2010年10月27日水曜日

*Heaven & Hell

【浄土論】(極楽浄土vs無間地獄)(Heaven & Hell in our Society)

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
(はやし浩司 2010-10-27 加筆)

(補記)

●無縁老人

 地獄と言えば、「無縁老人」という言葉がある。
最近(2010-10-27)、あちこちでその言葉を見たり、聞いたりするようになった。
「独居老人」など、「無縁老人」と比べれば、まだよいほう。
家族、親族、近所のつきあいを、すべて切ってしまった老人をいう。
そういう老人が、現在ふえつつあるという。
が、実態はまだ把握されていない。
都道府県単位で、やっと調査を始めたというのが現状らしい(NHK報道)。

 さらにそうした老人が、認知症になることもある。
認知症老人を相手にした詐欺商法も、横行している。
ただこのばあい、認知症になるから、「地獄」というふうには、考えないほうがよい。
認知症は、あくまでも「病気」。
病気である以上、その老人個人には、責任はない。
むしろ頭のほうがしっかりしたまま、無縁老人になるほうが、こわい(?)。
毎日、毎晩、まさに無間の孤独地獄と闘わねばならない。

●娘が母親のタンス預金を……

 話は一足飛びに結論へ。

 しかしこういう社会を作ったのは、私たち自身。
私やあなたが無縁老人になったからといって、またなる可能性があるからといって、社会を恨んでもしかたない。
息子や娘たちを恨んでもしかたない。
それにこの問題だけは、10年単位、あるいは20年単位で、進行していく。
また解決するにしても、同じように10年単位、あるいは20年単位の時間がかかる。

 国民の意識というより、私たち1人ひとりの意識の問題ということになる。
そこで一部の地域では、そうした老人を保護するために、周辺の住民が定期的に見回ったり、訪問したりしているという。
しかしそれは一部。
が、近くに住む人だから安心というわけでもない。

 私の知り合いの老人(女性、当時85歳前後)は、晩年、軽い認知症になってしまった。
娘が近くに住んでいて、毎週のようにその女性、つまり母親を訪問していた。
傍から見ると孝行娘ということになる。
しかしその老人が亡くなったとき、あるはずのタンス預金が、すっかり消えていたという。
額は定かではないが、数千万円程度の現金はもっていたはず。
その老人の弟氏はそう言っている。
 
 その老人のばあいも、娘だけを責めても意味はない。
そういう娘に育てたその老人にも、責任がある。
「責任」という言葉は、少しきついが、その老人の立場にすれば、恨んでも恨みきれなかったことだろう。
(現在、その娘は、会う人ごとに、弟氏の悪口を言いふらしているが……。)

●風通しのよい社会

 話はそれたが、要するに、この先、私やあなたが、独居老人、さらには無縁老人になる可能性は、ぐんと高くなるということ。
非公式の調査によるものだが、独居老人から孤独死をする人は、今後60%前後になると言われている(某月刊誌)。
とくに団塊の世代以後の人たちが、あぶない。

 今はまだ元気だから、「私はだいじょうぶ」と思っている人も多い。
ある知人は、こう言った。
「いくつかのクラブに入って、友だちを作ることだよ」と。

 しかし高齢者になると、クラブに顔を出すこともできなくなる。
それに友だちといっても、自分が高齢になればなるほど、減っていく。
「友だちがいればいい」という問題でもない。

 そこでそれを解決するために、いろいろな方法が考えられている。

(1)地域社会の復活。
(2)住環境の整備など。

 こういう話になると、どうしても「昔はよかった」ということになる。
昔は、地域に温もりがあり、老人社会を包んでいた。
その温もりが、今、消えた。
親子関係、親類関係も希薄になった。
この傾向は、さらにつづく。

 またここでいう「住環境の整備」というのは、住まいそのものあり方を考えなおそうというもの。
長屋形式の住宅を考えている建築家もいる(某月刊誌)。
隣どうしを、もっと風通しのよいものにする。

●解決策

 今、しみじみと感じているのは、これこそが、地域住民の問題ということ。
地域、地域で、その地域に住む人が、声をあげて立ち上がらなければならない。
「してもらう」という発想を捨て、「私たちがする」という発想に切り替える。
わかりやすく言えば、「私たちが後期高齢者になったとき、だれにめんどうをみてもらうか」という考え方をしてはいけない。
「私たちが今、後期高齢者のめんどうをみる」という考え方に切り替える。
その積み重ねが、10年単位、20年単位でつづいたとき、独居老人、無縁老人の問題は解決する。

 ……とまあ、こんなことを言い出した以上、この活動は、私がしなければならない。
何しろ私がこの町内に住み始めた第1号。
(もう1人、150メートルほど坂下のところに住んでいた人がいたが、その人は、最近、亡くなってしまった。
家も売却され、現在は別の人が住んでいる。)

具体的にはいろいろ考えている。
ひとつには自治体に働きかけるという方法がある。
しかし20年前に私が書記をしていたころと比べただけでも、自治体はすっかり様変わりしてしまった。
この1年間、みなが集まったというような会合はゼロ。
班長たちだけが集まって、そのつど何かを決めているらしいが、私たち住民のところにまでは、何も伝わってこない。

 が、これではいけない。
もうひとつの方法は、とりあえず、地域老人新聞を発行すること。
「老人新聞」というと、どこか暗いから、「地域新聞」でもよい。
すでにこの町内にも、多くの独居老人が住んでいる。
そういう人たちの実態把握から、まず始める。……などなど。

 今夜にでも、ワイフに相談してみよう。
ワイフはこのあたりでも、結構、顔役で、近所の人たちのことをよく知っている。
先ほども、私が「ぼくは、無縁老人になりそう」と訴えたら、すかさず、こう言い返した。
「私は、ならないわ」と。
(ワイフは、楽天的というか、ノー天気派。)

●結論

 極楽浄土にせよ、無間地獄にせよ、それらは結局は私たち自身が、身のまわりに自ら、作り出していくもの。
あの世にあるわけではない。
この世にある。

 政治に頼ったり、宗教に頼ったりするのは、その「後」ということになる。
(はやし浩司 2010-10-27)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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