【脳みそ問題】
●ファイルの暗号化
話せば長くなる。
説明するのも、めんどう。
要するに、昨日(6月1日)から、HP(ホームページ)の
アプロードが、突然、できなくなった。
サーバーのほうで、「今後は、暗号化されていないファイルは
受け付けない」と言い出した。
今、流行しているガンブラーというウィルス対策のため、とか。
で、あわてて昨日、FAというソフトをダウンロードした。
ファイルを一度、暗号化するソフトである。
が、説明書どおり作業してみたが、エラーの連続。
昨夜は午前1時ごろまで悪戦苦闘を繰り返したが、そのあたりでギブアップ。
●頭重
おかげで今朝は、起きたときから頭が重かった。
その前に目を覚ましたあと、ふとんの中であれこれ、考えた。
どこかで操作方法を誤っているはず。
それを考えた。
考えたが、わからない。
FAというソフトは、外国のソフト。
日本語も専門用語が多くて、読んでもよくわからない。
「プロキシー」「リモートディレクトリー」「同期プラウズ」などなど。
そんな言葉が、ズラリと並ぶ。
それを考えているうちに、頭が重くなった。
もしうまくアプロードできなくなれば、最悪のばあい、
ホームページのサーバーをすべて変更しなければならない。
が、それは簡単にできることではない。
ホームページとホームページが、網の目のようにリンク
している。
またサーバーを替えれば、それで解決するという問題ではない。
からみあったコードを一本、一本ほぐしながら、つなぎなおさな
ければならない。
そんな作業がつづく。
それを考えているうちに、さらに頭が重くなった。
重くなったまま、起きた。
●批評
人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
脳みそが、不快ホルモンで満たされると、その影響はあらゆる
面に現れてくる。
で、起きてパソコンを立ち上げると、私のBLOGに、どこか
悪意を感ずるコメントが寄せられていた。
ふだんなら一読して、削除。
しかし脳みその調子が悪いときは、そういうコメントが、いやに
気になる。
頭の内側にペタリと張りついたような状態になる。
ついでに言うと、パソコンの世界では、からんでくる読者は、
相手にしないほうがよい。
相手がわかっているばあいは、よい。
そうでなければ、相手にしないほうがよい。
「八つ当たり」という言葉がある。
それと似たような状態になる。
パソコンのことで、うつ状態になっているから、ものごとにこだわりやすくなる。
●昼寝
昼ごろになると、軽い頭痛が始まった。
偏頭痛かと心配したが、それとはちがった。
前頭部が全体に重かった。
それを話すと、ワイフが湿布薬を張ってくれた。
首をマッサージしてくれた。
が、頭は重かった。
私は昼寝をした。
30分程度の昼寝は、ボケ防止になるが、1時間半前後の昼寝は
かえって頭をボケさせるそうだ。
そんな俗説をどこかで聞いた。
安定剤をのんで、30分ほど昼寝をした。
が、ここであきらめたのでは、パソコン歴37年が泣く。
私は方法を考えた。
●対策
まずダミーのホームページを開設する。
それを使って、そのファイルを暗号化してみる。
そのファイルを、サーバーに送信してみる。
簡単なファイルだから、失敗の原因もわかりやすいはず。
失敗して、ダメもと。
(実際には、FAというソフトは、ファイルがパソコンから
送信される直前に、いわばゲートのような役割をする。
ゲートから出るとき、ファイルは暗号化される。)
ところでときどき、「BLOGをいくつも発行して、たいへんでしょう」と
心配してくれる人がいる。
しかしそれはこの世界の(恐ろしさ)を知らない人の言葉。
最近は少なくなったが、BLOGにせよ、無料のHPサービスにせよ、
ある日突然、「閉鎖!」ということはよくある。
そのたびに、それまで蓄積した原稿が、みな、消えてしまう。
私もこの3、4年の間に、数回経験している。
今回も、いつの間にか、「1ファイル、最大3GBまでしかアプロード
できない」という条件がついてしまった。
私がメインに利用させてもらっている、HPサービスである。
私のHPのばあい、3GBを超えるファイルは、珍しくない。
そういうことがあるから、いつも複数のサービスを使って、同時に、
原稿を発表している。
つまり予防のため。
好きで、いくつも発行しているわけではない。
●解決!
で、この方法は、たいへん有効だった。
つまり小さなファイルを暗号化し、それを転送してみるという実験である。
あれほど悪戦苦闘したにもかかわらず、30分ほどで、その手順がわかった。
無事転送ができるようになった。
たとえて言うなら、1週間ほど便秘がつづいて、それが治ったとき
のような気分(?)。
とたん頭痛が消えた。
あの批判めいた書き込みも、気にならなくなった。
それをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「きっとみんな困っているわ。教えてあげたら」と。
が、私は断った。
こうしてひとつの「山」を越えるたびに、ある種の優越感を覚える。
しばらくは、その優越感に浸りたい。
つまりたいていのユーザーは、「山」に当たるたびに、そこでくじける。
くじけて、パソコンから遠ざかる。
「山」を越えた者だけが、つぎのステップに進むことができる。
そこはまさしく弱肉強食の世界・・・というほど、おおげさな
ものではないが、それに近い。
もちろんコンピューターのプロなら、何でもないかもしれない。
が、私はコンピューターのプロではない。
1人のユーザーにすぎない。
コンピューターを使って仕事をする、ユーザーにすぎない。
・・・それにしても不親切なマニュアルである。
英語をそのまま直訳しただけ(?)。
しかも訳せない単語は、そのままカタカナ表示。
●結論
今回のことで学んだことは多い。
先にも書いたように、脳みそは、それほど器用にはできていない。
つまりそれぞれのばあいに応じて、使い分けることができない。
脳内のホルモンというのは、そういうもの。
一度ある種のホルモンが分泌されると、フィードバックが起きるまで、
そのホルモンに支配される。
(「フィードバック」というのは、そのホルモンを中和するために、
別のホルモンが分泌されることをいう。)
今回、解決したとたん、時間にすれば、10~20分足らずで、
頭重感は消えた。
同時に気分も晴れた。
しかしホルモン説だけで、こうした一連の感情の変化を説明できる
わけではない。
ホルモンの作用を受けて、神経伝達物質も影響を受ける。
悶々と悩んでいる間、私は何もやる気が起きなかった。
軽いうつ状態になった。
食事をしている間も、何か思いつめたような雰囲気だったと思う。
ワイフが見るに見かねて(?)、首をマッサージしてくれた。
●回復
夕方になっていつもの調子がやっと戻ってきた。
雑誌やビデオカメラのカタログに目を通すほどの余裕も、出てきた。
よかった!
いつまで続くかわからないが、今の私にとって最大の生きがいは、
こうして文章を書くこと。
考えて、何か新しいことを発見すること。
その緊張感とスリル。
それが楽しい。
・・・ということで、今夜は満足感をしっかりと実感しながら、
ぐっすりと眠られそう。
NG先生に頼まれた、「識字障害」についての原稿は、明日、書こう!
Hiroshi Hayashi++++++June.2010++++++はやし浩司
●雑感・あれこれ
●日本経済
書店で、何冊か、経済誌を立ち読みした。
どれも共通して説いているのは、日本経済の破綻は、すでに可能性の問題ではないということ。
時間の問題。
現在、日本経済は、薄い氷の上を恐る恐る歩いているようなもの。
何かのきっかけがあれば、そのまま奈落の底へ・・・。
朝鮮半島で何か起これば、あぶない。
韓国や中国の住宅バブルがはじければ、あぶない。
アメリカ経済がつまずけば、あぶない。
EUの経済破綻については、現在進行中!
その前兆として、日本円が海外へ逃避し始める。
円売りが加速し、円安になったときが、あぶない。
それをきっかけに雪崩(なだれ)をうったように、円は暴落する。
同時に日本を、ハイパーインフレが襲う。
どうやらそういうシナリオで進むらしい。
頼みの綱は政治だが、その政治は、ご覧のとおり。
鳩山内閣は、すでに政権担当能力を喪失している。
(昨日、辞職した。)
こうなれば、わが身は自分で守るしかない。
・・・ということで、考えることはみな、同じ。
金(ゴールド)価格は、目下、暴騰中。
ニッケルやアルミなど、金属価格がこの数か月低迷している。
それを勘案すると、金価格の暴騰は、尋常ではない。
まさに金バブル。
ここで金(ゴールド)に手を出せば、ババを引くことにもなりかねない。
要するに現在、世界経済は、メチャメチャ。
収拾のつかない泥沼に向かって、まっしぐら。
10分の1、あるいはそれ以下になることを覚悟で、タンス預金をつづけるか。
それとも危険な外債に手を出して、ハラハラしながら、毎日を過ごすか。
まさに八方ふさがり。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●5月の総括
++++++++++++++++++
5月・・・頭の活動は、低調だった。
新しい発見も、ほとんどなかった。
ただひとつ、こんなことに気づいた。
その土地、地域、地方の人たちは、
ともに似たような言いまわしの仕方、
似たような考え方をするということ。
+++++++++++++++++
●郷里
たとえば私は岐阜県の田舎町で生まれ育った。
恐らくというより、ぜったい、その町に生まれ育った人は、それに気づかないだろう。
しかし一歩離れた、この浜松という地方から見ると、それがよくわかる。
あの町の人たちは、似たような言い回しをする。
似たようなものの考え方をする。
つまり「独特」。
たとえば何か、ものを送ったとする。
盆暮れのつけ届けでもよい。
するとたいていみな、こう言う。
「大事に使わしてもらうで・・・」と。
「大切に使わせていただきますので・・・」
という意味である。
「悪いねエ・・・」と、言葉を濁す人も多い。
一方、この浜松では、「ありがとう」と言う。
それで終わる。
●「大事に使わしてもらうで・・・」
「悪いねエ・・・」にしてもそうだが、
この浜松で、「大切に使わせていただきますので・・・」
と言われると、言われたほうは、返答に困ってしまう。
「大切に使わせていただきますので、もっとほしい」
という意味にも、解釈できる。
(これは私の考えすぎか?)
「悪いねエ・・・」と言われると、やはり言われたほうは、返答に困ってしまう。
まさか「悪くないですよ」とは、言えない。
●アメリカ人は、ストレート
こうしたちがいは、アメリカ人とくらべてみると、よくわかる。
彼らは、何かにつけて、ストレート。
「遠慮」という言葉の意味すら、知らない。
ほとんどのばあい、「サンキュー」で終わってしまう。
わかりすぎるほど、わかりやすい。
つまり私の印象では、浜松の人たちは、岐阜の郷里の人たちと、アメリカ人の中間、もしくは郷里の人たちに近い方の、中間にいるということになる。
●本音と建前
岐阜の郷里の人たちは、それだけ(奥ゆかしい)ということになる。
が、その分だけ、心が読みにくい。
ときに何を考えているか、さっぱりわからなくなるときがある。
たとえば本音と建前を、そのつど、実にうまく使い分ける。
もっと言えば、裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
そういうことが、みな、平気でできる。
またそれができないと、あの町では生きていくことがむずかしい。
●視点を広める
で、さらに視点を外国に置いてみたらどうか。
私は今、浜松という町から、岐阜の郷里を見ている。
しかし外国という世界から、日本を見たら、どうか。
やはり同じように、そこに「日本人」が浮かび上がって
くるにちがいない。
さらに、視点を宇宙に置いてみたらどうか。
宇宙人の目で、地球人を見てみる。
やはりおなじように、そこに「地球人」が浮かび上がってくるにちがいない。
●ウソ
視野を広めるというのは、そういうことをいう。
(1)と(2)の関係を知ったら、それを(2)から(3)への関係へと、
視野を移動していく。
外国と比較してみるのもよい。
ここで私は、アメリカ人と比較してみたが、それはたいへん重要なことでもある。
先に私は本音と建前について触れた。
しかしアメリカ人には、それは通用しない。
彼らはそれを「ウソ」ととらえる。
欧米人がいかにウソにきびしいかは、今さらここに改めて書くまでもない。
ふつう一度ウソを言ったら、人間関係は、それで終わる。
●悪口
話を戻す。
私はこうしてものを書いているが、いろいろな鉄則を守っている。
そのひとつが、悪口を書いた人ととは、つきあわない。
つきあっている人の悪口は、書かない。
当然のことだが、郷里のあの町では、それが通用しない。
みなというわけではない。
私の周辺の人たちだけかもしれない。
が、私が知るかぎり、ほとんどの人は、平気でそれができる。
つまり裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
●原点は邑(むら)意識
岐阜の郷里の町は、それだけ日本的ということになる。
たとえばさらに一歩、山奥の部落に入ると、こんな会話が今でも、残っている。
通りでだれかに出会ったとすると、こう言って声をかける。
「オーイ、昼飯でも食っていかんけエ」と。
しかしこれは、ただのあいさつ。
そう言われたほうは、腹が減っていても、こう答える。
「おう、今、食ってきたところでノウ」と。
ウソにはウソで答える。
そういった日常的な会話が、ジグソーパズルのように寄り集まって、あの地域の文化を作り上げている。
それを総称して、「邑(むら)意識」という。
(ちょっと意味がちがうかな?)
現在では死語になってしまったが、亡霊のようなものは、あちこちに残っている。
それがあの独特の言い回しということになる。
●依存性
「邑(むら)」の中では、みながみな、たがいに依存しあいながら、生きている。
受け入れてしまえば、それは居心地のよい世界である。
が、一度それに反目すると、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてしまう。
『村八分』という言葉もある。
村に住む人にとっては、これほど恐ろしい言葉はない。
依存できないだけではない。
依存できない分だけ、自分で生きていかねばならない。
しかしそういう訓練を受けていない。
邑社会そのものがもつシステムが、それを許さない。
ただ誤解がないように一言。
どちらがよくて、どちらが悪いかということは、私にはわからない。
人、それぞれ。
郷里の人たちには、郷里のほうが、住みやすい。
浜松の人たちには、浜松のほうが、住みやすい。
どうであれ、その人が「住みやすければ」、それでよい。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●嫉妬、攻撃、恐怖
+++++++++++++++
乳幼児期の大敵。
タブー。
その3つが、嫉妬、攻撃、恐怖。
+++++++++++++++
嫉妬は原始的な感情であるがゆえに、
扱い方をまちがえると、確実に
子どもの心をゆがめる。
「原始的」というのは、他の哺乳動物に
共通する感情のひとつであるということ。
攻撃というのは、はげしい闘争心を
呼び起こすような感情をいう。
結果として言動が攻撃的になる。
またはげしい家庭内騒動、夫婦喧嘩など、
恐怖体験は、子どもの心をゆがめる。
「ゆがめる」というのは、ばあいによっては
精神障害につながる、重篤なケースを含む。
乳幼児期の母子関係の不全が、後々の
うつ病の「種」となるという説もある(九州大学Y)。
みなさん、気をつけましょう。
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司
●こわばり
++++++++++++++++++++
このところ体のこわばりが、気になる。
筋肉が、そのまま固まってしまう。
しばらく同じ姿勢を保つ。
そのあと、体が、思うように動かなくなる。
最初に気がついたのは、今から5、6年ほど前のこと。
どこかの会場で、和室に案内された。
何人かの人たちと、正座したまま話をした。
時間にすれば、20~30分ほどだっただろうか。
そのあとのこと。
立ち上がろうとしたが、立ち上がれなくなってしまった。
足がこわばったまま、動かなくなってしまった。
ヨロヨロ……という感じではなく、ギコンギコンという
感じだった。
以来、正座するのを、できるだけ避けている。
が、足だけではない。
腕にせよ、首にせよ、なにかにつけ、体がこわばり
やすくなった。
が、この(こわばり)を軽くみてはいけない……そうだ。
ネットで調べてみると、重篤な病名がズラリと並ぶ。
とくにこわいのが、首から肩にかけての、こわばり。
脳梗塞の前兆ということも、あるそうだ。
+++++++++++++++++++++
●相談
こういうときは、5、6歳、あるいは10歳くらい年上の人に相談するとよい。
私が経験するようなことは、たいていみな、経験している。
「私もそうです」というような回答をもらって、それで解決する。
で、最近、50代の人と話すたびに、私はこう言う。
「老人研究をしたらいいですよ」と。
私のばあい、とくに老人の歩き方が気になった。
80歳を過ぎても、スタスタと歩ける人もいる。
70歳になったばかりというのに、ヨタヨタと歩く人もいる。
そんなとき、「どうしてこの人は、こんなふうに歩けるのだろう?」
「どうしてこの人は、歩けないのだろう?」と、考えるようになった。
以来、10年。
この分野では、私はかなり詳しくなった。
「老人研究」といっても、もちろん歩き方だけがテーマではない。
最終的には、人生観そのものも、テーマとなる。
●老後の人生観
「老人の人生観」というよりは、「老後の人生観」。
「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
この2つを並行して考える。
それが老後の人生観ということになる。
つまり若いときは、生きることだけを考えればよかった。
しかし老後になると、それに(死に方)が加わるようになった。
それにはいろいろな意味が含まれる。
+++++++++++++++
09年の1月に書いた原稿を、
再掲載します。
+++++++++++++++
●統合性の確立
++++++++++++++++++++++++
今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。
それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。
そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。
++++++++++++++++++++++++++++
●帰りのバスの中で
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。
いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。
が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。
私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。
いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。
●60歳の統合性
(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。
エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。
(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。
●統合性の失敗
私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。
明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。
家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。
●今、40歳前後の方へ、
エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。
もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。
●無私無欲
(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。
仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。
●燃える
一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。
先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。
「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。
そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。
そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。
●あなたの未来
あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。
子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。
40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。
こんな例がある。
●反面教師は、未来のあなた
ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。
こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。
たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。
あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。
反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。
●私のほうが、マシ?
しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。
統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。
私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。
のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?
しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。
そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「家でブラブラしている」と。
ブラブラしていることが悪いというのではない。
で、「どんなことをしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。
「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。
本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。
統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。
●やってくる老後
老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。
60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。
現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。
まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。
●私の経験
これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。
もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。
もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。
●最後に……
むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。
その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。
……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(2009年1月記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老後の生き甲斐)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月3日木曜日
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