【山荘にて】(はやし浩司 2011-01-21)
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今夜は、8時過ぎになって、山荘へやってきた。
途中、コンビニで菓子類を買った。
山荘へ着いたのが、午後9時、少し前。
途中、車の中でワイフとあれこれ話す。
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●苦労論
よく「私は苦労しました」と言う人がいる。
「苦痛に耐えること」。
それを「苦労」という。
それはそれで、よくわかる。
しかし「苦労」というときには、2つの意味がある。
(1) 自分のための苦労。つまり私利私欲のための苦労。
(2) 他人のための苦労。つまり無私無欲に根ざした苦労。
その中間にあるのが、(3)家族(配偶者、子ども、親)のための苦労ということ
になる。
たとえば1人の学生が、受験勉強で苦労したとする。
夜遅くまで勉強した。
進学塾にも通った。
しかしこれは自分のための苦労。
上の分類法によれば、(1)の苦労ということになる。
(中には、将来、家族を支えるためにと考え、受験勉強にいそしむ学生もいるかも
しれない。
しかし今どき、そんな学生は、探さなければならないほど、少ない。)
一方、世話好きで、いつも他人の心配ばかりしている人がいる。
あれこれ仕事を引き受けて、忙しい毎日を送っている。
自分の時間は、ほとんどない。
残ったお金も、あまりない。
明けても暮れても、ボランティア。
そういう人もいないわけではない。
上の分類法によれば、(2)の苦労ということになる。
その間にあって、(3)子育てで苦労している人がいる。
子どもの学資を稼ぐために、パートに出て働く母親を想像すればよい。
子どもは「他人」ではない。
しかし「自分」でもない。
入れ込みの程度にもよるが、他人にかぎりなく近い子どももいれば、自分に
かぎりなく近い子どももいる。
どうであるにせよ、「自分」ではない。
「他人」でもない。
そこであなたのばあいは、どうだろうか。
「私は苦労しました」と言うときのあなたを考えてみてほしい。
そのときあなたは、どういう苦労を、「苦労」と言うだろうか。
たとえば私のワイフは、いつもこう言う。
「私は、あなたで苦労したわ」と。
が、これは(1)の苦労だろうか。
それとも(2)の苦労だろうか。
あるいは(3)の苦労だろうか。
●「私は苦労した」
それを話すと、ワイフはこう言った。
「『私は苦労した』と言う人は、たいてい(1)の自分のことで苦労した人よ。
(2)の他人のために苦労した人は、『苦労した』とは言わないわよ。
むしろ楽しんで、そうしているのだから」と。
ナルホド!
ということは、「私は子育てで苦労しました」と言う人ほど、どこかで
私利私欲が、からんでいる。……ということになる。
無私無欲で子育てをした人ほど、「苦労した」とは言わない。
つまりその言葉を聞けば、親と子どもの関係がわかるということになる。
●私のばあい
私のばあい、苦労したといえば、介護ということになる。
しかし介護そのものは、さしたる苦労ではなかった。
あるとき、兄や母の介護をしながら、こう思った。
「子どもの世話より、楽」と。
苦労というより、苦痛だったのは、実姉からの電話。
何がどうということは、ここには書けないが、実姉から電話があるたびに、
心臓が踊った。
手が震えた。
つぎに苦労と言えば、実家への仕送り。
が、その仕送りについても、ある時期までは、むしろ楽しんでしていた。
ワイフも協力的だった。
実母を助ける。
実兄を助ける。
それが楽しかった。
その(楽しさ)が失われたのは、たがいの間の信頼関係が消えたとき。
以後、金銭的な負担というよりは、社会的な負担に苦しんだ。
「それでも仕送りをしなければならない」という思いが、そのまま重圧感となり、
私を押しつぶした。
言い換えると、自分が納得しているばあいには、苦労は苦労ではない。
納得できないときに、「苦痛」は「苦労」に変わる。
その逆でもよい。
●問題は子育て
サイトカイン。
カテコールアミン。
私は脳内ホルモンについては、名前しか知らない。
見たこともない。
手にしても、ただの液体にしか見えないだろう。
が、この2つは、対照的な脳内ホルモンと考えている。
ストレスが慢性的につづくと、脳内は、サイトカインで満たされる。
一方、前向きに生き生きと活動していると、脳内は、カテコールアミンで満たされる。
あるいはその逆でもよい。
それぞれが悪循環、あるいは良循環となって、その人を後ろ向きに引っ張たり、反対に
前向きに引っ張ったりする。
このことは子どもの学習態度を見ていると、よくわかる。
いやな科目を、いやいや学習している子どもは、表情が暗い。
苦労がとたんに、苦痛に変わる。
その逆でもよい。
好きな科目を、前向きに学習している子どもは、表情が明るい。
苦労を苦労とも思わない。
むしろそれを楽しんでしている。
となると、自ずと結論が出てくる。
それが苦労であるかどうかは、その人の(心構え)で決まるということ。
子育てについても、しかり。
いやいや子育てをしていれば、苦労は苦労になる。
楽しく子育てをしていれば、苦労はそのまま霧散する。
で、そのちがいは何かといえば、「愛情」の問題ということになる。
●私とワイフ
ワイフはこう言う。
「私の子育ては楽だった」と。
私はこう言う。
「ぼくは苦労ばかりしていた」と。
つまりワイフは、3人の息子たちを愛情でくるんでいた。
一方、私は、生活の心配ばかりしていた。
自営業というのは、そういう職種をいう。
(たぶんに、弁解がましいが……。)
今日、病気か事故で倒れれば、万事休す。
明日からは、路頭に迷うことになる。
毎日が、そういうきびしさとの闘いだった。
そう言えば、私の母はいつもこう言っていた。
「サラリーマンの人たちは、気が楽でいいわねえ」と。
サラリーマンの人たちは、そうは思っていないかもしれない。
サラリーマンの人たちには、サラリーマンの人たちの苦労がある。
しかし自営業の人たちから見ると、たしかにそう見える。
上り坂のときはよいが、下り坂になると、とたんに苦労が倍加する。
話がそれたが、親子についても、そこに細くても一本の絆があれば、救われる。
しかしそれが消えたとき、苦労は苦痛に変わる。
その逆でもよいが……。
私には息子たちを愛情でくるむような、心の余裕はなかった。
●苦労
ところで義兄は、いつもこう言う。
「今の若い人たちは、苦労をしていないからねエ」と。
つまり「だから、今の生活のありがたさがわからない」と。
けっして若い人たちを責めているのではない。
むしろ逆。
「……だから、かわいそう」と。
「幸福」というのが、そこにあるのが当たり前と考える。
だから不幸に対する、耐性というものがない。
たとえば便器。
私たちの世代は、ボットン便所から出発している。
尻を拭く紙も、ザラザラの再生紙。
それ以前は、新聞紙。
だから最近の便器を見ると、臭いがしないというだけで、夢のように感ずる。
が、今の若い世代は、それを知らない。
少しでも汚れていると、「生理的な嫌悪感を覚える」と言う。
生理的な嫌悪感?
いったい、それは何?
私はそういう言葉を聞くと、人間的な嫌悪感を覚える。
で、ときどき、こう思う。
「今のような豊かさが持続できれば、それでよし。
そうでなければ、この先、苦労の連続だろうな」と。
●耐性
そんな話をしていると、ワイフがこう言った。
「私ね、父の酒を買いにいくのが、私の仕事だった」と。
ワイフの父親は酒豪だった。
で、ワイフは子どものころ、一升瓶をもって、いつも酒屋へ酒を買いに行ったという。
一升瓶をもっていくと、酒屋がそれに酒を注いでくれた。
その一升瓶を、また家にもって帰る。
当時の日本では、どこにでも見られた光景である。
それについて、私が「今の若い人は、それをしないね」と。
私「しないとうか、親がさせないね」
ワ「そんなことをさせたら、虐待と騒ぐ人もいるかもね」
私「……そうだろうな。ぼくでも、そこまではしなかった」
ワ「そういう生活感が、子どもの世界から消えたのよ」
私「そうだね」と。
あくまでも比較の問題だが、私のワイフには、そういう耐性がある。
私よりはるかに、ある。
耐性のある人は、苦労をしながらも、苦痛を減少させることができる。
耐性のない人は、多少の苦労をしただけでも、大げさに騒ぐ。
私とワイフのちがいには、この耐性が大きくからんでいる。
言い換えると、「苦労」について考えるとき、「耐性の問題」も無視できないということ。
●結論
このあたりでひとつの結論が出てくる。
こと、子育てにおいては、「子どもには苦労をさせろ」と。
その苦労が耐性を生む。
苦痛を乗り越える力となる。
しかしその苦労といっても、冒頭に書いた(1)のような苦労では意味がない。
(2)のような苦労をいう。
たとえば受験勉強を熱心にして、有名大学(こういう言葉は本当に不愉快だが)に
入学したとしよう。
子ども自身は、自分では苦労したと思っているかもしれないが、それはここでいう
苦労ではない。
平たく言えば、自分の欲望を満足させただけ。
だから当然のことながら、そこからは感謝の念は生まれない。
それ以後、親が爪に灯をともしながら学資を送ったとしても、その子どもにとっては、
当たり前。
中には、「親のために大学へ行ってやっている」と豪語(?)する子どもさえいる。
(これは本当の話だぞ!)
それもそのはず。
幼児のときから、「ほら、英語教室!」「ほら、ピアノ教室!」と。
中には、七五三の祝いに、親戚中を呼び集め、披露宴を開く親さえいる。
子どもをかえって不幸にしながら、その事実にすら気がついていない。
最後に、こんな話。
これから書くことは、事実。
「事実」と断らなければならないほど、そうでない人には信じられないような話。
こういう話。
毎週のように、嫁が、夫の実家にやってくる。
(嫁が、夫の実家にやってくるのだぞ!)
そして夫の両親から、小遣いをせびる。
「夫の給料だけでは、生活が苦しい」と訴える。
「夫の給料だけでは、子どもを進学塾へ通わせることもできない」と訴える。
で、最近、こんなことがあったという。
いつものように、嫁が夫の実家にやってきた。
こう言った。
「100万円が必要。100万円、出してほしい」と。
が、両親といっても、80歳を過ぎている。
義父は元薬剤師。
義母は元看護士。
財産があるといっても、無限にあるわけではない。
そこで母親(=夫の母親)が、5万円を渡すと、その嫁は、「それでは足りない!」と言い、
その5万円を机の上に置いたまま、家に帰ってしまったという。
ドラ娘も、ここに極まれり!、というような話である。
苦労を知らない人間というのは、そうなる。
そんな人間には、死ぬまで「幸福」は訪れない。
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2011年1月22日土曜日
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