TK先生へ
こんばんは。
逆流性胃炎、たいへんですね。
ぼくも一時期なりました。
昨年の初めだったと思います。
そのときドクターは、「老人の仲間入りですね」と言いました。
で、先生の話を聞いていましたので、「これはまずい」と。
かなり注意し、養生しました。
慢性化させると、「まずい」と思ったからです。
今夜は、楽しい話をしましょう。
あの1970年の話です。
あのころの先生は、自信満々で、輝いていた。
「ノーベル賞は?」と聞くと、「いつでも」という感じでした。
「アデレード大学だけでも、3~4人の受賞者がいる」と、先生は驚いていました。
が、同時に、「あんな田舎の大学でも取れるんだから」と。
「論文の引用数など、私の3分の1もないような研究者が、ノーベル賞を取っている」とも。
ぼくも同じように生意気盛りでした。
モヤに包まれた先の見えない未来(W・シェークスピア)でしたが、楽しかった。
1日、1日を、1年のように感じて、生きていました。
そんなとき突然、先生がカレッジへやってきました。
それまでにも東大の教授たち(刑法学の松尾教授ほか)が、ときどきやってきましたが、どうも馬が合わないというか……。
ぼくは、もともとは、理科系の人間でしたから……。
2人で、北大の杉野目先生に手紙を書いたこともありますね。
返事が来なかったので心配していましたが、あとで知ったところによると、杉野目先生は当時、すでに体調を崩しておられたとか。
杉野目先生とは、韓国をいっしょに旅しました。
あの板門店も、です。
毎日、毎晩、先生と議論したのが、遠い昔のようでもあり、夢の中のできごとのようでもあります。
当時の先生は、かなり保守的でした。
「日本はいい国ではありませんか」が、口癖でしたね。
ぼくたちの世代は、70年安保の最中に、学生時代を過ごしましたから、かなり違和感を覚えました。
で、ぼくは何とか先生を説き伏せてやろうと思っていました。
が、今から思うと、とんでもないほど、無謀なことだったと思います。
巨艦に小舟で戦いをいどむようなものでした。
もっともそれを知ったのは、そのあと何十年もしてからですが……。
ひとつ気になっているのは、先生はあのころ、8ミリカメラで写真を撮っておられました。
1コマずつ、です。
「フィルム1本で、何千枚も写真を撮れる」と、自慢しておられたのを覚えています。
で、そのカメラを借り、先生の歩いている姿などを撮った記憶がどこかにあります。
あのころのフィルムは残っていますか。
前々回、鎌倉のご自宅におうかがいしたとき、その話をしようと思っていました。
が、すっかり忘れてしまいました。
で、先日も、鎌倉へおうかがいしたとき、その話をしようと思っていました。
が、そのときもすっかり忘れてしまいました。
というのも、当時のぼくは、写真には興味がありませんでした。
カメラはもっていましたが、めったに使いませんでした。
当時のぼくには、「未来」しかありませんでしたから……。
が、今、ぼくは、過去をこうして懐古しています。
「老人の回顧性」と言います。
回顧性が強くなると、いよいよ老人の仲間入りだそうですね。
ですから努めて懐古しないように心がけています。
「過去を懐古するようになったら、おしまい」と、です。
しかし今夜は、あのころが懐かしくてしかたありません。
時刻は、午前1時を回ったところです。
先生からのメールを読んだ後、眠れなくなってしまいました。
ただ一言、気持ちをお伝えしたくて、このメールを書いています。
「先生は、ひとりぼっちではない」とです。
無数のお弟子さんと、すばらしいお嬢さん家族に恵まれ、みなが力を合わせ、先生を支えています。
「うらやましい」などという言葉は、ぼくはめったに使ったことがありません。
敗北用語だからです。
でも先生に対しては、平気で使うことができます。
ぼくは、先生がうらやましいです。
そうそう昨年(2011)、あのメルボルンへ行ってきました。
パークビルの通りは、昔のままでしたが、大学そのものが印象では2倍ほど大きくなっていたように思います。
前もって友人が手配してくれたこともあり、ぼくとワイフは、ハイテーブルで、食事をすることができました。
ハウスのゲストルームに泊まることができました。
室内も昔のままでした。
ただ学生が200人から300人程度になり、棟(ウイング)がふえていました。
それにぼくたちのころには、男子寮だったのですが、今は女子学生が半分います。
たまたまメルボルン大学の女子ホッケーチームが、優勝したとかで、その女子学生たちといっしょに夕食を食べたりしました。
そのときへんなことを思いましたね。
「この女子学生たちから見たら、ぼくはどうしようもないジー様に見えるだろうな」とです。
1970年当時のぼくは、50歳というと、ありえない未来のように思っていました。
そのぼくも、10月で、65歳になります。
(今はかろうじて64歳ですが……。)
何とか「今」というときを、止めたいと、こうして文を書いています。
が、書いても書いても、「時」は容赦なく、過ぎ去っていきます。
手で空気をつかむようなものです。
その実感すら、ない。
ずっと先生を追いかけてきましたが、この先も追いかけていくでしょう。
たぶん、先生のほうが先にあの世へ行くと思いますが、どうかぼくのことも忘れないでください。
ぼくもつぎの瞬間には、先生のあとを追いかけ、あの世へ行きます。
正直なところ、ぼくは、この世には、あまり未練はありません。
満足感はありません。
あるのは不完全燃焼感だけです。
しかしやるべきことは、やった。
そういう思いは強くあります。
だからよく「いつ死んでもいいや」と思います。
そのときが来たら、いさぎよく、です。
先生が副学長になったときのこと。
先生の研究室へ行くと、先生はこう言いました。
「これから、いい思いをさせてあげるから、少し待っていなさい」と。
「何だろう?」と思って待っていると、理学部の正門に、黒塗りの乗用車がやってきました。
先生は、ぼくを、あの東大の専用車に乗せてくれました。
生涯で、いちばん誇らしく思ったのは、あのときです。
ありがとうございました。
そのあと東京駅で、食事をいっしょにしました。
アボガドなる果物を食べたのは、あのときが初めてです。
今でも、アボガドを食べるたびに、あの夜のことを思い出します。
ともかくも、ぼくは先生のおかげで、こうして道を踏み外すこともなく、無事、自分の人生を歩むことができました。
もし先生という灯台がなかったら、ぼくは今ごろ、商社マンになって死んでいるか、政治家になって投獄されているかのどちらかです。
が、こうして今日も、平穏、無事に、過ごすことができました。
自分の時間を大切に、自分の命を大切に、したいことをしながら生活することができます。
本当にありがたいことだと思います。
感謝しながら、これで眠ります。
布団の中でメールを書きましたので、誤字、脱字が多いかと思います。
お許し下さい。
では、おやすみなさい。
はやし浩司2012/04/25
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
ついでに昨年(2011)、オーストラリアへ行く前に書いた原稿を添付します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【心は、オーストラリアに】
●青春時代
青春時代が、人生の入り口?
青春時代が、人生のスターティング・ポイントと、だれが言ったか。
とんでもない!
これはウソ。
青春時代は、人生のスターティング・ポイントなどではない。
人生のゴールそのもの。
人は青春時代という門をくぐって、おとなの世界に飛び込む。
それはその通りだが、青春時代は、いつも私たちの行く道を照らす。
丘の上に立つ灯台のようなもの。
私たちはその灯台の照らす道に沿って、前に進むだけ。
行けども行けども、その先にあるのは、あの青春時代。
●戦後のあのドサクサ
とくに私は、戦後のあのドサクサの時代に、生まれ育った。
教育の「キ」のない時代だった。
親たちも食べていくだけで精一杯。
貧しいには貧しかった。
少し前のベトナム。
現在のアフガニスタン。
あるいはベトナムやタイでもよい。
そういう国々を見れば、それがわかる。
そういう国々を見ると、私は子どものころの日本を思い出す。
当時の日本と、それほどちがわない。
が、それほどちがわないことは、今になってわかること。
そのときはわからなかった。
貧しいのが当時は、当たり前。
私だけではない。
みな、そうだった。
● 拾ったお金
すべてをあの時代の責任にすることはできない。
しかし私たちは、よい意味で、たくましく、悪い意味で、小ずるかった。
またそうでないと生きていかれなかった。
たとえば道路にお金が落ちていたとする。
そういうお金は、先に見つけた者のもの。
あるいは走って駆け寄り、先に手にした者のもの。
だれが交番などに、届けただろうか。
だから今でも、私は子どもたちにこう教えながら、心のどこかで違和感を覚える。
「拾ったお金は、交番に届けよう」と。
そういう私が、自分の人生の中で、かろうじて、ほんとうにかろうじて、
道を踏み外さなかったのは、あの灯台があったから。
青春時代という、あの灯台があったから。
「私は最高の教育を受けた」という、その誇り。
それが私の道を照らしてくれた。
●1日が1年
ほとんどの宗教は、「聖地」というのをもっている。
心のより所。
冒(おか)してはいけない、神聖な場所。
もし私にも聖地というものがある。
それがまぎれもなく、あのカレッジ。
「241 ローヤル・パレード インターナショナル・ハウス」。
私はそこで、毎日、1日を1年のように長く感じながら生きた。
ある夜のこと。
一日が終わり、ベッドに身を横たえたとき、こう思った。
「まだ、たった3か月しかたっていないのか!」と。
私には、それまでの3か月が、何十年も長く感じた。
けっして、誇張しているのではない。
大げさに書いているのでもない。
本当に、そう感じた。
私は石川県の金沢市にある金沢大学を出た。
そこで私は4年間を過ごした。
が、たった数日で、私は4年分の思い出を作った。
本当にそう感じた。
そしてベッドから天井を見上げ、こう思った。
「まだこんな生活が、9か月も続くのか!」と。
そんな自分が、うれしくてたまらなかった。
●自由
すべてが珍しかった。
まだ日本には、綿棒もバンドエイドもなかった。
買い物にしても、そうだ。
オーストラリア人は、オレンジを袋単位で買っていた。
今では、日本のどこでも見られる光景だが、日本人の私には信じられなかった。
私たちの時代には、一個買いが常識だった。
私たちは、ミカンにせよ、リンゴにせよ、一個、いくらで買っていた。
が、何よりも驚いたのは、男女の関係だった。
大学の構内でも、男女が手をつないで歩き、ときどき抱き合って、接吻をしていた。
金沢大学では、見たこともない光景だった。
すべてが珍しく、すべてが驚きだった。
そのひとつひとつが、私の脳に、強烈な印象を残した。
私はオーストラリアで、生まれてはじめて「自由」というものを知った。
見せかけの自由ではない。
作られた自由でもない。
本物の自由である。
オーストラリアには、それがあった。
同時に、日本には、それがなかった。
その落差には、ものすごいものがあった。
●豊かな生活
オーストラリアは豊かな国だった。
1970年代は、そうだった。
世界でも1、2位を争っていた。
そういうオーストラリアを、オーストラリア人自ら、「ラッキーカントリー」と
呼んでいた。
「それほど働かなくても、豊かな生活ができる」と。
今でこそ、どこの家にもDVDの再生装置があり、大画面で映画を観ることができる。
が、私が友人の家で、映画『アラビアのロレンス』を観たときには、仰天した。
「自宅で、映画を観ている!」と。
当時の日本人には、想像もつかない生活だった。
●ガーデン・シティ
が、それだけではない。
私がいた当時のメルボルン市は、世界でももっとも温暖で、住みやすい都市として
知られていた。
常に偏東風が吹き、夏と冬の気温差も、日本よりはるかに小さかった。
町の3分の1が、公園とも言われていた。
が、3分の1というと、町の中に公園があるというよりは、公園の中に町がある。
そういった感じになる。
だから今でも、メルボルン市のことを、「ガーデン・シティ」という。
車のナンバープレートにも、そう書いてある。
●トロイ・ドナフュー
今回、オーストラリアへ行くのは、そのあと、はじめてではない。
そのあと、何回か行っている。
が、今回はちがう。
意味がちがう。
私は、ワイフを連れていく。
「何だ、そんなことか!」と思う人もいるかもしれない。
しかし私にとっては、聖地。
心の聖地。
友人の取り計らいで、今回は、そのインターナショナル・ハウスに泊まる。
当時は、(現在もそうだろうが)、世界各国からノーベル賞級の学者たちが来ると、
決まってその中にある、ゲストハウスに泊まった。
珍しい人物では、トロイ・ドナフューという映画俳優もいた。
背が高いというより、恐ろしく足の長い男だった。
『ルート66』というテレビ番組に出ていた。
ランチを食べているとき、みながトロイ・ドナフューを見て、こう言った。
「あいつ、トロイ・ドナフューではないか?」と。
そこで仲間の1人が声をかけてみると、「Yes!」と。
彼はあっさりと、それを認めた。
今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。
ちょうど42年という歳月を経て、今度は、私がそのゲストハウスに泊まる。
●王子や皇太子
インターナショナル・ハウスは、不思議なカレッジだった。
どのフロアにも、世界中から集まった王子や皇太子たちがいた。
が、慣れというのは、恐ろしい。
私はそこに住んだときから、一度も、彼らの立場を意識したことはない。
相手も、ごくふつうの学生として、私たちと過ごした。
ただ「金持ちだな」と感じたことは、よくある。
中には、いつもパリッとしたスーツを着ていた男もいた。
あるいはいつも、数人の「友」に囲まれていた男もいた。
私はその男の「友」と思っていたが、あとになって、その国の大使館から
派遣された護衛官と知った。
そのことは、別の『世にも不思議な留学記』に書いた。
●私1人、だけ
一方、オーストラリア人たちは、ごくふつうの学生ばかりだった。
それなりに頭のよい学生たちだったが、卒業後の進路は、当時の日本人とは、
それほど違わなかった。
ただ当時から、(今でもそうだが)、日本人がもっているような「大企業意識」
というのは、なかった。
オーストラリアでは、個人プレーが基本。
子どものときから、「独立心」を徹底的に叩き込まれている。
言い忘れたが、カレッジには、200人の学生がいた。
内、100人が、各国からの留学生。
内、100人が、オーストラリア人だった。
日本人の留学生は、私1人だけ。
300万人とも言われたメルボルン市全体でも、私1人だけ。
そういう時代だった。
当時の為替レートは、1ドルが400円。
大卒の初任給がやっと、5万円という時代である。
そのレートで計算してみると、農家の年間収入は、1200万円から1500万円にも
なった。
月額にすると、100~150万円!
日本人の私には、信じられない金額だった。
●北朝鮮
……この話が理解できない人は、こんな計算をしてみればよい。
あの北朝鮮では、労働者の平均給与は、4000~5000ウォンだそうだ。
現在、じゃがいも10キロが、1000~2000ウォン(2011年2月)。
じゃがいもを、20キロ買っただけで、給料が消えてしまう。
その4000ウォンを、アメリカドルに換算すると、実勢レートで、2~3ドルにも
ならない。
日本円で、200~300円。
(月給が、だぞ!)
日本とオーストラリア。
現在の北朝鮮ほどではないが、しかしその間には、はっきりとした「差」があった。
カレッジの一室に、乾燥装置(ビルの1階から最上階まで、いつも温風が、
吹き上がっている)なるものもあった。
それを見たとき、その「差」を強く感じた。
生活の質そのものが、日本人のそれとは、まったく違っていた。
●便器のフタの上で、便!
その一方で、こんな話もある。
コロンボ計画というのが、あった。
アフリカの貧しい国々の学生を、先進国で学ばせるという計画だった。
そのコロンボ計画でハウスに来ていた留学生も、何人かいた。
しかしこの学生が、しばしばトラブルを引き起こした。
たとえば便器のフタの上で大便をする。
大便のあと、便を流さないで、出てくる。
だからトイレには、いつもこう書いてあった。
「Flash after each use(使ったあとは、洗え)!」と。
中には、オーストラリアの生活になじめず、部屋に引きこもってしまうのもいた。
日本も貧しかったが、アフリカの国々は、さらに貧しかった。
●遠くて遠い国
が、そんな私でも、日本がここまで豊かになるとは、夢にも思っていなかった。
当時書いた日記には、こうあった。
「50年たっても、日本はオーストラリアに追いつけないだろう」と。
しかしその日本は、その後20年を待たずして、オーストラリアを追い抜いた。
今度は、その日本を、シンガポールが追い抜いた。……これは余談。
相対的に、オーストラリアの地位はさがった。
今では、オーストラリアへ行っても、私が感じたような「差」を見る人はいない。
日本がオーストラリアぽくなったというよりは、オーストラリアのほうが、
日本ぽくなった。
そんな場面にも、よく出会う。
●修学旅行にオーストラリア
日本人の高校生が、修学旅行で、オーストラリアへ行く。
何百人単位という大人数で行く。
信じられないというより、そういう話を聞くたびに、「本当に、あの国へ?」と
思ってしまう。
私には遠くて、遠い国だった。
今でも、その感覚は残っている。
そう、あのオーストラリアを去るとき、私はこう思った。
「二度と、オーストラリアへ来ることはないだろうな」と。
●グーグル・アース
話はぐんと21世紀の現在に飛ぶ。
最近では、グーグル・アースというサービスを使うと、一瞬にして、世界中、
どこへでも「行く」ことができる。
住所を打ち込めばよい。
するとその地域の家々が、まるで数十メートルの高さから見るように見える。
私はそれを使い始めたとき、一番先に、インターナショナル・ハウスをさがした。
もう4、5年前のことだろうか。
そのときは解像度もそれほどよくなかった。
ぼんやりとした建物でしかなかった。
それでもそれを見たとき、目頭が熱くなり、ついで涙がこぼれた。
で、さらに解像度があがった。
さらに鮮明な画像で、ハウスを見ることができる。
夢の中でしか見ることがなかった、ハウス。
それが今では、居ながらにして、パソコンの世界で見ることができる。
それがよいことなのか、どうかは私にはわからない。
●聖地
こんな簡単に、過去を見ることができるようになると、ありがたみが消えてしまう。
言うなれば、聖地の奥の奥まで、見えてしまう。
だからときどき、こう思う。
「こんなサービスなど、ないほうがいい」と。
夢の中で、探し回るほうが、聖地らしい。
実際、私は若いころ、そういう夢をよく見た。
そこにハウスがあるはずなのだが、なかなかたどりつけない。
やっとたどりついたと思ったら、また別の場所。
そんな夢だった。
……そんなとき、私はいつも夢の中で、涙をこぼしていた。
●決定
私は30歳になる少し前、飛行機事故を経験している。
あのままあの飛行機が、あと100~200メートル先に進んでいたら、
私は死んでいただろう。
そういう事故だった。
以来、飛行機恐怖症になってしまった。
飛行機に乗ることはできるが、旅先で、不眠症になってしまう。
その不眠症に苦しむ。
それもあって、飛行機に乗るのは、特別のばあいだけ。
が、今回はちがう。
その前に、胃ガン検診を受けた。
2センチ大の腫瘍が見つかった。
ドクターは、1~2センチと言った。
で、生体検査。
結果がわかるまで、1週間かかると、ドクターは言った。
その1週間。
いろいろ考えた。
死を身近に感じた。
結果は、シロ。
Group1。
その結果が出たとき、決めた。
ワイフをオーストラリアへ連れていってやろう、と。
●結婚
こんな話もある。
オーストラリアの友人が、こんな内容のメールをくれた。
娘の1人が、結婚することを決意したという。
そのきっかけが、今回の、ニュージーランド地震。
多くの日本人も犠牲になった。
そのとき友人の娘のボーイフレンドも、たまたま仕事で、クライスト・チャーチ
にいた。
かなりあぶなかったらしい。
で、「2人は、結婚することにした」と。
私もそのボーイフレンドに会ったことがある。
それから3年。
別れたり、くっついたり。
それを繰り返していた。
が、その地震で、友人の娘は、本気でそのボーイフレンドを心配したらしい。
俗な言い方をすれば、それで自分の愛を確認したらしい(?)。
友人のメールでは、そこまでは書いてなかった。
しかし私はそう解釈した。
だから返事には、こう書いた。
「ぼくも同じ。ぼくには、2人の気持ちが、よく理解できる」と。
●緊張
しかしやはり緊張してしまう。
どういうわけか、緊張してしまう。
大きな会場で、講演をする前の気分に似ている。
「あれもしなければならない」「これもしなければならない」と。
そんなことばかりを考える。
「飛行機はタクシーより安全」と、人は言う。
しかし私にとって飛行機とは、棺桶のようなもの。
閉ざされた、狭い空間。
金属のかたまり。
それが弾丸にように空を飛ぶ。
今までもそうだった。
が、今回は、ワイフも行く。
だから余計にしっかりと書く。
私は飛行機に乗る前には、かならず、遺書を書く。
遺書を、しっかりと書く。
ひとつだけちがうことがあるとすれば、遺書の相手。
「今度は死ぬときは、いっしょだからね」とワイフに言う。
ワイフはそれを聞いて笑う。
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【人間性vs哲学】
●悪徳ヘルパー
訪問介護は、本当に安全か?
だいじょうぶか?
そう問われたら、大半の人は、「Yes」と答えるだろう。
たしかにそうかもしれない。
今、巷(ちまた)で問題になっている、悪徳ヘルパーは、ほんの一部。
それはわかる。
つまり「一部」ということは「一部」。
が、ゼロではない。
私の知りあいにも、そういう例がある。
この先、日本は高齢者社会になる。
それと並行して、こうした悪徳ヘルパーの問題は、深刻化するはず。
早急に手を打つ必要がある。
とりもなおさず、私たち自身の老後を守るために!
●身内
もっとも悪徳ヘルパーといっても、基本的には、他人。
他人だから、「悪徳」になっても、まだ話はわかる。
しかし身内となると、内情は複雑。
疑う人もいないから、それが発覚することは、まずない。
こんな例が、ある。
……去年、Yさん(女性、享年86歳)が、他界した。
かなりの財産家だった。
それまでは独り住まいで、ときどき近くにいる娘が、様子をみにきていた。
が、いよいよ生活ができなくなったということで、数か月間、その娘の家に身を寄せた後、同じ市内にある特養に入居した。
Yさんは、特養に入居して、ちょうど1年後に、他界した。
で、その間にも娘は、Yさんの家(娘の実家)に自由に出入りしていた。
「掃除」とか「家に風を通す」とか、言っていた。
が、Yさんが他界。
弟氏以下、親戚の人たちが、その家に集まったときには、家の中は、まさにモヌケのカラ。
めぼしいものは、タオル1枚、なくなっていたという。
弟氏は、こう言った。
「母は若いころから、タンス預金派でした。
そうした現金も、1円単位で消えていました」と。
●哲学の問題
ホームヘルパーが安全かどうかと問われたら、あなたはどう答えるだろうか。
あなた自身の問題として、考えてほしい。
言い換えると、今のこの日本で、純粋な人を求めるのは、不可能と考えてよい。
……たとえば、そこに100万円の札束がある。
持っていこうとすれば、自由に持っていくことができる。
だれも見ていない。
持っていっても、だれにもわからない。
そういうとき、あなたなら、どうするだろうか。
100万円という札束でなくても、身の回りの金目のものなら何でもよい。
そういうとき自分の心にブレーキをかけられる人は、どれくらいいるだろうか。
これは人間性の問題ではない。
「人間性」を言うなら、「もっていかない人は、いない」。
だからこれはその人の哲学の問題ということになる。
が、そこまで自分の哲学を完成させるのは、たいへんなこと。
●制度改革
では、どうするか。
方法は、簡単。
「制度」を整備する。
(1) ホームヘルパー制度を、2人制にする。
(人員が足りなければ、監督者を置き、その下で、ホームヘルパーが活動するようにする。)
(2) 月単位での交代制にする。
1人のヘルパーが、長期間、同一老人の世話をするという制度を改める。
が、ご存知の方も多いと思うが、今の制度は、穴(アナ)だらけ。
上記(1)(2)について、明確な規則、規制すらない。
それこそ悪徳ヘルパーにかかったら、いとも簡単に、老人たちはそのまま被害者になってしまう。
ちなみに、私の教室で、6人の中学生(注1生)に聞いてみた(2012年4月24日)。
「だれもいない夜道で、サイフを拾った。
中をみると、10万円入っていた。
そういうとき、あなたはどうするか」と。
「正直に答えろ」と念を押して聞くと、6人とも、こう答えた。
「もらう」「ネコババする」「自分のものにする」と。
これがここで私が言う、「人間性」ということになる。
その人間性は、老いも若きも、男も女も、共通している。
(だからといって、私は性悪説を支持しているわけではない。誤解のないように!)
●哲学
そこで登場するのが、哲学ということになる。
「理性」の登場ということになる。
わかりやすく言えば、思考力。
それがあるかないかで、その人の哲学が決まる。
その哲学を、どう完成させていくかということ。
簡単に言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取らせる。
それが日々に昇華し、やがてその人の哲学になる。
では、私のばあいは、どうか。
もともと私は邪悪な人間。
自分でもそれがよくわかっている。
だからこうして毎日、精進している。
が、もしそこにある100万円や金品に手をつけたら、それまでの苦労がアワとなって消える。
時間を無駄にする。
それが怖いから、そういったものには、手をつけない。
そうでなくても人生は短い。
回り道をしている暇はない。
わずかなお金やモノで、回り道はしたくない。
仮にここで100万円に手をつければ、それで汚れた心は、どうやって元に戻せばよいのか。
100万円という金品で得た満足感は、同時に、私という人間性に穴を開けてしまう。
その穴を再び埋めるのは、容易なことではない。
が、迷わないわけではない。
迷う。
道路でサイフを拾ったりするたびに、迷う。
それについては、たびたび書いてきた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以前、こんな原稿を書いた。
2004年ごろ、書いた原稿ではないかと思う。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●善人ぶる
私はいつから、こうまで善人ぶるようになったのか。
とくにそれを強く感ずるのは、講演に招かれたときだ。
講師として、演壇の横にすわり、紹介されるのを待つ。
主催者のあいさつのあと、講師紹介が始まり、そしてそれが終わると、演壇に登る。
そのとき、私は、ふと、「どうして私がここにいるのか」と思う。
善人ぶることなら、だれにだってできる。簡単なことだ。それほど大きな努力はいらない。
さも知っているという顔をして、柔和な笑みを浮かべ、静かにしていればよい。
何かを聞かれても、きれいごとだけを並べていればよい。
しかし本当にむずかしいのは、自分の中の悪と戦うことだ。堕落(だらく)から、身を守ることだ。
あのトルストイも、『読書の輪』の中で、こう書いている。「
善をなすには、努力が必要。
しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」と。
前にも書いたが、よいことをするから、善人というわけではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
人は、悪と戦って、はじめて善人になる。
たとえば道路に、大金の入っているサイフが落ちていたとする。
一〇〇万円とか二〇〇万円でよい。
まわりにはだれもいない。
あなたがそれをもって帰っても、見つかることは、まず、ない。
しかもあなたは今、お金に窮している。
その日に食べる食事代もない。そういうとき、あなた自分の中の邪悪さと戦うことができるか。
それが、ここでいう「悪と戦う」ということである。
こうした悪と戦う場面は、実は、日常生活の中では、頻繁(ひんぱん)に起こる。そういう意味では、人間はまさに社会的な動物である。
人と会っただけで、いつもそういう立場に立たされる。
そこで大切なことは、まずささいな悪と戦ってみる。
ウソをつかない。ゴミを捨てない。
ルールを守る。
インチキをしない。
そういうささいな戦いを通して、戦い方を身につける。
自分を鍛える。
私のばあい、いちいち考えて行動するのがめんどうだから、自分で教条的に、それを決めて従うようにしている。
たとえばウソにしても、一度ウソをつくと、あとがたいへん。
つじつまを合わせるために、つぎつぎとウソをつかねばならない。
気をめぐらさなければならない。
考える力があったら、もっとほかのことに使いたいという思いもある。
だからウソはつかない。が、それでももし、大金の入ったサイフが落ちていたら……。
そんな「私」を知るひとつの手がかりとして、こんな事件があった。
私が大学三年生のときのこと。
夜、バス停でバスを待っていると、足もとに1000円札が落ちているのに気がついた。
私はとっさに、なぜそうしたかはわからないが、それを足で踏みつけて隠した。
うしろはたまたま交番だった。
私はそのままの姿勢で、じっと立った。
今でもそのときの気持ちをよく覚えているが、私はそれを、何かのワナではないかと思った。
手でつかんだとたん、うしろから警官がやってきて、「逮捕する」とか何とか。
私はつぎつぎとやってくるバスを見送りながら、時間にして、30~40分はそのまま立っていた。
1000円といっても、今でいう、5000円ほどの価値がある。
その上、当時の私は貧乏学生。一度でよいから、あのトンチャン(焼肉)を、腹いっぱい食べてみたいと思っていた。
が、どうしても手をのばしてそれを拾うことができなかった。
私は法科の学生だった。そういう自負心もあった。
だからそのまま立っていた。が、多分、不自然な位置だったと思う。
あとから並んだ人が、けげんそうな顔つきで私をながめながら、横を通り過ぎ、バスに乗り込んでいったのを覚えている。
私は善人か。それとも善人ではないか。そこでこういう話を、中学生にぶつけてみた。
「君たち、交番の前で、5000円を拾ったら、どうする?」と。
6人の中学生がいた。
すると、全員が、「交番に届ける!」と。
そこですかさず、「君たちは、本気か?
きれいごとを言っているだけではないのか?」と聞くと、また「交番へ届ける!」と。
ひとり、「どうせそういうお金は、自分のものになるよ」と。
そこでまた私は考えてしまった。中学生でもわかる論理が、当時の私にはわからなかったのか、と。
いや、頭の中でシミュレーションするのと、実際、そういう立場に立たされるのとでは、受けとめ方はまるでちがう。中学生の言葉をそのまま信ずることもできない。
そこで話を変えて、「1000円だったら、どうする?」「500円だったら、どうする?」と聞いてみた。
すると、「1000円なら、もらってしまうかな」「100円だったら、ぼくのものする」と。どうや
ら、こうした善悪は、金額によって決まるようだ。
……ということは、彼らがもっている論理は、倫理ではない。
それが倫理であるかどうかは、つまりその人の行動規範であるかどうかは、人が見ているとか、見ていないとかいうこととは関係ない。
このケースで言えば、金額の大小ではない。
あくまでも自分の問題なのだ。
たとえばゴミにしても、「大きなゴミは、道路に捨てないが、小さなゴミなら捨てる」というのは、倫理ではない。
たとえガムの食べかすでも、道路へ捨てない。そういうふうに、自分を律する力が、倫理なのだ。
私はしかし、中学生たちが、「1000円なら、拾ってもらってしまうかな」と言ったとき、正直言って、ほっとした。理由は簡単だ。
私はそのあと、うしろの交番に目をやりながら、その1000円札を拾って、すかさず自分のポケットにつっこんだ。
そしてあとは一目散に、その場を走って逃げた。うれしかった。本当にうれしかった。
そして私は今でも、はっきりと思えているが、その1000円で、喫茶店でお茶を飲んだあと、あのトンチャン屋へ足を運んだ。
ライスが100円。
トンチャンが一皿、150円。
それを腹いっぱい食べた。
そんな私が、今、善人ぶって、みなの前に立つ……?
いつか私を講演会で見る人がいたら、ぜひ、このエッセーを思い出してみてほしい。
そしてこう思ってほしい。
「あの、林め、偉そうな顔して、善人ぶっているが、どうしてあんな男が、ここにいるのか?」と。
そう思ってもらったほうが、私にとっては、ずっと気が楽になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 石川門 交番 バス停)
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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