●浜名湖かんざんじ荘にて
(浜松市西区呉松町1681、電話05-487-0330)
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今日は、浜名湖かんざんじ荘に一泊することにした。
明日は、ワイフの誕生日。
そのお祝い会も兼ねた。
おとな、2食付で、1名7500円。
浜松市内でも、最高の景勝地にある。
何をもって景勝地と言うかは、泊まってみれば、わかる。
とくに夕日を見ながらの、展望風呂がすばらしい。
そのすばらしさは、この地域の人なら、みな、知っている。
小さいが、清潔。
全面窓ガラスになっていて、展望風呂からは、眼下に浜名湖、
舘山寺温泉街を望むことができる。
部屋はやや狭いかな(?)、という感じだが、
料金が料金だから、不満はない。
・・・というか、大満足。
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●浜名湖かんざんじ荘
私たちが泊まった部屋は、3階の306号室。
ちょうど真下に、東名高速道路の三ヶ日インターチェンジから、手前の浜松市内につづく大橋が見える。
名古屋方面から東名高速道路を車で来る人は、まずこの大草山(おおくさやま)を見る。
その大草山を見て、浜松へやってきたことを知る。
私もそうだ。
大草山が見えてくると、「浜松だ!」と叫ぶ。
そのクセは、今でも変わらない。
浜名湖かんざんじ荘は、その大草山の頂上にある。
もともとは国民宿舎として建設されたホテルである。
それを地元のバス会社が引き継ぎ、現在、営業している。
サービスはよい。
料理もおいしい。
うなぎの柳川鍋に惹(ひ)かれて、3杯もご飯を食べてしまった。
星は料金も勘案して、5つの★★★★★。
ちょうど夕日時で、山の端に、オレンジ色の太陽が沈んでいった。
その下を、1本のまっすぐな航跡を残して、釣り船が横切っていった。
深い緑の島々。
それに囲まれた入り江。
風はなく、湖面はいくつかのまだら模様を作りながら、鏡のように輝いていた。
●浜名湖
浜名湖の思い出は多い。
息子たちが子どものころは、夏場になると、毎週のように浜名湖へやってきた。
同じように、この浜名湖かんざんじ荘へも、よくやってきた。
昔は、「国民宿舎・舘山寺荘」と呼んだ。
気軽に食事をしたり、泊まったりすることができた。
また遠方から友だちが来たりすると、ここへ案内した。
みな、満足して帰っていった。
その浜名湖。
浜松市から西へ、車で30分。
目の前にするたびに、「ここはいいところだ」と思う。
「ここ」というのは、浜松市。
湖があり、周囲をそれほど高くない山々に囲まれている。
もちろん海もある。
昔からの工業都市で、ほどよい活気もある。
気候は、本州の中でも鹿児島と並んで、温暖。
その浜松市で、私は40年近く過ごした。
「住めば都」とは言うが、私はそれ以上に、この町が好き。
この町で人生の大半を過ごせたことを、本当によかったと思う。
●メルボルン市
人は、よりよい土地に住んで、それまでの土地が、そうでなかったことを知る。
人は、より広い土地に住んで、それまでの土地が、そうでなかったことを知る。
私は、学生時代をオーストラリアで過ごせたことを、本当に幸運だったと思う。
今では、オーストラリアなど、高校生の修学旅行でも行くようになった。
しかし私の時代には、少なかった。
あの人口300万人(当時)のメルボルン市にも、日本人の留学生は、私1人だけだった。
帰国するころ、モナーシュ大学に、もう1人、日本人の留学生がやってきたという話は耳にした。
当時は、そういう時代だった。
だから60代の人で、私がしたような経験をした人は、少ない。
が、ただ経験したというだけではない。
当時の日本には、バンドエイドも綿棒もなかった。
大学の寮(カレッジ)には、乾燥ルームまでついていた。
日本人の私には、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかった。
1日を、それまでの1年に感じたこともある。
ウソではない。
本当に、そう感じた。
●優越感
その一方で、今、ときどき郷里へ帰ったときなど、何とも言えない優越感を覚えることがある。
若い人たちはともかくも、同年齢の人たちに会うと、それを覚える。
「私は、あなたたちの知らない世界を知っている」と。
「その知らない世界を原点に、今、私がいる」と。
……だから同年齢の人たちが、保守的というか、古くさい考え方をしているのを知ると、こう思う。
「この人たちは、かわいそうだな。このまま人生を終わるんだろうな」と。
先日も、ある法事に出たら、そこでこんな話をしている人がいた。
「長老の言うことを、最近の若い人たちは、聞かない……」
「昔は、長老が、こうだと言えば、みな、従ったものだが……」と。
私はその話を横で聞きながら、「かわいそうな人たちだな」と思った。
広い世界を知らない。
まったく知らない。
「知らないから、そういう話をする」と。
●浜松市
もちろん浜松市にも、保守的な考え方をする人は多い。
しかし全体としてみると、郷里の人たちよりは、住んでいる世界そのものが広い。
私のような人間でも、受け入れる。
いろいろあったが、それでも何とか、この40年近くを過ごすことができた。
これが郷里の、あのM町だったら、そうはいかなかったと思う。
はじき飛ばされてしまうか、私自身が、押しつぶされてしまっていただろう。
現在の今ですら、私を理解できる人は少ない。
同年齢の人では、さらに少ない。
みな、異口同音にこう言う。
「林(=私)は、変わっていたが、今でも変わっている」と。
そう言えば、先日(2010年2月)に大学の同窓会に出たときも、そう言われた。
たまたま撮っていたビデオに、そういう言葉が残っていた。
……そんなことを考えながら、展望風呂には、3度も入った。
気持ちよかった。
本当に気持ちよかった。
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晃子へ、
誕生日、おめでとう。
すっかりさみしい誕生会になってしまったが、ごめん!
直接は……
http://www.youtube.com/watch?v=jsX4X6B_yMc
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月10日木曜日
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