2011年4月15日金曜日

*What is Education for Teachers?




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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   22日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【日本の教育と日本の未来】(2011/03/08)

●教員の資格とは何か?

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小学校入学を迎え、その年齢の子どもをもつ親たちが騒がしくなってきた。
「うちの先生は、正規教員で、よかった」
「うちの先生は、見習い教員(=非正規教員)なの……」と。

あるいは誤解も多い。
「うちの学校は、非正規教員ばかり」とか、
「教員資格をもっていない先生もいる」とか、など。
(そういうことは、ない。)

今朝の毎日新聞によれば、『文部科学省の調査で、今年度は公立小中学校の教員の
6~7人に1人に上ることがわかった』(2011/03/08、毎日新聞)とある。
「最近は多くなった……」と感じていたが、これほどまでに多いとは、私も
知らなかった。

実は、私の親しい友人の娘も、現在、その非正規教員として小学校で教えている。
「毎日、残業が多い」
「親からの携帯電話へのメールが多く、返事を書くだけで、2~3時間かかる」と。
忙しい割には、給料は少ない。
毎日新聞は、つづいてこう書いている。

『山口県内の県立高校で非常勤講師を務める30代の女性は、昨春から2校掛け持ちで週
3日、計8時間教壇に立つ。年収は百数十万円。教員の給与だけでは生活できないため、
授業の合間を縫って週4日は塾講師と家庭教師のアルバイトをしている』と。

年収が、100数十万円というのは、きびしい。
月額にすると、10万円前後。
『青森県内の公立小学校に勤務する30代の男性は過去6年間、常勤講師と非常勤講師の
不安定な立場を繰り返してきた。非常勤の年は時給2790円』(毎日新聞)だそうだ。

で、友人の娘も、自宅から学校に通っている。
「あと1~2年働けば、正規教員になれるかもしれない」とがんばっている。
が、その採用試験もきびしい。

『(青森県の場合)、10年度は579人が受験して23人しか採用されなかった』とある。

こうした現状の中、学校の教師の中には、ワーキングプアがふえているという。

『北海学園大の川村雅則准教授(労働経済学)は09年、連合北海道と共同で道内の非正
規教員を対象にアンケート調査を行った。608人の回答者のうち、「ワーキングプア」の
基準とされる年収200万円未満の教員が14%に上り、300万円未満に広げると4
3%に膨らんだ』(毎日新聞)と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●私は塾教師

  数字を整理してみる。

(1)非正規教員は、現在6~7人に1人
(2)時給は、2790円
(3)年収200万円以下の教員が、14%
(4)年収300万円未満の教員が、43%

 私の職業は、基本的には塾教師。
「基本的には」と断りを入れるのは、「塾教師だけが収入源ではない」という意味。
若いころは、それだけでは生活ができないということで、いろいろな仕事をした。
最近になって、体力的な限界を感ずるようになった。
子どもたちと接することのありがたさが、理解できるようになった。
今は、子どもたちに教えるのが、生きがいになっている。
だから今は、「私は塾教師です」と、すなおに言うようになった。

 だからこういう数字を見ると、私はすぐこう思ってしまう。
「何も、学校の教師だけが、教師の道ではないはず」と。

●道はひとつ?

 この日本では、学校を離れて道はなく、子どもたちの進むべき道は、ひとつに
かぎられていた。
だから子どもが不登校を起こしたりすると、親は、真っ青になって、あわてた。
が、この10年、事情が大きく変わった。
静岡県の教育委員会も、4、5年前、「一芸論」という言葉を使い始めた。
(「一芸論」は、はやし浩司のオリジナル。
30年ほど前に書いた本の中で、私は、その言葉を使った。)

 世界は、そのころから「教育の多様性」を模索し始めた。
が、この日本では、遅れること、20年。
いまだに「学校絶対主義」「学歴信仰」「学校神話」が、のさばっている。

 何も学校だけが道ではない。
またそうであってはいけない。
子どもがおとなになる道は、無数にある。
その「無数」を、なぜ認めないのか。
親も、そして教師も!

●きびしい塾産業

 今の私なら、そんな学校などすぐやめて、さっさと塾教師になる……と書きたいが、
残念ながら、塾経営も、きわめてきびしい。
ウソだと思うなら、自分で生徒を集めてみたらよい。
40年前ならいざ知らず、今どき、広告につられて入塾してくる子どもなど、いない。
それに塾や進学塾については、寡占化が進んでいる。
またそうでないと、塾経営は成り立たない。

 具体的には、30~40年前には、私の教室の周辺には、10~15教室の塾があった。
が、現在、生き残っているのは、私の教室だけ。
また関東周辺に、以前、「学外研」というすぐれた塾連盟があった。
たいへんアカデミックな連盟で、定期的に会合を開き、活発に活動を繰り返していた。
いちばん多いときは、100くらいの塾長が、メンバーに名前を連ねていた。

 私もそのメンバーに加えてもらったが、今でも塾を経営している人は、ほとんどいない。
昨年、その中の1人の会うことがあった。
消息をたずねると、「みんなチリジリになってしまったなあ」と。
さみしそうだった。
それが現実である。

 となると、つまり「就職」ということを考えるなら、チェーン化した大規模塾しかない。
が、そちらのほうが仕事はむしろきびしい。
もちろん就職もきびしい。
生徒の定着率が悪いと、たいていそのままクビになってしまう。
採用期間も、1年の更新制がふつう。
年齢制限はないが、40代以上の教師は、現実には、ほとんどいない。

 加えて、「教育」と「指導」とはちがう。
受験教育とはいうが、中身は「指導」。
教育とは、本質的に異質のものである。

●口コミとキャリア

 が、私のばあい、60歳を過ぎても、何とか仕事ができる。
今も、している。
40年のキャリアがあるから……と書きたいが、キャリアだけでは、この仕事はできない。
「元○○大学教授」という肩書きを並べたところで、生徒は集まらない。

 が、やはり「キャリア」ということになる。
現在、私の教室に通っている生徒のうち、約30%以上は、OBの子どもたちである。
「子どものころ、先生に世話になりました」と言って、私にその子どもの教育を
任せてくれる。
それがここでいう「キャリア」ということになる。
またそういう親たちが、口コミで、生徒を呼んできてくれる。

 つまりそれだけの「根性」があるなら、「学校などすぐやめて、さっさと塾を開きなさい」
ということになる。
そうでないなら、まだ学校にぶらさがっていたほうが、安全!
無難!

●受験教育化する教育

 学校教育と受験産業。
それについて一言。

先にも書いたように、ちがいは「教育」と「指導」ということになる。
受験産業、とくに進学塾でしているのは、教育ではない。
指導である。
自動車教習所でしている、運転指導と同じ。
親も子どもも、それをよく知っている。
割り切って、通っている。
教える教師側も、それをよく知っている。

 が、だからといって、「教育」が善であり、「指導」が悪ということではない。
2000年以後、それまで無風地帯だったこの浜松市にも嵐が襲ってきた。
中高一貫校の出現である。
それまでは公立高校が「主」、私立高校が「従」、もしくはその受け皿として機能していた。
それが一変した。
今では、小学4、5年生ごろから、受験勉強が始まる。
同時に、それまで高等部しかなかった私立高校が、中等部を併設した。
受験戦争がさらに激化した。
私立高校によっては、進学塾の講師を招いて、進学指導をしているところもある。

 もし今ここで、「指導」を否定したら、日本の学校教育そのものが崩壊する。

●予備校化する高校

 となると「教育とは何か」ということになる。
改めて、教育とは何か。

私たちの古い世代は、「教育があって、受験勉強がある」と考えやすい。
が、今は、その反対。
「受験勉強をカモフラージュするため、教育らしきことをする」。
それが学校教育の基本的な姿勢となっている。
もう15年も前の話だが、こんなことがあった。

 神奈川県で中規模の進学塾を経営している知人から、神奈川県下の
進学高校の学校案内書が届いた。
全部で30~40校分あった。
が、それを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、進学大学と合格者数が、「実績」として明記してあった。
中には別紙の形で、案内書にはさんであるのもあった。
しかしそういう学校は、数えるほど。
(あるいは数年おきに、案内書を印刷しているためかもしれない。)

 私はそれを見て、「高校が予備校化している」と感じた。
が、学校ばかりを責めてはいけない。
親たちが、それを基準にして、自分の子どもの進学先を決めている。
「あの学校はいい学校」「悪い学校」と。
平気でそれを口にする。

●現実と理想

 もちろん「これではいけない」と考える教師も多い。
あるいは教育に情熱を燃やして、教職に就く人も多い。
しかし現実と理想の間には、大きなギャップがある。
「人間を育てる」という大義名分はあっても、形骸化している。
この日本では、「だからそれがどうしたの?」という部分がない。
「人間を育てて、それがどうなの?」と。

たとえば中学3年生をみても、高校受験が、教師と生徒の関係を、粉々に
破壊する。
どう破壊するかは、みなさん、すでにご存知の通り。
大半の中学生は、蹴飛ばすようにして、学校を去っていく。

 わかりやすい例では、進学塾がある。
あの進学塾では、師弟の心温まるヒューマンなドラマは生まれない。
だからある講師はこう嘆いた。

「私は30年以上、進学塾の講師をしていますが、結婚式に呼ばれたことは
一度もありません」と。
「むしろ生徒たちは、仮に一流大学へ進学したとしても、進学塾に通っていたことは、
隠します」とも。

 そうした現実が、学校教育にも及んでいる。
だから尾崎豊が、「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」(卒業)と歌ったときも、
その歌に驚く人がいる一方、その歌を支持する若者も、それ以上にいた。
シングル版も含めると、200万枚以上も売れたという(CBSソニー)。

●親の欲望

 一方、親の欲望には、際限がない。
昔は「教育ママ」と言った。
今は「モンスターママ」と言う。
正直に、「親さえ介入してこなければ、教育という仕事は、すばらしい仕事です」と
言った教師もいた。

 まじめな教師ほど、現実と理想のギャップの中で、苦しむ。
もがく。
そして傷つく。
そこで生まれた言葉が、「10%のニヒリズム」。
どこかの塾教師が、何かの会合のときに、そう教えてくれた。
「教育は、いかに全力投球しても、最後の10%は自分のためにとっておく」と。

 そこでいつも引き合いに出されるのが、あの金八先生。
熱血教師。
しかし実際には、ああいう教師はありえない。

●金八先生

 ある中学校の校長が、こう漏らした。
「ああいう番組が困るんです」と。
つまり親たちは、ああいう番組を見て、理想の教師像を作ってしまう。
現実から遊離する。
そしてその返す刀で、「教師はそうあるべきと決めてかかってくる」と。

 「あの番組のおかげで、教師たちがえらい迷惑をしています」とも。
ある女性教師は、こう漏らした。
「いろいろ言われますが、私たちが休めるのは、授業中だけです。
私は教科主任をしていますが、生活主任の先生に、教科指導はできません。
申し訳なくて、できません」と。
生活主任の教師は、夜中中、あちこちを飛び歩いている。
家庭が崩壊状態の生徒もいる。

 たとえば自分の娘が家出したとする。
そのとき親は、警察へ電話をするのではなく、まっさきに担任の教師に電話する。
「学校の先生は、そういうことをしてくれるべき」と。
そういう家庭のめんどうまで、みなければならない。
つまりクタクタ。
「そんな先生に向かって、どうして教科指導ができますか」(ある女性教師の会の席で)と。

 つまり今、学校の教師は、生徒の生活全般にまで責任を負うようになった。
その負担感には、相当なものがある。
まともな神経をもっていたのでは、勤まらない。
だから「10%のニヒリズム」。

●逆行する日本の教育

 が、世界の教育は、日本の流れとは、逆の方向に進んでいる。
「教師は、学校内での指導には責任をもつ。
しかし学校を一歩離れたら、一切、責任をもたない」と。
システムとしては、大病院の診察室を思い浮かべればよい。
診察室が教室になったと思えばよい。

 生徒が自分の教室にいる間は、教師は指導に責任をもつ。
が、一歩外に出れば、いっさいの責任はなし(アメリカ)。
あるいは教師の連絡先さえ秘密にしている国もある(カナダ)。
「教育は教育」と、割り切っている。
またそうであるからこそ、質の高い教育を教師は提供できる。
医師にしても、そうだ。
患者が診察室から出たら、そこで関係は切れる。
そうであるからこそ、質の高い医療を医師は提供できる。

 つまり金八先生が、あるべき教師の教師像と思ってはいけない。
またそういう教師を求めてはいけない。
あの番組は、そういう誤解を招く。

・・・という意味で、現場の教師たちは、えらい迷惑をしている。

●自分で考える子ども

 となると、「教育とは何か」、それがますますわからなくなってくる。
人間選別機関としての学校。
もの言わぬ従順な民作りとしての教育。
知識詰め込み主義としての教育。
「教え育てる」という観点からは、それでよい。
しかしそれが今、大きな曲がり角に来ている。

 恩師の田丸謙二先生は、口癖のように、こう言っている。
「Independent Thinkerを育てなさい」と。
「自分の頭で考える人」という意味である。
が、これは世界の常識でもある。
欧米では、どこの学校へ言っても、この言葉が、教室の入り口に張り紙にして書いてある。
(「Independent」につづく言葉は、いろいろあるが・・・。)

 が、問題がないわけではない。
「自分で考える子ども」・・・といっても、これはまさに両刃の剣。
オーストラリアの友人(大学の教授)は、こう言った。
「オーストラリアでは、伝統的に子どもの自立(Independent)を
重要視している。
それはそれでよいことだが、オーストラリアでは大企業が育たない理由のひとつにも
なっている、と。

 一方、この日本では、その逆。
教育のシステムそのものが、集団帰属型になっている。
むしろ「自分で考え、個性的に生きる子ども」を排斥する傾向が強い。
少し前まで、(今でもそうだが)、幼稚園などを親の都合で欠席したりすると、
すかさず幼稚園から電話がかかってきた。
「そんなことをすると、後れます」と。

 しかし何から「後れる」のか?
どうして「後れる」のか?
またどうしてそれが悪いことなのか。

●極東の小国

 今朝もアジアの地図を見て、こう思った。
「こんな小さな国が、よくがんばっているな」と。

 中国を体とするなら、朝鮮半島は、大腸。
そう思ってみると、日本は、便秘か何かで、やっと出てきた便のような形を
している。
ブツブツ、ブリブリ、と。

 かなり不謹慎なたとえかもしれないが、そのとき私はそう思った。
そんな国が、第三位にはなったといえ、まだ第三位。
世界第三位の経済大国。
が、その日本。
資源にも乏しい。
国土も狭い。
約80%は、山岳。

 この日本がこの先、生き残っていくためには、マンパワーしかない。
つまり「人間」。
「教育」。
その教育でつまずいていたら、この日本には未来はない。

●教員の資格とは何か

 が、そこにはひとつ、大きな壁が立ちはだかる。
この日本は、世界に名だたる官僚主義国家。
この日本が民主主義国家と思っているのは、私たち日本人だけ。
民主主義、つまり選挙などというものは、いわば「飾り」。
世界の民主主義と比較してみると、それがよくわかる。

 その結果、管理、管理、また管理。

 この日本では何を始めるにも、資格だの、許可だの、認可が必要。
田舎町の小さな駅で、ガイドをするにも、資格(?)がいる。
私が会ったガイドの女性が、そう話してくれた。
あるいは私の実家は自転車屋だったが、今では、床に油が一滴落ちていても、
仕事ができない。
消防法うんぬんという法律が、目を光らせている。
つまり日本人は、みな、管理という見えない糸で、体中をがんじがらめに縛られている。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、そういう社会に住みながら、
だれも息苦しいと思っていない。
思っていても、それを口に出して言う人はいない。
そこで登場する言葉が、「自由」という言葉である。

 悲しいかな、私たち日本人は、いまだかって本物の自由に触れたことがない。
反対に、いまだに、江戸時代のあの封建主義時代を美化してやまない。
封建時代という、あの暗黒の過去すら清算していない。
江戸時代の身分制度が、学歴制度に替わった。

現在、私たちが「自由」と思っているものにしても、戦後アメリカから移植された
もの。
私たち自身が、勝ち取ったものではない。

 つまりその延長線上に、現在の教育制度がある。
で、改めて問う。
「教育とは何か?」と。
また「子どもの教育はどうあるべきか?」と。

●では、どうするか?

 第一に考えるのは、教師の負担の軽減。
日本の医療システムを参考にすればよい。
これは先にも書いた。
またこの方法により、教師は教育により専念できるようになる。
教師は「教育」の専門家である。
雑務に追われ、どうしてその専門性を追求できるというのか。

 第二に考えるのは、教育の自由化。
いまだに「英語教育不要論」がはびこっているのには、驚く。
「英語教育をやめて、国語教育を」とか、中には、「英語教育をやめて
論語を教えろ」と主張する学者もいる。

 だったら、こう考えればよい。
英語を勉強したい子どもがいる。
したくない子どももいる。
英語を学ばせたい親がいる。
学ばせたくない親もいる。
英語を教えたい教師がいる。
教えたくない教師もいる。

 ならば、どうして自由選択制にしないのか。
EUで広く採用されている、クラブ制にすればよい。
基本的な重要教科は、学校で教える。
それ以外の実用的な教科は、クラブに任せる。
もちろん英語クラブへ通いたい子どもは、そこへ通えばよい。

またクラブに払う月謝は、クーポン制(バウチャー券)にすればよい。
ドイツでは、そうしている。
こうして、教育をより柔軟かつ、多様化させる。

 第三に、これがもっとも重要だが、格差社会をなくす。
この格差社会があるかぎり、受験産業は栄える。
また現在の状況で、クラブ制を確立すれば、子どもたちはみな、
受験塾ばかりに通うようになるだろう。

 もちろん能力のある人は、それなりの道へ進めばよい。
しかしそうでない人が、既得権にぶらさがっているから、困る。
「天下りをどう思いますか」というレポーターの質問に答えて、ある官僚は、こう言った。
「私ら、若いころ受験で苦労したから、当然でしょ」(NHKの報道)と。

 これが既得権である。
またその権利を保留した人のことを、「既得権益者」と呼ぶ(「文藝春秋・日本の
論点2011」)。

 こうした人たちは、死ぬまで、国の手厚い保護を受ける。
そうでない人は、そうでない。
その格差を縮める。
教育改革は、そこから始まる。
またそれがないと、始まらない。
現に今、大卒の就職先として、人気ナンバーワンが、「公務員」(文科系)と
いうのは、まことにもって悲しむべき現象と考えてよい。

●カリキュラム

 2010年も、さまざまな実験を重ねてみた。
幼児(年中児・年長児)に、分数や小数を教えてみた。
正の数・負の数も教えてみた。
掛け算や割り算も教えてみた。
が、改めて幼児のもつ学習能力と旺盛な知識欲には驚いた。
底なしとは、まさに幼児の世界をいう。
それがだめだというのは、幼児には、クラッシク音楽を聴かせてはいけないと
言うのと同じくらい、バカげている。

 (私がどういう指導をしているかは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より「BW公開教室」へと進んでみてほしい。)

 そういう幼児の姿を見ると、「では、カリキュラムとは何か」と、
そこまで考えてしまう。
あるいは「カリキュラムほど、いいかげんなものはない」と断言してもよい。
言い方を変えると、「どうしてあんなものに縛られなければならないのか」と。

 教育は、もっと自由であってよい。
自由であるべき。
その「自由」の中から、教師のやる気が生まれる。
生徒のやる気も、つづいて生まれる。
教育のダイナミズムというのは、それをいう。

●非正規教師vs正規教師

 正規教師と非正規教師。
どういう教師を「正規」といい、どういう教師を「非正規」というのか。
が、文科省の教育システムの中に、しっかりと組み込まれた教師を、「正規」というのなら、
これはまちがっている。
またそれほど、恐ろしいものはない。
戦前、戦時中の軍国主義教育を引き合いに出すまでもない。
あるいはどこの独裁国家も、まず最初に手をつけるのが、教育。
それを忘れてはならない。
また私たちは、常に教育を疑ってみる。

 ねらいとしては、まず非正規教師として教師を雇い、教師の資質を確かめる。
不適格教師は、それによって選び落とすことができる。
「安い給料で・・・」というのは、あくまでも副次的なもの。
それが目的で、非正規教師をふやしたわけではない。

 もし財政難を口にするなら、アメリカのように、教師もインターン制にすればよい。
……という方法もあるはず。
アメリカの多くの小学校では、教師+インターン(学生)+当番の親(交替制)
の3人で教えている。

 むしろこの制度、つまり「非教師制度」は、教師そのものを、「もの言わぬ従順な
教師」づくりに利用される危険性がある。
言われたことだけを、きちんとこなし、それでよしとする教師である。
が、そうした教育から、ダイナミックな子どもは生まれない。
「これでいいのかなあ」と思ったところで、思考停止。

 日本の未来は、現在の教育制度をみるかぎり、あまりにも暗い。
「非正規教師」という言葉を見ながら、今朝は、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 日本の教育改革 正規教師 非正規教師 教育と日本の未来)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●追記(田丸謙二先生からの返信)「クリエイティブな教育」について


+++++++++++++++++


田丸謙二先生の名前を原稿の中で使った
ときは、その原稿をかならず田丸謙二
先生に送ることにしている。
これは私のような物書きが守らなければ
ならない最低限のマナーである。
で、前回の原稿を田丸謙二先生に送ったら、
3通の返事が届いていた。


きびしい意見だが、私にはありがたい。


+++++++++++++++++


【1】


林様:independent に考える内容が問題です。creative education 日本に乏しい教育です。
殊に教師が。世界はコンピュータの時代に適応して激しく近代化する変化をリードする教
育をしていますが、日本は立ち遅ればかり。「ゆとり教育」がダメで今度は「探究」をと学
習指導要領に掲げながら碌に出来ない。日本だけ置いてきぼりです。残念ながら。
田丸謙二


論文添付※


【2】

林様:教育の本質的重要性は何か、教育する時間がどうの、待遇がどうの、教員の資格が
どうの、というよりも、もっともっと重要なことがあるのではないでしょうか。現実の問
題にとらわれ過ぎるよりも、です。
田丸謙二。


【3】


林様:膨大なアクセスがあればある程その内容は重要ではないでしょうか。現実問題を知
り過ぎている感じです。「本当の教育」がなんであるかを外にして。孔子が「論語」で言い
ました三楽の一つは本当の弟子を育てることであると、と。頑張って下さい。田丸謙二


【4】


林様:貴君の長い文章を印刷してゆっくり読みなおしました。前便では眠いままに斜め読
みでしたが、ゆっくり読むとさすがによく書かれている感じです。こちらの前便で書きま
したように「教育」の本質的あり方には触れてないのですが、街の話題的な観点からする
となるほどと思える点が少なくありません。日本が国際的に一人前になるのは矢張り「国
の将来は教育が決める」のですから、是非一人前になるよう、そして日本に乏しい「本当
の education 」を根付かせるよう頑張って下さい。
ご健闘を祈ります。お休みなさい。田丸謙二


+++++++++以下、田丸謙二先生の論文(※)より+++++++++++


●クリエイティブな教育を



森嶋教授の言葉:初めにロンドン大学の名誉教授だ
った森嶋通夫先生の文章を引用する。「現在の(日
本の)教育制度は単数教育〈平等教育〉で、子供の
自主性を養う教育ではない。人生で一番大切な人
物のキャラクターと思想を形成するハイテイ―ンエ
イジを高校入試、大学入試のための勉強に使い果
たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の
教育に一番欠けているのは議論から学ぶ教育であ
る。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育であ
る。自分で考え、自分で判断する訓練が最も欠如し
ている 自分で考え、横並びでない自己判断の出来
る人間を育てなければ、2050年の日本は本当に駄
目になる。(こうとうけん、16、(1998) p.17)


立花隆氏の言葉:次に最近出た立花隆の「天皇と東
大」(文芸春秋)の中の一節を引用する。『東大型の
秀才(いわゆる学校秀才)の頭の特徴は、人から教
えられることを丸暗記的に覚えこみ、それをその通
りに繰り返すことは得意とするが、自分の頭で独自
にものを考える、クリエイティブな思考は苦手と言う
ことである。日本の学校教育のシステムは、このタ
イプの秀才がよい成績をあげるように出来ている。
上級学校の入試(東大入試もふくめて)も、このタイ
プの秀才が受かるようにできているから、東大には
このタイプの秀才がごろごろいる。東大を卒業した
あとに、そのような秀才が各界にエリートとしてふり
まかれていくから、日本では、エリート層全体のクリ
エイティビティが低い』、つまり「試験に強い」のとクリ
エイティブとは別であるというのである」。


安藤教授の言葉:今年の「化学と工業」誌6月号に建
築家の安藤忠雄東大名誉教授の巻頭言が載ってお
り、その結論的な部分を書き出してみる。「新しい時
代を切り拓き、未来を創っていくために、私たちはも
っと力ある個人を育てていかねばならない。そのた
めに必要なのが知識の詰め込みでなく、能力を引き
出すための基礎学習だ。大切なのは子供たちの自
由な発想を促し、常に疑問を持ち、興味のあるもの
を探究していく姿勢を植えつけることだ。自ら成長し
ようとする力を伸ばしていくのが教育の根本である
はずだ。教育制度の改革は急務である」。 


私の孫の例:身近なその例を挙げてみる。アメリカ
で小学校二年まで教育を受けて日本に帰ってきた
私の孫は、日本育ちと著しく違っていた。例えば、コ
ップに水を入れその中に自分の腕時計を入れてい
る。「何をしているのよ!」というと。「これ防水と書
いてある」。実験なのである。(「ゆとり教育を始めた
有朗朗人先生はこの話を知って言われていた。日本
にもコップの水の中に腕時計を入れるような子が出
るといいのだが、と。科学の元は「好奇心」から生ま
れるからである。その意味で「すべての子供は自然
科学者」なのである)。その孫はさらに言う、救急車
がこちらに来る時は高い音なのに、向うに行くときは
低くなるのは何故?」、「台風のメはどうなっているの
?」、「雷の電圧は高い針金を使って測れないかし
ら」などなど、すべて自分で考えて質問をしていた。
自然が面白くてしょうがないのである。孫の担任の先
生も「自分は長年教師をしているがこんな利口な子供
は見たことがない」と言っていた。しかし、しかしであ
る。日本で「思考とは無関係な、お粗末な教科書」を
詰め込まれて、暗記させられ、試験に備える教育を
受ける間に見る見るうちに自分で考えなくなってしま
った。「利口な子供を利口でない子にする日本の教育
の素晴らしさ?」は本当に驚くほどはっきりしていた。
正に余りにもはっきりと示されたからである。安藤先
生の言われるお言葉の実にいい例がそのまま見られ
たのである。私の孫に限らず、日本では一般の子供
たちも生来「利口な素質」を持っていても、生来のそ
の優れた才能を引き出し(educeし)、育てる本当の
educationがない。エデュケイションとはそれぞれの子
供のいい点を自由に「引き出す(educeする)」ことであ
るのに、むしろそれを殺して育てているのが日本であ
る。本当の教育は「知識を詰め込む」ことだけではな
い。日本の教育関係者で本当にそのことを認識して
いる人は何人いるであろうか。「物を知らなければ、
自分で考えることが出来ない」「詰め込み教育」が本
当にあるべき教育と信じて子供たちの才能を殺して
いる罪深い教育者が満ち満ちているのでいるが、
そのような「罪深いこと」をしながら、彼ら自身はその
罪深さを微塵も意識していない。「考える力」を育てる
には全ての子供たちが生れながらに保有する自然科
学者としてのcuriosity を引き出し育てることである。
それを育てこそすれ、殺すことをしては絶対にいけな
いのである。子供の才能をつぶす罪深いことをしなが
ら、教育功労者として叙勲に預かっているのが日本の
教育者たちである。


川上先生の言葉:長岡技術科学大学の学長をしてお
られた川上正光先生の厳しい言葉を引用する。 「も
のを覚える能力と自ら考え出す独創力とは本質的に
別物である。「独創力ある人材」を作り出す点ではわ
が国の教育学も教育者も全く無力である。幼稚園か
ら大学院まで主として考える力を増強すべきであり、
各段階の入学試験もものしりの度合いを測ることを
やめて、考える力を測るべく大改革をなすべきであ
る」 福井謙一先生は言っておられた。「今の大学入
試は若い人の芽を摘んでいるんですよ」と。 例えば
化学者でも、もう一生見ることのないような化合物の
色を質問してみたりして、化学を悪くしているのは案
外化学者自身であることが少なくない。  


アメリカの教育改革:既に15年以上前のことである。
アメリカではアカデミーを中心に、それまでは理科で
鯨の種類などを覚えさせていたのを止めて、science
inquiry、つまり何故そうなのか探究的に考える理科
に変え、しかも理科だけでなく社会や歴史も含めて、
全体的に記憶する知識は基本的なことに絞り、探究
的に「考える教育」に改革したのである。そのために
は、全国で150回も公開討論会を開き、教育関係者
とも密接に連携し、最後には4万冊の原本を作って新
しい教育を根付かせるという大変な努力をした。
丁度同じ頃は日本では上意下達で、高校の化学か
ら「平衡」という言葉を除いて「考えない化学」にした
時代であった。「平衡」は最も基本的な考える概念の
一つである。その頃は「考える化学」など全く考えられ
ない「教育専門家」たちが日本の教育を牛耳っていた
のである。(現在では手直しされているからよいよう
なものではあるが、日本と米国との教育関係者たち
の見識のレベルが如何に異なるか、残念ながらこれ
ほど大きかったのである)。(二、三十年先の時代が求
める教育の近代化改革は教育のベテランに頼っては
出来ません。日本の教育が時代遅れになるのは文部
科学省が教育のベテランを集めて決めるから世界から
遅れてしまうのです。「ゆとり教育」が失敗だったことで
も解りますが、世界中がもっと「考えるeducationを」と
言って改革しているのに、日本では記憶させる項目を
減らしただけでした。本当に智恵のある連中に頼って
教育の近代化が初めて出来ることです。)


  アメリカの考える新しい理科教育はその後欧州
にも拡がり、日本にも「ゆとり教育」として入ってき
た。然し、日本では衆知のようにうまく行かない。
「知識三割削減、探究的に考える」と言っても、「考
える教育」など教師も含めて昔から乏しかったから
である。結果的には「学力低下」など言われ、現場は
混乱したままである。今度の学習指導要領ではそれ
を取り戻すべく「探究」を重視するというが、「ゆとり
教育」の二の前になる恐れ充分である。(2010年9月)


   「詰め込み教育」で「考えない教育」をしている
ということは教師は自分では分からない。誰でも自分
は十分に考えていると思っているものである。然し考
える力を養うにはそれなりの風土と大変に厳しい訓
練が要求される。私が前に本誌、化学と工業」(52巻)
に娘の大山秀子と書いた「アメリカの孫と日本の孫」
にあるが、アメリカの小学校の校長さんは教育の目
標に「independent thinker」を養うこととして授業中も
常に君はどう考えるか、このような場合はどうすれば
いいと思うか、各自の考える能力を引き出す(educe)
訓練をしているという。日本の小学校の先生で
「independent thinker」を養うなど考える先生がいる
だろうか。教育改革に忙しい世界の中でわが国だけ
が取り残される。


これからの教育:コンピュータの時代になり、科学技
術はいうまでもなく、国際化、情報化は加速度的に
進み、変化の激しい時代になってきた。今の若い人
たちが社会を支える二、三十年先の時代はさらに激
しく変化をするダイナミックな時代になるであろう。携
帯用のパソコンも出てくるだろう。その時代に備える
彼らヘの「現在の教育」はその将来の時代に適応し、
時代をリードできる「智慧」を育てることでなくてはな
らない。欧米式にindependent thinkerに育て、時代
を先取りして、思考力をしっかりと身につけ、クリエイ
ティブに考える教育をすることである。「ものしり」創り
ではない。


   わが国には「学ぶ」が「マネブ」(真似をする)か
ら由来したように,文化輸入国であったし、新しいこと
を探究する教育の伝統もなかった。「ゆとり教育」が
うまく行かないのも「自立して考える風土」がないか
らである。今まで考える教育など受けたこともない
教師に「考える教育を」と言っても容易でない。生徒
は授業中に自立して新しいことを考えることもなく、
debateすることもない。その上、世界的にも極めて
見劣りする今の日本の「教科書」を使って「考える力」
を育てるのはとても容易ではない。文部科学省の責
任である。欧米に見習って教科書の検定は辞めるべ
きである。


入試改革:教育を変えるには試験制度も変えること
になる。欧米式にクリエイティビティを基にするので
ある。私はある新設大学で、高校の教科書持参で
試験をし、記述式に答えさせた。(筆記試験と並行し
て面接で基礎項目を尋ねる試験を設けた。)知識を
尋ねるのではなく、こういう場合はどうすればいいか、
これは何故なのか、専ら考える問題を出して記述式
に答えを書かせると、受験生の考える力は手に取る
ように分かる。○×式などの比ではない。(教科書持
参でなくても「考える問題」を出せばよい) ケンブリッ
ジ大学では入試に知識の量は問わない、専ら面接を
主にして自立して考え、本当にやる気のある将来の
リーダーを選ぶという。今の日本のように、○×式
で一点でも違えばそこで線を引くのを最も公平とす
る「手抜きの試験」だけでクリエイティブな教育が育
つはずがない。若い人たちの芽を摘んでいながら、
大学の教師たちはその罪を微塵も意識していない。
クリエイティブな試験をするにはクリエイティブな出
題者が不可欠である。


   私はこれまで繰り返しクリエイティブな教育の重
要性を説いてきた。それに対する教育関係者は殆ど
全て賛意を評してくれている。しかし本当のところそ
れが何を意味するのか殆ど解かってくれない、反対
する理由がないだけである。日本の教育の根本的
改革が如何に難しいかがよく解かる。今は世界的に
教育改革の大きな波が広がっている。日本では現在
教育問題が話題になっているが、この機会にわが国
でも全ての教師たちがダイナミックに激動する時代を
リードするよう、「考える智慧」を育てる「クリエイテイ
ブに考える教育」を目指さないと本当に日本は駄目
になる。「ゆとり教育」がもたらした現在の混乱した状
態から一日も早く正しい方向へと立ち直るためには、
化学会の化学教育協議会の努力も不可欠であるし、
「化学と教育」誌でも、どうしたら生徒が自立してクリ
エイティブに考えるような授業が出来るか、これまで
なかったタイプの教育なだけに、是非前向きに示して
欲しいものである。


終わりに:要するに森嶋通夫教授の「自分で考え、横
並びでない自己判断のできる人間を育てなければ日
本は本当に駄目になる」という言葉も、安藤教授の強
い個人を作れと言われるのも、そのまま私の孫の例
でも解かることであるし、また立花隆氏の指摘する
「日本のエリートはクリエイティビティが乏しい」という
のも、更には「ゆとり教育」が教育界に混乱をもたらし
ただけなのも、理由は全て共通の基盤から来る話で
ある。日本の教育には「詰め込み教育」はあっても「考
える力の育成」が乏しいのである。


日本の教育と欧米のエデュケイションとの違い」


        日本的教育   欧米のエデュケイション


志向型     知識の蓄積      創造力開発
教師の立場操作 Teaching 教育  Education 啓能
目的        教える       才能をひき出す
学生の立場    Learning 学習  Study 考究
目的         覚える      掘り下げて考える
特徴
(1)    既成の枠内にいる   枠出て自由に考える
(2)   物知りで模倣が上手  独創力が養える
(3)    問題の解き屋に終わる 発明・発見をする


                     2,007年6月22日


「化学と教育」誌’57巻3号(2009年)に日本化学会会
長の中西宏幸さんがお書きになっています。「イノベー
ションを推進するためにはこれを担う人材の育成が急
務であるが、残念ながら、わが国の人材育成は多くの
問題を抱え危機的な状況にあるといわざるをえない。
コミユニケーション能力の不足、専門以外の基礎学力
の不足、自分で考える力あるいは意欲の低下といった
問題が感じられるのは私だけではないと思う」 2009年
9月26日

   
「ゆとり教育」が「学力不足」をもたらしたということで教育
改革をしようという。「記憶させる項目」を増やしただけでは
本当の教育改革にはならない。しかし一部の教育関係者
の中にはゆとり教育の反省もあって矢張りもっと考えさせ
る教育を定着させなければの声も出てきた。欧米の教科
書を見ても皆日本の何倍もの厚さで、ものの考え方から
興味ある話題など、読んでいて学問の面白さが身に着く
ようになっている。日本の薄い最低の教科書とは雲泥の
違いである。(教科書は学校の備品として備えて、それを
5年間使えば毎年の必要経費は五分の一になる。厚い教
科書の全部を教えなくても、好きな子はどんどん先を学ん
で伸びて行く。)最も大事なことは矢張り教師の再教育で
ある。

                        (2010年5月6日)      
 
             
アメリカの先端的企業のIBM の社訓は「think (考えろ)」と
いうことで、各自の机の上に「think」と書いた文鎮が置かれ
ているという。或る卒業生がIBM に関係していてその話を
したら、彼はポケットからボールペンをとり出してそれに小
さい字で「think IBM」と刻んであった。誰でも自分は充分に
考えていると思っている。然し外から「もっと考えろ」と言わ
れてもう一考えをするだけcreativeになるものである。正に
田丸研の「家訓」が「もっと考えろ、考えに考えて新しいアイ
ディアを得る体験」を求めていますがその人なりに「深く考
えに考えるる習慣」を身につけることはは一生の宝になる
からである。
                        (2010年10月11日)

+++++++++以上、田丸謙二先生の論文(※)より+++++++++++

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【弟子論】

●孔子の論語「三楽について」

++++++++++++++++++++++

『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と
彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した
書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教
における「四書」の1つに数えられる(以上、
ウィキペディア百科事典より)

++++++++++++++++++++++

●孔子の「三楽について」

孔子曰、益者三樂、損者三樂、樂節禮樂、樂道人之善、樂多賢友、益矣、樂驕樂、樂佚遊、
樂宴樂、損矣。

孔子の曰わく、益者(えきしゃ)三楽(さんらく)、損者(そんしゃ)三楽。礼楽(れいが
く)を節(せっ)せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友(けんゆう)
多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴
楽(えんらく)を楽しむは、損なり。

●三楽

 「楽」といっても、内容はさまざま。

○礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しむ。
○人の善を道(い)うことを楽しむ。
○賢友(けんゆう)多きを楽しむ。

×驕楽(きょうらく)を楽しむ。
×佚遊(いつゆう)を楽しむ。
×宴楽(えんらく)を楽しむ。

 孔子は、上記(○)を益者三楽、(×)を損者三楽と位置づけた。
田丸謙二先生が説く「弟子」とは、孔子の説いた「賢友」のことか。
釈迦も、キリストもその弟子に恵まれた。
弟子が、釈迦やキリストの教えを広めた。
もし弟子がいなかったら、釈迦もキリストも、その名すら世界に知られることはなかった。
田丸謙二先生は、この三楽を引用しながら、「孔子が論語で言いました三楽の一つは、
本当の弟子を育てることである」と説いている。

 その通りだと思う。
私たちがなぜ今、ここに生きているかといえば、子孫をつぎの時代に残すため。
肉体は生殖によって残すことができる。
が、精神は、「弟子」によって、残すことができる。
少なくともほかに伝達手段のなかった、孔子の時代にはそうだった。

 が、ここでひとつのパラドックスにぶつかる。
「弟子はどうすればいいのか」というパラドックスである。
弟子は弟子。
師にはなれない。
師になったとたん、弟子は弟子でなくなってしまう。

●師の連鎖

 孔子はそれでよい。
釈迦もキリストもそれでよい。
弟子を作り、自分の考えを教え広めることができた。
では、弟子はどうするのか。
単刀直入に言えば、弟子はただ「師」の教えを忠実に後世に伝える伝道者であれば、
それでよいのか。
たとえばキリストの弟子のマタイは、キリストの重要な教えを後世に残した。
しかしマタイ自身は、キリストを超えることはできなかった。
弟子のままだった。

 が、もちろんそうではない。
またそうであってはいけない。
弟子はつぎの段階では「師」であり、その弟子も、そのつぎの段階では「師」になる。
それを「師の連鎖」と考えるなら、師の連鎖こそが、人間の精神を高揚する。
田丸謙二先生の弟子は、今度は師となり、また自分の弟子を育てる。
たぶん田丸謙二先生も、そういう意味で、「弟子を育てなさい」と言っている。

●多元化する現代社会

 が、師はつねに、自分に忠実な、つまりは自分だけを師とするような弟子を求めやすい。
釈迦もキリストも、そうだった。
(「汝の敵を愛せよ」と教えたキリスト自身は、自分の敵を許さなかった。
これもパラドックスである。)

科学の世界と宗教の世界は、ちがうかもしれない。
しかし現代社会は、釈迦やキリスト、さらには孔子が生きていた時代とはちがう。
私自身にしても、中学、高校、大学と、それぞれの段階で、多くの師に囲まれた。
さらに今というこの時点においても、それぞれの分野に、「師」がいる。
一元的な師弟関係というのは、現実には、存在しない。
(繰り返しになるが、宗教の世界では、師はつねに1人ということになる。)

 加えてこれほどまでの情報社会になると、私たちは常に無数の情報を吸収し、
その一方で、これまた無数の情報を吐き出す。
と、考えていくと、(つまり田丸先生流に、自分の頭で、independentに考えていくと)、
師とは何か。
弟子とは何か。
さらに言えば、三楽とは何か、それがわからなくなる。
(もともと私はこういう教条的なものの考え方が好きではないのだが……。)

 つまり私はもとから、「弟子」などというもは、考えていない。
私自身が「師」になろうという野心もない。
その力もない。
言い換えると、私は(人)から(人)への一里塚。
どうせ人は死ねばおしまい。
何らかの形で、「私」の影響は残るかもしれない。
が、そこまで。
名前を残したところで、意味はない。
大切なことは、つぎの世代の人たちが、よりよい人生を歩むこと。
それでよい。

●現代という時代の中で

 コンピューターとそれにつづくインターネット。
これをさして、「第二の産業革命」と説く人は多い。
(もっともそう評価されるためには、もう少し時代の流れを見なければならないが……。)
しかしコンピューターとインターネットが、私たちの生活を根底からひっくり返し始めて
いるのは、事実。

 たとえば私はこうしてものを書く。
書いたものは、瞬時に、世界中の人たちの目に届く。
HPとBLOGの両方だけで、毎月のアクセス数が、2009年の5月、30万件を
超えた。
現在は、もっと多い。
中には、毎日、熱心に私の原稿を読んでくれる人がいる。
ときどきそういう人に出会う。
先日も、あるレストランへ入ったら、そこの店主がこう言った。
「先生(=私)の原稿を、毎日読んでますよ」と。

 が、私はそういう人たちに対して、「私は師」と思ったことはない。
また読者イコール、「弟子」と考えたこともない。
読者自身も、そうは思っていないだろう。
それに読んでくれるからといって、私の意見への賛同者とはかぎらない。
多くは、「くだらないことを書いている」と、笑っているかもしれない。

 が、それにしても、すばらしいことではないか。
地方の、浜松市にいながら、東京を通り越して、世界に向けて情報を発信することが
できる。
反対に、地方の、浜松市にいながら、世界の最新の情報を、そのまま受け取ることが
できる。
本を書くときのようなめんどうな手続き(出版社とのやり取り全般)も、必要なし。
しかも読者の反応も、これまた瞬時に届く。

 これを「第二の産業革命」と言わずして、何と言う?

 ずいぶんと回りくどい言い方をしたが、田丸謙二先生の説く「弟子」の時代は、
すでに終ったのではないか。
それを支える「上下意識」も、すでに崩壊している。
少なくとも、一元的な師弟関係の時代は終ったのではないか。
孔子の時代とは異なり、情報の伝達方法そのものが変わった。
今の私は、そう考える。

 不特定多数の「師」が、これまた不特定多数の「弟子」をもち、その不特定多数の
「弟子」が、これまた別の世界で、不特定多数の「師」となる。
そういう関係が渾然一体となって、現代社会の人間関係を、網の目のように創りあげて
いる。
それがあえて言えば、現代版の師弟関係ということになる。

●孔子の時代

 神格化している孔子を批判すのは、たいへんなこと。
恐れ多い。
しかし孔子の時代と、現代を同一視することは危険なことでもある。
先にも書いたように、「三楽」とか、「益楽」「損楽」と、教条的に考えるのは、私は
好きではない。
あまりにも教条的である。
人間の生活は、もっと多様性に富んでいる。
それぞれがスペクトラムのように、たがいに入り混じっている。
教条のこわいところは、教条によってその人を束縛する点のみならず、それ以外の
思考性を否定するところにある。
あるいは人から考える力、そのものを奪う。
さらに言えば、「楽」とは何か、その定義もあいまい。

 孔子が生きていたころのように、情報が恐ろしく貧弱な時代(失礼!)には、それなり
に説得力はあったかもしれない。
が、今はちがう。
PETの発達とともに、人間の脳の働きを、リアルタイムに見ることもできるように
なった。
「欲望」についても、大脳生理学の分野で、科学的な説明がなされ始めている。
視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンという脳間伝達物質が分泌される。
それが人間の生きる原動力となる。
(生きる)こと自体が、(欲望)の現れと考える。

 方向性こそちがうが、真理探究に向かうエネルギーも、享楽に向かうエネルギーも、
中身は同じ。
少なくとも脳内の反応としては、区別がつかない。
ときには、驕楽(きょうらく=傲慢)を楽しみ、佚遊(いつゆう=怠惰)を楽しみ、
またときには、宴楽(えんらく=酒盛り)を楽しむ。
同時に真理探究のも心がける。
それが人間ではないのか。
「悪」と決めつけてはいけない。

 ……とまあ、居直ってばかりいてはいけない。

 が、つまるところ、「教育」というのは、そういうもの。
何も期待せず、何も求めず、我が正しいと思うところを、子どもに伝えていく。
そのあとの判断は、子どもに任せればよい。
くだらないと思って去っていく子どももいれば、すばらしいと言って近づいてくる
子どももいる。
去っていく子どもも、近づいてくる子どもも、弟子は弟子。
賛同してくれないから弟子でないとか、賛同してくれるから弟子と考えてはいけない。
それこそ、「驕楽(傲慢)」と言うべき。

●はやし浩司流「弟子論」

 以上が、私が考えた「弟子論」ということになる。
ただ田丸謙二先生は、私の住む世界とは、まったく異質の世界に住んでいる。
田丸謙二先生の住んでいる世界は、学問の世界。
真理探究の世界。
そういう世界では、真理の積み重ねが必要不可欠。
つまり人間関係は師弟関係で結ばれる。
またそれがないと、「体系(=組織)」が確立しない。

 一方私が住んでいる世界は、俗世間。
そもそも「師」として残すようなものは、考えていない。
また残せるようなものは、何もない。
またそこに私の信奉者がいたとしても、私はその名前はおろか、存在すら知らない。
ゆいいつの指標は、読者がふえているということ。
が、それとて、数字の話。
YOUTUBEの動画だけでも、このところ毎日800件(インサイト)もアクセス
がある。
が、「800件」という数字があるだけで、実感はない。
つまりそれが現代流の、師弟関係(?)と考えられなくもない。

 ……ということで、このエッセーの結論。
田丸謙二先生は、「弟子を育てろ」と私に教える。
しかし今の私には、それについてどう答えたらよいのか、わからない。
ただひとつはっきりしている点がある。
それは私は、田丸謙二先生の、弟子の一部。
「1人」ではなく、あくまでも「一部」。
田丸謙二先生の書いた原稿を、できるだけ末永く残す。
教えを守り、この先、ひとつずつ考証しては、自分の考えを書き足していく。
1人のIndependent Thinkerとして……。

●弟子の一部として

 恩師、田丸謙二先生のような先生の意見に異議を唱えるのは、本当に恐れ多いこと。
このままこの原稿をボツにしようかとも考えた。
が、私は私。
Independent Thinker。
このまま保存する。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 弟子論 師弟関係 はやし浩司 孔子 三楽 はやし浩司 三楽 賢
友)


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