●もうけもの人生
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ワイフの父親は、戦時中、ラバウルに向かった。
3000人の兵士とともに、ラバウルに上陸した。
が、そこで終戦。
父親の話によれば、生き残って帰ってきたのは、
そのうちの、たったの300人。
(ラバウルでは、約13万人の日本兵が戦死。)
だから生前の父親は、いつもこう言っていた。
「申し訳ない、申し訳ない」と。
私も、1、2度、その言葉を耳にしたことがある。
「自分だけ生き残って帰ってきて、申し訳ない」と。
そのことが大きく関係したかどうかは、知らない。
しかし、がんで手術することになったときのこと。
ワイフの父親は、二度と自宅に帰ることはないと覚悟したのか、
身辺をきれいに整理して、病院へ向かった。
が、手遅れだった。
開腹はしたものの、そのまま縫合。
それから約1か月後、ワイフの父親は他界した。
私も何度か見舞いに行った。
が、ワイフの父親ほど、すばらしい死に様を見せた人を、
私は知らない。
私が病院へ行くと、いつもベッドの上で正座していた。
かなりの激痛があったはずだが、ただの一度も、
「痛い」とは言わなかった。
そして最期の最期のときも、家族が見守る前で、
自らいくつかの管をはずし、静かに息を引き取っていった。
まったく動ずることはなかった。
私はその話をワイフから聞き、「人は、こんなにも
すばらしい死に方ができるものか」と、驚いた。
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●もうけもの
ものが見える、音が聞こえる、風を肌で感ずる……。
それだけでも、すばらしいこと。
そのすばらしさに気づいたら、身のまわりのもろもろの問題は、そのまま霧散する。
それを学生時代の友人は、こう表現した。
「もうけもの」と。
友人はすでに10年近く、がんで、闘病生活をしている。
毎日薬をのみ、週に1度は病院へ行き、月に一度は検査を受けている、と。
「あのなあ、林(=私)、がんなんてものはなあ、見つかったら、切ればいい。
切ったときから、5年は生きられる。
その5年は、もうけものなんだよな」と。
励ますつもりで電話したのだが、かえって励まされてしまった。
●人生、50年
昔は「人生、50年」と言った。
その前の江戸時代には、平均寿命は45歳前後だったという。
それを思えば、今の私はとっくの昔に死んでいても、おかしくない。
その私が63歳になった今も、生きている。
これを「もうけもの」と言わずして、何と言う?
そこで重要なことは、その(もうけもの)の人生を、どう生きるかということ。
さらに言えば、密度。
だらだらと無益に100年生きるよりは、たとえ1日でも、有益に
生きたほうがよい。
『朝に道を聞かば・・・』(論語)というのは、そういう意味である。
●健康寿命
が、私が「もうけもの」と言うときには、もうひとつ別の切実な問題がある。
老後の資金の問題である。
できれば死ぬ間際まで働き、ポックリと死にたい。
そうすればだれにも迷惑をかけることなく、死ぬことができる。
が、そうはいかない。
健康寿命は、(平均余命)―(10年)という。
男性について言えば、健康寿命は69歳前後(79歳-10年=69歳)。
そのあと10年ほどは、もろもろの病気を繰り返す。
79歳ごろ、寿命が尽きる。
その「10年」が問題。
私だけの問題ではない。
ワイフの問題もある。
元気で仕事ができればできるほど、資金がたまる。
その資金で、有料老人ホームに入ることができる。
●無縁死
最近、話題になっているのが、「無縁老人」「無縁死」。
最初にその言葉を知ったときには、私も少なからずドキッとした。
しかしこのところ、心境が変わってきた。
「それもいいのではないのかな」と。
つまり無縁老人になろうが、無縁死をしようが、それはそれ。
……というか、古今東西、ほとんどの人は、皆、そういう死に方をしている。
それを「悪いこと」とか、あるいは「あってはならないこと」と考えるから、
話がむずかしくなる。
「老人」になるまで生きられただけでも、御の字。
若くして死んでいく人のことを思えば、なおさら。
それはちょうど、シワの数を心配する、若い女性に似ている。
歳を取れば、だれだってシワはふえる。
どうしてそれが悪いことなのか。
喜んで無縁老人になり、無縁死をすればよい。
またそうであるからといって、それを「不幸なこと」と決めつけてはいけない。
大切なことは、それ以上に、「今」をどう生きるかということ。
有意義に、どう生きるかということ。
方法は簡単。
ただひたすら懸命に生きればよい。
結果は、かならずあとからついてくる。
●結果
こう書くと、そうでない人たちにたいへん失礼な言い方になるかもしれない。
しかし私は、こう思う。
「63歳の今、こうして元気で仕事ができるだけでも、ありがたい」と。
頭のほうも、いまのところ心配なさそう。
そういう私を見て、ワイフはこう言う。
「私たちはラッキーだったわ」と。
大きな病気はしなかった。
大きな事故もなかった。
が、私はそうは思わない。
20代の後半から、60歳になるまで、私は運動を欠かさなかった。
毎日、2単位(1単位=40分)のサイクリングをつづけた。
頬を切るほど冷たい風の中でも、欠かさなかった。
その結果が、「今」ということになる。
●放心状態
はからずも今回、私はがん検診で、「死」をそこに感じた。
自分の限界を、そこに感じた。
「私も、ここまでか」と。
しかし不思議なことに、あれほどまで日ごろは、死を恐れていた私が、冷静だった。
もう少し取り乱すかと思った。
事実、30歳前後のとき、脳腫瘍を疑われたときには、放心状態になってしまった。
病院からどのように家に帰ったか、覚えていない。
途中でワイフが車で拾ってくれたが、ワイフはこう言った。
「あなたは幽霊みたいだった」と。
その夜は、1歳に前後になったばかりの長男の顔を見て、泣き明かした。
その同じ私が、冷静だった。
その理由のひとつが、ワイフの父親ではないかと思う。
父親は、「死んでいて当たり前」という前提で生きていた。
今の私について言えば、「死ぬのが当たり前」。
それを思えば、一日、一日、生きているだけも、ありがたい。
意識したわけではないが、いつの間にか、私はその精神を引き継いでいた。
そこで今は、こう思う。
「生きているだけでも、もうけもの」と。
●もうけもの人生
ここ数日は、のんびりとさせてもらっている。
今朝も、午前8時起き。
しかし昨日から、運動を再開。
今日から原稿書き、再開。
明日からは、また午前5時ごろ起きる。
ただ頭の活動は、たしかに鈍くなってきた。
新しい発見も、少なくなってきた。
何よりも心配なのは、ものごとに対する関心が薄れてきたこと。
ニュースサイトに目を通しても、そのまま読んで終わってしまう。
「これではいけない」とは、思う。
思うが、そのまま終わってしまう。
(そう言えば、最近、「電子マガジンをやめようか」と思うことが多くなった。
それもそのひとつ。)
生きることに、めんどう臭さを覚えるようになったら、おしまい。
だから今日もがんばる。
がんばろう!
2011年2月18日朝記
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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