2012年3月23日金曜日

*Parents and their sons and daughters


●小1,2年生に、「時速」と「距離」を教えてみる。

少し意気込んで・・・小学1年生と2年生に、「時速」と「距離」を教えてみました。
結果は、「まだ理解できないな」という印象をもちました。
こうしたレッスンは、教える側の私が、かなり意気込まなければ、失敗します。
が、その私は、この日花粉症がひどくで、たいへん調子が悪かったです。
それに薬のせいか、眠くてたまりませでした。
4月にもう一度、教えてみます。

I teach here in the video, Km.p.h. to children of Age 6,7,&8. Hiroshi Hayashi Hamamatsu Japan 2012




Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【仮面をかぶる、親と子】

●仮面親子

「仮面夫婦」という言葉がある。
表面(おもてづら)だけは、何とか、取り繕っている。
見た目には、仲のよい夫婦。
しかし互いの心は、バラバラ。
いちばんの特徴は、互いの悲しみや苦しみを、共有できないということ。
いざというときに、顔をそむけてしまう。

 夫が息子たちと言い争いになった。
一方的に、息子が夫に向かい、はげしい暴言を吐いた。
そのときのこと。
何かの拍子に、息子が、夫(息子の父親)の胸ぐらをつかんだ。
つかんで、片方の手で、夫を殴ろうとした。

が、その妻(息子の母親)は、それを止めようとしなかったばかりか、立ったまま、それを上から見ていた。
顔には、意味のわからない笑みまで浮かべていた。

 あとで夫がそのことで、妻に問いただすと、妻は、平然とこう答えたという。
「本当に殴るとは思っていなかったから……」と。

 さらにこんなことも。

 ある日、何気なく、夫が妻にこう聞いたという。
「お前は、ぼくのことを愛してないだろ」と言うかわりに、「ぼくは、お前のことを愛していると思うか」と。
そう聞いた。
すかさず、妻は、こう答えたという。
「あなたは、私を愛していないわ」と。

 こういうのを心理学では、「投影」という言葉を使って説明する。
つまり自分の心を相手に、そのまま投影※させる。
「私があなたを嫌っているのは、あなたが私を嫌っているから」と。

 自分の中の好ましくない評価を、それを相手のせいにして、自分を正当化する。
その妻は、子どものころから、心を開けない女性だったよう。
それもあって、夫にすら、心を開くことはなかった。
が、自分がそうであるのは、「夫が悪いから」と。

 つまり妻は、「自分が夫を愛していない」とは言えなかった。
それで「あなたは私を愛していない」という言い方で、自分の心を表現した。

(注※……投影)
 『自分のもっている不都合な欲求や、好ましくない事象を、他人に転嫁すること。被害者意識の強い人は、投影をよく使います』(心理学用語・渋谷昌三)と。

 同じように、「仮面親子」というのがいる。
「仮面夫婦」というのは、よく論じられる。
しかし「仮面親子」というのは、あまり話題にならない。
「仮面親子」という言葉そのものは、あちこちで使われている。
が、アカデミックな意味では、あまり話題にならない。
数は、かなり多いと思われるのだが……。

●仮面親子

 見るからに母親は、子ども思いのよい人に見える。
子どもの世話も、よくしている。
やさしそうで、穏やか。
教養もあり、話し方も知的。

 が、子どもの評価は、まったく、違う。
母親のことを、「鬼ババ」と言う。

 最初、H子さん(小4)が、そう言ったとき、私は、冗談かと思った。
それでフフフと笑い、相手にしなかった。
とたん、H子さんが、キレた。
プリントに書き始めていた答を、鉛筆で、ゴシゴシと塗りつぶし、そのまま紙に穴をあけてしまった。

 しばらくしてから、こう聞いた。

私「おうちで、いちばん、こわいのはだれかな?」
H「お母さん……」
私「どうして?」
H「勉強しないと、私を叩く……」
私「叩くの?」
H「テストで悪い点を取ってくると、私を叩く……」と。

 母親の気持ちはともかくも、H子さんの心は、完全に母親から離れていた。
が、母親自身は、それに気づいていない。
こういうケースは、多い。
称して、「仮面親子」。

 その「仮面親子」と言えば、最初に思いつくのが、イプセンの『人形の家』。
主人公のノーラは、いい子ぶることで、少女時代を過ごす。
つまり仮面をかぶったまま、少女時代を過ごす。
「私は人形子でした」と。

 そしてその状態は、結婚してからも、つづく。
今度は、夫の前で、いい妻を演ずる。
が、やがてそれも限界にくる。

 ある日、ノーラは、夫のもとを去る。
そのときはじめてノーラは、仮面を脱ぎ去ることができた(?)……というところで、物語は、終わる。

●故郷

 仮面をかぶったまま、「いい子」を演ずる。
が、親には、それがわからない。
わからないから、「うちの子はいい子」と思い込む。
思い込んだまま、子どもの心を見失う。
子どもの心が、まったく別の方向を向いているのに、気づかない。

 私にも、こんな経験がある。

 ……私は中学校へ入るころから、あの郷里の美濃の町が嫌いだった。
息苦しく、自分の居場所すらなかった。
だからいつも、こう考えていた。
「おとなになったら、この家を出よう」と。

 しかしある日、それは私が高校生くらいになってからのことではなかったかと思うが、母が、こう言った。
「ここは、お前の故郷(ふるさと)だからな」と。
私はその言葉に、心底、ぞっとした。
美濃の町を、「故郷」という思いで、ながめたことは、それまでにも、一度もなかった。
それで、ぞっとした。

 母は母だったが、私の心の奥底を、まったく理解していなかった。
(今から思うと、それもしかたのないことだったかもしれないが……。)

 もし今、あなたがこう思っているとしたら、それはどうかな?

「私は子どもを愛している。
人一倍、愛している。
私と子どもの絆は、太い。
子どももまた、私の愛を理解してくれている。
私たちは、すばらしい親子だ」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●離れる子どもの心

●心の別室論(Another Room in the Mind)

人間には、自分にとって都合の悪いことがあると、心の中に別室を作り、そこへ押し込めてしまうという習性がある。

心理学では、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
「心の平穏を守るために自らを防衛する機能」という意味で、「防衛機制」のひとつと考えられている。

その防衛機制は、つぎの7つに大別される。

(1) 抑圧
(2) 昇華
(3) 同一化
(4) 投射
(5) 反動形成
(6) 合理化
(7) 白日夢(以上、深堀元文「心理学のすべて」)

 この中でも、「不安や恐怖、罪悪感などを呼び起こすような欲求、記憶などを無意識の中に閉じ込め、意識にのぼってこないようにする」(同書)を、「抑圧」という。

つまり心の別室の中に、それを閉じ込め、外からカギをかけてしまう。
よく「加害者は害を与えたことを忘れやすく、被害者は害を受けたことをいつまでも覚えている」と言われる。

(そう言っているのは、私だが……。)

この「加害者は害を与えたことを忘れやすい」という部分、つまり都合の悪いことは忘れやすいという心理的現象は、この「抑圧」という言葉で、説明できる。

が、実際には、(忘れる)のではない。
ここにも書いたように、心の別室を作り、そこへそれを押し込んでしまう。
こうした心理的現象は、日常的によく経験する。

 たとえば教育の世界では、「おとなしい子どもほど、心配」「がまん強い子どもほど、心配」「従順な子どもほど、心配」などなど、いろいろ言われる。
さらに言えば、「ものわかりのよい、よい子ほど、心配」となる。
このタイプの子どもは、本来の自分を、心の別室に押し込んでしまう。
その上で、別の人間を演ずる。
演ずるという意識がないまま、演ずる。
が、その分だけ、心をゆがめやすい。

 これはほんの一例だが、思春期にはげしい家庭内暴力を起こす子どもがいる。
ふつうの家庭内暴力ではない。
「殺してやる!」「殺される!」の大乱闘を繰り返す。
そういう子どもほど、調べていくと、乳幼児期には、おとなしく、静かで、かつ従順だったことがわかる。

世間を騒がす、凶悪犯罪を起こす子どもも、そうである。
心の別室といっても、それほど広くはない。
ある限度(=臨界点)を超えると、爆発する。
爆発して、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 話が脱線したが、ではそういう子どもたちが、日常的にウソをついているとか、仮面をかぶっているかというと、そうではない。
(外から見える子ども)も、(心の別室の中にいる子ども)も、子どもは子ども。
同じ子どもと考える。

このことは、抑圧を爆発させているときの自分を観察してみると、よくわかる。

よく夫婦喧嘩をしていて、(こう書くと、私のことだとわかってしまうが)、20年前、30年前の話を、あたかもつい先日のようにして、喧嘩をする人がいる。
「あのとき、お前は!」「このとき、あなたは!」と。

 心の別室に住んでいる(私)が外に出てきたときには、外に出てきた(私)が私であり、それは仮面をかぶった(私)でもない。
どちらが本当の私で、どちらがウソの私かという判断は、しても意味はない。
両方とも、(心の別室に住んでいる私は、私の一部かもしれないが)、私である。

私「お前なんか、離婚してやるウ!」
ワ「今度こそ、本気ね!」
私「そうだ。本気だア!」
ワ「明日になって、仲直りしようなんて、言わないわね!」
私「ぜったいに言わない!」
ワ「この前、『お前とは、死ぬまで一緒』って言ったのは、ウソなのね!」
私「ああ、そうだ、あんなのウソだア!」と。

そこでよく話題になるのが、多重人格障害。
「障害者」と呼ばれるようになると、いろいろな人格が、交互に出てくる。
そのとき、どれが(主人格)なのかは、本当のところ、だれにもわからない。
「現在、外に現れているのが、主人格」ということになる。
夫婦喧嘩をしているときの(私)も、私なら、していないときの(私)も、私ということになる。
実際、夫婦喧嘩をしている最中に、自分でもどちらの自分が本当の自分か、わからなくなるときがある。

 ともかくも、心の別室があるということは、好ましいことではない。
「抑圧」にも程度があり、簡単なことをそこに抑圧してしまうケースもあれば、重篤なケースもある。
それこそ他人を殺害しておきながら、「私は知らない」ですませてしまうケースも
ないとは言わない。
さらに進むと、心の別室にいる自分を、まったく別の他人のように思ってしまう。
そうなれば、それこそその人は、多重人格障害者ということになってしまう。

 ところで最近、私はこう考えることがある。
「日本の歴史教科書全体が、心の別室ではないか」と。
まちがったことは、書いてない。
それはわかる。
しかしすべてを書いているかというと、そうでもない。
日本にとって都合の悪いことは、書いてない。
そして「教科書」の名のもとに、都合の悪いことを、別室に閉じ込め、カギをかけてしまっている(?)。

 しかしこれは余談。
ただこういうことは言える。
だれにでも心の別室はある。
私にもあるし、あなたにもある。
大切なことは、その心の別室にいる自分を、いつも忘れないこと。
とくに何かのことで、だれかに害を加えたようなとき、心の別室を忘れないこと。
忘れたら、それこそ、その人は、お・し・ま・い!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
心の別室 防衛機制 抑圧 はやし浩司 心の別室論 人格障害 加害意識)

++++++++++++++++++++

●シャドウ論

そこで「シャドウ論」。

以下の原稿も、2009年ごろ書いた原稿である。
この中では、北朝鮮と韓国を例にあげ、「シャドウ論」を
展開してみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なし崩し的既成事実化

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

「独島(日本名、竹島)と、K国の核兵器と
かけて、何と、説く?」。
答……「なし崩し的、既成事実化」。
共に、ものごとをなし崩し的に、既成事実化しよう
としている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●矛盾する論理

 韓国の人たちは、「オレたちは、K国とはちがう」と思っているかもしれない。
とくに、K国の核開発問題については、そうであろう。

K国は事実上、核兵器を所有し、核保有国であることを、既成事実化しようとしている。
韓国政府も、「それは認めない」とがんばっている。
が、同じように韓国は、K国と同じことをしている。
竹島(独島)への実効的支配を強化し(中央N報)、竹島は韓国領土であることを、既成事実化しようとしている。
同じ民族。
発想が、よく似ている。

……というより、K国は、韓国のあとを、懸命に追いかけている。
今日(4月10日)の韓国・中央N報は、つぎのように伝えている。
 「…… 鄭総理は日本の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の主張に関し、『日本がこの問題を持続的に取り上げるのは、韓日間の未来の発展に決して役立たない。
すでに韓国の国民が居住しているが、独島に対する実効的支配をさらに強化していく必要がある』と強調した」と。

 つまり事実上、支配しているから、竹島は、韓国の領土だ、と。

しかしこんな論理がまかりとおるなら、K国の核兵器開発問題は、どうなる?
K国も同じ論理をふりかざして、「自分たちの国を核保有国として認めろ」と騒いでいる。

●シャドウ論

 韓国とK国を並べてながめていると、ユングのシャドウ論が、頭の中を横切った。
韓国のもつシャドウを、K国が受け継いでいる。
そんな感じがした。

そんな感じがしたので、韓国とK国、それにシャドウ論をからめて考えてみたい。
うまくまとめられるかどうか自信はないが、一度、書いてみる。

 シャドウ論……「シャドウ(影)」として、心の裏に閉じこめられた人間性は、その近くにいる人に伝染しやすい。その一例として、佐木隆三の『復讐するは我にあり』がある。

 昨年(09年3月)に書いた原稿を、もう一度、ここでとりあげてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

●仮面(ペルソナ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。
で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。
といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

++++++++++++++++++++

●みな、かぶっている

 たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

 今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。
私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。

ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

 映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

 以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

 もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。
たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

 が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、(現実)とは、しっかりと切り離すこと。
たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

 しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたりする。

 が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、自分のことを(神)と思いこんでしまう。
が、それだけではすまない。

●シャドウ

 このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。
が、さらに恐ろしいことが起きる。

 このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付しておく。
こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

 ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と言っていた。

が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に閉じことによって、善人を演じていただけである。
そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。
では、どうするか。

 私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。
この私だって、そうだ。

 で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

+++++++++++++++++

シャドウについて書いた原稿を
添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【シャドウ論】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。
その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

++++++++++++++++

●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。
自分で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。
さも私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。
全体に演技ぽい。ウソっぽい。
大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。
嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望が、いつもウズを巻いていた。
そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。
その女性は、自分の醜い部分を、そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。
その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。
一度その娘にねたまれると、とことん、意地悪をされるという。
人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。
 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていました。
家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。
ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。
母には、そういう2面性がありました。
私の姉は、その悪いほうの一面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。
その前に、仮面をかぶらないこと。
といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。
教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。
 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。
家に帰って家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。
はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。
が、それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしまう。

(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ユング 仮面 ペルソナ シャドウ論 はやし浩司 仮面親子 はやし浩司 仮面夫婦 仮面 ペルソナ)

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。
親としての仮面、隣人としての仮面、夫としての仮面など。
もちろん、商売には、仮面はつきもの。
商売では、いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。
本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。
ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。
陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわかる。
むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。
都会の立派なマンションに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。
知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。
いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そう言うなら、まだ話がわかる。
しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。
日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断している人ほど、そうだ。
このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。
「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。
身分制度が、そのまま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。
街道筋の宿場町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。
その人を判断する基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしまう。
実は、これがこわい。
「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」と。
そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。
名優、緒方拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。
が、その榎津厳もさることながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。
それが三國連太郎が演ずる、父親、とるけん」と言う。
そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。
映画を見た人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与える。
嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。
それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。
主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりそのまま引き継いでしまった。
そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。
 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。
見抜くだけならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。
ついでにシャドウもつくらない。
いつもありのままの自分を見せる。
シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。
もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●韓国とK国

 K国は韓国に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、韓国は、何もしてこないだろう」と。

一方、韓国は日本に対して、甘ったれている。
「好き勝手なことをしても、日本は、何もしてこないだろう」と。

 そしてK国は、韓国に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをして
いる。

韓国は、日本に対して、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをしている。
ともにその根底にあるのは、被害妄想と「甘えの構造」。

 たしかに韓国はK国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。
南北統一についても、今、統一したら、それこそたいへんなことになる。
南北統一を望んでいないのは、当の韓国ということになる。

 一方日本は韓国に対して、何もしないだろう。
本音を言えば、「相手にしたくもない」。

竹島の実効的支配を進めれば進めるほど、世界に向かって、「竹島は韓国の領土ではない」
と、宣言しているようなもの。

どうしてあんな島に、ヘリポートを作り、一般人を住まわせるのか?
その(無理)が、不自然!
不自然だから、無理をする!
世界の人は、だれしも、そう思う。
本当に自分の領土なら、もっと堂々としていればよい。
姑息なことをするから、かえって疑われる。

●で、シャドウ論

 K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ。
わかるか?
表では正論をぶっているが、仮面の下では、姑息なことを繰り返している。
自動車にしても、「前から見れば、TOYOTA車、うしろから見れば、NISSAN車」。
そんな車を、平気で作っていた。
ほんの10年前の話である。

 日本中の、それこそ津々浦々にまで産業スパイをはびこらせ、日本から奪えるものは、何でも奪っていった。
その結果が今である。

ウソだと思うなら、韓国の現在の産業構造を見ればよい。
20~40年前の日本の産業構造そのもの。
自動車、鉄鋼、電子産業などなど。
反対に韓国が独自に発展させた産業は、ひとつもない!
 
 それをK国は、横から見ている。
そして韓国が生来的にもっていた(姑息さ)を、K国がそっくりそのまま引き継いでいる。
先に「K国は、韓国のあとを追いかけている」と書いたのは、そういう意味。
 ……と書くのは、書き過ぎ。
かなり過激。
私もそれをよくわかっている。
しかしこれだけは言える。

 韓国の人よ、K国の人よ、なし崩し的に、ものごとを既成事実化するのは、やめよう。
「竹島」にしても、韓国の人よ、日本人がおとなしいからといって、それをよいことに、言いたい放題のことを言い、やりたい放題のことをやるのは、やめよう。
いいか、韓国の人よ、K国が崩壊したら、竹島どころではなくなるぞ。
へたをすれば、38度線以北は、中国の領土となる。
「渤海国」になる。
わかっているのか。
そのとき日本に泣きついてきても、遅いぞ。

 ここは冷静に!
この極東アジアで、だれが友人で、だれが友人でないか、少しは頭を冷やして考えろ。
謙虚になれ。

 「自分たちの領土でない」ということを、心の奥で自覚しているからこそ、日本政府の発言に、そのつどビクつく。
大騒ぎする。

それがいやなら、もっと正々堂々と、国際裁判所という「場」で、たがいに証拠をあげて闘おうではないか。
どうしてそれがまずいのか?
何かまずいことでもあるのか?

 以上、「竹島(独島)」問題を、シャドウ論をからめて、考えてみた。
どこか「木に竹を接ぐ」ようなエッセーになってしまったが、許してほしい。
竹島問題の記事を読んだとき、ふと「シャドウ論」が頭の中を横切った。
「K国は、韓国のシャドウを受け継いでいるだけ」と。
それでこんなエッセーになってしまった。

 「?」と思われる人がいるなら、このエッセイを、「朝鮮問題」と、「シャドウ論」の2つに、頭の中で分けて読んでほしい。
勝手な願いで、ごめん!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 竹島問題 独島問題 シャドウ論 はやし浩司 ユング シャドウ論 
実効的支配 なし崩し的支配 はやし浩司 シャドウ論 シャドウ)(以上、2009年3月記)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●2011年11月25日

 先のシャドウ論を書いた日付は、2009年3月になっている。
それから2年。
今は、2011年11月25日。

 で、改めて自分の書いた原稿を読みなおす。
いろいろ考える。
「これはシャドウ論というよりは、サイコパス(性格障害)の問題ではないか」とか、「妄
想とどう区別するのか」とか。

●日韓問題

 日韓問題にしても、すべてをシャドウ論で説明できるわけではない。
が、シャドウ論をあてはめてみると、韓国人のもつ精神的に二重構造性が、よく理解でき
る。

 (1)「日本ごときに植民地にされた」という屈辱感。
 (2)「自分たちの力で独立できなかった」という不完全燃焼感。
 (3)さらに「南北に分断されたのも、もとはと言えば、日本の責任」という日本責任論。

 これら3者が混然一体となり、韓国人の心の別室の中に、押し込まれている。
それが時と場合に、表に出てくる。
よく「韓国人は政治と経済を、使い分けている」という。
政治で反日、経済では親日、と。
しかし使い分けているのではない。

 民族意識はどこの民族にもある。
それが誇張されたのが、民族主義。
「我ら民族がもっともすぐれている」と。
韓国人のばあい、「日本ごときに、蹂躙(じゅうりん)された」という思いが、心の別室の原点にある。
言い換えると、そう思いながら、実は日本人を徹底的に差別している。
(「差別」というよりは、「軽蔑」に近いが……。)
私はこれを「逆差別」と呼んでいる。

●二重構造性

 それはともかくも、ユングのシャドウ論で考えると、韓国人がもつ精神の二重構造性がよく理解できる。
と、同時に、私たちが個人がもつ二重構造性も、よく理解できる。
 私たちは円滑な人間関係を保つために、常に、この二重構造的精神状態の中で生きている。
冒頭にも書いたように、それが悪いというのではない。
それがあるからこそ、またそれができるからこそ、私たちは、この複雑な社会で生きることができる。

 が、問題は、親子関係である。
ほとんどのばあい、子どものほうが、心の別室を作り、そこへ不平や不満をためこむ。
そしてそれが、時と場合に応じて、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だア!」と。

 そういう言葉が、10年たっても、20年たっても、口から出てくる。
もちろん子ども自身にはそれがわかっていない。
「抑圧」「心の別室」という言葉すら知らない。
加えて先にも書いたように、「心の別室」には、時効が働かない。
20年前、40年前の記憶がそのまま、生々しく残る。
また上書きされることもない。
楽しい思い出は、心の別室には入らない。

●よい子論

 終わりに「よい子論」についても書いておきたい。
 今、日本の子ども観、子育て観は、世界の標準から、かなりかけ離れつつある。
結論から先に言えば、たくましさがない。
またそうであることを、ほとんどの親たちは、「できのいい子」と誤解している。
たとえば従順で柔和で、やさしく、キバを抜かれてしまったような子どもほど、「よい子」と位置づける。
またそういう子どもにしようと、あくせくしている。
 昔風の、腕白で、自己主張が強く、たくましい子どもを、「できの悪い子」として、むしろ遠ざけたり、白い目で見たりする。
私の教室でも、そうである。

ときどき「うちの子には、この教室は合いません」と言って去っていく親がいる。
が、そういう親でも自分の子どもが、親の過干渉や過関心で萎縮していることに気づいていない。

親自身のものの考え方が権威主義的で、威圧的であることに気づいていない。
その結果として、むしろそういう子どもほど、心をゆがめやすい。
ゆがめやすいことは、ここに書いた「シャドウ論」を読んでもらえばわかるはず。
あるいはイプセンの『人形の家』を読んでみたらよい。
自らを「人形子」と呼んだ主人公が、精神の二重構造の中で、いかに苦しみもがいたか。
それがよくわかるはず。
 本来、子どもは、そうであってはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

しめくくりに、イプセンの『人形の家』。
ウィキペディア百科事典に書かれている(あらすじ)を、
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●イプセン、「人形の家」(ウィキペディア百科事典より)

『弁護士ヘルメルの妻ノラは、無邪気にヘルメルを含めて人間を信じ、貧しいものに分け与える心の余裕を持ち合わせた女性であった。
彼女はヘルメルに「大切に」されていた。
猫かわいがりするヘルメルの愛の性質に、気づいていながらも日々を過ごしていたノラにある日、事件が訪れる。

ヘルメルの部下クロクスタが、ヘルメルの留守を狙ってノラのもとに嘆願にやって来たのだ。
彼は馴れ馴れしい態度を取ったためヘルメルに疎まれ、じきに解雇される予定であった。
ノラは断ろうとするが、クロクスタは彼女の弱みを握っていた。
それはヘルメルが重病に陥り金銭が不足したとき、彼女はクロクスタから借金をし、その際、借用証の父のサインを捏造していたということだった。
当時、彼女の父は重病であったため、これは苦肉の策であった。
もし解雇されるなら、この事実をヘルメルに暴露すると、クロクスタに宣言されたノラは悩む。
自分を支配しているヘルメルがこのことを知れば、すべての生活は破滅することは目に見えているからだ。

やがて、ノラはヘルメルにクロクスタの解雇を取り消すよう頼むが、事情を知らないヘルメルは取り合わず、クロクスタは解雇される。
宣言どおりクロクスタは暴露する手紙をヘルメルに送った。
事実を知ったヘルメルは激怒し、ノラをさんざんに罵倒する。
すべての終わりがやってきたと思ったさなか、改心したクロクスタから捏造の証拠である借用証書が送られてくる。
これでヘルメルの危機は過ぎ去った。
先ほどまでの態度を豹変し、再び微笑んで甘いことを言い放つようになるヘルメル。
ヘルメルが対等な人間として、絶望や悩みを共有し、喜びを分かち合える存在、「1人の人間」として自分を見ていないことにノラは絶望し、ヘルメルの制止を振り切り、ノラは家を出る』(以上、ウィキペディア百科事典より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、どうするか?

【子どもの見方・考え方】8月6日(2010)

●子どもの見方

 子どもを見るとき、『いい子ほど、心配』と覚えておくとよい。
もっとはっきり言えば、子どもに(いい子)は、いない。
「いい子」と感じたら、それは仮面と考えてよい。

 子どもは、子どもらしいこと。
すべてはそこに始まり、そこで終わる。
その年齢ごとに、発達段階に応じた変化を、子どもは見せる。
何に対しても否定的になったり(幼児期前期)、あるいはあるいは生意気になったりする(幼児期後期)。
こうした変化を一足飛びに、飛び越えて、いきなりものわかりの
よい子どもになる・・・ということは、ありえない。
もしそうなら、先に書いた、仮面を疑う。

●不自然

 仮面をかぶっている子ども(人)は、どこか不自然。
バカ丁寧であったり、バカ親切であったりする。
「バカ」がつく。
 先日もある旅行社の女性と話をしていたとき、それを感じた。
営業用の仮面と言えば、そういうことになる。
バカの上に、バカがつくほど、丁寧だった。
が、そういう表面的な様子だけをみて、その女性はすばらしい人と思ってはいけない。
人格的に完成された人と思ってはいけない。
心理学の世界にも、「原我」という言葉がある。
「本来の我」という意味である。
その女性は、「本来の我」を、営業用の顔、つまり
自我」で覆い隠している。

●原我

 人はなぜ仮面をかぶるか。
それにはさまざまな理由と事情が、からんでいる。
前提として、原我が、その人にとって好ましいものでないと、その人自身が判断していることがある。
つまり(好ましくない我)を隠すために、仮面をかぶる。
私は原我を、つぎの4つに分類している。

(1) 邪悪な原我
(2) 陰湿な原我
(3) 攻撃的な原我
(4) 劣等的な原我

 こうした原我を隠すために、仮面をかぶる。
たいていは本来の我とは、正反対の我を演ずる。
ケチな人が、妙に寛大ぶってみせたり、攻撃的な人が、不自然なほどやさしくしてみせたりするなど。
が、それが仮面と本人が気づいている間は、まだよい。
仮面というのは、長くかぶっていると、仮面をかぶっていること
すら忘れてしまう。
反対に仮面をかぶった自分を、「本当の我」と思ってしまう。
これがこわい!
牧師や教師、医師など、聖職者と呼ばれる人に、このタイプの
人が多い。

●反動形成

 こうした一連の心理的操作を、「反動形成」と呼ぶ。
よくある例は、長男(長女)が、下の子ども(弟や妹)に見せる反動形成。
本当は下の子どもが憎くてしかたないのだが、それを表に出したら、自分の立場がなくなってしまう。
そこで下の子に対して、妙にやさしく振舞ったり、親切にしたりする。
一見するとよい兄(姉)に見える。
が、原我は、そうでない。
下の子(弟、妹)が憎くてしかたない。
つまり本当の自分を押し殺して、別の自分を演ずる。
が、そのままではすまない。
それがときとばあいに応じて、爆発する。

●原我の爆発

 原我はときとして、爆発する。
こうした爆発を理解するためには、「抑圧」という言葉を知らなければならない。
私は「心の中の別室」と呼んでいる。
 人間は、(ひょっとしたらあらゆる高等生物は)、何かのことで心が抑圧されると、心の中に別室を作り、そこに別の自分を押し込めようとする。
たいていは不平や不満など。
つまり心の別室を作り、そこに不平や不満を押し込むことによって、本来の自分を守ろうとする。
心理学の世界でも、こうした心理操作を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
防衛機制のひとつに考えられている。

●抑圧された「我」

 が、抑圧された「我」は、ときとして爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」と。
「私の人生を返してヨ!」と。
 60歳、70歳になった老夫婦が、結婚当初のことをもちだして、夫婦喧嘩をするという例は、少なくない。
それこそ40年前、50年前の話を持ち出して、喧嘩する。
 この「心の別室」には、(1)上書きが働かない。
(2)時効がない。

●記憶の上書き

 何かいやなことがあっても、そのあと楽しい思い出があれば、その前にあったいやなことは消える。
これを「記憶の上書き」という。
 が、心の別室に入った記憶は、ほかの心とは隔離されたままになる。
そのため上書きされるということがない。
そのあといくら楽しい思い出がつづいたとしても、そのままの状態で、心の別室に残る。

●時効

 また心の別室に入った記憶には、時効が働かない。
時間の経緯とともに、記憶が薄れたり、あるいは消えたりするということがない。
30年、40年・・・という長い年月を経ても、そのままそこに残る。
だから「こんなオレにしたのは、テメエだろ!」、「私の人生を返してヨ!」となる。

●人形の家

 一見、いい子は、こうした心の別室を作りやすい。
抑圧された自分を、その中に閉じ込め、外の世界ではいい子ぶる。
それが日常化するため、まわりの人たちはもちろん、本人自身も、それが本当の自分と思い込んでしまう。
が、それがその本人にとって不幸なものであるか。
それはイプセンの『人形の家』を読めば、わかる。
 だからここが重要だが、子どもは、まず発散させる。
ありのままを発散させる。
言いたいことを、大声で言わせる。
つまりこれが幼児教育の第一歩ということになる。

●すなおな子ども 

 よく誤解されるが、従順で、何でもおとなの指示に従う子どもを、「すなおな子ども」というのではない。
心の状態(情意)と顔の表情が一致している子どもを、「すなおな子ども」という。

 このタイプの子どもは、教えていても、教えやすい。
何をどう考えているか、外からわかりやすい。
が、そうでない子どももいる。

 一般に、「情緒障害児」と呼ばれている子どもは、外から見たとき、何を考えているか、つかみにくい。
情意と表情が遊離している。
かん黙児、自閉症児など。
近年よく話題になる、アスペルガー児も、それに含まれる。

●態度

 心理学でいうところの「態度」というのは、その人の外に現れた人生観などの、表象された「我」をいう。
が、一般的な意味では、その人の「様子」をいう。
どちらであるにせよ、子どものすなお度は、その態度を見て判断する。

 すなおな子どもは、態度もでかい。
家の中でも、やりたいようにやっている。
言いたいことをいい、行動も表情も自然。
で、あなたの子どもがそうであれば、それでよし。
そうでなければ、家庭環境そのものを、一度、猛省してみる。
 とくに児童期に入ったら、「家庭は心を休める場所」と心得る。
どうして周囲に気をつかっていて、心を休めることができるだろうか。

●仮面夫婦

 ついでながら「抑圧」の恐ろしいのは、それだけではない。
たとえば「仮面夫婦」と呼ばれる夫婦がいる。
一見、仲がよい。
しかしその実、いつもたがいにいがみ合っている。
 こうした夫婦のばあい、それぞれが心の別室を作り、その中に自分を押し込める。
本当は憎しみ合っているのに、表面的には、よい夫婦を演ずる。
 こういうケースのばあい、邪悪な「我」が、シャドウ(ユング)となって、子どもに伝播しやすい。
つまり子どもは親の心を裏から読み、それをそっくりそのまま、
自分の心としてしまう。

 よくあるケースは、子どもたちがみな、母親のシャドウを受け継ぎ、
父親を軽蔑したり、忌み嫌ったりするなど。

●いい子ほど心配

 これで『いい子ほど心配』の意味がわかってもらえたことと思う。
そこにいい子がいたら、まず疑ってかかる。
というのも、その人の人格というものは、幾多の山や谷を越えて、完成されるもの。

 そこらの子ども(失礼!)が、5歳や6歳、8歳や9歳で、人格的に高邁(こうまい)になることなど、ありえない。
もしそう見えたら、繰り返すが、仮面を疑ってみる。
またどうして仮面をかぶっているか、その背景を疑ってみる。
 たいていは親の過干渉、過関心、あるいは親の情緒的不安定、精神的未熟が原因となっている。
子どもの側からみて、抑圧された家庭環境がそこにある。

 子どもの見方のひとつとして、心のどこかにおいておくとよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 原我 自我 いい子ほど心配 心の別室 抑圧 抑圧された心 よい子論 子どもの見方 考え方)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司






0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。