【思春期の女子の心理】(理性と本能の葛藤期)
●正常vs変態
昨日、中3のNさん(女子)が、私にこう聞いた。
「先生は、変態か?」と。
で、私は、「そうだ」と答えた。
が、それを聞いて、まわりにいたみなが、「ヘエ~~?」と笑った。
N「先生って、変態だったの?」
私「そうだよ。でもね、この世の中に、正常な人というのもいないの。わかるかな。精神医学の世界でさえ、(正常)の定義付けを、あきらめてしまった」
N「じゃあ、みな、変態ってこと?」
私「そうじゃない。絶対多数の、平均的な人というのは、たしかにいる。そういった人たちが、自分たちを正常といい、自分たちの外にいる人を、変態という。しかしそれこそ、偏見だよ」
つまり正常か変態かというのは、相対的なちがいでしかない。
大切なのは、たがいに認めあうこと。
●性の世界では
とくに性の世界では、正常も変態もない。
その男女が、(べつに男女でなくてもよいが……)、それぞれに納得していれば、正常も変態もない。
そういう判断をくだすこと自体、ナンセンス。
もう少しわかりやすく言うと、こうなる。
性の世界は、きわめて言うなれば、「動物的な世界」。
その動物的な世界に対して、大脳の前頭連合野が支配する「理性の世界」がある。
この2つは、常に対立関係にある。
その理性の世界と、動物的な世界が、はげしくぶつかりあう。
理性は、動物的な行為を、「変態」と位置づけて、攻撃する。
つまりそれは、脳の内なる世界で起きている、本能と理性の戦いそのものということになる。
……という少しむずかしい話をしてしまった。
Nさんは、ポカーンとした表情で私の説に耳を傾けていた。
が、頭のよい子である。
その日も、「数学のテストで1番を取った」と喜んでいた。
●思春期
思春期には、本能と理性が、脳の中で、はげしい葛藤を繰り返す。
(そうでありたい私)と(そうでありたくない私)。
あるいは(私)と(得体の知れない私)。
これらが脳の中で、はげしい葛藤を繰り返す。
が、結局は、本能が勝つ。
理性の力は、それほど強くない。
思春期においては、とくにそうで、理性の力など、台風の風を前にしたパラソル程度の抵抗力しかない。
一風吹いただけで、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。
私「それにね、脳の世界というのは、きわめて多様性に富んだ世界なんだよ。ニューロン(神経細胞)から伸びるシナプスの数のほうが、DNAの数より、はるかに多い。脳の働きだけは、DNAのコントロールを受けないということ。わかるかな?」
N「……わからない」
私「もしDNAが、人間の思考の内容まで決めてしまっているとしたら、人間は、その範囲でしか、ものを考えることができない。虫や魚などは、そうかもしれない」
N「人間は、自由にいろいろなことを考えられるということね」
私「そうだ。さすが君は鋭い。その(自由)こそが、人間がもつ(多様性)ということになる」
N「鳥もそうかしら?」
私「そうだよ。それぞれの鳥は、自分勝手な行動をしているように見えるかもしれないけど、北海道のスズメも、九州のスズメも、スズメはスズメ。その範囲での行動しかしていない」
N「人間はどうなの?」
私「大部分は、北海道の人も、九州の人も、人は人。その範囲での行動しかしていない。が、中に、『私はちがう』と考えて行動を始める人がいるかもしれない。そのとき人は、DNAの支配下から、逃れることができる」
N「つまり、平均的な人は、DNAの支配下にあるということね?」
私「さすが、君は、鋭い。そのとおり」と。
久々に、熱い話になった。
が、私はこういう話をするのが、好き。
●ただの人
いつも多様性を追求する。
それが生きるということに、つながる。
本能の命ずるまま、つまりDNAの支配下で、多数の人と同じことをしているなら、その人は、その程度の人。
ハイデガーの説いた、「ただの人( das Mann)」というのは、そういう人をいう。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
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「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。
話が脱線するが、許してほしい。
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【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward the of the lives. Then how can we find it?
●生きているだけもありがたい
若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。
20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。
もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。
さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。
が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。
●老後の人間性
よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。
その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。
が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。
●老化する脳
そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったことすらわからない。
先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。
このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。
が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。
生きがいの喪失である。
●統合性と生きがい
この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。
では、どうあるべきか?
老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。
この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。
つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。
●統合性の内容
統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。
程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。
「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。
「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。
しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?
真理の探求を例にあげてみる。
●感動のある人生
こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。
しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。
「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。
さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。
肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどることになる。
繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と呼んだ。
「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●本能の奴隷
話を戻す。
50歳を過ぎたころ、私も、「男の更年期」というのを経験した。
簡単に言えば、そのとき思春期以来はじめて、「性」から解放された。
それは実にすがすがしい世界だった。
さわやかな世界だった。
週刊誌などに出ている、女性の裸T写真(T=体)を見ても、ただの脂肪のカタマリに見えた。
そのときのこと。
私はそれまでの私がいかに性の奴隷であったかを知った。
性の奴隷そのもの。
恐らく現在、その渦中にいる若い人たちには、それがわからない。
自分はそれでふつうと思い込んでいる。
が、ふつうではない。
ふつうでないことは、「性」から解放されてみて、はじめてわかること。
私はそれを知った。
もっともその時期を過ぎてからは、再び性欲が戻ってきた。
が、以前ほど、強くはない。
焚き火のあとの残り火のようなもの。
ポッポッと短く燃えては、すぐ消えてしまう。
が、何よりもすばらしいことは(?)、それ以後、本能を理性の力でコントロールできるようになったこと。
●変態論
で、変態論。
むしろ変態でないほうが、おかしい。
もちろんそれによって他人に迷惑をかけることは、許されない。
しかしそうでなければ、どんなことをしてもよい。
どんなことを考えてもよい。
変態か、変態でないか、そんな判断をすること自体、先にも書いたようにナンセンス。
少し前まで、同性愛すら、変態の領域に押し込まれてしまっていた。
Nさんは、「性」に関して、私に変態かと聞いた。
が、こと「性」に関しては、私はかなり平均的と思っている。
が、自分で、そう思っているだけかもしれない。
かなり変態的な人たちからみれば、私など、逆に変態かもしれない。
要するに大切なことは、ありのままの姿で、自然体で考えること。
自然体で行動すること。
それが「おかしい」と言うなら、人間そのものがおかしいということになる。
が、そういうことはない。
最後に、一言。
こういう話は、前にもしたことがある。
もう20年近くも前のことである。
やはり中学3年生の女子が、私にこう聞いた。
「先生は、清純か」と。
で、そのとき、私は、昨夜とはちがい、こう答えた。
「ぼくは、清純だ」と。
するとその女子は、こう言った。
「子どもがいるくせに!」と。
しばらく、その意味がよくわからなかった。
が、やがてその意味がわかった。
その女子は、「子どもがいるということは、Sックスをしたはず。だから清純ではない」と考えた。
つまりこの時期の女子は、ほかの年代の男性や女性とは、かなりちがったものの考え方をする。
最初の話に戻る。
この時期の女子の脳の中では、本能と理性が、はげしい葛藤を繰り返す。
一方、男子は、割とあっさりと理性を投げ捨ててしまうが、女子はそうでない。
この時期の子どもたち、とくに女子の心理を知るひとつの手助けになればうれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 思春期 思春期の女子 思春期の女子の心理 本能と理性の葛藤)
2011/07/06記
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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