2010年10月26日火曜日

*Heaven vs. Hell

【偶像論】

●偶像を崇拝するな

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「偶像」とは何か?
一般論として、偶像とは、「像」、つまりキリストや
釈迦に似せた「像」をいう。
人はそうした像を作り、手を合わせる。

が、そうした像は、いくらもっともらしい理由
づけをしたところで、像は、像。

キリストも釈迦も同じようなことを言っている。
つまり『偶像を崇拝するな』と。

が、一般の人たちは、そんな教えなど、
どこ吹く風。
信仰と言えば、対象物は「像」。
仏像を例にあげるまでもない。

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●偶像

 「偶像」という言い方は、外来語と考えてよい。
絶対的な権威の象徴としての、「像」をいう。
しかし像などというものは、神や仏によって与えられたものでもなければ、
作られたものでもない。
人間が作ったもの。
そこで宗教団体や信仰者は、あれこれと理由をつけては、像の権威化をはかる。

 私も最近、こんな経験をしている。
たとえば仏壇を移動するとき、あるいは墓石に文字を刻むとき、そのつど
「精(しょう)抜き」「精入れ」という儀式を行うことになっている。
寺の住職に来てもらい、読経してもらう。

 そのときはあまり深く考えないで、風習に従った。
しかしどうして、精抜き?
精入れ?
日がたつにつれて、疑問ばかりが、大きく膨らんできた。
つまり精抜きをすることによって、一度、魂を仏壇や墓石から出す。
不浄な人間の手で汚(けが)されるのを防ぐためである。
そして何かの作業が終わったら、再び、精入れで、魂をこめる。
「そんなことに、何の意味があるのか?」と。

●否定はしない

 が、だからといって、私は「像」を否定する者ではない。
信仰の対象、つまり悲しみや苦しみを救済するために、その対象物としての
像は、必要かもしれない。
人間は、そういう意味では、弱い。
理性や合理だけでは、生きていけない。
そんな場面に、よく出会う。

ひとりで、何ものにも依存せず生きていかれる人は、いったい、どれだけいるのか。
ひとりで袋小路に入って苦しむより、何かにすがって朗らかに生きたほうが、楽。

 また偶像には、心をひとつにするという意味もある。
その「像」に向かって、一心を集中させることによって、もろもろの邪念を打ち払う
こともできる。
像を絶対的なものと思い込むことによって、迷いを消すこともできる。
精抜き、精入れという儀式も、そういうところ、つまり絶対的と思い込むところ
から生まれた。

●床屋の帰りに

 では「偶像」とは何か。
辞書などによれば、信仰の対象となる「像」を意味するとある。
しかし少し意味がちがうのではないか?
キリストや釈迦は、もっと別の意味で、「偶像」という言葉を使ったのではないか?
つまり「像」といっても、信仰の対象としての像を言ったのではなく、ひょっと
したら「虚像」一般を含むのではないか?

 元の原語がわからないので、今はここまでにしておくが、私は最近、こんな
経験をした。

 数日前、近くの床屋へ行った、その帰り道でのこと。
黒塗りの大型ベンツが、角の駐車場を横切って、反対側の道へ飛び出していった。
信号を待ちきれず、そうしたらしい。
信号待ちしていた私のほうが、道を空けた。
あぶなかった!
同時に、「心の余裕のない人だな」と思った。

 大型ベンツといっても、やや古いタイプ。
で、運転している男を見た。
年齢は50歳くらい。
見るからに、余裕なさそうな顔をしていた。
キョロキョロ……というか、ギョロギョロとした目つき。
せわしなさそうに顔を動かし、ハンドルを器用にさばいていた。

 そのとき私は「虚像」という言葉を思い浮かべた。
「あの男は、ベンツという車に乗って、自分の虚像に酔っている」と。

●虚栄

 何もベンツに乗っている人が、みな、そうだというわけではない。
ベンツはすばらしい車である。
ベンツに惚れて、ベンツに乗っている人は多い。
しかしその一方で、自己の虚栄を満足させるためにベンツに乗っている人も多い。
そのとき虚像と虚栄が、頭の中でつながった。

 偶像イコール、虚像と考えると、「偶像を崇拝するな」という意味が、無理なく
理解できる。
私たちはともすれば、虚栄の対象としての「像」で、身を飾ることがある。
身だけではない。
心さえも、飾ることがある。
それを虚栄という。

が、それを信じている人には、そのおかしさがわからない。
飾ることで、自分が偉くなったつもりになる人は、多い。
すばらしい人間になったと思いこむ人は、多い。
子どもなどは、ヒーローのコスチュームを身にまとっただけで、強くなったように
思いこむ。

 つまりそれが「偶像」ということになる。
私たちは虚像に、溺れてはいけない。
「偶像を崇拝するな」というのは、そういう意味ではないか。

●妄信

 そう考えていくと、この世は偶像だらけ。
いたるところに偶像がある。
が、ほとんどの人は、偶像を偶像とも意識せず、それを妄信している。
もっともわかりやすい例に、学歴信仰がある。
職業による、差別信仰もそれ。

 偶像を崇拝することによって、人は、中身を見なくなる。
中身を磨くことを忘れてしまう。
あとは悪循環。
(飾る)→(自分を見失う)→(ますます飾る)、と。

●儀式

 これはあくまでも私の解釈だが、「偶像」というときの偶像は、
「形」としての外見を意味すると考えると、納得がいく。
広く、地位や肩書きを含んでもよい。
「はやし流の仏教論」というふうに、考えてもらってよい。
つまりイワシの頭を本尊にするのも、自分の身や心を飾るのも、本質的には同じ。
中身のないものを、あるものと信じ、それに振り回される。

 一方、それがさらに進むと、同じ宗教でも儀式化する。
迷信化する。
それこそイワシの頭を前にして、「ナンマイダー・・・」とやりだす。
信仰というのは、「教え」に従ってするもの。
「教え」のない信仰は、宗教ではない。
「七七供養」にしても、「~回忌」にしても、ただの儀式にすぎない。

●人それぞれ

 ただ誤解していけないのは、だからといって、そうした儀式や迷信が
まったく無意味かというと、そうでもないということ。
必要な人には、必要。
それによって悲しみや、孤独から救われる人もいる。
妥協すべきところは妥協しながら、生きていく。
それもやさしさのひとつということになる。

 が、反対に、そうでない人・・・つまり、儀式や迷信に背を向けている人もいる。
たとえば都会地域では、直葬(病院から火葬場へ直送。僧侶なしの家族葬)で
すませる人が、30%を超えている。
「自然葬」という葬儀の仕方もふえている。
そういう人たちに向かって、「まちがっている!」と言うのは、少し慎重になってほしい。
私は私。
あなたはあなた。
人それぞれ。

 私もどちらかというと、「まちがっている」と言われる側にいる。
しかし彼らが言うところの「罰(ばち)」が当たるのは、この私。
「どうぞ、ご心配なく」と言いたいが、そういう言い方そのものが、通じない。
理解されない。

●ありのまま

 話はそれたが、「偶像」は、何も仏像に代表される「像」にかぎらない。
先にも書いたように、「虚像」一般を含む。
その虚像の中には、見栄、メンツ、世間体が含まれる。
要するに「外見」を総称して、虚像といい、偶像という。
その偶像を崇拝するな、と。

 このことは同時に、私たちの生き様にも関係してくる。
「崇拝しない」ということは、私について言えば、「ありのままに生きる」
ということになる。
たとえば世間体を気にする人ほど、他人を世間体で判断する。
見栄を張る人ほど、他人を外見で判断する。
偶像を崇拝しないためには、自分の中から偶像、つまり虚像を取り除く。

●「自分で生きろ」

・・・というわけで、「偶像を崇拝しない」というのは、象徴的な言葉
ではないかということになる。
わかりやすく言えば、「自分で生きろ」と。

キリストや釈迦の立場になってみると、それがよくわかる。
たとえばあなたのところへ、あなたのファンが毎日のようにやってきて、
こう言ったとする。

 「神様(仏様でもよいが)、どうか私を○×大学へ入学させてください」と。
そういうとき、あなたはそういうファンに力を貸すだろうか。
私が神(仏でもよいが)なら、こう答えるだろう。
「そんなことは、自分の努力でしなさい」と。

 直接あなたのところへ来るならまだしも、あなたの偶像を作り、それに向かって
拝んだらどうだろう。
やはりあなたは、こう言うにちがいない。
「バカなことは、やめなさい」と。

 世俗的な成功など、(あるいは失敗でもよいが)、神や仏は関知しない。
また関知するようなら、その神や仏は、インチキと断言してよい。

罰(ばち)にしても、そうだ。
罰を与える神や仏がいたら、インチキと断言してよい。
無量無辺に心が広いから、神といい、仏という。
(それに甘えてもいけないが・・・。)
そんな神や仏が、個々の人間に、いちいち罰など与えない。

●私の勝手な解釈

 神や仏は、こう言った。
「偶像を崇拝するな」と。
それは私たちにこう言ったことになる。
「外見にだまされて、自分を見失うな」と。
「他人を見誤るな」でもよい。

 キリスト像(仏像でもよいが)という偶像は、その一部に過ぎない。
「その」というのは、「虚像の」ということになる。

 が、考えてみれば、私たちは虚像のかたまり。
私たちは自分で作りあげた虚像を、「私」と思い込んでいる。
ふと足もとを見れば、ガタガタ。
中身と言っても、たいしたものは、何もない。
私の中に「私」をもっている人など、そうはいない。
ほとんどの人は、虚像という衣服を、何枚も重ね着している。
重ね着していることを意識しないまま、重ね着している。
そして重ね着した自分を、「私」と思い込んでいる。

 それを総合して、キリストや釈迦は、強く戒めた。
「偶像を崇拝するな」と。

 つまり偶像とは、あなたや私自身を包む虚像ということになる。
あくまでもこれは、私の勝手な解釈によるものだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 偶像論 虚像論 虚栄論 身を飾る はやし浩司 2010-10-26)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【極楽論】

● 私は極楽行き? 
ときどきこんなことを考える。
私は死んだら、極楽へ行くのだろうか。
それとも地獄へ行くのだろうか、と。
仏教の教えによれば、それを最終的に判断(ジャッジ)するのは、
あの閻魔(えんま)大王だそうだ。
中国でできたニセ経の上に、さらに日本でニセ経を塗り重ね、そういう話ができた。
今では、子どもですら、そんな話は信じない。
幼稚というか、稚拙(ちせつ)。
しかし私は、最近、閻魔大王というのは、ワイフであり、3人の息子たちではないかと
思うようになった。
それには、こんな話がある。
昨年(08年)、実兄と実母が、つづいて他界した。
そのときのこと。
私はこんなことを考えた。
「兄や母は、極楽へ行くのだろうか。それとも地獄へ行くのだろうか」と。
地獄と極楽しかないとなれば、二者択一、ということになる。
地獄と極楽の間には、中間の世界はない。
そこで兄や母のことを、あれこれと思い起こしてみる。

●善人vs悪人

1人の人間を、どう判断するか。
これはたいへん難しい問題である。
というのも、1人の人間には、いろいろな面がある。
相手によっても、印象がちがう。
年代によっても、変化する。
たとえばAさんは、若いころの母をよく知っていて、「勝気な人でした」という。
Bさんは、晩年の母をよく知っていて、「やさしくて、穏やかな人でした」という。
また他人から見た母と、私という子どもから見た母は、まったく違う。
それは善人vs悪人論とも似ている。
善人と悪人とは紙一重。
しかしまったくの善人がいないのと同じように、まったくの悪人もいない。
よく聞く話だが、死刑囚といわれる人の中には、仏様のようになる人もいるという。
さらに私という人間にしても、あるカルト教団の人たちからは、「魔王」と
呼ばれている。
その教団を攻撃する本を、何冊か書いたからである。
さらにあのK国が、日本を支配したら、この私はまっさきに処刑されるだろう。
いつもあの「将軍様」のことを、「金xx」と書いている。
拉致事件に抗議の念をこめて、そうしている。
どこをどのように見て、善人と判断し、悪人と判断するのか。
何しろ、中間がない。
「閻魔大王の仕事も、たいへんだなあ」と思う。

●私であって(私)でない部分

私は自分では、善人とは思っていない。
どちらかというと、悪人かもしれない。
少なくとも、3人の息子たちは、そう思っている。
「パパは仕事ばかりしていた」
「ママを奴隷のように使っていた」
「パパはワンマンで、ぼくたちの話を聞いてくれなかった」と。
ときどきそういう不満を、今になって私にぶつけることがある。
が、私はいつもそういうとき、こう思う。
「私は私で、懸命だったのだ」と。
息子たちに、私が生きた時代の説明をしても意味がない。
「日本は貧しかった」と言っても、その(貧しい時代)そのものを、知らない。
ボットン便所の話をしても、無駄。
息子たちにしてみれば、生まれながらにして、トイレは水洗トイレ。
それしか知らない。
ボットン便所から、水洗トイレになったときのうれしさを知らない。
だからこう言う。
「そんなのは、パパの時代の話で、ぼくたちには関係ない」と。
つまり私という人間にしても、(過去)の無数のしがらみを引きずっている。
私であって、(私)でない部分も多い。
たとえば道路にお金が落ちているのをみると、今でもさっと拾ってしまう……と思う。
(この20~30年、そういう経験がないので、わからない。)
交番へ届けようなどいう気持ちは、まず起きないだろう。
起きないから、そのジレンマの中で、迷う。
「もらってしまうべきか、それとも交番へ届けるべきか」と。
が、これとてあの戦後の、ひもじい時代を生きたからこそ身についた錆(さび)の
ようなもの。
私が悪いと思う前に、私はあの時代に、責任を求める。
あの時代が悪い。
あの戦争が悪い。
さらに私には、私の生い立ちもからんでくる。
いろいろあった。
その(あった)部分の中で、心もゆがんだ。
重罪といわれる罪を犯した犯罪者にしても、そうだ。
そういう人を、本当に悪人と言い切ってよいのか。
あるいはそう言い切れる人は、どれだけいるのか。

●息子たちが判断する

そこで私のこと。
自分で自分のことを判断するのは、難しい。
ワイフにしても、利害関係が一致しているから、難しい。
そこで、どうしても息子たち、ということになる。
私を判断するのは、息子たち。
息子たちは、(私)を、内側から見ている。
私が外の世界で隠している部分すらも、見ている。
それに人格の完成度も、今となっては、私より高い。
私が見た世界とは、比較にならないほど、広くて大きな世界も見ている。
私を、1人の親というよりは、1人の人間として見ている。
私にしても、閻魔大王などよりも、息子たちに判断(ジャッジ)されるほうが、
よほどよい。
安心できる。
仮に「地獄へ行け」と判断されても、それにすなおに従うことができる。
息子たちがそう言うなら、しかたない。
が、そこでもまた問題が起きる。
私が兄や母に地獄へ行けと言えないように、息子たちもまた、私に地獄へ行けとは
言えないだろう。
たとえ悪人であっても、だ。
それにこんなケースもある。
ある女性の話だが、若いころは、たいへん優雅で気品のある人だったという。
その女性が今は、老人施設に入居して、毎日、毎晩、怒鳴り声をあげているという。
「バカヤロー」「コノヤロー」と。
年齢は、現在、80歳を少し過ぎたところという。
こういうケースでは、どう判断したらよいのか。
その女性は、善人なのか、それとも悪人なのか。
悪人ではないとしても、そんな状態で、極楽へ入ったら、ほかの善人たちが迷惑する
だろう。

●地獄も極楽もない

地獄も極楽もない。
あるはずもない。
だいたい釈迦自身、一言もそんなことを言っていない。
ウソと思うなら、自分で『法句経』を読んでみることだ。
「来世」「前世」にしても、そうだ。
だからそれをもとに、善人論、悪人論を、論じても意味はない。
ただ法体系が未完成だったころなら、地獄論で悪人を脅すこともできたかもしれない。
「悪いことをすると、地獄へ落ちるぞ」と。
それでたいていの人は、黙った。
私が子どものころでさえ、そういう会話を、よく耳にした。
兄は兄として、他界した。
母は母として、他界した。
無数のドラマを残して、他界した。
よいドラマもあれば、悪いドラマもある。
今さら、そんなドラマを問題にしても意味はない。
同じように、今を生きる私たちも、できることと言えば、ただ懸命に生きるだけ。
よいことをしていると思っていても、悪いことをしていることもある。
悪いことをしていると思っていても、よいことをしていることもある。
常に結果は、あとからついてくる。
放っておいても、あとからついてくる。
だからこう思う。
地獄でも極楽でも、どちらでもよい、と。
こんな無意味なことを考えるのは、今日で最後にしたい、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
地獄 極楽 地獄論 極楽論 善人 悪人)

Hiroshi Hayashi++++++++JAN 09++++++++++はやし浩司


【浄土論】

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。
 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。
その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。
しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。
 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。
が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。
批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。
スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。
 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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