2010年6月2日水曜日

*Magazine (June 2nd)

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年   6月   2日号
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6月2日……1367号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●心の壊れた人

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世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。

A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。

A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。

が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。

で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。

もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。

++++++++++++++++++++

●他人の不幸をのぞく人

 他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)

 友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。

 T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。

 こんなことがあったという。

 T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。

 間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。

 その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。

 以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。

●自己認識

 心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。

●他人の不幸はのぞかない

 生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。

 それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。

 が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。

 そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。

●さらに……!

 さらにこんな話も聞いた。

 その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!

 その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)

 無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。

●精進(しょうじん)

 あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。

 一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。

 方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。

(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。

 そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。

●奇妙な一貫性

 奇妙な一貫性について、補記する。

 ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。

 B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。

 B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。

 これが私が言う「奇妙な一貫性」である。

 (他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。

 つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。

(付記)

 先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6~7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2~3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。

 が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。

 よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
 よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

●その人の基本

++++++++++++++++++

その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。

「あの人は、こういう人」と。

その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。

+++++++++++++++++

●オオカミ姉妹

 ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。

●オオカミに育てられた姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤!)・新曜社)より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。

 姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。

 しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!

 さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。

●三つ子の魂

 この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。

 心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。

 わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。

 長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。

●自己診断法

 そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。

 「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。

===============

「私」を知る、自己診断法

===============

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
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○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

===============

以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。

●私のばあい

 私も、してみる。
(ヨーイ、スタート!)

○私は、子どものころから……(何にでも興味をもった。
○私は、子どものころから……(捜し物が、苦手だった。
○私は、子どものころから……(さみしがり屋だった。
○私は、子どものころから……(外ではにぎやかな子どもだった。
○私は、子どものころから……(甘い食べ物が好きだった。

○私は、子どものころから……(負けん気が強かった。
○私は、子どものころから……(個人的に活動することが多かった。
○私は、子どものころから……(集団行動が苦手だった。
○私は、子どものころから……(寒がりだった。
○私は、子どものころから……(ものを作るのが好きだった。

○私は、子どものころから……(他人の心を読むのが苦手だった。
○私は、子どものころから……(女の子が苦手だった。
○私は、子どものころから……(絵を描くのが好きだった。
○私は、子どものころから……(好奇心が旺盛だった。
○私は、子どものころから……(いじけやすく、ささいなことをよく気にした。

○私は、子どものころから……(庭のある家に住みたかった。
○私は、子どものころから……(貧乏がこわかった。
○私は、子どものころから……(酒や酒のにおいが、嫌いだった。
○私は、子どものころから……(行動的だった。
○私は、子どものころから……(正義感が強かった。

=================

●自己分析

 同じようなテストを、私のワイフや、生徒たち(中高校生)にしてもらったことが
ある。
が、不思議なことに、他人のばあいは、「輪郭」がよく見える。
「この子は、こういう子だな」と。
しかし自分のこととなると、「輪郭」がよくわからない。
あのフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングに頼んでいる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは、むずかしい(?)。

 それはさておき、そこであなたは、私の回答を読んで、私の「輪郭」をどのように
思っただろうか。
あなたは私を、どのような「輪郭」をもった人間と思っただろうか。
が、ここではその内容は、あまり重要ではない。
また私の自己分析をするのが、目的ではない。

 あなたが私についてどんな印象をもったにせよ、その印象、つまりここでいう「輪郭」
は、私の乳幼児期に作られたものということ。
それが現在の「私」の骨格になっている。
もちろんこのことは、あなた自身についても、当てはまる。

●臨界期仮説(critical period hypotheses)

 「臨界期」という言葉が、ここ数年、急速に注目されるようになってきた。
もともとは、「言葉の発達についての仮説」として生まれた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

言語学および第二言語習得における臨界期仮説(英: critical period hypotheses)とは、臨界
期とよばれる年齢を過ぎると自然な言語能力の習得が不可能になる、という仮説である。
母語の習得および外国語の習得の両方に対して使われる。

臨界期の時期には諸説あるが、だいたい出生から思春期(12歳から15歳ごろ)までである
とされている。第一(L1)・第二言語(L2)両方の習得に関して年齢が重要な要素となって
いることは定説となっているが、はたして臨界期なるものが本当に存在するのか、また存
在するとしたらそれがいつなのかなどについては長い議論があり、仮説の域を出ていない。

野生児または孤立児と呼ばれる幼児期に人間社会から隔絶されて育った子供は、後に教育
を受けても言語能力、特に文法に従った文を作る能力については著しく劣ることが知られ
ている[1]。

また、外国語の学習でも、一家で国外へ移住した移民の親より子供のほうが外国語を早く、
また上手に使いこなせるようになることは広く知られている。母語・外国語両方の習得の
成否について年齢が大きな影響を与えていることは、日常の経験からも、言語学の研究結
果[2]からも納得されることである。

年齢が上がると言語を習得することが困難になる原因についてはさまざまな説が提唱され
ている。しかし、年齢以外のファクターを除外できていない可能性があるという批判もあ
り、たとえば脳生理学的な変化や心理的影響を原因とする説などもあるが、21世紀初頭現
在でははっきりとは解明されていない。

それに加え、個々の言語能力についての臨界期は異なるという説もある。たとえば発音に
ついてはかなり低い年齢に臨界期が存在するという強い証拠があるが、語順などの統語的
規則についての臨界期は遅いという主張もある[3]。また、語彙については明確な臨界期が存
在しないとの説もある[4]。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 だからといって、「臨界期仮説」を、言語に限ることはない。
先にあげたオオカミ姉妹についても、「言語」だけが問題になっているわけではない。
「言語」は、もろもろの才能の一部でしかない。
とくに注目すべきは、「人間らしい心」ということになる。
少し拡大解釈すれば、「人間らしい心」にも、臨界期があるということになる。
またそう解釈してよいことは、冒頭に書いたように、それが60歳を過ぎると、「輪郭」
としてわかるようになる。

 たとえば身近にいる、X氏ならX氏に焦点を当ててみる。
Yさんでもよいし、Z氏でもよい。
そういう人たちの人生を、全体としてながめてみる。
するとそこにその人の「輪郭」が浮かびあがってくる。
心の暖かい人は、暖かい。
心の冷たい人は、冷たい。
ウソのつけない人もいる。
一方、ウソばかりついている人もいる。

そしてその「輪郭」というのは、その人が子どものときのそれと、現在のそれと、
それほど違わないことに気づく。
つまりそれぞれの人は、「心」も、いくつかの臨界期を経て、作られていくのがわかる。
言い替えると、そのときどきの適切な時期に、適切な環境の中で、適切な(ふれあい)を
経験することによって、「心」も作られていくということ。

 繰り返しになるが、60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そこで結論。

 かつてアインシュタインは、こう言った。
「教育というのは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの」
と。
この言葉を拝借すると、こうなる。

「私というのは、私をすべて忘れてしまったあとに、そこにぼんやりと浮かびあがって
くるもの」と。(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私とは 私論 野生児 カマラ アマラ オオカミ少女 オオカミ姉
妹 輪郭論 臨界期)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●道徳とMoral(モラル)

++++++++++++++++++

私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。

日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。

たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect 
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。

そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。

一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。

同じことが、「道徳」についても言える。

「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。

一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。

日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。

で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。

コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。

が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。

しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)

本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。

+++++++++++++++++

●脱・規律論

 規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)

(1)前規律段階

 「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。

(2)規律段階

 「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。

(3)脱規律段階

 規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。

 当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。

●道徳

 それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。

しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。

 わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。

 つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。

●仮面

 が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。

イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

●結論

 人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。

 それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人形子について

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●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。

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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

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ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

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【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分を演ずる子ども 仮面をかぶる子供 仮面をかぶる子ども)


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