【煩悩(欲望)論と統合性の確立 by はやし浩司】
●暖かな3月(はやし浩司 2012-03-03)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
やっと暖かくなった。
冬の冷気を感じない。
「春だなア~」と。
ところで昨夜、ワイフと生徒たちを連れて、映画を見に行ってきた。
『戦火の馬(War Horse)』。
一頭の、賢い馬の話。
先月死んだ、犬のハナが画面にダブり、ポロポロ泣いた。
ポインター種の犬は、馬そっくり。
走り方も、馬そっくり。
目の動かし方まで、馬そっくり。
そんなわけで、星は4つの★★★★。
よかった!
ただタイトルの『戦火の馬』は、おおげさ。
『マイ・ホース(My Horse)』でもよかったのでは?
今週は、もう1本、『ヒューゴの不思議な発明』がある。
すでに公開されているが、こちらのほうは、あわてて見ない。
前評判がすばらしいだけに、ゆっくりと時間をかけ、楽しみたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●3月3日
このところ、午前9時起きがつづいている。
何かにつけ、夜更かしをする。
昨夜も床に就いたのが、午前1時。
我ら不良老人には、時刻はない。
眠くなったら、寝る。
起きたくなったら、起きる。
が、理由がないわけではない。
目下、ダイエット中。
現在67キロの、4キロ、オーバー。
食事の量を半分に減らし、運動量を倍にした。
そのため慢性的なガス欠状態。
何をしても、力が入らない。
とくに床から起きあがるのが、つらい。
それで午前9時起き。
が、熟睡感は、あまりない。
●アクセント
今日の予定は、とくになし。
先ほど、軽い朝食。
「何かしたいか?」とワイフに聞くと、「まだね……」と。
こういうときは、来週の教材作りをするのがよい。
(いつもなら、そうしている。)
が、今日は、こうしてパソコンの前に、ずっと座っていたい。
指の動きも軽やか。
頭もスッキリ。
昨日まで、どこか風邪ぽっかったが、その症状も消えた。
(「風邪っぽい」というから、「風邪っぽかった」と書いた。
この日本語は正しいのか?)
ところで昨日、幼児教室で、「くじ」の話をした。
確率を教えるため。
で、そのときのこと。
子どもたちが、「くじ」と、「く」のところにアクセントをつけて言うのを知った。
私は、ずっと、「くじ」と、「じ」のところにアクセントつけて言っていた。
この浜松では、多くの言葉で、アクセントの位置がちがう。
たとえば「橋」「箸」「端」など。
どちらが正しいというわけではないが、ときどき戸惑うことがある。
もちろんワイフは、「あなたのアクセントは、おかしい」と言う。
私は、「浜松のアクセントは、めちゃめちゃ」と言う。
ワイフは、浜松生まれの、浜松育ち。
私は岐阜県の美濃市生まれ。
興味のある人は、浜松へ来てみればよい。
「橋」「箸」「端」を、浜松の人たちがどう発音するか、聞いてみればよい。
みな、首をかしげるはず。
●また映画
たった今、ワイフがお茶を届けてくれた。
こう言った。
「午後から、映画を見に行こう」と。
「またア~?」と言うと、「そう!」と。
「浜北のほうでもいい……」と。
浜北(浜松の北)にも、東宝映画劇場がある。
そこへドライブがてらに行こう、と。
若いときからワイフの行動力には、頭がさがる。
アドレナリンの分泌が、私より盛ん。
体温も、私より高い。
同じものを食べても、ワイフは、太らない。
私は太る。
つまりその分だけ、行動派。
●プレーボーイ
さて、本題。
「プレーボーイ」と呼ばれる、男たちがいる。
(反対に「プレーガール」と呼ばれる、女たちもいる。)
このプレーボーイ、目的とする「女」が現れると、特異な行動を始める。
献身的。
とにかく献身的。
一方的に相手に仕える。
ときに女の部屋にあがりこんで、掃除までしてやる。
料理までしてやる。
相手の「体」をものにするまで、何でもする。
が、一度モノにすると、相手から急速に興味を失う。
その行動パターンは、「買い物依存症」のそれと、どこか似ている。
「相手の女性の肉体が欲しいから、欲しい」。
それだけの理由。
要するに、自分の欲望を満足させる。
それが目標。
一方、女性にも、「プレーガール」がいる。
昔は「八方美人」と呼んだ。
どちらにせよ、最近の傾向としては、老いも若きも、欲望にブレーキをかけない。
恋愛至上主義もそのひとつ。
恋愛したとたん、それがすべて。
自分の心にブレーキをかけない。
そのまま最後まで、突っ走ってしまう。
もっとも今の若い人たちに、それを説いても意味はない。
また私たちの時代の話をしても、理解できない。
私も学生時代、何人かの女性と恋愛をした。
しかし「収入がない」「生活費が用意できない」「親の了解がない」などの理由で別れた。
「しっかりと自活できてから」というのが、結婚の大前提になっていた。
が、今はちがう。
そのまま突っ走ってしまう。
悪しきアメリカ文化の影響である。
それがわからなければ、映画『タイタニック』を見ればよい。
若い人たちは、ああいうのを見て、「愛」と錯覚している。
それがあるべき人間の姿と思い込んでいる。
人間がもっとも大切にすべきものと、誤解している。
中身といえば、子孫保存本能。
が、そんなことは、そこらのイヌやネコでもしている。
子孫保存のための本能(種族保存本能とは区別する※後述)に、振り回されているだけ。
結果、離婚率も、目下上昇中。
婚姻届数を3とすると、離婚届数は1(全国、役所の届け数平均※)。
(注※)
『……参考値として、「離婚件数を結婚件数で割った値」をグラフ化する。
これは「結婚件数に対し離婚件数がどれだけ多いか」を意味し、この値が仮に1を超えれば、その年の結婚件数より離婚件数が多かったことを意味する。
ちなみに、2001~2007年は、おおむね0・35前後となっている』(Garbagenews.com)。
(詳しくは、http://www.garbagenews.net/archives/1219043.html)
ただし生涯離婚率は、現在、0・2%前後。
現在、1000組の夫婦がいるとすると、その年に離婚するのは、2組ということになる。
●種族保存本能と子孫保存本能
種族保存本能と子孫保存本能は、区別して考える。
いろいろな説があるが、私は、そう解釈している。
種族保存本能というのは、その種族の中でも、最高品種のものを残そうという本能。
たとえば動物の世界では、もっとも力のあるオスが、多くのメスを従える。
そのために、力のあるオスどうしが、ボスの座を獲得するため、死闘を繰り返す。
そういう動物は多い。
ボスになれば、多くのメスを自分のモノにすることができる。
子孫保存本能というのは、要するに生殖本能のこと。
人間は一夫一妻制をとることにより、種族保存本能は、「個」からは切り離す。
切り離さないと、「個」である自分は、結婚できないということになる。
「私は劣等な人間です。子どもを作らないほうが、種の保存のためには、ふさわしい」と。
……とまあ、そんなふうに考える人はいない。
またそんなふうに考えたら、私など、イのいちばんに、だれとも結婚できなかっただろう。
顔はブサイク。
足も短い。
精神的にもガタガタ。
頭も悪い。
が、どうにかこうにか、結婚だけはできた。
●欲望
わかりやすく言えば、欲望に歯止めをかけることができなくなった。
それが現代人の特質ということになる。
硬い話になるが、仏教では、その欲望を強く戒めている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
「煩悩(ぼんのう」については、
たびたび書いてきた。
つぎの原稿は、2003年3月の日付に
なっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●涅槃(ねはん)(2003年3月記)
仏教には、「涅槃(ねはん)」という言葉がある。
「煩悩(ぼんのう)を滅して、苦がなくなった究極の悟りの境地」(日本語大辞典)という意味。
煩悩というのは、「衆生(しゅじょう)の心身を悩ませ、悟りの妨げとなる心の働き」(同)をいう。
わかりやすく言えば、人間の欲望のこと。
仏教では、「貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)」の三つの弊害(これを三毒)をいう。
で、この煩悩を頭から、悪と決めてはいけない。
たとえば性欲にしても、それがあるから種族の保存ができる。なかったら、人類は、とっくの昔に滅んでいたことになる。
そこで仏教では、「煩悩は燃やしつくせ」と教える。
つまり燃やして燃やして、燃やしつくし、その結果として、「涅槃の境地」に達せよ、と。
こういうむずかしい漢字が並ぶと、読むだけでもたいへんだが、要するに、若いときは、したいことを、思う存分しろということ。
Sックスにしても、恋人や夫婦の間で、やってやってやりまくる。
そしてその結果として、そのつまらなさを、悟ることができる。
そのつまらなさから、脱却することができる。
そう言えば、子どもの世界でも、子どものころ、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな子どもになることが知られている。
つまりワルで育った子どもほど、あとあと、すばらしい人間になるということ。
反対に、優等生で育った子どもほど、あとあと何かにつけて、問題を引き起こす。
かえって常識ハズレになり、社会的な不適応を起こすこともある。
精神的な未熟性や、不全性が、その子ども(人)の心をゆがめることもある。
だからといって、子どもの非行を奨励するわけではない。
が、こうした一歩、退いた視点が、子どもを、心豊かな人間に育てる。
「勉強」も大切だが、勉強そのものは、子どもを伸ばさない。
子どもを伸ばすのは、「学ぶ心」、そして「ものごとに挑戦していく前向きな姿勢」である。
勉強ができる、できないは、あくまでも、その結果でしかない。
さて、話をもどす。煩悩だからといって、頭から否定してはいけない。
煩悩だろうが、なんだろうが、思う存分、したいことをすればよい。
して、して、しまくる。
そうすれば、やがてその空しさがわかる。
わかれば、その煩悩と決別することができる。
仏教でいう「涅槃の境地」は無理だとしても、ほぼそれに近い精神状態になるかもしれない。
話は、ぐんと現実的になるが、よく子どもたちが、私にこう聞く。
「先生も、エロビデオを見るのか?」と。
そういうとき私は、こう答えるようにしている。
「君たちのお父さんと同じだよ。だからそういうことは、君たちのお父さんに聞きな」と。
そしてしばらくしたあと、こうつけ加える。
「もう、見飽きたけどね……」と。
これも、いわば、涅槃の境地の一つということになるのかもしれない。
(030404)
【追記】
煩悩を燃やしつくすといっても、燃えつき症候群は好ましくない。
……ですね。
そうそう、それにしても、Sケベ・サイトの多いこと、多いこと!
そういうところが発行するスケベ・マガジンなどは、どれも発行部数が、数万部もあるというから、驚きます。
私のマガジンは、やっと合計で、八三〇部程度。
何ともなさけない感じがしないでもありません。
しかしやがてこれも一巡すれば、私の発行するようなマガジンの読者も、少しはふえるかもしれません。
どうせああいうのは、「無」のマガジン。
読者も、それでは満足しなくなるはず。
必ず「心」を求めるようになるはず。
そういうときがくるのを信じて、がんばるしかない。……ですね。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
先の原稿を書いてから、もう9年になる。
最近、書いた原稿と比較してみる。
つぎの原稿の日付は、2007年7月に
なっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●煩悩(ぼんのう)
+++++++++++++++
仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。
ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。
そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。
+++++++++++++++
仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。
ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。
そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。
ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。
しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うのではない。
「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。
この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ねたんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになったりする」(「仏教聖典」)という。
つまり、自分を見失ってしまう。
この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と位置づける。
これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。
そういう例は、多い。
「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味のことか。
わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。
貪欲な人は、たしかに見苦しい。
ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。
義父を思いやる、やさしい心からそうしているのではない。
その財産が目的である。
義母がいるが、体も弱く、このところ思考力もかなり低下してきた。
そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。
その女性が義父を見舞うたびに、義父は興奮状態になってしまう。
そのあと様子がおかしくなるという。
しかしその女性は、見舞いをやめる気配はない。
これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。
その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。
つぎに怒り。
仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。
私は勝手に「怒り」としたが、研究者がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。
仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。
ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。
たとえば今、私は、社会保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。
K国の金xxにも、怒りを感じている。
元公安調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。
さらには、防衛大臣の失言にも、怒りを感じている。
その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。
つまり(怒り)が正義と結びついていれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。
3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。
しかし先にも書いたように、「知識がないこと」を、愚かというのではない。
ものの道理をわきまえないことを、(愚か)という。
では(道理)とは何か。
現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。
人格の完成度の高い人を、「道理をわきまえている人」という。
他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。
考えて、考えて、考えぬく。
パスカルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。
中に、「私はものごとを深く考えない」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。
しかしそういう人は、自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。
恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。
で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。
「おのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導くことになる」(「仏教聖典」)と。
つまりその人だけの問題では、すまないということ。
が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。
悪いことをしないから、善人というわけではない。
よいことをするから、善人というわけでもない。
私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。
悪と積極的に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。
またそういう人を、善人という。
話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。
この瞬間においてすら、その煩悩が、体中で、渦を巻いている。
「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話は、おしまい。
私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(2007年7月記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩論 パーリ 仏教聖典 はやし浩司 煩悩 煩悩論 欲望論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●進歩?
これら2つの原稿を読み比べてみる。
変化を知る。
ともの「私」だが、中身が微妙に異なる。
同時に、こうも考える。
「私は進歩したか?」と。
答は、残念ながら「NO!」。
むしろ退化した。
このところあまり勉強しなくなった。
本(仏教典)も、読まなくなった。
たとえばどこかのホテルに泊まる。
大きなホテルだと、たいていどこにも、聖書や仏教典が置いてある。
若いころは、それを読んだ。
感動した。
が、今は、目も通さない。
もちろん読んでも、感動しない。
理由の第一は、欲望の火が弱くなったこと。
「~~したい」とか、「~~がほしい」と思うことが少なくなった。
生命力が弱くなった?
生活力が弱くなった?
もっとわかりやすく言えば、巷(ちまた)の雑事など、どうでもよくなってしまった。
とくに悟りの境地に、(そんなものは、あるはずもないが)、近づいたというわけではない。
「めんどう」という言葉のほうが、正確かもしれない。
「どうぞ、ご勝手に!」とか、そういうふうに思うことも多い。
とくに醜い権力闘争を見聞きしたりすると、そう思う。
が、これではいけない。
「これではいけない」とは、ワイフの言葉だが、これではいけない。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。
都会に住む(もの書き)たちは、それぞれに複雑にからみあっている。
この世界には、「ブラックリスト」なるものがある。
たとえば「週刊X誌」。
一度、悪口を書いたら、仕事は回ってこない。
「S雑誌社」にしても、そうだ。
その子会社、あるいは関連会社からも、仕事は回ってこない。
テレビ局をはじめとする、マスコミの世界は、そうしたシンジゲートで成り立っている。
さらに巧妙なのが、宗教団体。
利権団体。
批判本を出版したりすると、出版社自体を、抱き込んでしまう。
まず「はやし浩司」で検索する。
そこにズラリと、「要注意人物」「警戒人物」という文字が並ぶ。
その時点で、仕事はストップ。
こうして都会という中央集権社会は、YES・MANだけの世界になる。
だからワイフは、こう言う。
「あなたが書くのをやめたら、だれが書くのよ!」と。
話が脱線したが、私は自由。
だれにも相手にされないが、こうして自由にものを書くことができる。
だれにも遠慮しない。
だれにも媚(こび)を売らない。
●無の概念
話を戻す。
あのサルトルは、最後に「無の概念」を説いた。
それによって、サルトルは、死の恐怖から、自分を解放した。
つまり自己の限界である「死」を、乗り越えた。
その第一の条件が、欲望からの解放ということになる。
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」とつづくかぎり、人は迷う。
苦しむ。
「死」を乗り越えることはできない。
では、どうすればよいのか。
そのヒントが、『統合性の確立』ということになる。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)をする。
ただし条件がある。
無私、無欲でなければならない。
功利、打算が混入したとたん、統合性の確立は霧散する。
煩悩論の最後に、『統合性の確立』について書いた原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『統合性の確立』については、たびたび
書いてきた。
「はやし浩司 統合性の確立」で検索
してみたら、4000件もヒットした。
2009年2月に書いた原稿が
わかりやすいので、それを紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●統合性の確立
++++++++++++++++++++++++
今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。
それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。
そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。
++++++++++++++++++++++++++++
●帰りのバスの中で
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。
いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。
が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。
私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。
いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。
●60歳の統合性
(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。
エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。
(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。
●統合性の失敗
私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。
明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。
家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。
●今、40歳前後の方へ、
エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。
もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことはない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。
●無私無欲
(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされたとしても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。
仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。
●燃える
一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。
先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。
「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。
そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたりしている。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。
そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。
●あなたの未来
あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。
子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずもない。
40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。
こんな例がある。
●反面教師は、未来のあなた
ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。
こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。
たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。
あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。
反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。
●私のほうが、マシ?
しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、実は価値があるのだ、と。
統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。
私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。
のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?
しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。
そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「マンションの守衛をしている」と。
マンションの守衛が悪いというのではない。
で、「休みには何をしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。
「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。
本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。
統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。
●やってくる老後
老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。
60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。
現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。
まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。
●私の経験
これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。
もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな統合性は、その時点で霧散していただろう。
もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」というようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。
●最後に……
むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、うれしい。
感謝しなければならない。
その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。
……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老
後の生き甲斐)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年3月3日土曜日
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