●感謝(老人たちのよく使う言葉)
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老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。
私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。
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●違和感
ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。
つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。
●本心?
たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。
私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。
私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。
私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。
●疑っているから、「信じている」と言う?
もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。
相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。
ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。
●裏の心
先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。
こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
●武士道
ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。
私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。
こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。
「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。
●裏腹の言葉
最初の話に戻る。
老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。
ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。
もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。
もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?
それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。
●結論
老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。
だから……。
こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。
たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。
だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。
それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。
……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●閉所恐怖症(恐ろしい実験)
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私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。
私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。
TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。
+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++
ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。
「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで520日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが窓はありません。
将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するといいます……。
+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++
●私なら……
私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。
あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。
刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。
●疑問
記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!
それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月4日金曜日
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