●映画『ぼくが結婚を決めたワケ』(1-16)
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午前中、街へ行く用事があったので、そのついでに
劇場で映画を観てきた。
『ぼくが結婚を決めたワケ』というのが、それ。
軽いタッチのホームドラマ風の映画。
気楽に観る映画ということで、星は2つの★★。
気軽に楽しめた。
で、映画を観たあと、ワイフとこんな話し合いをした。
もし友人の妻が浮気をしていると知ったら、
どうするか、と。
ワイフは、「よく考えて、ケースバイケースね」と。
映画も、親友の妻の浮気がテーマになっている。
親友の妻が、若い男生と、浮気を重ねている。
それを知ったその男は、親友に告げるべきかで、苦しむ。
悩む。
『ぼくが結婚を決めたワケ』というのは、そういう映画。
で、あなたならどうするだろうか。
親友の妻が、若い男生と浮気をしているのを知ったら、
あなたはどう考えるだろうか。
どう行動するだろうか。
が、ここでひとつ誤解してはいけないことがある。
映画の中では、「浮気」がテーマになっている。
親友の妻の浮気をからませながら、ストーリーが
展開していく。
が、本題は、「誠実さ」。
浮気の前提として、夫はどこまで妻に誠実で
あるべきか。
友は親友に、どこまで誠実であるべきか。
(当然、誠実であるべきだが……。)
浮気の問題は、あくまでも、その結果として、
自然に処理されるべきもの。
その「誠実さ」に、英語国では、たいへんシビア。
「ウソ」をたいへん、嫌う。
「ウソも方便」と考える日本人とは、ここが
大きくちがう。
「本音と建て前」にしても、そうだ。
そのあたりのちがいをよく知った上でこの映画を観ないと、
日本人の私たちには、この映画は理解できないだろう。
「どうしてここまで?」となってしまうだろう。
さらに言えば、「誠実さ」を問題にしない日本人に
してみれば、「浮気」は、それほど重大事ではない。
ただの「浮ついた遊び」。
今でもバーやクラブで遊ぶ程度なら、浮気ではない。
そう考える男たちは多い。
戦前まで、男たちは愛人の数によって、「力」を競った。
そういう名残は、今でも日本のどこかに残っている。
一方、夫の浮気を知りつつ、体面を重んじる女性は多い。
「家庭」とか、「家族」とか、形にこだわる。
つまり「夫の浮気、即、離婚」と考える女性は、少ない。
総じて言えば、日本人の辞書には、「誠実」という言葉がない。
だから平気でウソをつく。
表面(おもてづら)を裏面(うらづら)を使い分ける。
しかしこうした二面性というのは、日本以外では理解されない。
「奇異なる民族」という言葉も、そこから生まれた。
「どうして白人は、浮気ごときでこうまで大げさに
騒ぐのか」と。
この映画を観て、もしあなたがそう感じたら、
あなたもその「奇異なる民族」の1人ということになる。
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●浮気
私は浮気をしている「男」を信用しない。
妻でさえ、平気で裏切っている男である。
友人を裏切ることなど、何とも思っていない。
だから信用しない。
浮気をしていると知ったときから、一線を引く。
が、中には、バカ(養老孟司の言葉)がいる。
平気でこう言う。
「なっ、林、若い女はいいぞ。いっしょに遊びに行くか?」と。
半ば得意げに、そう言う。
だからバカ。
しかしそうした常識をひっくり返したのが、小説『マディソン郡の橋』。
それについて書いた原稿がある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●母親がアイドリングするとき(中日新聞発表済み)
●アイドリングする母親
何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。
結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。
●マディソン郡の橋
R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。
つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。
●不完全燃焼症候群
心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。
昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。
●思い切ってアクセルを踏む
が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。
「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。
勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●真剣かどうか?
見た目には「浮気」でも、真剣かどうかで、中身は変わる。
「真剣」というのは、内なる「生」に基づいているかどうかということ。
「生」が発する叫び声に基づいているかどうかということ。
それがあれば、浮気は浮気ではない。
そのよい例が、R・ウォラーの『マディソン郡の橋』ということになる。
映画『マディソン郡の橋』を観てみるのもよい。
もしそれさえ「悪」と否定されてしまったら、人間は人間でなくなってしまう。
だから私はときどき、こう言う。
「どうしても浮気をしたかったら、命がけでしたらいい」と。
そう、命がけ。
それができないようであれば、やめたほうがよい。
夫や妻への誠実さを優先させ、ぐいとがまんする。
●最初の命題
さて、最初の命題。
親友の妻が浮気をしていると知ったら、あなたはどうするか。
実のところ、私は今までそういう経験を数度、している。
親友ではないが、近い知人である。
で、私のばあいは、今までそうした事例を、黙認というか、無視してきた。
バカな伯父がいて、私に彼の愛人を自慢げに紹介してくれたこともある。
あるいはある会社の社長に呼ばれて、小さな割烹へ行くと、そこにその社長の愛人が
同席していたこともある。
が、そのつど私は、こう考えた。
「へたに騒いで、ことを荒立てたくない」と。
が、親友だったら、どうか。
もっとも親友といっても、数名程度しかいないが、そういう親友の妻が浮気をしていると
知ったら……。
やはり映画の中にもあったように、まず最初に、親友自身にではなく、浮気をしている
妻に警告するだろう。
「あなたの夫のために、浮気をやめなさい」と。
親友に告げるかどうかは、そのあとの状況による。
それで妻が浮気をやめたのなら、そのままにしておく。
が、それでもやめなかったら……。
そのあとの展開は、映画のストーリーと同じになるだろう。
言い替えると、映画『ぼくが結婚を決めたワケ』は、そういう意味では、たいへん常識的
な映画ということになる。
(あくまでも私の常識に照らし合わせて……という意味だが。)
●本能の奴隷
ともあれ、その映画を観ながら、こう考えた。
「みな、本能の奴隷だな」と。
私のように本能、つまり性欲から解放されつつある人間からみると、どの人も、本能の
奴隷のように見える。
本人たちは意識していないかもしれないが、まさに奴隷。
奴隷となって、ドタバタ劇を演じているだけ。
「私」と思い込んでいるだけで、その実、「私」はどこにもない。
若い人たちにこんなことを言っても、理解されないだろう。
「私は私」と思い込んでいる。
思い込んだ上で、行動している。
恋愛にしても、それにつづく結婚、育児にしても、そうだ。
が、それが無駄とか、虚しいとか言っているのではない。
私が言いたいのは、その逆。
つまり本能の奴隷であるがゆえに、そこから無数のドラマが生まれる。
私たちがなぜ、今、ここで生きているかと言えば、そのドラマに価値を見出すからである。
もしあの映画『タイタニック』に、ジャックとローズが出てこなかったら、あの映画は
ただの船の沈没映画で終わってしまっていたはず。
あの映画を観て涙を流す人はいなかっただろう。
言い替えると、それが本能に基づくものであれ、何であれ、「真剣さ」こそが大切。
その真剣さが、ドラマを、光り輝かす。
人間が織りなす無数のドラマを、光り輝かす。
『マディソン郡の橋』を観れば、それがわかる。
その真剣さについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞発表済み)。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●今を生きる子育て論
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。
たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。
こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。
ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。
この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。
もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。
ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。
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●高校野球に学ぶこと
懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。
私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。
私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪その人はどこにいる。私たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」と。
それから30年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。
「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四節)と。
つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」と。
そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす……。
私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。
言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしかない。
あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 今を生きる 高校野球 はやし浩司 マジソン郡の橋 マディソン郡の橋 ドラマの価値)
Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年1月16日日曜日
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