2010年7月2日金曜日

*Kanzanji Hot Spring Spa

【浜名湖・開華亭にて】

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ふと思い立って、浜名湖・舘山寺温泉街にある
開華亭という旅館へやってきた。
「行こうか?」と声をかけると、ワイフも
長男も、「うん」と。
それでやってきた。

風呂のすばらしさは、うわさに聞いている。
一度、入ってみたかった。

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●午前4時16分

 時計がない。
時刻がわからない。
バッグの中から、デジタルカメラを取り出す。
一枚の写真を撮ってみる。

ほんのりと青白い空。
暗く沈んだ山。
鉛色の海。
かすかにさざなみを打っているのは、小雨のせい?
部屋のクーラー音が、雨の音を消している?

 画像を再生してみる。
それを見て、時刻がわかった。
4:16AM。
午前4時16分。

●開華亭

 風呂へは、5時から入れる。
昨夜、仲居さんが、そう言っていた。
舘山寺の温泉街にある、開華亭は、7つの風呂が自慢とか。
その通りの風呂だった。
どれも広くて、清潔。
もちろん露天風呂もあった。

 やや古い旅館だが、老舗らしく、部屋も広い。
洗面所も、トイレも、それぞれがゆったりと大きさを保って作ってある。
真新しい新建材を多く使った旅館とちがう。
静かな落ち着きを、漂わせている。

「5時まで、40分か……」と、今、考えた。

●温泉めぐり

 こうしてときどき温泉に泊まるようになって、1年半になる。
今は、その温泉めぐりが、楽しい。
このあたりの旅館には、たいてい泊まった。
昨夜ワイフと散歩しながら、「しめくくりは、九重(ここのえ)だね」と
言った。
このあたりでは最高級旅館。
おいそれとは、泊まれない。
いつか、もう一度だけ、「九重」に泊まってみたい。

 今は、あちこちへ講演に招かれるたびに、そこで一泊するように
している。
今週は、牧の原、来週は飯田(長野県)、御前崎……とつづく。
それ以後は、夏休みシーズンに入る。
料金も割高になる。
混雑してくる。

 そういうときは、家の中で静かにしている。

●舘山寺

 昨夜、ワイフがこんなことを言った。
「私は子どものころから、舘山寺(温泉)へは、よく来たけど、
こんないいところとは、思っていなかった」と。

 いろいろな旅館街がある。
それぞれに工夫をこらしている。
しかし舘山寺は、浜名湖に面し、私は若いころから好きだった。
弁天(浜名湖の出口)でボートを借りると、よくこのあたりまで来た。
そんな思い出が、岸のひとつひとつに、しみついている。

●夕食

 私が起きたせいか、長男が起きてきた。
つづいてワイフが、起きてきた。
昨夜は、みな、9時ごろ、就寝した。

 料理は、おいしかった。
あわびのバター焼きというのを食べた。
「明日から、またダイエットだ」と言って、私は食べた。
少し前、逆流性胃炎というのを経験した。
そのせいか、今朝は、何となく、胃のほうが熱っぽい。
コップに水を注ぎ、少しずつそれを味わいながら、飲む。

●お勧め観光地

 窓の外を見ると、ぐんと明るくなっていた。
目の前には、大草山が見える。
その大草山の木々が、ボコボコと輪郭を現してきた。
それを見てワイフが、「あら、雨は降ってなかったの?」と。

 クーラーの音が、雨の音に聞こえた。
「本当だ、雨は降っていなかったのか」と私。
もう一度、湖面を、よく見る。
近くの屋根や道路を、よく見る。
雨は降っていなかった。
数日前の予報では、今日は雨ということになっていた。

 そうそう舘山寺温泉に泊まるなら、水曜日の夜がよい。
静かな休日を過ごすのなら、そのほうがよい。
温泉街にある遊園地が、休園日になる。

反対に子どもといっしょに来るなら、水曜日ははずしたほうがよい。
近くに、動物園やフラワーパークもある。
少し離れたところには、ガーデンパークもある。
これほど楽しめる温泉街は、そうはない。

●生徒

 昔、この近くの温泉旅館の息子が、私の教室に通ってくれた。
いつも祖母といっしょに、やってきた。
その旅館の前が、映画『男はつらいよ』のロケ地にもなった。
それからもう25年近くになる。
「今ごろ、どうしているのだろう?」と、ふと、今、そんなことを考える。
30歳を超えているはず。

 「あの子、覚えている?」とワイフに聞く。
「そう言えば、そういう子がいたわね」と、ワイフ。

 思い出が静かに、脳裏の中を流れていく。
外の景色は、すっかり白くなっていた。
曇り空だが、よく見ると、薄い絵の具をまぶしたように、
水色の空も見える。

 昨日は暑かった。
このあたりでも、32,3度を超えた。
今日も暑くなりそう……。

(朝風呂に入る。戻ってくる。)

●露天風呂

 森のにおいと、水気のにおい。
それが入り混じって、独特のにおいをつくる。
マイナスイオンのにおい?
オゾンのにおい?
露天風呂に近づいたとたん、そのにおいが、全身を包む。

 子どものころ、母の郷里でかいだ、あのにおい。
なつかしさが、どっとこみあげてくる。
川で泳いだ。
魚を取った。
あおのときのにおい、そのまま。

 露天風呂は、朝の香りがまだ残る、早朝がいちばん。
心が休まる。
あとで時計を見たら、1時間近くも、入っていた。
ワイフが「長く入っていたわね」と言って、驚いた。
ワイフも、露天風呂に入ったはず。
しかしあの(におい)は、経験した者でないとわからないだろう。

●掛ける(料金)

 これは当然のことかもしれない。
大切なことは、どんな旅館に泊まっても、不平、不満は言わない。
その前に、そういうことは、考えない。
何も考えないで、体と心を休める。
料金を考えるなら、なおさら。
(今そこにある)現実を、すなおに受け入れる。
受け入れて、楽しむ。

(だからといって、開華亭がどうのと書いているのではない。
言い忘れたが、星は4つの、★★★★。
どこにも段差があり、足腰の悪い人には向かないが、それをのぞけば、
このあたりでも高級旅館。)

 それが旅の楽しみ方の、第一。
仮に、「最悪」であっても、あとになれば笑い話になる。
「あの旅館の夕食は、最悪だったね」と。

 一度だけだったが、そういう旅館があった。
最悪!
東北のほうへ旅したときのことだった。
料理の品数は多かった。
しかしどれも、作り置きしたものばかり。
寿司も並んでいたが、乾いて、ひからびていた。

が、おかしなもので、そういう旅館ほど、印象に強く残る。
今でもときどきその旅館を思い出し、ワイフと笑いあう。
「あそこは、ひどかったね」「ひどかったわね」「ハハハ」と。

言うまでもなく、旅館の良し悪しは、料金を掛け算して、決まる。
部屋の広さ、清潔感の評価も、それで決まる。
が、何より大切なのは、やはり風呂。
ここ、開華亭の風呂は、4つから5つ星。
よかった!

●ダイエット

 時刻は、6時14分。
朝食まで、まだ1時間あまりも、ある。
朝食は、7時半~から。
先ほど、体重計に乗ってみたら、やはり63キロ。
おととい、61キロ台になったと喜んでいたばかり。
今日からまた、ダイエット開始!

 自分でもどうしてこうまでバカなのかと思う。
「食べたら損(そこ)ねる」とわかっていながら、食べてしまう。
それだけ理性による自制力が弱いということ。
とりあえず、今朝はここで朝食を食べ、昼は抜く。
夕食は、麺類。
あとは運動あるのみ。

●露天風呂の中で

 最近、A県に住む友人の健康が、おもわしくないという。
見舞いに行くべきかどうかで、迷っている。
こういうケースのばあい、まず奥さんの意向を確かめなければならない。

そのことは、自分のこととして考えてみると、わかる。
元気なときならまだしも、病気で半身不随になったら、どうか?
私なら、だれにも会いたくない。
その前に、だれにも知られたくない。
それにこの7、8年、一度も会っていない。

 ……死ぬときも、そうだ。
私は死ぬときは、ひとり静かに死にたい。
派手な葬儀など、望むべくもないが、そんなものに、意味はない。
けっして負け惜しみではない。 
あとで「ああ、あのはやし(=私)は死んでいたのか」で、よい。
またそういう死に方をしたい。
だから、他人の病気や死も、同じように考える。

●恩と義理?

 一方、この日本では、「恩」とか「義」とかいう言葉をよく使う。
とくに葬儀には、とくべつの意味を付け加える。
葬儀に出なかったりすると、「義理を欠いた」という言葉を使って、
その人を排撃する。

 しかしこんなバカげた風習は、私たちの代だけで、やめにしたい。
私が悪者になってもよいから、やめにしたい。
「別れ」の意味を、儀式でごまかしてはいけない。
またそんなもので、ごまかせるようなものではない。
ものごとは、原点の返って考えてみたらよい。

 ワイフが死んだら、私はいっしょにそのまま、静かに数日を過ごす。
人の出入りは、避けてほしい。
だれも来なくても、私は構わない。
たぶん、私が死んでも、ワイフは、そう思うだろう。
だから、私は、そうしたい。
そうしてほしい。

 もっとも中には、儀礼だけの葬儀をする人もいないわけではない。
儀礼だけの葬儀をして、人間関係をとりつくろう人もいる。
そういう葬儀に出たりすると、それこそヘドが出そうになる。

●見舞い

 やはり見舞いに行くのはやめよう。
そのかわり、何かを送ってやろう。
食べ物なら、みなが喜んでくれる。

……露天風呂の中だから、もう少し風流な話をと思った。
このところ、何かにつけて、ものの考え方が暗い。
うしろ向き。
 
 そうそう露天風呂に入っていたら、長男が心配して、風呂場まで、のぞきに来てくれた。
ワイフに見てくるように言われたのだろう。
思わぬ長湯で、心配をかけてしまったらしい。

 実のところ、今日は忙しい。
昼に仮眠をしたあと、9時間の仕事が待っている。
その前にいくつかの雑用。
昨日、7月分の電子マガジンの発行予約をし終えたとき、仕事が終わったと
錯覚してしまった。
そのまま温泉へ来てしまった。

●サラーンさん

 今日、フランスから友人が日本へ着く。
昨日、出発する前に、メールが入っていた。
「また会いましょう!」と返事を書くと、「うれしい!」と書いてきた。

 2人の子どもがいる。
2人とも、孫の誠司によく似ている。
父親は、フランス人。
今度はいっしょに、食事をするつもり。
しかしフランス人は、何を食べるのか?

 ちょっと心配になってきた……。

 また8月には、オーストラリアの友人がやってくる。
中国での見本市の帰り道、日本へ立ち寄るという。
ちょうど私の休暇と重なるので、いっしょに、あちこちを旅をしよう。

●今日から7月

 朝食まで、まだ30分ほどある。
あと片づけをして、帰り支度をしよう。
今日から7月。
2010年、7月1日。
今月も、忙しくなりそう。
……というより、気の抜けない月になりそう。

 体調はどうかな?
ちょっと自信がないが、これなら7月も、何とかがんばれそう。

(アドバイス)

 みなさんも、どうか舘山寺温泉へ、おいでください。
浜松は、すばらしいところですよ!!


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【BW子どもクラブ】

今日は、英語のレッスンをしました。
子どもたちの活気を、どうか、お楽しみください。
私の教室(=生徒さん)のすばらしいとことは、活気があるところです。
イヤイヤ、タラタラ勉強している子どもは、い・ま・せ・ん!
みな、大声を張り上げて、勉強しています。
そんな雰囲気をお伝えできれば、うれしいです。

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【そのほかは、

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」→「2010年」へおいでください。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

【居直りの論理】

●独居老人→孤独死

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この先、私たち老人は、60%が独居老人と
なり、孤独死を迎える。
発見までの平均日数は、7日とか。

これらの数字が仮に事実であるとしても、
こと私に関して言うなら、「私はそれでも構わない」。
「独居」であるとしても、それを「不幸」と決めつけて
はいけない。
「孤独死」をしたからといって、それを「不幸」と
決めつけてはいけない。
大切なのは、それまでの人生。
人生の中身。

こういうのを、「居直り」という。
もうここまできたら、居直るしかない。

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●反省

 私は「独居老人」や「孤独死」を、「あってはならないこと」と、
決めつけて考えていた。
そしてそこに「私」を置き、それを「不幸な末路」と、決めつけて
考えていた。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。
「60%」(この数字も、あまりアテにならないが・・・)の老人が
そうなるというのなら、「それがふつうの死に方」ということになる。
またそういう前提で考えれば、老後の過ごし方も、ぐんと気が楽になる。

●孤独死イコール、不幸?

・・・となると、「独居老人」イコール、「孤独」と決めつけて考える
のは、まちがっている。
若い人でも、孤独な人は、いくらでもいる。
独りで住んでいる老人でも、心豊かな人は、いくらでもいる。

 さらに「孤独死」といっても、孤独な世界で煩悶(はんもん)しながら、
死ぬとはかぎらない。
「孤独」という言葉をつけるから、話がおかしくなる。
中には、独り静かに、眠るように、かつ満足しながら死ぬ人だっているはず。
また死後、すぐ発見されないからといって、嘆くことはない。
それが古今東西、ふつうの人の、ふつうの死に方だった。

●天下老人

 だから言葉を変えればよい。
「独居老人」を、「天下老人」。
「孤独死」を、「自然死」と。

 孤独か孤独でないかということになれば、死ぬときは、みな、孤独。
「家族に見守れて・・・」というのは、そのほうがベターというだけで、
そうでなければならないということではない。
またそうであったからといって、孤独が癒されるというものでもない。
死の恐怖から、逃れられるものでもない。
こんな話がある。

 A氏(84歳)が、臨終を迎えた。
連絡を受けて、親戚中が集まった。
総勢、30人あまり。
が、その直後、A氏は、昏睡状態から覚め、再び元気になってしまった。
で、そのあとも、(臨終)→(回復)を、数度繰り返した。
こうなると、家人も、親戚に連絡するのも、おっくうになる。
親戚も、「またか・・・!」となる。

 で、結局、最後は、A氏は、真夜中にだれにも看取られないまま、
他界した。
これは私のワイフの伯父の話である。

●孤独感

 老人の感ずる孤独は、「孤独死」とは、切り離して考える。
孤独イコール、孤独死、孤独死イコール、孤独と考えるから、
話がおかしくなる。

 もっと平たく言えば、「死ぬ」のは、一瞬のできごと。
が、孤独、それから生ずる孤独感は、老後になってから、綿々とつづく。
途切れることはない。
今、私たちが問題とするなら、むしろそちらのほうということになる。
もっともこれについては、「バカになって、忘れる」という方法もないわけ
ではない。
趣味三昧、旅行三昧、ぜいたく三昧・・・。
しかしこの方法は、邪道。

●生きがい

 老後を考えるということは、どの方向から考えても、行き着く目的は
ただひとつ。
「生きがい」の問題ということになる。
どう生きがいを構築するか?
その是非によって、老後の姿そのものが、変わってくる。
もしそこに(生きがい)があるなら、ぜったいに、その(生きがい)を
手放してはいけない。
しっかりと手で握って、放してはいけない。
それを放したら、おしまい。
あとはそのままズルズルと、孤独の無間地獄へ……。

 散文詩を考えた。

(生きがい)

朝起きて、やるべきことがある人は、幸福なるかな。
朝起きて、やるべきことができる人は、幸福なるかな。
損とか、得とか、そういうことは考えない。
ただ夢中になって、それをする。
朝起きて、それができる人は、幸福なるかな。

一日を終えて、やるべきことができた人は、幸福なるかな。
一日を終えて、やりおえた充実感を覚える人は、幸福なるかな。
損をしたとか、得をしたとか、そういうことは考えない。
ただ夢中になって、それができた。
床に就く前、それを実感できる人は、幸福なるかな。

結果は、あとからついてくる。
あるいはついてこなくても、構わない。
私は私。
あなたはあなた。
人は、ただひたすら、その幸福を求めて、前に進む。
ただひたすら、何も考えずに……。


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

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