【離婚問題、私たちのケース】(孤独論)
●初老期クライシス
今日は、明日の初日の出を見るため、
牧之原市相良にある、ペンションにやってきた。
「ワイフが、どこかの海で、初日の出を見たい」と言った。
それでそうした。
ワイフと長男、それに私。
「海まで歩いて、1分」とか。
海が見えるペンションではないが、それは
しかたない。
……ところで日の出は、何時何分か。
今、ふと、そんなことを考える。
朝、6時はまだ、暗い。
6時30分になると、明るくなる。
「6時ごろ起きればいいかな?」と、
そんなことを考える。
車で来るとき、ワイフとこんな話をする。
「初老期になると、さまざまな問題が、
どっと起きてくるね」と。
「みんな、それぞれの方法で、解決して
いるみたいだけど、あまり表には出てこない」とも。
何が問題というわけではない。
しかし初老期の倦怠期は、それまでの倦怠期とは、
大きくちがう。
今までの倦怠期には、「未来」という出口があった。
倦怠期といっても、どこかへ寄り道するような感じだった。
が、初老期の倦怠期には、その「未来」がない。
そのまま暗い袋小路に入ってしまう。
寄り道というよりは、分かれ道。
後戻りのできない、分かれ道。
そのまま離婚してしまう人も多い。
現在の私たちも、そうだ。
私は私。
ワイフはワイフ。
そんな考え方をしているうちに、いつの間にか、
心が離れてしまった。
とくに意見が衝突するというわけではない。
会話が途絶えたわけでもない。
むしろ以前より、よくしゃべる。
が、たがいにどこか理解しあえない。
どこか分かりあえない。
一方的に、私は私の意見を言う。
ワイフはワイフの意見を言う。
それが時として、言い争いになる。
数日前の夜も、そうだった。
原因は、ささいなことだった。
いつもの夫婦げんかだった。
たがいに言いあっているとき、ワイフのほうから、
こんな言葉が出てきた。
覚悟はしていたが、しかし実際にそう言われると、
その言葉が、槍のように胸を刺す。
「別れましょうか?」と。
おとといの夜のことだった。
●初老期
初老期に、どっとやってくるのが、
初老クライシス。
生活のリズムが、大きく変わる。
夢や希望が消え、生きる目的が見えなくなる。
老後への不安が、それに拍車をかける。
病気があれば、なおさら。
なくても、病気への不安は、いつもそこにある。
が、とくにこわいのが心の病気。
脳の病気。
ボケ。
若いときは気力でそれを乗り越えることができる。
が、加齢とともに、その気力も弱くなる。
ごまかしがきかなくなる。
それまで隠してきた精神的な(もろさ)が、表に出てくる。
中には60歳を過ぎて、人格が極端に後退する人もいる。
そうでなくても、50歳を過ぎると、知力も落ちてくる。
知恵や知識も、脳みその下から、容赦なく、こぼれ出て行く。
まるで穴のあいたバケツのよう。
よい例が、英語の単語。
新しい単語など、100に1つも脳に残らない。
(若いときに覚えた単語は、今でも忘れないが……。)
歌にしても、そうだ。
歌詞を覚えるのに苦労する。
メロディーなど、最近の曲は、楽譜を見ても歌えない。
が、何が怖(こわ)いかと言って、「孤独」ほど、怖いものはない。
孤独に苛(さいな)まれるようになると、目の前で、「死」がちらつくようになる。
自殺の道を選ぶ人も多い。
そうでなくても、心を狂わす。
腐らせる。
この時期、離婚率もピークを迎える。
「熟年離婚」という言葉も定着した。
初老クライスに破れ、40年来の縁を切る夫婦も多い。
そこで孤独論。
初老期イコール、孤独との闘い。
「喪失の時代」と位置づける人もいる。
●孤独論
大前提として、孤独でない人はいない。
みんな孤独。
みな、孤独が怖いから、それをごまかして生きているだけ。
はしゃいでいるだけ。
楽しそうに見えるが、それは表面だけ。
うわべだけ。
その日、その日をごまかして生きているだけ。
その下では、孤独が渦を巻いている。
その人が落ちてくるのを、「今か、今か」と、そこで待っている。
手招きをしながら、待っている。
孤独であることを、隠す必要はない。
恥じる必要はない。
あなたは悪人でも、罪人でもない。
ごくふつうの人。
ごくふつうの人だからこそ、孤独になる。
たしかに孤独は、怖い。
恐ろしい。
足下をすくわれるような恐怖感。
が、怖いからといって、逃げてもしかたない。
もがいては、だめ。
苦しんでは、だめ。
逃げれば逃げるほど、孤独はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
追いかけてくる。
もがけばもがくほど、苦しめば苦しむほど、あなたは心をむしばみ、やがて「死」を
考えるようになる。
「孤独」は、いわばガン細胞のようなもの。
心のガン細胞。
あなたを食いつぶし、やがて自らも命を絶つ。
孤独になったら、静かに身を任す。
流れに身を横たえ、流れに身を任す。
身を任せ、とことん孤独の世界に身を横たえる。
行き着くところまで行き着けば、やがて身は止まる。
必ず、止まる。
それまでは苦しい。
苦しいが、歯をくしばる。
が、孤独は、真理を開く扉。
真理にたどりつくための関門。
第二の産道。
母の胎内から外に出るのが、第一の産道。
孤独の世界から真理の世界に出るのが、第二の産道。
とことん孤独になる。
ドン底に落とされる。
そのとき、その先に小さな光が見えてくる。
それが愛という希望の光。
『絶望した人間だけが、その先に希望を見る』と
言った賢人がいた。
同じように、『孤独をくぐりぬけた人間だけが、
真理を知る』。
その世界を見たとき、あなたは大粒の涙を流すだろう。
熱い涙。
そのときは、泣きたいだけ、泣けばよい。
大声で、泣きたいだけ、泣けばよい。
♪孤独、
孤独は、いやなもの。
孤独、
孤独は、つらいもの。
だけど、孤独から逃げてはいけない。
孤独、
孤独は、恐ろしい。
逃げれば逃げるほど、
キバをむく。
あなたに襲いかかってくる。
孤独、
孤独は真理に至る、関門。
一度は通り抜けなければならない、関門。
あのイエス・キリストですら、
孤独に苦しんだ。
「ハンガー(飢え)」という孤独に苦しんだ。
その結果、「愛」にたどり着いた(マザーテレサ)。
♪父は死んだ。
母も死んだ。
友も死んだ。
ワイフは去っていった。
息子たちも去っていった。
残されたのは、私だけ。
私は孤独におびえ、
身を震わす。
誰も愛することができない。
誰にも愛されない。
それが無間地獄。
が、私たちが探し求めている真理は、その向こうに隠されている。
言うなれば、孤独は真理を取り囲む「砦(とりで)」。
巨大な砦。
戦っても、あなたに勝ち目はない。
勝つ必要もない。
あなたはただ静かに、それを受け入れればよい。
それであなたはその砦を、粉々にすることができる。
私はさみしかった。
いつもひとりぼっちだった。
心を開くこともできず、
だれにも心を開かせなかった。
私は孤独だった。
毎晩、暗闇の中で、
体を丸めて眠った。
助けを求めた。
だれも答えてくれなかった。
が、今は、ちがう。
私はその向こうに、小さな光を見た。
「希望」という名の、小さな光を見た。
うれしかった。
心が軽くなった。
穏やかで、やさしくなった。
安らいだ気持になった。
その夜も、ワイフは私に背を向けて寝ていた。
体を固くしていた。
このところ同じふとんの中でも、どうも居心地が悪い。
一体感が消えた。
私はそっとワイフの背中に手をかけた。
反応はなかった。
もう一度、そっと手をかけた。
うるさそうに、ふとんの中に顔をもぐらせた。
そのとき私はこう言った。
「やっぱり、離婚するのはよそう」と。
ワイフは、「ウン」とうなずいてくれた。
(2010年12月31日夜、牧之原市相良・ペンション・リリカルにて)
(はやし浩司 孤独論 孤独 孤独は第二の産道 孤独は関門 孤独という砦 孤独は
第二の関門 はやし浩司)
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●1月1日
今日から2011年。
「2010年」は過去になった。
時刻は、午前5時53分。
私はベッドの中。
トリプル・ルームということになっている。
しかしひとつは、子どもの2段ベッド。
そこで昨夜は、2つのベッドをひとつにし、私とワイフ、それに長男の3人で
雑魚寝をすることにした。
こんな寝方をするのは、30年ぶり?
長男の横顔が、子どもの顔に見えた。
いとおしさが、ググーッとわいてきた。
もうすぐ6時になる。
起きて支度をしなければならない。
今日の初日の出は、ビデオに収め、YOUTUBEにアップする。
が、ワイフは横で、いびきをかいて眠っている。
部屋は西向きで、空の様子がわからない。
それに今朝も冷え込んでいる。
外は寒そう。
●読み直し
することもないので、暗闇の中で、パソコンを開く。
昨夜書いた原稿を読み直す。
そのあと、先の文を書く。
時刻は午前6時を過ぎた。
もう5~10分もしたら、起きよう。
(ぼんやりとしたまま、時間だけ過ぎる。)
初老期を総括すると、こうなる。
「何かをしなければならない」「しかし何をしたらよいか、わからない」
「何かができるはず」「しかし何をしても、空回り」
そういう思いが頭の中で、堂々巡り。
そのうち精神がよどんでくる。
腐ってくる。
取り越し苦労とヌカ喜び。
この2つを、繰り返す。
一本の筋道が見えてくればよい。
その道筋が見えてこない。
それが初老期。
……というか、私の知る初老期。
初老期のみなさん、
苦しいのは、あなただけではない。
さみしいのは、あなただけではない。
みんな、そうだ。
新年、あけまして、おめでとうございます。
新年早々、暗い話で、すみません。
我が家もいろいろあります。
外から見ると、幸福そうな家庭に見えるかもしれませんが……。
大切なのは、ドラマ。
そのドラマに生きる価値があるのですね。
だから失敗を恐れない。
いつもそこを原点にして、前に進む。
それが人生ですね。
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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新年、明けまして、おめでとうございます!
今年も、よろしくお願いします。
2011年元旦、牧之原市(浜松市から車で2時間)
相良海岸のペンションで一泊。
早朝、初日の出を拝みました。
そのときの様子を送ります。
YOUTUBEの中で「相模」と書いてしまいましたが、「相良」のまちがいです。
(HTML)
http://www.youtube.com/watch?v=X43VfLyFq68
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●1月1日の予定
何人か、年始のあいさつに回り、そのあと、映画を観てくる。
『ハリーポッター』。
そのあと今夜は市内の、ビジネスホテルに一泊。
ダブルベッドルームで、5500円。
朝食は無料(クレタケ・イン)。
明日は、ワイフの兄弟会。
明後日は、N町の友人を訪問。
車で2時間ほど、かかるかな?
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
はやし浩司 牧之原市 相模 相模海岸 はやし浩司 2011-01-01
●夫婦げんか
昨日(1月1日)、ワイフとこんなことを誓いあった。
「もう過去のことを持ち出して、けんかするのはやめよう」と。
というのも、私たちの夫婦けんかのパターンは、いつも同じ。
それには理由がある。
私は何でも口に出して、パッパッとものを言う。
ワイフは、それに反して、何でも胸の中にためこんでしまう。
それが臨界点に達すると、爆発する。
何を言っても、反発する。
そのときに、いつも過去の話を持ち出す。
「あのとき、あなたは!」と。
私も負けじと、「お前だって!」とやり出す。
あとはお決まりのエスカレート。
だから誓いあった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【家族の粘着力】
●パサパサ家族
家族どうしの粘着力が、なくなった。
密着力もなくなった。
今の若い世代のもっている「家族観」と、私たちがもっているそれとは、明らかにちがう。
私たちがもっている家族観には、それがよいものかどうかという議論もあるが、もう少し
粘着力がある。
ネバネバというか、ベタベタというか……。
が、今の若い世代の人たちには、それがない。
言うなれば、「パサパサ」。
だからパサパサ家族。
「サバサバ」という言葉もあるが、それとは、少しニュアンスがちがう。
たとえて言うなら、水分が明らかに足りないパンか、うどんのようなもの。
口に運ぶ前に、パサパサと粉になって下へ落ちてしまう。
●お金
よく誤解されるが、「お金をかけたから、子どもは親に感謝しているはず」と考えるのは、
まったくの幻想。
お金がなければ、家族は危機的状況に陥る。
しかしお金で、家族の心をつなぐことはできない。
むしろお金が、家族の絆を粉々にすることが多い。
「親の介護を2年もつづけば、兄弟はバラバラ」という。
それに遺産問題がからむと、メチャメチャ。
金額の問題ではない。
わずか数百万円のことで、兄弟が険悪な状態になることもある。
反対にたがいに数億円近い財産を手にしながら、それでも険悪な状態になることもある。
遺産問題がこじれ、以後、行き来が途絶えた兄弟となると、ゴマンとある。
●心の問題
が、家族がパサパサになったのは、それだけが原因ではない。
ひとつには乳幼児期の母子関係がある。
現在、幼保一元化(こども園)が、国会でも問題になっている。
しかし論じられているのは、制度の問題のみ。
「心」の問題が、置き去りになっている。
0歳児から保育所へ預けるのが、今では常識になっている。
共働きだけが理由ではない。
「母親の育児負担の軽減」が、大きな理由になっている。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
しかしそのため、本来その時期に形成されるべき親子の絆、つまり粘着力や
密着力が犠牲になる。
が、肝心の親たちがそれに気づいていない。
親たち自身も、あの高度成長期の中で、同じような環境の中で、生まれ育っている。
つまり親たち自身も、パサパサ。
親がパサパサだから、子どももまた、パサパサ。
パサパサのパサパサ家族。
0歳から人工飼育された子どもの心が、どうなるか。
これは何もSF映画の世界だけの話ではない。
「心」というのは、学習によって作られる。
●家族の絆
皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。
今の若い家族は、毎週のようにドライブをしたり、行楽を楽しんでいる。
私たちの世代には、想像もできかった豊かな生活である。
が、その分だけ、家族の絆が太くなったかといえば、それはどうか。
むしろ絆は細く、薄くなった。
絆をつくるヒモにしても、ここに書いたようにパサパサ。
いとも簡単に切れてしまう。
「それでもいい」と言うのなら、それはそれ。
たとえば「国民意識」にしても、そうだ。
「地域意識」でもよい。
それもパサパサ。
少し前だが、高校生たちと、こんな会話をした。
「もし北朝鮮が日本へ軍隊を送ってきたら、君たちはどうする」と聞いたときのこと。
みな、こう答えた。
「アメリカ軍が、追い払ってくれる」と。
中には「ぼくは逃げる」と言った高校生もいた。
あるいは「そのために自衛隊がいる」と言った高校生もいた。
さらにある老人(82歳)はこう言った。
現在、長野県で、ひとり住まい。
「年金制度が悪い」と。
つまり息子や娘たちは、「親には年金があるから、ぼくたちはめんどうをみなくていい
と考えている」と。
●団塊世代vs若い世代
世の中が、あまりにも急激に変化しつつある。
ついていくだけでたいへん……というより、不可能。
意識を変えるのは、簡単なことではない。
10年単位(それでも短いほうだが……)の時間がかかる。
だから若い世代の人たちの意識に合わせるということが、むずかしい。
つまり私たちがもっている「家族観」と、今の若い人たちがもっている「家族観」は、
あまりにも違いすぎる。
私は「こうあるべき」と考える。
しかし若い世代は、私たちの家族観を、容赦なく否定する。
理解しようとすら、しない。
戦後のあの苦しい時代の話をしても、すかさずこう言い返される。
「そんなのは自業自得。ぼくらには、関係ない」と。
が、これだけは覚えておくとよい。
若い人たちも、やがて年を取る。
年を取って老人になる。
そのとき、さみしい思いをするのは、結局は、あなたがた自身であるということ。
それがわからなければ、乾いた砂を思い浮かべてみればよい。
あれこそ、まさに、パサパサ。
あなたの人間関係も、そうなる。
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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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