●4月20日(子どもの自己)評価力・(「平均的な生き方」とは何か?)
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上海社会科学院が、日中韓の高校生たちの
意識調査をした。
その結果が、ヤフー・ニュースで紹介
されていた。
たいへん興味深い数字が並んでいる。
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+++以下、YAHOO NEWS(2011-04-20より)+++
上海社会科学院が発表した『日中韓高校生の心身健康状態比較研究報告』によると、中
国の高校生の心理状態は日本および韓国の高校生に比べ、心理的ストレスが少なく、自信
にあふれ、自己評価も高いことが分かった。新聞晩報が報じた。
日中韓の高校生の男女に対して実施された調査では、平均身長は中国が168.17センチ
メートル、韓国が167.61センチメートル、日本が164.70センチメートルと、日本人が
もっとも低かった。
また、病気やケガによる学校の欠席率は中国が45.4%、韓国が71.6%、日本が53.1%、
自身の健康状態を「非常に悪い」「悪い」と評価した生徒は中国が25.9%、韓国が19.6%、
日本が19.3%だった。そのほか、毎日6時間以上睡眠をとっていない生徒は中国が30%、
韓国が57.9%、日本が46.6%だった。
心理面で「いつもストレスがある」と答えた割合は、中国が16.0%、韓国が47.1%、
日本が32.8%だった。
「自分には価値がある」、「自分はうまくいっている」かどうかを基準に「自身の存在価
値」を、また、「苦しみや困難にも落ち込まない」かどうかを基準に「意志力」を評価した
ところ、中国の高校生がもっとも自身に存在価値を感じ、自信と意志力の高さで日韓を大
きく上回ったことが分かった。
+++以上、YAHOO NEWS(2011-04-20より)+++
●整理
上海社会科学院の並べた数字を、整理してみる。
平均身長は……中国が 168.17センチメートル
韓国が 167.61センチメートル
日本が 164.70センチメートル
欠席率は……中国が 45.4%
韓国が 71.6%
日本が 53.1%
自身の健康状態を「非常に悪い」「悪い」と評価した生徒は……
中国が 25.9%
韓国が 19.6%
日本が 19.3%
毎日6時間以上睡眠をとっていない生徒は……
中国が 30%
韓国が 57.9%
日本が 46.6%
「いつもストレスがある」と答えた割合は……
中国が 16.0%
韓国が 47.1%
日本が 32.8%
ほかに数字では示されていないが、
『「自分には価値がある」、「自分はうまくいっている」かどうかを基準に「自身の存在価値」
を、また、「苦しみや困難にも落ち込まない」かどうかを基準に「意志力」を評価したとこ
ろ、中国の高校生がもっとも自身に存在価値を感じ、自信と意志力の高さで日韓を大きく
上回ったことが分かった』(ヤフー・ニュース)ということだそうだ。
●調査結果から
日本の高校生の平均身長は、164・70センチで、いちばん「低い」とある。
男子のことだろうか。
女子のことだろうか。
あるいは男女合わせてのことだろうか。
そこで日本側の調査を調べてみた(出典は「身長辞典」サイト)。
それによると、
15歳 男子 168・4
女子 157・3
16歳 男子 170・0
女子 157・8
17歳 男子 170・8
女子 158・1(単位は、センチメートル)
ついでながら、男子と女子の平均値も計算してみた。
(こんな計算は、意味がないが……。)
15歳…… 162・9
16歳…… 163・9
17歳…… 164・5(単位は、センチメートル)
そこでさらに15歳から17歳までの平均値を出してみる。
それによれば、高校生(1~3年)、男女合計の平均値は、
高校1~3年生、男女合計の平均値……163・8センチ。
(この数字も、意味はない。なぜならこの時期、子どもたちの身長は、毎月の
ように伸びる。
つまり伸びきったところで比較して、こうした調査は、はじめて意味をもつ。)
上海社会科学院が出した「164・70センチメートル」という数字に、ほぼ
近くなった。
つまり上海社会科学院は、高校生1~3年、男女ひっくるめて、平均値を出した(?)。
かなり乱暴な調査結果ということになる。
●考証
「病気やけがによる欠席率」とは、何か?
これだけ読むと、欠席率については、韓国がいちばん多く、日本、中国が、それに
つづくことがわかる。
しかし「欠席率」とは、何か?
1年間に欠席する子どもの割合?
反対にこの数字を読むと、いわゆる皆勤賞の生徒は、46・9%ということになる。
が、それもおかしい?
それとも1日レベルで、欠席している子どもの割合?
???
これだけの説明では、何をもって「欠席率」というか、よくわからない。
このままでは、日本の高校生のうち、53・1%(約半数)が、高校へ通っていない
ことになる。
しかしそんなことはありえない!
また自分の健康状態について、「悪い」と答えている高校生(日本)が、19・3%
もいることには、驚かされる。
健康盛りの高校生のうち、19・3%が、自分では悪いと感じているという。
……本当かなあ?
さらに言えば、何をもって悪いというかは、かなり主観的なもの。
私の年代(60代)でも、かなり病気ぽい人でも、「私は健康」と言う人はいくらでもいる。
一方、健康で、シャキシャキしている人でも、「私は病気がち」と言う人はいくらでもいる。
つづく「睡眠時間」と「ストレス」の調査結果ついては、数字としては、こんなもの
だろうと思う。
しかし平均値ほど、あてにならないものは、ない。
よい例が、学習時間。
たとえば1日6時間勉強する子どもと、まったく勉強しない子どもがいたとする。
平均値は、3時間ということになる。
この「3時間」をみて、「日本の子どもは、よく勉強する」と思うのは、まちがい。
つまり意味がない。
つまり平均値だけを見て、問題のある子どもを見落としてしまう。
そのほうが、危険。
●平均値・カルト
アメリカの数学の教科書(中学生・テキスト・プレンティス版)では、つぎのように
教える。
(アメリカの教科書は実用的だぞ!)
まず歴代の大統領の年齢を並べる。
つぎにその年齢の平均値を求める。
が、そのあと、こう結論づける。
(結論づけるところまで、教える。)
「大統領の平均年齢を調べても、意味がない。
70歳で大統領になった人もいる。
40歳で大統領になった人もいる。
平均値は55歳だが、そんな数字に、どんな意味があるというのか」と。
一方、日本人は、平均値に弱い。
やたらと平均値を出したがる。
学校のテストを例にあげるまでもない。
「平均的な生き方」というのが、国是(?)にもなっている。
またそれでもって、人生観、幸福感を組み立てる。
平均的であれば安心し、そうでなければ不安になる。
しかし「私は私、あなたはあなた」という生き様を貫いている人には、「平均値」
ほど意味のないものはない。
また気にしない。
……とまあ、よけいなことまで考えてしまったが、上海社会科学院の調査結果をみる
ときは、そんなことも頭のどこかに置きながら、参考にするとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 上海社会科学院 高校生の意識調査 平均値マジック 2011/04/20)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●平均的な生き方
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平均的な生き方?
日本人というのは、(大上段にものを言うのは、
危険なことだが)、何かにつけ、平均的な生き方
を大切にする。
平均的な生き方であれば、安心し、そうでなければ、
そうでない。
話せば長くなるが、これも長くつづいた封建時代の
遺物と考えてよい。
しかし平均的な生き方ほど、つまらないものはない。
意味のないものはない。
まっさきに思い浮かべるのが、「平均寿命」。
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●平均寿命
日本人の平均寿命(正しくは平均余命)は、xx歳だそうだ。
しかしそんな数字に、どんな意味があるというのか。
それによれば私の余命は、あとxx年。
実際には、その数字から10年を引いた年齢が、「健康余命」。
多かれ少なかれ、ほとんどの人は、10年ほど病気を引きずる。
闘病生活を繰り返したあと、あの世へ旅立つ。
今の今にしても、そうだ。
60歳を過ぎると、とたんに、健康な人とそうでない人の色分けが、はっきりと
してくる。
それまで裏で健康を支えてきた気力、体力が衰える。
とたん、隠しもっていた持病が前面に出てくる。
この段階で、その人の健康余命が決まる。
余命も決まる。
平均寿命などというものは、あくまでも「結果」。
それまでの人生の「結果」。
大切なことは、日々に健康を増進し、明日に備えること。
わかりやすく言えば、「私は私、人は人」。
さらに言えば、「無益に100年生きるよりも、有益に1年生きた方がよい」(某賢人)。
今、自分を健康だと思い、健康であれば、それでよい。
●平均的生活
併せて日本人は、「世間体」という言葉をよく使う。
「世間の目に合わせて生きること」を、「善」とする。
「世間が笑う」「世間が許さない」「世間体が悪い」などなど、いろいろな言い方をする。
こうした世間体意識を裏で支えるが、「平均的な生き方」ということになる。
しかし平均的な生き方とは何か。
また何をもって、平均的というか。
少し前(2011年4月)、私とワイフはオーストラリアへ行ってきた。
オーストラリアにはオーストラリアの「平均」というのは、たしかにある。
南オーストラリア州にある、ボーダータウンという町で3泊させてもらった。
あのあたりでは、少し郊外へ出ると、(郊外といっても、車で5分ほどだが)、
みな敷地が5000坪から、それこそ数万坪もある家に住んでいる。
そういうところと比較すると、私の家の敷地など、家のエントランスにも
ならない。
が、おかしなことに日本には日本の「平均値」というのがある。
その平均値をみて、私たちは安心したり、不安に思ったりする。
「私の家の敷地は100坪だ。ふつうの家より、広い」と。
もちろん「家」そのものも、広い。
T氏の家(夫婦と子ども1人)は、居間だけでも40坪以上。
それに不随する部屋は、20坪以上。
そういう部屋が5つも6つも、つながっている。
「日本では、家の広さにより税金が決まる」と言うと、すかさずオーストラリアの
友人は、「それはおかしい」と言った。
「それはおかしい。家の価値というのは、環境や質によって決まる。それで税金を
決めるべき」と。
オーストラリアには、「Land Valuer(不動産価値鑑定人)」と呼ばれる
人がいる。
その人の査定によって税金が決まる(Vic.州ほか)。
いくら広くても、環境が悪いところにある家は、価値が低い。
つまり税金は安い。
いくら狭くても、環境がよいところにある家は、価値が高い。
つまり税金は高い。
だから隣近所の人たちは、自分の家の不動産的価値を高めるため、隣近所の環境に
もうるさい。
隣の家が、庭を荒れ放題にしていたりすると、それに対して文句を言う。
だからこんなことを言う。
「土地は管理がたいへん。だから土地は管理できる分だけあればいい」と。
●職業観
日本人ほど、「平均的な職業観」にしばられている国民は、そうはいない。
たまたま昨夜も、中学生(女子)が、こんなことを言った。
「どうして先生のような人が、(学校関係の)講演ができるの!」と。
同時に、「先生のような人がどうしてここにいて、塾の先生をしているの!」と。
私が、「今度、I市で講演をする」と話したときのことだった。
が、その中学生が考えていることは、よくわかった。
私のような一介の、つまらない塾教師が、なぜ、講演ができるのか、と。
一方、教師相手に講演をするような先生が、なぜ、小さな塾で教師をしているのか、と。
しかし……
私とあのアインシュタインと同列に置くのはまちがっている。
が、あのアインシュタインも、ある少女の家庭教師をしていた。
で、あるときその高校生の母親が、それに気づき、アインシュタインに、「あなたのような
方が、どうしてうちの娘の家庭教師をしてくれるのか」と聞いたそうだ。
するとアインシュタインは、こう答えたという。
「私は、あなたのお嬢さんから、実はいろいろなことを教えてもらっているのです」と。
この逸話は、有名な話である。
そのときアインシュタインはノーベル賞を受賞し、すでに世界的に有名な学者になって
いた(後述※)。
その逸話を思い出したわけではないが、私はその女子中学生にこう答えた。
「実はね、ぼくのほうが君たちを教えることを、楽しんでいるんだよ」と。
つまりその女子中学生は、まだ中学生でありながら、「平均的な生き方」という、いわば
固定観念にしばられていた。
●大切なのは、生活の「質」
この日本では、「平均的な生き方」「平均的なものの考え方」が、「常識」となっている。
ここでいう「固定観念」というのは、それをいう。
が、それだけではない。
その「常識」が、人を判断する、ひとつの基準になっている。
先に挙げた、女子中学生も、そのよい例。
だれが教えるわけではない。
だれから学ぶわけでもない。
しかしこの日本で生まれ育つと、そういう「常識」を、知らず知らずのうちに、身につけ
てしまう。
自分の常識を縛りあげてしまう。
そこで大切なのは、「原点」。
原点に立ち返って、考える。
わかりやすく言えば、生活の質。
名誉や地位や肩書きではない。
あくまでも「質」。
それには平均以下もなければ、平均以上もない。
わかりやすく言えば、「私は私、人は人」。
逆に言えば、平均的な生き方ほど、つまらないものはない。
無難な生き方かもしれないが、そんな人生からは、ドラマは生まれない。
……というのは、書き過ぎ。
自分でも、それがよくわかっている。
『平凡は美徳』と説く賢人もいる。
要するに、「平均」という言葉には、意味はないということ。
あっても、あくまでも参考的意見。
平均に毒されすぎると、ときとして自分を見失う。
価値のあるものを価値がないと思い込んだり、反対に、価値のないものを、価値の
あるものと思い込んだりする。
だから結論としては、「平均など気にしないこと」ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 平均論 Land valuer アインシュタイン)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※)アインシュタインと家庭教師
●The important thing is not to stop questioning.
重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)
アインシュタインの言葉の中でも、とくによく知られた言葉である。
「問いつづけること」と。
生きるための究極の目標は、真・善・美の追求に、集約される。
もちろんほかにもあるだろうが、わかりやすく言えば、この3つ。
真実の追求、絶対的善の追求、そして究極の美の追求ということになる。
学者や研究者は、真を追求し、哲学者や宗教家は、善と追求し、芸術家は、美を追求する。
が、生涯において、どの分野においてもそれができない、あるいはそれができなかったと
いうのであれば、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)、あるいは「た
だの人だった」ということになる。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、「ただの人」という言葉を使った。
では、どうするか?
「ただの人」にならないためには、どうするか?
答は、アインシュタインが教えてくれた。
つまり「問いつづけること」と。
+++++++++++++++++++++++
●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if
everything is a miracle.
2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべ
てのものが奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生
き方がある。すべてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)
ものが見える。
音が聞こえる。
歩ける。
話せる。
仕事ができる。
そこに妻がいて、家族がいる。
健康だ。
食事がおいしい……。
すべてが奇跡である。
アインシュタインは2つの生き方を対比させながら、当然、「すべてのものが奇跡である」
という生き方を選択している。
私も、まったく、同感である。
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●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.
成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値
のある人間になることを考えろ。)
日本では、子どもに向かって、「偉い人になれ」と教える親は、今でも、少なくない。
日本では、地位や肩書きのある人、さらには金持ちの人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは、あまり言わない。
こういうとき英語国では、「respected man(尊敬される人)」という言葉を使う。
「尊敬される人」という意味である。
親たちは、子どもにこう言う。
「尊敬される人になりなさい」と。
「尊敬される人」というときには、地位や肩書きは関係ない。
金持ちであるかどうかも、関係ない。
ということで、「偉い人」というのと、「尊敬される人」というのでは、その間には、天地
ほどの開きがある。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私の頭の中では、そんなことが思い浮かんだ。
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●アインシュタインの人物像について(ウィキペディア百科事典より転載)(参考資料)
アインシュタインの人物像について、
ウィキペディア百科事典には、かなり詳しく
載っている。
その一部を転載させてもらう。
この中で、いくつか気になる点がある。
そのひとつ。
世界的な玩具販売チェーン店に、「TOYZARUS」(トイザラス)
というのがある。
お気づきの方も多いと思うが、その店の名前の「R」の部分は、
鏡文字になっている。
私は長い間、「どうしてRが鏡文字なのか?」と思っていた。
が、この記事を読んで、その謎が解けた。(たぶん?)
直接、アインシュタインと関係あるかどうかはわからないが、
アインシュタインは、「R」を、いつも鏡文字で書いて
いた。
「TOYZARUS」は、どこかでアインシュタインを意識して、
そういうふうに書くようにしたのかもしれない。
これはあくまでも私の、個人的な推測によるものだが……。
++++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載+++
非常に臆病で、生真面目でありながらも気さくな性格であった。
彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思ってい
なかったという。
ヴァイオリンの演奏を好んだ。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルと
アンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も
数えられないのか」と呆れられたという。
靴下を履かない。当時の靴下は脆く、すぐに破れてしまうため嫌いだった。そのため、常
に靴を素足のまま履いていたという。
睡眠時間は1日10時間と言われている。
非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に
食事を盛り付けると云う行動もあったといわれている。
最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学バーク
レー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは医学生時代に統合失調症を
発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破
局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても非常に冷
淡な態度を取り続けたことが公表されている。
ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後に本当に
受賞し賞金をあげたとされている。
笑わない。しかし、自身が舌を出している最も有名な写真は、1951年3月14日、アイン
シュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってく
ださい」というリクエストに応えてした表情を撮ったものである。さらにその写真はアイ
ンシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951
年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また、切手にもなった。
ノーベル賞受賞後、ニューヨークで、ある少女に数学を教えていたことがあった。少女の
母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき
彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及び
ません」と返答した。
Oren J. Turnerによる写真1947年
小学生のようにスペルを間違えることがままあったという。また、「R」の大文字を生涯鏡
字で書き続けた。
簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中
で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることを
どうして憶えておかなければならないのかね?」と、やりかえしたという。
幼年時の学習状況、成人してからの振る舞いなどから、アインシュタインには何らかの障
害(アスペルガー症候群、学習障害)と共通していることが指摘されているが、医学的な
検証はなされていない。
彼は手紙好きであり、有名になってからも一万通以上も手紙をやり取りしていたらしい。
+++++++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++
アインシュタインの言葉や映像については、
私のHPより、(音楽と私)→(命について考える)で、
楽しんでいただけるようにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Einstein アインシュタイ
ン アインシュタインの言葉 はやし浩司 アインシュタイン 少女 家庭教師)
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●実用的なことを教える(2007年9月に書いた原稿より)
++++++++++++++
この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。
統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。
このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。
アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。
金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。
どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。
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「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学
習基本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロン
ドン、ワシントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。
希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京
の小学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。
さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間
半以上が、18・1%いるそうだ。
全体の平均も、
東京 ……101・1分
ソウル……145・8分
北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシン
トン、ヘルシンキの、小学5年生(10~11歳、公立校)で調査。06年6月~07年
1月、産経新聞より)
私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という
中学生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はい
る」と話してくれたのを覚えている。
最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しな
い子どもの二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、
はげしくなっている。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半
以上が、18・1%」という数字になって、表れている。
なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。
+++++++++++
【日本の教育が遅れるとき】
●英語教育はムダ?
D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子ども
に、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。
しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、
外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るの
はムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。
しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。
●多様な未来に順応できるようにするのが教育
これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校で
は、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。
たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、
4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大
学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。
「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、
教育の目標だ」と。
事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。
「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営
者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達し
ていて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こう
いう時代に、「英語を教える必要はない」とは!
●文法学者が作った体系
ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文
法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者
になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体
系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。
こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっ
とかわいそうだ。
たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分
の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばか
りにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入
学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとん
どの子どもが、「英語、嫌い」と答える。
●数学だって、無罪ではない
数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なも
のなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切
なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つ
というのか。
こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活
を営む上で必要な基礎学力だ」と。
もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほし
い。「なぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばなら
ないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつ
けても、子どもたちは納得しないだろう。
現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなけれ
ばいけないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーシ
ョン・「第三回学習基本調査」2001年)。
●教育を自由化せよ
さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。
こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語
を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもが
いる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。
早くから教える必要はないという人もいる。
要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのよ
うにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」
ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべ
き姿ではないのか。それでほとんどの問題は解決する。
※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示してい
るが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校
はそのガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。
※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在
日イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九
〇年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われ
た認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はI
T(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に
直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急
激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度
が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教
職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」
とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとして
いる(2001年11月)。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
【実用的な教育】(2007年9月に書いた原稿より)
● すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、
学校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は
変わってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、
腹がふくれれば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、
それは必要なことかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽
しみを求めるようになったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求める
ようになった。
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●何のための歴史教育
生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言
うなら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわか
る。
昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれ
る進学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。
「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したん
だ。それで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。
そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしている
のか」と聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっ
つけてやる」とも言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20
万人だよ」と、私が言うと、「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。
●実用的でないのが教育?
こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私に
は理科教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当
におかしい? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教え
ている? 何かしら役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面
すらある。反対に、実用的なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。
アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始
め、小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん
免許も学校で取れる(地方の高校など)。
●学者になるには、すぐれた体系
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書
は、将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっ
ている。しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけで
はない。そういう道に進むのは、全体の1%もいないのでは?
歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験
や失敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、
こんなことを暗記している中学3年生がいた。
「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。
そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナ
ギの養殖なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「い
いの、そんなことは!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知ってい
るだろうか。
英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前か
ら言われつづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの
数年前。その成果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?
●教育の自由化を
みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自
由の流れの中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。
今の日本の教育は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能
主義。第一主義。絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、ど
こがどう違うのか。私には、その「違い」がわからない。
たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあ
と、好きなクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用
はチャイルドマネーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。
大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代
が、もう世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい
学校だの、いい大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ
行く。大学院へ行く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学
間を渡りあるいている。
●人間選別の弊害
今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっ
ていても、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君
というマレにみる、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生
でもできないような難解な数学を、自分で考えた方法で解いていた。
しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中
学を受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は
言った。
こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。
貧しい時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊
かな時代とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。
これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もあ
る。しかしその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行さ
れる「時事辞典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から3
0分の1にもならない。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というの
か。何をもって、基礎学力というのか。
たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、
ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、
美術、音楽、演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピ
ング、コンピュータなどもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教
育システムになっている。そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子ども
は、それぞれのクラブに通っている。
●自由度で決まる、国の力
国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐ
れた教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで
決まる。
話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子ど
もたちが将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくこ
とができるようにするためである。
とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすた
めである。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっ
ていない。日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?
注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そう
でない項目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を
算出した。(以上、2007年9月記)
Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司
【BW小学1年生クラス】
●連算を教える(繰り上がりのある足し算)
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新小学1年生、2回目のレッスン。
この時期、子どもはやや荒れた状態になります。
この状態が数か月つづき、やがて少しずつ
落ち着いてきます。
今は様子をみます。
子どもによっては、神経疲れを起こします。
で、今日は、連算を教えてみました。
このあたりで種まき的に「繰り上がりのある足し算」
を教えておくと、やがてそれが子どもの脳の中で
ふくらみ、それを本格的に教えるとき、簡単に
理解してくれるようになります。
大切なことは、「楽しませること」。
そうした思いが、やがて子どもを前向きに引っ張って
いきます。
2011/04/19
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●新小学1年生クラス(2011年4月19日)
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Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年4月20日水曜日
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