2010年7月11日日曜日

*Dementia *Belief in Ourselves

●擬似ボケ体験(認知症体験)

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今日、2つの擬似ボケ体験をした。

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●小学生でもボケ症状?

 A子さん(6年生)は、たいへん聡明な女児である。
機転も利くし、反応も速い。
……というより、抜群に頭がよい。
もちろん学校での成績もよい。
そのA子さんと、2週間前に、こんな会話をした。

 私が「夏休みにどこかへ合宿に行こうか?」と声をかけると、すかさずこう言った。
「先生、そんなこと言って、本当は女湯をのぞきに来るんでしょ!」と。

 今どきの子どもたちは、とんでもないことを考える。
「バカめ。お前の何を見るんだ! それにもちろん父母、同伴だ」と言い返すと、
「じゃあ、お母さんの裸をのぞくんでしょ」と。

 で、この話はそのまま終わった。
近くでワイフがこの会話を聞いていた。
いっしょに笑った。

●2週間後

 それからちょうど2週間後。
今日。
またA子さんと会話した。

私「あのね、君ね、この前合宿で、ぼくが女湯をのぞくという話をしたよね」
A「・・・しないわよ。そんな話・・・」
私「ぼくが合宿しようかと言ったときのことだよ。君は、ぼくが女湯をのぞくと
言ったよ」
A「先生、どうかしたんじゃない? 私、そんな話、してないよオ」
私「したって・・・。ぼくは聞いたよ」
A「してないよ。ねえ、B君」と。

 となりにいたB君も、私たちの会話を聞いていたはず。
それで今度はB君に、「聞いただろ?」と声をかけると、B君まで、「知らない」と。

 子どもでも、ボケることがあるんだろうかと、私は考えた。
が、A子さんもB君も、学校でも1、2を争うほど頭がよい。
何度もやりあっているうちに、私のほうが自信がなくなってきた。

A「先生、私、そんな話、してないわよ。先生、頭がボケたんじゃない?」
私「そうかなあ・・・」
A「そうよ、きっとボケたのよ」
私「……?」と。

私はそのまま押し黙ってしまった。
ボケを疑似体験した。
そんな気分になった。

●「オイスノカドッチョ」

 同じ日、幼児教室で、1人の子ども(年中児、4歳)が、こう言った。
私が、「君たちは、赤ちゃんのとき、ママのおっぱいを飲んでいたのを、覚えている?」と
聞いたときのこと。
「ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた」と。

私「何、そのオイスノ・・・」
子「オイスノカドッチョだよ・・・」
私「ママのおっぱいを飲んでいたんだろ?」
子「ううん、オイスノカドッチョだよ」
私「・・・だから、そのう、オイスノカドッチョって何?」と。

 私は何かの聞き間違いかと思った。
「お牛のオカド」とも聞こえた。
新発売になった飲み物かもしれない。
あるいは乳幼児専用の飲み物かもしれない。
そこで、隣の席に座っていた女の子(年長児5歳)に聞いてみた。

私「あなた、そのオイスノカドッチョって知っている?」
女「うん、知っているよ」
私「何、それ?」
女「オイスノカドッチョだよ」
私「だから……、それって、おいしいの?」
女「おいしいよ」
 
 それを聞いて、ほかの子どもたちまでみな、「おいしいよ」「おいしいよ」と。
私はますますわけがわからなくなってしまった。
私だけが、ひとり取り残されたかのような疎外感を覚えた。
それだけではない。
自分の脳みそを、反対に疑いだしてしまった。
「私の脳みそは、どうかなってしまった」と。

●謎解き

 先の話は、たまたまワイフが横で聞いていた。
A子さんは、たしかに「のぞき」の話をした。
ワイフがあとで、「私も聞いた」と言ってくれた。
が、もしワイフがその会話を聞いていなかったら、私はむしろ自分の脳みそのほうを
疑っていただろう。

 また「オイスノカドッチョ」というのは、「椅子の角」ということがわかった。
レッスンが終わったあと、迎えに来た母親に聞いた。
「お子さんが、『ぼくは、オイスノカドッチョを飲んでいた』と言いましたが、その「オイスノカドッチョ」というのは何ですか?」と。

 すると母親は笑いながら、こう教えてくれた。

 「ああ、それですか。それはソファの角のことです。妹におっぱいをくれてやっている
とき、C男(=その子ども)はいつも、ソファの角をチューチューと吸っていました。
その角のことを、『お椅子の角』と言っていたのです」と。

 となると、あのとき「うん、知っているよ」と言ったあの女の子は、何だったのか。
ほかの子どもたちもみな、「おいしい」と言ったはず。
私がからかわれたのか。
いや、そんなことはない。
みな、真顔だった。

 「たぶん、子どもたちはそれぞれに別のものを想像し、勝手に、『おいしい』と
言ったのだろう」……というのが、ワイフと私の結論ということになった。

 ボケの疑似体験・・・つまりこのところ、自分の脳みそを疑うようなことがよく起こる。
若いころなら、こういう迷いはなかったはず。
が、今は、むしろ自分の脳みそのほうを疑ってしまう。
それだけ自信がなくなってきたということか。

 やがてこういう体験がつづくようになり、本当にボケてしまうのかもしれない。
ゾーッ!

(付記)
 「オイスノカドッチョ」の話をした様子は、YOUTUBEに、動画として
そのまま録画してあります。
興味のある人は、「はやし浩司のHP」→「BW公開教室」→「2010年7月9日」
へと進んでみてほしい。
子どもたちとの会話を楽しんでいただけます。


Hiroshi Hayashi+++++++July.2010+++++++++はやし浩司

●信念と態度

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私は子どものころから、信念に乏しい人間だった。
今も、その傾向がつづいている。
付和雷同型というか、よい意味では、和合型人間。
悪い意味では、優柔不断型人間。
それには私の生い立ちが、深く関与している。

では、私の「信念」とは何か。
たとえば社会心理学の世界には、「態度」という言葉がある。
その「態度」というのは、ズバリ「信念」をいう。
ものごとに対して、どのような信念をもっているか。
それを「態度」という。

俗世間でいう、「表面的な様子」のことではない。

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●信念

 信念にも2種類、ある。

(1) 注入された信念。
(2) 自己創造した信念。

 注入された信念というのは、カルト教団の信者たちが共通してもっているような
信念をいう。
(自分で考えた信念)ではない。
(与えられた信念)をいう。
特徴の第一は、みな、言うことが同じ。
テープレコーダーを回したような意見を口にする。

 これに対して(自己創造した信念)は、自分で作り上げた信念をいう。
特徴としては、そこに至るまでの長い道のりがある。
それに常に柔軟性を保留している。
進歩もするし、ばあいによっては、後退もする。
「ひょっとしたら、どこかに穴(まちがい)があるかもしれない」という迷いもある。

 もちろんその中間型というのもある。
ある程度の指導を受けながら、その上に自分の信念を作り上げていく。
あるいは似たような信念をもつものどうしが集まって、信念を一定の形に仕上げていく。

●カルト

 カルトの特徴には、いろいろある。
ざっと思いつくまま並べてみる。

(1) 排他性(ほかの思想を否定する。)
(2) 独善性(自分たちだけが正しいと思い込む。)
(3) 隔離性(他者との交わりを制限する。)
(4) 絶対性(教祖、教団を絶対視する。)
(5) 催眠性(指導の一部に、催眠的方法を取り入れる。)
(6) 集団性(つねに集団行動をし、個人的行動を制限する。)
(7) 誇大性(ささいな事実を、誇大視する。)
(8) 神秘性(神秘的な要素を重要視する。)
(9) 権威性(釈迦、キリストなど、最高権威をもちだす。)
 
 幼児期から少年少女期にかけての教育(?)ほど、効果的とされる。
そのため、フランスやベルギーなどでは、カルト教団への入信年齢を逆にきびしく
制限している。
(日本では野放し。)
さらにその危険性から、国よって、(1)政治活動を禁止したり、(2)営利活動
を禁止したりしている。
(日本では事実上、野放し。)

●「柱」

 一般的に原始的な信念は、わかりやすく、人に受け入れやすい。
観念的、抽象的であればあるほど、人に受け入れやすい。
たとえば日本の武士道など。
(だからといって、武士道がまちがっていると書いているのではない。誤解の
ないように。)

 一方、哲学的思想をもった信念は、わかりにくく、人に理解されにくい。
事実や解釈に基づいた思想性があればあるほど、人に理解されにくい。
たとえば平和運動や人権運動など。

 どうであれ人は信念という「柱」をもつことによって、自分の生き様を補強する
ことができる。
思考プロセスとして機能するため、それぞれのばあいに信念に応じて、ものを考え、
結論をくだすことができる。
わかりやすく言えば、信念は、「生きていくための便利な道具」ということになる。
が、もちろんそれだけには、終わらない。

●「態度」

 信念には、それを支えるに足りる、強い意志がなければならない。
意志がなければ、ただの思想。
で、その意志がどういう状況で、どう作られるかが問題。
それにはその人の人生観、哲学観、過去の経験が集約される。
が、それは簡単なことではない。

たとえば真・善・美に追求にしても、一朝一夕にできることではない。
そこに至る過程には、長い道のりと時間、忍耐と苦痛、努力と精進が必要。
その結果として、意志が総合されて、「信念」へと固まる。
社会心理学で言う「態度」は、そうして生まれる。

●坂本龍馬

 で、最近は、坂本龍馬ブーム。
書店へ行っても、「坂本龍馬」の文字が、あちこちから飛び込んでくる。
私と縁がないわけではない。

 私がオーストラリアへ渡ったとき、私の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏。
美智子皇后陛下の父親である。
その正田氏のもとで、事務手続きをしてくれたのが、坂本二郎氏(東京商工会議所
所属)。
坂本龍馬の直径のひ孫氏。
その坂本龍馬は、自分の信念に命をかける。
どういうプロセスを経て、そのような強固な信念をもつようになったかは知らない。
当時の殺伐とした社会状況が、大きく影響していたのかもしれない。
が、「命をかける」だけなら、イラクで自爆テロを繰り返す若い女性にだってできる。
大切なのは、やはりそれを支える「強固な思想」ということになる。
坂本龍馬には、それだけの思想性はあったのか?

 ……という話は、また別のところで考えたい。
私が書きたいのは、坂本龍馬にせよ、それと対峙した新撰組にせよ、どこかに
狂信性もあったのではなかったかということ。
思想性を裏付ける文書が、あまり残っていないことにもよる。

●信念の人

 私も自分の人生の中で、「これは信念の人」と思えるような人には、あまり出会って
いない。
命をかけて、正義と闘ったような人をいう。
ただ誤解がないように言っておきたいのは、欲得の追求のために闘志を燃やすというのは、
「信念」ではない。
わかりやすい例としては、「金儲け」がある。
さらに最近の例としては、日本の相撲界がある。
「国技」とは名ばかり。
国技意識など、どこにもない。
おそらく「国技」の意味もわかっていないのでは?

 一方、K国による拉致問題に取り組んでいる人たちがいる。
横田めぐみさんの両親が、そうである。
ああいう人たちを見ていると、本当に頭がさがる。
神々しい尊ささえ感ずる。
「信念」、つまり「自己創造した信念」には、そういう力がある。

●信念

 人生も、カウントダウンの段階に入った。
平均寿命まで残り16年。
この段階で、「信念」と言えるものをもっている人は、幸福な人だ。
信念に燃え、そこに命をかけている人は、幸福な人だ。

 が、私には、それがない。
闘うといっても、不毛の荒野の中で右往左往しているだけ。
泡ぶくの波の上で、見栄や体裁に踊らされているだけ。
自分が何を求め、どこへ進んでいるかさえ、わかっていない。
信念など、自分に求めようもない。
これでよいとは思っていないが、しかしだからといって、どうしようもない。
そういう状況で、今日も始まった。
2010年7月11日。

 ところで昨夜は、ワイフと、映画『プレデターズ』を観てきた。
途中であくびが出るほどのダ作。
意味のない戦闘映画。
制作費も、ほとんどかかっていない。
星は1つか2つの、★。
ついでに一言。
信念のない映画というのは、ああいうのをいう。
ボケ防止には役に立つかもしれないが、観るだけ時間の無駄。
お金の無駄。

 ということで、みなさん、おはようございます!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 信念と態度 社会心理学 態度 心理学でいう「態度」 信念の人)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

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