●4月16日(日曜日)(はやし浩司 2012-04-15)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
とかく、この世は生きにくい。
出る杭(くい)は、すぐ叩かれる。
そのため静かに難なく生きるのがよい。
しかしそれでは、「生きた」ことにはならない。
ただ「息(いき)ている」だけ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●誤解
ときとして人は、バカげた事件に出会う。
本当にバカげている。
いろいろなことがあった。
(1) 私の近所には、空き地がまだ少し残っている。
以前は、もっと広く残っていた。
が、そこはかっこうのゴミ捨て場。
ふつうのゴミではない。
粗大ゴミ。
家具や自転車など。
あるときは車やベッドがそのまま捨ててあった。
小さなゴミは、そのつど、私が拾っている。
袋と蟹バサミをもち、それを拾う。
ところがある日、ゴミを拾っていると、1台の車が横に停まった。
何かなと思い、ふと振り返ると、車の中から1人男が、顔を出し、私にこう言った。
「ちゃんと、草(雑草)くらい、刈っておけ!」と。
私が「ハア~?」と言いかけたら、すでにその車は、立ち去ったあとだった。
(2) 私の家の横は、竹やぶになっている。
毎年、その時期になると、タケノコが出てくる。
が、そのうち、根が伸びて、私の敷地のほうまで、タケノコが生えてくるようになった。
そのタケノコを、スコップで掘り返していると、突然、竹やぶの中から男が躍り出てきた。
そしてこう叫んだ。
「このドロボー!」と。
これには驚くと同時に、怒れた。
「ドロボーとは何だ!」と。
自分の土地で、タケノコ掘っていたら、「ドロボー」と。
法律的には、こういうばあい、生えてきたタケノコは、私の所有物になる。
(ただし垣根の上を越えて出てきた枝の実や花は、隣人のものである。)
相手の男は、その竹やぶの管理を任されている人の、その友人だった。
私が「ここは私の土地だ」と言い返すと、その男も、さらに言い返してきた。
「こっちの竹やぶから伸びたから、オレたちのものだ」と。
男といっても、70歳を過ぎていた(当時)。
法律論を言いあっても、しかたない。
が、こういうときは、声の大きい方が、勝ち。
私はさらに大きな声で、こう言った。
「だったら、これからは、お前が、このあたりの竹やぶを、みんな刈れ!」と。
私の剣幕に驚いて、その男は、再び竹やぶの中に消えて行った。
(3) さきに書いた(1)の話には、つづきがある。
で、しかたないので、捨ててあったベッドを、ワイフと2人で、解体し始めた。
といっても、これがたいへん。
直系が3ミリ前後もあるような太いスプリングが、縦横、200~300個もついていた。
ハガネである。
それを一本一本、ハサミで切り離さなければならない。
電気工事屋の人が使うような、大きなハサミを使った。
ときどき時間をみつけ、それでも毎日、1~2時間かけて、切り離していった。
……ところが、である。
ある朝、起きてみると、私の家の駐車場に、そのバラバラになったベッドが、投げ捨ててあるではないか!
たぶん、近所のだれかが、それが私たちの家から出たベッドと思ったらしい。
それを放置したのは、私たちと、勘違いしたらしい。
それでそうした。
つまり私の家の駐車場に、投げ込んだ。
(4) 隣の空き地の話は、尽きない。
こんなこともあった。
あるときから奇妙なできごとが、つづいた。
何かにつけ、市役所の人が私の家に、謝罪に来るようになった。
「すみません」「すみません」と。
で、理由を聞くと、「木の枝が、道路を覆っています」「道の角の土砂くずれました」とか、など。
市役所の人も、ていねいだなと感心していた。
が、別のある日には、近所の地主まで謝罪に来るようになった。
「雑草が道路まで伸びてすみません」と。
で、理由を聞くと、「だって、林さん(=私)から手紙が来ましたから」と。
???
私はそういった手紙を出した覚えは、まったくない。
それにそういった(自然のなせる業)は、気にならない。
落ち葉をゴミと考えたことは、一度もない。
つまり近所のだれかが、そのつど、それぞれのところへ苦情の手紙を出していた。
匿名だったか、あるいは私の名前を語ったかは、知らない。
ともかくも、市役所の人たちも、また地主も、手紙を出したのは、この私と思ったらしい。
(5) こうした話は、いくらでもある。
こんなこともあった。
私はある時期、40代になったころから50代のはじめまで、無料で、子育て相談を受けていた。
電話相談である。
これがあちこちに広がり、ほとんど毎日、電話がかかってくるようになった。
以前にも書いたが、この種の相談には、「時間」「時刻」がない。
いくら私が「午前中だけ」とお願いしても、中には、真夜中に電話をかけてくる人もいた。
しかも相談といっても、平均して1時間。
中には2時間~というのもあった。
40分以下ということはなかった。
で、そんなある日、いくつか事件が重なった。
そのひとつ。
ほとんど毎日、電話をかけてくる人がいた。
それが2~3週間も、つづいた。
そこで私が、ある日、それを断った。
「忙しいから、ときどきにしてもらえませんか?」と。
が、この言葉が、相手を激怒させた。
「子育て相談を受けるなら、ちゃんと受けてほしい」と。
あるいは似たような事例だが、そのとき忙しかったので、私はこう言った。
「こちらのほうから電話をしますから、しばらく待っていただけますか」と。
それが金曜日の夜だったということを、私はよく覚えている。
が、相手の男から、その3日後の月曜日の朝、電話がかかってきた。
これもまた、ものすごい剣幕である。
電話口の向こうで、こう叫んだ。
「俺はお前からの電話を、3日も待った。どうして電話をくれないのか!」と。
そしてこうも言った。
「子育て相談の看板を、即刻、下ろせ」と。
……私は一度だって、子育て相談の看板を上げた覚えはないのだが……。
(6) こうした話は、誤解に基づく。
誤解が誤解を生み、こうした話につながっていく。
では、どうするか。
私のばあい、こうした誤解は、そのまま無視する。
相手にしない。
反論しない。
たとえばインターネットで、こうして情報を公開していると、いろいろな人が、書き込みや、コメント、意見を書いてくる。
中には、辛らつなものも多い。
先日は、「お前のような老害は、死ねっ!」というものあった。
その前には、「お前は、精神異常者だ」というのもあった。
こういうケースのばあい、けっして、相手にしてはいけない。
本気になって、反論してもいけない。
ただひたすら無視するのがよい。
理由がある。
こうしたことを書いてくる人というのは、それほど、深く考えて書いてくるのではない。
独り言に近い、苦言。
書いたすぐから、書いた本人自身が、それを忘れる。
が、こちらが何かの反論をしたとたん、相手の心に火がつく。
火がついたとたん、収拾がつかなくなる。
ばあいによっては、そのまま炎上する。
だからひたすら、無視するのが、よい。
たとえば(1)~(5)の中で書いた話にしても、そうだ。
本来なら、私が謝罪しなければ理由など、どこにもない。
本来なら、私の方が怒って当たり前。
しかし無視。
無視して、あとは忘れる。
つまりこういうケースで、私が相手を探したり、その相手に向かって何かを言えば、その瞬間から、関係が変わる。
「無」の関係から、「有」の関係になる。
平たく言えば、喧嘩になる。
わずらわしくなる。
ばあいによっては、逆ギレされる。
逆恨みされる。
手に負えなくなる。
そうなる。
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【本の世界vsインターネットの世界】
●本とは何かvsインターネットとは何か
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
今日は、田丸謙二先生からもらった宿題に
ついて考えてみる。
田丸謙二先生は、「本を書きなさい」と、
何度もアドバイスしてくれた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アクセス数
ここ1、2日、奇妙なことが起きている。
最初に気がついたのは、YOUTUBEの登録者が、突然、急増したこと。
「登録者」というのは、私がUPした動画を、すべて見てくれる人、ということになる。
マガジンにたとえるなら、定期購読者。
たいていは、1~2週間で、2、3人程度。
それが毎日、2、3人以上の人が登録してくれるようになった。
「?」と思いながら、「アナリティクス」(アクセス分析)を見ると、毎日のアクセス数が、その前後から、3倍以上にもなっているのがわかった。
(平均して、それまで1日、600~650件だったのが、一気に、3000件前後になった!)
さらにBLOGについても、Goo-Blogだけでも、2誌合計で、1日、5000件を超えていた!
(Goo-Blogは、日本語版と英語版の2誌を発行している。)
私の知らないところで、何かが起きている。
が、いちばん考えられることは、どこかのビッグ・サイトで紹介されたこと。
どこでどのように紹介されたのかまでは、わからない。
ともかくも、今現在、そうなっている。
が、インターネットの世界というのは、不思議な世界。
数字だけがひとり歩きする。
実感が、ない。
たとえば現在、HPへのアクセス数も含めると、月間、50万件は軽く超えている。
本にたとえるなら、超ベストセラー。
「50万件か」と思ってみたり、「50万件ね」と思ってみたりする。
恐らく、それがつぎに「100万件」になってもそうだろう。
が、本とちがうのは、それが毎月、コンスタントにつづくということ。
アクセス数が減るということは、今のところ、まず、ない。
何しろ、世界が相手。
マーケットが広い。
読者は、世界中に広がりつつある。
YOUTUBEの「ユーザー層」を見ると、日本につづき、アメリカ、ブラジル、台湾、オーストラリア……となっている。
●田丸謙二先生からのアドバイス
先日、田丸謙二先生に会ったら、「本を書きなさい」と何度も言われた。
浜松へ帰ってきてからも、そういう内容のメールが、2通、届いた。
で、そのアドバイスを真剣に考えた。
「やはり、本かなあ……?」と。
しかしその一方で、少なくとも、私にとっては、本の時代は終わったような気がする。
「私にとっては」というのは、「いままでさんざん、この世界で苦労したから」という意味。
こんなたとえはどうかと思うが、こういうこと。
たとえばどこかの会社の社長が、私にこう言ったとする。
「うちに再就職してください。がんばって仕事をしてくれれば、課長にしてあげます」と。
たぶん……というより、まちがいなく、私はこう答えるにちがいない。
「もう、こりごりです」と。
私の今の心境は、それに近い。
いろいろな本を書いてきたが、どれも売れなかった。
この日本では、マスコミへの露出度、あるいは地位や肩書、名声で、本の売れ行きは決まる。
もうひとつは、「時代性」と「話題性」。
俗に言えば、「流行性」。
が、この浜松に住んでいたのでは、人脈をつなげることさえ、むずかしい。
情報も乏しい。
そういった壁が、目の前に立ちふさがる。
それを乗り越えなければ、本は売れない。
が、インターネットが、そういった今までの常識を、根底からひっくり返してくれた。
今、私がこうしてここに書いている文章にしても、明日の朝までには、数万の人の目に届く。
(みながみな、好意的に読んでくれるというわけではないが……。)
それに今の私には、とにかく「時間が足りない」。
この先のことはわからないが、今は、このまま前に向かって、突き進んでいくしかない。
結果はどうであれ、残された時間は、あまりにも短い。
●自殺
で、もう一言、田丸謙二先生は、こんなことを話してくれた。
「作家というのは、書くことがなくなったら、自殺するものでしょうか」と。
これについても、よく考えてみた。
が、作家と、もの書きは、基本的な部分で、ちがう。
作家というのは、文章を書き、それを本という形で売る。
つまりその間に、出版社が介在する。
出版社といっても、いうなれば、営利会社。
目的は金儲け。
だからその作家の本が売れないとわかったら、出版社は、本など、出さない。
つまりその時点で、その作家は、仕事を失う。
会社の社員にたとえるなら、リストラ(首切り)と同じ。
が、一度、こうなると、その作家のところへは、まず仕事が回ってこない。
この世界では、発行部数、販売部数という、「視聴率」がある。
それがどの出版社でも、即座にわかるしくみができている。
「あの作家の本は、このところ、よくて5000部止まり」と。
一度、そういう烙印が押されると、その作家は、「干される」。
が、作家の命は、ものを書くこと。
言うなれば、書くことそのものを、断たれる。
書いても書いても、読んでくれる人がいない……。
そんな状態が、慢性的につづく。
当然、収入は、ゼロ。
それが「自殺」に結びついたとしても、私は驚かない。
が、それもインターネットの世界では、一変する。
仮に最初は、10人でも、あるいは100人でも、「数」として、読んでくれる人がつく。
それが励みになり、さらに書く。
こうして読んでくれる人が、ふえていく。
もちろん収入には、結びつかない。
しかし生きがいにはなる。
つまりここが、作家ともの書きのちがい。
もの書きは、最初から、無私無欲。
またそうであるから、おもしろい。
書きたいことを、書ける。
だれにも遠慮しない。
媚も売らない。
そこにあるのは、ありのままの「私」。
また私の文章を読んでくれる人は、原点の私から読んでくれる。
飾りなしの、原点の私。
●「残る」
「本の時代が終わった」とは、私はまだ思っていない。
しかし将来にわたって、残るか残らないかということになれば、本の時代は終わった。
たとえば今、私は、10年前に書いた原稿を、即座に探し出すことができる。
ネットで、検索をかければ、それですむ。
が、本というのは、その場かぎり。
仮に1年間で、1万部、売ったとする。
が、そこでおしまい。
ネットの世界では、反対に、1年間に1000人の人が読んでくれたとすると、10年で、それが1万人になる。
20年で、2万人になる。
先に「残る」と書いたのは、そういう意味。
●流行性
が、まだある。
具体的に書こう。
本というのは、先にも書いたように、「流行性」で決まる。
が、そういう本というのは、命が短い。
たまたま田丸謙二先生の親しい知人に、F氏という人物がいる。
そのF氏は、4~5年ほど前に、「K」という本を書いた。
たいへんなベストセラーになった。
田丸謙二先生は、それについて、「バカ売れしています」と、メールで何度も書いてきた。
私も喜んだ。
うれしかった。
が、それからほぼ4~5年。
その中古本は、現在、1円(送料が250円)で、取り引きされている。
(あれほど話題になった本だったのだが、たったの1円!)
一方、私が書いた、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)は、今でも、6000~7000円前後で、取り引きされている。
F氏のような大人物と張りあうつもりは、毛頭ない。
しかしひょっとしたら、100年後、200年後ということになれば、私の本のほうが、生き残っているかもしれない。
つまり本を評価する尺度※というのは、もっと別のところにある。
が、残念ながら、この日本では、まだその尺度そのものが育っていない。
またそういう尺度で、本を判断する人が少ない。
その土壌さえない。
言い換えると、本の世界には、私はもう未練はない。
なお自分でこう書くのも、どこかはばかれるが、『目で見る漢方診断』は、その世界では、三大名著のひとつになっている。
また30歳のころ書いた、「東洋医学基礎編」は、現在の今でも、医学部や鍼灸学校で、教科書として採用されている。
●可能性
で、今は、YOUTUBEがおもしろい。
私の教えている内容や、子どもたちの反応を、そのまま公開している。
当初は、ごくふつうであった子どもでも、1~2年後には、見違えるほど、すばらしい子どもに成長していく。
その成長の過程まで、生の動画として、それを読者のみなさんに伝えることができる。
もちろん、こんなことは、本では、ぜったいにまねできない。
またYOUTUBEに保存しておけば、永遠とまではいかないにしても、それに近い形で、残る。
現在は幼児である子どもたち(=生徒たち)でも、いつか、私の今の年齢になったとき、改めてそれを見なおすかもしれない。
「思い出」というよりは、「世界でもだれもしていなかったような教育を受けた」という意味で、見なおすかもしれない。
現に今、教え子で、ハーバード大学の医学部で、医局をもっている人がいる。
2つの博士号を取得している。
そういう人たちが将来つづき、今の私のしていることを見なおしてくれるかもしれない。
私はそれを信じているし、インターネットは、そういう可能性を秘めている。
本の時代が終わったとは思わない。
しかし今、その本にかわる、あるいはそれ以上の世界が、広がりつつある。
(公開教室は……)
http://bwopenclass.ninja-web.net/page018.html
●最後に……
「生き残る」という言葉には、2つの意味がある。
戦争映画に出てくるように、雨あられのように降り注ぐ砲弾をかいくぐって、生き残るのも、「生き残る」。
もうひとつは、自分の死後も生き残る。
それも「生き残る」。
私は生涯、地位や肩書には、あえて背を向けて生きてきた。
けっしてチャンスがなかったわけではない。
大学の教授や講師のポストを提示されたこともある。
幼稚園の園長については、何度か、ある。
しかしそのつど、私はこう思った。
もし、ここで妥協したら、今までの私の生き方を否定することになる、と。
皮肉なことに、本当に、皮肉なことに、私は田丸謙二先生に会ったときから、私1人くらい、生涯、裸で生きてやろうと、心に誓った。
田丸謙二先生と張りあっても、無駄。
絶対に勝ち目はないと知ったとき、そう心に誓った。
で、私は私の人生を、64年間、生きてきた。
何とか、生き残ってきた。
で、今、考えることは、死んだあとの「生き残り」。
それに自分の命を懸けている。
結果については、私は知る立場にはない。
あえて願うなら、私の死後、10年くらいは、生き残りたい。
できれば、20年。
100年後に、私の書いた文章の、1行でも残っていれば、御の字。
それが「はやし浩司」ということになる。
(はやし浩司 本とは何か インターネットとは何か 死後も生き残る 生き残り はやし浩司 インターネットの可能性 本論 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)
(追記)なお「目で見る漢方診断」は、私のHPのほうから、全文、無料で読んでいただけます。
興味のある方は、どうぞ!
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
http://bwtachiyomi.ninja-web.net/page051.html
【追記】注※
●尺度論
たまたま今朝(4-15)、どこかのニュースサイトに、こんな記事が載っていた。
あの赤川次郎が、こう言ったという。
大阪市の橋下市長を批評して、「モーツアルトの観客数と、AKB48の観客数が同じといっても、(モーツアルトとAKB48を)同列に考えることはできない」(記憶)と。
さすが赤川次郎。
ずばり、うまいことを言う。
モーツアルトとAKB48とを、同じ尺度で測ってはいけない。
それにもうひとつ。
以前、「ハリーポッター」の日本語版が、週刊誌などで、問題になったことがある。
「誤訳だらけ……」と。
(たしかに誤訳だらけだが……。)
が、その議論を横で見ながら、私は、こう思った。
「もともとデタラメな本ではないか。
そんな本の誤訳がどうのこうのと、問題にするほうがおかしい。
もし誤訳が問題なら、映画はどうなのか」と。
映画は、本をもとにして、制作される。
誤訳どころではない。
デタラメの上に、デタラメを重ねる。
どうして映画のほうは、「誤訳」が問題にならないのか、と。
AKB48の歌う歌を聴き、すばらしいと思う人もいるかもしれない。
ハリーポッターを読んで、すばらしい本と思う人もいるかもしれない。
ものの価値を判断する尺度そのものがちがうと、そういう現象が起きる。
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年4月15日日曜日
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