2011年4月25日月曜日

●What is the Common Sense for the Japanese?

【常識という非常識】

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まず、こんな話。
実際、あった話。
じっくりと読んでほしい。
つまりこの話を読んで、あなたはどう感ずるか?
それを心の中で、さぐってほしい。

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●ある中華料理店

 10年ほど前のこと、中国の北京から1組の夫婦が、その通りにやってきた。
夫の方は、父親が日本人だった。
妻の方は、生粋の中国人。
その夫婦は、通りの一角に、中国料理店を開いた。

 最初は、結構、繁盛していた。
「1日、日本で働けば、中国での1か月分の稼ぎになる」と、
その夫婦は、そう言って喜んでいた。
が、そこへ不景気の嵐。
1、2の店がシャッターを下ろしたのをきっかけに、客足が通りから急速に遠のいた。
そのときのこと。

 その中華料理店の隣が、中高年以上の女性を相手にしたブティック。
さらにその隣が、印鑑屋。
そのブティックの店が、週休2日から、週休4日になった。
実際には、午後の数時間だけ、店を開いた。
印鑑屋も、シャッターを半分、下ろした。

 が、これに先の中国人夫婦が、怒った。
怒って、ブティックと印鑑屋へ怒鳴り込んでいった。
ものすごい剣幕だったという。
「店、ちゃんと、開けるあるね!」と。

 驚いたのは、ブティックを経営していた女性。
それに印鑑屋の男性。
「店を開けるか、閉めるかは、私たちの自由」と。
ブティックの女性は、こう言った。
「あんなメチャメチャな話は、聞いたことがありません」と。

●常識

 アインシュタインは、かつてこう言った。
「常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである」と。

 みなさんは、この中華料理店の夫婦の話を読んで、どう感じただろうか。
恐らく中国人夫婦の言い分は、めちゃめちゃと感じたにちがいない。
が、つぎの話を読んだら、その(感じ)は、かなりちがってくるはず。
これも私が直接、経験した話。

 ……先月、私はオーストラリアへ行ってきた。
そこでのこと。
どんな町でも、少し郊外へ行くと、みな、日本では考えられないような大豪邸に
住んでいる。
(家の質そのものは、よくないが……。)
居間だけでも40畳程度、あるいはそれ以上にある。
どの部屋も、20畳以上。
そういう部屋が、4~10個もある。

 アメリカ映画にもそういうシーンが、よく出てくる。
しかし映画で見るのと、実際に見るのとでは、印象は大きくちがう。
つまりびっくりする。

 もちろん土地も広い。
エイカー単位。
1エイカーは、約4000平方メートル。
つまり1200坪。

 そこで私は聞いた。
「税金は、どうしているのか?」と。
つまり「税金は高いだろうな」という思いをもって、そう聞いた。
が、彼らの答は意外なものだった。

 「税金は、Land Valuer(不動産鑑定人)が、最初に決める」と。

 平たく言えば、家の広さも、土地の広さも関係なし。
立地条件や環境、それに家の質で決まる、と。
たとえばショッピングセンターが近くにあれば、バリュー(価値)は高くなる、と。

●家の価値

 だから彼らは、隣の家の芝生が伸び放題になっていると、それについて、隣の
家に対して文句を言う。
アメリカに住んでいる二男も、そう言っていた。
「芝生を刈らないと、近隣の人たちに文句を言われる」と。

 家の価値は、環境によって決まる。
こんな当たり前のことですら、日本では、非常識となる。
ご存知のように、土地の税金にしても、市の中心部からの距離によって決まる。
(それほど単純ではないが、この意見には、だれも異議を唱えないだろう。)

 そのこともあって、欧米人は、通りから見た美しさを、大切にする。
通り全体、町全体の景観を大切にする。
少なくとも灰色のブロック塀で、自分の土地を囲むということはしない。
庭木にしても、通りに近い方に低木、家に近い方に高木を植える。

 こうして「質」を高めることによって、家の「価値」を高める。
家の「価値」が高くなれば、売買するにも有利。
銀行からの借入金もふやせる。

 こうした伝統が、何百年にも渡って、つづいている。
意識そのものが、ちがう。
常識そのものも、ちがう。
それが通りの美しさにも、大きく影響している。

●視点

 「中国でも同じ」とは、私には言えない。
そこまで詳しく中国のことを知らない。
しかし日本人がもっている常識が、世界の常識と考えるのは、まちがい。

 たとえば義兄は、浜松市内の中心部に住んでいる。
人口密集地で、電柱から電柱へと、蜘蛛の巣のように電線が走り回っている。
それがぞっとするほど、不気味。

 家々は軒をつらね、その家々は、これまたてんでバラバラの作り。
洋風の家もあれば、和風の家もある。
事務所もある。
医院もある。
色もめちゃめちゃ。
もちろんその多くは灰色のブロック塀で取り囲まれている。

 一方、私の家は、郊外にある。
目の前には、小さいが森もある。
が、固定資産税ということになると、義兄の土地家屋のほうが、はるかに高い。
財産価値が高い。

 考えてみれば、これほど非常識なことはない。
ほんの少し視点を変えるだけで、ものの価値観が、180度変わる。
これもそのひとつ。

 先に書いた中国人夫婦がもっている常識は、欧米人のそれに近いのかもしれない。

●杓子定規

 日本人は、そういう点でも、ものの考え方が杓子定規。
私は、こんな経験をした。
ありのままを書く。

 30歳になったころのこと。
学研という出版社から、「経穴辞典を書いてほしい」という依頼をもらった。
「経穴」というのは、鍼灸でいう「ツボ」をいう。

 私はさっそく、作業に取りかかった。
……といっても、資料そのものがない。
私は香港の友人を通して、中国本土の本を取り寄せた。
その本をたたき台にし、本を書き始めた。

 で、8~9割完成したところへ、出版社から横やりが入った。
「つぼの取り方(取穴法)は、日本式で行く」と。

 日本式?

 1972年ごろには、日本の和漢、鍼灸は、完全に消滅していた。
そういった仕事は、身体に障害のある人たちのものということになっていた。
が、突然の鍼灸ブーム。
中国での針麻酔がきっかけだった(1972年)。

 そこで立ち上がったのが、日本鍼灸学会。
(少なくとも私がその学会名を知ったのは、30歳くらいのころ。)
最初の作業が、経穴(つぼ)の位置の特定。

 が、これがまあ、とんでもないほど杓子定規。
鎖骨から~寸下が、XXと。
寸法を基準に、経穴(つぼ)を決めていた。

 一方、中国では、たとえば腕を曲げたり伸ばしたりし、そこにできた凹み(穴)など
に取穴していた。
私はその中国式で、本を書いていた。
が、それがすべて御破算。

 私はすべてイチから書きなおしを迫られた。
理由を聞くと、「WHOで、取穴法をめぐって、中国式と日本式が戦っている。
この本を日本式を主張するためのたたき台にしたい」と。

 おかげでその本を書くのに、7年もかかってしまった。
本当は、最初の1年で完成していた。
それを7年!
やる気があるのとないのとでは、作業のスピードもちがう。
私は完全にやる気を失っていた。
中国式のほうが、はるかに合理性がある。
それに中国の中国式。
勝てるわけがない!

 ……で、7年。
悶々とした作業の中で、私は7年も無駄にした。
で、そうしてできあがった本が、「東洋医学・経穴編」(学研)である。

●常識論

 再び、常識論。
私たちは何をもって、常識というか。
冒頭の話に戻る。

 「店を開けるか、閉めるか、それは個人の自由」と、日本人は考える。
もう一歩話を進めれば、「芝生を荒れ放題にしようが、美しく刈り込もうが、個人の
自由」と、日本人は考える。

 おかしな個人主義がはびこっている。
空地があれば、そこに家を建てる。
まわりの景観を考えて家を建てる人は、まずいない。
調和を考える人は、さらに少ない。
また隣におかしな家が建っても、だれも文句を言わない。
フランス風の家もあれば、イタリア風の家もある。
デザインも色も大きさも、てんでバラバラ。
しかしこれこそ、世界の非常識。

 言い換えると、世界の常識を知れば知るほど、先の中国人の夫婦の考え方に
近くなっていく。
日本人の私たちにしてみれば、とんでもない非常識な言動に見えるかもしれない。
しかしひょっとしたら、私たち日本人の常識のほうが、おかしいかもしれない。
「常識」というのは、そういうもの。
だからといってその中国人夫婦の言動が、すべて正しいというわけではない。
ないが、私たちのもっている常識は、じゅうぶん、疑ってみる必要がある。

 常識論については、12、3年ほど前から、書いてきた。
中日新聞に書いた記事の中から、さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の非常識

● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちが
っているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分
制度という(巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、
その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋
章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではない
のか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19
歳の舞妓を、「仕事のこやし」(人間国宝と言われる人物の言葉。不倫が発覚したとき、そ
う言って居直った)と称して、手玉にして遊ぶこともできる。

● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になってい
る。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関
係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事
の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、
夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕
事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

● 「森S一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と
泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしか
にすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、
こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に
美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向が強い。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(3行目と4行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだ
だよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だ
で。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。
親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに
似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき
載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用い
られた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう
論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いという
こと。約23%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではない
ようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
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の常識)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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