【思春期vs発情期】(子どもの心を知るために)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
英語で「思春期」は、「adolescence」という。
「adolescnence」は、もともとは、「若々しさ」「発展期」という意味。
一方、日本語の「思春期」は、「ものを思う春」という意味。
が、私は最近、この「思春期」という言い方に、疑問を持ち始めている。
たしかにそういう部分がないわけではない。
多情多感。
感情の動きもはげしく、反応も速い。
好奇心も旺盛で、同時に自分の人生を見つめ始める。
そのつど悩み、苦しみ、そして「ものを思う」。
しかしその実態は、「発情」。
発情期。
発情し、本能と理性のはざまで、葛藤する。
人間は、他の動物のように、本能のまま考え、行動することができない。
いつも目の前に、大きな壁が立ちはだかる。
それが思春期ということになる。
つまり「ものを思う」というのは、あくまでも副次的なこと。
「本能」があり、それが「発情し」、理性とのはざまで、「思い悩む」。
そう解釈すると、あの思春期を、より正確に理解できる。
子どもたちの心理を、より性格に理解できる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●記憶喪失
近く、こんな映画が、公開される。
予告編だけしか見ていないので、内容は正確ではない。
題名は忘れた。
(題名は重要ではない。)
2人の若い男女が恋愛関係にある。
(婚約もしくは、すでに結婚していたかもしれない。)
女性は結婚指輪をしていた。
が、女性のほうが何かの事故にあい、記憶喪失状態になる。
同時に、男への愛を失う。
男の方は女の愛を取り戻そうと、懸命に努力する。
女のほうも、努力する。
「たがいに奇跡を信じて……」と。
実話をベースにしているらしい。
またこの種の話は、ときどき耳にする。
人は記憶喪失によって、記憶のみならず、ここに書いたように、相手への「愛」を失うこともある。
●絶対的な愛?
ここで最初の疑問にぶつかる。
よく若い人たちは、(もちろん私たちも若いころは、そうだったが)、たがいに好きになると、永遠の愛を誓ったりする。
「愛している」と。
が、この愛は、キリスト教で説く「愛」とは、まったく異質のもの。
あえて言えば、「性的欲望」をカモフラージュするためのものでしかない。
あるいは性的欲望の代名詞と考えてよい。
その一例が、先に書いた、記憶喪失とともに、相手への愛を失った女性である。
もし、愛が絶対的なものであれば、つまり永遠の愛を誓うにふさわしいものであれば、消えるということは、ないはず。
仮に消えても、再び顔を合わせれば、同じ思考回路を経て、脳内で同じような愛が生まれてくるはず。
……少しわかりにくくなってきたので、もう少しわかりやすく説明する。
●ワイフの疑問
結論から先に言えば、男と女が感ずる「愛」ほど、いいかげんなものはないということ。
たとえばワイフは、こんなことを言う。
ワイフは市内の女子高校(当時)の出身である。
1クラス50名ほどいたという。
その友だちを見ながら、ワイフは高校時代にこう思ったという。
「本当にこの人たちは、みな、それぞれがそれぞれの相手を見つけ、結婚するのだろうか」と。
で、それから十年……。
それぞれの人は、それぞれの人を見つけ、結婚していった。
ワイフは、「それが不思議でならない」と。
性格も悪い。
容姿も悪い。
そんな友だちでも、ちゃんと相手を見つけ、結婚し、子どもをもうけた、と。
●愛の柔軟性
となると、「愛」というのは、絶対的なものではないということになる。
もし絶対的なものなら、10人の男と10人の女がいれば、そのうち結婚できるのは、1組か2組、あるいはせいぜい、3、4組?
が、現実には、(もちろん独身を求める人もいるが)、10組のカップルが生まれる。
つまり(相手を求めて選ぶのではなく)、(身近にいる人の中から、1人を選び、自分をその人に合わせていく)。
その過程で、「愛」という言葉が使われる。
わかりやすく言えば、手の届かない高嶺の花よりも、身近にいる道ばたの花(失礼!)。
その花に自分を合わせていく。
もっとわかりやすく言えば、「だれでもいい。近くにいれば」と。
そういう意味では、ここでいう「愛」は、柔軟性に富んでいる。
●絶対?
こう考えていくと、「絶対的な愛」など、もとから存在しない。
身近な人の中から、男も女も、最大限、自分にふさわしい相手を選んでいく。
結婚していく。
「その人が絶対!」というのは、その場かぎり。
そのときはそう思う。
しかし「絶対!」というのは、ありえない。
たまたまもっと(いい人?)が現われ、自分の手の届くところに入ってきたら、今度はその人と恋愛関係に陥るかもしれない。
(現実に、そういう人がいる。
私の身近にいる知人の男性である。
自分の結婚式にやってきた別の女性に、一目惚れ。
結婚式をその場で、ドタキャンし、その人は、その一目惚れした人と、結婚した。
これは本当の話だぞ。)
「絶対」と思うのは、あくまでもその人は知る人の範囲で、という意味である。
このことは、たとえば同窓会などに出てみると、よくわかる。
あるいは若いころ、交際していた人と出会うと、よくわかる。
ときどきこう思う。
「私は、この人(女性)を、一時は死ぬほど好きだったはずなのだが、どうしてこんな人を好きになったのだろう?」と。
●恋愛の賞味期限
だからというわけでもないが、記憶喪失とともに、相手への愛を失ってしまう人がういても、何も不思議なことではない。
先にも書いたように、ここでいう「愛」には、それなりの柔軟性がある。
「Aさんがだめなら、Bさんで。Bさんもだめなら、Cさんで……」と。
大切なのは、入り口ではなく、そのあと、2人で、どういう人生を組みたてていくかということ。
前にもどこかで書いたように、恋愛感情などというものは、脳内ホルモンの作用によって、生まれる。
どこかでフィーリングが一致すると、フェニルエチルアミンというホルモンが、脳内に充満する。
これを「フェニルエチルアミン効果」という。
その人は、空を飛ぶような甘い陶酔感に襲われる。
が、その脳内ホルモンにも、賞味期限がある。
長くて2年~数年と言われている。
恋愛を何度も経験した人なら、その期間は、もっと短くなるかもしれない。
そのときほとんどの男女は、結婚へとゴールインするが、もちろん「ゴール」ではない。
「スタートライン」。
そのときから2人で、無数のドラマを経験し、夫婦としての愛を深めていく。
そういう意味では、「愛」というのは、静かなもの。
音もなく、静かに流れていく。
が、それについても、すでに何度も書いてきたので、ここでは、もう一度、原点に立ち返って「愛」とは何か、考えてみたい。
●恋話(こいばな)
今まで私たちは、「思春期」という言葉に、だまされてきた。
「思春期の最大のテーマは、自我の同一性(エリクソン)の問題です」などと、講演などで話してきた。
しかし今どき、静かに自分の人生を考えている中学生や高校生など、ほとんどいない。
享楽的で刹那的。
場当たり的な人間関係の中で、右往左往している。
で、中身といえば、「発情期」。
またそう考えたほうが、わかりやすい。
そのことは、ファーストフード店にたむろする、若い男女を観察してみれば、よくわかる。
(思い)を語りあっている若い男女は、まずいない。
人生論を語りあっている男女は、さらにいない。
100%と言ってよいほど、中身は、「恋話(こいばな)」。
そういった話が、つぎからつぎへと出てくる。
が、若い人を笑ってはいけない。
●入り口を入ったら出口
60歳を過ぎた同窓会(中学&高校)でも、結局はその類の話に、花が咲く。
60歳を過ぎても、同窓生に会った瞬間から、中学時代、高校時代へと、心がタイムスリップする。
その間に、40年以上もの時間的空間があるはずなのに、それがつながってしまう。
入り口と出口がつながってしまう。
入り口を入ったら、そのまま出口。
で、話すことといえば、「恋話」。
昔のままの「恋話」。
……同窓会には、大学も含めると、もう30~40回は出ているかもしれない。
しかし、ゆっくり話しあう時間がないこともあるが、いまだかって、人生論をしみじみと語りあったことがない。
本来ならそういう話をしたいのだが、またそういう話になっておかしくないのだが、そういう話にはならない。
バカ話とバカ笑い。
(それが悪いと書いているのではない。誤解のないように!)
それで終わってしまう。
●結論
要するに「思春期」と構えるから、話がむずかしくなる。
しかし「発情期」とすれば、わかりやすい。
子どもたちの心理も、ぐんと理解しやすくなる。
ごちゃごちゃと書いてきたが、私は、これからはそうする。
思春期前夜は、発情期前夜。
思春期は、発情期。
それでよい。
●ぼたんインコの発情期
たまたまぼたんインコを飼い始めて1か月になる。
まだ幼鳥に近いが、この先、発情期が来ると、何かと飼いにくくなるという。
「ぼたんインコの飼い方」という本には、そう書いてある。
問題点も書いてある。
たとえば背中をさすってはいけない……発情を誘発する。
巣箱は用意しないほうがよい……発情を誘発する。
発情期になったら、放鳥に注意する……逃げていってしまう、などなど。
だったら人間の子どもについても、同じように考えればよい。
「発情期になったら……」と。
刺激のある写真やDVDは、近くに置いてはおけない……発情を誘発する。
お金で欲望を満足させることを教えてはいけない……発情を誘発する。
発情期になったら、外出、外泊、家出に注意する……妊娠の危険性が高くなる。
が、どういうわけか、そういう発想で、子どもの思春期を説いた本に、出会ったことがない。
どうしてだろう?
たとえば私のことだが、高校2年生のとき、岐阜市にある県立図書館で、女体の解剖図を見ただけで、興奮してしまったことがある。
外人相手の観光ガイドをしていたときのこと。
その娘を見ただけで、道を歩けなくなってしまったことがある。
その娘は、高校生だったが、今で言うタンクトップなる服を着ていた。
胸元が大きく開いていた。
当時の日本人で、そんな服を着ている女の子は、いなかった。
こうした現象は、個人によってみなちがう。
が、その底流は、同じ。
「発情」。
「愛」などという言葉などは、それをカモフラージュするための、方便にすぎない。
つまり、「愛」とは、ただの言葉の飾り。
「ぼくは君を愛している」などと、回りくどいことは言わず、「ぼくは君と性KOUしたい」と言えばよい。(KOUは、「交」のこと。BLOG禁止用語に抵触するので、こう書く。)
そのほうが、ずっとわかりやすい。
それが結論。
今度ヒマがあったら、「発情期の子どもの心理」というテーマで、ものを書いてみたい。
そのほうが、繰り返しになるが、ずっとわかりやすい。
さて、みなさんの子どもは、どうか?
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2012/05/30
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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