2012年5月17日木曜日
Tiny Jpb
【息(いき)る人生】
●あえて不便
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
このところ、「あえて不便」に、心がけている。
(便利)イコール、(望ましいこと)ではない。
あえて不便にし、生活のリズムを変える。
たとえば、パソコン上からカレンダーを消した。
とたん、日にちがわからなくなった。
それまでは、目を横にやれば、その日の日にちがわかった。
曜日もわかった。
で、今は、そのつど、壁に張ったカレンダーを見る。
日にちを調べる。
曜日を調べる。
こうした(不便)は、脳を活性化させる?
というか、生活がマンネリ化すると、刺激が乏しくなる。
単調になる。
それ以外のことが、できなくなる。
そうでなくても、使わない知識や知恵は、どんどんと消えていく。
それに気がつかないまま、どんどんと消えていく。
それがこわい。
だから「あえて不便」。
不便な道を選ぶ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「だから、それがどうしたの?」
私の年齢になると、「だからそれがどうしたの?」という疑問が、すぐ追いかけてくる。
いつも追いかけてくる。
たとえば「長寿」。
「長生きしたからといって、それがどうしたの?」と。
答え方をまちがえると、そのまま自己否定の世界に陥ってしまう。
自己否定ほど、恐ろしいものはない。
だから多くの人は、自分の過去にしがみつく。
学歴、肩書き、地位にしがみつく。
それを否定されたら、自分が自分でなくなってしまう。
それこそ「何のための人生だったの?」となる。
●生きる目的
昨日、講演の依頼があった。
講演というより、講話。
ある小学校の学年単位の講話である。
講演に大小があるとするなら、もっともミニサイズの講演ということになる。
講演料も安い。
1万円。
が、1万円が悪いというのではない。
すぐ先方に電話を入れ、確認。
「……もし、先生が自腹を切られるというのであれば、無料で結構です」と。
また講演時間も、短い。
計画表を見ると、45分とある。
しかし45分で、何が話せるのか。
……ということで、時間を延ばしてもらった。
1時間半にしてもらった。
よく誤解されるが、講演というのは、長いからつらいとか、短いから楽ということはない。
使うエネルギーは同じ。
……というか、いくらミニサイズの講演会でも、私は手を抜かない。
かならず10ページ前後のレジュメを用意する。
それを会場で配付してもらう。
もちろん、(仕事)には、ならない。
しかし「だから、それがどうしたの?」と自問したとき、そういう講演会ほど、明確な答が返ってくる。
「それが生きる目的」と。
●無私、無欲
一方、数日前、ある相談があった。
フォーム(=個人連絡用)での相談だった。
子どもの発達障害に関するものだった。
で、転載許可を求めると、「いかなる場合も、不許可」と。
「一文たりとも、許可しない」と。
こういうばあいは、私は、簡単な返事を書いたあと、即、削除することにしている。
深く読めば、内容が記憶に残る。
それがどこかで亡霊のようになって出てくる。
そのとき、それがトラブルの原因となる。
無私、無欲とはいうが、返事を書くのに、最低でも1~2時間はかかる。
それにこの種の相談は、繰り返しやってくる。
そのつど、いつも同じような返事を書く。
が、それが問題ではない。
私にとっては、その1~2時間が、惜しい。
1~2時間もあれば、新しい知識を吸収することができる。
だから即、削除。
記憶に残さない。
で、すかさず抗議のメールが入った。
いわく「あなたに相談したことを、後悔している。相談内容を、ぜったいに公開しないことを約束してほしい」と。
●リンカーン・コンチネンタル
生きる目的というのは、そのつど複雑に交錯する。
損を考えたり、得を考えたり……。
ときにその意味さえ、見失う。
「ああ、私も、このままこの先、朽ちていくのか」と。
というのも、今まで、私は多くの成功者や失敗者を、直接見てきた。
若いころは、今の私ですら本当にそんなことがあったのかと思えるような世界に住んでいた。
30代のはじめには、運転手付のリンカーン・コンチネンタル・マーク4に乗っていた。
どこかの金持ちが、貸してくれた。
それで東京と浜松の間を、行き来していた。
また東京では、ホテル・ニューオータニ以外には泊まったことがない。
そんな私だったが、今は、TOYOTAのプリウス。
燃費を気にしながら、細々と乗り回している。
そうそうこんなこともあった。
●ある女子中学生
15年ほど前のこと。
手がつけられないほど、生意気な女子中学生がいた。
ドラ娘。
まさにドラ娘、そのもの。
トイレから戻ってくると、あるとき、こう言った。
「私ね、汚れたトイレは苦手なのよね。生理的嫌悪感を覚えるのよね」と。
で、そのあと、私はその女子中学生を、あれこれと説教した。
「ぼくたちの時代には、ボットン便所が当たり前だった」というような話もした。
が、しばらくすると、私にこう言った。
「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事(=塾教師)、してるねエ。私やア、おとなになったら、あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。
この一言が私を激怒させた。
私はその場で、その女子中学生を、退塾させた。
「今日は、このまま帰りなさい!」と。
……この話は以前にも書いた。
原稿を探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(以下、日付は、2004年になっている。
が、現在、この女子中学生は、40歳くらいになっているはず。)
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
●愚人と賢人(2004年に書いた原稿より)
ずいぶんと昔だが、私に面と向かって、こう言った女の子(中3)がいた。
「あんた(=私のこと)も、くだらねエ仕事、してるねエ。私やア、おとなになったら、
あんたより、もう少し、マシな仕事をすっからア」と。
私は、その女の子を見ながら、怒るよりも先に、「なるほどなア」と思った
私のしている仕事は、その程度だということは、自分でも、よくわかっている。
しかし私は、その女の子の前では、本当の私の姿を見せていない。
見せる必要も、ない。
まただからといって、その女の子を、責めているのでもない。
(実際には、そのまま退塾させたが……。)
最近の若い人たちは、多かれ少なかれ、みな、そうだ。
何も、彼女が、特別というわけでもない。
この時期の子どもは、生意気になることで、自分を主張しようとする。
それに、多分、今でも、子どもたちから見る私は、バカで、ドジで、どこかダサイ、初老の男なのだろう。
私も、あえて子どもたちの前で、そういう男を演じてみせている。
で、私は、一つの事実に気がついた。
愚人には、賢人がわからない。
どの人が賢人であるか、その区別さえできない、と。
たとえばこんなことがある。
幼児クラスで、私が、わざと、「3+4」の問題を、まちがえてみせたとする。
すると、子どもたちは、「先生、ちがう!」と騒ぎだす。常識で考えれば、(あくまでもおとなの常識でだが……)、私という人間が、そんな簡単な足し算で、まちがえるはずはない。
しかし子どもたちには、それがわからない。
中には、本気で怒ってしまう子どもさえ、いる。「あんた、本当に、先生!」と。
しかし賢人には、愚人がよくわかる。あたかも手に取るかのように、よくわかる。
何をどう考え、どう思っているか。
そしてその先、どういう結論をだすかまで、わかる。
この足し算のケースでいうなら、子どもが怒りだすところまで、わかる。
つまり冒頭にあげた女の子は、そのレベルの子どもということになる。
(私が賢人であるかという話は、別にして……。)
少なくとも、私は、その女の子よりは、賢人である。
だから、「なるほどなア」と思った。
またそう思うことで、自分の心を、処理した。
で、私は、そのあと、その女の子と、こんな会話をした。
私「君は、将来、どんな仕事をするの?」
女「まあね、いろいろ」
私「たとえば……」
女「まあね。でもね、先生、私も将来、何もすることがなくなったら、塾の講師でもすっから。そのときは、先生、よろしくね」と。
つまりその女の子は、対、私との関係では、愚人ということになる。
自分が愚人であるとさえ、気づいていない。
(だから、愚人ということになるが……。)
だから私が、どういう人間であるかさえ、わからない。
理解もできない。
こうして私は、一つの結論を導いた。
それが、つぎの一文である。
『愚人は、決して、自分を愚人と思わない。
しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。
そして愚人からは、賢人がわからない。
自分と同じ人間だと思う。が、賢人からは、愚人がよくわかる。
これが愚人と賢人のちがいである』である。
●愚人論
簡単な例では、『堂々巡り』という言葉がある。
あるいは、『小田原評定』というのもある。
同じことを繰りかえし考えるだけで、前に進まないことをいう。
これを、「思考のループ」という。
一度、このループ状態にはいると、進歩が止まるのみならず、ばあいによっては、後退する。
たとえば昨夜、私はテレビのチャンネルをかえるとき、あるバラエティ番組をのぞいてみた。
夜の9時台だった。
見ると、お笑いタレントとしてよく知られている、Sという男が、ペラペラと何かをしゃべっていた。
軽妙なタッチで、若い人たちには、それなりに受けはよい。
しかし私は、ふと、こう思った。
「この男は、5年前にも、そして10年前にも、同じことを言っていたぞ」と。
実のところ、同じかどうかはわからない。
しかし昔、彼がしゃべったのを何度か聞いたことがあるが、どの一つも、記憶に残っていない。
何かしら、いっしょに笑ったような覚えはあるが、それだけ。
お笑いタレントのSが、ループ状態に入って、同じようなことをしゃべるのは、構わない。
それが彼の仕事である。
問題は、それを見たり聞いたりする、視聴者である。
実は、この視聴者も、ループ状態に入る。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
たとえばプロ野球が、ある。
私はあるとき、プロ野球を見ながら、こう考えたことがある。
「毎年、毎年、こうしてプロ野球は、繰りかえされる。しかし中身は、同じではないか」と。
もちろん中身は、ちがう。試合の内容も、ちがう。
しかし三〇年前のプロ野球も、最近のプロ野球も、プロ野球は、プロ野球。
パターンこそちがうが、「プロ野球」という全体のワクは、同じ。
ワイフと、こんな会話をした。
私「たとえばその日の献立を考える。そのとき、『何を食べようか』と考える。
考えながら、頭の中で、いくつかの料理を思い浮かべる。
そのとき思い浮かべる料理の内容はちがうか
もしれないが、献立を考えるというワクは、同じ」
ワ「だから、どうなの?」
私「思考も、これによく似ている。
いろいろなことを考えるが、一定のワクができると、そのワクの中だけで、同じようなパターンを繰りかえすようになる。
しかしこうなると、思考は、進歩を停止する」
思考が停止した状態になると、明日も今日と同じ、あさっても、その明日と同じという状態になる。
しかしこうなれば、その人は、死んだも同然。
私「人間は考えるから、人間なのだ」
ワ「いつものあなたのセリフよ」
私「そうだ。考えることによって、前に進むことができる」
ワ「考えなかったら……?」
私は、老人たちの会話を例にあげた。
どこかの公園に集まって、毎日、毎日、同じ会話を繰りかえしている、あの老人たちである。
もちろんそれが悪いというのではない。
人は、人、それぞれ。またほとんどの人は、みな、そうなる。
しかし若い人は、そうであってはいけない。
私「若い人でも、思考のループに入ってしまう人はいくらでもいる」
ワ「そういう人は、死んでいるの?」
私「思考的には、そういうことになる」
そこで問題は、どうすればそのループ状態から、抜け出ることができるかということ。
いや、その前に重要なことは、自分が、ループ状態にあることに気がつかなければならない。
たとえば、今のあなたを、10年前のあなたとくらべてみればよい。
20年前のあなたとくらべてみればよい。
が、それがわからなければ、あなたの近くにいる、叔父や叔母を一人選んで、その人を外から観察してみればよい。
あなたなら、あなた。
その人なら、その人が、10年前と同じ、あるいは20年前と同じというのであれば、あなたや、その人は、ループ状態にいるとみる。
このタイプの人は、10年一律なことばかりを、口にする。
そして同じことを、同じパターンで繰りかえす。
では、どうするか。
そういうループ状態から抜け出るには、どうするか。
このことを、あの釈迦は、『精進(しょうじん)』という言葉を使って説明した。
つまり常に、今のカラを破り、前に進む。
そこに生きる、人間の尊さがある。
人間の価値がある、と。
私「大切なことは、考えること。この一語に、行きつく」
ワ「どう考えるの?」
私「いいか、思想というのは、言葉でできている。だから考えるということは、ものを書くことということにもなる人間は、書きながら考え、考えながら、書く。
そうすると、荒野の荒地に、ときどき小さな、光るものを見つけることがある。
あとは、その光るものを、どこまでも追いつづければいい」と。
ワ「それが精進ってことね」
私「そう。あえて言うなら……」
ワ「何よ……」
私「先へ進めば進むほど、相対的に、まわりの人が、幼稚に見えてくる」
ワ「愚かに見えてくるということ?」
私「はっきり言えば、そういうことになるかもしれない。
だから10年前、あるいは20年前につきあった人と、会ってみればいい。
そういう人と会って話してみたとき、自分が、昔のままだと感じたら、たがいにループ状態にいるとみていい。
しかし相手が愚かに見えたら、自分はループ状態から、抜け出たとみていい」と。
こうして人間は、死ぬまで、歩きつづける。
求めて、求めて、歩きつづける。もちろんゴールは、ない。
そう言いきるのは危険なことかもしれない。
しかしゴールは、ない。
荒野は、どこまでも果てしなく、つづく。
そしてゴールだと思っても、必ず、その先は、ある。
最後にもう一度。
愚人は、決して、自分を愚人と思わない。
しかし賢人は、いつも自分を愚人と思う。
そして愚人からは、賢人がわからない。
自分と同じ人間だと思う。
が、賢人からは、愚人がよくわかる。
これが愚人と賢人のちがいである。
(040127記)
(はやし浩司 愚人 賢人 愚人論 賢人論 はやし浩司 くだらない仕事 マシな仕事 ある女子中学生 生意気な子ども つまらない仕事)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●不便と不快感
こうして考えてみると、「あえて不便」には、2つの意味があることがわかる。
ひとつは、行動面の不便。
これはわかりやすい。
で、もうひとつは、精神面の不便。
が、これは(不便)というよりは、(不快感)。
一見、まったく別の不便さに見えるかもしれない。
しかし脳内で起こる反応は同じ。
その処理方法も、メカニズム的には、同じ。
わざと楽でない方法を選びながら、自分の脳に刺激を与えていく。
(不便)や(不快感)から、逃げていたのでは、刺激にならない。
あえて不便を求め、不快感を求める。
それはちょうど、寒い夜にサイクリングに出かけるような気分に似ている。
出かけたいか、出かけたくないかと問われれば、だれだって(?)、出かけたくない。
しかしサイクリングから戻ってきたときの爽快感が、たまらない。
その爽快感を知っているから、あえてサイクリングに出かける。
……逆に、もし、(不便)や(不快感)のない生活になってしまったら、(もちろんそれには限度というものがあるが……)、何とつまらないことか。
それこそただ「息(いき)る」だけの人生になってしまう。
何としても、それだけは避けなければならない。
……ということで、今日も、「あえて不便」を求めて、がんばろう。
2012/05/17朝記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 あえて不便 息る 生きる)
(追記)
あのときあの女子中学生をそのまま退塾させたのには、別の理由がある。
日ごろの言動が生意気なのに併せて、学習態度が粗放。
ほかの子どもたちがその影響を受け始めたからである。
念のため。
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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