2012年3月8日木曜日

*Cognitive Theory

【浜名湖かんざんじ荘にて】(はやし浩司 2012-03-07)

 今日は、舘山寺温泉にある、浜名湖かんざんじ荘へやって来た。
毎月のように世話になっている。
職員の人たちとも、すっかり顔なじみ。
それだけに居心地がよい。
気楽。

 何度も書くが、浜名湖周辺で一泊……ということを考える人がいたら、この「浜名湖かんざんじ荘」がよい。
窓からの景色(眺望)は、浜松イチ。
料理も最高。
浴場からの景色も、これまた最高。
あとは料金と相談。
この上と言えば、ホテル・ウェルシーズンがある。
さらにその上には、九重(ここえ)もある。

 私はいつも「じゃらん」を利用している。
料金も格安。
本気度も、120%。
満足度も、120%。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●認知理論(Cognitive Theory)

「認知療法」とか、「認知的不協和理論」というのは、わかりやすい。
「認知行動理論」とか、「認知行動療法」というのもある。
それらのベースになっているのが、「認知理論」ということになる。

 わかりやすく言えば、「行動理論」に対して、「認知理論」がある。
人間と言うのは、(ほかの動物もみなそうだが)、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、共通した行動をする。
こうした行動反応を、体系化、理論化したものが、「行動理論」ということになる。

 それに対して、「心(精神)」も、ある一定の状況下で、同じ条件が加わると、共通した心理反応を示す。
こうした心理反応を、体系化、理論化したものが、「認知理論」ということになる。
というか、「心」の問題を、知的に分析、体系化したものと考えたほうがわかりやすい。

 「心」というと、どうしても、「感情的」「情緒的」に考えやすい。
が、これでは科学としては、体系化できない。
そこで心の働きを、脳のメカニズムとして理解しようとして生まれたのが、認知理論ということになる。
近年のコンピューターの発達が大きく影響していることは言うまでもない。
脳も情報処理機関のひとつにすぎないというわけである。

『……人間の行動原理を解明する『行動理論』に対して、人間の認知的プロセスやその原理を解明しようとする『認知理論』があり、認知行動療法のベースには、外的刺激や客観的状況の意味をどのように解釈して受け容れるかという、『認知理論』が関係している。

認知理論は認知科学(認知心理学)の分野に包摂される仮説理論であり、脳内の情報処理プロセスや知識の獲得・変容に対して強い関心・研究意欲が注がれるようになっている。

だが、心理臨床としての認知行動療法が最終的に目指すのは、『認知傾向の改善(考え方の変容)』だけではなく『不適応行動の改善(適応行動の獲得)』であることも忘れてはならないだろう』(心理学用語辞典BLOG)と。

●心

 もちろん「脳」と「コンピューター」は、ちがう。
たとえば感情。
私たち人間には、喜怒哀楽の「情」がある。
その情が総合されて、私たちの「心」を作る。
そういったものすべてを、コンピューター的に理解することはできない。
が、それも、「今はまだできない」というのが正しい。
さらに脳科学が進めば、「心」もまた、知的領域、つまり認知理論の中で説明できるようになるかもしれない。

 事実、今では、「感情ホルモン説」が、常識化している。
「喜怒哀楽の情も、脳内ホルモンによって作られる」と。
「恋のホルモン」と呼ばれる、フェニルエチルアミンを例にあげるまでもない。

 ともかくも、「認知」の英語は、「cognitive」。
ラテン語の「I know」、つまり「私は知っている」に由来する。
だったら、「己を知る方法(セオリー)」でも、よいのではないか。

が、その点、日本語というのは、生まれながらの心理学。
日常会話の中に、そうした用語が織り込まれている。

(わだかまり)(こだわり)(ひがみ)(いやみ)(しがらみ)(いじけ)(つらみ)(取り越し苦労)(ぬか喜び)(ねたみ)(みじめ)(ひもじい)……など。
泣き方ひとつ取り上げても、(さめざめ)(しくしく)(おいおい)(はらはら)(ほろほろ)(めそめそ)などがある。

ほかにも心の変化、状態を表す言葉は、ズラリとある。
英語に訳したら、そのまま心理学用語になる。
たとえば「固着」という心理学用語がある。
うつ病の診断基準のひとつになっている。
それなどは、「こだわり」と考えれば、わかりやすい。

さらに日本へ伝来した仏教にしても、「宗教」というよりは、「心理学」。
人の心を体系化したもの、それが仏教。
私はそう解釈している。

 で、これらを知的に理論化したものが、「認知理論」ということになる。
わかりやすく言えば、「心の反応理論」? 

 ただし運動や行動とちがい、「心」には、実体がない。
直接、その動きを証明することができない。
だから「仮説理論」(前述)ということになる。

……というのが今までの常識。
が、最近の脳科学の進歩には、驚くべきものがある。
たまたま今朝も原稿を整理していたら、こんな論文が出てきた。

いわく『赤ちゃんの泣き声を聞くと、母親の脳内では、麻薬を得たときと同じような反応が脳のある領域で起きる※』と。

 「母性愛」というのは、仮説にすぎない。
が、その母性愛にすら、科学のメスが入るようになった。

(注※……母親の反応)
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似たような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に役立つと期待される』(時事通信、2008年7月13日)と。

 認知心理学は、今、ここまで進んでいる。
先の「固着(こだわり)」にしても、今では脳内の活動の様子を、リアルタイムで観察することができる。
それによれば、脳の一部が、過剰に興奮状態になっているのがわかるという。
それが「固着」と。

すごい!

●己を知る

 といっても、現実の世界で、「己を知る」のは、簡単なことではない。
話は、ぐんと現実的になるが、許してほしい。
こんな事件が、20年ほど前にあった。

 ある家の妻(そのとき結婚10年目ほど)が、突然、隣の家の温水器を、スコップで叩いて壊してしまった。
隣の家の温水器は、灯油、つまりボイラーで湯をわかすしくみになっていた。
それが時折、着火するときボワーッ音を出し、湯をわかす。
その嫁は、それが「うるさい!」と。

 その少し前から、その家の夫が、妻をたしなめてはいたが、妻は、「ときどきではない。一晩中だ」と言って、騒いでいた。

もっとも、この程度のトラブルなら、どこにでもある話。
その妻は、小学生の娘(当時小2)に、こう言いつけた。
「ボイラーが鳴る時刻と、時間を調べろ」と。
娘は几帳面にも、何時間にもわたって、それを調べ、記録した。
妻が、ボイラーをスコップで叩いて壊したのは、その直後のことだった。

 で、この事件は、当然のことながら、隣人との弁償問題に発展した。
夫の実家の両親も、かけつけた。
いろいろ関係があり、私もその場に呼ばれた。
で、その妻は、どこかおかしいということになった。

 が、それからがたいへんだった。
病院の精神科へ行く、行かないで、今度は、夫との大騒動に発展してしまった。
ふつうの騒動ではない。
近所中に聞こえるほどの大声で、怒鳴りあった。
が、妻は、夫や夫の両親が、車に乗せようとしても、それをがんとして拒否した。
「私は、どこもおかしくない!」と。

 そのとき私は、それを知った。
その女性(妻)は、私自身の姿でもあった。
脳のCPU(中央演算装置)がズレるため、自分で自分の姿を客観的に知るということは、むずかしい。
むずかしいというより、不可能。
「私は正常」と思いつつ、そうでない行動に走ってしまう。
つまり「己を知ることは、それくらいむずかしいこと」と。

●ダイエット

 では、どうすれば、己を知ることができるか。
ひとつのヒントとして、最近、私はこんなことに興味をもっている。

 たまたま現在、ダイエット中(減食+運動中)。
先週、体重計に乗ったら、68キロ弱。
ギョッとし、直後から、ダイエットを始めた。
食事の量を減らし、運動の量をふやした。

 おかげで(?)、現在は、66キロ台。
もっとも1~2キロ程度なら、すぐ減る。
目標は64キロ。
苦しいのは、これから。

 で、そのダイエット。
言うまでもなく空腹感との闘い。
が、そのメカニズムがおもしろい。
認知理論を応用し、それについて少し考えてみたい。

●満腹中枢と摂食中枢

 脳の脳下垂体に、満腹中枢と摂食中枢がある。
血中の血糖値を監視する。
満腹中枢は、言うまでもなく、満腹感を感知する。
摂食中枢は、空腹感を感知する。

 この両中枢で興味深いのは、その2つがあるということ。
2つしかないということ。
中間がない。
たとえば車のガソリンメーターは、アナログでも、またデジタルでも、その中間値を示す。
私の車(プリウス)は、10段階のバーで表示する。

 が、脳のばあいは、満腹か、空腹か、だけ。
ガソリンタンクにたとえるなら、満タンになったときと、空になったときだけ、それを感知する。
では、中間のときは、どうなのか。

 原理的には、脳はそれについては感知しないということになる。
中間のときは、満腹感もなければ、空腹感もない。
食欲のことは忘れ、そのときの作業に集中できる。

 そこで私はこう考えた。
「食事といっても、空腹感を消す程度に食事をとればいい」と。

 満腹感を覚えるほど、食事を食べる必要はない。
空腹感、つまり視床下部にある摂食中枢を刺激しない程度のところまで食べればよい。
理屈で考えれば、そうなる。

 その一例として、先日、バスの中で小便をした話を書いた。
文にするようなエピソードではないが、あえて紹介する。

「……2年ほど前のこと。
バスの中で、はげしい尿意を催した。
あるところから、あるところへ行く途中である。

 ふつうなら途中下車をして……ということになるが、バスの便数そのものが少ない。
1日、数本しかなかった。
そこで私は、客がほとんどいなかったこともあり、バスの中ですることにした。
(この話は以前にも書いたが……。)

 もっていたペットボトルのお茶を飲み干すと、それをもって、最後部の座席に移った。
私は最初、こう思った。
「こんな小さなペットボトルで、だいじょうぶかな?」と。
ペットボトルは、せいぜい300mL程度の大きさ。

そのときのこと。
尿意を減らすだけなら、全量、放出する必要はない。
ほんの少しでよい。
膀胱に、仮に70~80%の尿が残っていたとしても、尿意はそれで消える。
実際、少し出したところで、尿意は消えた。

 目的を達すると、前部の席に戻った。
ワイフが心配そうに、「どうだった?」と聞いた。
「うまくいった」と、私は答えた。

 今回、ダイエットしながら、そのときのことを思い出した。
「全量、食べる必要はない。半分程度食べておけばよい。やがて空腹感は消える」と。

 恐らく膀胱の感知能力も、視床下部のそれと同じではないか。
満タンか、どうか。
それだけを感知する。
仮に満タン状態を、(100)とすると、(80)とか(70)のときは、それを忘れていることができる。
が、満タン状態になったときだけ、尿意を覚える。

●私のダイエット法

そこで私のダイエット法。
要するに、満腹感を覚える必要はない。
空腹感だけを消せばよい。
そのためには、全量を食べる必要はない。
「腹8分」というが、「腹3分」とか「腹4分」にする。
そこでとどめる。
そのあたりで、空腹感は消えるはず。

 ……あまりよいたとえではないかもしれない。
「認知理論」というよりは、体のメカニズム。
が、心の動きも、こうして客観的に理解できる。
どう自分を知り、どうコントロールしたらよいか、それがわかる。

●私のこと

 では、「心」のばあいは、どうか。
たとえば「不安」を例にあげてみる。

 私のばあい、明らかに不安神経症。
強迫観念も強い。
いつも何かに追い立てられている。
ピーターパンに出てくる、フック船長に似ている。
時計を飲み込んだワニに、いつも追いかけられている。
カチコチ、カチコチ……、と。

 その原因といえば、乳幼児期の基本的信頼関係の構築の失敗。
家庭というより、戦後のあのドサクサ期。
家庭教育の「カ」の字もないような時代に、私は生まれ育った。
父や母にしても、食べていくだけで精一杯。
親子で豊かな愛情を、はぐくむなどというようなことは、ありえなかった。

 私はいまだに、その亡霊と闘っている。
不安神経症であるにせよ、強迫観念症であるにせよ、(実際のところ病名など、どうでもよいことだが)、そのあたりに原因がある。
が、そういった「己」を知ることにより、症状を、自分でコントロールすることができるようになった。
それが「認知」、つまり「I know」の意味ということになる。

●アスペルガー児

 認知理論そのものは、要するに心理学全体を構成する「背骨」のようなもの。
大切なのは、それをどう理解し、臨床の場で、心の問題で悩んだり、苦しんでいる人を、どう助けていくかということ。
「認知療法」というのも、ある。
……というか、そのための「認知理論」ということになる。

 が、教育の場では、少しちがった考え方をする。

 たとえばアスペルガー児と呼ばれる子どもがいたとする。
高次自閉症と位置づけられている。
「高次」というのは、知的な意味では、問題がないということをいう。
むしろ鋭い感性や、特殊な分野に並はずれた才能を示すことが多い。

 そのアスペルガー児。
少し経験のある教師なら、瞬間見ただけで、そうであるとわかる。
が、わかっても、わからぬフリをする。
診断名など、口が裂けても言わない。
言ってはならない。

教師には、診断権はない。
医師にしか、ない。
(だからといって、医師の診断能力が完全かというと、それはない。
症例にしても、現場の教師のほうが、はるかに数多く、また長時間、経験している。)

 そこで教師のばあいは、(今、そこにいる子ども)を前提に、教育を始める。
診断名など、どうでもよい。
忘れる。
原因となると、さらにどうでもよい。

重要なことは、親から、不安を取り除いてやること。
そのためには、バカなフリをする。
親から見て、「この先生は、何も知らない」と思わせる。
またそう思わせておけばよい。
その上で、親には、こう告げる。

「何も心配ありませんよ。家では~~してあげてくださいね」と。

 あとは、自分のなすべきことに全力を尽くす。

 ……こういう書き方は、たいへんデリケートな問題を含む。
が、事実だから、書く。

が、私のばあい、軽い情緒障害であれば、親がまだ気がついていない段階で、それを「なおす」ことができる。
たとえば場面かん黙児など。
現在も、幼稚園などでは、まったくしゃべらなかった子どもだったが、私の指導でしゃべるようになった子どもが、2人いる。
方法は簡単。
ゲラゲラ笑わせながら、その笑いの渦の中に、その子どもを巻き込んでいく※。

●注※……笑いの科学)
 
 ついでに……。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われるようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわかってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)と。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なおす」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしまう。

●性(さが)

 「認知療法」ということになれば、それはその子どもがおとなになるのを、待つしかない。
自分で、自分の問題点を知る。
「どうして、私はこうまでがんこなのか」
「どうして、私は他人の言葉で、こうまで傷つきやすいのか」
「どうして、私は冗談を理解できないのか」
「どうして、私は言葉どおりに、ものを考えるか」と。

 その上で、自分の過去を知り、ついで、「アスペルガー」という言葉を知る。
「ああ、私は、子どものころ、アスペルガー児だったのだ」と。

 が、実際には、ほとんどの人は、仮にそういった問題(障害)をかかえていたとしても、それに気がつくことはない。
気がつかないまま、一生を終える。

先に書いた、私の不安神経症にしても、強迫観念症にしても、さらに原因はといえば、母自身の過去と結びついている。
私自身の心にしても、「母親譲り」ということになる。
母にしても、不安神経症だった。
強迫観念症だった。

 が、その母が、自分でそれに気づいていたかどうかということになると、「?」。
私の印象では、それはなかったと思う。
母は母で、死ぬまで自分のそういった「性(さが)」と闘っていたように思う。
それを指して、母は、よく「業(ごう)」という言葉を使った。
が、それでもそれに気づいていたとは、思っていない。

 母は母で、13人の兄弟がいた。
その中で、下から4、5番目。
豊かな親子関係など、結びようもなかった。
大正生まれとはいえ、私以上に、基本的信頼関係の構築とは、無縁の世界に住んでいた。

 そこで認知療法ということになるが、私たちはそうした情報を、自分で手に入れるしかない。
それを手がかりに、自分で自分を判断する。
自分自身の治療につなげる。

●ボイラーを叩いて壊した妻

 で、ボイラーを叩いて壊した妻の話。

 その妻のばあい、どうすれば「治るか」ということは、重要ではない。
どうすれば己に気がつくか。
それが先。
その妻のように、通常の常識ある社会生活がむずかしくなったようなばあいに、「障害」という名前がつく。
妄想性が強い人だったので、病院にかかれば、「妄想性人格障害」という診断名がついたかもしれない。
何かのことに一度こだわると、その瞬間から、妄想がかぎりなくふくらんでしまう。

「わざと音を大きくしている」
「わざと自分の睡眠を妨げている」
「私はこのまま不眠症になってしまう」と。

 ふつうなら、(「ふつう」という言葉は、慎重に使わねばならないが)、たとえそうであっても、つぎの「行動」には移らない。
「思い」と「行動」の間に、距離感のある人を、人格の完成度の高い人という。
そうでない人を、人格の完成度の低い人という。
それをコントロールするのが、「理性の力」。
大脳の前頭連合野が支配する領域である。

 が、妄想が限度を超える。
それが突発的な錯乱状態を呼び起こす。
行動に走る。
私が見たときには、夫がもっていたバットで、それを壊した。

 で、そういうときというのは、先にも書いたように、脳のCPUそのものが、ズレている。
そのため、「私が正しい」と言い張る。
実際、「私は正しいことをしている」と思い込んでいる。

(反対に冷静になると、そのときの自分を「正しい」と思うよう。
多重人格性をもった人と大きくちがうのは、その両者を、自分としっかりと認識しているということ。
叩いて壊したという、記憶もしっかりとある。)

 そこでその妻には、そういった行動が、心の病気によるものであることを、わからせる必要がある。
それが「認知療法」ということになる。
つまり妄想がふくらみ、コントロールができなくなったとき、本人自身が、こう思えばよい。
「ああ、これは病気だ」
「これは本当の私ではない」
「こういうときは、行動してはいけない」と。

 それができるようになれば、あとは時間が解決してくれる。
やがて自分で自分をコントロールできるようになる。

(追記:先の事件からすでに、20年近くになる。
現在その妻は、50歳前後になるはず。
以後、遠ざかっているので、どうなったかは、わからない。)

●DVD『アナザー・プラネット(Another Planet)』

 むずかしい話がつづいたので、話題を変える。

 先ほど、DVD『アナザー・プラネット』を見た。
SF映画だが、先日見た『メランコリア』と、どこかよく似た映画だった。
が、この『アナザー・プラネット』は、ハッピーエンドで終わる。
どうハッピーエンドで終わるかは、DVDを見ないとわからない。
かなりの論理力が必要。

 ……最後のシーンで、主人公の女性、ローダは、自分の分身に出会う。
ふと振り返ると、そこにもう1人の自分が立っている……。

……ということは、つまり自分の分身に出会うということは、『アナザー・プラネット』のほうでは、男性は、死んだはずの妻や子どもと出会っているということになる。
だからハッピーエンド。
が、ヒントは、ここまで。
あとはDVDを見ての、お楽しみ!

 ……『惑星ソラリス』(旧作)も、おもしろかった。
1970年代後半の映画だったが、実際に見たのは、1990年ごろ。
あのとき受けた強烈な印象は、今でも忘れない。
『アナザー・プラネット』は、その後続版(?)、SF映画と位置づけてよいのでは?

●認知理論

 話を戻す。

 脳の働きを、コンピューター的に解釈することは、たしかにおもしろい。
たとえば私は、脳には、コンピューターのCPUがもっているような、クロック数のようなものがあるのではないかと思っている。
子どもを観察していると、それがよくわかる。
子どもたちのそれは、おとなのそれよりも、何倍も速い。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年の10月に、私はこんな原稿を
書いた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2008年10月21日

+++++++++++++++++++++++

4、5年前に、『マズローの欲望段階論』について
書いた。
その原稿を読みなおしながら、今日、自分で「なるほど」と
思った。
しかし自分で書いた原稿を読みなおして、「なるほど」は、ない。
つまりそれだけ記憶力が弱くなったということか。

+++++++++++++++++++++++

●「愚か」になる人たち

 同年代以上の人たちを見ていて、ときどき、こう感ずることがある。
「この人たちは、日々に愚かになっているのに、それに気づいているのだろうか」と。

「愚かになる」というのは、知的能力の総合的な低下を、いう。
知識や経験のみならず、知恵や思考力そのものを失うことをいう。

 しかしこれは脳のCPU(中央演算装置)の問題。
脳みそ全体の機能が衰えてくれば、知的能力の低下そのものも、わからなくなる。
自分が愚かになりつつあることすら、わからなくなる。
わからないならまだしも、知的能力が低下していても、「自分は、まとも」と誤解する人もいる。

 私の知人に、今年、85歳になる男性がいる。
軽い脳梗塞を繰り返していることもあり、話し方そのものが、かなり、おかしい。
ろれつが回らない。
そんな男性でも、あちこちに電話をかけて、説教がましいことを言う。
私のところにも、かかってきた。
「親のめんどうは、最後まで、しっかり見ろよな」とか、何とか。

 一応言っていることは(まとも)だから、それなりの会話はできるが、繊細な話しあいは、できない。
深い話もできない。
そのため私のほうは、適当に話を聞いて、適当に合わせるということになる。

 が、これはそのまま、私自身の問題ということになる。
遠い未来の話ではない。
5年とか、10年とか、それくらい程度の、先の話ということになる。

●愚かさの確認

 どうすれば、自分の(愚かさ)を、自分で知ることができるか。
あるいはどうすれば、(愚かになっていく程度)を、自分で知ることができるか。

 肉体的な衰えは、たとえば体力テストなどで、かなり正確に知ることができる。
同じように、知的能力の衰えも、たとえば知能テストなどで、かなり正確に知ることができる。

 しかしそれを知ったところで、自分では、けっして、そうは思わないだろう。 
たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 たまたま帰省している息子がパソコンをいじっていた。
音楽を、二男のインターネット・ストーレッジ(倉庫)から、ダウンロードしていた。
私もキー操作に関しては、かなり速いほうだ。
そう思っていたが、息子は、それこそ目にも止まらぬ速さで、キー操作をしていた。

 私が、パチパチ……なら、息子は、その間に、パパパ……と、キーをたたく。
「この画面は何だ?」と質問している間に、すでに数枚先の画面を表示してしまう。

 脳みそのクロック数そのものが、ちがう。
私のは、たとえて言うなら、1・0GH(ギガヘルツ)。
息子のは、たとえて言うなら、3・1GH(ギガヘルツ)。

 クロック数そのものがちがうから、自分で自分の(愚かさ)を知ることはない。
しかし息子には、それがわかる。
もたもたしている私の指先を見つめながら、「イーxxx」と。
使っているソフトが、「イーxxx」という意味らしい。

 では、自分の脳みそのクロック数を知るためには、どうしたらよいのか。

●子どもとの競争

 ひとつの方法としては、知能テストもある。
しかしこの方法では、思考力のある・なしはわかるが、クロック数まではわからない。
そこでもうひとつの方法として、子どもと競争するという方法がある。

実のところ、私はいつも、この方法で自分のクロック数を確かめさせてもらっている。

 レベル的には、中学生~高校受験用の問題がよい。
そういった問題で、子どもと競争する。

 ただし私のように、仕事上、毎回訓練しているほうが、有利。
問題を見ただけで、解答の道筋が見えてしまう。
(子どものほうは、最初、手さぐり状態になる。)

……ウ~~ン……

 何かよい方法はないものか。

 たとえば脳みその中を走る電気信号を、計数的にとらえることはできないものか?
たとえば右脳のA点から出た信号が、左脳のB点に達するまでの時間を計測する、とか。
「あなたは、0・03秒かかりました」「あなたは、0・13秒かかりました」とか、など。
そこであなたの脳みそのクロック数は、「0・02GH」「0・003GH」と。

家庭でできる方法としては、(1)速算、(2)早読みなどでもわかるかもしれない。
(これも訓練で、速くなるだろうが……。早読みにしても、声の大きさによっても、変化するにちがいない。)

 脳みそのクロック数が落ちてくると、「アウ~~」「エ~~ト」という言葉が多くなり、話し方も、かったるくなる。
昔、大平総理大臣という人がいたが、ああなる。

 が、結論から先に言えば、脳みそも、肉体の健康と同じ。
鍛練してこそ、能力を維持できる。
……ということで、今日は、これから仕事に行く。
もちろん自転車で。

夜は、ワイフとデート。
楽しみ。 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi 脳のクロック数)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●脳の操作

 私はすでに4年も前に、「クロック数」を考えていた。
さらにそれにつづいて、これはあくまでも今の段階では仮説だが、そうした信号は、視床下部あたりから発せられているのではないかという原稿も書いた。

 自分の脳みそをコンピューターにたとえ、分析していくことは、たしかにおもしろい。
指先でコンピューターを操作するように、自分の脳を、自分の意思で操作する。
これからは、そういう研究がさらに進むはず。
それが「認知理論」、あるいは「認知心理学」ということになる。

●就寝

 そろそろ就寝タイム。

 先ほど、ワイフと私はこんな会話をした。
「ぼくたちは、広い宇宙を、2人で最後の航海をしているみたいだね」と。

 残り少ない人生。
いろいろあった。
ありすぎて書ききれない。
若いときは、喧嘩ばかりしていた。
仕事ばかりしていた。
孤立無援というか、3人の子育ても、すべて私たちだけでした。
毎日、追い詰められてばかりいた。

 が、今、私たちはそういった重圧感から解放された。
私の実家の問題も、数年前に、片づいた。
息子たちも、片づいた。
私たちが望んでいた形のようにはいかなかったが、ともかくも片づいた。

 今は、そんなわけで、自由。
人生も晩年になって、はじめて自由。
「若いときは、デートをしたくても、できなかった」とワイフ。
「だから、今、しよう」と私。

 地球という宇宙船は巨大だが、漆黒の宇宙を航行する宇宙船であることにはちがいない。
その宇宙船に乗り、最後の航海をつづけている。
行き先は……私にもわからない。
どこにいるかも、わからない。
航行しているというよりは、漂流している?
ともかくも、私たちはその宇宙船の上で、最後の航海をしている。

 ……この航海が、どこでどう終わるかは、まだわからない。
わからないが、とにかくその日まで、生きていく。
生きていくしかない。

「その日が来たら、いっしょに死のう」と私。
「そうね」とワイフ。

 ……湿っぽい話になってしまったが、私たちには、その湿っぽさはまったくない。
ワイフは、いつもこう言う。
「私たちは、すべきことは、ちゃんとしたのよ」と。

 親たちのめんどうも、みた。
息子たちのめんどうも、みた。
やるべきことは、きちんとした。
だまされたことは、何度かある。
しかし、人をだましたことはない。
私の人生に、後腐れはない。

 では、おやすみ!

はやし浩司 2012-03-08
浜名湖かんざんじ荘にて

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 認知心理学 はやし浩司 認知理論 認知理論とコンピューター はやし浩司 脳のクロック数 視床下部 脳の回転 はやし浩司 浜名湖かんざんじ荘にて はやし浩司 笑いの科学 笑いの効用 はやし浩司 免疫力の増加 2012-03-07)


Hiroshi Hayashi+++++++March 2012++++++はやし浩司・林浩司


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