2012年1月8日日曜日

*What is Happiness for Men?

【幸福論】byはやし浩司

 私のBLOGに、コメントがついた。
コメントそのものは、珍しくない。
何かを書けば、かならずといってよいほど、コメントがつく。

しかしそのBLOGが、長い間、闘病生活をしている人の、何かの励ましになったらしい。
そういう内容のコメントだった。
うれしかった。
改めて、そのコメントのついたBLOGを、読みなおしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Joy & Happiness(2010年4月記)

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英語の文章を読んでいたら、英語国では、「Joy(喜び)」と、
「Happiness(幸福)」を、使い分けて考えて
いることがわかった※。

Joy、イコール、Happinessではない。
ある賢人は、こう書いている。

「Joyは、液体的なもの。Happinessは、
固形的なもの」と。

ワイワイと喜ぶのを、Joyというのなら、Happiness
は、静かなもの。
Joyは一時的なものだが、Happinessは、その人の
根底をささえるもの。

Joyは目に見えて、わかりやすいが、Happinessは、
それを失ったときに、それがわかるもの。
それまでは空気のようなもの。
目立たず、あなたの周囲で、ひっそりとたたずんでいる。
……とまあ、いろいろに解釈できる。

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●大切なのは「今」

 幸福を考えるとき、皮肉なことに、犬の生き方を見ていると、おおいに参考になる。
犬は、その日、その日を懸命に生きている。
そこにあるのは、「今」という現実だけ。

 たとえばうちのハナ(犬、ポインター種)は、今年で、満14歳になる。
7倍すると人間の年齢に相当するそうだ。
だから人間の年齢にすると、98歳ということになる。
が、「死ぬ」ということに、何ら恐れを抱いているようには見えない。
「死ぬ」という概念すら、もっていない(?)。

 長い間、相棒だったもう一匹の犬は、6、7年前に死んだ。
「相棒」というよりは、母親的な存在だった。
さぞかしさみしいだろうなと思って、あれこれと気をつかった。
しかしそれほどショックを受けたようには、見えなかった。

●懸命に生きる

 「死」を考えるから、人生に、閉塞感が生まれる。
だからといって「死」を軽んじろということではない。
しかし生きている間は、「死」のことなど、気にしない。
気にしても、どうしようもない。
仮にあなたが今、健康で、仕事をし、家族がいるなら、「死」のことなど、気にしない。
「今、生きている」。
それだけを考え、あとは前向きに生きていく

 そのときは、そのとき。
死がやってきたときは、そのとき。
そうでなければ、犬のように生きればよい。
その日、その日を、懸命に生きればよい。

●回顧性

 満55歳前後から、人は、それまでの展望性から回顧性へと、人生観が変化していく。
わかりやすく言えば、生き様が、うしろ向きになる。
過去ばかりを、振り返るようになる。
これには、理由がある。

 脳みそについて言えば、後半期(recent)に蓄えた記憶ほど、先に消失していく。
そのため古い記憶ほど、脳みその中に残る。
だから歳を取れば取るほど、若いころ、さらには子どものころの記憶が、より強く
思い出されるようになる。
あるいは子どものころの記憶だけになる。
それが回顧性へと、つながっていく。

 私の知人の中には、50歳になったばかりというのに、墓参りばかりしている人がいる。
またそうすることが、人として、正しい道と思い込んでいる。
「先祖」「親孝行」という言葉も、よく使う。
回顧性というのは、それをいう。

●日々の生活の中に

 話が脱線したが、幸福に限界を感ずるのは、そこに「死」があるから。
病気になったとき、健康の意味がわかる。
そのとき健康の限界を知る。
同じように、いくら私は幸福と思っても、それは長つづきしない。
長つづきしないものという前提で、それを大切にする。

 ここで誤解してはいけないことがある。
多くの賢者が書き残しているように、幸福というのは、私たちのすぐ身近にある。
身近の、すぐそこにあって、私たちに見つけてもらうのを、じっと待っている。

 朝起きる。
目を覚ます。
朝日が、障子窓の向こうから白い光を投げかけている。
また目を閉じて、とりあえず、やるべきことを考える。
サクランボの木を切る。
空き地に、除草剤をまく。
ビワとレモンの木に、(催促肥料)をまく。
「礼肥料」ではない。
私たちは、「催促肥料」と呼んでいる。
「もっと実をつけろ」と催促しながらまくから、「催促肥料」という。
 それが「幸福」ということになる。

●幸福論

 懸命な人は、その価値を、失う前に気づく。
そうでない人は、それを失ってから気づく。

その第一が、健康。
その第二が、青春時代。

子どもがいれば、その第三は、子どものよさということになる。
が、それにもうひとつつけ加えれば、「幸福」ということになる。
 つまるところ、幸福というのは、その人の賢明さが作り出すもの。
賢明な人は、そこに幸福があることを知る。
そうでない人は、そこに幸福があることも知らず、あたふたと、
幸福をふみにじって生きる。
そう考えてよい。
それがこのエッセーの結論ということになる。
(10-04-25)

(補記注※)
The fact is always obvious much too late, but the most singular difference between
happiness and joy is that happiness is a solid and joy a liquid.
J.D. Salinger

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【人間が存在する意味】

●映画『フライト・ナイト』(Fright Night)

 昨夜、映画『フライト・ナイト』を観てきた。
昨日が、封切り日だった。
あまり観たくなかった。
この種の映画は、見飽きた。

が、このところよい映画がない。
ボケ防止のためにということで、観てきた。
内容は、3流。
予想通り、意味のない恐怖映画。
星はつけようもない。

 帰りに劇場から歩いて5分ほどのところにあるレストランで、遅い夕食を食べた。
すでに時刻は午後10時を回っていた。
そこでワイフと、こんな話をした。

●ドラキュラ

 ワイフがこう聞いた。
「ドラキュラって、本当にいるの?」と。
私は即座に、こう言った。
「いるわけがない。『いる』という意味がない」と。

 映画『フライト・ナイト』は、ドラキュラの映画だった。
そのドラキュラ。
どんな生物にも、その生物が存在するためには、その「意味」がある。
たとえば庭を這うアリにしても、そうだ。
もしアリがいなければ、この地上は、ゴミだらけになってしまっていただろう。
動物や虫の死骸だらけになってしまっていただろう。

 蚊にしても、ネズミにしてもそうだ。
基本的には、ふえすぎた生物を減らすという「意味」のために、「存在」する。
(もっとほかの「意味」もあるかもしれないが……。)

 アリがいるから、地上はいつも、クリーンな状態に保たれる。
蚊にしても、ネズミにしても、伝染病を蔓延させることで、「数」を減らす。
あのクモにしても、もしクモがいなかったら、人間は絶滅していただろうと言われている。
私の意見ではない。
生物学者たちの常識である。

それが「意味」ということになる。

 では、ドラキュラは、どうか?
存在したからといって、どういう意味があるのか?

 つまり意味がない。
いなくても、何も困らない。
意味がない生物は、10万年単位の淘汰を経て、絶滅する。
1万年でもよい。
1000年でも、100年でもよい。

●思考力

 言い換えると、人間にしても、そうだ。
人間が「存在」するには、それなりの「意味」がある。
「意味」があるから、この世界に「存在」する。

 それを人間自身が自覚しているかどうかは、わからない。
庭を這うアリと同じように、自分たちの「存在の意味」を知らないまま生きているかもしれない。

が、人間には、思考力がある。
こうして文にして、他人に、考えたことを伝える能力がある。
そういう能力をフルに使えば、人間は、自ら、その「意味」を知ることができるかもしれない。
人間の「存在」をはるかに超えた、その向こうにある「意味」を知ることができるかもしれない。

 その「意味」を知ることが、人間の英知の最後の目標ということになる。

●人間の存在

 が、反対に、もし人間が「存在する意味」を失ってしまったら、どうだろうか。
たとえば今、地球温暖化が深刻な問題になっている。
人間どころか、そのため、ありとあらゆる生物が絶滅するかもしれない。
つまり「人間の存在」そのものが原因で、地球を火星のようにしてしまうかもしれない。

 人間という、たった一種類の生物のために、その他ありとあらゆる生物が犠牲になる?
もしそうなら、人間には「存在する意味」がないということになる。
が、そう考えることは、あまりにも絶望的。
またそういうふうには、考えたくない。

●がん細胞

 昔、東大の松井孝典教授(東京大大学院教授・惑星物理学)が、何かの会議でいっしょになったとき、こんなような言葉を使った(「愛知万博・諮問委員会)。
「生物圏」と。
(「生命圏」だったかもしれない。あるいは「人間圏」だったかもしれない。)

 宇宙から見ると、個々の生物を見ることはできない。
が、地上には「生物圏がある」と。

 私はその言葉を聞きながら、「ああ、人間って、がん細胞と同じだな」と思ってしまった。
宇宙から見ると、地球そのものが生命体。
生物は、その地球の表面を、皮膚のように覆っている。
つまり人間が住む「生物圏」は、まさに細胞の集合体のようなもの。
その細胞の中にあって、人間は自ら、地球という生命体を自ら滅ぼそうとしている。
だから、がん細胞。

 が、「がん」にしても、「存在する意味」がある。
最終的には、がんが、生命にピリオドを打つ。
もしがんがなければ、それこそ地球上は人間だらけになってしまう。
人間だらけになってしまったら、人間の進化は、そこで停止してしまう。
絶滅してしまう。

 つまりがんは、最終的には古い人間を解体するという「意味」をもっている。

 がんによって、古い世代が死に、新しい世代が生まれる。
そのプロセスの中で、人間は、進化をつづけることができる。

●貪欲さ
 
 ということは、仮に地球が火星化したとしても、そうするのが人間の「存在の意味」ということになる。
つまりありとあらゆる生物を絶滅させる。
そのために人間は存在する(?)。
が、先にも書いたように、そういうふうには考えたくない。
またそんなことには、だれも、納得しないだろう。
この文章を読んでいるあなたにしても、「バカな!」と言って吐き捨てるかもしれない。

 そこでもう一歩、踏み込んで考えてみる。
地球を破壊しつつあるのは、人間なのか、と。
「人間の存在」なのか、と。

 どうもそうではないような気がする。
現在、この地球を破壊しているのは、「人間の存在」ではなく、「人間が原罪的にもつ貪欲さ」が、原因ではないか、と。

 もし人間が、ほんの少しだけその貪欲さをコントロールできれば、地球を破壊しないですむかもしれない。
要するに、これは「頭の使い方」の問題であって、「存在」の問題ではない。

●「淘汰」というテスト

 が、こうも考えられる。
人間は、現在、宇宙的な規模で、テストされているのではないか、と。
飛躍した意見なので、驚く人もいるかもしれない。
が、ありえないことではない。

 もしどこかの惑星に、生物がいたとする。
その生物が、進化を遂げ、人間のような知的生物になったとする。
その生物は、やがて宇宙へと乗り出していくだろう。
ちょうど昔の船乗りたちが、海へ出て、つぎつぎと大陸を発見していったように、である。

そのとき、もしこれらの生物がみな、宇宙へ飛び出したとするなら、今ごろ、この宇宙は、東京の渋谷や新宿のようになっていたはず。
この銀河系だけでも、100万の「技術文明」が存在するという(「ドレイク方程式」)。

 つまり宇宙人だらけ!

 が、そうなったら、それこそ星間戦争が始まるかもしれない。
知的にすぐれているだけに、宇宙人たちがもつ武器も、それに比例して破壊力も大きくなる。
太陽くらいの星なら、一瞬にして消すこともできる。
そうなったら、宇宙全体が、危機に瀕する。

 そこで今、私たち地球人は、その「淘汰」というテストを受けている。
「宇宙へ飛び出す、宇宙人としてふさわしいか、どうか」と。

 地球が火星化し、知的生物がそこで絶滅する。
その資格がないなら、その時点で、絶滅する。
宇宙規模で生命を考えるなら、それも「あり」ということになる。
地球程度の惑星なら、それこそ掃いて捨てるほどある。

●本質的な問題

 人間が、科学、文化、芸術、教育、宗教……、ありとあらゆる英知を使って立ち向かうべきもの。
すべての英知の最終目標といってもよい。
それが人間が原罪的にもつ「貪欲さ」ということになる。

 この貪欲さの克服なしに、人間は、知的生物の地位を確立することはできない。
地球温暖化の問題も、いろいろな分野で議論されている。
しかしそれは言うなれば、各論。
それとも対症療法?
少なくとも本質的な問題ではない。
本質的な問題は、「貪欲さ」。
強欲さ。

この問題が残るかぎり、地球温暖化の問題は解決しない。
人間……ここまでくると、「人類」と書くべきだが……人間が絶滅するのも、しかたないということになる。
つまりまさに今、私たち人間は、宇宙的な規模でテストされている。

 英知をうまく結集できれば、私たちはこの宇宙で、宇宙人として生き残ることができる。
そうでなければ、「存在の意味」を失う。
その前の段階で絶滅する。

●ドラキュラ

 話が大きく広がってしまった。
再びドラキュラの話に戻る。

 中世のヨーロッパには、人間の血を飲む集団があったらしい。
カルト教団のひとつと考えてよい。
それがドラキュラの原点という説もある。
つまり「フィクション」。
作り話。
フィクションだから、その存在の有無を論じても意味はない。
日本の幽霊とかお化けと、同じ。
もし「存在の意味」があるとするなら、この日本にも、「いた」はず。
西洋だけにドラキュラがいたというのは、論理的に考えても、おかしい。

私「しかしどうして西洋人は、ああまでドラキュラが好きなのかねえ」
ワ「ホント!」と。

 日光に当たると、燃え出すとか、あるいは十字架を見せると、退散するとか、いろいろ考えていくと、矛盾だらけ。
論ずるのもバカらしいほど、矛盾だらけ。
娯楽映画は娯楽映画。
その範囲で楽しめばよい。
『フライト・ナイト』は、そういう映画。

 観れば、少しはボケ防止になる。
ここに書いたことを参考に、そのあと、何かの議論をしてみると、おもしろい。

 では、今朝はここまで!
これから義兄夫妻と山荘で、会食。
未完成な原稿だが、このまま掲載する。
ごめん!
(はやし浩司 2012-01-08記)

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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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