【講演会要旨】
●親を尊敬しない
平成10年というと、ちょうどみなさんが、成人式を迎えられたころのことです。
当時の総理府がした調査、つまり「青少年白書」によりますと、「父親のようになりたくない」と答えた、中高校生が、79%、つまり約80%もいました。
「父親を尊敬できない」と答えた子どもも、55%もいました。
ここで注意しなければならないのは、「55%」という数字です。
では残りの45%はどうかということです。
45%の子どもは、「父親を尊敬している」ということにはなりません。
大半は、「何とも思っていない」ということではないでしょうか。
また「尊敬できない」という子どもの中には、「軽蔑している」という子どもも含まれているはずです。
総理府の調査ですから、「父親を軽蔑している」という調査項目をつけるわけにはいかなかったのでしょう。
だからどこか遠まわし的に、「父親を尊敬していない」という調査項目にしたのだと思います。
それにしても、80%の子どもが、「父親のようになりたくない」と答えているのには、驚きました。
で、「私は母親だから」と思っている人にしても、安心してはいけません。
たしかに子どもにとって、父親と母親の存在はちがいます。
父親は、子どもにとっては、「一滴(ひとしずく)」の関係です。
一方、母親は、子どもを宿し、産み、そのあと乳を与えます。
同じ親でも、絆(きずな)ということになれば、母親のほうが太いということになります。
さらに最近の研究によれば、人間にも、一部の鳥類に似た「刷り込み」(インプリンティング)というのがわかってきました。
生後0か月から7か月くらいまでの間をいいます。
この時期を「敏感期」と言います。
この時期を通して、親子の関係は、本能に近い部分にまで刷り込まれます。
それはそれとして、つまり「一滴」の希薄な関係を、あのフロイトという学者は、「血統空想」という言葉を使って説明しました。
子どもは少年少女期から思春期前夜、学年的に言えば、小学3、4年生ごろを境にして、急速に親離れをはじめます。
男児ですと、それまで学校であったことを、親に話します。
が、このころを境に、急に話さなくなります。
女児ですと、それまで父親といっしょに風呂に入っていたのが、このころを境に、急に入らなくなります。
そのころ、子どもは、自分の血統を疑うようになります。
「私は、あの父の子どもではない」とです。
「私の父は、もっと高貴で、気高い人だ」とです。
これを「血統空想」と言います。
残念ですが、母親との血筋を疑う子どもはいません。
先にも書いたように、母親からは「命」を授かっているからです。
それが脳にしっかりと刻まれています。
が、母親とて、安心してはいけません。
先の総理府(現在の内閣府)の調査でも、それほど大きな差は出ていません。
ちがいは数%程度です。
●親の恩も遺産しだい
さらにショッキングな調査結果があります。
数年置きに、こんな調査がなされています。
総理府の調査結果によれば、「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と考えている子どもが、日本人のばあい、28%前後しかいないということ。
たいはんの若者たち、あなたがた自身の意識ということになりますが、たいはんの若者たちは、「経済的な余裕があれば、めんどうをみる」と答えています。
が、残念ながら、「経済的に余裕のある人」など、今では探さなければならないほど、少ないです。
みな、目一杯の生活をしている。
また目一杯の状態で、結婚し、子どもをもうけます。
私たちの世代と比較するのもヤボなことですが、私たちの世代は、20歳を過ぎるまで、ボットン便所がふつうでした。
トイレットペーパーが世に出てきたのもそのころでした。
では、それ以前はどうだったかというと、「落とし紙というザラ紙」でした。
さらにそれ以前はというと、これは私が小学生のころの話ですが、新聞紙でした。
そういう私ですから、はじめてアパートに住むようになり、水洗便所になったとき、それがうれしくてたまりませんでした。
きれい……というより、臭いがしませでした。
それがうれしかったです。
さらに結婚したときは、中古の軽自動車を買いました。
冷蔵庫と洗濯機だけは早く買いましたが、それ以外のものは、収入に応じて、少しずつ買い足していきました。
が、今は、すべて、「あるのが当たり前」というところから始まります。
つまり目一杯の生活というのは、それをいいます。
ですから「経済的に余裕のある人はいない」ということになります。
言い換えると、「親のめんどうはみない」ということになります。
あるいは『親の恩も遺産しだい』というところでしょうか。
こんな話をしても、みなさんにとっては、耳が痛いだけかもしれません。
が、私は何も今のみなさんを批判するために、ここに立っているわけではありません。
その逆です。
みなさんとて、あの飽食とぜいたくの時代の犠牲者かもしれないということです。
みなさんが生まれたころは、日本は、バブル経済の真っ只中。
高度成長期の流れの中で、この日本は、世界でも経験したことがないほどの反映を謳歌しました。
そんな中、みなさんは生まれました。
それこそ祖父母がやってきて、手をかけ、時間をかけ、お金をかけた。
まさに「蝶よ、花よ」と育てられたわけです。
が、そのあと、日本は長くて暗いトンネルに入ってしまいました。
「失われた10年」と言われていましたが、今では「失われた20年」と言われるようになりました。
「2015年には中国に抜かれるだろう」と予測されていましたが、それよりも5年も早く、中国に抜かれてしまいました。
また国民1人当たりの所得にしても、とっくの昔にシンガポールに抜かれています。
今のままでは、2025年には韓国に抜かれ、国力においては、インドやブラジルにも抜かれるだろうと言われています。
日本がアジアの中心という話は、すでに遠い昔の話です。
アメリカでも、アジアのニュースは、シンガポール経由で入ってきます。
東京ではありません。
シンガポールです。
東京のマーケット情報ですら、一度シンガポールに集められ、そこからアメリカへ入ってきています。
東京証券取引所に上場されている外資系企業も、一時は200社近くもありましたが、今年に入って、とうとう9社になってしまいました。
こういう現実を、いったい、どれほどの日本人が認識しているでしょうか。
……またまた暗い話になってしまいました。
寒いところおいでくださった方には、本当に申し訳ないと思います。
「元気になる話ならいいが、こんな暗い話を聞きにきたのではない」と思っておられる人も多いかと思います。
もう少しがまんして、どうか私の話を聞いてください。
この問題は、そのままみなさんの将来に直結してくる問題だからです。
またそれがわかれば、みなさんの将来、さらには現在の子育てがどうあるべきかがわかってくるからです。
●「親の責任でしょ!」
こんな事件がありました。
こういう不況です。
今では珍しくない事件です。
そのお父さんには、2人の娘がいました。
1人は大学生。
もう1人は、そのとき高校3年生になったばかりです。
お父さんはその数年前、それまで務めていた会社をリストラされ、自分でそれまでに取った資格をもとに、小さな事務所を開きました。
が、最初のころこそはそこそこに仕事がありましたが、数年もすると左前になり、閉鎖ということになってしまいました。
そこでそのお父さんは高校3年生になったばかりの娘にこう言いました。
「お金がないから、大学進学をあきらめてくれ」と。
が、この言葉にその娘が猛反発。
「何を今さら! 借金でも何でもして、私を大学へやって。親の義務でしょ!」と。
この話を私は私のワイフから聞きました。
ワイフの友人の娘です。
そこで私はその夏休みのある日、その娘を私の家に呼びました。
「何という、ドラ娘め!」と。
腹の底では煮えくり返るような怒りを覚え、しかし表情はにこやかに……。
が、私はその高校生の一言で、見方が180度、変わってしまいました。
その高校生は、こう言ったのです。
「だって、先生、私は子どものときから、親に『勉強しろ、勉強しろ』と言われつづけてきたのよ。行きたくもないのに塾へ通わされ、成績はどうの、順位はどうのと、そんなことばかり言われつづけてきたのよ。この状態は中学校へ入ってからも変わらなかった。どうして今になって、『もう勉強しなくていい』と、そんなことが言えるの!」と。
……子どもに向かって『勉強しろ』と言うのは構いませんが、安易に言ってはいけませんよ。
言えば言うほど、あとあと責任を取らされますから。
今ね、学校へ通うことについて、親に感謝しながら通っている子どもは、ゼロとみてよいです。
高校生では、ゼロ。
大学生でも、「ありがとう」と言うのは、お金をもらうときだけ。
たいていの大学生は、社会人となったとたん、「ハイ、さようなら」。
しかしまだそんな大学生は、よいほう。
先日も、こんな話を聞きました。
ある日、突然、息子が彼女を連れて帰ってきた。
帰省するたびに、ちがった彼女を連れてくる。
で、親にこう言ったそうです。
「結婚式をしたいが、お金を出してくれるか?」と。
そこでその親が、「少しくらいなら……」と答えると、その息子はこう言ったそうです。
「親なら、結婚式の費用を出してくれてもいいだろ!」と。
今はそういう時代なのでしょうか。
私などは、結婚する前から、収入の約半分は実家に送金していました。
今のワイフもそれに納得して、私と結婚しました。
以後、30年近く、実家に、お金を送り続けました。
それ以外にも、法事や冠婚葬祭の費用、すべてです。
ですから私たちは、結婚式をあげていません。
その費用がありませんでした。
●世代闘争
何かが、おかしい。
何かが、狂っている。
あるいは今は、その過渡期ということになるのでしょうか。
この半世紀を振り返ってみると、こんなことが言えます。
(1) 私たちの世代……反権力闘争の時代。
(2) つづくつぎの世代……反世代闘争の時代。
私たちの時代は、反権力との闘いが、大きなテーマになっていました。
安保闘争も、そのひとつです。
しかしよく誤解されますが、あの学生運動に参加した学生にしても、何も共産主義を求めていたわけではありません。
共産主義の「キ」の字も知らなかった。
ただ私たちは、私たちの体をがんじがらめにしている鎖を、解き放ちたかった。
それが反権力闘争へと結びついていったわけです。
が、それも一巡すると、今度は、反世代闘争へと変化していきました。
そのよい例が、あの尾崎豊の歌った、『卒業』です。
「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」というあの歌です。
あの歌には大きなショックを受けました。
「学校」というより、「教育」の否定。
私はそれを感じたからです。
教育というのは、言うまでもなく、先人たちが得た知識や経験を、あとにつづく人たちに伝えていくのが、第一の目標です。
その教育を否定するということは、若い人たちは若い人たちで、まさにゼロからの出発を意味します。
これは若い人たちにとっても、たいへん不幸なことです。
同時に、私たち老人族にとっても、たいへん不幸なことです。
最近のインターネットをのぞいていると、ますます言葉が辛らつになってきているのがわかります。
少し前までは「粗大ゴミ」と言われていましたが、今では、「老害」とまで言われるようになってきています。
社会に「害」を与える存在というわけです。
で、その世代闘争も、今は、一巡しました。
尾崎豊と言っても、今では名前すら知らない人も多いかと思います。
長淵剛にしても、そうです。
では今は何か。
私は「恋愛ごっこ」の時代と位置づけています。
恋愛ごっこ、です。
恋愛こそ、人生の最大の関心ごと。
今の若い人たちは、それしか頭にない。
またそれがすべて。
この話を先に進める前に、ひとつ話しておかねばならないことがあります。
●自我の同一性
思春期から青年期にかけて、最大のテーマといえば、自我の同一性の確立ということになります。
「私はこうありたい」「私はこうあるべき」という、自分像のことを、「自己概念」と言います。
一方、そこには「現実の自分」がいます。
それを「現実自己」と言います。
この自己概念と現実自己をどう一致させていくか。
これが青年期における最大のテーマとなります。
その確立に成功した人は、自分が信ずる道を、力強くまい進することができます。
そうでない人は、そうでない。
中途半端で、訳のわからない人生を送ることになります。
が、これは、発達心理学の世界では、常識的な話です。
で、ここではその先というか、「自己概念」の中身について考えてみます。
問題は「私はどうあるべきか」という部分。
話を戻しますが、私たちの世代では、それがいつも「天下・国家」と結びついていました。
つづく尾崎豊の世代では、「親」と結びついていました。
私が出世主義に対して、家族主義を唱え始めたのも、そのころです。
で、今はそれがどうか?
それが先に書いた「恋愛ごっこ」ということになります。
私がそれを強く感じたのは、あの韓流ドラマがブームになったころです。
今でもブームがつづいていますが……。
あの韓流ブームを知ったとき、私はこう思いました。
「今までの私たちは何だったのか」と、です。
韓国の人たちの反日感情には、ものすごいものがあります。
最初に私がそれを経験したのは、1968年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡ったときです。
以後、韓国の人たちの心は、大きく変わったとは思っていません。
一方、そういう韓国に対して、私たちは「嫌韓」という言葉を使いました。
間にはげしい経済戦争があったからです。
好きになるのは、その人個人の自由ですが、しかしそういう歴史というか、現状を一足飛びに飛び越えて、韓流ブーム?
若い人たちだけではない。
それなりの年配の女性まで、韓国の若い俳優を追いかけまわしていました。
一方で経済戦争。
一方で韓流ブーム。
こうした時代の流れの中に、みなさんがいます。
で、今では、高校生でも大学生でも、政治の話をする人はほとんどいません。
いわんや天下、国家を論ずる人もいません。
世代の話をする人もいません。
するといえば、恋愛。
恋の話。
愛の話。
明けても暮れても、携帯電話片手に、恋愛の話。
これを自我の同一性の中に押し入れてみると、こうなります。
「私はどんな人を好きになるべきか。またどんな人が私を好きになるべきか」。
それが「自己概念」ということになります。
そして現実に、どんな異性と交際しているか。
どう交際しているか。
それが「現実自己」ということになります。
またこの両者が一致した状態を、「自己の同一性」ということになります。
●変わる家族意識
こうした変化に大きく影響を受けたのが、「家族意識」です。
たとえば私たちの世代は、企業戦士おだてられ、会社一筋で仕事をしてきました。
「一社懸命」という言葉も、生まれました。
当時の私たちが、「仕事と家庭とどちらが大切か」と聞かれれば、まよわず「仕事」と答えたものです。
が、それが大きく変化したのが、ちょうど2000年ごろです。
この2000年を境にして、「仕事」と「家族」の地位が逆転しました。
それ以後は、「家族のほうが大切」と考える人のほうが多くなり、今では、80~90%の人が、「家族」と答えています。
が、ここで重要な欠陥が生じてきました。
先ほども言いましたように、私が説いた「家族主義」とは、異質のものになってきたということです。
私はそれまでの「出世主義」に対して、「家族主義」という言葉を使いました。
が、それが行き過ぎてしまった。
「家族を大切に」という思いが行き過ぎてしまい、「仕事はどうでもいい」というふうに考える若い人たちが多くなったということです。
仕事もしない、かといって、将来の準備もしない。
そんな若い人たちの出現です。
しかもその数が、年々ふえています。
推定64万人もいるということです(2009年版「青少年の現状と施策」・青少年白書)。
が、私が言う問題は、そのことではありません。
「仕事より家族が大切」というのは、よく理解できます。
またそれに異論を唱えるつもりはありません。
が、最近の若い人たちが使う家族主義には、ひとつ大きな欠陥があります。
欠陥というより、世界の常識からはずれている、と言ったほうが正確かもしれません。
つまりその家族主義には、両親の姿がないということです。
家族主義……簡単に言えば、夫婦とその子どもだけの世界をいいます。
それぞれの両親は、その外の世界に置かれます。
あるいは、その世界の中に入っていない。
しかしこれは世界の常識ではありません。
冒頭のところで、「どうしても親のめんどうをみる」と答えた若者は、28%と書きました。
この数字がいかに低いものであるかは、世界の青年の意識と比べてみるとよくわかります。
イギリスの若者…66%、アメリカの若者…64%、という数字と見比べてみてほしい。
たとえば内閣府(平成21年)の調査によれば、「将来、どんなことをしてでも親のめんどうをみる」と考えている日本の青年は、たったの28%。
日本だけが突出して(?)、低いのです。
ね、おかしいと思いませんか。
世界でもっとも豊かな繁栄を築いた日本ですよ。
みなさんもそうだったでしょうが、食べ物にも困らず、ほしいものは何でも手に入れることができた。
本来なら、昔風に言えば、親の恩をもっとも強く感じてよいはずの世代です。
その世代が、「経済的に余裕があれば……」と。
繰り返しになりますが、経済的に余裕のある人はいません。
裏を返して言うと、「めんどうはみない」ということです。
どうしてでしょうか?
……というよりも、この問題は、そのままみなさんの近未来の問題ということになります。
中には、「私はだいじょうぶ。私と子どもたちとは、深い絆で結ばれているから」と。
そんなふうに考えている人も多いかと思います。
しかしそれは幻想。
まったくの幻想。
それがわからなければ、あなたがた自身の心の中をのぞいてみればいいでしょう。
先ほどあげた数字は、まさにここにいるあなたがた自身の心だからです。
平たく言えば、この先、私たちの世代はもちろんのこと、あなたがたの世代も、やがて60%以上が独居老人、もしくは無縁老人になり、孤独死を迎えるのです。
孤独死をしても、すぐ発見されるというわけではありません。
平均発見日数は、6日です。
私の知人の老人などは、死後30日を経て、やっと発見されたそうです。
そういう現実が、そこに迫ってきています。
あなただけが無縁と、どうして言えるでしょうか。
●苦労論
では、どうすればよいのでしょうか。
私たちはどう考え、その中で、どう子育てを考えていったら、よいのでしょうか。
が、その前に、ひとつだけ考えなければならない問題があります。
それが原因です。
どうしてそうなってしまったか、ということです。
そのひとつが、「苦労」という言葉に集約されます。
苦痛を乗り越える経験ということになります。
その苦労をしていない。
……と書くと、反発する人も多いかと思います。
「私は苦労した」とです。
しかし苦労にも、2種類あります。
自分のための苦労と、他人のための苦労です。
おおざっぱに言えば、そういうことになります。
で、たとえば受験勉強をし、有名な、こういう言葉は本当に好きではありませんが、一流大学に合格したとします。
これは自分のための苦労ということになります。
一方、無私無欲でするボランティア活動というのがあります。
これが他人のための苦労ということになります。
今の若い人たちは、子どものときから、後者の他人のための苦労というのをしていない。
(以下、つづく)
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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