【仲間に入れない子ども】(ある母親からの相談より)
●スランプ
++++++++++++++++++
学生時代、「スランプ」という言葉を
よく使った。
要するに心身の調子が悪く、思うように
勉強や活動ができない状態をいった。
今が、そのとき。
しかし「スランプ」というのは、どういう
意味なのか。
英語では「slump」と書く。
(1)暴落する。
(2)ドスンと落ち込む
(3)うなだれる
(4)不振、不調
(5)運動選手のスランプ(以上、ジーニアス英和辞典)とある。
が、私のばあい、一度こういう精神状態になると、何かにつけて、グチぽくなる。
(アメリカの精神医学によれば、「愚痴(Complainment)」は、精神病の診断項目のひとつになっている。要注意!)
++++++++++++++++++
●発端
ことの発端は、ある読者からの相談だった。
メールで、それが届いた。
こうあった。
『はじめまして、こんにちは、今はじめてホームページを拝見し相談させていただきます
6歳の長男にていて相談なのですが、年少の秋から幼稚園に入り今年長になりますが、年中、年長と上がるたび、お友達の輪に入られなくなり、お友達が出来ないようです。
個人ではしゃべれるのですが、二人以上になると入っていけず、一人でいることが多いようです。
先生にもしゃべることができません。
近所で遊ぶお友達とは自分を出せよくしゃべります。また年長になって指しゃぶりや爪噛みが多くなり、はじめは不安なときだけだったのが、暇なときは常に指が口に入ります。
小さい頃から大人しく、私も主人も同じく輪に入られなかったので、遺伝なのでしょうか。
切迫早産にもなり下の子が出来たときは長く実家に預けたこともあり、赤ちゃん帰りも酷かったのですが、上の子は何でも一番に優先させ甘えさせてきたつもりですが、育て方が悪かったのでしょうか。
たまに感情的に怒ったり、神経質になりすぎるのが良くないのでしょうか』(愛知県にお住まいのKさんより)。
●スランプ状態
この相談に返事を書こうとしたが、一向に筆が進まない。
それぞれの母親にしてみれば、はじめての子育て。
何かと戸惑うことも、多いだろう。
しかし相談を受ける方は、そうでない。
毎年、毎月、同じ相談を受ける。
そのたびに同じことを書く。
それがめんどうというか、とても苦痛に感ずるようになった。
で、心理的には、過大な宿題を背負ったような状態になった。
「返事を書かねば」という思いと、「書きたくない」という思いのはざまで、心が行き来した。
その結果、「スランプ状態」になってしまった。
●一方的な見方
この母親は、自分の子どもが「友だちの輪に入れない」という。
「(自分の子どもに)友だちができない」という。
たぶん母親の目から見ると、その子どもは集団の中で、孤立しているのだろう。
みながワイワイと何か作業をしているようなときでも、少し離れたところに立って、それを見ている……。
そういう子どもは多い。
7~8人に1人はいる。
それがその母親には、気になったらしい。
理由はいろいろ考えられる。
第一に思いつくのは、「社会性の欠落」。
乳幼児期から、(ものわかりのいい環境)の中だけで、育てられると、子どもはそうなる。
俗にこう言う。
『温室育ち、すぐ風邪をひく』と。
それが高じて、対人恐怖症、回避性障害、さらには場面かん黙症を引き起こしたのかもしれない。
あるいは親の過関心、過干渉、神経質な育児姿勢が、子どもを萎縮させているのかもしれない。
親の強圧的、あるいは威圧的な育児姿勢が日常的につづいても、そうなる。
つまり子どもは、家族の「代表」にすぎない。
この母親は、自分の子どもだけを見ている。
自分見ていない。
ふつうこういうケースでは、(相談のKさんがそうというのではない。誤解のないように!)、疑ってみるべきは、母親の育児姿勢。
そういった視点が、どこにもない。
一読して、それが気になった。
●限界
Kさんも含めて、親たちは、自分の子どもがどうであると満足するのか。
優等生で、問題がなく、何でもテキパキとやりこなし、性格も明るい……。
さらに言えば、クラスの中でも、人気者。
「~~障害」と診断名がつくようなケースは別として、親たちは、子どものささいな弱点を目ざとく見つけては、それを問題にする。
「友だちができない」?
「友だちの輪に入れない」?
しかしそれがどうしたと言うのか?
6歳ともなれば、幼児期後期。
児童期への移行期に入る。
この時期、すでに人格の「核(コア)」は、完成している。
あれこれと「核」をいじれば、子どもはかえって自身を喪失し、混乱する。
自己評価力も低下する。
私にしても、うわべの友だちなら、いくらでもいる。
適当に会って、適当に話す。
そういう友だちなら、いくらでもいる。
はじめて行ったような店の店員とでも、友だちになれる。
しかし本当の友だちは、数えるほどしかいない。
Kさんの心配も理解できないわけではない。
しかし私がKさんなら、「あなたは、それでいいのよ」と、子どもに言う。
あるいは友だちを家に呼んで、パーティでも開いてやる。
ほかの母親たちと、交流を多くし、その中に子どもを巻き込んでいく。
が、それでKさんの子どもが、Kさんの望み通りの子どもになるとは、かぎらない。
親のできることには、いつも限界がある。
●遠い距離
さらに症状がつづく。
一読すれば、下の子が生まれたことによる、赤ちゃん返りが起きていることがわかる。
愛情飢餓、あるいは嫉妬が、その原因と考える。
メールには、「長く実家に預けたこともあり……」とある。
子どもにとって、それがいかに辛(つら)いことであったことか……。
たった半日、遊園地で迷子になっただけで、赤ちゃん返りを起こした子どもだっている。
子どもの心をあまりにも安易に考えすぎている。
とくに赤ちゃん返りを、軽く考えてはいけない。
ばあいによっては、精神障害も引き起こす。
その結果、「どうしたらいいか?」と。
さらに言えば、「……私も主人も同じく輪に入られなかったので、遺伝なのでしょうか」と。
この問題を説明するためには、母親自身の基本的信頼関係の問題にまで、踏み込まねばならない。
わかりやすく言えば、Kさん自身が、心の開けない人である可能性が高い。
親が心を開けないのに、どうして子どもが心を開けるか?
その前に、「心を開く」の意味がわかっていない(?)。
そういう疑問も残る。
説明してやりたいのだが、Kさんとの間に、遠い距離を覚える。
たとえて言うなら、(Kさんにはたいへん失礼な言い方になるかもしれないが)、パソコンをはじめて買ってきたような人と、接しているような感じがする。
そういう人に、BIOS(バイオス)の設定の仕方を話しても、はたして理解できるだろうか?
ついでに言うなら、「遺伝」ということなら、「障害」の問題を考えなければならない。
しかし「世代連鎖」ということなら、基本的不信関係は、世代連鎖しやすい。
このばあいも、ただすべきは、子どものほうではなく、親のほうということになる。
●親の身勝手
が、スランプに陥ったのは、それが理由ではない。
私自身も、仮面をかぶって、聖職者ぶることに、疲れを覚え始めている。
本来なら、「たいへんですね。でも、何も問題はありませんよ。自信をもって、がんばってください」式のことを書くべきなのかもしれない。
しかし本音を言えば、そうでない。
「親なら親として、少しは勉強しろ!」と言いたい。
「子どもを産むことと、育てることは、別!」と言いたい。
「子どもの問題を考える前に、自分の問題を解決してみろ!」と言いたい。
(今のKさんには、きびしい言葉かもしれないが、ここを第一歩として、「育児」の世界に飛び込んでみてほしい。
そこはあなたが考えているよりは、はるかに深く、広い世界。
いつかあなたもその深遠さに、驚き、おののくはず。)
でないと、この種の問題には、際限がない。
ことあるごとに親は、子どもの中に、つぎつぎとささいな問題を見つけては、それをおおげさに騒ぐ。
それが解決すると、さらに「もっと……」「もっと……」と言い出す。
Kさんがそうというわけではないが、親の身勝手さには、もううんざり!
「……たまに感情的に怒ったり、神経質になりすぎるのが良くないのでしょうか」とか?
そんなことは、わかりきったことではないか!
●子育ての深遠さ
心配なのは、わかる。
不安なのも、わかる。
が、その心配や不安を、子どもにぶつけてはいけない。
この連鎖を、いつかどこかで断ち切らないと、心配や不安は、いつまでもつづく。
おそらくKさんが、老齢者になってもつづく。
が、その「連鎖」を断ち切るのは、容易なことではない。
私がここでこう書いたからといって、「はい、そうします」というわけにはいかない。
「根」は深い。
おそらく妊娠したときから、あるいは結婚当初から、さらには、Kさん自身が子どものときから、すでに始まっている。
だから「根」が深い。
そんな深刻な問題を、「どうしたらいいですか?」と聞かれても、私は困る。
というのも、この私だって、この年齢になっても、まだその問題で悩んでいる。
子育てというのは、ただ子どもを大きくすればよいという問題ではない。
そこには、その人の哲学や人生観、さらには死生観が凝縮される。
またそれがないと、子育てなど、できない!
若い女性が、ペットショップでペットを買ってきて、「かわいい」「かわいい」と頬ずりをする。
それとは、訳がちがう。
……とまあ、グチはここまで。
【はやし浩司よりKさんへ】
きびしい話は別として、また私の今のスランプ状態を抜け出すためにも、Kさんの問題を、いっしょに考えてみます。
(1)「友だちの輪」に入れない
子どもに何かの問題点を見つけたら、反対にほめてみます。
「あなたは、今日、友だちと仲よくできたわね」と。
「あなたはダメな子」的な言い方が日常化すると、かえって逆効果になります。
そして先にも書いたように、あなた自身が、相手の子どもたちと仲間になるつもりで、「輪」の中に入っていきます。
あなた自身の問題と考え、その「輪」の中に飛び込んでいきます。
すでに子どもは、6歳です。
人格の「核(コア)」は完成しているとみます。
今のあなたがあなたであるように、すでにあなたの子どもは、1人の人間なのです。
あるがままを認め、「うちの子は、まあ、こんなもの」と、割り切ること。
あきらめるべきところは、あきらめる。
集団活動は苦手になるかもしれませんが、だれにでも、そうした弱点はあります。
私にも、ある。
あなたにも、ある。
だったら、あとは居直るしかないのです。
ただしそれが「発達障害」によるもの(?)と心配なら、専門機関で、育児相談を受けてみてみてください。
症状の程度が、メールだけかからはわかりません。
「先生とも話せない」ということですから……。
(2)赤ちゃん返り
赤ちゃん返りについては、たびたび書いてきました。
一度、検索エンジンを使って、「はやし浩司 赤ちゃん返り」を検索してみてください。
私のHP(http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)の「子育て・あいうえお」の中にも、いくつか収録してあります。
先にも書きましたが、赤ちゃん返りは、けっして安易に考えてはいけません。
(3)基本的信頼関係
これについては、たびたび書いてきましたので、その中からひとつを選んで、ここに再収録します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【基本的信頼関係】
信頼関係は、母子の間で、はぐくまれる。
絶対的な(さらけ出し)と、絶対的な(受け入れ)。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味である。こうした相互の関係が、その子ども(人)の、信頼関係の基本となる。
つまり子ども(人)は、母親との間でつくりあげた信頼関係を基本に、その関係を、先生、友人、さらには夫(妻)、子どもへと応用していくことができる。だから母親との間で構築される信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。
が、母子との間で、信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その反対に、「基本的不信関係」に陥(おちい)る。いわゆる「不安」を基底とした、生きザマになる。そしてこうして生まれた不安を、「基底不安」という。
こういう状態になると、その子ども(人)は、何をしても不安だという状態になる。遊んでいても、仕事をしていても、その不安感から逃れることができない。その不安感は、生活のあらゆる部分に、およぶ。おとなになり、結婚してからも、消えることはない。夫婦関係はもちろんのこと、親子関係においても、である。
こうして、たとえば母親について言うなら、いわゆる不安先行型、心配先行型の子育てをしやすくなる。
●基底不安
親が子育てをしてい不安になるのは、親の勝手だが、ほとんどのばあい、親は、その不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。
しかし問題は、そのぶつけることというより、親にその自覚がないことである。ほとんどの親は、不安であることや、心配していることを、「ふつうのこと」と思い、そして不安や心配になっても、「それは子どものため」と思いこむ。
が、本当の問題は、そのつぎに起こる。
こうした母子との間で、基本的信頼関係の構築に失敗した子どももまた、不安を基底とした生きザマをするようになるということ。
こうして親から子どもへと、生きざまが連鎖するが、こうした連鎖を、「世代連鎖」、あるいは「世代伝播(でんぱ)」という。
ある中学生(女子)は、夏休み前に、夏休み後の、実力テストの心配をしていた。私は、「そんな先のことは心配しなくていい」と言ったが、もちろんそう言ったところで、その中学生には、説得力はない。その中学生にしてみれば、そうして心配するのは、ごく自然なことなのである。
(はやし浩司 基本的信頼関係 基底不安)
●人間関係を結べない子ども(人)
人間関係をうまく結ぶことができない子どもは、自分の孤独を解消し、自分にとって居心地のよい世界をつくろうとする。その結果、大きく分けて、つぎの四つのタイプに分かれる。
(1)攻撃型……威圧や暴力によって、相手を威嚇(いかく)したりして、自分にとって、居心地のよい環境をつくろうとする。
(2)依存型……ベタベタと甘えることによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとする。
(3)服従型……だれかに徹底的に服従することによって、自分にとって居心地のよい環境をつくろうとする。
(4)同情型……か弱い自分を演ずることにより、みなから「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と同情してもらうことにより、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。
それぞれに(プラス型)と、(マイナス型)がある。たとえば攻撃型の子どもも、プラス型(他人に対して攻撃的になる)と、マイナス型(自虐的に勉強したり、運動をしたりするなど、自分に対して攻撃的になる)に分けられる。
スポーツ選手の中にも、子どものころ、自虐的な練習をして、有名になった人は多い。このタイプの人は、「スポーツを楽しむ」というより、メチャメチャな練習をすることで、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとしたと考えられる。
●子どもの仮面
人間関係をうまく結べない子ども(人)は、(孤立)と、(密着)を繰りかえすようになる。
孤独だから、集団の中に入っていく。しかしその集団の中では、キズつきやすく、また相手をキズつけるのではないかと、不安になる。自分をさらけ出すことが、できない。できないから、相手が、自分をさらけ出してくると、それを受入れることができない。
たとえば自分にとって、いやなことがあっても、はっきりと、「イヤ!」と言うことができない。一方、だれかが冗談で、その子ども(人)に、「バカ!」と言ったとする。しかしそういう言葉を、冗談と、割り切ることができない。
そこでこのタイプの子どもは、集団の中で、仮面をかぶるようになる。いわゆる、いい子ぶるようになる。これを心理学では、「防衛機制」という。自分の心がキズつくのを防衛するために、独特の心理状態になったり、独特の行動を繰りかえすことをいう。
子ども(人)は、一度、こういう仮面をかぶるようになると、「何を考えているかわからない子ども」という印象を与えるようになる。さらに進行すると、心の状態と、表情が、遊離するようになる。うれしいはずなのに、むずかしい顔をしてみせたり、悲しいはずなのに、ニンマリと笑ってみせるなど。
この状態になると、一人の子ども(人)の中に、二重人格性が見られるようになることもある。さらに何か、大きなショックが加わると、人格障害に進むこともある。
●すなおな子ども論
従順で、おとなしく、親や先生の言うことを、ハイハイと聞く子どものことを、「すなおな子ども」とは、言わない。すなおな子どもというときには、二つの意味がある。
一つは情意(心)と表情が一致しているということ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。いやなときはいやな顔をする。
たとえば先生が、プリントを一枚渡したとする。そのとき、「またプリント! いやだな」と言う子どもがいる。一見教えにくい子どもに見えるかもしれないが、このタイプの子どものほうが「裏」がなく、実際には教えやすい。
いやなのに、ニッコリ笑って、黙って従う子どもは、その分、どこかで心をゆがめやすく、またその分、心がつかみにくい。つまり教えにくい。
もう一つの意味は、「ゆがみ」がないということ。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱる、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。
ゆがみというのは、その子どもであって、その子どもでない部分をいう。たとえば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるときには、静かに落ちついているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりする。その追いかけている様子を観察すると、その子どもは子ども自身の意思というよりは、もっと別の作用によって動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない部分」ということになる。
仮面をかぶる子どもは、ここでいうすなおな子どもの、反対側の位置にいる子どもと考えるとわかりやすい。
●仮面をかぶる子どもたち
たとえばここでいう服従型の子どもは、相手に取り入ることで、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。
先生が、「スリッパを並べてください」と声をかけると、静かにそれに従ったりする。あるいは、いつも、どうすれば、自分がいい子に見られるかを、気にする。行動も、また先生との受け答えのしかたも、優等生的、あるいは模範的であることが多い。
先生「道路に、サイフが落ちていました。どうしますか?」
子ども「警察に届けます」
先生「ブランコを取りあって、二人の子どもがけんかをしています。どうしますか?」
子ども「そういうことをしては、ダメと言ってあげます」と。
こうした仮面は、服従型のみならず、攻撃型の子どもにも見られる。
先生「君、今度のスポーツ大会に選手で、出てみないか?」
子ども「うっセーナア。オレは、そんなのに、興味ネーヨ」
先生「しかし、君は、そのスポーツが得意なんだろ?」
子ども「やったこと、ネーヨ」と。
こうした仮面性は、依存型、同情型にも見られる。
●心の葛藤
基本的信頼関係の構築に失敗した子ども(人)は、集団の中で、(孤立)と(密着)を繰りかえすようになる。
それをうまく説明したのが、「二匹のヤマアラシ」(ショーペンハウエル)である。
「寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあった」と。
しかし孤立するにせよ、密着するにせよ、それから発生するストレス(生理的ひずみ)は、相当なものである。それ自体が、子ども(人)の心を、ゆがめることがある。
一時的には、多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが多い。たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発になる。
が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康允氏)という。
こうしたストレスが日常的に重なると、脳の機能そのものが変調するというのだ。たとえば子どものおねしょがある。このおねしょについても、最近では、大脳生理学の分野で、脳の機能変調説が常識になっている。つまり子どもの意思ではどうにもならない問題という前提で考える。
こうした一連の心理的、身体的反応を、神経症と呼ぶ。慢性的なストレス状態は、さまざまな神経症による症状を、引き起こす。
●神経症から、心の問題
ここにも書いたように、心理的反応が、心身の状態に影響し、それが身体的な反応として現れた状態を、「神経症」という。
子どもの神経症、つまり、心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、まさに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑ってみる。
(1)精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。
●たとえば不登校
こうした子どもの心理的過反応の中で、とくに問題となっているのが、不登校の問題である。
しかし同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。
が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を
「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが、つぎである。
(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。
学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。
(3)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。
ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。
(4)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。
この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。
(4)回復期(この回復期は、筆者が加筆した)……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一~二時間、週に一日~二日、月に一週~二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。
●前兆をいかにとらえるか
この不登校について言えば、要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。
この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。
Hiroshi Hayashi++++++++はやし浩司
●終わりに
どこかに書きましたが、これをきっかけに、『育児は哲学』と考え、Kさんも、どんどんと勉強してみてください。
そしてKさんはKさんで、母親ではなく、妻でもなく、女でもない。
1人の人間として、自分の哲学を追求します。
生き様を模索します。
その結果として、あなたの子どもは、あなたを「親」とみるようになります。
1人の人間として、いつか評価するようになります。
親になること程度なら、子どもを産めばできます(失礼!)。
しかし真の親になるのは、まだまだこの先、遠い道のりがあります。
さらにきびしい山を越え、谷を越えなければなりません。
現在、あなたが悩んだりしていることなど、何でもありません。
忘れていけないことは、親が子どもを育てるのではないということ。
子どもが親を育てます。
あなたがあなたの子どもに育てられるのです。
また育てられることを、恐れてはいけません。
親の方が一歩、退き、謙虚になるのです。
子育てというのは、そういうものです。
幸いにも、あなたはその第一歩を踏み出した。
わかりますか?
第一歩を踏み出したのです。
どうか恐れず、また第二の人生を子どもといっしょに歩むつもりで、前に進んでみてください。
最後になりますが、あとは、「心を開く」、です。
「心を開け、体はあとからついてくる」(アメリカの格言)です。
言いたいことを言い、したいことをする。
いやだったら、「いや!」と言う。
あなたはあなたらしく、「私」をしっかりともって生きる。
あなたが心を開かないで、どうしてあなたの子どもが心を開けるでしょうか。
以上ですが、メール、ありがとうございました。
私は冒頭に書いたように、まだスランプ状態ですが、何とかなるでしょう。
今は、休養のときかもしれません。
では、失礼します。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 基本的信頼関係 信頼関係 心を開く 輪に入れない子ども 仲間に入れない子供 仲間に入れない はやし浩司 赤ちゃん返り 緘黙 かん黙 回避性障害 対人恐怖症 恐怖症 不信関係 基底不安)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月9日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。