●おかしな外来語、「マニフェスト」
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「マニフェスト」とは、何か?
その意味を知っている人は少ない。
この日本では「選挙公約」のことを、
「マニフェスト」と言う。
だったら、「選挙公約」と言えばよい。
どうしてわざわざ「マニフェスト」と言うのか?
で、ウィキペディア百科事典で調べてみたら、
こうあった。
マニフェスト(manifesto) とは、宣言書・
声明文の意味、と。
だったら、「選挙宣言書」と言えばよい。
「選挙声明文」でもよい。
「選挙宣誓書」なら、さらによい。
「選挙公約」と言うよりは、重みがぐんとます。
「マニフェスト」と「選挙公約」。
「選挙公約」と「マニフェスト」。
どう考えても、「マニフェスト」のほうが、軽い。
横文字であるだけに、意味がわからない。
わからない分だけ、ピンとこない。
やはり「選挙宣誓書」という言葉を使った
ほうがよい。
そのほうが、わかりやすい。
そうでなくても日本人は、ウソに甘い。
「ウソも方便」という言葉もある。
平気でウソをつく。
ウソをつかれても、怒らない。
公約など、腸から出るガスのようなもの。
私たちもそう考えているし、政治家たちも
そう考えている。
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●飛騨の昼茶漬け
またまた経験した。
が、だからといって、その知人の妻を批判しているのではない。
久しぶりに、あの言い方を聞いた。
こんな言い方……。
先日、知人が亡くなった。
通夜には行けなかったので、その前日、知人宅を訪れた。
そのときのこと。
知人の妻は、知人の横に座っていた。
私が知人に別れを告げているとき、その妻が、こう言った。
「林さん、昼ご飯を食べていってください」と。
が、その地方では、それがあいさつ言葉になっている。
朝、遅く起きても、「おはよう(=早いですね)」と言うのと同じ。
ウソではないが、ウソ。
そんなとき、「じゃあ、いただきます」などと言おうものなら、さあ、たいへん。
家中、大騒ぎになる。
昼ご飯など、どこにも、用意されていない。
もう10年も前に、こんな原稿を書いた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【表と裏】
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みながみなというわけではないが、
私が生まれ育った郷里のM町では、
ときどき、何が本当で、何がウソ
かわからなくなる。
ウソをウソと意識しないまま、平気
でウソをつく。それがその地方の
習慣にもなっている。その場、その場で、
適当なことを言って、とりつくろう。
が、何よりも不思議なのは、そういう
ウソをつかれながらも、つかれた
ほうも平気、ということ。
それなりに、みな、うまく、やっている。
その郷里を離れて、40年。
以前、「飛騨の昼茶漬け」について
書いたことがある。4年前の原稿
である。(2007年6月記)
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●飛騨の昼茶漬け
日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。
「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
「ああ、そうですか。では、失礼します」と。
このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答える。
この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにもいかない。
こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っているかもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。
こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。
ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学にいたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつもりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょに、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。
日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソについて、日本人とオーストラリア人とでは、ウソに対する寛容度がまったく違うということを思い知らされた。
本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。
●私はウソつきだった
実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかもしれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。
その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売では、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は毎日、そういうウソを見て育った。
だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、それですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には変えられない。
そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているかを考えてみてほしい。
もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、
日常的に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけない。……とまあ、大上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の子育てで、一番欠けている部分でもある。そこでテスト。
もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎわ、10万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろうか。
さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に言えば、そういうことになる。
つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つまりそれは私自身の欠陥というより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなたは、子どものころ、学校で、そして家庭で、どのような教育を受けただろうか。
【補記】
日本人のこうした国民性は、話せば長くなるが、長くつづいた封建制度の結果と考えてよい。今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に正直に生きる」ということそのものが、不可能だった。
それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。ただここで言えることは、決して、あの封建時代を美化してはいけないということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価はしなくてはいけない。しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。
(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 飛騨の昼茶漬け ウソも方便 嘘も方便)
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●表と裏
私の知人の中にも、こんな人がいる。裏で、私の悪口を言いながら、表では、平気でつきあってくる人である。私はそういう人を見ながら、「この人の精神構造は、いったいどうなっているのだろう?」と思う。
が、私は私で、そういう人とはつきあわない。一度でも、そういう事実を知ったら、つきあわない。交際をやめる。年賀状の交換もやめる。が、そういう人にかぎって、騒ぎたてる。
「あの林は、年賀状の返事もよこさない」とか、何とか。
あるいは私の動向をさぐってくる。何だかんだと口実をつくっては、近づいてくる。よほど私のことが気になるらしい。もちろん、私に好意的だから、そうするのではない。私が失敗したり、不幸になったりするのが、楽しみだから、そうする。それが私にもよくわかる。
どうせそのレベルの人たちだから、そういう人は、無視する。相手にしない。
……ということで、私は若いころ、こんな鉄則を自分につくった。『つきあうなら悪口を言わない。悪口を言ったら、つきあわない』と。
ついでに同じころ、こんな原稿を書いたこともある。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●電話の口
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あなたは受話器の話し口を手で押さえて、
近くの人と、話をすることはありませんか?
しかし、それはたいへん、危険なこと。
一度でも、それをすると、それが理由で、
相手との人間関係を破壊することになるかも?
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あなたは今、電話で、だれかと話をしている。だれでもいい。だれかだ。そのとき、あなたは、近くにいる、子どもか、夫か、あるいは妻と、何か相談しなければならないことができた。受話器はもったまま、だ。
そのとき、あなたなら、どうするだろうか。
一番、安全な方法は、電話機の「保留ボタン」を押すことだ。それを押せば、何らかの音楽が流れ、会話は、それで完全に、途切れる。
しかしそこまでは、したくない。その必要は、ない。そういうとき、あなたならどうするだろうか。……あなたは、多分、電話の話し口(聞き口ではなく、話し口)の方を、手で押さえる。そして小さな声で、近くにいる人に、顔をしかめながら、こう言うにちがいない。
「この電話、あの林からよ。いやねエ~。どうるす?」と。
あなたは話し口を手でしっかりと押さえている。だから小声で話したことは、相手には、聞こえないと思っている。
だからそう言い終わると、また手を離して、「そうですねえ、わかりました、林さん」と、明るい声で話す。
しかし……だ。最近の電話機は、性能がよい。話し口を手で押さえたくらいでは、会話をさえぎることはできない。あなたの話した言葉は、実は、耳にあてた聞き口からも、相手に伝わる。話し口も、聞き口も、原理的には、構造は、同じ!
だから、電話機の口を手で押さえたくらいで、安心してはいけない。最近だが、こんなことがあった。
私は、B氏に電話をした。少しこみいった話なので、内容は、省略する。しかしB氏は、留守だった。(実際には、居留守を使っていた。)かわりにB氏の妻が電話に出た。
私「……では、いつお帰りですか?」
妻「もうすぐ帰ってくると思いますが……」と。
そのとき、B氏の妻は、受話器の話し口を手で押さえた。その感触というか、手で押さえた感じが音でわかった。ポンと耳がつまったような感じがした。B氏の妻は、近くにいるB氏に、小声で、こう言った。「あの林からよ。いやねエ……。この電話、どうする?」と。
それに答えて、そばにいたB氏は、多分、首を横に振ったのだろう。B氏の妻は、夫の様子を見て、再び、明るい声で、「ごめんなさいねエ。また帰ってきましたら、林さんから電話があったことを、主人に伝えておきますから……」と。
……という、この話は、実は、フィクションである。最近、別のところで経験したことを、私の話にからめて、作ってみた。
しかし、現実に、こんなことが私に起きたとしたら、私なら、そのB氏とは、絶交する。つきあう必要は、ない。つきあいたくもない。
……ということで、今日は、電話の話。今でも、受話器の話し口を手で押さえて内密な話をする人は、少なくない。しかし、それはたいへん危険なこと。あまりにも無防備なこと。それをみなさんにお伝えしたくて、このエッセーを書いた。
……この話が、ウソだと思うなら、だれかに協力してもらって、自分で確かめてみたらよい。私の言っていることがウソでないことが、わかってもらえるはず。どうか、くれぐれも、ご用心!
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この中で、私は、「この話は、フィクションである」と書いた。しかし詳しくは書けないが、似たような経験をしたから、私は、この話を書いた。
ここでいうB氏も、表と裏のある人ということになる。それまではかなり親しくつきあっていた人だったが、私は、この電話のあと、B氏とは、縁を切った。ワイフは、「適当につきあっておけばいいのよ」と言ったが、私には、そういう芸当ができない。若いころならできたかもしれないが、今は、もうできない。めんどうというか、そういう人が近くにいるだけで、神経がすり減ってしまう。
が、B氏にはそれがわからない。わからないというか、私がなぜ怒っているかさえ、わかっていない。だからそのあとも、何ごともなかったかのように、何度も電話をかけてきたりした。
適当にものを言って、その場をやりすごす。そういう人は、少なくない。好きか嫌いかということになれば、私は、そういう人が、大嫌い! そういう人と、愚劣な交際をつづけて、無駄にする時間は、私には、もうない!
【補記】
私は、そういう意味でも、この浜松が、大好き! 私のワイフの兄弟にしても、みな、正直。本当に正直。表も、裏もない。そのわかりやすさが、たがい人間関係を、さわやかなものにしている。
たとえばこの浜松では、ものの売買をするときでも、(掛け値)ということをしない。(値切る)ということもしない。そういうやりとりをしているところを、見たことさえない。
人間関係もそうで、少なくとも私のワイフの兄弟たちは、ありのままの姿で、ありのままに生きている。飾ることもない。虚栄を張ることもない。見栄や世間体とは、みな、無縁の世界で生きている。すばらしいことだと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 日本人の嘘 はやし浩司 日本人のウソ ウソも方便論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●再び、マニフェスト
ウソをつくのが商売。
それが政治家。
そんな政治家に、誠実さを求めても、意味はない。
悲しいことだが、この日本では、だれもが、そう思っている。
私もそう思っているし、あなたもそう思っている。
私もごく最近まで、「公約」などというものは、選挙に勝つための「方便」と思っていた。
言うなれば、「選挙目標」。
だから公約が破られたからといって、それほど腹を立てなかった。
が、しだいにウソに対して、国民の目がきびしくなってきた。
日本人の意識が、少しずつだが、変化してきた。
「公約違反」という言葉も、よく聞かれるようになった。
そこで登場したのが、「マニフェスト」?
「軍隊」を「自衛隊」と言い換えるようなもの。
つまり国民をだますための煙幕?
私には、そう思われてならない。
だったら、やはり「選挙宣誓書」と言えばよい。
どうしてそういう言葉を使わないのか?
そのほうがわかりやすいし、国民も、注視する。
もちろん重みも、ぐんとます。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マニフェスト 選挙宣誓書 選挙声明文 公約論)
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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