●怒り(はやし浩司 2012-02-06)
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このところ寒い日がつづく。
が、今朝は雨。
どこか生暖かい。
「これで寒さも和らぐか……」と。
が、今朝の新聞を見て、久々に怒り心頭!
まだ本紙は読んでないが、『週刊ポスト』誌の
広告には、つぎのようにある。
そのまま紹介させてもらう。
『一般人は800万円、公務員は2660万円』と。
大見出しには「大震災弔慰金、命の値段」とある。
いわく「人を助けようとして殉職した警察官、
消防署員、教員その他の方々の弔慰金は当然である。
だが、同じように近隣住民や社員の避難を見届けて
死んだ民間人に対しては、災害弔慰金が500万円、
遺族特別支給金が300万円。
これでいいのか!」と。
これでいいわけがない。
もちろんそれぞれの公務員の方に、責任があるわけではない。
また責任を追及しているわけでもない。
ただ、天下国家を論ずるときは、子どもの代、孫の代まで考える。
あなたはそれでよいとしても、そのツケは、結局はあなたの子ども、
さらには孫が支払うことになる。
が、それだけではない。
こんなことをしていたら、本当にこの日本は破産してしまう。
この(事実)の向こうには、もうひとつ、深刻な問題が隠されている。
破産どころか、消滅してしまう。
それについては、このあと、つづけて書いてみたい。
さらにもうひとつ。
「(国会議員の)年収は、上場企業の社長級。
文書、通信、交通、滞在費、1200万円は非課税。
JRも飛行機も、ただ乗り。
都内高級マンションで、家賃9万円、管理費はなし。
引退しても、民間よりはるかにオイシイ議員年金。
与党も野党も、減らす気なし」(「週刊ポスト」)と。
末尾の「与党も野党も、減らす気なし」という部分。
その部分にカチンときた。
似たような話は、この浜松市でも聞いている。
が、どういうわけか、まったく問題にならない。
それを伝える情報機関すらない。
地方新聞にしても、口をつぐんだまま。
地方議員にしても、選挙の前には、それを問題にする。
が、当選したら最後、それでおしまい。
そのあとはただひたすら、ダンマリ。
(一部の議員は、HPなどで、問題にしているが……。)
抗議をしたくても、それもできない。
異議を唱えたくても、それもできない。
どんな小さなデモでも、今では、事前届け出制。
それぞれが勝手に、「おかしい」と言うだけ。
横とのつながりがないから、大きな力にもならない。
みながみな、ザワザワと不平や不満を、小言で言いあうだけ。
そこで私たちがせいぜいできることと言えば、こうした週刊誌を買い、
支持を間接的に伝えること。
発売部数が増えれば、週刊ポスト誌も、さらにがんばるだろう。
ところでがっかりしたのが、『週刊A誌』(1・10日号)。
何と5ページもさいて、「アフリカの難民救済運動」を展開していた。
どこかの団体のPR広告なのか?
それとも週刊A誌による、独自取材なのか?
5ページといえば、大特集のはず。
が、それほどの重大性は感じられなかった。
タレントのA・チャンの、自慢話ばかり。
A・チャンを、「香港のジョン・バエズ」と位置づけているのには、驚いた。
(そんな話、はじめて聞いたぞ!)
私も高校生のときから、ジョン・バエズの大ファンだった。
彼女のもつ哲学に共鳴した。
ジョン・バエズはその哲学を、自ら作詞、作曲した。
そのジョン・バエズ?
私たち庶民は、たしかに操られている。
日々に洗脳されている。
週刊A誌のその記事を読んで、私はそう感じた。
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●資格
今から40年前の話。
メルボルン大学のIHカレッジには、世界中から留学生が集まっていた。
そんな学生たちの間で、ある日、こんなことが話題になった。
「どの国へ留学するのが、いちばん得(=利益がある)か」と。
で、結論は、結局は、欧米諸国ということになった。
この日本は、番外だった。
理由を聞くと、こう話してくれた。
「日本で資格を取っても、世界では(=自分の国では)通用しない」、
「だから日本で勉強しても、無駄」と。
当時、数の上でも、日本へ留学してくる学生の数は、圧倒的に少なかった。
●資格
たとえば日本で医師資格を取っても、他の国々では通用しない。
建築士の資格にしても、さらには看護士の資格にしてもそうだ。
ゆいいつの例外は、自動車の運転免許だった。
が、それとて相互主義。
アジアの中にも、日本の運転免許を認めない国は、いくらでもあった。
で、私はオーストラリア大使館に電話を入れ、こんなことを確かめた。
「アメリカで建築士の資格を取ったら、オーストラリアでも、そのまま通用するか」と。
(ただし確かめたのは2000年ごろ。)
オーストラリアの大使館員は、こう教えてくれた。
「そのままでは使えない。
オーストラリアではオーストラリアの資格試験を受けてもらう」と。
が、その距離は、ずっと短い。
「そのままでは使えないが、ほぼ自由に使える」と。
●風前の灯火
日本が世界のリーダーとして、他の国々の上に君臨しているなら、まだよい。
しかし今や、日本の国際的地位は、風前の灯火。
この先、日本が生き延びていくためには、2つの方法しかない。
(1)日本の若者たちが外国へ出稼ぎに行く。
(2)外国からの移民を、大幅に受け入れる。
順に考えてみる。
●出稼ぎ
日本の若者たちが外国へ出稼ぎに行く。
……という話は、すでに現実の話になりつつある。
日本の国家経済は、すでに破綻状態。
それが現実のものとなれば、日本の「円」は紙くずと化す。
わかりやすく言えば、たとえば今までの日本とブラジルの関係が、逆転する。
今度は、日本人が家族を連れて、ブラジルへ出稼ぎに行くようになる。
「まさか……」と思っている人は、認識が甘い。
日本は現在、1000兆円という借金を抱えている。
1000兆円だぞ!
あのギリシアは、たった35兆円※という借金で、地獄の底で、もがいている。
そうなったとき、日本人はどうするのか。
相手の国が、「あなたのもっている資格は、この国では通用しない」と。
そう言ったら、あなたは、どうするのか。
(注※……ギリシア政府の借金額は、3300億ユーロ(約35兆円)。
2011年10月現在。)
●日本のおごり
今までは、高いハードルを設けても、よかった。
何といっても、日本は、世界の先進国。
世界の人たちが日本を求めてやってきた。
が、その立場は、現在、逆転しつつある。
たとえば看護士の資格にしても、日本は高いハードルを設けている。
フィリッピンやその他の国々からやってくる看護士にしても、そうだ。
が、ことフィリッピンに関して言えば、レベルは高い。
日本より高い。
看護士の質そのものが、ちがう。
40年前においてですら、そうだった。
男性は軍人、女性は看護士。
それが当時のフィリッピンにおける、出世コースだった。
そのフィリッピンからの看護士を、日本が再教育する?
資格試験を、この日本で受けさせる?
……これはとんでもない誤解。
誤解というより、日本の(おごり)。
●言葉の問題
日本政府は、ことあるごとに「言葉の問題」を口にする。
「日本語を話さない人は、ごめん」と。
が、そんなことばかり言っているから、日本はかえってソッポを向かれる。
その一例が、東京証券取引所。
今や東証に上場している外資系企業は、とうとう一桁台になってしまった。
理由は言わずと知れた、翻訳料。
日本政府は、すべての書類を日本語に翻訳するよう義務づけた。
日本投資家の保護(?)が目的だ、そうだ。
その結果、どうなったか。
ほとんどの外資系企業は、シンガポールに逃げた。
●外国人労働者
言葉の問題は、その向こうに国際性(グローバル化)の問題も含む。
たとえばオーストラリアでは、その季節になると、外国人労働者がどっとやってくる。
その労働者が各地を回りながら、仕事をする。
たとえばリンゴの収穫、イチゴの収穫、ブドウの収穫など。
が、この日本では、それができない。
できないから、この浜松市周辺からも、ミカン畑がどんどんと姿を消している。
理由は、言わずと知れた、農業経営者の高齢化。
そこで外国人労働者を受け入れ、そうした人たちにミカンの収穫を、と考えた。
が、これにも高いハードルがある。
現実には、不可能。
また仮に外国人労働者がやってきても、悲しいかなこの日本には、その国際性がない。
言葉だけの問題ではない。
わかりやすく言えば、外国人労働者とうまくやっていく、土壌そのものがない。
●資格
この先、日本と外国の立場は逆転する。
経済的地位のみならず、国際的地位も逆転する。
が、れはどういう状況なのか。
日本人が出稼ぎに行くような状況を、ほんの少しだけ頭の中で想像してみればよい。
そうなったとき、はたして今のような(おごり)を貫くことができるだろうか。
たとえば今のあなたがどんな仕事をしているにしても、だ。
相手の国に、「あなたの資格は、この国では通用しません」と言われる。
そう言われて、ことごとく拒否されたら、あなたはその国へ、行く気がするだろうか。
が、それでもあなたは、仕事探しをする。
何か、ないか、と。
で、やっと見つかった。
あなたがする仕事は、その国の人たちですらしない、そういった類のものでしかない。
たとえば……。
オーストラリアでは、牛肉の解体などは、外国からの労働者たちがしている。
肉牛を殺し、牛肉に解体する。
できる仕事といえば、そういう仕事。
いつか日本の若者たちが出稼ぎに行くようになったとき、そうなる。
日本の置かれた立場は、そうなる。
●移民国家
暗い話ばかりした。
が、この場に及んでも、「規制」また「規制」。
私はそれがおかしいと書いている。
役人は何かにつけ、規制をかける。
そのつど、持ち場をふやす。
人員をふやす。
権限を強化、拡大する。
が、こんなことをしていたら、この日本は、自分で自分のクビを絞めることになる。
そこで、冒頭に書いた、2番目の方法。
外国からの移民を、大幅に受け入れる。
人口が減るなら、労働者としての外国人を、大幅に受け入れる。
これは日本人のためでもある。
2050年ごろには、(高齢者):(勤労者世代)の割合が、1.2~1.3になる。
わかりやすく言えば、(老人):(青年~壮年)の割合が、1:1になる。
そうなったとき、だれが老人(=あなた)のめんどうをみるのか。
つまり、私たちはここでつぎの2つのうちから、1つを選ぶ。
そういう選択に迫られる。
(1)一定年齢以上の老人は、そのまま死んでもらう。
(2)移民国家を是認し、外国からの移民によって、高齢者社会を支えてもらう。
あなたなら、どちらを選ぶだろうか。
●時、すでに遅し
日本は、あえて移民国家になる。
そう宣言する。
「人口の減少分だけ、移民を認めます」と。
またそれしか、日本という国ではなく、(あなた)自身が生き延びる方法はない。
わかるかな?
自滅か、さもなくば、移民国家か。
当然、移民国家ということになる。
が、現実は、さらにきびしい。
時、すでに遅し。
「移民よおいで」と言っても、相手も「人」。
この日本に来たがる、奇特な外国人は、もういない。
「何を今さら……」となっている。
言い換えると、こんなことは、20年前、30年前に、準備しておくべきだった。
その結果が今。
●浜松のブラジル人
10年前には、このあたりにも、ブラジル人の労働者があふれた。
(一時は、3万人もいたぞ!)
が、今は、さがさなければ見つからないほど、少なくなった。
日本人の私たちにも責任がある。
私たちも、彼らと融和しなかった。
融和するだけの、国際性がなかった。
一方、ブラジル人労働者にしても、日本は住みにくい国だったと思う。
あるブラジル人は、こう言った。
待ちで知りあったブラジル人を、食事に誘ったときのこと。
「日本へ来て2年になりますが、話しかけてくれた日本人は、あなたが最初です」と。
そのブラジル人は、4年生の大学を卒業していたが、日本では工員だった。
●深刻な問題
さて冒頭の話に戻る。
どうして『一般人は800万円、公務員は2660万円』なのか。
つまりもろもろの(住みにくさ)の原点は、ここにある。
行きすぎた「規制」が、こうした不公平社会の基盤になっている。
公務員の方はそれでよいかもしれない。
しかしこうした事実から生まれる不公平感を、どう心の中で処理したらよいのか。
税金を払うこと自体に、バカ臭さを覚えてしまう。
さらに言えば、この私ですら、「こんな日本に住みたくない」と思い始めている。
いわんや、外国人をや!
繰り返すが、もちろんそれぞれの公務員の方に、責任があるわけではない。
また責任を追及しているわけでもない。
しかしこう考えてみてほしい。
あなたの子どもや孫も、あなたと同じ公務員になれればよし。
が、そうでなければ、結局は、そのツケはあなたの子どもや孫が払うことになる。
ここでいう深刻な問題というのには、そういった問題も含まれる。
つまりそのとき、みなが、「日本は特権階級しか住めない国」と判断したらどうなるか。
そのとき「日本」という国は、内部から崩壊する。
ここでいう深刻な問題というのは、それをいう。
最後に繰り返す。
『一般人は800万円、公務員は2660万円』というのは、その象徴でしかない。
つまり日本という国が内部崩壊する、その前兆と考えてよい。
この数字を見て、単なる「不公平」というだけ考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 不公平社会 日本崩壊 序曲 前兆 はやし浩司 日本の内部崩壊)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、以前書いた原稿で、
関連したものを、載せておきます。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
● 山荘で(2004年11月記)
●農業経営のグローバル化
山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。
しかしここ5~10年のあいだ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。
理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少した、(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負けた。
加えて、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という切実感がない。
とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。
それなりに栄えている。
「農業がだめなら、工場で働けばいい」という考え方をする。
産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。
ミカンは暖かい地方から先に、出荷される。
静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れる。
遅れた分だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。
ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。
「皮をむくのがめんどう」と言う人さえいる。
皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」という人さえいる。
農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。
ほとんどのミカン畑は中間山地にある。
斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。
最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。
あのオーストラリアからでさえ、温州(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。
そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。
● 外国との競争
オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。
大農園で、大規模に栽培する。
しかも労働者は、中国人やベトナム人を使っている。
もともと日本にミカンに勝ち目はない。
本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。
しかし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。
遅れたばかりか、むしろ、逆にグローバル化に背を向けた。
が、それだけではない。
現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、この半世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。
このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れることができるか、そればかりを話しあっている。
ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。
農協(JA)という機関が、その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではない。
が、それ以上に、もう一つ、深刻な問題がある。
実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。
M氏は、「おおっぴらには言えないが、しかしレベルが低すぎる」(失礼!)と。
それを話す前に、こんなことがあった。
● レベルのちがい?
私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待された。
そこでのこと。
友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。
彼の妻、つまり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。
私は、「農業をする人は、そのレベルの人だ」という、偏見と誤解をもっていた。
だから、この友人の両親の「質」の高さには驚いた。
接客マナーは、日本の領事館の外交官より、なめらかで、優雅だった!
これには、本当に、驚いた!
つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。
が、とても残念なことだが、日本には、それがない。
(最近、若い農業経営者の中には、質の高い人がふえてきているが……。)
一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてすぐれた研究者がいたという。
しかし戦後、経済優先の社会風潮の中で、農学部門には目もくれず、優秀な人材ほど、ほかの部門に流れてしまった。
このことは、大卒の就職先についても、言える。
私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。
その中でも、農業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。
たいへん失礼な言い方だとは思うが、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。
M氏は、さらにつづけてこう言った。
「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよい。
農業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。
しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、この世界には、いない。
それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。
● おかしな身分制度
ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。
江戸時代の昔には、農業従事者は、武士についで2番目の地位にあったという。
それがどういうものであったかは、ただ頭の中で想像するだけしかない。
しかしまったく想像できないかといえば、そうでもない。
私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。
私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。
それについて私は、子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えている。
もちろん仕事に上下はない。
あるはずもない。
ないのだが、しかし私が子どものころには、はっきりとした意識として、それがあった。
「農業をする人は、商業をする人よりも、下」と。
こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れてしまった。
今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生きながらえているといった感じになってしまった。それが実情である。
●職業観の是正
もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。
私も、そうした職業観に、いやというほど、苦しめられた。
私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。
「林、お前だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。
近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。
「君は、学生運動か何かをしていて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。
私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と、電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。
そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。
いないとは言わせない。
つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこっていた。
農業従事者を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。
が、もう、そういう時代ではない。
またそういう時代であってはいけない。大卒のバリバリの学士が、ミカン畑を経営しても、何もおかしくない。
仕事で山から帰ってきたあと、ワイングラスを片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおかしくない。
●結論
私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。
静岡県だけの問題でもない。
日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連している。
さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。
が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それはまさに「革命」と言ってよいほどの、転機である。
出世主義の崩壊。
権威の崩壊。
それにかわって、実力主義の台頭。
そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。
「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。
もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。
「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。
その問いかけが、日本中に広がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)
【追記】
その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。
職業観というよりは、職業の上下観である。
この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。
どの仕事が(上)で、どの仕事が(下)とは書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知っているはず。
こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易なことではない。
心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。
もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのなら、それまでのこと。
しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけてはいけない。
さてここでクエスチョン。
もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そのとき、あなたは何と言うだろうか。
そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像してみてほしい。
(以上、2004年11月記)
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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