【ものを書くということは、どういうことか】(実験・原稿)
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ものを書くということは、どういうことか。
それを実験的に、説明してみたい。
たとえば、こうしてパソコンに向かう。
そのとき、あらかじめ書きたいと思うテーマがあることもあれば、
そうでないときもある。
たいていは、何か書きたいことがあって、書き始める。
が、そうでないときもある。
が、書き始めると、白紙だった頭に、いろいろなことが思い浮かんでくる。
書きながら、思い出す。
思い出しながら、考える。
たとえば私は、あなたにこう問いかけたとする。
「あのことを思い出してください」と。
するとあなたはこう言い返すだろう。
「あのことって、何?」と。
そこで私は、ハバ(幅)をせばめる。
「ほら、学生時代のあのことですよ」と。
が、それでもあなたは、わからない。
「何のこと?」と。
さらに私は、「修学旅行のことですよ」、
「泊まった旅館のことですよ」、
「そこで食べた料理のことですよ」と。
ここまでくると、あなたは、(あのこと)を思い出すかもしれない。
頭の中に、いろいろと浮かんでくる。
つまりものを書くということは、自ら、そのハバをせばめていく。
同時に、いろいろな思いを引き出す。
ものを書くということには、第一に、そういう意味がある。
そこで実験をしてみよう。
私はこれから、私自身の子ども時代について書いてみる。
「書いてみる」というだけで、実は、今はまだ、頭の中は空っぽ。
白紙状態。
そこで自分で、そのハバをせばめてみる。
「楽しかったことを書こう」と。
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●午後1時05分
たった今、時刻は、午後1時05分。
時刻を書くのには、別の理由がある。
こうして原稿を書き始めて、ちょうど5分。
3時には、街まで行かねばならない。
つまり2時間。
その2時間で、どこまで書けるか。
同時に、それを試してみたい。
●記憶
「楽しかったこと」と聞かれても、どれという思う出が浮かんでこない。
すぐには、思い浮かんでこない。
そこで脳の中を、あちこち探してみる。
ちょうど薄いカーテンを両側に広げるようにして、探してみる。
ぼんやりとしている。
が、やがて、第一に浮かぶのは、放課後。
帰宅の様子。
……私には学校から自宅に、まっすぐ帰ったという記憶がない。
当時の子どもたちはみな、そうであった。
「道草」「寄り道」ということになるが、学校の先生も、うるさく言わなかった。
「まっすぐ帰るように」というような指導はあったと思う。
が、それを守る子どもはいなかった。
●美濃市
私は岐阜県の美濃市という、小さな田舎町に生まれ育った。
「町」という名前はついていたが、人口は2万8000人ほどだったと記憶している。
「市」に昇格するには、3万人の人口が必要だった。
その3万人になる少し前、「やがて3万人になるだろう」という見込みだけで、「市」になってしまった。……と聞いていた。
が、人口の増加は、そこでストップ。
子どものころも、また高校生になったころも、人口は2万8000人だった。
町の中心部の北側に、「小倉山(おぐらやま)」と呼ばれる、山があった。
それほど高くはないが、町全体を見下ろすには、じゅうぶんなほど、高かった。
その小倉山の頂上に展望台ができたのは、私が小学3~4年生のころのことではなかったか。
鉄骨むき出しの展望台で、中にらせん階段があった。
●小倉山
その展望台に行くルートは、2つあった。
ひとつは、南側の散歩道から登っていくルート。
もうひとつは、中腹から裏山に回り、そこから裏道を登っていくルート。
どちらであるにせよ、私たちには、格好の遊び場だった。
書き忘れたが、私たちが通っていた小学校は、その小倉山の東隣にあった。
といっても、あの町では、東西南北の位置関係は、正確ではない。
四方を山に囲まれていた。
日の出も、また夕日も、それが見える前に、朝になり、また夜になった。
だから今、こうして「北」とか「東」とか書いても、あまり意味がない。
私は子どものころ、どちらが北で、どちらが南なのかさえ、よく知らなかった。
実家は、古い家々に囲まれた、商店街の一角にあった。
●さまざまな光景
こうして書きながら、私は、当時の私を思い出す。
書き始めたときには、白紙だった頭の中に、さまざまな光景が思い浮かんでくる。
同時に、そのころ、私がどう考え、どう思ったかを思い出す。
それを文章にする。
これが「書く」ということである。
……ということで、話を先に進める。
●(遊び)
その小倉山には、「アベック」が、よく登ってきた。
アベックというのは、あやしげな雰囲気を漂わせた男女をいう。
子どもながらに、アベックが山の中で、何をするか、よくわかっていた。
が、アベックは、たいてい南側からの散歩道を使い、展望台へやってくる。
私たちはそれを見つけると、下のほうから追いかけ、裏道を通り、先回りをする。
アベックがやってくるのを待つ。
つまりそれが私たちの(遊び)だった。
アベックは、決まって石の上に並んで座ったりした。
抱き合い、顔を重ね、男の方は、せわしく手を動かしたりした。
女のほうは胸をはだかれ、体をのけぞらせたりした。
が、それからが私たちの出番。
「ホ~オ~、ホ~オ~」と、独特の節回しで、いっせいに、それを冷やかす。
「ホ~オ~、ホ~オ~」と。
アベックは、たいていはそのままその場を立ち去ったが、中には石を投げてくるアベックもいた。
が、私たちは巧みに石をかわし、アベックを追いかけた。
アベックが、山を下りるまで、追いかけた。
●小倉公園
小倉公園には、昔、城があったという。
下から登っていくと、大きく2段に分かれている。
下の段は、菓子屋と、それにつづく動物園になっていた。
遊具もいくつか並べてあった。
その上にもう1段、広場があった。
私が高校生くらいのとき、そこに野外ステージが造られた。
記憶は正確ではない。
で、最近は整備され、公的な公園らしくなった。
が、私たちが子どものころは、下の段の広場にも、上の段の広場にも、雑草が生い茂っていた。
そう言えば、上の段の広場の端にも、動物園があったように記憶している。
鳥獣園もあった。
●アベック
で、私たちは先回りをし、山を下りる。
そこでアベックが下りてくる。
私たちがアベックの顔を確かめるのは、そのとき。
何食わぬ顔をし、すれ違いざま、顔を確かめる。
「お前たちの秘密を知っているぞ!」と。
●「ホ~オ~、ホ~オ~」
が、ことは因果なもの。
私が大学生だったときのこと。
知りあった女性(女の子)と、その小倉山に登ったことがある。
目的は、……ここに書くまでもない。
が、石の上にハンカチを置き、さあ、これから……というとき、子どもたちの声が聞こえてきた。
「ホ~オ~、ホ~オ~」と。
私はそのとき、怒るよりも先に、笑ってしまった。
●女たらし
話を、戻す。
私が子どものころは、異性と遊ぶことは「悪」と考えられていた。……考えていた。
女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」とバカにされた。
「女たらし」という言葉には、特別の意味がこめられていた。
一度「女たらし」のレッテルを張られると、そのまま仲間はずれにされた。
だから私の思い出のどこを探しても、私には女の子と遊んだという記憶がない。
年上の「お姉さん」とは、よく遊んだが、年上の女性は、「女」ではなかった。
だから今でも、「女性」が苦手。
女性については、今でも、宇宙人のように感ずることがある。
当時は、男と女が、今よりもはるかに色濃く、区別されていた。
「女は相手にしない」
「女は人間にあらず」と。
●封建時代
こういうのを男尊女卑思想と言う。
その男尊女卑思想が、当時の私たちにさえ、骨のズイまで浸み込んでいた。
だから今でも、たとえばNHKの大河ドラマを見たりすると、「?」と思うことが多い。
若い妻が、殿に向かって、声を張り上げ、自分の意見を言ったりする。
が、当時の常識からしても、それはありえなかった。
つまり私たちの子ども時代からの常識からしても、ありえなかった。
いわんや、江戸時代という、封建時代において、をや。
だから当然のことながら、男の遊びと女の遊びというのも、あった。
男の色、女の色というのも、あった。
男が赤い色の持ち物をもっていただけで、やはり「女たらし」と呼ばれた。
●団塊の世代
今、時刻は、午後1時40分。
先ほどから35分が経過したことになる。
話をつづける。
年代的には、1950年代ということになる。
私は1947年(昭和22年生まれ)。
小学3年生のときは、1955年前後ということになる。
が、年齢というのは不思議なもので、年を取れば取るほど、江戸時代のほうが、私に近づいてくる。
簡単な計算をしてみる。
大政奉還により、徳川慶喜は明治天皇に執権を返上する。
江戸幕府は、こうして終焉する。
で、この年が、1867年。
で、現在が、2012年。
引き算をすると、2012-1867=145が、つまり145年。
20歳の若い人には、145年というと、自分の年齢の7倍も遠い昔のできごとということになる。
が、70歳の老人には、145年といっても、自分の年齢のたった2倍。
2倍程度!
つまり自分の年齢の2倍昔には、江戸時代があった。
7倍から2倍へ。
どんどんと近づいてくる。
いわんや、私の父母や祖父母の時代には、江戸時代といっても、隣りあわせ。
昔や過去のことではない。
そこに江戸時代という封建時代が、そのまま生きていた。
●子ども
で、この145年の間に、日本は、あの時代を清算したことがあるかと言えば、それはない。
いまだにあの時代を、そのまま引きずっている。
ここにあげた男尊女卑思想もその一つだが、もうひとつ忘れてならないのは、「子ども」。
私たちが子どものころには、「女・子ども」と言って、女性と子どもは、「人」のワクの外に置かれていた。
戦後、女性は、女性の地位を確立したが、子どもは、そのまま。
今でも、その残像は、あちこちに残っている。
そのひとつが、「モノ思想」。
「子どもはモノ」と。
● 子どもはモノ
「子どもはモノ」と書くと、反発する人は多いかと思う。
しかし人間というよりは、モノ。
そういう視点で子どもを考える人は、少なくない。
先日も、ある投書を読んでいたら、こう書いてあった。
「我が家にも、やっと跡取りができました」と。
家や家意識があり、そこに子どもが生まれる。
それを「跡取り」という。
が、これは立派な、モノ意識である。
さらに言えば、それは今の今でも、親の子育て観の中に生きている。
たとえば自分の子どもを育てるとき、「日本のため」とか、「人類のため」と思い、子育てをしている人は、いない。
「私の子ども」というように、そこには、いつも「私の」という所有格がつく。
だから子どもの受験競争に巻き込まれながら、喜んだり、泣いたりする。
子どもの将来に、個人的な損得論を、結びつけてしまう。
これも立派な、モノ意識である。
●「神から授かった子」
では、欧米ではどうか?
その点、アメリカ人は、日本人とはややちがったものの考え方をする。
たとえば子どもにしても、「神から授かった子」という意識が強い。
だから子どもが何かの障害をもって生まれたとしても、日本人ほど、深刻に考えない。
「どんな子どもであれ、神の子」という見方で、子どもを受け入れてしまう。
が、この日本では、そうはいかない。
今でこそ少なくなったが、……親の意識がこの10年、急激に変化してきた。
が、障害をもった子どもが生まれたりすると、親は、それを隠した。
「恥」ととらえる親も多かった。
つまりこうした「モノ意識」は、日本の中だけで見ていると、わからない。
外国から見てみると、よくわかる。
●広げる
……こうして私はものを書くことによって、自分の世界を、どんどんと広げていく。
これが「ものを書く」意味である。
が、ものを書かなかったら、どうか。
私はこの原稿の冒頭に書いた状態のまま、何も考えなかったにちがいない。
時刻は、午後2時05分。
ちょうど1時間。
その1時間を、ぼんやりと過ごしていたにちがいない。
が、まだ55分、ある。
●親の一存
モノ意識について、もう少し書いてみる。
よくこんな母親がいる。
たとえばどこかのおけいこ塾へ、子どもが通っていたとする。
そのとき親の一存だけで、塾へ入れたり、塾を退会させる親がいる。
子どもの気持ちや希望、意向は無視。
すべて親の一存だけで、決めてしまう。
が、これとて立派なモノ意識。
「うちの子のことは、私がいちばんよく知っています」という親ほど、モノ意識が強い。
過信と幻想だけで、すべてを決めてしまう。
が、子どもが受験期にさしかかると、さらにそれに拍車がかかる。
自分の果たせなかった夢や希望を子どもに託す。
それ自体は悪いことではない。
が、そのとき、自分の心配や不安を埋める道具として、子どもを利用する。
これも、立派なモノ意識。
●脱線
話が脱線したが、ものを書いていると、こういうことは、よくある。
が、そのとき、脱線を修復するには、2つの方法がある。
ひとつは、話を少しずつ、元の軌道に戻していく。
もうひとつは、あとで編集するとき、原稿を分割し、別々の話として独立される。
ここでは、元の軌道に戻すことにする。
「2時間で、どこまで原稿が書けるか」という、テーマもある。
●子ども時代
こうして私の子ども時代は、変化とスリルに富んだものであった。
現在の子どもたちには想像もつかないだろうと書いても、過言ではない。
小倉山にしても、隅から隅まで、よく知っていた。
またその小倉山を下りてからも、同じ道を通って帰るということは、まずなかった。
道がないときは、どこかの家の石垣を這って、家に帰った。
ときには、どこかの家の中を通り抜けて、家に帰った。
美濃市という町は、その昔は和紙の集散地として栄えた町。
それぞれの家々が、うなぎの寝床のように、細長かった。
表の玄関から入ると、裏の出口は、別の横丁につながっていた。
江戸時代の昔は、家の間口の広さで、税金が決まっていたという。
だから商人たちは、間口を狭くし、奥へ奥へと家を長くした。
……というようなことまで、思い出してくる。
が、そこは子ども。
そういった家を通り抜けていっても、だれも咎(とが)めなかった。
その家の住人にしても、自分の家の子どもの友だちか何かに思ったのかもしれない。
ともかくも、叱られたという思い出そのものがない。
寛大だったのか。
それとも、やはり「子ども」は、「数」に入っていなかったのか。
●遊びの連続
ここで書きとめておかねばならないことがある。
当時は、どこへ行っても、子どもの姿があった。
私たちの世代を称して、「団塊の世代」という。
年齢別の人口比でみても、ぼっこりとその前後の人たちより、多い。
夏の夕方にもなると、道路のあちこちで、子どもの遊ぶ声が聞こえた。
それこそ町内の班ごとに、グループができ、みながそれぞれに遊んだ。
まだ当時は、道路は、子どもの遊び場でもあった。
自動車そのものが少なかったし、その自動車にしても、どこか遠慮がちに道路を走っていた。
「楽しかった」という意識は、あまりない。
しかし毎日が、遊びの連続の中にあった。
遊んで遊んで、遊びまくった。
遊びが途切れるということがなかった。
それが私の子ども時代ということになる。
●遊び
だから今の子どもは……と書くと、こうした原稿を書く意図が見え見えになってしまう。
若い人にしても、そういう原稿を読むのは、不愉快だろう。
私にしても、そういう原稿は、書きたくない。
今の時代をすべて否定するのも、どうかと思うし、では私たちの時代がよかったかというと、そうとも言えない。
ただ言えることは、今よりも、ずっと時計の進む速度が遅かったということ。
たとえば夏の暑い日に、アイスクリームを買いに行く。
商店街の中には、そのアイスクリームを売る店があった。
が、すぐには売ってくれない。
しばらく時間がかかる。
私たちは体を冷蔵庫にこすりつけ、アイスクリームができあがるのを待った。
遊びにも、こと欠かなかった。
木製の潜水艦を作るのも流行(はや)った。
その季節になると、みな、凧揚げをした。
模型飛行機も流行った。
忍者ごっこや、パチンコ、パンコ(メンコ)も流行った。
カッチン玉という、ビー玉遊びも流行った。
コマ回しも流行った。
月々に、生活や遊びが、大きく移り変わっていった。
映画もただで見られた。
方法は簡単。
映画館には、あちこちに小さな隙間があった。
そこから直接のぞいて見たこともあるが、たいていは小さな穴に向けて白い紙を立てると、ちょうどピンホール写真のように、映画の映像が、そこに映った。
音声は、もちろん筒抜け。
おとなの映画は、そういう方法で見た。
●時刻は午後2時40分
現在時刻は、午後2時40分。
この原稿を書き始めて、1時間40分。
40字x36行で、12枚。
「こんなものかな」と思う。
単行本のばあい、120~150枚で1冊の本になる。
2時間足らずで、その10分の1を書いたことになる。
今の私なら、その気にさえなれば、2日で、1冊の本を書くことができる。
が、もちろん、こんなくだらない文章では、本にはならない。
本にしても、「本を書いた」という実感が残らない。
ただこの原稿を通して、「ものを書く」ということが、どういうことか、わかってもらえたと思う。
私たちはものを考えるから、人間である。
が、考えようとして、考えられるものではない。
多くは、堂々巡りするだけ。
そこで「ものを書く」。
書くことによって、考えを広げ、深めることができる。
今回は、そういう発見はなかったが、時として新しい発見をすることがある。
荒野の片隅で光る、宝石のようなもの。
その宝石に出会うことがある。
それが楽しいし、またそれがあるから、ものを書くのがやめられない。
●とにかく書く
だからものを書くときは、こんなことに心がけてみる。
「何を書こう」と思うのではなく、とにかく書く。
書き始めてみる。
もちろん何か、それについて書いてみたいというテーマがあれば、それについて書く。
あとは、脳の命ずるまま、自分の思いを叩きつけていく。
その実験のひとつとして、こんな原稿を書いてみた。
ワイフが仕事の支度を始めた。
時刻は午後2時50分。
私の原稿もここまで。
あとは簡単に読みなおし、推敲する。
BLOGにアップするのは、そのあと。
では、みなさん、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
はやし浩司 2012-01-19
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 美濃市 美濃町 子ども時代 はやし浩司 子供時代 子供のころ)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【小学1年生に、面積を教えてみる】(BW実験教室byはやし浩司)
●BW教室のみなさんへ
家庭での復習用ビデオとして、ご利用ください。
わからないところがあったら、動画を停止し、何かの紙に描いて、面積を求めてみてください。
よい勉強になると思います。
(実際、そういうふうに利用している人が、ふえています。)
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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年1月20日金曜日
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