2012年4月9日月曜日

●意識がズレるとき

●意識のズレ

●3月19日、山荘に一泊

 昨夜遅く、山荘にやってきた。
途中、コンビニで、いくつかのものを買った。
せんべい、チューハイ、それにチョコレート。

 山荘に着くと、すでに春の匂い。
たとえ雑草でも、若葉には、若葉の匂いがある。
そう言えば、10日ほど前、ウグイスの初鳴きを聞いた。
が、今朝は、それがない。
どうしたのだろう? ……と思いながら、この文章を書いている。

 時は、2012年3月19日、月曜日。

 今週は、大きな目標(?)がある。
小学1~2年生たちに、「速度と時速」を教えてみる。
私にとっても、はじめての試み。
そのための教材を午前中に、用意する。
(実際、その教材を使うのは、今週の木曜日からだが……。)

 先週、小学6年生の子どもが、速度の計算で悩んでいた。
いろいろ説明してみたが、最後まで納得できなかったよう。
それで今週は、「速度と時速」を教えてみたくなった。

 こんな問題だった。

【問】
 山に登りました。
頂上までの距離は、12キロ。
行きは、時速4キロ、帰りは、時速6キロで歩きました。
平均時速を求めなさい。

 その子どもは、「(平均時速は)5キロ」と答えた。
何度説明しても、「5キロ」と。
そう言い張った。
で、紙に山の絵を描き、「あのね、まずね、往復の時間を求めてからね……」と。
が、それでも納得できなかったよう。

 そこで今週は、「速度と時速」。
小学1~2年生のころ、その「種」をまいておく。
その種は、やがて子どもの脳の中で、芽を出し、成長する。
学校で、速度や時速について学ぶころには、大きく成長しているはず。
これを称して、「種まき教育」(はやし浩司)という。

 大切なことは、子どもを楽しませること。
この先、いろいろな場面で、「速度」とか「時速」とかいう言葉を耳にする。
そのとき子どもがそういった言葉に、前向きに反応するようにすること。
そのために「楽しい」という印象づくりを大切にする。
それが大切。

 なお誤解があるといけないので、一言。

 私のところでは、算数だけを教えているわけではない。
小学2~3年生になると、国語も教える。
レッスンの前の、10~15分程度を、その時間にあてている。
……といっても、国語については、筆写と作文。
この2つ。

 筆写させる文章は、古文から現代文まで。
明治以後の文豪の書いた文章が多い。
が、そういった指導は、YOUTUBEで紹介しても、あまり意味はない。
どうか、誤解のないように。

【答え】

 先の平均時速の問題について、正解は、4・8キロ。
往復5時間(行きは3時間、帰りは2時間)で、24キロを歩いたことになる。
だから24÷5=4・8(キロ)。

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司


【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【意識のズレ】(意識の錯視)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

錯視という言葉がある。
昔は「目の錯覚」と呼んだ。
同じ図形でも、見方によって、魔女にも見えたり、少女に見えたりする。
あるいは中央に、花瓶がある。
が、見方を変えると、両側に女性の顔が現れる。
こういうのを錯視と呼ぶが、「色」についてのも、よく知られている。
同じ色でも、周囲を明るい色に取り囲まれると、暗く見える。
周囲を暗い色に取り囲まれると、明るく見える。
人間のもつ「意識」についても、この錯視がよく起こる。
見方によって、180度、違う。
あるいは同じ意識でも、社会的環境の中で、まったく違った「色」に見える。
そういうことは、よくある。
意識に基準もなければ、標準もない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KS君

 私が「意識ズレ」を実感したのは、そのときだった。
中学2年生になったKS君という男子がいた。
市内のS小学校に通っていた。
小中一貫校として知られ、進学校としても有名だった。
が、うち3分の2の生徒は、小学校からのもちあがりの生徒だった。
残りの3分の1は、中学進学時に、各小学校から入学してきた、選り抜きの生徒だった。

 KS君は、今でいうLD児だった。
文章の読解力が、極端に劣っていた。
実際には、長文の文章を読むことができなかった。
そのため、国語はもちろん、社会、理科も、苦手だった。
……という回りくどい言い方はやめよう。
学校でも評判の、できの悪い生徒だった。
S小学校という学校だったからこそ、余計に目立った。
1、2年、学年が上の児童も、下の児童も、「KS君」という名前を出しただけで、笑った。

●「後悔していないか?」

 ふつう学力が極端に劣っている生徒のばあい、中学進学時に、ほかの普通校に転校していく。
が、強制力はない。
KS君は、そのままS中学校に残った。

 ただ数学だけは、得意だった。
それがKS君の取り柄になっていた。
が、ある日、私はKS君にこう聞いた。
仲間にも、何かにつけ、バカにされていた。
「なあ、KS君、君はS小学校に入学したことを後悔していないか?」と。

 私はKS君が、そういう進学校で、最下位の成績ということを心配し、そう言った。
が、KS君の答は、意外なものだった。
K「ううん、後悔してないよ」
私「じゃあ、学校は楽しいか?」
K「楽しいよ」
私「だって、勉強が苦手だろ?」
K「勉強は苦手だけど、放課後は楽しいよ」と。

 「後悔しているだろう」と思い、心配していた私。
が、KS君は、「楽しい」と。
みなにバカにされながらも、KS君は、自分の世界をちゃんと守っていた。
クラスでも人気者だった。

●親子の意識

 こうした意識のズレは、そのつど経験する。
こんなこともあった。

 高校3年生になったA君が、こう言った。
「親父のヤツ、地元の大学へ入れと言ってうるさい。チクショー!」と。
その言葉に、はげしい憎悪の念を感じた。
理由を聞くと、「親父は、自分の老後のめんどうを、オレにみさせようとしている」と。

 で、しばらくして、私はA君の父親と話す機会があった。
私は大学進学の話をした。
父親はこう言った。
「うちは、経済的に余裕がないから、息子には、できれば家から大学へ通ってほしいのです」と。

 で、再びA君との会話。
私「お父さんも、今、たいへんなんだから、自宅から通える大学にしたら?」
A「うそだよ。親は子どもの将来のためなら、借金でも何でもして、子どもを大学へ送るべきだよ」
私「若い人はそう考えるけどね」
A「子どもは親より、幸福になる権利がある。ぼくが親になったら、そうする」
私「自分で子育てをしてみると、思い通りにはいかないものだよ」
A「親父はね、自分の老後を心配しているんだよ。ぼくを利用しようとしているんだよ」と。

 親子の間でも、意識が大きくズレることがある。
そのズレは、時代や世代にまたがることもある。

●嫌われる団塊の世代

 最近、こんな意識のズレを経験した。
2チャンネルを読んでいたときのこと。
若い人たちが、団塊の世代を、「敵」と呼んでいるのを知った。
(「敵」と書いて、「カタキ」と読むらしい。)

 これには驚いた。
そこでその前後の記事に、目を通した。
で、わかったことは、「日本の繁栄をつぶしたのは、団塊の世代」と。
さらに「これからの高齢者世代は、ゴミ」とも。
みなが、そう考えているのがわかった。

 とくに強く意識しているわけではないが、私たち団塊の世代には、団塊の世代なりの、自負心がある。
「日本をここまで繁栄させたのは、私たち」と。
が、20代、30代の若い人たちは、私たちの世代に対し、正反対の意識をもっている。

●戦中派vs戦後派

 もっとも世代にまたがる意識のズレは、いつの時代にもある。
たとえば戦中派と戦後派。

 戦中派の人たちは、「日本を命がけで守ったのはオレたち」という意識が強い。
一方、戦後派は、「日本を焼け野原にしたのは、戦中派」という意識が強い。
「おかしな戦争をするから、日本はいまだに苦労しているのだ」と。

 そう、いまだにこの日本は、中国や韓国など、近隣諸国から、ああでもない、こうでもないと文句ばかり言われている。
そのたびに、私たち団塊の世代の多くは、「あの戦争はまちがっていた」と言う。
「日本が焼け野原になったのは、戦中派の人間のせい」と。

 しかしそう思う私たちと、私たち団塊の世代を「敵」と思う若い人たち。
どこがどうちがうというのか。
 
●親のめんどう

 が、意識のズレをもっとも強く感ずるのは、「親のめんどう」の話になったときのこと。
私たちの世代は、親のめんどうをみるのは、子どもの役目と考える。
「家族」というときは、そこにはかならず、祖父母がいた。
「当然」というより、そんなことは、常識。
疑うこともなかった。

 が、今は、ちがう。
悪しき欧米文化の影響というか、「家族」から祖父母が除外されてしまった。
若い人たちが「家族」というときは、自分と配偶者、それに自分の子どもたちだけの世界をいう。
もとから「親(祖父母)のめんどうをみる」という意識、そのものがない。
ないことは、先日紹介した、千葉市に住む、EH氏からのメールでも、わかる。
EH氏はこう書いている。

 「(自分の)めんどうをみてほしかったら、息子(娘)に、頼めばよい」と。
さらにこうもあった。
「親のめんどうで、息子や娘をしばるのは、それこそ家族崩壊」と。

 意識も、ここまでズレてくると、私はもう何も言うことはない。
まだ子育てが始まったばかりで、しかも親の介護もしたことがない若い父親が、ここまで言う。
私は「異常」と思うが、それが最近の若い世代の常識ということになる。

●意識論

 意識というのは、そういうもの。
それぞれが、それぞれの意識をもっている。
「常識」と置き換えてもよい。
で、それぞれの人が、それぞれの常識をもって、自分の意見を組み立てる。

 同じ形なのだが、見る人の視点によって、180度ちがう。
意識そのものが、だまされることもある。
まわりの色によって、濃淡が変わる。
「貧困」がよい例である。

 現代の人たちは、自動車を自由に乗り回している。
半世紀前には、車をもつこと自体、夢だった。
それでも「貧しい」と言う。
進学にしても、そうだ。
私の時代でも、半数が「就職組」。
高校へ進学できる中学生は、半数に過ぎなかった。
大学はもちろん、高校にしても、「行かせてくれ」と、親に頼んだ。
が、今、親に頼んで、高校や大学へ行かせてもらう中学生や高校生はいない。
もちろん感謝の「カ」の字もない。
親子の意識のズレとなると、もっと大きい。

 たとえば親が息子にこう言ったとする。
「(仕事がなくなったら)、地元へ帰って来い」と。

 親は、「何かにつけ、都会生活は、殺伐としていて、たいへんだろう」という思いをこめてそう言う。
仕事がなくなれば、なおさら。

 が、息子氏のほうは、そうは思わない。
「老後のめんどうをみさせるために、オレを地元に戻そうとしている」と。
親のやさしさが、かえって子どもの反発を買うこともある。

●ついでに……

 ついでに、ことこの私について。
「息子たちに老後のめんどうをかけたくない」という思いは、人一倍、強い。
自分で、実兄や実母の介護で苦労した。
社会へ入ると同時に、以後、45歳まで、収入の半分は、実家へ送った。
金銭的負担感というよりは、社会的負担感に苦しんだ。
その苦労を知っている人ほど、「息子や娘たちには、同じ苦労を経験させたくない」と思う。

 が、今、息子たちにその話をすると、こう言い返される。
「パパは、ぼくたちにも同じことをしろと言っているのか。
ぼくは、自分の息子や娘に、そんなことはさせない!」と。

 親の世話も、介護もしたことがない、(させるつもりもないが)、息子たちがそう言う。

●意識

 意識というのは、10年単位で変わっていく。

 戦後派の人たちにとっては、「金権」が、最大のテーマだった。
「出世」という言葉も、もてはやされた。
「国のため」が、「会社のため」となり、企業戦士が生まれた。
「一社懸命」という言葉も生まれた。
ひもじさの戦いが、いつしか、金権教と結びついていった。
「金(マネー)こそ、すべて!」と。
が、私たちの世代にとっては、「反権力」が大きなテーマになっていた。
60年代安保闘争。
70年代安保闘争。

 しかしつづくつぎの世代には、それが「反世代」へと変化した。
尾崎豊が歌った、『♪卒業』などに、その例をみる。

 が、さらに最近は、恋愛至上主義。
欲望第一主義と置き換えてもよい。
欲望の追求こそが、善であり、目的である、と。
映画『タイタニック』のジャックとローズに、若い人たちは、「人間の理想」を見た。
悪しき欧米文化の影響である。

 その結果が今。
世代ごとに、意識が大きく変化した。
が、その意識も、よくよく観察すると、見方がちがうだけ。
そういうふうに感ずることも多い。

 原点に同じ(欲望)がある。
その(欲望)が、見方によって、ちがって見える。
あるいは周囲の環境によって、ちがって見える。
が、中身は同じ。
親を思う心。
子を思う心。
みな同じ。
しかし見方がちがう。
周囲の環境がちがう。
だからまったく、ちがって見える。
言い換えると、(欲望)にメスを入れないかぎり、(意識)の本質を知ることはない。

 ……とまあ、話が入り組んできたので、この話は、ここまで。
こういう理屈ぽい話は、みなに嫌われる。
別の機会に、もう少しかみくだいて書いてみたい。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 意識 錯視 はやし浩司 意識のズレ)

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【サンヒルズ三河湾にて1泊(2月1日)】

●2月1日(2012年)、愛知県三谷町のサンヒルズ三河湾に一泊しました。
 最高のホテルでした。
 招待してくださった、KUさん、ほかのみなさん、ありがとうございました。
 生涯で、最高のホテルでした。
http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 サンヒルズ三河湾 ホテル 蒲郡 三谷町 サンヒルズ はやし浩司 2012-02-01)
iroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【サンヒルズ三河湾に一泊】(はやし浩司 2012-02-01)

http://youtu.be/ogBqrcLcVt8

+++++++++++++++++++++++++

今日は、サンヒルズ三河湾に一泊。
今まで、数々の旅館やホテルに泊まってきた。
どこかに講演に招かれるたびに、その土地の旅館やホテルに泊まってきた。
私たちの趣味にもなっている。
が、その中でも、最高。
最高級ホテル(旅館)。
特別室。
202号室。
室内に露天風呂があり、三河湾を眼下に、右手には三谷町が一望できる。
沖縄では、ロワジールホテルに泊まった。
そのホテルが、今までに泊まった中では、最高と思っていた。
が、そのホテルを超えた。

(ロワジールホテルは、超近代的なホテル。
ここ、サンヒルズ三河湾は、設備などは、ロワジールホテルよりは、やや古いという感じ。)

ワイフは、何度も、「すごいわね」と、ため息を漏らした。
本当にすごい。
ロビーにしても、全面、大理石で、ピカピカに磨かれていた。
私の言葉を疑う人は、一度、宿泊してみたらよい。
場所は、三谷温泉・サンヒルズ三河湾。
とにかく、本気度、120%。
「ここまでやるか!」と思わせるようなホテル。
トイレのトイレットペーパーを覆う金属板まで、ピカピカに磨かれていた。
今度、オーストラリアの友人の娘さんが、結婚する。
ハネムーンに、日本へ来るという。
宿泊先として、私は、このホテルを推薦する。
とにかく、すばらしい!
お世辞抜きに、すばらしい!

+++++++++++++++++++++++

●本気度

 部屋は入る前から、暖房されていた。
風呂(露天風呂)も、適温に調整されていた。
一事が万事。

 先ほど、地下一階の大浴場をのぞいてみた。
場違いなほど、大きく、すばらしかった。
満足を通り越して、大感激。
こうした接客業は、本気度で決まる。
その本気度を肌で感じたとき、客は満足する。

●雪景色

 先ほどからワイフが、窓ガラスの前に立ち、眼下の三河湾を見下ろしている。
外はすっかり冬景色。
近くの大木が、風で大きく揺れている。
それを見ながら、「あら、雪が降ってきたわ」と。

 声につられ、私も、外を見た。
細かい雪が、風にのって、フワフワと横に流れていた。

●三谷町

 三谷町に入る手前で、ワイフとこんな会話をした。
「いろいろあったね」と、私。
「そうね」と、ワイフ。
私「ぼくはね、とにかくピンコロで逝(い)きたい」
ワ「私も、病気になってから、長生きしたくないわ」
私「そうだな。ぼくは限界の、そのまた限界まで働き、その翌朝、コロリと死にたい。仕事中でもいい」
ワ「私も、そうだわ」と。

 そんな会話をしていると、ふと、目頭が熱くなった。

●模擬死体験

 「臨死体験」という言葉がある。
その臨死体験とは、ちがう。
「死」そのものを、模擬的に体験する。
「ああ、このまま死ぬのか」と。

 私もここ数年で、2回、それを経験した。
そのときのこと。
どのばあいも、私は、いつも穏やかで、安らいだ気分になった。
あれほど死を恐れていたはずなのに、その場になると、そうでない。
恐怖心はまったく、ない。
静かだった。
本当に静かだった。
一度は、こう思った。
「やっと死ねる」と。

 だから今はもう、死ぬことは怖くない。
今すぐ……とは考えていないが、そのときになったら、素直にそれを受け入れる。
その自信は、できた。
私は、ラッキーだった。
この年齢になるまで、無事、仕事ができた。
大きな病気も経験しなかった。
病院のベッドで寝たことは、一度もない。
お金に困ったこともない。
それだけでも、感謝。
感謝、感謝、感謝。

 たいしたことはできなかったが、今は、毎日が楽しい。
朝起きたときから、やりたいことが、どっと襲ってくる。
それができる。
思う存分、できる。
それを「幸福」と言わず、何と言う。
これ以上のぜいたくが、あるだろうか。

●バカ話

 こういうことを書いていると、誤解する人もいるかもしれない。

 基本的には、ワイフは、人前では別人のように静か。
しかし私とは、その別人とは別人のように、よくしゃべる。
うるさいほど、よくしゃべる。
内容は、いつも、バカ話。
いつも深刻な話をしているわけではない。
卑猥(ひわい)な話も多い。
話は前後するが、車の中で、こんな会話もした。

ワ「男は、『沈没』※というでしょ。じゃあ、女性は、何と言えばいいの?」
私「『閉幕』というのは、どうか?」
ワ「そんなもの、とっくの昔にないわよ」
私「……そうだなあ……。『落盤』というのは、どうかな? 
トンネルが、落石か何かで、詰まったとか……」
ワ「詰まることはないわよ」
私「そうだなあ……。じゃあ、やっぱり枯れススキ。枯れススキがいい」
ワ「……枯れススキ……ねえ……」と。

 ワイフの会話の特徴は、突然、いつも横ヤリが入ること。
真剣に(?)その話をしていると、突然、話題を変える。
「あら、あんなところに、ポリタンクがある!」と。

 昔、2人で、山荘を造成しているとき、そのポリタンクを探した。
が、探しているときというのは、どこにあるかわからない。
手に入れるのに、苦労した。
あちこちを探しまくった。
ワイフはそれを思い出したらしい。
私「探しているときは、なかなか見つからないのにね」
ワ「あんなところで売っているなんて……」と。

 豊橋へ入る国道1号線沿いの店で、そのポリタンクが、山のようにして売られていた。

(注※……男として、役に立たなくなることを、「チン没」という。

●三河湾

 鉛色の三河湾。
両側から半島が、左寄りに突き出ている。
薄い紺色。
それが幾重にも重なり、無数の横筋を作っている。
美しい。
気が遠くなるほど、美しい。
詩人なら、もう少しまともな表現ができるだろう。
が、私はただ一言。
 美しい!

●眼下の建物

 ワイフが眼下の建物を見ながら、こう言った。
「魚市場かなア?」と。
私は、ボートレース場ではないかと思っている。
駐車場のような幅の広い建物が見える。
その向こうは、観客席のようにも見える。
この蒲郡(がまごおり)市には、ボートレース場がある※。

 何だろう?
その右手には、先にも書いた三谷町の街並みが見える。
ひとつ、ひとつ、またひとつ。
小さな明かりが灯り始めた。

 ホテルの案内には、こうあった。
「露天風呂からは、三谷町の夜景が一望できます」(記憶)と。
夜を待たなくても、その夜景が目に浮かぶ。

(注※……眼下の明かりは、スーパーとパチンコ店、その向こうは、漁港だそうだ。
フロントの女性が、そう教えてくれた。)

●支えあう

 人はそれぞれ、たがいに支えあって生きている。
それを強く感じたのは、中日ショッパーという、宣伝紙で、だった。
今から、5、6年前のこと。
一度、広告を出したのがきっかけだった。
以後、ときどき無料で、私の教室を紹介してくれるようになった。

 お金の計算にはうるさい私だが、こと原稿に関しては、無私無欲。
損得を考えず、自分の原稿をすべて無料で、公開している。
それを編集部のT氏が応援してくれた。
うれしかった。

 個人の幼児教室は、すべて姿を消した。
(もう1か所、北部のK区にあると、聞いている。)
25年前には、10教室程度あった学習塾も、すべて閉鎖に追い込まれた。
そんな中で、おかげで……というか、中で、私の教室だけが、今も生き残っている。
ワイフは、「ふんばったおかげよ」と言うが、それだけにきびしい仕事だった。
中に、無神経な人がいて、こう言う。
「はやしさん(=私)は、自由でいいですね」と。

 そういうとき、私はいつもフンと鼻で笑って、こう思う。
「そう思うなら、自分でやってみれば」と。

 が、この4月からのことはわからない。
わからないが、少しずつ、動き出した。
基本的には、口コミ。
OBや現役の親たちが、案内書を配ってくれる。
生徒を呼んできてくれる。

 事実、今、来ている生徒の、6~7割が、OBの子どもたち。
9割以上の生徒は、口コミで入ってくる。

●2度目の入浴

 たった今、2度目の入浴をすまし、部屋に戻った。

大浴場。
そこも貸し切り状態だった。
入ったとき、男性が1人いたが、すぐ出て行った。

 部屋に戻ると、そこはすっかり夜景色。
無数のライトが、キラキラと宝石のように輝いていた。

●不吉な想像

 このところ悪い癖ができてしまった。
こうした海岸沿いの町を見るたびに、こう思う。
「だいじょうぶだろうか?」と。

 3・11大震災のときは、沿岸の町々が、大きな被害を受けた。
が、今度は、東南海大地震が予想される。
3・11大震災並みの津波が、襲ってくる可能性もあるという。
もしそうなら、この三谷町の町も、ひとたまりもないはず。
と、同時に、こうも考える。

 こんな町々が、東北地方にもあったのだなあ、と。
そういう町々が、津波に飲み込まれ、あとかたもなく、消えてしまった。
この非現実感。
どう心の中で、処理したらよいのか。

●自転車屋

 どこの町も、市内の商店街は、商売不振に苦しんでいる。
郊外に大型店ができた。
客を奪われた。

 そのため古い町ほど、多くの商店街が、店を閉めてしまった。
地域によっては、「シャッター街」と呼ばれている。
実は、私の実家もそうだった。

小さな自転車屋だったから、ひとたまりも、なかった。
が、その苦しみや悲しみは、そういった商店街に住んだことのある者でないと、わからない。
10年単位、20年単位で、それがつづく。

 そこにあるのは、淡い期待だけ。
「明日は、今日よりよくなるだろう」
「来年は、今年よりよくなるだろう」と。

 その期待に希望をつないで、その日を何とか生きていく。

 家計など、あってないようなもの。
が、客には、背一杯、明るい笑顔をしてみせる。

で、近所の商店は、つぎつぎと店をたたんだ。
私の実家にしても、1日に、1~2人、客があるかないかという状態になった。

 晩年の実兄は、それを不安に思ったらしい。
数日ごとに電話をかけてきて、こう言った。
「お客さんが、ござらん(来ない)……」と。

 その言い方、声が、今でも、私の耳に焼きついている。
だから……。
つまりその民宿に泊まったとき、私はそのままそこに実兄と母を思い浮かべた。
実兄も、母も、同じような状況で、もがいた。

●実兄

 実兄は、私より9歳、年上だった。
が、私が30歳のころには、上下が逆転していた。
実兄が、私の弟のような存在になった。

 一方、実兄は、何かにつけ、私に甘えてきた。
「冷蔵庫が、故障して困っている(だから、新しいのを買ってほしい)」
「ステレオが壊れた(だから、新しいのを買ってほしい)」と。
私は、そのつど、実兄に、いろいろなものを買い与えた。

 実兄は、子どものころから、体が弱かった。
ちょうど戦時中に生まれた。
そのころの人は、みな、栄養失調だったという。
実兄も、その1人だった。

●口癖

 今日、食事のとき、ワイフとその話になった。
「もっとJちゃん(兄)に、いろいろしてやればよかった」と。

 兄が入院したときは、私は100万円を、届けた。
すべて1000円札にして、届けた。
「お金を見れば、元気になるだろう」と。

 ほかにも、いろいろある。
しかし私は、そうしたくて、したわけではない。
いつも追い込まれて、そうした。
それが私には、苦痛だった。
が、兄は兄。
いつも母は、口癖のように、私にこう言った。
「お前が大学へ行けたのは、Jちゃんのおかげだ」と。

 私はその言葉が、嫌いだった。
恩着せがましかった。
その言い方が、嫌いだった。
そのたびに、母と大喧嘩になったのを、覚えている。

●「何とかしてほしい」

 が、今、……つまり実兄が他界して4年になるが、その実兄が懐かしくてならない。
会いたい。
会って、思いっきり、抱きしめてやりたい。
手元にある小遣いを、すべて渡してやりたい。

 実兄は、死ぬ1、2年前まで、私に会うと、顔を見ただけで涙をポロポロとこぼした。
つらそうな涙だった。
「何とか、してほしい」と。

●兄のちょっかい

 歯がゆかった。
が、私は、卑怯にも、実兄から逃げた。
理由がなかったわけではない。
実兄は、私のワイフに、何かとちょっかいを出してきた。
私の目を盗んで、ワイフに抱きついたこともある。

 私は実兄を強く叱った。
が、晩年の実兄は、そういう道理すら理解できるような状態ではなかった。
私はともかくも、ワイフのことを考えると、いっしょに住むわけにはいかなかった。

 が、方法がなかったわけではない。
別棟の家は、すでに当時、あった。
そこへ住まわせることも、不可能ではなかった。
が、私はワイフへのちょっかいを、誇大に問題にし、それから逃げた。
今、それが私の心を重く、塞ぐ。

●慰め

 ワイフは、こう言って、私を慰めてくれた。
「あなたはじゅうぶん、したわよ」と。

 じゅうぶん?

 私にはその実感は、ない。
結婚前から、収入の半分は、実家へ送った。
が、送ったのは、お金だけ。
心は、送らなかった。
「お金さえ送っておけば、実兄や母や、それで喜ぶはず」と。
こんなたとえは、よくないかもしれない。
しかしこんなたとえのほうが、当時の私の気持ちを正確に表している。
当時の私は、冷酷な飼い主のようなもの。
餌だけを与え、それで満足していた。
まるで、厄介な犬や猫に、餌を与えるように……。

●実家を売る

 母のちょうど一周忌に、実家を売った。
捨て値のような値段で、売った。
私は、早く、実家から解放されたかった。
それでそうした。

 が、その当日の夜だったか、翌日の朝だったか?
私は実兄の夢を見た。
 
 私と実兄は、実家の前の坂を、下からあがってくるところだった。
実兄は、私の腕に手を回していた。
そして実家の前まで来た。
そのときのこと。
私が「やっとこの家から解放されたね※」と言うと、実兄は子どものように顔をすくめた。
すくめて笑った。
(注※……この部分は、言葉ではなかったように記憶している。
私がそう思っただけかもしれない。
なお母は最期の2年間を私の家で過ごした。
実兄は、3か月いたあと、郷里のグループホームに1年近く入居し、そのあと数か月後に、T市の病院で息を引き取った。
「恵まれなかった兄」ということで、葬儀だけは、人一倍、派手な葬儀をした。)
 
●午後10時30分

 一度、ベッドに入ったが、寝損ねてしまった。
エアコンの風が、気になった。
で、起きた。
時刻は、午後10時33分。

 少し前まで、今日書いた原稿を読みなおしていた。
読みなおしながら、「ここまで書いていいのかなあ」と思った。
私小説もよいところ。
が、同時に、こうも思う。
「はやし浩司」、ここにあり、と。

 やがて私も、灰となり、宙に舞う。
そのとき残るのは、こうして書いている文章だけ。
読者を意識することは、もうない。
ワイフですら、このところ、私の原稿を読まなくなった。
「飽きたのか?」と聞くと、「いつもまとめて読んでいるから」と。
ネットの世界は、そういう点では、不思議な世界だ。
相手の顔が、まったく見えない。
こうして書いていても、あたかも無の世界に向かって書いているような錯覚にとらわれる。
「書いている」というよりは、「叫んでいる」。
が、その声は、そのままどこかへ消えてしまう。

 だから、こうした文章を読み、こう思う人もいるかもしれない。
「はやし(=私)って、バカだなあ」、
「ここまで私生活を暴露することはないのに」と。
が、そう思いたければ思えばよい。
私自身も、すでに「私」を超えている。
1人の人間として、書いている。
「これも1人の人間」と。

●同窓会

 今夜は、名古屋で同窓会があった。
が、ドタキャンさせてもらった。
そしてこのホテルへ、やってきた。
講演会で知りあった、KUさんが、招待状をくれた。
「いつでもいいですから、使ってください」と。
で、急きょ、それを使わせてもらうことにした。
幸い、すぐ部屋が取れた。

 私はもともと、混雑したところが苦手。
回避性障害?
対人恐怖症?
……というより、私は若いころから、集団行動よりは、単独行動を好んだ。
人に、あれこれ指図されるのが、嫌いだった。

 が、それ以上に、今、名古屋は、インフルエンザの猛威にさらされている。
今週から、重要な講演がつづく。
健康には注意しなければならない。

●ワイフ

 静かな夜だ。
ワイフは、先ほどすでに寝息をたてていた。
すっかりバーさん顔になった。
そういう顔を見ると、申し訳なく思う。
私がワイフを、バーさんにしてしまった。
罪の意識を覚えることもある。

 がんこ。
超がんこ。
一度、自分の意見を述べたら、とことんそれにしがみつく。
若いときから、そうだった。
あだ名は、「石部金子」。
石部金吉をもじった。
私が、名づけた。
まじめ。
クソまじめ。
融通がきかない。
冗談が通じない。
だからよく喧嘩した。
衝突した。
が、今は、そんなワイフも、いとおしい。

●惜しい

 明日は午後イチバンから仕事。
「早く寝なければ……」と思う。
同時に、今の、この時間が、惜しい。
いつまでも、こうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
今夜あたり、何か新しいことを発見できるかもしれない。
宝探しのような感じ。
「徳川の埋蔵金探し」?
そこに何かあるかもしれないという期待感が、私をぐんぐんと引っ張っていく。
だから、自分にこう言って聞かせる。
「人間、1日や2日、寝なくても、どうということはないのです」と。

 ホテルのフロントの横で買った、せんべいをパクパクと食べる。
このあたりは、せんべいの産地。
「産地」というのもおかしいが、名物になっている。
ここへ来るとき、パーキングエリアで、休息した。
このあたりでは、どのパーキングエリアでも、そのせんべいを売っている。

 ああ、この満足感。
充実感。
これがあるから、書くのをやめられない。

●死骸

 今、海老せんべいを食べたところ。
ひからびた海老が、化石のように張りついていた。
人間も、残酷な生き物。
生き物の死骸を、平気で食べている。
骨と皮だけになった死骸を、平気で食べている。

●就寝

 あくびが連続して、出てきた。
就寝タイム。
……しかしどうして私は、こうまで貧乏性なのか。
精神医学的には、強迫観念症という(?)。
いつも何かに追い立てられている。
何かをしていないと、気がすまない。

 が、それが苦痛というのではない。
むしろ何もしないでいると、頭の中が爆発しそうになる。
だから吐き出す。
パソコンに向かって、文章を叩きだす。
今も、そうだ。
頭の中がモヤモヤしている。

●宇宙船

 やはり眠ることにする。
で、私の就眠儀式。
床に入ると、いつも巨大な宇宙船を、想像する。
直径が20~30キロは、ある。
円形の宇宙船。
毎晩、少しずつ、その宇宙船の各部を設計する。
それを考えていると、いつの間にか眠ってしまう。
今夜は、研究室を設計してみよう。
世界からやってきた科学者たちが、さまざまな研究をする。
そんな研究室。
つまり頭の中で、眠る前に、場所を決め、それを設計する。
それが私の就眠儀式。

 この1~2年、眠るときは、いつもそうしている。
「羊が1匹、羊が2匹……」と数える人もいるそうだ。
が、私には効果がない。
かえって頭が冴(さ)えてしまう。

 では、おやすみなさい。
はやし浩司 2012-02-01夜記

 ほんとうにここは、すばらしいホテルです。
招待してくれた、KUさん、ありがとうございます。
●2月2日(はやし浩司 2012-02-02)

 朝、起きる。
外を見ると、一面、うっすらと雪景色。
三谷町の家々の屋根が、白いペンキを塗ったようになっている。
すぐ下の森も、ところどころ白髪のように白くなっている。
昨夜、テレビのニュースでは、大雪の報道を繰り返していた。
多いところでは、5メートルを超える積雪になったとか。
橋が落ちたところもあるという。

 今度の大雪は、ふつうではない。

 が、その一方で、アメリカでは、暖冬とか。
アメリカに住む息子が、こう書いてきた。
「こちらは、4月上旬の気候です」と。
 窓を少し開け、外の様子をビデオに収める。

●帰り支度

 これから帰り支度。
では、今回の旅日記は、ここまで。
サンヒルズ三河湾、本当にすばらしいホテルでした。

 三河湾国定公園内
三谷町温泉
サンヒルズ三河湾
Sunhills Mikawawan
http://www.sunhills-m.com
Tel: 0533-68-4696
E-mail: miya@sunhills-m.com


(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 サンヒルズ三河湾 はやし浩司 シャッター街 シャッター通り 実兄 はやし浩司 シャッター通りの悲しみ サンヒルズにて はやし浩司 2012-02-01)

Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

映画『ドラゴン・タツーの女』(はやし浩司 2012-02-11)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、怠惰な1日だった。
起きたのが、午前9時。
そのあとすぐ30分の運動。
あとはルーティーン(日課)。
一息ついたのが、午後1時ごろ。
そのあと居間で居眠り。
3時ごろになって、ワイフが映画に行こうと誘った。
昨日公開された、『ドラゴン・タツーの女』。
それを聞いて、「『チンチン・タツーの男』のほうがいい」と、私。
……ということで、映画館へ。
今、時刻は午後11時10分。
山荘へやってきた。
途中、幸楽苑で、ラーメンを食べた。
いつも1人前を、2人で分けて食べている。
それでも量は多いほど。
満腹感で、腹の中が今も、ゴボゴボしている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浪曲

 今、私は浪曲の練習をしている。
子どものころは、毎日のように聞いていた。
祖父が、好きだった。
祖父は、自分では歌わなかったが、町に歌手がやってくると、かならず聞きに行った。
私もついていった。
それが今でも、耳に残っている。
「♪旅ゆけば、駿河の道に、茶の香り」と。

 「♪駿河の国に」と歌う人も多いが、初代広沢虎造も、二代目虎造も、「♪駿河の道に」と歌っている。
そのほかの歌詞は、そのときどきの録音によって、微妙に異なっている。
理由はいろいろ考えられる。
たとえばもともと決まった歌詞などなかった。
そのときの気分で、歌詞を変えた。
当時は、そういう時代だった、など。

 今では、YOUTUBEで、広沢虎造の浪曲を、自由に聞くことができる。
初代虎造のは少ないが、二代目虎造の録音になると、いろいろな時代の歌い方を楽しむことができる。
それを聞いていると、心はそのまま子ども時代に、タイムスリップする。
祖父が、そこに立っているような気分になる。

●韓国語

 ところでその浪曲を練習しながら、こんなことに気づいた。
最初の部分で、こう歌うところがある。
「♪海道いちの親分は~エ」と。
最後の部分に「エ(e)」という発音が入る。
なぜだろう。
民謡の中にも、ときどき似たような「エ」が入ることがある。
ご存知の方も多いと思うが、「エ」は、韓国語の「は」に相当する。
「私は、浩司です」の「は(wa)」である。

 日本語と韓国語は、兄弟言語。
こういうとことに「エ」が入っても、おかしくはない。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりほんの100年ほど前までは、日本語の中に、韓国語がまざっていた、と。

 こういった話は言語学者の分野。
私にはここまでしかわからない。
気にはなったので、ついでにここに書きとめておくことにする。

●テンポ

 浪曲の歌い方は、現代の私たちから見ると、かったるい。
テンポが遅いというより、のろい。
が、当時はそのようには、思わなかった。
浪曲がのろいとは、思わなかった。
生活のすべてが、浪曲のテンポで動いていた。
違和感は、まったくなかった。
時間にも余裕があった。

 居間にいると、息子がやってきたので、少し歌ってみせた。
あきれたような顔をして、私の顔をながめた。
で、私はこう言った。

 「昔はね、自転車屋でもね、客がいても、親父なんか将棋を指していたよ」、
「ときには客も、その将棋に加わることがあったよ」と。

 当時は、今より、はるかにゆっくりと時間が流れていた。
テレビで見る歌舞伎も、相撲も、落語も、みな、そうだった。
浪曲はそういう時代の歌だった。
当時の私は、ふつう以上に活発な子どもだったが、それでも、それを「のろい」と思ったことはない。

●密度

 こう考えてみると、時間とは何か。
改めて考える。

 今までの私の理論によれば、密度を2倍にすれば、時間も2倍になる。
反対に、密度が2倍薄くなれば、時間も2分の1になる。
そういうふうになる。
が、もしそうなら、昔の人たちは、同じ50年でも、現代の私たちより短い50年を生きていたことになる。
情報量にしても、比較にならない。
「多い」というより、今、私たちは情報の洪水の中で生きている。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりその分だけ、反対に、私たちは昔の人たちより、長く生きていると考えてよいのか。

 そこで問題は、「密度の内容」ということになる。
「情報の質」も、無視できない。

 いくら密度が2倍といっても、つまらないことで濃くしても、意味はない。
くだらない情報に振り回されても、意味はない。

●感動

 「情報」については、わかりやすい。
良質な情報と、粗悪な情報がある。
その区別なら、そこらの高校生でもできる。
問題は「密度」。

 10時間を、20時間にして生きたからといって、「密度が濃い」ということにはならない。
寝食も惜しんで、パチンコをする、とか。
となると、何が密度を決めるのか。
密度は何によって、決まるのか。
私は、そのひとつが、「感動」と考える。
感動の質と量が、密度を決める、と。
 私も自分の人生の中で、1日を1年のように長く感じたことがある。
オーストラリアの大学に留学していたときのこと。
けっして大げさな言い方をしているのではない。
本当に、そう感じた。

 毎日が驚きと感動の連続。
だからある夜、こう思った。
ちょうど3か月目の、ある夜のことだった。
ヘトヘトになった体をベッドに横たえた。
その瞬間、「まだこんな毎日が、9か月もつづくのか!」と。
私はそれを思ったとき、心底、自分が誇らしかった。
うれしさが、ドッと腹の底からわいてきた。

●人生を長く生きる

 言い換えると、人生を長く生きるためには、2つのことに気をつける。

(1) 情報の選択
(2) 感動の創造

 情報の選択を誤ると、時間を、無駄にする。
くだらない情報に引き回されるだけ。
また感動のない生活は、生活そのものをマンネリ化する。
それこそ10年を1年のようにして生きるようになる。
 あとは、そのときどきの各論ということになる。
つまり生き方の問題。
……とは書きつつ、このところ感動が少なくなってきた。
自分でも、それがよくわかる。
そこで「創造」。
自ら創りだす。

●悠々自適?

 その感動は、つねに緊張感を伴う。
緊張感の中から、感動が生まれる。
言い換えると、いかにして生活の中に緊張感を創るかということ。
その緊張感がないと、人生は、そのままだらしなくなる。
反対の視点に自分を置いてみると、それがよくわかる。

 老後は孫の世話と庭いじり。
悠々自適の年金生活。
が、そんな生活からは、感動は生まれない。
10年を1年どころか、1日にして生きるだけ。

●緊張感

 となると感動は、日々の緊張感の中から生まれる。
前向きに生きていくという緊張感の中から、生まれる。
新しいことに興味をもち、新しいことに挑戦していく。
新しい人々との出会いをいとわず、その人たちのために生きていく。

 が、このときひとつの大きな条件が生まれる。
「無私無欲」という条件である。
功利、打算が混入したとたん、感動は霧散する。
もちろん生きていくためには、収入が必要。
仮に収入のためではあっても、収入を、極力意識しない。
脇へ追いやる。
その努力は怠らない。

 もしそれができれば、ゆるやかな時間であっても、密度の濃い人生ということになる。
そうでなければ、そうでない。
わかりやすく言えば、東海道を歩いていっても、それで時間を無駄にしたことにはならない。
新幹線で行っても、それで時間を有効に使ったことにはならない。

●夢

 話題を変える。

 今朝、ハナ(犬)の夢を見た。
先月、他界した。
どこかの家で、大きな鳥かごを見ていたときのこと。
足元に、ハナがやってきた。
まだ中型くらいの大きさだった。
いつものように頭をさげ、私の体に、自分の体をこすりつけてきた。
が、見ると、横に、白と黒のブチの犬がいた。
丸々とした雑種の犬で、私が「ボーイフレンドか?」と声をかけると、うれしそうに尻尾を振った。
私は両方のハナとその犬と、交互にさすってやった。

 涙があふれた。
そこで目が覚めた。

●ハナ

 ハナのボーイフレンドを考えなかったわけではない。
ときどきワイフと、「どうしようか」と話し合った。
しかしいつも私たちの年齢を考えた。
犬といっても、20年は生きる。
そのつど、自分の年齢に20歳を加え、こう思った。
「20年後に、めんどうをみられるだろうか」と。

 だからハナは、ずっとひとりぼっちだった。
それが、今になって、私を責める。
自分たちのつごうで、ハナにつらい思いをさせてしまった。

●マムシ

 もっとも晩年のハナは、息子といつもいっしょだった。
息子が庭へ出ると、かたときも、息子のそばを離れなかった。
ハナも、さみしかったのかもしれない。
今にして思うと、ハナの気持ちがよくわかる。

 ハナは、庭先の、ヤマモモの木の下に埋葬した。
墓も立てた。
その墓に息子とワイフは、毎日、線香をたて、供養している。
私も祈っている。

 ……いつだったか、私が庭の畑で作業をしているときのこと。
ハナがけたたましく吠えた。
見ると足元にあった枯草の下で、マムシがとぐろを巻いていた。
もしあのときハナが吠えてくれていなかったら、私はマムシにかまれていた。
「命の恩人」と思うようになったのは、そのときからだった。

 そのハナは、もういない。
が、ハナの墓に参るたびに、こう祈る。
「もうすぐ、ぼくも、そちらへ行くからな」と。

 西洋では、飼っていた犬が、天国で私やあなたを案内してくれるという。
ほかの犬のことは知らない。
しかしハナなら待っていてくれるはず。
仕事に出かけるときは、どこかいいかげんだった。
しかし仕事から帰ってくると、一日も欠かさず、私を裏口で迎えてくれた。

 律儀な、どこまでも律儀な犬だった。

 おかしなものだ。
死んだ父や母より、遠くに住む息子たちより、ハナのほうが恋しい。
ハナに会いたい。
私には、かぎりなく、よき友だった。

●映画『ドラゴン・タツーの女』

 「ドラゴン・タツー」というのは、少し大げさ。
タツー(刺青)が、とくに意味をもつわけではない。
それに謎解きといっても、それほど奥があるわけではない。
言うなれば、「つじつま合わせ」。

 それにその「女」にしても、まさにスーパーレディ。
ハイテク機器を自由に使いこなす。
その女は、意味ありげな雰囲気で登場し、最後は、ふつうの女で終わる。
星は、3つの★★★。
少し甘いかな?
ダニエル・クレイグ主演ということで、かなり期待して行った。
期待が大きかった分だけ、がっかり。

 先にも書いたように、「意味ありげ」で始まり、「ふつうの映画」で終わった。
が、あまり「意味のない」映画。
やはり「チンチン・タツーの男」のほうが、よかった。

●2月12日(日曜日)(2012)

 日は替わって、12日。
昔はこんなことはしなかった。
が、今は、(2012)と年号を書き入れる。
でないと、あとで、いつの原稿だったか、それが、わからなくなる。
このところ、そういうことが多い。
たとえば古い原稿を探したようなとき、日付はわかっても、何年に書いた原稿かがわからない。
その前後をスクロールしながら、書いた年数を知る。
その手間に、けっこう時間がかかる。

 これもネット時代の特徴のひとつかもしれない。

ネットで検索すると、1年単位、10年単位の原稿が、どっと見つかる。
原稿が、大きな塊(かたまり)となって、画面に現れる。
「時間」の概念が、ネット上では、かなりちがう。
この世界では、「1年前」「10年前」という数字は、あまり意味をもたない。
逆に考えれば、こんなことも言える。

 ……たとえば、そんな人がいるかどうかは、わからない。
が、10年後、あるいは20年後、「はやし浩司」で検索し、私の書いた原稿を読む人がいたとする。
そのとき、その人は、時空を超え、パソコンのモニターをはさんで、私と対峙する。
そこには、時間はない。
距離もない。
「私」と、直に対峙する。

 ……ボロボロになった本を、遠くから買い寄せて読む。
時間をかけて読む。
が、それは昔の話。
その反対が、ネットの世界ということになる。
だから、最近は、年数を、できるだけこまめに、書き込むようにしている。
その数字だけが、過去になった「今日」を示す。

●W・ヒューストンの死

 たった今、ネットに、こんなニュースが流れた。
W・ヒューストンが亡くなった、と。
48歳だったという。
48歳!

 若すぎる。
死因その他は、「不明」とのこと。
芸能界は、しばらくW・ヒューストン一色になるだろう。
それにしても、なぜ?
グラミー賞受賞式の前日だったという。
賞と何か、関係があるのだろうか?

●貧乏の怖さ

 私の息子たちも含めての話。
最近の若い人たちは、貧乏の怖さを知らない。
知らないから、家族第一主義に、安易に走りやすい。
「仕事より、家族が大切」と。

 それはそれで結構なことだが、「仕事あっての家族」。
たしかにお金(マネー)では、幸福は買えない。
しかしお金(マネー)がなければ、不幸になる。

 とは言っても、一時的な貧乏なら、まだ何とかなる。
気力や体力で、乗り越えることができる。
怖いのは、ジワジワと、長い年月を経てつづく貧乏。
精神はもちろん、肉体をもむしばむ。
それが怖い。
私は経験している。

家中が、暗く、よどんだ空気に満たされる。
「明日は今日より、よくなる……」と。
そんな淡い期待も、その翌日には、こなごなに破壊される。
それが来る日も来る日も、繰り返される。

 当然、ものの考え方も、影響を受ける。
卑屈になる。
ゆがむ。
いじける。

 ……この不況下。
どこへ行っても、暗い話ばかり。
そういう話を聞くたびに、私は自分の少年時代を思い出す。
いやな時代だった。
本当にいやな時代だった。

●ボットン便所

 だから私はがんばった……と書けば、意図は見え見え。
しかし総じて言えば、団塊の世代は、それゆえに、がんばった。
が、その結果が今。

 若い人たちは、飽食とぜいたくの世界で、自分を見失ってしまった。
今のこの日本の繁栄にしても、いつまでもつづくものと思っている。
が、私たちはそうでない。
現在の日本経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。
その下には、あのボットン便所が待っている。
そうなったとき、つまり日本経済が崩壊したとき、今の若い人たちは、それに耐える力はあるだろうか。
そのときになっても、「仕事より家族が大切」と言っていられるだろうか。

●帰り支度

 ワイフが帰り支度を始めた。
窓の外には、紺色の青い空が広がっている。
気温は、3度前後。

 朝風呂に入った。
ほどよい気(け)だるさが、心地よい。
このままコタツの中で眠りたい。

 ……そう帰りには、久しぶりに、パソコンショップへ寄ってみよう。
もう何か月も行っていない。
東名高速道路のインター近くにある、「N」というパソコンショップ。
パソコン関連グッズのほとんどは、私は、その店で買っている。

(補記)

●プリンターのインク

 ところで今度、別の会社から、プリンターのインクが販売されることになった。
プリンターといえば、エプソン、キャノン、ブラザーの各社が製品として出している。
が、インクが高価。
エプソンのインクでも、6色セットで、5000~6000円もする。
それを、1セットあたり、たったの1600円前後。

 販売しているのは、福岡市に本社をおく、「ジーストリーム」。
電話:092-402-7360
さっそく「楽天ホビナビ」を通し、2セット買ってみた。
価格は3333円プラス代引き手数料。
1セットで、3333円かと思ったら、2セットでこの価格。
この価格なら、この先、インク代は心配せず、プリンターを使うことができる。
問い合わせ先は、「インクナビ」本店へ。
http://www.inknavi.com/

(注意)エプソン用のインクはそのまま使えるが、キャノン用のインクは、ICチップを張り替えなければならない。
また相性については、Yellowだけ使ってみたが、まったく問題なくセットできた(エプソンEP902A)。
「どうしてインクは、こんなに高いのか!」と、日ごろ不満に思っている人は、一度、使ってみたらよい。

(はやし浩司 2012-02-12 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 貧乏の恐怖 貧乏の恐ろしさ はやし浩司 貧乏の怖ろしさ 映画「ドラゴンタツーの女」 はやし浩司 プリンターのインク インクナビ はやし浩司 浪曲 旅行けば 駿河の道に茶の香り)

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