●人間どうしをつなぐ粘着力
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心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。
まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●共依存(改)2011-06-29
酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。
家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。
(補記)
●共依存
依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。
もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。
しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。
夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。
こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。
ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。
つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。
が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。
ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。
「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。
「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。
子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。
ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。
このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。
こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。
親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。
その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。
前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。
「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。
「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。
で、その先は……。
今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。
母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●読み返してみて……
前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「ずいぶんと勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。
言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。
共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。
こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。
●仮面夫婦
「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。
が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしていはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。
●悪妻
私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。
突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。
見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。
が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。
が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。
こんなことがあった。
夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。
夫の両親は、ともに80歳を超えている。
会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。
が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。
●心の病気
こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。
そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。
●心の粘着力
人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。
夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。
最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。
で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。
●ネバネバ
最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。
3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。
一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。
だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。
先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。
●理解のワク
もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。
そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバには、常識では理解できない(思い)が隠されている。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。
●離婚率35・4%
もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。
パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。
一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。
何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。
厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!
この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。
(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。
●二人三脚
私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。
世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。
が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【浜名湖かんざんじ荘にて】2011年6月29日
●ストレス解消
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過度の精神的ストレスが、脳ストレスを引き起こすと言われている。
免疫細胞がサイトカインという悪玉ホルモンを分泌する。
どちらが先で、どちらがあとでもよい。
同時進行の形で、脳ストレスが起こる。
脳ストレス(脳内ストレス)になると、気分が沈む。
重くなる。
ゆううつになる。
で、こうなったら、気分転換を試みるのがよい。
いろいろな解決策があるが、そのひとつとして、ドーパミンの分泌を促すという方法が考えられる。
つまり何らかの形で、欲望を満たす。
ドーパミンは、欲望と快楽を司るホルモン。
(これは私という人間の、素人考え。
しかし現象的には、たいへんうまく説明できる。)
私のばあい、何か新製品を買うこと。
何でもよい。
説明書が、分厚いものほど、よい。
買うことによって、欲望を満足させる。
サイトカインとドーパミンの関係については、知らない。
ほしいものを手に入れたという満足感が、脳ストレスを軽減する。
しかし脳ストレスを甘く考えてはいけない。
うつ病などさまざまな精神的疾患を引き起こす。
長引けば長引くほど、慢性化、重症化する。
だから私には、買い物依存症の人の気持ちがよく理解できる。
買い物依存症の人は、それがほしいから、買うのではない。
買うことによって、欲望を満足させる。
言うなれば条件反射。
アルコール中毒やニコチン中毒と同じ。
同じメカニズムが、脳内で働く。
だから逆に言うと、そういう人たちは、(私も)、すでに何らかの心の病気をかかえているということになる。
心の病気を代償的に解消するために、ものを買う。
先にも書いたように、これは私という人間の素人考え。
あくまでも参考程度に考えてほしい。
+++++++++++++++++++++++
●温泉
このところ、温泉巡りがつづく。
講演に招かれるたびに、それにかこつけて、温泉に泊まる。
先週は、伊豆長岡温泉に一泊した。
「正平荘」という、伊豆でも10本の指に入る名旅館である。
そこで京風割烹料理というのを食べた。
おいしかった。
温泉もよかった。
中庭もすばらしかった。
その私、京料理など、食べたことがない。
どういうものを京料理というのかさえ知らなかった。
遠い昔、一度食べたことがあったはずだが、味は、覚えていない。
で、そのことを、先日、Mさん(女性)に話した。
生徒の母親で、今でも京都弁を話す。
「鴨(丸)ナスのグラタンを食べました」と話すと、「鴨ナスは、京都のものどす」と。
Mさんは、本当に美しい。
父母の間でも、よく話題になる。
で、今日は、ここ浜名湖かんざんじ荘。
先日、ワイフの誕生会をかねて、ここへ来た。
よかった。
それでまた来た。
何と言っても、展望風呂がよい。
浜松イチのローケーション。
温泉で、ゆっくりと体を温める。
浜名湖かんざんじ荘は、いつ来ても、私の期待を裏切らない。
脳ストレスの解消には、最高!
●喧嘩
脳ストレスの話を書いたので、もう少し、その前後を書く。
このところ何かと不愉快なことがつづく。
災難は忘れたころやってくるという。
私がまいた種が原因なら、まだあきらめもつく。
対処の仕方もある。
しかし災難という災難は、私とは関係なく、やってくる。
原発事故もそうだが、頭のおかしな人にからまれるのも、そのひとつ。
先週は、その頭のおかしな人に、2度もからまれた。
そういう人というのは、まともな論理が通用しない。
話しても、無駄。
突発的に錯乱状態になる。
あたりかまわず、怒鳴り散らす。
私は逃げたが、本来なら、殴り飛ばしてやりたかった。
ポカーンと一発、殴り飛ばしてやりたかった。
そういう私は子どものころ、喧嘩が得意だった。
10人くらいの子どもを相手に、たった1人で戦ったこともある。
小学5年生か、6年生のときのことだった。
相手が「決闘したい」と言うから、そこへ行った。
学校の裏手の、山のふもとだた。
そこに10人ほどがずらりと並んで、私を待っていた。
私はそれを見た瞬間、真ん中の親分格の子どもに、頭から突っ込んでいった。
相手に逃げるスキを与えなかった。
相手は、私の頭突きを受け、そのままうしろへひっくり返った。
たぶんそのとき、相手は後頭部をぶったのだろう。
そのまま大声でうめいた。
私は相手を頭突きした勢いを借りて、そのままその場を走り去った。
あとのことは知らない。
知らないが、その相手は、それ以後、私の姿を見ると私におびえるようになった。
そういう思考回路や行動回路が今でも残っている。
だからそういうわけのわからない連中に出会うと、先に書いたように、殴り飛ばしたい衝動にかられる。
●キーボード
もうひとつの解消法として、こうしてパソコンを使って文章を叩き出すという方法がある。
今、使っているのは、ドコモの携帯端末を買ったとき、おまけでもらったパソコン。
TOSHIBAのダイナブック。
性能はそれなり。
しかしワープロとして使う分には、問題はない。
キーボードのタッチ感が心地よい。
私は、パソコンは、キーボードのタッチ感で選んでいる。
……そういえば、将来的には、現在のようなキーボード付のノート(ミニ)パソコンは、姿を消す運命にあるそうだ。
あと4~5年で、タッチパッド式のパソコン(iPadなど)に置き換わるとか。
何かのパソコン雑誌に、そう書いてあった。
が、それはどうかな?
そうなるかな?
キーボードの感触を楽しむために、パソコンを使う人もいる。
ピアノだって、そうだ。
タッチパッド式の鍵盤など、どう考えても、おもしろくない。
たぶん私はそういう時代になっても、キーボード付のノート(ミニ)パソコンを使いつづけるだろう。
●モヤモヤ
思いついたことを、つぎつぎと書いていく。
頭の中にたまったモヤモヤを吐き出す。
これが私には、よいストレス解消法になる。
今が、そうだ。
読んでくれる人には、申し訳ない。
しかし読者の方を利用しようなどという、失礼な思いは毛頭ない。
できるだけ何か、役に立てることを書きたいという気持ちは、ある。
たとえば今、私がここに書いたストレス解消法が、だれかの役に立てばよいと願っている。
脳ストレスにしても、それが脳ストレスによるものと気づかないまま、それに振り回されている人は多い。
が、少し慣れてくれば、(もちろんその知識も必要だが)、自分で自分の脳の中の様子を客観的に知ることができるようになる。
脳の機能そのものが、重ぼったくなってくる。
不平、不満が多くなる。
こだわりが強くなり、ささいなことで悶々と悩んだりする。
ものごとを悪いほうへ、悪いほうへと考える。
……まさにうつ病の症状?
が、甘く考えてはいけない。
サイトカインの分泌が慢性化すると、免疫細胞の活動が鈍くなる。
免疫機能が低下する。
その結果、がん細胞が活性化する。
最近では、「がんも生活習慣病」と位置づけられるようになった。
原因の第一は、もちろん、ストレス。
●孤独
最大のストレスと言えば、もちろん「孤独」。
孤独から生まれる、絶望感。
疎外感。
虚無感。
「孤独は心のがん細胞」。
孤独感が高ずると、人は自殺まで企てるようになる。
だから「がん細胞」。
その孤独。
逃げる方法と、闘う方法がある。
ひとつは、自分をごまかして、孤独であることを忘れる。
しかしこれは邪道。
もうひとつは、生きがいを確保する。
が、これがむずかしい。
一朝一夕には、できない。
10年単位の準備も必要。
「定年退職しました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木の植樹をしてきます」というわけには、いかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。
●老人、お断り
老後の最大の問題は、「孤独」ということになる。
今朝も、友人のR先生と話した。
R先生は、産婦人科医として、10年ほど前まで、医者をしていた。
5年ほど前、夫をなくし、それを機会に、現役から引退した。
そのR先生が、こう言った。
「息子がね、タクシーにでも乗って、温泉へ行って来いとよく言います。
でもね、ひとりで温泉に行っても、つまらないし……」と。
そこでピンときた。
ひらめいた。
「そういう1人ぼっちの老人は多い。そういう人たち用の、特別コースを用意すればよい」と。
送迎は、タクシーですればよい。
旅館では、そういう老人たちのための親睦会を開けばよい。
カラオケ大会やダンス教室でもよい。
この先、旅館業が生き残ろうとするなら、老人を考える。
老人をどう取り込むか、それを考える。
方法はいくらでもある。
が、こんなさみしい話もある。
隣の韓国では、こんな旅館がふえてきたそうだ。
旅館にも年齢制限のようなものがあって、「介護者なしの老人の1人客は、お断り」と。
つまり老人は、この先、敬遠される。
そういう流れができつつある。
●金貨金融
先ほど、ニュースサイトをのぞいた。
TBS・News-iに、こんな記事が載っていた。
いわく『2人は、「金貨金融」と呼ばれる新たなヤミ金業を営んでいたのです。
その仕組みはこうです。
和田容疑者の店はまず、金を借りにきた客に相場より高い価格で、かつ後払いで金貨を買い取らせます。
客は、金貨を買い取り業者に持ちこんで現金を受け取る。最終的には、客が後払い金を店に戻す。客は現金を手にするものの、法外な金利を負担する形です』と。
ゆっくりと読んでみたが、(しくみ)がよくわからなかった。
で、2度、3度、読みなおしてみた。
「金」を「ゴールド」の意味と、「マネー」の意味で使っている。
まぎらわしい。
つまりこういうことらしい。
お金(マネー)を借りに来た客に、金貨(ゴールド)を買わせる。
たとえば時価20万円の金貨(ゴールド)を、法定金利の83倍というから、……ウーン、かなりの金額になる。
15~20%(法定金利)の83倍として、4万x約80倍=約320万円。
320万円で買わせる。
客は、その金貨を、別の業者のところへもっていき、そこで売る。
20万円の現金を受け取る。
客は20万円の現金を手にすることができるが、同時に、320万円の借金を背負うことになる。
(法定金利内であれば、1年後に23・6万円だけ返せばよい。)
(注)金銭消費貸借契約における上限金利は、基本的には利息制限法で定めている金利(元本10万円未満は20%、元本10万円以上100万円未満は18%、元本100万円以上は15%)が適用される(All About マネーサイトより)。
しかしこうしたインチキ高利貸しは、30年前にもあった。
手口は、こうだ。
1人の客が、金融業者のところへ、たとえば100万円を借りに行く。
すると金融業者は、その場では金(マネー)を貸さないで、電気店へ客を連れて行く。
そこで片っぱしから、電気製品を買わせる。
高額なパソコンなど。
支払いは、すべてローン。
で、その電気製品を、そのまま買い取り屋へもっていく。
そのとき客も連れていく。
値段の30~50%で、買い取り屋に買わせる。
それで得た現金を、客に渡す。
200万円で売れたら、100万円を客に渡し、残りの100万円を自分のものにする。
買い取り屋は、買い取った電気製品を、「未開封の新古品」として、別の業者に安く売る。
客は、さらなる多額の借金をかかえ込み、やがて自己破産。
私の知人は、最初の借金は、たったの700万円。
1年半後には、それが1億5000万円になり、結局は自己破産に追い込まれた。
●ワル
ワルはいつの世にもいる。
が、こんなワルは、そうはいない。
自分の腎臓がだめになった。
そこで若い男と養子縁組。
その若い男から腎臓を摘出し、自分の体に移植した。
大病院の院長だったというから、開いた口がふさがらない。
なお現在、その若い男は、行方不明。
その若い男は、もうこの世にいないかもしれない。
が、もしそうなら、この医師こそ、本物のワル。
前代未聞のワル。
そのワルと比べたら、金貨金融をするワルなど、……何と表現したらよいのか。
私にはよくわからない。
どちらも、ワルはワルだが、レベルがちがう。
Yahooニュースより、一部転載。
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生体腎移植を巡る臓器売買事件で、逮捕された開業医、堀内利信容疑者(55)が移植を受けた宇和島徳洲会病院(愛媛県宇和島市)を運営する医療法人沖縄徳洲会の顧問弁護士は29日、堀内容疑者が同病院に提出した書類などを公開した。
養子縁組したドナー(臓器提供者)男性(21)が提供を決めた心情を記した手書き文書など7点で、同病院で移植の可否を判断する倫理委員会にも提出された。
弁護士は「倫理委はできる限りのことをした結果、親子関係はあったと判断した」と説明している。(以上、Yahooニュース・2011・6・30日より)
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●6月30日
6月30日になった。
風呂へは、朝5時半から入れる。
朝食は7時半。
家までは20分足らずで帰れるから、9時以後は、ふだんの日常生活。
ちょうど月末。
毎月月末には、ワイフとどこかのレストランで、月末の打ち上げ会をすることにしている。
「今月も、無事、終了!」と。
窓のカーテンを開けると、朝モヤに包まれた浜名湖が目に飛び込んできた。
窓の下の浜名湖では、水上スキーを楽しんでいる人がいた。
ボートが、走る。
そのあとを、波を切りながら、じぐざぐに別の人がスキーを走らせる。
幻想的だった。
ビデオに収めようとしたが、あいにくのバッテリー切れ。
残念!
今日も、暑くなりそう。
昨日は、全国的に、39度近くまで気温があがった。
39度!
もうメチャメチャな気温だが、今ではだれも驚かない。
私が子どものころは、30度を超えたら、真夏日。
それに夏も短かった。
盆の8月15日を過ぎると、秋風が吹くようになり、川の水も冷たくなった。
それが今では、6月に39度!
●新しい試み
数日前から、新しい試みを始めた。
まず動画を撮影する。
教室の子どもたちの様子や、町の風景など。
(昨日は、浜名湖の風景を撮った。)
その風景を背景に、マイクを使って、子育て論を講演風に録音して重ねる。
そうすれば、ビデオを観てくれる人は、私の子育て論を聞きながら、観光も楽しめる。
私のジジ臭い顔も観ないですむ。
で、今度の休みに、浜松市内のあちこちの観光地の様子を、ビデオカメラに収めてみるつもり。
とりあえず浜松城公園あたりがよい。
あのあたりには、いくつかの観光スポットがある。
YOUTUBEでは、最長15分までという制約がある。
そのため録画も15分前後に収める。
それに同じく15分前後の子育て論を、マイクを使って、載せる。
なかなかよい企画だと、自分ではそう思っている。
●生きた証(あかし)
が、ここでふと考える。
「この世界は、どこまで進歩するのだろう」と。
今、私が今、書いていることにしても、10年後には、消えてなくなってしまうかもしれない。
現に、10年間つづけた、Eマガ(電子マガジン)は、この5月末をもって廃刊にした。
Eマガ社(無料版)そのものが、閉鎖になってしまった。
こういうとき大切なことは、過去が消えたことを嘆かないこと。
新しいものに向かって、また歩き出すこと。
今はFACEBOOKとか、TWITTERが、全盛を極めている。
が、それもやがて別のサービスに置き換わっていくだろう。
ただ私のばあい、インターネットを利用する目的がちがう。
FACEBOOKやTWITTERでは、私の目的を達成することはできない。
「文」を書いて、「文」を伝えたい。
「心」を書いて、「心」を残したい。
人間関係の拡大や情報の拡散を図る、FACEBOOKやTWITTERでは、それができない。
だからしばらくはかじってはみたものの、そのまま遠ざかったままになっている。
ただふとさみしさを覚えるのは、先が見えないこと。
「10年後はどうなっているのだろう」「20年後はどうなっているのだろう」と。
それを考えると、さみしくなる。
現在使っているHP(ホームページ)にしても、「金の切れ目が縁の切れ目」。
むしろ無料HPサービスのほうが、より長く原稿を保持してくれるかもしれない。
読者がいるかぎり、つまりアクセスする人がいるかぎり、サービスは存続する。
今すぐというわけではないが、そういうことも考えながら、HPのあり方を考えていきたい。
名誉や地位、それに肩書など、とっくの昔に捨てた。
私は、「はやし浩司がこの世に生きてきたという証(あかし)」を、この世に残したい。
が、それとて、10年もつか、どうか?
●読者からのメール
ネットを開くと、こんなメールが届いていた。
私のYOUTUBEを見ている人からのものだった。
うれしかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
Hi, I am B's father, say hello to you from Shanghai China. My son enjoys your great lesson very much and learns lot from it. He is now in Japan visiting his grandparents (at Ixxxx) and his great grandparents (at Ixxx). You are a great teacher, it's a good luck for children to have a teacher like you. Children have their own little worlds and their own languages, you are the one who can go into their worlds. As a father, I also think it is meaningful to watch your video. Thank you!
私はBの父親です。
上海からあいさつします。
私の息子は、あなたのレッスンをたいへん楽しんでいます。
たくさんのことを学んでいます。
彼は今、祖父母を訪問しながら、日本にいます。
あなたはすばらしい先生です。
あなたのような先生をもった生徒は幸福です。
子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります。
あなたはそういう子どもの世界に入れる1人です。
父として、あなたのビデオを見ることに、意味を感じています。
ありがとう。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
ここに書いてある、「子どもには子どもの世界が、子どもの言語があります」というのは、事実。
子どもを教えるときは、その世界へ入らなければならない。
それができなければ、教えていても、疲れるだけ。
また子どもも反応してこない。
私が言うのもおかしなことだが、私には、それができる。
たとえばショッピングセンターなどでも、目と目が合った瞬間、その子どもの心を、私は捕えることができる。
これは私の特技のようなもの。
つぎの瞬間、子どものほうが、私を見て、ニコッと笑ったりする。
ワイフはそういう様子を見て、よくこう言う。
「あの子、知っている子?」と。
が、私はいつもこう言う。
「知らない子だよ」と。
(付記)
その日の午後、K君兄弟が、私の教室へ来た。
お父さんとお母さんが、水上スキーをしているという話を聞いていた。
で、浜名湖で見た人たちの話をした。
するとあっさりと、こう認めた。
「うん、それ、ぼくのパパとママだよ。
赤と白のボートだろ。
朝、4時半ごろ出かけていって、7時ぐらいに帰ってくるよ」と。
K君の父親は、日本でも1、2位を争う、水上スキーの選手だった。
「トロフィーが、50個くらいあったけど、この前、20個くらい、捨てたよ」とも。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 浜名湖かんざんじ荘)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年7月1日金曜日
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