【読者の方より、相談】(掲示板より)
●子どもの排便障害
先生、初めまして。
ネットでHPを拝見し、ぜひ聞いていただきたくメールいたしました。
5歳(年長)の息子は1歳6ヶ月頃便秘になり、浣腸をして以来、便が出にくくなりました。
それ以来、誰も本気で話を聞いてくれず、なんとか緩下剤を飲んで一週間に1、2回無理やり出す、という感じです。
しかし、便意があると我慢し、もらしてしまうのです。
ひどい時は一日4枚も汚し、それが3日ぐらい続きます。
幼稚園も忙しく、1歳の娘もおり洗濯の手間や余裕がないのです。
一体、いつまでこんなことが続くかと思うと、我慢しても感情的になってしないます。
息子はオムツがはずれるのが遅く、(娘を妊娠中に悪阻で辛くてトイレットトレーニングがうまくいかなかったのです)、幼稚園年中でやっとおむらしが減っていった感じです。
実は、排便障害の他に年中まで本当に辛い日々でした。
言葉が遅いこともあるのでしょうが、とにかく幼稚園で乱暴で、たたく・かみつく・大声を出す、直りませんでした。
そのことを被害のあったお子さんに謝る私の態度も悪かったらしく、私自身もママたちから嫌われてしまい今でも2、3人の方から無視されています。
友人もおらず、夫にも受け止めてもらえず、時々うつ状態になりながら過ごしてきました。
それでも去年は、区の子ども相談でよく話を聞いてもらえたのですが、今年から担当が代わってしまい突き放された感じです。
私のこの不安定さも悪いとは思いながら、どうすることもできずにおります。
息子の乱暴さは、年長になって驚くほど無くなってきました。
あとは便がちゃんとできれば小学校もそれほど心配ではないのですが。。。
メールでは十分に経過や状況をお伝えできていないとは思いますが、先生の豊富なご経験から是非アドバイスをお願いいたします。よろしくお願い致します。
●はやし浩司より、UNKNOWN様へ
内容からすると、下の子(妹)が生まれてから、便秘以外の、もろもろの症状(幼稚園でのトラブル)が出てきたということになります。
(便秘と、幼稚園でのトラブルは、愛情飢餓という点で原因は同じですが、分けて考えてください。)
で、1歳半とえば、ちょうど年齢的に、フロイトが説く「肛門期」(2~4歳)前後ということになります。
愛情飢餓、不安、不満により、「排泄すること」に、恐怖心をもつようになったということでしょうか。
肛門期に、愛情飢餓問題が重なると、排泄することに恐怖心を抱いたり、喪失感をもつようになります。
だからがまんする。
もう少し突っ込んだ言い方をすると、こうです。
子どもは言いたいこともできない(=心の排泄ができない)、したいこともできない(=行動の排泄ができない)という状態だったということ。
わかりやすく言えば、子どもらしく親に甘えることができなかった(=心を開くことができなかった)ということです。
子どもが便秘症になったのではなく、便秘になるような家庭環境にあったということです。
(過去のことをとやかく言っても、どうしようもありませんが……。)
で、便秘についてですが、便秘も、夜尿症などと同じ、「神経症的な症状」と考え、対処します。
(ただし最近のおむつは、性能がよすぎて、排便のしつけに失敗する親も多いです。
小便をがまんしてしまう子どもは、いくらでもいます。)
基本的には、お子さんは、母親の愛情に飢え、母親との間で、全幅的な信頼関係を築くこともできず、かなり情緒が不安定になっていると考えてください。
(親は平等にかわいがっているつもりかもしれませんが……。)
たとえば「あなたはお兄ちゃんでしょ」式の突き放しをしていませんか。
もろもろの症状は、それが原因と考えてください。
今からでも遅くありませんから、もう一度、100%の愛情を注いでみてください。
100%です。
(妹さんには、かわいそうですが、妹さんは、それで納得するはずです。)
添い寝、手つなぎ、抱っこなどなど。
いとわず、すかさず、濃密にするのが、コツです。
大切なのは、全幅的な安心感を与えることです。
その安心感が、子どもの心を溶かします。
(ただし時間がかかります。
すでに5歳ということですから、半年単位の根気が必要です。)
とは言え、文面からして、すでにヤマを越えているように思います。
今までたいへんで、つらかったことと思いますが、あと一息です。
(将来的には、ケチで、ためこみ屋になるかもしれませんが……。※)
便秘そのものは、小児科のドクターに相談し、それで問題がなければ……つまり、週に2、3度という子どもも、少なくありませんので、おおげさに考えないこと。
(私が現在教えている女子中学生は、週に1度だそうです。)
浣腸はその場の効果はありますが、かえって便秘をひどくしてしまいます。
直腸の感覚を麻痺させてしまいますので……。
それで緩下剤(便秘薬)ということになったのでしょうか。
「1日、4枚も汚す」というのは、緩下剤の量が多すぎる(?)と思います。
子どもに緩下剤を与えるときは、ドクターの指示した量の4分の1前後から始め、様子をみながら量を増減するのが、コツです。
(微妙な調整が必要です。)
おとなのばあいは、腹の具合をみながら、自分で調整したり、残った便も、力を入れて無理にでも排便したりしますが、幼児には、まだそれができません。
どうしても、腸の中に、便が残ってしまいます。
それが「4枚」ということになります。
それよりも、すでになさっていると思いますが、野菜中心の献立にし、食生活の方から攻められるのが正攻法ということになります。
私の息子の1人も、幼児期~少年期、ひどい便秘症でした。
高校生になってからも、浣腸は常備薬でしたが、シャワートイレにしてからは、すっかり治ってしまいました。
詳しくは「はやし浩司 神経症」で一度、検索をかけてみてくださるとよいかと思います。
基本的には、(母子間の愛情)の問題ということです。
便秘になったのも、1歳半ごろ、子どもの側からみて、何か大きな愛情の変化が原因ではなかったかと推察しています。
もっとも濃密な、母子間の愛情を必要とする時期が、0~2歳までの、そのころです。
(この時期に、子どもは母子の間で、基本的信頼関係を構築します。
「はやし浩司 基本的信頼関係」で一度、検索をかけてみてください。)
ともかく、ほとんどの人は、似たような問題をかかえ、苦労しています。
外から見ると、何も問題がないように思えますが……。
(大便という点で、やっかいに感ずるかもしれませんが……。
また大便であるがゆえに、叱る→恐怖心をもつの悪循環で、ますます重症化しやすいです。)
夜尿症のばあいも、そうですが、受け入れてしまえば、何でもありません。
「したいように、しなさい」と、です。
またそうなったとき、不思議なことに、自然と排便障害も消えます。
アドバイスできることは、
(1)愛情飢餓状態の解消
(2)緩下剤の微妙な調整、です。
ともかくも、あと一息です。
よくがんばったと思います。
が、あと一息。
やがてすぐ笑い話になります。
それを信じて、前向きに!
(注※……肛門期の固着について)
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
『……トイレットトレーニングの過剰と失敗は子供のパーソナリティに様々な影響を与える。
例えば、トイレに無理矢理行かせたり、過度にタイミングや清潔さに厳しすぎると、ものを捨てるのを嫌がるようになったりする。
ためこみ屋でけちな性格になることがある。
これは過度なトイレットトレーニングが子供に自分のうんちを溜め込みすぎるのを良しとするためである。
フロイトによると几帳面で節約家で強情になりやすいと言う。
それに肛門期固着は小児性愛の源泉となる事もある。
フロイトは論文で、子供はうんちを幼児やお金に象徴交換して、それを代わりに手に入れたり溜め込んだりするような傾向があると指摘している)。
逆にしつけを疎かにすると、子供はいつでも排便する事が良い事だと思い、お金を湯水のごとく使ったり、不潔のままになったりと、整理する事を学ばなくなってしまう。
これは自分の欲動をトイレットトレーニングを通してコントロールすることを学ばなかったからである。
このような子供は我慢することを知らず、自分の好き勝手に何でもやりたい放題になるとも言われる。
芸術との関連も指摘されている。
肛門期は自分の体内の一部であるうんちを作って対外に排出するという活動を象徴していると言われ、それは創造的活動などと比較される。
また汚いものを排出することとの関連で妄想症が考えられたりもしている』(以上、ウィキペディア百科事典より)と。
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●審判&運命(はやし浩司 2012ー04-24)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
キリスト教の世界には、「審判」という言葉がある。
「最後の審判」とか、言う。
こうした死生観というのは、それ自体が矛盾だらけ。
結果主義というか、総合性がない。
その人の、どの部分を取り、だれがどのように審判するのか。
「終わりの部分」だけを見て、審判というのは、おかしい。
どう考えても、おかしい。
重要なのは、プロセス。
今まで生きてきたという、その過程。
表面的な名誉や地位ではない。
肩書きではない。
飾りではない。
その人がどう生きてきたかという、ドラマ。
中身。
生き様。
それが重要。
中には狂ったように、飾りを求める人がいる。
人生の場を、出世のための競争の場にしている。
その見苦しさ。
おかしさ。
私たちは日々に、そのつど審判を受けている。
その瞬間、瞬間に、すべてが終わり、同時にすべてが始まる。
「最後」といっても、どの時点をもって、「最後」というのか。
だいたい「審判を受ける」という言い方がおかしい。
受ける?
そんなもの受けなくても、自分で判断すればよい。
審判するのも、審判されるのも、「私」。
他人(神でもよいが)に有罪と判断されたから、有罪?
他人(神でもよいが)に無罪と判断されたから、無罪?
もしあの世とやらがあり、そこで神が私を審判することになったら、私はこう言う。
「私は、懸命に生きてきました」と。
「自分の運命と闘いながら、懸命に生きてきました」と。
それをまちがっているというのなら、すべての動物は、地獄行き。
またそれがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
みな、それぞれの運命を背負いながら、懸命に生きている。
数日前も、どこかの宗教団体の人たちがやってきて、ワイフにこう言った。
「最後の審判の日が近づいています」と。
まあ、そのときは、そのとき。
そのときになったら、それを受け入れればよい。
少なくとも、祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
で、彼らはこう言ったという。
「信じた者だけが、救われます」と。
ヘ~~~エ!
だったら、あの3・11大震災は、どうなのか。
信じていた人もいただろう。
信じていなかった人もいただろう。
老人や赤ん坊もいた。
そういう人たちに向かって、「審判」という言葉を使うのは、あまりにもむごい。
どこかの宗教団体の人たちには、その(むごさ)が、理解できないらしい。
自分勝手で、閉鎖的。
自己中心的で、近視眼的。
心の扉を開いて、自分の足で、外に出ろ。
ひとりで歩いてみろ。
外は、広いぞ!
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●運命論
運命論については、たびたび書いてきた。
……いつも考えている。
私たちには無数の「糸」がからんでいる。
社会の糸、環境の糸、性格や性質の糸、家族の糸、生い立ちの糸などなど。
最近では、自然の糸というのもある。
そういう「糸」が無数にからんでいる。
そういう糸が、ときとして、自分の進むべき方向を決めてしまう。
いくら「私はあっちへ行きたい」と思っていても、気がついてみると、反対の方向に進んでいる。
それを私は「運命」という。
が、運命に身を任せてはいけない。
どんな糸であるにせよ、私たちはそれと闘う。
ふんばる。
そこから無数のドラマが生まれ、生きる意味もそこから生まれる。
世界の賢人たちの言葉を、拾ってみる。
Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts.……A・アインシュタイン
(ほとんどの人は、自分の目で見ることができない。自分の心で聞くことができない。)
For example, justice is considered to mean equality, It does mean equality but equality for those who are equal, and not for all. ……アリストテレス
(たとえば、正義は平等のことだと考えられている。たしかに平等のことだが、その平等というのは、平等である人のためのものであって、みなのものではない。)
Happiness is something final and complete in itself, as being the aim and end of all practical activities whatever .... Happiness then we define as the active exercise of the mind in conformity with perfect goodness or virtue.……アリストテレス
(幸福というのは、それが何であれ、すべての実生活の目的であり、結末であるように、それ自体、最終的なものであり、完全なものである。
それ故に、私たちは幸福を、完ぺきな善と美徳に調和した、心の鍛錬と定義する。)
It is not the brains that matter most, but that which guides them---the character, the heart, generous qualities, progressive ideas.……ドストエフスキィ
(問題は脳みそではない。問題は脳みそが導くところの、性格、心、寛容な性質、前向きな思想である。)
I don't suffer from insanity but enjoy every minute of it.……エドガー・アラン・ポー
(私は狂気で苦しまない。それをそのときどきに、私は楽しむ。)
Live simply that other may simply live.……ガンジー
(ほかの人たちが生きるように、単純に生きろ。)
Twenty years from now you will be more disappointed by the things that you didn't do than by the ones you did do. So throw off the bowlines. Sail away from the safe harbor. Catch the trade winds in your sails. Explore. Dream. Discover.……マーク・トゥェイン
(20年後、君は、それまでそうでなかったものや人に、より失望するであろう。
だから網を捨て、安全な港から航海に出ろ。帆で風を受け止め、探検し、夢をもち、発見せよ。)
We must all learn to live together as brothers, or we are all going to perish together as fools.……マーティン・ルーサー・キング
(私たちはみな、兄弟としてともに生きることを学ぶか、愚か者のように、いっしょに滅ぶかのどちらかだ。)
●注入された思想
それにしても失敬な人たちではないか。
自分たちのしていることは、スパムメールと同じ。
頼みもしないのに、勝手にやってきて、「あなたはまちがっている」と。
どうしてそんな厚かましいことが、平気でできるのか。
それがわからなければ、自分のこことして考えてみればよい。
もしあなたが何かの真理(?)を発見したとする。
それはそれで結構なことだが、それでもってどこかの家の門を叩き、こう言う。
「近く、最後の審判が下されます」「信じた者だけが、救われます」と。
「私たちは正しい」と思うのは、その人の勝手。
が、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と。
その図々しさに、まずもって自ら気づいたらよい。
同時に、それがその人自身の思想であるならまだしも、どうせ他人に注入された思想。
言うなれば、ロボット。
ロボットになりながら、ロボットになっているという意識さえない。
が、それこそ、「私」の放棄。
その愚かさ。
そのおかしさ。
出世競争に明け暮れ、気がついてみたら、人生も終わっていた。
そういう人たちと、どこがどうちがうというのか。
不完全でもよい。
未熟でもよい。
自分で立ちあがるところに、繰り返すが、生きる意味がある。
ついでに言えば、こういうこと。
それがたとえ他人に理解されなくても、それはそれ。
みな、それぞれの運命と闘いながら懸命に生きている。
そういう人たちは、そういう人たちで、そっとしておいてやることこそ、大切。
それが(やさしさ)ではないのか。
人間が本来的にもつ、(やさしさ)ではないのか。
……と居直りながら、今日も始まった。
どこまでがんばれるかわからないが、がんばるしかない。
ふんばるしかない。
みなさん、おはようございます。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 運命論 審判論)
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年4月24日火曜日
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