2011年4月13日水曜日

*How to live in 60's.

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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   13日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【老後の統合性の確立】2011/02/26記


●ある知人


 先月、1人の知人が他界した。
男性、享年、85歳。
55歳のとき退職し、以後、仕事の経験は、なし。
計算すると、30年間、遊んで暮らしたことになる。
(30年間だぞ!)
中央省庁の出先機関の元副長。


 その知人についての最大の謎。
……と言っても、私がそう思うだけだが、心の問題をどう処理したかということ。
私なら1年どころか、1か月でも、気が変になってしまうだろう。
「遊んで暮らせ」と言われても、私にはできない。
何をどうやって遊べばよいのか。


●時刻表的生活


 そこで近所の人に話を聞くと、その知人について、こう教えてくれた。
「毎日、ふつうでない、規則正しい生活をしていました。
家の裏に100坪あまりの畑をもっていました。
一日中、農作業をしていました」と。


 朝、6時に、雨戸を開ける。
午前10時と3時に、ゴルフの練習。
練習時間は、ピッタシ、30分間。
家の横にネットを張った練習場もある。
夕方6時半に、雨戸を閉める。
庭先にある池の金魚に与える時刻まで、決まっていたという。
その間を縫って、もっぱら農作業。
夏も冬もない。
まさに時刻表的生活。


 このあたりにその知人の特性のようなものが、見え隠れする。
「時刻表的生活」というのは、ふつうの人のふつうの生活ではない。
そうであるからこそ、この30年間遊んで暮らせたのかもしれない。


●仕事
 

 仕事ができる喜びを書きたい。
63歳を過ぎても仕事ができる、その喜びを書きたい。
しかしそれを書くと、そうでない人に申し訳ない。
仕事をしたくても、職場から追い出された人も多い。
喜びを書こうとしても、強いブレーキが働く。
それに私だって、明日のことはわからない。


 もちろん仕事ができるためには、いくつかの条件がある。
健康であること。
職場があること。
その仕事を必要とする人がいること。


しかしこれらは、向こうからやってくるものではない。
こちらから求めるもの。
それなりの努力が必要。
その「努力」という部分が、やがて「喜び」につながる。
けっして軽々しく、「ラッキー!」と言えるようなことではない。


●流れ


 が、仕事があれば、それでよいというものでもない。
仕事から生まれる、緊張感。
それに「流れ」。
もちろん「生きがい」も必要だが、この際、ぜいたくは言っておれない。
「流れ」が、大切。


たとえば東洋医学でも、「流水は腐らず」と教える。
これは肉体の健康法について言ったものだが、精神の健康法としても、
そのまま使える。
週単位、月単位、さらには季節単位、年単位で、生活は流れていく。
その「流れ」が重要。


 が、仕事を失うということは、同時に、その「流れ」が止まることを意味する。
「年金があれば、それでよい」という問題ではない。
(もちろん年金は必要だが、それでは十分でない。)


 もっとも私のばあいは、その年金さえアテにならない。
働くしかない。
働くしかないから、仕事を手放すわけにはいかない。
「私は仕事ができる」と、一方的に喜んでいるわけではない。
その下には、切実な問題が隠されている。
どうか、誤解のないように!


●心の問題


 先に「心の問題」という言葉を書いた。
ほとんどの人は、(私も若いころそうだったが)、「老後」というと、健康問題しか
ないように考えている。
また健康であれば、それでよしと考えている。
(もちろん健康であることは必要だが、それでは十分でない。)


窓のない袋小路に立たされると、「だから、どうなの?」と考えることが多くなる。
「健康だからといって、それがどうなの?」と。
つまりその先が、「心の問題」ということになる。


 ただ誤解してほしくないのは、老人といっても、1人の人間ということ。
けっして半人前になるわけではない。
感性も知性も理性も、若いときのまま。
喜怒哀楽の情も、若いときのまま。
反応は多少鈍くなるが、生きることを、あきらめるようになるわけではない。


 が、世間は、否応(いやおう)なしに、あきらめることを強いてくる。
「あなたも歳だから……」と。
つまり老人は、そのはざまで、もがく。
苦しむ。
それが心の問題ということになる。
 

●金太郎飴人生


 だから老人は、現状を1日延ばしで、人生を先に送ろうとする。
今の私がそうだ。
悠々自適の隠居生活などというものは、夢のまた夢。
またそんな生活に、どれほどの意味があるというのか。
けっして負け惜しみではない。
先に書いた知人を思い浮かべてみればよい。


 この30年間、何がどう変わったというのか。
10年前も同じ。
20年前も同じ。
こういうのを、「金太郎飴人生」という。
つまり、どこで切っても、同じ。


 一方、仕事をしている人にしても、そうだ。
もっとも私の年齢になると、地位や名誉など、まったく興味がない。
関心もない。
仕事といっても、どこかで生きがいにつながっていなければならない。
収入につながれば、さらによい。
……というのが、仕事ということになる。


●老後の統合性


 こうして考えていくと、やはり「老後の統合性」の問題に行き着く。
(人間として、すべきこと)と(現実にしていること)を、一致させていく。
それが「統合性」ということになる。


その統合性の確立に成功した老人は、老後を生き生きと過ごすことができる。
日々に満足し、充足感を覚える。
そうでない老人は、そうでない。
日々に後悔し、明日が来るのを恐れる。


私もこの年齢になってわかったことがある。
孫の世話に庭いじり?
そんな生活はけっして理想の老後ではないということ。
これはそれができない私のひがみでは、ない。
今はわからないかもしれない。
しかしあなたも60歳を過ぎたら、それがわかるはず。


●究極の選択


 が、知人は、30年間、遊んで暮らした。
たまに町内の活動をしたことはあるらしい。
しかしいつも、「お偉い様」。
私も息子の運動会で、来賓席に、その知人が座っているのを見たことがある。
何もせず、じっと座っていた。
が、それでは生活に根をおろすことはできない。
晩年を自分のものにすることはできない。


 さみしくなかったのだろうか?
悶々と悩むことはなかったのだろうか?
窓のない部屋の閉じ込められて、息苦しくなかったのだろうか?


 となると、やはり最初の問題にぶつかってしまう。
その知人は、心の問題をどう処理したかということ。
悩みや苦しみもあっただろう。
さみしい思いやつらい思いもしただろう。
ひょっとしたら、遊びたくて遊んでいたわけではないかもしれない。
が、私には、やはり「遊んで暮らした」としか思えない。


 で、最後に究極の選択。
あなたならどちらを選ぶだろうか。


(1)年金で、死ぬまで、遊んで暮らす。
(2)死ぬまで、働きながら暮らす。


 私なら(2)を選ぶ。
(本当は先にも書いたように、選ぶしかないが……。)
仮に年金があったとしても、(2)を選ぶ。


 ……ということで、今朝は20分のランニングから始まった。


今日、健康なら、たぶん明日もだいじょうぶだろう。
今週、健康なら、たぶん来週もだいじょうぶだろう。
今月、健康なら、たぶん来月もだいじょうぶだろう。


が、来年のことはわからない。
だれにもわからない。
ここはがんばるしかない。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【なぜ私たちは感情をもつのか】

+++++++++++++++

感情とは何か。
感情は、脳の中のどこで、どのようにして
作られるのか。

それがわかれば、反対に、私たちは
自分の感情を、外部からコントロール
できるようになるかもしれない。

田丸謙二先生の最新の論文を読みながら、
それについて考えてみたい。

+++++++++++++++

●感情について

 人間のもつ感情は、大きく喜・怒・哀・楽の4つに分けられるという。
東洋医学では、怒・恐・喜・驚・悲・思・憂(霊枢・本神論篇)に分けて考える。
が、これはおかしい。
こういうふうに現象面だけを見、それを分類して考えるのは、おかしい。

 というのも、人間の脳みそは、基本的には、ON/OFFの構造になっている。
常に無数のON/OFFが繰り返されている。
ということは、感情も、基本的には2つしかないはず。
つまりこれらの感情のうち、2つのみが基本的感情で、残りの感情は、その
バリエーションに過ぎない。
そう考える方が、自然である。
また脳のメカニズムから考えて、そのほうが合理的である。
となると、どれを選ぶか?
どの2つを、基本的な感情として、選ぶか?

●教条主義

 これを教条主義的発想と同列においてよいかは、知らない。
しかしたとえば感情にしても、喜・怒・哀・楽と4つに分けることによって、
あたかもそれ以外の感情はないかのように、思ってしまう。
あるいはその4つに固定されてしまう。
「脳の中には、4つの感情がある」と。
(別に4つでなくても、7つでも8つでもよいが……。)
が、これは正しくない。
またそう考えてはいけない。

 ちなみに教条主義というのは、Yahoo辞書によれば、「状況や現実を無視して、ある
特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。特にマルクス主義において、
歴史的情勢を無視して、原則論を機械的に適用しようとする公式主義をいう」とある。

 この表記を借りるなら、ものごとは機械的に考えてはいけないということになる。
ときとして私たちはあまりにも常識になっている教条に支配され、それ以外のものの
考え方ができなくなるときがある。
ここに書いた、喜・怒・哀・楽にしても、しかり。
では、感情とは何か?
基本となる2つの感情とは何か?
私は「緊張」と「弛緩」の2つをあげる。

●2つの基本的感情

 ONで「緊張」、OFFで「弛緩」と考えるなら、基本的感情は、「緊張」と「弛緩」
ということになる。

 緊張に属するものは、怒・悲・哀・苦・恐・驚。
弛緩に属するものは、喜・楽。
緊張と弛緩の双方が対立した状態が、憂・鬱・思。

 が、こうして分類するのも、あくまでも便宜上のもの。
分類しても意味はない。
それ自体が、教条的ということになる。

●交感神経vs副交感神経

 感情論を理解するために、ひとつの参考になるのが、交感神経と副交感神経。
そのメカニズム。
わかりやすく言えば、「動け」と命令するのが、交感神経。
「動くな」と命令するのが、副交感神経。
この両者が、バランスよく調整しあったとき、人はスムーズな行動をすることができる。

 交感神経について、Yahoo辞書には、こうある。

「副交感神経とともに、高等脊椎動物の自律神経系を構成する神経。脊柱の両側を走る幹
から出て内臓や血管・消化器・汗腺などに分布。心臓の働きの促進、血管の収縮、胃腸の
働きの抑制、瞳孔の散大などの作用がある」と。

 同じく副交感神経については、こうある。

「自律神経の一。脳部および仙骨部から発し、大部分は迷走神経で、伝達物質として
アセチルコリンを分泌する。交感神経系と拮抗(きっこう)的に働き、心臓に対しては抑制、
胃腸に対しては促進の作用をする」と。

 人間の感情にも、これと同じ機能が作用しているのではないか。
つまり「促進」と「抑制」。
先に書いた、「緊張」と「弛緩」と結びつけてみると、「促進」が「緊張」、
「弛緩」が「抑制」ということになる。

●熱帯魚の世界では

 ところで話は変わるが、人間も太古の昔には、魚だったという。
どんな魚だったかは知らないが、水槽の中の熱帯魚と同じ、もしくはそれに近い
生物だったと考えられる。
(魚は魚で進化しているが……。)
その熱帯魚。
基本的には、2つの感情しかないように見える。
(あくまでも、そう見えるだけの話だが……。)

 餌を与えるとき……水中に浮遊しながら、餌を食べる。
このとき熱帯魚の脳の中では、喜・楽の感情が充満していると考えられる。
つまり弛緩状態。

が、何かのショックを感じたとき……水槽の中を、逃げ回る。
このとき熱帯魚の脳の中では、恐・驚・怒の感情は充満していると考えられる。
つまり緊張状態。

●人間の感情

 なぜ私がこんなことを書くか。
それにはひとつ、重要な意味が隠されている。
つまり「人間の感情は、どこでどのようにして生まれるか」という問題。

 が、これについては今では、脳内ホルモン説が定説化している。
つまり人間の感情は、脳内ホルモンによって引き起こされる。

たとえば何かよいことをすると、その信号は大脳から、辺縁系の中にある、
扁桃核(扁桃体)というところに送られる。
すると扁桃核は、モルヒネに似た、エンドロフィン、エンケファリン系の
脳内ホルモンを分泌する。
それが脳内を、陶酔感で満たす。
それが「楽しい」という感情を生み出す。

 が、反対に何かのことで、危機的な状況に陥ったとする。
メカニズムは私には分からないが、脳内で、サイトカイン系の脳内ホルモンが
分泌される。
脳内ストレスは、こうして起こるが、それが「怖い」とか「恐ろしい」とかいう
感情を引き起こす。

●田丸謙二先生

 では、「美」については、どうか?
たまたま昨夜(2・23)、田丸謙二先生が、原稿を送ってくれた。
人間の脳は、どこでどのようにして「美」を判断するかについての論文である。
投稿の日付を見ると、2月21日となっている。
内容もさることながら、88歳を過ぎても、先生はこうした論文を書くことができる。
先生はいつも私に、生きる勇気と希望を与えてくれる。

 先生の論文をそのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●脳の科学と芸術

                  田丸謙二

日本化学会の会誌「化学と工業」の二月号に「神経科学から
脳科学へ」から始まり、「脳はなぜ美に魅せられるのか」、『「幸
せ」を感じる脳』など、最近の「脳科学」の進歩や展望について
特集があった。

この15年の間に、それまで動物実験や臨床知
見に限られていた脳の科学が非侵襲的(人体を傷つけず安
全)に、脳の各種の部分が外部に対応してもたらされる変化を
直接に調べることが出来るようになって飛躍的に新しい局面
が開けて来たのである。

 非侵襲的計測法は大別して二つの方法があり、一つは神経
に場がれる電流によって生じる電位を頭皮上から測定する脳
電図に代表される。

また神経電流によって発生する微弱磁場
を、頭の周囲から計測する脳磁図となる。

もう一つの方法は神
経活動によるエネルギー消費を観測する方法であり、脳の局
所の血行動態を観測して脳の働いている部分の活動の大きさ
が計測できる。

 非常に面白いのは、例えば一歳半の赤ん坊の笑顔を見なが
ら幸せ一杯に感じながら働く脳の様子と泣き顔に向かって感じ
る脳とは脳の部分によってはっきりと異なっていることである。

人が快い状態、不快な状態とは脳の部位によって違って働く
のである。更に芸術的にはどのようなものに魅せられるか、難
しい問題を解らないなりに如何にして少しでも科学的に取り扱
うことが出来るようになるのか、少なくとも脳の部分部分での
美に対応する変化が生まれて来るのである。

芸術を科学とし
て取り扱うこれまでには到底考えられなかったことが正に始ま
ろうとしている感じもするが、どれだけのことが生れるのか、こ
れからの大きな問題の一つでもあろう。

  一つの例として挙げられているのはゴッホ(Vincent van
Gogh 1853~1890)だが、彼の生前には1枚しか売れなかった
彼の絵が現在では数十億円もの値段がつけられているほど
の価値となっている。

如何に人や時代によって「美しさ」に魅せ
られるかが大きな問題であることが分かる。

これから脳の科学
が芸術と如何に関連されるか、ゼロからの出発で、正に。

これ
からの問題である。芸術品の価格評価も脳の反映によって決
る可能性もあり得る。

 このような芸術に限らずとも、外部からの影響に対する脳の
部位の対応だけでなく、人類の高度な社会現象や個人の行動
動機に至るまで、充足感、幸福感、危惧感、好奇心、創造生な
どに深くかかわってくる可能性が高いという。
 
 例えば朗らかな時の脳の働きと全く同じ働きをさせるようなこ
とが脳の外側からさせることが出来れば、「うつ病」などの治療
になれないかしら。

数学の難問題を回答できる時の脳の働き
についても同じように働くことが出来れば素晴らしい事になる
かも。

余り素晴らしい事が容易に出来るようになると却ってつ
まらない事になるかも。                        
(2011年2月21日)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●考察

 さっそく私になりにいろいろ考えてみた。
それが先に書いた、「基本感情論」ということになる。
で、先生はたいへん興味深い事実を指摘している。

『非常に面白いのは、例えば一歳半の赤ん坊の笑顔を見なが
ら幸せ一杯に感じながら働く脳の様子と泣き顔に向かって感じ
る脳とは脳の部分によってはっきりと異なっていることである』と。

 たぶん母親の感情についての指摘かと思う。
この記述によれば、

(1)赤ん坊の笑顔を見ているときと、
(2)泣き顔を見ているときとでは、
脳の中でも、活動分野が異なるということ。

 このことから田丸謙二先生は、「芸術を科学として扱う」という可能性に
ついても言及している。
「なるほど」と感心したところで、先に書いた私の感情論へとつながっていった。

●ゴッホの絵

 で、ひとつの例として、田丸謙二先生は、ゴッホの絵をあげている。
ただし私は個人的には、ゴッホの絵は、好きではない。
はげしすぎるというか、ゴッホの絵を見ていると、どうも落ち着かない。
どこか狂人的?
そんな印象すらもつ。
ときどき「どうしてこんな絵が、こうまでもてはやされるのか?」と、
不思議に思うこともある。
話が少し脱線するが、許してほしい。

 ……というか、世俗的な評価というものを、あまり信用していない。
というのも、世俗的評価というのは、個人の評価の集合というよりも、
マスコミ的な洗脳によって作られたもののほうが、多いということ。
そのことは、現代の日本を見れば、よくわかる。
どういう人物が、世俗の世界で評価され、またすばらしい才能と知性をもちながらも、
どういう人が世俗の世界に埋没してしまうか。
それをみれば、よくわかる。

 平たく言えば、この日本では、マスコミの力をうまく使い、有名になったほうが、
勝ち。
それが世俗的評価ということになる。
つまりゴッホも、そうした世俗的評価で作りあげられた画家ではないかということ。
少なくとも、私なら、何億円も出して、あんな絵(失礼!)を、自分の居間には
飾っておかない。
見ている私自身まで、気が変になる。

 ……というふうに考えてみると、その反応は、(2)の泣き顔を見ている
母親の反応と同じことが、私の脳内で起きていることになる。

●再び感情論

 感情も科学で操作されるようになる。
田丸謙二先生は、その可能性について言及している。
それと同じに考えてよいかどうかは、知らないが、最近、私はこんな経験をした。

 胃カメラをのんだときのこと。
胃がんの疑いをかけられた。
が、私は心気症。
その数日前から、心は緊張状態。
最悪のばあいを想像し、食欲も減退した。
ハラハラ…ドキドキ…。

 で、その当日。
胃カメラをのむときは、腕に麻酔注射を打つ。
同時に、のどを通して麻酔薬をのむ。
しばらくすると、脳内が甘い陶酔感で満たされる。
何とも言えない、かったるい状態になる。

 で、検査が終わり、あやしげな箇所の生体を採取。
生体検査へと回された。
そのときのこと。
30分ほどベッドで休んでいるときのこと。
同時に私は、やさしい幸福感に包まれた。
「死」への恐怖は、まったくなかった。
あれほど恐れていたはずの検査だったが、そのときは、安らいだ気分になっていた。

 「感情も科学で操作される」。
今にして思えば、田丸謙二先生の指摘通りということになる。
先生は、こう書いている。

『例えば朗らかな時の脳の働きと全く同じ働きをさせるようなことが脳の外側からさ
せることが出来れば、「うつ病」などの治療になれないかしら』と。

 薬物の力によるのではなく、「外部からの刺激によって、脳内の反応をコントロール
できるのではないか」と。
どこかSF的だが、すでにSFの世界を飛び出し、現実の話になりつつある。
現に脳の一部を電気的に刺激し、脳の中で起きる反応を調べるという方法は、
研究の分野では日常化している。
そういう方法がさらに進歩すれば、感情そのものをコントロールできるように
なるかもしれない。
冒頭に書いたように、脳のメカニズムは意外とシンプル。
ON/OFFの世界。

先生の論文を読んだとき、そう思った。

●感情とは何か

 古今東西の哲学者や科学者が、問うてやまなかった最大かつ、もっとも神秘的な謎。
それが感情論ということになる。
私たちはなぜに、感情をもつのか。
その感情は、どこでどのようにして生まれるのか。

 田丸謙二先生の論文をもとに、私なりにそれについて考えてみた。
このつづきは、もう少し先生の論文を脳の中で消化したあと、書いてみたい。

 2011年2月24日。
今日も始まった。
時刻は午前7時13分。

田丸謙二先生へ、

おはようございます。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 感情論 感情とは 喜怒哀楽 感情の制御 感情のメカニズム 心 
はやし浩司 心はどこにあるのか)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●2月25日

●オーストラリアへ

 やっとB君との話し合いがついた。
メルボルンからアデレードまで、車で行くというB君。
オーバーランド号(大陸横断列車)に乗るという私。
B君の家は、南オーストラリア州とビクトリア州の州境にある、
ボーダータウンというところにある。

 メルボルンでは、インターナショナルハウス(IHカレッジ)に一泊。
市内のホテルにもう一泊。
その翌朝、オーバーランド号に乗ることにした。

 この先、あれこれと準備がたいへん。
オーストラリアは、私にとっては、遠くて遠い国。
今では高校の修学旅行で、オーストラリアへ行く時代になった。
信じられないというより、あの時代の私は何だったのか。
そんなことまで考える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ターゲット(投射・防衛規制)

 「ターゲット」という言葉は、私が考えた。

 昔、こんなことがあった。
Sさん(高校1年生)は、不登校児だった。
母親に連れられて、私のところへやってきた。
話を聞くと、Sさんは、こう言った。

「同じクラスのXさん(女子)に、意地悪される」と。

 そこで母親は学校の先生と相談し、クラスを変更してもらった。
で、しばらくすると、またSさんは、不登校児になってしまった。
今度は「Yさんが、いじめる」と言い出した。

 で、Sさんのお母さんは、学校側と相談。
再びクラスを変更してもらった。
が、それで問題が解決したわけではない。
Sさんは、今度は、「担任が私を嫌っている」と言い出した。
またまた不登校児になってしまった。

 実際の話はもう少し複雑だったが、大筋は以上の通りである。
私はこのSさんのケースから、「ターゲット」という言葉を思いついた。

●投射

 Sさんは、そのつど、ターゲットを変えた。
最初は、Xさん。
つぎに、Yさん。
そしてさらに、担任へ、と。

 Sさんは基本的には、学校へ行きたくなかった。
それをXさんのせいにしたり、Yさんのせいにしたり、さらには先生のせいにした。
こういうのを心理学では、「投射」という言葉を使って説明する。
本当は、自分が相手を嫌っている。
そのことを正当化するため、相手が自分を嫌っているからと思い込む。
「相手が私を嫌っているから、私は、自分のしたいことができない」と。

 深堀元文氏の「心理学のすべて」には、こうある。
『投射……困難や失敗を他人のせいにしたり、自分の好ましくない欲望を、
他人のものとみなす』と。

 つまり母親も、そして私も、Sさんに振り回されただけ。

 ……という話は、前にも何度も書いた。
で、ここではもう一歩、話を先に進めてみたい。
今朝、ふとんの中で、こんな経験をした。

●怒るという感情は、そのまま

 私はX氏のことを考えていた。
不愉快な男だった。
平気でウソをつく。
口もうまい。
金を借りに来たときも、先に返済計画書を私に見せた。
3か月後から、毎月x万円、1年後から毎月x万円……と、
一覧表になっていた。

 私は人には、お金を貸さない。
そこで私はX氏に、20万円を渡し、「これだけあげるから、勘弁してほしい」と。
が、それっきり。
礼もなければ、あいさつもない。
そのX氏のことを考えていたら、ムラムラと怒りが頭の中に充満してきた。

 そのときのこと。
私はそのX氏と、別のY氏を置き換えてみた。
Y氏もずるい男だった。
浜松へ何度か遊びに来たが、そのつど、別の愛人を連れてきた。
アメリカへ行くときも、「アメリカへ行くから、君の息子を紹介してほしい」と。
そのときも、別の愛人を連れていった。
で、一度、私にこう言ったことがある。
「なあ、林(=私)、今度の彼女の名前は、Sだからな。名前をまちがえるなよ」と。

 するとそこでおもしろい現象が起きた。
起こっている感情は同じなのに、頭の中で、X氏からY氏へ、スルリとターゲット
が置き変わった。
まったく無理がなかった。

 「怒る」という感情はそのまま。
しかしターゲットは、X氏からY氏へ。
X氏のことを考えて怒っていた私が、いつの間にか、今度はY氏を怒っていた。

●八つ当たり

 脳みそというのは、一見複雑怪奇だが、その実、そのメカニズムはシンプル。
単純。
ひとつの反応が起こると、それがそのまま別の場面でもつづいてしまう。

日本語にも、「八つ当たり」という言葉がある。
A氏に対して怒りを覚えていると、それがそのままB氏にまで及んでしまう。
そういうことは、よくある。
「怒り」という感情が先にあるから、理由など、何でもよい。
過去にあったささいなことを理由にあげて、「お前は、あのとき!」と。

 こういうのを八つ当たりという。

 そこでそういうときは、どうしたらよいか。
……といっても、答は簡単。
そのつど頭を切り替えればよい……ということになる。
が、これがむずかしい。
若いときは、それほどむずかしく思ったことはない。
というか、それほど深刻な問題にはならなかった。
そのつど、パッパッと頭を切り換えることができた。

 が、最近はそうではない。
不器用になったというか、切り替えがうまくできない。
ひとつのことで悶々としていると、あらゆることで悶々としてしまう。
感情がそのまま、つぎの場面でも、残ってしまう。
脳のフィードバック機能が、衰えてきたせいとも考えられる。

●フィードバック

 脳内で、ある反応が起こると、すかさずそれを打ち消すための機能が働く。
たとえば何かの脳内ホルモンが分泌されると、それと正反対の脳内ホルモンが
分泌される。
こうして脳は、自分の脳内を、いつもクリアな状態に保とうとする。
これを「フィードバック」という。

 こういう理屈が正しいかどうかは、わからない。
わからないが、加齢とともに、そのフィードバック機能が衰える。
つまり正反対の脳内ホルモンの分泌が衰える。
あるいは反応が鈍くなる。
それが先に書いたような現象につながるのではないか。

つまり「感情の切り替えがうまくできない」。
へたをすれば、脳の中に、もろもろの脳内ホルモンが充満することもある。
何がなんだか、訳が分からなくなる。
そういうこともある。

●脳内観察(インナー・トリップ)

 自分で自分の脳内を観察する。
言うなれば、自分の脳の自己診断ということになる。
最近のパソコンには、そういう機能がついたものがある。
動作がおかしくなったら、自分でそれを診断し、それを是正する。
それと同じように、自分の脳が、自分の脳内を観察する。
考えてみれば、これはおもしろい現象ではないか。

 「ああ、私は怒っている」と、まず自分を知る。
つぎにターゲットを自分で置き換えてみる。
ターゲットが、簡単に置き換わる。
X氏を怒っていたはずなのに、今度はそれがY氏に置き換わる。
「怒り」はそのまま。

 では、反対にこんなことはできないか。
たとえば怒っている最中に、ワイフとの楽しい思い出を思い出してみる。
そうすれば、自分の脳は混乱するはず。
それがおもしろい。

実は、そのとき、それもしてみた。
が、これはうまくいかなかった。
そこで働いたのは、「八つ当たり」。
「怒り」が基本にあるから、楽しい思い出というよりも、ワイフのあら探し
が始まってしまった。
が、これではいけない。
ワイフのことを考えるのを、やめた。

……というように、自分の脳をコントロールすることができる。
自分の脳を相手に、自分で遊ぶことができる。

 今朝、目を覚ましてから起きるまで、ふとんの中で、私はそんな経験をした。

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BW はやし浩司 投射 防衛規制 八つ当たり ターゲット ターゲットの移動 イン
ナー・トリップ)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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