●7月13日(化粧=仮面について)byはやし浩司
●占い師
++++++++++++++++++++++
私は幼児の数と同じ数だけ、母親たちを見てきた。
「観てきた」でもよい。
「観察」の「観」である。
だから会った瞬間、その母親(女性)の
奥の性質、性格までわかる。
ついでに知的レベルや、人間的な豊かさ
(浅はかさ)まで、わかる。
わかるものはわかるのであって、これは
どうしようもない。
だから数日前、ワイフにこう話した。
「ぼくが占い師になったら、いい占い師に
なるよ」と。
たまたま食事をしているレストランの前に、
何かの占いをしているブース(小部屋)があった。
食事をしている間も、何人かの若い女性が
出入りしていた(浜松市内、地下街)。
そのブースを見ながら、私は、ワイフにそう言った。
+++++++++++++++++++++
●母親の奥の奥
子どもと母親。
同じ人間……というより、最近では、母親たちが高校生か、中学生に見えるようになった。
ときに小学生に見えることもある。
(反対に、母親たちからは、私がジジイに見えるということになる。)
けっしてバカにして言っているのではない。
年齢差がわかりにくくなったということ。
つまりそれだけ自分が、年を取ったということか。
年を取れば取るほど、10歳と30歳のちがいが、小さくなる。
が、どうもそれだけではないようだ。
ときどき「よく、こんな若い女性が、母親をしているな」と思うときがある。
まるで子ども。
子どもが子どもを育てている。
あるいはよくて、姉と弟(妹)。
そんな感じがするときがある。
つまり子どもを観るような目で、母親を観る。
平たく言えば、母親とて、子どもの延長線上にいる。
「母親も子どももちがわない」と。
●化粧
その母親。
若い人たちだけに、身を飾る。
心を飾る。
それを化粧というのなら、化粧という言葉でもよい。
母親にかぎらず、人間はみな、化粧をする。
顔の化粧だけではない。
心の化粧もする。
しかしいくら化粧をしても、化粧は化粧。
その化粧を見破ることができる。
が、誤解しないでほしい。
化粧が悪いといっているのではない。
化粧をしていない人はいない。
化粧イコール、文化と断言してもよい。
およそ私たちが「文化」と呼んでいるものは、その化粧が昇華したもの。
動物社会からの「分化」を、「文化」という。
より動物的でない状態を、「文化」という。
が、化粧に溺れてしまってはいけない。
化粧をしている「私」を忘れてしまってはいけない。
中には、化粧に溺れるあまり、自分を見失ってしまっている人もいる。
女性にかぎらない。
男性にも多い。
●仮面
心理学の世界では「ペルソナ」という。
「仮面」。
私も今回、3・11大震災を見聞きするうちに、いわゆる「化けの皮」がはがれてしまった。
たった一度の地震と津波で、2万人以上もの人たちが命をなくしてしまった。
いとも簡単に、多くの人たちが命をなくしてしまった。
その衝撃は大きかった。
それから1週間、私は、ものが書けなくなってしまった。
「私とは何か」「人間とは何か」と。
さらには「人間が創りあげた文化とは何か」と。
そこまで考えてしまった。
それまでの私は、きれいごとばかりを書いていた。
しかしそんなきれいごとに、どれほどの意味があるというのか。
報道などによると、3・11震災直後から、離婚する夫婦がふえたという。
それまでかろうじて互いをつないでいた絆が切れてしまったのだろう。
その気持ちは、よく理解できる。
いわゆる「仮面夫婦」と呼ばれている夫婦は多い。
そういう夫婦が、目の前で多くの人が死んだのを知り、自分の仮面に気づいた。
仮面の虚しさを知った。
●化粧に溺れる
ところで「化粧に溺れる」というときには、2つの意味がある。
ひとつは自分の化粧に溺れるという意味。
これについては先に書いた。
もうひとつ、相手の化粧に溺れるという意味もある。
分別もあるはずはずの年配のオバチャンたちが、韓流スターを追いかけ回した。
そういうオバチャンたちは、相手の化粧に溺れたということになる。
しかしこういうオバチャンたちは、まだわかりやすい。
単純というより、単細胞。
実害はないので、好きにさせておけばよい。
が、同時に、そういう人たちは、身のまわりにある価値に気づかない。
そこにすばらしい人がいても、それに気づかない。
わかりやすく言えば、たとえば地位や肩書きだけで、その人を判断してしまう。
画面の「虚像」だけを見て、それを「実像」と錯覚してしまう。
つまり化粧だけを見て、その人を判断してしまう。
それはその人にとっても、たいへん不幸なことでもある。
ものの価値観が相対的になる。
仮面だけをみて、その人を判断する。
自分についても、そうだ。
だから生き方そのものが、世俗的になる。
いつも世俗に振り回されるようになる。
●社会的制裁
少し話は脱線するが、少し前、こんな判決があった。
ある著名な教授が、破廉恥罪で逮捕、起訴された。
有罪だったが、つぎのような理由が付いて、執行猶予になった。
「被告人は、すでにマスコミの世界で仕事を失い、教授職を解職されるなど、じゅうぶんな社会的制裁を受けているので、執行猶予刑に処す」と。
私はこれを聞いて、こう思った。
「であるなら、世俗、ゆまり一般の人たちは、(私も含めて)、日常的に社会的制裁を受けているということになる」と。
私たちは、その(マスコミの世界)の外にいる。
マスコミに相手にされることは、まずない。
(教授職)についても、そう。
ほとんどの人は、地位や肩書きとは、無縁の世界に住んでいる。
少しわかりにくい話かもしれないが、こういうこと。
つまりマスコミにも相手にされず、地位や肩書きのない私たちは、そうであること自体、社会制裁を受けているということになる。
が、こんなバカな話はない。
つまりそんなバカな判決理由は、ない。
こんな論理がまかり通るなら、もし私が同じような罪を犯しても、執行猶予はつかないということになる。
●風評利得
もうひとつ脱線する。
最近、よく「風評」とか、「風評被害」という言葉を耳にする。
原発事故にからんでの言葉である。
しかし風評にも2種類ある。
政治家などは、その風評をうまく利用して、選挙で当選する。
テレビなどに流されるコマーシャルにしても、そう。
わざと風評を流し、それを金儲けにつなげる。
このばあいは、「風評利得」ということになる。
あの東京電力にしても、事故前は、「原発は安全」の風評を、さかんに流していたではないか。
だから今、「風評被害」という言葉を聞くと、私などは、すかさず、「何、言ってるんだ!」と思ってしまう。
つまり一方で風評利得をしたいだけしておきながら、他方で風評被害を訴える。
中身ではない。
風評。
つまり、仮面。
●一線を引く
話を戻す。
私たちはいつも化粧をしてで生きている。
それはそれでしかたのないこと。
が、化粧に溺れてしまってはいけない。
化粧は化粧、中身は中身。
しっかりと区別して、自分や相手を判断する。
わかりやすい例で考えてみよう。
相手にいくら地位や肩書きがあったとしても、それはそれ。
自分にいくら地位や肩書きがあったとしても、それはそれ。
女性にしてもそうだ。
相手が、いくら美しい化粧をしていても、それはそれ。
自分がいくら美しい化粧をしていても、それはそれ。
いつも心のどこかで一線を引く。
その一線がないと、いわゆる「化粧」に溺れてしまう。
相手が見えなくなってしまう。
自分がわからなくなってしまう。
中には、70歳を過ぎても、一流大学を出たことを鼻にかけている人がいる。
が、まわりの人は、相手にしていない。
相手にしていないが、自分は相手にされるべきと思い込んでいる。
そのおかしさ。
そのあわれさ。
そうなる。
●占い師
若い母親(女性)たちは、私を相手にしない。
それがこのところ、自分でもよくわかる。
通りで一瞬、視線がこちらを向くことはある。
しかしたいていそのまま、視線をそらしてしまう。
私はジジイの上を行く、さらなるジジイ。
一方、そのジジイは、若い母親(女性)たちの心の動きが、手に取るようによくわかる。
動きだけではない。
過去も、生い立ちも、心情も、ものの考え方も……。
さらに言えば、性質も性格もわかる。
手に取るように、よくわかる。
いくら化粧をしていても、そんなのは、腸から出るガスほどの意味もない。
いくらにこやかな顔をとりつくろっていても、「この女性は、かなりのヒステリーもちだな」というところまでわかる。
もっともわかったところで、そこまで。
相手から質問でもあれば、話は別。
しかし私はそのまま、それを心の奥にしまう。
だから、こう思う。
「私が占い師になったら、いい占い師になるだろうな」と。
相手がわかったら、あとは料理にトッピングをかけるように、人生論をその上に載せればよい。
「あなたはこうなりますよ」と。
たまたま食事をしているレストランの前に、何かの占いをしているブース(小部屋)があった。
食事をしている間も、何人かの若い女性が出入りしていた(浜松市内、地下街)。
そのブースを見ながら、私は、そんなことを考えた。
(補記)
幼児と接するようになって、40年になる。
40年!
その幼児、会った瞬間に、その幼児のことが手に取るように、よくわかる。
性格や性質、知的能力はもちろん、家庭環境、さらには、将来起こりうるであろう問題まで。
私はドクターではないが、会った瞬間、「~~障害児」というところまで、わかる。
わかるが、わからないフリする。
バカなフリをする。
親たちにしても、私がそこまでわかるとは思ってもいない。
それがわかるから、私は黙る。
黙って、自分の仕事だけをこなす。
言うなれば、これもニヒリズム。
遠い昔、こんなことがあった。
どうしようもないドラ娘(小学生)がいた。
ドラ娘になればなるほど、結局は損をするのは、その子ども自身。
そこで私はあえてタブーを破り、その子どもの母親に、その子どもの問題点を告げようとした。
するとその母親は、すかさず、私にこう言った。
「あんたは、黙って、娘の勉強だけをみていてくれればいい」と。
つまり「余計なことは言うな」と。
その言葉が今でも、大きなトラウマになっている。
そのつど、このトラウマが口を重くする。
しかし今、このタイプの母親がふえている。
というより、何割かがそうであると断言してよい。
子どもへの批判を、自分への批判ととらえてしまう。
そしてその批判を許さない。
完ぺき主義。
強い自己中心性。
……というふうに、私はずっと子どもだけを観てきた。
しかし今、それが親の世界にまで広がった。
親のことまで、手に取るようにわかるようになった。
それもそのはず。
私は40年も、その母親たちと接してきた。
つまりそれについて、ここで書きたかった。
何とも歯切れの悪いエッセーになってしまったが、ごめん!
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2011++++++はやし浩司・林浩司
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。