の教育改革は、三〇年は遅
れた。しかも今、改革(?)しても、その結果が出るのは、さらに二〇年後。そのころ世
界はどこまで進んでいることやら! 


日本の文部科学省は、いまだに大本営発表よろしく、「日本の教育レベルはそれほど低くは
ない」(※1)と言っているが、そういう話は鵜呑みにしないほうがよい。今では分数の足
し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。


「小学生レベルの問題で、正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京都大学西
村和雄氏)(※2)だそうだ。


 あるいはこんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL
(国際英語検定試験)で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジア
で日本より成績が悪い国は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(週刊新潮)
だそうだ。


オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しか
し日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大でも、たったの二人。ちなみにアメリ
カだけでも、二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い(田丸謙二氏
指摘)。


 「構造改革(官僚主導型の政治手法からの脱却)」という言葉がよく聞かれる。しかし今、
この日本でもっとも構造改革が遅れ、もっとも構造改革が求められているのが、文部行政
である。私はその改革について、つぎのように提案する。


(1)中学校、高校では、無学年制の単位履修制度にする。(アメリカ)
(2)中学校、高校では、授業は原則として午前中で終了する。(ドイツ、イタリアなど)
(3)有料だが、低価格の、各種無数のクラブをたちあげる。(ドイツ、カナダ)
(4)クラブ費用の補助。(ドイツ……チャイルドマネー、アメリカ……バウチャ券)
(5)大学入学後の学部変更、学科変更、転籍を自由化する。(欧米各国)
(6)教科書の検定制度の廃止。(各国共通)
(7)官僚主導型の教育体制を是正し、権限を大幅に市町村レベルに委譲する。
(8)学校法人の設立を、許認可制度から、届け出制度にし、自由化をはかる。


 が、何よりも先決させるべき重大な課題は、日本の社会のすみずみにまではびこる、不
公平である。


この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受け、そうでない人は、まったくといってよ
いほど、受けない。わかりやすく言えば、官僚社会の是正。官僚社会そのものが、不公平
社会の温床になっている。この問題を放置すれば、これらの改革は、すべて水泡に帰す。
今の状態で教育を自由化すれば、一部の受験産業だけがその恩恵をこうむり、またぞろ復
活することになる。


 ざっと思いついたまま書いたので、細部では議論もあるかと思うが、ここまでしてはじ
めて「改革」と言うにふさわしい。



(※1)
 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・99年)の調査によると、日本の中
学生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港についで、第五位。以
下、オーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続くそうだ。理科については、
台湾、シンガポールに次いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメ
リカ、マレーシア、と。


この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育
は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持していると言える」(中日新聞)とコメント
を寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、「今の改革でだいじょうぶというメッ
セージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対照的である。


ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学生が最低(四八%)。「理科が好き」
と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外で勉
強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレ
ビやビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。


で、実際にはどうなのか。東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公
表している。教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だ
そうだ。


この二〇年間(一九八二年から二〇〇〇年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、小
学六年生で、八〇・八%から、六一・七%に低下。分数の割り算は、九〇・七%から六六・
五%に低下。小数の掛け算は、七七・二%から七〇・二%に低下。たしざんと掛け算の混
合計算は、三八・三%から三二・八%に低下。全体として、六八・九%から五七・五%に
低下している(同じ問題で調査)、と。


 いろいろ弁解がましい意見や、文部科学省を擁護した意見、あるいは文部科学省を批判
した意見などが交錯しているが、日本の子どもたちの学力が低下していることは、もう疑
いようがない。


同じ澤田教授の調査だが、小学六年生についてみると、「算数が嫌い」と答えた子どもが、
二〇〇〇年度に三〇%を超えた(一九七七年は一三%前後)。反対に「算数が好き」と答え
た子どもは、年々低下し、二〇〇〇年度には三五%弱しかいない。原因はいろいろあるの
だろうが、「日本の教育がこのままでいい」とは、だれも考えていない。


少なくとも、「(日本の教育が)国際的にみてトップクラスを維持していると言える」とい
うのは、もはや幻想でしかない。


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(※2)
 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであった
という。


調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを
研究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点
で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学
部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●The important thing is not to stop questioning. ー Albert Einstein
「重要なことは、問いつづけることをやめないことだ」(A・アインシュタイン)


 「考える教育」が、重要なことは言うまでもない。しかし「考える」という概念ほど、
これまた抽象的で、わかりにくい概念もない。


 そこでアインシュタインの言葉。


The important thing is not to stop questioning. 


 アインシュタインは、こう言っている。「重要なことは、問うことをやめないことである」
と。


 つまり子どもに向かって、「考えなさい」と言っても、あまり意味はない。しかし子ども
が何かのことで問うことにたいして、その問うことを、励まし、伸ばすことはできる。「ほ
ほう、それはおもしろい質問だね」「なかなか鋭いね」と。

 たったそれだけのことで、子どもを、より深く、考える子どもに誘導することができる。
つまり「より考える子どもにしたい」と考えたら、「より質問を繰りかえす子どもにするこ
と」を考えればよい。


 むずかしいことではない。


 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、「なぜ?」「どうして?」を繰りかえす時
期にさしかかる。乳幼児の思考的特徴(自己中心性、物活論、人工論など)からの脱却を、
はかる。そしてその結果として、子どもは、より分析的なものの考え方や、より論理的な
ものの考え方をすることができるようになる。


 この時期というのは、乳幼児から、少年、少女期への移行期にもあたる。


 この時期をうまくとらえれば、その「問う」という行為を、じょうずに引き出すことが
できる。が、そうでなければ、そうでない。


 私としては、その重要性というか、幼児教育の重要性が理解してもらえなくて、歯がゆ
くてならない。はっきり言えば、そのあとの、小中高、それに大学教育など、そのころで
きた方向性の、燃えカスのようなもの。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、
しかし、一度、この時期にできた方向性が、その子どもの将来を、決定づける。またこの
時期にできた方向性は、一度できると、それ以後、なかなか変えることはできない。


 昨今、小学校教育の場でも、「より考える深く子ども」が、大きなテーマになっている。
「総合的な学習」というのも、そういう視点から、取り入れられたものである。それはそ
れとして評価されなければならないが、もっと大切なことは、その(方向性づくり)であ
る。


 そのために、(問う)という姿勢を伸ばす。テーマは何でもよい。どんなささいなことで
もよい。


 日本では、「わかったか? では、つぎ」が、教育の基本になっている。しかしアメリカ
では、「君は、どう思う?」「それはすばらしい」が基本になっている(T先生、指摘)。そ
ういう部分から、つまりもっとベーシックな部分から、教育というより、子育てのあり方
そのものを考えなおす。


 それが結局は、日本の教育を変えていく、原動力になる。



【付録】


●ついでに、A・アインシュタインの語録を、集めてみた。(イギリス「Quote Ca
che」より)


It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.
(私は頭がきれるのではない。私はただ、その問題に、より長くかかわっているだけだ。)


The physicist's greatest tool is his wastebasket.
(物理学者のもっともすばらしい道具は、ごみ箱である。)


There are only two ways to live your life. One is as though nothing is a miracle. The
other is as though everything is a miracle.
(人生を生きるためには、たった二つの方法しかない。一つは、奇跡など、どこにもない
と思う生き方。もう一つは、すべては奇跡だと思う生き方。)


It was, of course, a lie what you read about my religious convictions, a lie which is being
systematically repeated. I do not believe in a personal God and I have never denied this
but have expressed it clearly. If something is in me which can be called religious then it
is the unbounded admiration for the structure of the world so far as our science can
reveal it.
(私の宗教的な確信について、あなたが読んだことは、ウソである。つまり、意図的に繰
り返されてきたウソである。私は、個人的な神の存在を信じていないし、このことを否定
したことは一度もない。それについては、ここではっきりしておきたい。もし私の中に、
宗教的なものがあるとするなら、それは、科学が明らかにした部分について、世界の構造
について、無限の崇拝の念でしかない。


We should take care not to make the intellect our god. It has, of course, powerful
muscles, but no personality.
知性的な人を神にしないよう、注意しなければいけない。もちろん知性的な人には、筋肉
はあるが、人間性はない。


Fantasie ist wichtiger als Wissen.


If my theory of relativity is proven succesful, Germany will claim me as German and
France will declare that I am a citizen of the world. If my theory should prove to be
untrue, then France will say that I am a German, and Germany will say that I am a
Jew.
もし私の相対性理論が正しいと証明されるなら、ドイツ人とフランス人たちは、私が世界
市民であると宣言することについて、文句を言うだろう。もし私の理論がまちがっている
と証明されるなら、フランスは私をドイツ人と呼び、ドイツは、私をユダヤ人と呼ぶだろ
う。


Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of
geniusー
•and a lot of courageーーto move in the opposite direction.
バカが、ものごとを、誇大し、複雑にし、暴力的にする。その反対方向にものごとを進め
るためには、転載的なひらめきと、勇気が必要である。


Great spirits have always encountered violent opposition from mediocre minds.
偉大な精神というのは、いつも二流の精神からの猛烈な抵抗に出会うもの。


The human mind is not capable of grasping the Universe. We are like a little child
entereing a huge library. The walls are covered to the ceilings with books in many
different tongues. The child knows that someone must have written these books. It does
not know who or how. It does not understand the languages in which they are written.
But the child notes a definite plan in the arrangement of booksーーa mysterious order
which it does not comprehend, but only dimly suspects.
人間というのは、宇宙の構造を把握することはできない。それは小さな子どもが、巨大な
図書館に入ったようなもの。壁には、床から天井まで、異なった言語で書かれた本でおお
われている。子どもは、だれかがこれらの本を書いたことはわかる。しかしだれが、どう
やって書いたかまでは、わからない。それらが書かれた言語も理解できない。しかし子ど
もは、本の並び方の中に、一定の秩序があることに気がつく。つまり、神秘的な秩序だ。
はっきりとわかるわけではないが、おぼろげながら、疑うことはできる。


The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないことだ。


Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts.
ほとんどの人は、自分の心で見て、聞くことができない。


The pioneers of a warless world are the youth that refuse military service.
戦争のない世界をつくるパイオニアたちは、軍務を拒否する若者たちだ。


Reality is merely an illusion, albeit a very persistant one
現実は、ただの幻想でしかない。が、研究は、とても忍耐を必要とするものだ。


It is not enough for a handful of experts to attempt the solution of a problem, to solve it
and then to apply it. The restriction of knowledge to an elite group destroys the spirit of
society and leads to its intellectual impoverishment.
一つの問題を解決し、それを応用するためには、一握りのエキスパートだけでは、じゅう
ぶんではない。一つのエリート集団に、知識を制限することは、社会の精神を破壊し、社
会を、知的な貧困へと導くことになる。


A country cannot simultaneously prepare and prevent war.
一つの国というのは、戦争を同時に、準備し、避けることはできない。


I am enough of an artist to draw freely upon my imagination. Imagination is more
important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world.
私はイマジネーションによって、自由に絵を描く画家と言ってもよい。イマジネーション
は、知識よりも重要である。知識には、限界がある。イマジネーションは、世界をかけ回
る。


True art is characterized by an irresistible urge in the creative artist.
真の芸術は、想像的な芸術家による、抵抗しがたい欲求によって、特徴づけられるもので
ある。


The most beautiful thing we can experience is the mysterious. It is the source of all true
art and science.
私たちが経験できるもっとも美しいものは、神秘である。それはすべての芸術と化学の源
泉である。


I do not believe in the immortality of the individual, and I consider ethics to be an
exclusively human concern without any superhuman authority behind it.
私は人間の不死を信じない。そして私は、その背後に超人的な権威のない、倫理こそが、
人間唯一の関心ごとであると考える。


Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I'm not sure about
the former.
たった二つのものだけが、永遠である。この宇宙と、人間の愚かさである。そして私は、
その前者である宇宙については、あまりよく知らない。


Life is a mystery, not a problem to be solved
人生(生命)は、神秘である。それは解かれねばならない問題ではない。


Nothing will benefit human health and increase the chances for survival of life on Earth
as much as the evolution to a vegetarian diet.
菜食主義ほど、人間の健康に恩恵をもたらし、命の存続をふやすものはない。


Creativity is contagious. Pass it on.
創造力は、伝染しやすい。ままにさせておけ。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●Sさんの死


 いろいろ世話になった、土建業者のSさん(男性)が、おととい亡くなった。
ここ数年、人工透析を受けていたというから、そのつど心配はしていたが、まさかこんな
に早く亡くなるとは思っていなかった。
年齢は確かではないが、いつだったか、私より、5~6歳若いということを知った。
それによれば、享年、52~3歳ということになる。


 暴飲暴食、それにヘビースモーカー。
最後に世話になったとき、Sさんは、緑内障か何かで、左目が見えなかったのではないか。
小路から大通りに右折して出るとき、左側から来た車と、あやうく衝突にしそうになった
ことがある。
以来、あれこれ理由をこじつけ、Sさんの運転する車には、乗らないようにしていた。
が、亡くなってみると、それもよい思い出。


私の代わりに、息子に、今日は葬儀に行ってもらった。


●アルツハイマー病の、初期の初期症状


 アルツハイマー病の初期の、そのまた初期症状があるという話は、よく聞く。
医学書にも、そういう症状が載っている。
そのひとつが、心の余裕がなくなってくること。


 ふつうなら笑ってすますようなころでも、このタイプの人にはそれができない。
こんなことがあった。


 ワイフがXさん(当時64歳、女性)に、何かのことで、3桁の番号を話したときのこ
と。
ワイフは、「347」と言った。
そのときXさんは、「347……ね」と言いながら、自分の手帳にメモを取った。
が、ワイフが見ると、それに、「473……」と書こうとしていた。
そこでワイフが、Xさんに、「473ではないですよ。347……」と言いかけたところで、
Xさんは、激怒。
血相を変えて、こう怒鳴ったという。


「わかっています。今、3と書こうとしていたところです!」と。


 アルツハイマー病の初期の人が、取り繕(つくろ)いや、つじつま合わせがうまくなる
というのは、よく知られている。
しかしその前の段階として、怒りっぽくなるということは、あまり知られていない。
怒りっぽくなるというよりは、心の余裕がなくなり、ささいなミスを指摘されただけで、
おおげさに激怒したりする。


 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は適切ではないかもしれないが)、笑ってすます。
「ハハハ、3でしたね。ハハハ」と。


 この「ハハハ」と笑ってすます部分が少なくなってくる。
言い換えると、心の余裕をもつということによって、認知症になるのを防げるのではない
か。
たとえばジョーク。
ジョークの通ずる人は、それだけ心が広い人ということになる。
同時に、少なくとも、アルツハイマー病の心配はない人ということになる。


 今日、車の中で、ワイフとそんな会話をした。


●気候


 冬になるたびに、こう思う。
「浜松に住むようになって、よかった」と。


 浜松、とくに浜名湖周辺は、日本でも鹿児島県につぐ、気候の温暖な地域として知られ
ている。
真冬でも、緑の木々が美しい。
種類も豊富。


 が、その一方で、地球温暖化(Global Warming)が、問題になっている。
この浜松も、温暖な気候が、ますます温暖化している。
ときどき喜んでいていいのかなあと、迷う。


 しかしここは楽天的にとらえるしかない。
心配しても、しかたない。
暖かい冬、おおいに結構、と。
(無責任な発言で、ごめん!)。


 そんなこともあって、今日、ワイフと西区引佐町にある、城山公園に登ってみた。
12月16日。
今ごろ、この浜松では、紅葉が、もっとも美しくなる。
全国的にみれば、もっとも遅い秋。
マガジンに載せる写真を、30枚近く撮った。


●どこかのバカ


 どこかのバカ知事が、こう言ったそうだ。
「(現在の)福祉制度は、障害者を生き延びさせるだけだ」と。


 こういうバカがいるから、日本はよくならない。
またこういうバカを選ぶ選挙民がいるから、日本はよくならない。
この発言を裏から読むと、「障害者は、早く死ね」という意味になる。
小学生だって、わかる。
小学生だって、こんなバカなことは言わない。


 が、当の知事は、「辞任しない」と、がんばっているという。


●天皇の政治利用


 一方、中央では、天皇の政治利用が問題になっている。
民主党のOZ氏の要請で、天皇が急きょ、中国の副首相と会うことになった。
それについて、宮内庁の長官が、苦言を呈した。
これにOZ氏が反発。
右翼も、反対の立場で、反発。
自民党も反発。
何だか、三つ巴(どもえ)、四つ巴の混乱を呈してきた。


 しかし肝心の天皇の意思が見えてこない。
つまりこのあたりに、日本の天皇制度の最大の問題が隠されている。


 私たちは一度だって、天皇の意思を確かめたことがない。
本当の気持ちを聞いたことがない。
「天皇という、日本国にあって最高の要職を務めていただけますか?」と。
そういうことを一度もしないでおいて、「天皇は幸福なはずだ」と決めつけてかかるのも、
どうか?


 「政治的利用」とは言うが、天皇だって1人の人間。
いろいろな思いもあるだろう。
意見もあるだろう。
政治的な意見も、当然、それに含まれる。


 言論の自由とはいうが、天皇には、言論の自由すらない。
それがいかに窮屈なものであるかは、私にはわかる。
わかるから、もし私なら、「天皇か、それとも自由か」と問われれば、迷わず、「自由」を
選ぶ。
そのことは、以前、『世にも不思議な留学記』の中でも書いた。


 会いたければ会えばよい。
会いたくなければ、会わなくてもよい。
「1時間くらいなら、何とか……」ということになるかもしれない。
「このところ、体の調子がよくありませんから……」ということになるかもしれない。
天皇がどういう判断をしても、私たちは天皇を支持する。

 それが民主主義の精神ではないのか。


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『世にも不思議な留学記』より


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王子、皇太子の中で【27】


●VIPとして


 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼
らは、勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆ
るハクづけ。


 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海
外へ旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書い
てあった。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。


 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の
人間にしようとしていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のよう
なもの。一〇年先、二〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。


 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案
内してくれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるもの
も見た。生まれてはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理
も食べた。


●帝王学の違い?


 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳さ
れている。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。
少なくとも「おそれ多い」という見方はしない。


 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子
を前にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたま
ま、視線すら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもあ
る(失礼!)。


 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君
がそう言っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひ
とつは、オーストラリア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。ア
ラブ系は概して後者、と。


 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによる
ものではないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、
ハウスの外ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国の
M君は、必ずスリーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。
(あとでその国の護衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)


●王族たちの苦しみ


 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という
意識。この二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。


 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」
と。だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツ
ンとした緊張感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問
もないわけではない。ただこういうことは言える。


 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」
という問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズとい
う「ハズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめるこ
ともある。


 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともでき
ない。一瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわ
りの人も、決して本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思
うようになった。


 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人
の人間がもつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値
がある。「王子か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●『THE FOURTH KIND』(映画)

+++++++++++++++++++

今日は北区の劇場まで行って、『フォース・カインド』という
映画を観てきた。
久々のUFO映画。
「信ずるか信じないかは、あなた次第」という映画。
だから・・・というわけでもないが、映画は訳のわからないまま始まり、
訳がわからないまま終わってしまった。
「何とも中途半端な映画」というのが、私の感想。
星は2つか3つの、★★。

UFOファン(?)には、星4つかな。

+++++++++++++++++++

●シュメール文明

 「シュメール」については、若いころから興味があった。
東洋医学の本を書いているころからだった。
そのいきさつについては、『目で見る漢方診断』(飛鳥新社・はやし浩司著)にも書いた。
映画『フォース・カインド』の中で、そのシュメールの古代シュメール語(?)が出てく
る。
シュメール語自体は楔形文字だが、ロゼッタ石の発見で、発音とか意味が、解読されてい
る。
シュメール文明というのは、不思議な文明で、周囲の文明とはかけ離れて高度な文明を築
いていた。
一説によれば、乾電池やメッキ技術ももっていたという。
中国の黄河文明が生まれるのと同時期、紀元前3500年ごろ。
今から5500年前のことである。
そのころ、伝説どおりとするなら、東洋医学のバイブルとも言われる『黄帝内経(こうて
いだいけい)素問(そもん)』が、生まれた。
「黄帝」というのは、司馬遷の『史記』の大1頁目を飾る帝王である。

●シュメール語?

 『フォース・カイド』の中に出てくる宇宙人(?)は、そのシュメール語を話す。

古代メソポタミア文明を築いたという、あのシュメール人のシュメール語。
もう少し補足すると。紀元前3500年ごろ、今から5500年前ごろに栄えた文明であ
る。
テープレコーダーの中に、それがたまたま録音されていた。
しかしここが、おかしい。
シュメール語は、かなりの部分まで、発音、意味が解読されている。
たとえば「神」は、「dingir」と発音する。
「ディンギル」と発音する。

(詳しくは、はやし浩司著『漢方のロマン』へ。
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page055.html)

しかし実際の発音は、それに近いというだけで、5500年も経た現在、正しく発音でき
る人はいない。
また正しい発音を聞いたとき、発音だけで、それがシュメール語とわかる人はいない。

 たとえば私も学生時代、アメリカ人が、「golf」と言ったのを、聞き取れなかった。
「グォールフ」と発音したからだ。
つまりいくら「ゴルフ」と口で発音していても、実際の英語の発音は、まったくちがう。
日本語で「ゴルフ」と言うのと、英語で「golf」と言うのとは、まったくちがう。
反対に、アメリカ人に、日本語で「ゴルフ」と言ってみたらよい。
彼らは、ぜったいに、それがわからない。

 だから……。
宇宙人らしき生物が、シュメール語(映画の中では、「古代シュメール語」と言っていた)
を話したというのは、ウソと考えてよい。

●宇宙人「グレイ」

 ただ「フクロウ」というのは、気になる。
被害者たち(?)は、みな、一様に、「窓の外にフクロウを見た」と証言している。
小型のグレイ型宇宙人なら、目も大きく、見方によっては、フクロウに見えるかもしれな
い。
「グレイ」というのは、アーモンド型の大きな目をした、灰色(グレイ)の宇宙人である。
そのグレイ型宇宙人が、窓の外から見ていた……。

 ただこの事件、つまりアラスカのノームで起きた一連の事件については、UFO研究家
の間で、以前から議論されている。
否定的な意見としては、あの地方には大酒飲みが多く、酒による幻覚を見たのではないか
というのがある。
そのあたりのことは、あちこちのサイトに書いてあるので、興味のある人は、そちらを読
んだらよい。
私はその映画を見ながら、映画『ロズウェル』を思い浮かべていた。
実によくできた映画で、最初に観たときには、実録なのか、映画なのか、観終わったあと
でも判断できなかった。
結果的に、映画だったということはわかったが……。

 それと比べると、今度の『フォース・カインド』は、さらに本物ぽい?
宇宙人による(?)拉致の仕方も、あちこちで報告されている方法と同じ。
退行催眠によって、その「時」になると、被験者がパニック状態になる話も、よく聞く。
となると、またここで疑問。

 どうして宇宙人は、麻酔薬を使わないのか?
人間が野生動物をつかまえるときは、麻酔銃などを使ったりする。
映画のとおりだとするなら、宇宙人は強烈な恐怖心を与えながら、人間を拉致しているこ
とになる。
私なら、人間を眠らせた状態で、何かの手を加える。
それが何であれ、それくらいの思いやりはある。
が、宇宙人には、それがない(?)。

 よく言われるが、グレイというのは、爬虫類を遺伝子操作によって、ロボットに仕立て
た生物と言われている。
つまり感情がない。
冷酷。
残忍。
だからそういうことが、平気でできる(?)。

 ワイフは、久々にUFO映画を観ることができたと喜んでいた。


Hiroshi Hayashi+++++林 浩司+++++はやし浩司

●映画『アバター(AVATAR・3D)』

++++++++++++++++++

昨夜、仕事の帰りに、『アバター』を観てきた。
文句なしの、星は5つ。
★★★★★+。
今年観た映画の中で、最高の映画。

++++++++++++++++++

●ジェームズ・キャメロン

 観終わってからわかった。
あの映画の中には、強烈な反戦メッセージが隠されている。
ジェームズ・キャメロンのメッセージである。

利権を確保するために、強力な機械軍団を送り込む、地球軍。
それと戦う、原住民。
その原住民の中に、遺伝子操作でできた、アバター数体が送り込まれる。
言うなれば、スパイ。
工作活動部員。
物語は、ここから始まる……。

 あとは映画を観てからのお楽しみ。
また観るなら、劇場の3D画面で観たほうがよい。
迫力がちがう。
(我が家にも、42インチのフルHDテレビはあるが……。)

 何というか、その映画を観て、2つのことを感じた。
「とうとう映画も、ここまで来たか!」という驚き。
もうひとつは、「これでまた日本映画は、さらに後れた!」という悔しさ。
マラソンにたとえるなら、ダントツのトップを走るアメリカ映画。
この映画で、アメリカはさらに数百メートル、先にぬき出た。
そのトップをはるか前方に見ながら、あえぎながら走る2番集団。
そのあとにつづく3番集団。
その3番集団から日本映画は、さらに後れて、4番集団に入った。

 「まあ、すごい!」の一言。
どうすごいかは、『アバター』を観ればわかる。
娯楽映画のもつすべてを盛り込んだような超大作。
3時間という上映時間は、あっという間に過ぎた。
 

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