2011年4月13日水曜日

*Nihilizm on Nuclear Dusts

●相手が放射能では、戦いようがない(はやし浩司 2011-04-13)

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こと原発事故については、
私たちでは戦いようがない。
相手は目に見えない放射能。
どうやってその放射能と
戦ったらよいのか。

ゆいいつできることと言えば、
逃げること。
逃げることでしかない。

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●ニヒリズム?

 現在、オーストラリアの友人が東京にいる。
昨日の午後、成田空港へ着いた。
いつもなら東京まで出迎えるのだが、今回は遠慮させてもらった。
率直に言えば、東京へは行きたくない。
いくら政府が「安全」と言っても、私は行きたくない。

 その友人と電話で話す。
友人は、韓国経由で成田へやってきた。
その飛行機について、白人の外国人は、彼1人だけだったとか。
私も先週、オーストラリアから帰ってきたが、アデレードからシンガポールまでは、
ほぼ満席。
シンガポールから名古屋までは、がらがら。
ANAがキャンセルしていたので、2便合わせても、がらがら。
白人の外国人は、やはり、ほとんどいなかった。

 理由は、福島第一原発の事故。
昨日、事故評価が、「レベル7」に引き上げられた。
政府(東京電力や保安院)は、「チェルノブイリとは中身がちがう」と、さかんに
宣伝している。
それはそうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし原発事故は、今、始まったばかり。
この先、どうなるか、わからない。
余震だって、収束したわけではない。

●二重構造

 教育者も、よく大きなジレンマに陥る。
理想として、ひとつの教育論を説いても、その一方に、「現実」がある。
よい例が、「生徒」と「自分の子ども」の関係。

 たとえば口では、いくら受験教育の弊害を説いても、いざ、自分の子どもたちの
こととなると、そうはいかない。
つい、「勉強しなさい!」と言ってしまう。
そのとたん、大きなジレンマに陥ってしまう。

 今、私はその大きなジレンマを感じている。
いくら安全と自分に言い聞かせても、やはり大きなブレーキが働いてしまう。
私だけではない。
テレビで解説する「専門家」にしてもそうだろう。
もしそれほどまでに安全なら、自分で、福島県まで行ってみたらよい。
原発の近くまで、行ってみたらよい。

あるいは各テレビ局は、福島県にある支局にスタジオを移し、そこから放送して
みたらよい。
東京電力の社員たちも、みな、福島県に集まり、そこで会見を開いてみたら
よい。
自分たちは東京という安全圏(?)にいて、「福島県は安全です」は、ない。

 「どうしても……」という必然性がないかぎり、私は東京には行きたくない。
東京以北には、行きたくない。
それが私の本音。

●安全か?

 繰り返す。 
「心配ない」と言うのなら、自分で、原発近くまで行ってみたらよい。
自分で、福島産の野菜を食べたり、そこで水を飲んでみたらよい。
それもしないで、軽々に「心配ない」とは言ってほしくない。

 昨日も中学生になった生徒が、こう聞いた。
「先生、浜松は、安全か?」と。
それに答えて、私は、こう言った。
「今、日本で安全なところはない」と。

 本来なら、「浜松は心配ないよ」と言ってやりたい。
子どもたちを安心させてやりたい。
しかし自分が東京へ行きたくないというのに、どうして子どもたちに「安全」などと、
言えるだろうか。
もし私が「安全」と言ったら、それこそ私は大きなジレンマに陥ってしまう。
「私」の表と裏が、ばらばらになってしまう。

言い換えると、あの解説者たちは、自分の中にジレンマを覚えないのだろうか。
テレビなどで、相変わらず、「心配ない」「安全」をいう言葉を繰り返している。
視聴者を心配させたくないという思いは、私にも理解できる。
理解できるが、私なら、とてもそんな言葉を口にすることはできない。

●放射能

 今のところ、原発は小康状態を保っている。
それを指して、政府は「放射能の放出量は、チェルノブイリの10分の1程度です」と、
さかんに言っている。
が、実際には、原発には、放出量の250倍もの放射能が残っているとか(産経新聞・
4・13日)。
単純に計算しても、チェルノブイリの25倍!

 もし1機でも爆発事故を起こしたら、もう打つ手はない。
人が近づくことすら、できなくなる。
そのため残りの5機も、制御不能となり、つぎつぎと爆発する。

 また今回は、たまたま不幸中の幸いと言うべきか、「風」に守られた。
事故以来、ずっと西風(陸から海への風)が吹いていた。
が、風向きが変わったら、どうなるか?
ことはそれほどまでに深刻であり、危機はそこまで迫っている。

 私たちが認識すべきは、そういう「危機的状況」である。
はっきり言えば、「国が……」「国が……」と言っているレベルの問題ではない。
国そのものの存続が危ぶまれている状況と考えてよい。

●ニヒリズム

 私は今、大きなニヒリズムを感じている。
「冷酷さ」と言ってもよい。
「ここまでくると、もうなるうようにしか、ならないだろうな」と。
またそう思わないと、心の中のモヤモヤをどうしても晴らすことができない。
モヤモヤというより、「抑鬱感」。

 相手がどこかの国の侵略者なら、まだ戦える。
棒でも竹槍でも、それをもって戦える。
しかし放射能が相手では、戦いようがない。
原発事故にしても、私たちの手の届くような問題ではない。
言うなれば、私たちは手も足も縛られている。
自分の意見を書きたくても、書きようがない。
今は、そんな状態。

 ……この無力感。
この脱力感。

 では、どうしたらよいのか。

●いくつかの提案

(1)余震がつづく間は、太平洋側の原発はすべて、(御前崎の浜岡原子炉も含めて)、
運転を休止する。
その間、電力不足による不便は、みなで負担する。

(2)浜岡原子炉についても、これから10メートルを超える防波堤を作るなどと、
のんきなことを言っている(4月12日)。
だったら、その防波堤ができるまで、運転を休止する。
「危機感のない災害訓練」(中日新聞)など、いくら繰り返しても、意味はない。

 もしここに書いた私の意見が暴論と思うなら、もし事故が起きても文句を言わ
ないこと。
「国が……」「国が……」と言わないこと。
大切なことは、自分で考え、自分で判断し、自分で責任を取ること。

 ……と書いてみたが、本当の本当は、何とか早くこの危機が収束してくれること。
それを心底、願っている。
が、悪いニュースばかりではない。

 2号機をのぞいて、ほかの原子炉は、管理下(under control)の状態にあるという。
この状態がうまくつづけば、原発事故は、収束に向かう。
収束に向かった道筋が見えてくる。
そんなわけで、現場で懸命の作業をしている人たちには、心から感謝したい。
応援したい。
どうかどうか、日本を考えて、がんばってほしい。

 で、その一方で、私たちは私たちで、それなりの覚悟を決める。
さらに最悪の状態になっても、動じないよう、今から覚悟を決める。
そのときどうしたらよいか、つまりどう判断し、どう行動したらよいか。
それをあらかじめ、頭の中でシミュレーションしておく。
被災地の被災者の方々には申し訳ないが、明日は我が身。
明日は、私たちが、その被災者になる。

 ……結局は、自分の身の保全しか考えていない私。
そうであってはいけないと思うが、しかしこと原発問題に関していうなら、どうしても
そうなってしまう。
そこに放射能があるなら、逃げるしかない。
先にも書いたが、相手が相手だから、どうしようもない。
戦いようがない。

 今朝は、こんな暗いエッセーしか書けなかった。
みなさん、おはようございます。
2011/04/13


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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