2010年10月31日日曜日

*TFぃghtおfmySon from Haneda to Okinawa

【息子の初飛行】はやし浩司 2010-10-29

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息子の初飛行について書く前に、息子が
航空大学校の学生のとき、単独飛行したときに
書いた原稿を添付します。

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【息子の初フライト】

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今日(29日)は、息子が、はじめて
名古屋空港(小牧)にやってくる日。
ワイフが、朝早く、小牧まで、でかけて
いった。

私は、ひとりで、留守番。

見たかった。私も、飛行機、大好き。
飛ぶのが、大好き。「飛ぶ」というより、
飛ぶものが、大好き。

小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、
それを両腕に結んで、1階の屋根から
飛び降りたこともある。

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 今日(1月29日)は、息子が、はじめて名古屋空港(小牧)にやってくる日。ワイフがそれを迎えるため、朝早く、小牧まででかけていった。

 が、私は、ひとりで留守番。見たかった。私も飛行機、大好き。飛ぶのが大好き。「飛ぶ」というより、飛ぶものが大好き。ラジコンはもちろん、ロケット、紙飛行機にいたるまで、ありとあらゆるものが、大好き。ついでに鳥も、大好き。

 こんな思い出がある。

 小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、それを両腕に結んで、1階の屋根から飛び降りたことがある。板には、大きな紙を張りつけた。私はそれで空を滑空するつもりだった。

 結果は、みなさん、予想のとおり。ドスンと地面にたたきつけられて、それでおしまい。体が軽かったこともあり、たいしたけがもしないですんだ。私が、小学3年生くらいのことではなかったか。年齢はよく覚えていない。

 以来、私は、飛行機人間になった。パイロットになるのが、夢になった。が、中学生になると近眼が進んだ。当時は、近眼の人は、パイロットにはなれなかった。みなが、そう言った。だからあきらめた。

 そこで今回は、息子のBLOG特集。今までに息子が書いた記事を集めてみる。

 言い忘れたが、今日は、仙台→名古屋→宮崎、明日(30日)は、宮崎→高知→仙台というルートで飛ぶという。明日(30日)は、正午ごろ、浜松の自衛隊基地上空を通過するとのこと。
高度は、1500フィート、約4500メートル。

 双発のジェット小型機。もしその時刻に空を見あげることができる人がいたら、ぜひ、見てほしい。「私」が飛んでいる!

++++++++++2007年1月30日+++++++++++

【黄色い旗】

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2007年1月30日。
息子のEが、自分で飛行機を操縦して、
はじめて、浜松市の上空を飛ぶ。

そこで、私は、2メートル四方の大きな
旗をつくった。テカテカと光る黄色い旗である。

それを地上から振り、息子に合図を送る。

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●電話

 高知県の高知空港から、連絡が入った。「これから高知空港を飛び立って、浜松に向う」と。
私は、すかさず、「何時ごろ?」と聞く。

E「1時から、1時半ごろの間だよ」
私「わかった。ぼくとママは、自衛隊基地の南西の角地で、旗を振る。黄色い、大きな旗だ」
E「見えるかなあ?」
私「南西の角地だ。わかったか。そこを見ろ」と。

 一度、電話を切ったものの、すぐまた電話。今度は、こちらからかけた。

私「そうそう、飛行機はどちらの方向から飛んでくるんだ」
E「真西から、真東に向う」
私「地図で見ると、南西の方角ではないのか?」
E「一度、名古屋の先まで向かい、そこから、東に向う」
私「わかった」と。

 私の声は、子どものようにはしゃいでいた。それが自分でもよくわかった。

 現在、息子は、航空航空大学にいる。2年間の全寮制の大学である。それがいよいよ終了に近づいてきた。現在は、宮城県の仙台市にいて、最終的な訓練を受けている。練習機も、単発機のボナンザから、双発ジェットのキングエアに変わった。正確には、ターボプロップエンジンといって、ジェットエンジンでプロペラを回して飛ぶ飛行機である。

 巡航速度は、550~600キロ(毎時)だそうだ。

●旗

 旗は、長い棒に、セロテープでとめた。テカテカと光る黄色い旗である。それに合わせて、ワイフも、私も、黄色いジャケットに着替えた。「これなら空から見えるかもしれないね」と。

 空を見あげると、ほんのりと白いモヤがかかっているものの、ほぼ快晴。ところどころに、白い雲がポツポツと見える。青い空が、目にしみる。

 「これなら、飛行機が見えるかもしれない」と、また私。

 私とワイフは、旗を車に載せると、航空自衛隊の基地のほうに向った。途中、コンビニよって、おにぎりを買うつもりだった。

ワ「私ね、あなたと結婚して、よかったと思うことが、ひとつ、あるわ」
私「なんだ?」
ワ「あなたといると、感動の連続で、退屈しない……」
私「なんだ、そんなことか」と。

●1万5000フィート

 自衛隊の基地へは、10分ほどで着いた。手前のコンビニで、おにぎりとお茶を買った。1時までは、まだ時間がある。時計を見ると、12時45分。

 基地の南西の角にある空き地に車を止めた。止めるとすぐ、ワイフが、車の屋根に、黄色いシートをかぶせた。私は、旗を出すと、それを振る練習をしてみた。通り過ぎる車の中から、みな、人がこちらを見ていた。が、私は気にしなかった。

私「これなら、見えるよ、きっと」
ワ「でも、高いところを飛ぶのでしょ」
私「1万5000フィートだそうだ。約4500メートル」
ワ「富士山より高いのよ」
私「見える、見える、あいつは、視力がいい」と。

 私は何度も時刻を聞く。ワイフは、空をまげたまま、動かない。ときどき、大きなライン機が、
空を飛びかう。白い雲が、今日は、いじらしい。

ワ「あの飛行機は、どれくらいの高さを飛んでいるのかしら?」
私「あれも、4500メートルくらいではないかな?」
ワ「あれくらいの高さだったら、見えるかもしれないね」と。

●1時15分

 そのとき、真西のほうから、飛行機が近づいてきた。ライトをつけている。それを見て、ワイフが、「あれ、E君じゃ、ない?」と。

 私は「そうかもしれない」とは言ったものの、それにしては高度が低すぎる。「あんな低くはないよ」とは言ったものの、期待はふくらんだ。「ひょっとしたら、Eかもしれない。あいつ、基地に近づいたら、前輪灯をつけると言っていた」と。

 目をこらしていると、その飛行機は、基地をめざしてまっすぐに飛んできた。が、やがてそれに爆音がまじるようになった。

ワ「ジェット機よ……。自衛隊の……」
私「そうだよな、あんな低いはずはないよな」と。

 ジリジリと時間が過ぎていく。1時は過ぎた。しかし、薄いモヤを通して飛行機をさがすのは、容易なことではない。飛行機そのものが、空に溶け込んでしまっている。そんな感じがした。

私「何時だ?」
ワ「1時10分よ」
……
私「何時だ?」
ワ「1時12分よ」と。

 そのとき、一機の飛行機が、2本の飛行機雲を残しながら、上空を横切っていった。

私「あれは、ちがうよね」
ワ「あれは、旅客機みたい。大きいわ。Eのは、小型機よ」
私「そうだね……」と。

 するとそのあとすぐ、それを追いかけるかのように、一機の飛行機が空を横切っていった。後退翼の飛行機である。翼端の青い線が、何となく見えた気がした。その飛行機が、丸い雲の間から出て、まっすぐと東に飛んでいった。

ワ「あれよ、きっと、あれよ」
私「あれかなあ? キングエアの翼は、まっすぐだよ。後退翼ではないはず……」と。

 しかし旗を振るヒマはなかった。目にもわかる速い速度で、その飛行機は、スーッと視界から遠ざかり、再び、丸い雲の中に消えていった。

私「時刻は、何時?」
ワ「ちょうど、1時15分よ」
私「そうか。やっぱりあれが、Eの飛行機だ。あいつは、昔から時間に正確な子どもだったから。1時から1時半の間と言えば、1時15分だ」
ワ「そうよ、きっと、あれよ。よかったわ。見ることができて」
私「うん」と。

●キングエア

 私たちは、すぐには帰らなかった。「ひょっとしたら、まちがっているかもしれない」という思いで、そのまま、そこに立った。手には黄色い大きな旗をもったままだった。

 が、通るのは、明らかにライン機と思われる大型のものばかり。それから1時半まで、小型の飛行機は通らなかった。

私「やっぱり、あれだった」
ワ「私も、そう思うわ。あれよ」
私「あとで、Eに聞いてみればわかる。あいつも浜松を通過した時刻を覚えているはずだから」
ワ「そうね」と。

 何となく、後ろ髪をひかれる思いで、私とワイフは、その場を離れた。時刻は、1時35分ごろだった。

 旗をしまい、つづいて、車の上のシートをしまった。ワイフは、何度も、「やっぱり、あの飛行機よ」と言った。

 Eが操縦していたキングエアは、翼に上反角がついている。だからうしろ下方から見ると、後退翼の飛行機のように見える。はじめは、後退翼の飛行機だったから、キングエアではないと思った。しかしそのうち、それを頭の中で、打ち消した。「やっぱり、あの飛行機だった」と。

●息子のE

 ふたたび、私たちは現実の世界にもどった。いつものように車を走らせ、信号で、止める。

 そのとき、ふと、私は、こう言った。「あいつは、本当にあっという間に、飛び去っていったね」と。

 Eをひざの上に抱いたのが、つい、先日のように思い出された。生まれたときは、3000グラムもない、小さな子どもだった。何もかも、小さな子どもだった。

 そのEが、今は、もうおとな。身長も180センチを超えた。本当に、あっという間に、そうなってしまった。そして私たちのところから、飛び去ってしまった。

私「あの飛行機の中に、あいつがいたんだね」
ワ「そうね」
私「もう東京あたりまで、行っているかもしれないよ」
ワ「そんなに早く?」
私「そうだよ。時速600キロだもん。30分で東京へ着いてしまうよ」
ワ「飛行機って、速いのね」
私「うん……」と。

 うれしくも、さみしさの入り混じった感情。それが胸の中を熱くした。多分、ワイフも、同じ気持ちだったのだろう。家に着くまで、ほとんど、何もしゃべらなかった。

 車をおりるとき、再び、ワイフが、こう言った。「本当に、あなたといると、退屈しないわ」と。
 私は、それに答えて、「ウン」とだけ言った。
(2007年1月30日記)

【追記】

 やっぱり、あの飛行機が、キングエアでした。以下、EのBLOGから、日記をそのまま紹介します。

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 一泊航法、2日目。この上なくスッキリとした寝起き。僕たちの班は、高知経由で仙台へ帰還する。高知~仙台間が、僕の担当するレグだ。僕は浜松出身なので、どうしても浜松上空を通って帰りたかった。名古屋のあたりから新潟へ抜け、そこから真東へ帰るルートが主流なのだが、僕は名古屋から浜松、大島を経由し館山、御宿、銚子と房総半島を沿うように北上、仙台に至るルートを選択。教官すら飛んだことのないルートで、フライトプランが受理されるかどうか心配だった。というのも、羽田や成田の周辺は、国内一、航空交通量の多いところなので、C90のような遅いプロペラ機が訓練でフラフラ来られると迷惑がかかるのでは、と思ったのだ。
実際、高度帯によっては迂回させられる場合もあるんだとか。今回は17,000ft、約5000mを選択。空港に離着陸するライン機は、空港周辺ではこの高度よりも低いところを飛んでいるだろうと予想した結果だ。難なく許可されたので一安心。

 14,000ft以上の高度を航空業界では、『フライトレベル』と呼ぶ。フライトレベル1・7・0(ワン・セブン・ゼロ)。そこから見た日本の姿は、本当に綺麗だった。


航空自衛隊・浜松基地。両親がこの南西端にいて旗を振っていたらしいが、インサイトできず。

アクト・シティ。デジカメの望遠でここまで見えた。

一生忘れられない景色を、今日はたくさん見た。

 この他、羽田空港や成田空港なども見ることができた。成田空港では、アプローチする海外のエアラインが僕らのはるか下方を、列を作って飛んでいるのが見えた。見えたは2~3機だけだったが、等間隔のセパレーションを保って、はるかかなたの海から繋がる飛行機の列は、まるでベルトコンベアーのようであった。高知離陸から仙台着陸まで2時間45分。今日は仙台に来て初めて、ランウェイ09に着陸した。

 今回の旅で感じたことはたくさんあったが、まとめると、本当に楽しかった、という言葉になるだろう。操縦技術やオペレーションの訓練はもちろん、日本の空、日本の地形というものの全体的なイメージが掴めた気がする。そして、日本国内だけでなく、海外にだって行けそうな、そんな自信も手に入れた。本当に、すばらしい2日間であった。一泊航法で得た経験を、見た景色を、初めて飛んだ地元の空を、誇りに思ってくれた両親を、宮崎で再確認した初心を、僕は一生、忘れない。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【息子の初フライト】JAL搭乗機

● 羽田へ向かう

 これから羽田に向かう。
新幹線に乗って、品川まで。
品川で一泊。
朝イチで、羽田へ。
903便。
午前8時10分離陸
息子の初飛行。
副機長になっての初飛行。
機種はB777-300。
500人乗り。

が、あいにくの悪天候。
目下、台風14号が、沖縄を直撃中。
言い忘れたが、初飛行は、羽田から那覇(沖縄)まで。
明日は「欠航」になるはず。
それでも私たちは、羽田に向かう。
ワイフが、こう言った。
「沖縄へ行けなくてもいいから……」と。
ワイフにはワイフの思いがある。
息子のにおいをかぎたいらしい。
「E(息子)に会えなくてもいいから……」とも。
私はすなおに、同意した。

・・・いつだったか、私は息子に約束した。
「初飛行のときは、飛行機に乗るよ」と。
その約束を、明日実行する。

●搭乗券

 息子が、JALの無料搭乗券を送ってきた。
が、その券では飛行機の予約はできない。
私とワイフは、割高の席を予約した。
往復で、14万円。
(このLCCの時代に、14万円!)
LCC、つまりロー・コスト・キャリアー。
欧米では、ばあいによっては、300~500円で飛行機に乗れるという。
そういう時代に、14万円!

 「高い」と思う前に、私のばあい、
「無事に帰ってこられたら、安い」と考える。
何を隠そう、私は飛行機恐怖症。
一度、飛行機事故に遭ってから、そうなってしまった。
今の今も、欠航になればよいと思う。
同時に、約束は守らねばならないという義務感。
その両者が、心の中で相互に現れては消える。

 本音を言えば、どちらでもよい。
飛行機は好きだが、今年(2010)になってからというもの、一度も空を
見あげていない。
いろいろあった。
加えて飛行機事故のニュースが報道されるたびに、ヒャッとする。
そうした状態がこの先、一生、つづく。

もし欠航になったら、羽田見物をする。
羽田でも、国際線が発着するようになったという。
それを見て、明日は、そのまま帰ってくる。

●息子の初飛行

 2010年、10月xx日。
JALに入社した息子が、副機長として
初飛行をする。
羽田から那覇まで。
飛行機の世界では、「初~~」というのは、
そのつど特別な意味をもつ。

 先週、その知らせを受け取るとすぐ、飛行機の予約を入れた。
長い手紙と、10枚近い写真が、それに添えてあった。
訓練につづく訓練で、忙しかったらしい。

●初飛行

 先にも書いたが、2010年の正月以来、ほぼ11か月。
私とワイフは、一度も空を見上げたことがない。
飛行機の話もやめた。
それまでは毎日のように空を見上げていたが・・・。

 正月に事件があった。
どんな事件かは、ここには書きたくない。
一度ハガキを書いたが、返事はなかった。
無視された。
手紙ではなく、ハガキにしたのは、家族の間で、秘密を作りたくなかったから。
ともかくも、その事件以来、私は苦しんだ。
ワイフも苦しんだ。

『許して忘れる』という言葉がある。
この言葉は自分以外の人には有効でも、自分に対しては、そうでない。
自分を許して、忘れることはできない。
自己嫌悪と絶望感。
……いろいろあった。

●ケリ

 そんな私がなぜ初飛行に?、と思う人がいるかもしれない。
それにはいろいろ理由がある。
ひとつには、自分の気持ちにケリをつけたかった。

息子が横浜国大を中退して、パイロットになりたいと言ったときのこと。
私は息子に夢を託した。
私も学生時代、パイロットにあこがれた。
仲がよかった先輩が、航空大学へ入学したこともある。

 が、息子が、航空大学に入学し、その夢がかなった。
息子が単独飛行で、浜松上空を横切ったときは、ワイフと二人で、
毛布を2枚つないだほどの大きな旗を作った。
黄色い旗だった。
それをワイフと2人で、空に向かって、振った。
JALに入社して、さらにその夢がかなった。
が、私の夢は、そこまで。

●私の夢

 私たちがその飛行機に乗ることは、昨日になってはじめて連絡した。
同じようにハガキで書いた。
たがいの連絡が途絶えて、10か月以上になる。
が、内緒で乗るというような、卑屈な気持ちはみじんもない。
私には私の夢があった。

息子の操縦する飛行機で、旅をする。
私の代理として、息子が操縦桿を握る。
その夢に終止符を打つために、飛行機に乗る。

私は私で夢をかなえ、あとは静かに、引き下がる。

●子離れ

 が、どうか誤解しないでほしい。
だからといって、息子との関係が壊れているとか、断絶しているとか、
そういうことではない。
(連絡は途絶えているが……。)
ワイフはいつも、こう言っている。
「自然体で考えましょう」と。

 その自然体で考えると、「どうでもよくなってしまった」。
「めんどう」という言い方のほうが、正しい。
親子の関係にも、燃え尽き症候群というのがあるのかもしれない。
その事件をきっかけに、私は燃え尽きてしまった。

 もちろん苦しんだ。
心臓に異変を感ずるほど、心を痛めた。
家にいる長男は、E(息子)を怒鳴りつけてやると暴れた。
私は私で、体中が熱くなり、眠られぬ夜もつづいた。
しかしそれも一巡すると、ここに書いたように、どうでもよくなってしまった。
もし修復するという気持ちが息子にあったとしたら、11か月というのは、
あまりにも長すぎた。
遅すぎた。

 これも子離れ。

●呪縛

 「今ね、息子や嫁さんに会っても、以前のようにすなおな気持ちで、
いらっしゃいとは言えないよ」と。
ワイフも同じような気持ちらしい。
仮に言えたとしても、そのときはそのときで、終わってしまうだろう。
長つづきしない。
やがて今のような状態に、もどる。

 悲しいというよりは、ワイフの言葉を借りるなら、「そのほうがいい」と。
「息子たちは息子たちで、私たちに構わず、幸福になればいいのよ」と。

 私は逆に、若いころから、濃密すぎるほどの親子関係、親戚関係で苦しんだ。
2年前、実兄と実母をつづいてなくし、やっとその呪縛から解放された。
そんな重圧感は、私たちの世代だけで、終わりにしたい。
もうたくさん。
こりごり。

●だれかがしなければならない仕事?

 息子から長い手紙がきたとき、チケットの予約はした。
メールはたびたび出したが、返事はなかった。
それで今回は、メールを出さなかった。
たぶん、アドレスを変えたせいではないか。
いろいろな文章が頭の中を横切ったが、手紙にはならなかった。
今さら、何をどう書けばよいのか。

 繰り返しになるが、今までもそうだったが、これからも飛行機事故の
ニュースを聞くたびに、心臓が縮むような思いをしなければならない。
危険な職業であることには、ちがいない。
が、私にこう言った人がいた。

「だれかがしなければならい仕事でしょ」と。

 そんな酷な言葉があるだろうか。
もし自分の息子だったら、そんな言葉は出てこないだろう。
たとえば自分の息子が戦場へ行ったとする。
そしてだれかに、「心配だ」と告げたとする。
で、そのだれかが、「だれかがしなければならない仕事でしょ」と。

●夢?

 夢をかなえた?

・・・今にして思えば、やはりあのとき、私は反対すべきだった。
学費の援助を止めるべきだった。
空を飛びたいという気持ちは、よくわかる。
しかし多かれ少なかれ、だれしも一度は、パイロットにあこがれる。
が、空の飛び方は、必ずしもひとつではない。
客となって、空を飛びまわるという方法もある。
またその夢がかなわなかったからといって、負け犬ということでもない。

 たとえばあの毛利氏(宇宙飛行士)は、浜松市で講演をしたとき、こう言った。
「みなさん、夢をもってください」「実現してください」と。
子ども相手の講演会だった。
「みなさん」というのは、子どもたちをさす。

 しかし自分の子どもを宇宙飛行士にしたいと願う親はいない。
もし、あなたの息子が「パイロットになりたい」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
「なりなさい」と言うだろうか。
「危険な仕事」というのは、それをいう。

 今回も、何人かの知人に、「息子が初飛行します」と告げた。
みな「おめでとう」とは言ってくれたが、そこまで。
それ以上のことは言わなかった。
みな、口を閉じてしまった。

●運命

 ともかくも今夜は、品川で一泊する。
早朝便で、羽田から那覇へ飛ぶ。
しかし台風。
台風14号。
このままでは明日、台風は沖縄を直撃する。
私の予想では、当時のフライトは、欠航するはず。
大型台風のまっ只中へ、着陸を強行する飛行機は、ない。

 そう、何ごとも中途半端はいけない。
直撃なら、直撃でよい。
そのほうが、あきらめがつく。

 しかしこれも運命。
私たちはいつも無数の糸にからまれている。
今は「天候」という糸にからまれている。

●S氏

 ときどきふと、こう考える。
長生きするのも、考えもの、と。
数年前までよく仕事を手伝ってくれた、S氏という男性が亡くなった。
病院で腎透析を受けている最中に、眠るように亡くなったという。
私より、5歳も若かった。

 もし私も5年前に死んでいたら、私の周辺はもっと平和だったかもしれない。
息子たちにも、「いい親父だった」と言われているかもしれない。
それにこの先のことを考えると、私はみなに迷惑をかけることはあっても、
喜ばれることはない。
さみしい人生だが、これも運命。
無数の糸にからまれて作られた、運命。

●ケリ

 先ほど「ケリ」という言葉を使った。
この数年、私はこの言葉をよく使う。
ケリ。
いろいろなケリがある。
とくに人間関係。

 それまでモヤモヤしていたものを清算する。
きれいさっぱりにする。
それがケリ。

 最初にケリをつけたのは、山林。
30年ほど前、1人のオジが、私に山林を売りつけた。
「山師」というのは、イカサマ師の代名詞にもなっている。
オジはその山師だった。
当時としても、相場の6倍以上もの値段で売りつけた。
私はだまされているとはみじんも疑わず、その山林を買った。
間で母が仲介したこともある。

 その山林を昨年、買ったときの値段の10分の1程度で売却した。
株取引の世界でいう、「損切り」。
損をして、フンギリをつける。
いつまでも悶々としているのは、精神にも悪い。
そうでなくても、私の人生は1年ごとに短くなっていく。
 
●人間関係

 つぎに人間関係。
私はいくつかの人間関係にも、ケリをつけた。
まず「一生、つきあうことはない」という思いを、心の中で確認する。
そういう人たちを順に、ケリをつけていく。

 妥協しながら、適当につきあうという方法もないわけではない。
しかしそんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。
というか、私は自分の人生の中で、妥協ばかりして生きてきた。
言いたいことも言わず、したいこともしなかった。
みなによい顔だけを見せて生きてきた。
子どものころから、ずっとそうしてきた。
若いときは、働いてばかりいた。
そんな自分にケリをつける。
そのために人間関係にも、ケリをつける。

 この先、刻一刻と自分の人生は短くなっていく。
無駄にできる時間はない。
それでも私のことを悪く思うようなら、「林浩司(=私)は死んだ」と、
そう思いなおして、あきらめてほしい。

●選択
 
 もうひとつ、ここに書いておきたい。
それが「選択」。
何かの映画に出てきたセリフである。
「私の人生はいつも、選択だった」と。

 いくら私は私と叫んでも、毎日が、その選択。
「私」など、どこにもない。
Aの道へ行くにも、Bの道へ行くにも、選択。
選択を強いられる。
そこでその映画の主人公は、こう叫ぶ。
「もう選択するのは、いやだア!」と。

 この言葉を反対側から解釈すると、「私は私でいたい」という意味になる。
つまり先に書いた、「ケリ」と同じ。
私が言う「運命論」は、その「選択論」に通ずる。
私たちは大きな運命の中で、こまかい選択をしながら生きている。
その選択をするのも、疲れた。

●孤独

 たまたま今朝も書いたが、この先、独居老人ならぬ「無縁老人」が、どんどんと
ふえるという。
私もその1人。

 しかし誤解しないでほしい。
無縁は、たしかに孤独。
しかし有縁だからといって、孤独が癒されるということではない。
世界の賢者は、口をそろえてこう言う。
老齢期に入ったら、相手を選び、深く、濃密につきあえ、と。
あるいはこう教えてくれた友人(私と同年齢)もいた。

 「林さん(=私)、酒を飲むと孤独が癒されるといいますがね、あれはウソですよ。
そのときは孤独であることを忘れますがね、そのあと、ドカッとその数倍もの
孤独感が襲ってきますよ」と。

 人間関係も同じ。
心の通じない人と、無駄な交際をいくら重ねても、効果は一時的。
そのときは孤独であることを、忘れることはできる。
しかしそのあと、その数倍もの孤独感がまとめて襲ってくる。
私も、そういう経験を、すでに何度かしている。

●親子関係

 そこで問題。
よき親子関係には、孤独を癒す力があるか否か。
答は当然、「YES」ということになる。
人は、その親子関係を作るために、子育てをする。
が、このことには2面性がある。

 私は私の親に対して、よい息子(娘)であったかどうかという1面。
もうひとつは、私という親は、息子(娘)に対して、よい親であったかという1面。
私を中心に、前に親がいて、うしろに子どもがいる。
実際には、よき親子関係を築いている親子など、さがさなければならないほど、少ない。
が、今、子育てに夢中になっている親には、それがわからない。

 「私だけはだいじょうぶ」
「うちの子にかぎって……」と。
幻想に幻想を塗り重ねて、その幻想にしがみついて生きている。
が、子どもが思春期を迎えるあたりから、親子の間に亀裂が入るようになる。
それがそのまま、たいていのばあい、断絶へとつながっていく。

 それともあなたは自分の親とよい人間関係を築いているだろうか。
「私はそうだ」と思う人もいるかもしれない。
が、ひょっとしたら、そう思っているのは、あなただけかもしれない。

●品川のホテルで

 ホテルへ着くと、私はすぐ睡眠導入剤を口に入れた。
睡眠薬ともちがう。
ドクターは、「熟睡剤」と言う。
朝方に効く薬らしい。
早朝覚醒を防ぐ薬という。
それをのむと、明け方までぐっすりと眠られる。
が、午前5時前に目が覚めてしまった。

 ……このつづきは、またあとで。

●宿命的な欠陥

 話はそれる。

 これは現代社会が宿命的にもつ欠陥なのかもしれない。
私たちは古い着物を脱ぎ捨て、ジーンズをはくようになった。
便利で合理的な社会にはなったが、そのかわり、日本人が昔からもっていた温もりを
失ってしまった。

 こんな例が適切かどうかはわからない。
が、こんな例で考えてみる。

 私が子どものころは、町の祭りにしても、旅行会にしても、個々の商店主がそれを
主導した。
どこの町にも、そうした商店街が並んでいた。
近所どうしが、濃密なコミュニティーをつくり、助けあっていた。

 が、今は、大型ショッピングセンターができ、街の商店街を、駆逐してしまった。
こうこうと光り輝く、ショッピングセンター。
山のように積まれたモノ、モノ、モノ。
そこを歩く華やかな人々。
ファッショナブルな商品。 

 しかしそういう世界からは、温もりは生まれない。
わたしはそれを、現代社会が宿命的にもつ「欠陥」と考える。
当然のことながら、親子関係も、大きく変わった。

●私の時代

 何度も書くが、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それを条件とした。
当時の若者としては、けっして珍しいことではなかった。
集団就職という言葉も、まだ残っていた。

が、今の若い人たちに、こんな話をしても、だれも信じない。
私の息子たちですら、信じない。
そんなことを口にしようものなら、反対に、「パパは、ぼくたちにも同じことを
しろと言っているのか」と、やり返される。

 実際に、そんなことを言ったことはないが、返事は容易に想像できる。
だから言わない。
言っても、無駄。

 が、今はそれが逆転している。
親が子どものめんどうをみる時代になった。
なったというよりは、私たちが、そういう時代にしてしまった。
飽食と少子化。
ぜいたくと繁栄。
それが拍車をかけた。

●翌、10月29日

 チケットを購入し、今、11番ゲートの出発ロビーにいる。
昨夜のんだ、頭痛薬のせいと思う。
今朝から軽い吐き気。
私はミネラルウォーターを飲む。
ワイフは横でサンドイッチを食べている。

 どうやら飛行機は、定刻どおり、離陸するらしい。
うしろ側にモニターがあって、飛行機の発着状況を知らせている。
今のところ「欠航」という文字は見えない。
だいじょうぶかな?
台風14号は、どうなっているのかな?

 B777は、大型飛行機。
その中でもB777-300。
日本では、最大級の飛行機。
ジャンボと呼ばれた747よりも、実際には大きいという。
風にも強いとか。

 しかしこわいものは、こわい。
この体のこわばりが、それを示している。
恐怖症による、こわばり。
体が固まっている!

●ラウンジで

 ワイフが席にもどってきた。
あれこれしゃべったあと、また席を立った。
もどると、私のシャツのシミを拭き始めた。
「白いシャツだと、目立つから……」と。

 「搭乗手続き中」の表示が出た。
那覇行き、903便。
だいじょうぶかなあ……?

●離陸

 飛行機がスポット(駐機場)を離れたとき、熱い涙が何度も、頬を流れた。
同時に息子の子ども時代の姿が、あれこれ脳裏をかすめた。
「走馬灯のように」という言い方もあるが、走馬灯とはちがう。
断片的な様子が、つぎつぎと現れては消えた。

 最初は、息子が私のひざに抱かれて笑っている姿。
生まれたときは、標準体重よりかなり小さな赤ん坊だった。
だから私は息子を、「チビ」とか、「チビ助」とか呼んでいた。
それがそのあと、「ミニ公」となり、「メミ公」というニックネームになった。

 つぎに大きなおむつをつけて、かがんでいる姿。
どこかの田舎のあぜ道で、道端を流れる水をながめている。
オタマジャクシか何かを見つけたのだろう。
息子はその中を、じっと見つめていた。

 そのメミ公が、私の身長を超えたのは、中学生になるころ。
今では180センチを超える大男になった。

 ……先ほど通路を通るとき、私たちを見つけたらしい。
左の席にいた機長が何度も、頭をさげてくれた。
私は思わず、親指を立て、OKサインを出した。

 私は、飛行機が空にあがると、息子が航空大学時代に送ってくれた学生帽を
かぶりなおした。
金糸で、それには「Hiroshi Hayashi.」と縫いこんであった。

●白い雲海

 シートベルト着用のサインが消えた。
電子機器の使用が許可された。
私はパソコンを取り出した。
息子は今日から飛行時間を重ね、つぎは機長職をめざす。
いや、息子のことだから、それまでおとなしくしているとは思わない。
何かをするだろう。

 どうであれ、おそらく私はそれまでは生きていないかもしれない。
窓の外には白い雲海が広がっていた。
まぶしいほどの雲海。
台風14号の影響か、見渡す限り、雲海また雲海。
息子は毎日、こんな世界を見ながら仕事をするのだろうか。

●B777-300

 だれだったか、こう言った。
「これからは飛行機のパイロットも、バスの運転手も同じだよ」と。
しかしB777-300に乗ったら、そういう考えは吹き飛ぶ。
風格そのものがちがう。
飛行機は飛行機だが、B777-300は、さすがに大きい。
新幹線の1車両(普通車)は、90人(5人がけx18列)。
その約5~6倍の大きさということになる。
それだけの大きさの飛行機が、機長と副機長という2人の技術力だけで飛ぶ。

 国際線は何10回も利用させてもらったが、そんな目で見たことは、今回が
はじめて。
それに、ここまでくるのに、つまり航空大学校に入学してから、5年半。
ANAに入社した大学の同期は、すでに1~2年前から、副機長として
飛んでいるという。

 パイロットという仕事は、そこまでの段階がたいへん。
またそのつど、感動がある。

 はじめてフライトしたとき。
はじめて単独飛行をしたとき。
はじめて双発機を飛ばしたとき。
はじめて計器飛行をしたとき。
はじめて夜間飛行をしたとき。
いつも「はじめて……」がつく。
今回は、副機長。
はじめての副機長。

●JAL

 飛行機に乗るなら、JALがよい。
けっしてひいきで書いているのではない。
訓練のきびしさそのものが、ちがう。
先ほど航空大学校の話を書いたが、卒業生でもJALに入社できたのは、3名だけ。
ANAも3名だけ。
そのあと、カルフォルニアのNAPA、下地島(しもじしま)での訓練とつづいた。

 外国のパイロットは、そこまでの訓練はしない。
退役した空軍パイロットが、そのまま民間航空機のパイロットになったりする。
会社自体は現在、ガタガタの状態。
しかしパイロットだけは、ちがう。
息子の訓練ぶりの話を聞きながら、私は幾度となく、そう確信した。

 みなさん、飛行機はJALにしなさい!
多少、料金が割高でも、JALにしなさい!
命は、料金で計算してはいけない。
たとえば中国の航空会社は、少しの悪天候でも、つぎつぎと欠航する。
夜間飛行(=計器飛行)もロクのできないようなパイロットが、国際線を
操縦している。
だからそうなる。

●アナウンス

 先ほど、息子がフライトの案内をした。
早口で、ややオーストラリア英語なまり(単語の末尾をカットするような英語)でも
話した。

 この原稿は息子にあとで送るため、気がついた点を書いてみたい。

(1) もう少し、低い声で、ゆっくりと話したらよい。
(2) 「タービュランス(乱気流)」という単語が、聞きづらかった。
(3) こうした案内は、「Ladies & Gentlemen」ではじめ、必ず終わりに、「Thank you」
でしめくくる。

 早口だと、乗客が不安になる?
静かで落ち着いた口調だと、もっと安心する。
とくに今日は、台風14号の上空を飛ぶ。

●沖縄

 いつもそうだが、飛行機恐怖症といっても、飛行機に乗っている間は、だいじょうぶ。
離陸前、着陸時に緊張する。
それに先方の出先で不眠症になってしまう。
今回も、おとといの夜くらいから不眠症に悩まされた。

 今夜は沖縄でも、ハイクラスのホテルに泊まる。
ワイフが料金を心配していたが、私はこう言った。
「14万円もかけていくんだぞ。ビジネスホテルには泊まれないよ」と。

 1泊2日の旅行(?)だが、行きたいところは決まっている。
数か月前、沖縄に行ってきた義兄が、「こことここは行ってこい」と、あれこれ
教えてくれた。
そのひとつが、水族館。
ほかにショーを見せながら夕食を食べさせてくれるところがあるそうだ。
ワイフは、そこへ行きたいと言っている。

●オーストラリア

 飛行機に乗る前は、「家族もろとも、あの世行き」と考えていた。
しかしまだまだ死ねない。
やりたいことが山のようにある。
それにまだ若い。 
ハハハ。
まだ若い。

 ……今、ふと、オーストラリアに向かって旅だったときのことを思い出した。
離陸するとすぐ、BGMが流れ始めた。
その曲が、「♪アラウンド・ザ・ワールド」だった。
私はその曲を耳にしたとき、誇らしくて、胸が張り裂けそうになった。
1970年の3月。
大阪万博の始まる直前。
その日、私はオーストラリアのメルボルンへと向かった。

 ……しかしどうしてそんなことを思い出したのだろう。
あのときもJALだった。
機種はDC-8。
香港、マニラと、2度も給油を重ねた。
つばさの赤い日の丸を見ながら、私は心底、日本人であることを誇らしく思った。

●台風

 再び息子が案内した。
「台風の上を通過するから、シートベルトを10分ほど着用するように」と。
とたん、飛行機が揺れ始めた。

 息子は英語で、「about ten minutes」と言ったが、こういうときオーストラリア
人なら、「approximately ten minutes言うのになあ」と思った。
どうでもよいことだが……。

息子はアデレードのフリンダース大学で、8か月を過ごしている。
オーストラリアなまりでは、「about」も、「アビャウツ」というような発音をする。
どうでもよいことだが、息子の英語は、どこか日本語英語臭い。
いつだったか、そんな英語で管制官に通ずるのかと聞いたことがある。
それに答えて、息子はこう言った。
「へたに外国なまりの英語を話すと、かえって通じないよ」と。

 そう言えば、こんな笑い話がある。

 たまたま息子が単独飛行を成功させたときのこと。
録音テープが送られてきた。
息子と管制官とのやり取りが録音されていた。
そのときたまたま二男の嫁(アメリカ人)と妹(アメリカ人)が私の家にいた。
そのテープを2人が何度も聴いてくれた。
が、そのあとこう言った。
「何を言っているか、まったくわからない」と。

 私には、よくわかる英語だったが……。

 息子も、こうした機内では、思い切って、オーストラリアなまりでもよいから、
外国調の英語を話したほうがよい。
そのほうが外人の乗客たちは安心する。

 ……こういう飛行機の中では、いろいろな思いがつぎからつぎへと出てきては消える。
やっと少し、気持ちが落ち着いてきた。
イヤフォンを取り出して、音楽を聴く。

●思い出

 あれから40年。
またそんなことを考え始めた。
羽田からシドニーまで。
往復の料金が、42、3万円の時代だった。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。

 このところいつもそうだが、こうして過去のある時点を思い浮かべると、
その間の記憶がカットされてしまう。
あのときが「入り口」なら、今は「出口」。
部屋に入ったと思ったとたん、出口へ。
過去のできごとを思い出すたびに、そうなる。

 「これが私の人生だった」と、またまたジジ臭いことを考えてしまう。
白い雲海をながめていると、人生の終着点が近いことを知る。
ワイフには話さなかったが、今朝も、起きたとき足がもつれた。
自分の足なのに、自分の足に自信がもてなくなった。
40年前には、考えもしなかったことだ。

●機内で

 右横にワイフ。
いろいろあったが、機内で「死ぬときもいっしょだね」と言うと、うれしそうに、
「そうね」と言ってくれた。
がんこで、カタブツで、男勝りのワイフだが、はじめてそう言った。

 が、総合点をつけるなら、ほどほどの合格点。
何よりも健康で、ここまでやってこられた。
たいしたぜいたくはできなかったが、いくつかの夢は実現できた。
山荘をもったのも、そのひとつ。
やり残したことがあるとすれば、……というか、後悔しているのは、何人かの友と、
生き別れたこと。
とくにオーストラリア人のP君。
一度、謝罪の長い手紙を書いたが、返事はなかった。
そのままになってしまった。

 P君は生きているだろうか。
元気だろうか。

 ……どうして今、そんなことを考えるのだろう?
白い雲海が、どこまでもつづく白い雲海が、私をして天国にいるような気分にさせる。

●息子へ 

 私は約束を果たした。
同時に私のかわりに、私の夢をかなえてくれた、お前に感謝する。
長い年月だった。
あの山本さんと夢を語りあってから、43年。
山本さんは、JALの副機長として、ニューデリー沖の墜落事故で帰らぬ人となった。
いつか、お前も、インドへ飛ぶことがあるだろう。
そのときは、そこで最高の着陸をしてみてほしい。
最高の着陸だ。

 いつかお前が言ったように、そよ風に乗るように、着地音もなく静かに着陸。
逆噴射が止まったとき、飛行機は滑るようにランウェイを走り始める。
そんな着陸だ。
楽しみにしている。

●気流

 やはり気流がかなり悪いようだ。
下を向いてパソコンにキーボードを叩いていると、目が回るような感じになる。
飛行機はガタガタと小刻みに揺れている。
先ほどのアナウンスによれば、ちょうど今ごろ、台風の真上を通過中とのこと。
体では感じないが、かなり上下にも揺れているらしい。

 もうすぐ飛行機は那覇空港に到着。
電子機器の使用は禁止になった。
では、またあとで……。

●10月30日、那覇空港出発ロビー

 昨日は、那覇空港を出ると、そのまま沖縄観光に回った。
タクシーの運転手と、交渉。
貸し切りにして、1時間3000円見当という。
私は首里城。
ワイフはひめゆりの塔を希望した。

 ひめゆりの塔を先に回った。
それに気をよくしたのか、タクシーの運転手は、あちこちの戦争記念館を回り始めた。
旧海軍司令部壕、沖縄平和祈念資料館などなど。
かなりの反戦運動家とみた。
アメリカ軍の残虐行為、横暴さを、あれこれ話した。
「自粛なんてとんでもない。大規模なデモをしたりすると、その直後から、アメリカは
わざと大型の戦闘機を地上スレスレに飛ばすんだよ」と。

 沖縄の現状は、沖縄へ来てみないとわからない。
いかに沖縄が、日本人(ヤマトンチュー)の犠牲になっているか、それがよくわかる。
……というか、4時間近く運転手の話を聞いているうちに、私はすっかり洗脳されて
しまったようだ。

 「沖縄戦は悲惨なものだったかもしれませんが、問題は、ではなぜそこまで悲惨なもの
になったか、です。ぼくは、そこまでアメリカ軍を追い込んだ日本軍にも責任があると
思います」と。
運転手はさらに気をよくして、「そうだ、そうだ」と言った。
沖縄では、「反日」という言葉を使えない。
「反米」という。
しかしその実態は、「反日」と考えてよい。

 中国人や韓国人が内にかかえる、反日感情とどこか似ている。
「私たちは日本人」という意識が、本土の日本人より、はるかに希薄。
1人のタクシーの運転手だけの話で、そう決めてしまうのは危険なことかもしれない。
が、私は、そう感じた。

●夕食

 夕食は、息子を交えて、3人でとった。
国際通りの一角にある平和通り。
さらにそこから入ったところに、公設市場がある。
魚介類が生きたまま並べてある。
そこから自分の食べたい魚や貝、カニやエビを選ぶ。
それをその上の階の食堂で、料理してもらい、食べる。

 台湾や香港で、そういう店によく入ったことがある。
というか、売り場の女性をのぞいて、従業員は日本語が通じない人たちばかりだった。
私は店の女性と交渉して、3人前で6000円になるようにしてもらった。

 で、話を聞くと息子はこう言った。
「何も届いていない」と。

 私が書いたはがきも、メールも、何も届いていない、と。
???
息子は「住所がちがっていたのでは?」と数回、言った。

息子が、私のはがきやメールを無視したのではなかった。
音信が途絶えたのではなかった。
何かの理由で、行き違いになったらしい。
それを聞いて、半分、ほっとした。

●ロアジール・スパ・ホテル

 泊まったのは、ロアジール・スパ・ホテル。
沖縄でも最高級ホテルという。
知らなかった!
新館は2009年にオープン。
その新館。
あちこちのホテルや旅館に泊まり歩いてきたが、まあ、これほどまでに豪華な
ホテルを私は知らない。

 昔はヒルトンホテルとか、帝国ホテルとか言った。
東京では、いつも、ホテル・ニュー・オータニに泊まった。
あのときはあのときで、すごいホテルと思った。
しかし今ではその程度のホテルなら、どこにでもある。
が、ロア・ジール・スパ・ホテルは、さらに格がちがった。
驚いた!

 チェックインも、ふつうのホテルとは、ちがった。
ロビーのソファに座りながらすます。
飲み物を口にしていると、若い女性が横にひざまづいて、横に座った。
そこで宿泊カードに記入。
それがチェックイン。

部屋に入ったとたん、ワイフはこう言った。
「こんなホテルなら、一週間でもいたい」と。

 人件費が安いのか、いたるところに職員を配置している。
そのこともあって、サービスは至れり尽くせり。
なお「ロア・ジール」というのは、フランス語で、「レジャー」という意味だそうだ。
温泉の入り口にいた、受付の女性が、そう教えてくれた。

●沖縄

 沖縄を直接目で見て、「ここが昔から日本」と思う人は、ぜったいに、いない。
首里城を見るまでもなく、沖縄はどこからどう見ても沖縄。
沖縄というより、台湾。
台湾の文化圏に入る。
もう少しワクを広げれば、中国の文化圏。
どうしてその沖縄が、日本なのか?
ふと油断すると、「ここは台湾か?」と思ってしまう。

 平たい屋根の家々。
平均月収は東京都の2分の1という。
町並みも、どこか貧しそう。

 現代の今ですら、そうなのだから、江戸時代にはもっと異国であったはず。
沖縄弁にしても、言葉はたしかに日本語だが、発音は中国語か韓国語に近い。
それについての研究は、すでにし尽くされているはず。
素人の私が言うのもおこがましいが、もちろん九州弁ともちがう。

●沖縄戦

 沖縄戦の悲惨さは、改めて書くまでもない。
つまり先の戦争では、沖縄が日本本土の防波堤として、日本の犠牲になった。
その思いが、先に書いた「反日」の底流になっている。
「ひめゆりの塔」が、その象徴ということになる。

 が、実際には、沖縄がアメリカ軍によって南北に二分されたとき、北側方面に
逃げた人たちは、ほとんどが助かったという。
南側方面に逃げた人たちは、ほとんどが犠牲になったという。
その原因の第一が、あの戦陣訓。
「生きて虜囚の……」という、アレである。
「恥の文化」を美化する人も多いが、何をもって恥というか。
まっとうな生き方をしている人に、「恥」はない。

で、有名な「バンザーイクリフ(バンザーイ崖)」というところも通った。
アメリカ軍に追いつめられた住民が、つぎつぎとその崖から海に身を投げた。
が、今は、木々が生い茂り、記録映画などの出てくる風景とはかなりちがう。
それをタクシーの運転手に言うと、運転手はこう教えてくれた。

「それ以前は緑豊かな土地でした。雨あられのような砲弾攻撃を受けて、このあたりは、
まったくの焼け野原になってしまったのです」と。

 戦争記念館には、不発弾の様子がそのまま展示してあった。
畳10畳ほどの範囲だけにも、不発弾が4~5発もあった。
うち一発は、250キログラム爆弾。

 不発弾というのは、そうもあるものではない。
つまりそれだけ爆撃が激しかったことを意味する。
あるところには、こう書いてあった。

 爆破された塹壕をのぞいてみると、兵隊や女子学生のちぎれた肉体が、
岩の壁に紙のようになって張りついていた、と。

●国際通り

 国際通りを歩いて、驚いた。
店員という店員が、みな、若い。
20代前後。
活気があるといえば、それまでだが、同時にそれは若者たちの職場がないことを
意味する。
職場があれば、こんな路頭には立たない。
日本よ、日本企業よ、外国投資もよいが、少しでも愛国心が残っているなら、
沖縄に投資しろ!

 その国際通り。
そこには、本土では見たこともないような商品が、ズラズラと並んでいた。
ワイフは「外国みたい」と、子どものようにはしゃいでいた。
 
●ホテルへ

 息子とは国際通りで別れた。
私とワイフはそこからタクシーに乗り、ホテルに戻った。

 温泉に入り、息抜き。
そのころから私に異変が置き始めた。
飛行機恐怖症という異変である。
体が固まり始めた。
ザワザワとした緊張感。
同時に孤独感と、虚無感。

 外国ではよく経験する。
しかしここは「日本」。
「心配ない」と、何度も自分に言い聞かせる。

●孤独

 不安と孤独は、いつもペアでやってくる。
こういう離れた土地へやってくると、私はいつも、そうなる。
不安感が孤独を呼ぶのか。
孤独が不安を呼ぶのか。
横にワイフがいるはずなのに、心の中をスースーと隙間風が吹く。
なぜだろう?
どうしてだろう?
老齢のせいだけではない。
私は若いころから、そうだった。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて、もう眠っていた。

●10月30日

 午前中、再び国際通りを歩いてみた。
昨夜、カメラをもってくるのを忘れた。
それで再び、国際通りへ。

 「やはり夜景のほうがよかった」と私。
昼間の国際通りも悪くはないが、異国風という点では、夜景のほうがよい。
私は国際通りを歩きながら、片っ端からデジタルカメラで写真を撮った。

●台風14号

 沖縄へ向かうときも恐ろしかった。
しかし帰るときは、もっと恐ろしかった。
ちょうどその時刻。
台風14号は、羽田にもっと接近していた。

 飛行機は大きく揺れた。
が、息子のアナウンスが、私たちを安心させた。

「落ち着いた声で、ゆっくりと話せ」と、昨夜、父親らしく(?)、指導した。
「あのな、ぼくのように飛行機恐怖症の人も多いはず。そういう人たちに安心感を
与えるような言い方をしなければいけない。若造の声で、ぺらぺらとしゃべられると、
かえって不安になる」と。

その効はあったよう。
息子は、昨日より、ずっとじょうずにアナウンスした。
静かで、落ち着いた声だった。
 
 飛行機は何度か大きく揺れたが、無事、羽田空港に着陸した。
さすがB777-300。
安定感がちがう。
それ以上に、操縦がうまかった。

●品川から浜松へ
 
 品川から京急線で、18分。
羽田がぐんと便利になった。
しかしこんなことは、40年前にしておくべきだった。
おかしなところに国際空港を作ったから、日本の航空会社は、世界の航空会社に
遅れをとってしまった。
アジアで今、ハブ空港といえば、韓国の仁川か、シンガポールのチャンギ。

 成田空港がいかに不便なところにあるかは、外国から成田空港に降り立ってみると
よくわかる。
がんばれ、羽田!
往年の栄華は無理としても、少しは取り返せるはず。

●帰宅

 無事、帰宅。
あまり楽しい旅行ではなかった。
息子に会ったときも、さみしかった。
別れたときは、もっとさみしかった。

 ワイフに、「これからは2人ぼっちだね」と言うと、「うん」と言って笑った。

「健康だ、仕事がある、家族がいるといくら自分に言って聞かせても、健康も
このところあやしくなってきた。仕事も年々、低下傾向。今では家族もバラバラ」と。
電車の中でそんな話をすると、ワイフは、こう言った。

 「だからね、あなた、私たちはね、これからは自分のしたいことをするのよ」と。

 ワイフのよい点。
いつも楽天的。
ノー天気。
ものごとを深く考えない。
「この人はいいなあ」と、すっかりバーさん顔になったワイフを横から見ながら、
そう思った。

 以上、沖縄旅行記、おしまい。

はやし浩司 2010-10ー31記

(補記)

【息子のBLOGより】2006-10ー27

●三男のBLOGより

++++++++++++++++++

三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエアー。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアーの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

++++++++++++++++++

【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来
て、最初に出会った先輩が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了
し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口から発せられる
意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には
僕よりも年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠い
ものに感じられた。そこまでたどり着く道のりが、果てしなく長く、
険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばか
りに充実していた。すごい勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と
経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両手を一杯に広げ、
倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤
激励され、同期と切磋琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかっ
たが、決して楽な道のりではなかった。その間に垣間見た、キングエ
アと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くよう
な気がしていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。
そう、あの時見た先輩たちの足跡だ。大きく見えた先輩たちも、この
細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上が
った。ずっと想像していただけの景色が、現実にそこに広がっていた
。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握ると、ハンガー
の向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに
、ようやくたどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は
、確かに、この空に続いていたのだ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでも
いい。前進し続けること。小さな成長を実感し続けること。時々、何
も変わっていないじゃないかと失望することがあるかもしれない。そ
れでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大
きかった夢を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出
来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも
取りこぼしたくない、宝石のような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れ
てやってみてください。私のHPのトップ画面より、E・Hayas
hiのWebsiteへ。)

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

********************

【ようこそハナブサ航大日記へ】

 航空大学校は、国が設置した唯一の民間パイロットの養成学校で、宮崎に本校が置かれています。入学するとまずこの宮崎本校で半年間座学を行い、その後帯広分校に移って初めて自分の手で飛行機を操縦します。

半年後、自家用レベルまで成長した訓練生たちは再び宮崎に戻り、宮崎フライト過程へと進みます。ここでは事業用レベル、つまりプロになるための訓練を行います。半年後、宮崎を卒業し、最終過程が行われる仙台分校へ移動、より大きな飛行機への移行訓練、及び計器飛行証明という資格を取るための訓練に入ります。

同時にエアラインへの就職活動も始まり、卒業後はJAL,ANA,ANK,JTAなどの会社へパイロットとして就職します。仙台過程も半年間行われます。

 在学期間は計2ヵ年。その間、航大生(航空大学校生)は校舎に併設された寮で、同期や先輩・後輩たちと過ごします。部屋はすべて2人部屋。宮崎過程では先輩、後輩の組み合わせで、それ以外は同期同士の組み合わせで寝食を共にします。校舎は空港に隣接されており、宮崎、帯広、仙台とも、滑走路から「航空大学校」と書かれた倉庫が見えるはずです。同期は18人。毎年72人の募集があり、4期に分かれて4月、7月、10月、1月にそれぞれ入学します。

 ハナブサ航大日記では、ここ航大での生活を写真を通して紹介しています。僕にとっては初めての寮生活、同期や先輩・後輩や教官のこと、訓練の様子、空からの眺め、フライト中に思ったこと、などなど。訓練は厳しく、付いていくのがやっとですが、同期と助け合い、試験に見事合格したときの喜びは何にも替えがたいものがあります。

またどんなに訓練が大変でも、それを忘れさせてくれる美しさが空の上にはあります。それを伝えたい。また、何でもない一人の人間がどのようにして一人前のパイロットになっていくのか、何を考え、どう変わっていくのか。その過程を楽しんでいただければ幸いです。ときどき関係のないことも書きますが、ご容赦ください。どうぞ、楽しんでいってください。

 ちなみに自分は1981年生まれの今年25歳。航大へは去年の4月に入学し、現在仙台フライト過程です。卒業まで、あと少し!


++++++++++++++++++++++++

●2005年3月・入学

 航大に入学して今日で3日目。同期は口をそろえ、まだ3日しかいないのに、もう何週間もここにいる気がすると言う。自分もそう感じる。ここ航空大学校は、本当に厳しく、本当にすごいところだ。

 入寮した日、先輩方から手厚い歓迎を受けた。その歓迎方法は、残念ながらある理由によりここで書くことはできないが、「けじめ」と「親しみ」を同時にしっかり学ぶことができる、伝統的な
すばらしい儀式だった。同期たちとは時間が進むにつれ、どんどん深くなって行っている。こんなに人と深くなれるのは、後にも先にもこれだけだと思う。みんなほんとにいい人たちばかりで、今までの自分、人間関係っていったい何だったんだと疑問に思うくらいだ。

 はっきり言って感動しているのだろうか。今のこの心境を語るには、もう少し時間が必要だ。明日から授業が始まるので、今夜はもう寝よう。

+++++++++++++++++++++++

●2005年4月

 制服も来たので、同期全員でハンガーに行って写真を撮ろうということになった。ホームページ用のプロフィール写真もそろそろ撮り始めたかったので、個人撮影も兼ねて一同ばっちり決めていった。初めてのハンガー&エプロンは、まじやばくて、みんな大興奮。やっぱみんな飛行機好きなんだね。滑走路がもう目と鼻の先で、MDやB3の離陸、着陸にみんな釘付けになっていた。近くで見るボナンザは思った以上に大きくて、そして美しくかっこいい。乗れるのはまだまだ先だけど、今は座学を一生懸命頑張って、「生きた知識」をたくさん帯広に持っていこう。

++++++++++++++++++++

●2005年6月

航空機システムの時間に、聞きなれない飛行機の音。休み時間に外に出てみると、宮崎空港に航空局のYS-11が来ていた。かっこいい。既に先輩が退寮されていたので、教官にお願いして滑走路が見える側の教室に移動して授業をやってもらった。99.999%授業に集中して、残りの0.001%でYS-11を横目でちらちら。プロペラが回り始め、地上滑走、そして離陸・・・。ロールスロイスの音は気品があって、何かいい。

++++++++++++++++++++

●2005年7月

 本日昼頃、宮崎空港に政府専用機が来た。政府専用機といえば、アメリカで言ったらエアフォース・ワン。政府要人を乗せるための専用機なのだが、今回は首相などは乗っていない。訓練のため、宮崎空港でタッチアンドゴーをし、フルストップし、そして帰っていった。B4のタッチアンドゴーなんて、なかなか見られるものではない。

訓練とはいえ、あの飛行機のコクピットには、日本一のパイロットが乗っていたに違いない。自分たちはあの飛行機を運転する機会はないだろうが(絶対とは言い切れないが)、民間機パイロットとして、政府専用機のパイロットと同じくらい「すごい」パイロットにはなれるはず。頑張ろ
う!

 ちなみにコールサインは、シグナス(?)・ワンだった。中はいったいどうなっているのだろうか。

++++++++++++++++++++

●2005年7月

最近、毎週のようにテストがあって、なかなかやりたいことができない。今やりたいこと(1)ラジコンを飛ばしたい、(2)カラオケに行きたい、(3)映画を見たい(見たい映画が5個くらいある)、(4)山に登りたい、(5)一日中同期とHALOやりたい、(6)本を読みたい、など。HALOというのは、ネット対戦型ゲームで、広めてから3ヶ月くらい経つが、未だに健在。熱しやすく冷めやすい1-4にしては珍しいことだ。

 いよいよ一週間を切った事業用の試験の勉強もままならず、ATCの試験やら、実験のレポートやらが山積み。ワッペンやTシャツのデザインも考えなくちゃ。お盆休みに帰る用の航空券も、帰りの便がまだ取れていないし、事業用が終わってもレポート、試験が3つくらい、そして何より、プロシージャーという恐ろしい課題が首を長くして待っている。いったい、我々に休みというものは存在するのだろうか。

・・・いや、何を甘ったれたことを言っている。同年代の人たちはもう社会に出て働いているというのに、まだ社会の「しゃ」の字も知らないものが「辛い」などという言葉を口にするなんて、おこがましい。

 クーラーのあたりすぎか、今日は一日風邪っぽかった。鼻水が止まらない。休憩時間に寮にもどって仮眠してたら、授業に遅刻してしまった。そういえば関東には台風が来ているらしい。こないだ大きな地震もあったし、心配だ。

 夏休みに入って、宮崎空港には777が来るようになった。11時15分くらいに来て、12時過ぎに飛び立っていく。こないだは777に代わって-400が来ていた。空港に不釣合いなほどでかかった。エンジンが滑走路からはみ出ていて、普段はジェットの後流を受けないところの地面の噴煙を巻き上げながら離陸していく姿は圧巻だった。改めて、「ジャンボ」というものはすごいと感じた。

 こないだの週末にはCップの彼女さんが宮崎に遊びに来ていた。日曜の夜にみんなで飲んで、花火をやった。

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●2005年7月

 2003年7月11日、航空大学校のビーチクラフトA36(JA4133)が、エンジントラブルで宮崎市内の水田に墜落した。

 搭乗していた4名は3名死亡、1名重症の事故となった。

 今日は、校内の慰霊碑「飛翔魂」に前で、慰霊祭が執り行われた。学生は全員参列し、事故が発生した午後4時2分、1分間の黙祷を捧げたのち、献花した。

 エンジンが停止してから、墜落までの5分間、機内は壮絶としていたそうだ。眼下に猛烈な勢いでせまってくる地面を、どんな思いで見ていたんだろう。今日の天気は曇り、風はやや強く、蒸し暑い日だった。いろんなことを考えたが、思いを言葉にするよりも、今日のこの空気の感じ、風の匂いを忘れないようにしようと思った。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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●2005年12月

目安の高度よりも若干低めでファイナルターンを開始する。滑走路と計器を交互にクロスチェックしながら、パスが高いか低いか判断する。高度が低かったせいで、旋回開始前からPAPIは2RED。スロットルをちょっと足して、ピッチを指一本分くらい上げる。滑走路が目の前に来て、ロールアウト。気温が低く、エンジン出力が増加するため、目安の出力ではスピードが出すぎてしまう。90ノットを維持できずに、速度計は95ノット近辺をフラフラ。気をとられてるうちに、エイミングがずれる。

 「エイミング!」

 右席から激が飛ぶ。あわててピッチとパワーを修正する。

 「何か忘れてるものはないか!?」

 ラダーだ。教官がこういう言い方をするのは、ラダーのことを言うときだ。僕はいつもラダーを忘れてしまう。ボールを見ると、大きく右に飛んでいる。右足にほんの少し力を入れて、機軸をまっすぐに直す・・・。

 教官と、最後の着陸。いつもとなんら変わりのない着陸。最後だから、今までで一番うまい着陸を見せたかった。でもやっぱりいつもと同じことを言われてしまう。そんな自分が歯がゆくて、悔しくて、情けなくて、でもそういう感情を押し殺して、冷静に、「落ち着け」と何度も唱えながら、僕は教官を滑走路まで連れて行く。スレショールドまで、あと900m。

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●2005年12月

 今週は午後フライト。乗るはずだったJA4215が突然スタンバイに。原因は一本のボールペン。午前にこの機体で訓練していた学生が、ボールペンを機内に落として紛失した。そのペンが見つかるまで、僕たちはこの機体を使うことはできない。JAMCO(整備)さんがいくら探しても見つからないので、結局飛行機の床を剥がすことに。最終的に見つかったのかどうかはさだかではないが、とりあえず4216が空いていたので、訓練はそっちで行った。

 なぜたかがボールペン一本にここまで執着するのだろうか。それにはちゃんと理由がある。
もしそのボールペンがラダーペダルの隙間にはまり込んでいたらどうなるか。ラダーが利かなくなる。それ以外にも、思わぬところに入り込んで安全運航に支障をきたしかねない。ボールペン一本くらいいいや、という甘えが、命取りになりかねないのだ。ちなみに、何かがはまりこんでラダーが利かなくなった事件は、実際航大の訓練機で過去に起こっている。

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●2006年2月

 Y教官が班会を開いてくれた。Y教官は帯広分校の中で、1,2を争う厳しい教官だ。でもその厳しさの裏側には、愛がある。当たり前のことかもしれないが、そのことを強く再確認できた、すばらしい班会であった。

Y教官は防衛庁出身で、当時の訓練の話などをたくさん聞くことができた。教官の時代から航空界は大きく変わってきたが、その中でも変わらないものを教官の中に見つけることができた。パイロットの世界を言葉で表現するにはまだ経験が浅く難しいが、独特の世界感が確かに存在する。職人の世界であり、それでいてチームワークの世界でもあり・・・。教官は3人の娘さんがいるが息子さんはいない。だから僕たちのことを息子のようだ、と言ってくれた。僕もこのパイロットの世界の一員なんだなぁと実感し、嬉しくなった。

 町のK居酒屋はパイロットがよく集まるお店だ。航大の教官もよく訪れると言う。実はこの店の主人も飛行機好きで、仕事の傍ら、近くの飛行場で免許のいらないウルトラライトプレーンという種類の飛行機を飛ばしているんだそうだ。Y教官もよく乗りに行って、その主人に「フレアが足りない」などと指導されてしまうんだそうだ(Y教官の飛行時間は1万時間を超えている)。

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●2006年2月

 空を飛ばない人にとって、飛行機は「ただの騒音」以外何物でもない。周辺の人が一人も不満を持っていない空港なんて、世の中にはない。飛行機が大好きな僕たちでさえ、ときどき五月蝿く感じることがあるのだから、地上で静かな生活を送りたいと思っている人たちにとっては、大変な被害となっているに違いない。ハエのように、手で払いのけたり、殺虫剤を使うわけにもいかない。ストレスも溜まるだろう。

 地上の人が知っているかどうか知らないが(気づかれないようにする配慮なので、知らないはずか)、僕たちはできるだけ地上の人に迷惑がかからないような飛び方に心がけている。プロペラ機は回転数を落とすと音が静かになるので、対地1500ft以下ではプロップをしぼる。その分、当然出力は落ちる。また、低空飛行訓練は人家のほとんどないエリアを選んで、そこから出ないようにしながら行っているし、もっとも、町の上は飛ばないようにしている。十勝管内には既に騒音注意地域が数箇所あり、その上空は通過しないようにしている。機長は、乗っている人のことだけを考えればいいというわけではないのだ。

 それでも、苦情は届けられる。航法を行うためのスタート地点によく指定される町があって、そこの上空でぶんぶん発動(スタート)しまくっていたら、付近の牧場から牛に悪影響が出たと苦情が入った。急遽、その町上空の低高度通過などが禁止された。

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●2006年4月

 何にもない帯広にいた頃のほうが、毎週末何か見つけて出かけていたような気がする。帯広に比べたら何でもあるこっち(宮崎)では、金曜の夜はそれなりにでかけるものの、土日は部屋でだらだらして、夕方くらいに後悔が始まって、焦ってイオンに行ったりする。何かないかなぁ。暇・・・。

 宮崎はほんと天気が悪くって、先週は5日間あるうちの1日しか飛べなかった。海に近いせいか、風の強い日が多い。おとといは45kt(時速83km以上)の風が吹き荒れていた。風に向かって対気速度一定で飛んでいくと、対地速度は風の分だけ遅くなる(飛行機は対気速度が重要)。だから、風の強い日のライン機の離陸はおもしろい。でっかい鉄の塊が、びっくりするくらいゆっくりゆっくり上昇していく。

 飛行機の操縦を何かにたとえるとすると、何になるのだろうか。車で高速道路を一定の速さで走りながら、誰かと重要な話を電話でしつつ、クロスワードパズルを順番に解いていくようなものだろうか。僕たちが上空でしていることを列挙していくと、まず諸元の維持(スピード、高度、進路、姿勢を変わらないように止めておくこと;上昇や降下、増速・減速のときは別)、ATC(管制機関との交信)、機位(現在地)の確認、見張り・周りの状況把握(他の飛行機はどこを
飛んでいるのかとか、空港は今どんな状況なのかとか)、運航(経済性、効率性、安全性、快適性、定時性)、乗客への配慮、あとは教官に怒られること、など。もちろん、これらを同時にこなすことなんて不可能だから、優先順位をつけて、一つずつ消化していく。何か、パズルみたいでしょ。

 こんなことを考えている間に、外はもう日が傾き始めてる。やばい、イオンにでも行かなくちゃ!写真はFTD(シミュレーター:通称ゲーセン)。前方のスクリーンに景色が映し出され、様々な状況(エンジンが止まったとか、ギアが出ないとか)を模擬的に作り出して体験することができる。

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●2006年7月

 6月が終わる。今月の飛行回数、わずか5回。時間にすると6時間ジャスト。梅雨だけのせいではない。

 6月最後の今日の天気は曇り。梅雨前線は北上し、九州の北半分は朝から絶望的。午後には南側にも前線の影響が出始めるという予報だったが、今日は何が何でも飛ぶ!とSぺーと固く誓い合い、種子島へのログ(飛行計画)を組む。午前10時。

 午前11時30分。ブリーフィングの準備開始。種子島空港に電話して、スポット(駐機場)の予約を入れる。何でも、自衛隊が14時20分までスポットを占有しているらしく、それ以降でないと駐機できないとのこと。しかたなく14時40分からスポットを予約。出発を遅らせるしかない。こっちが到着するころに、自衛隊機が一斉に飛び立っていくのが見られるかもしれない。

 正午過ぎ、整備のJAMCOさんがシップの尾翼のあたりを脚立を使ってなにやら調べているのが気になる。ブリーフィングの準備は整い、教官が来るまでのわずかな間に、もう一度イメージトレーニング。ランウェイは09。高度は8500ft。あの雲を超えられるかな・・・観天望気のため外に出て、空を見上げる。行けそうだ。行こう。飛ぼう。

 午後12時半、帯広で尾翼のVORアンテナが脱落したという報告が入る。宮崎のシップもチェックしてみたら、アンテナにひびが入っていたものが3機ほど見つかる。他のシップにもチェックが入るため、僕らのシップは試験を目前に控えた先輩に回されてしまう。

 完璧に準備されたブリーフィング卓の前で呆然とする3人。教官が入ってきて、「何かシップないみたいよ~」と。拍子抜け。5~6分、立ちブリーフィング。あまり飛びたくないときに飛ばされて、ほんとうに飛びたいときに飛べない。その気持ちの切り替えが、パイロットに課せられた課題の一つなのだ。こういうこともある・・・。

 先週は別の故障でシップが2~3機足りず、キャンセルになっていたこともあった。シリンダーにクラックが見つかったとか、バードストライク(鳥と衝突)したとか。どうなるんだろう、この学校・・・。でも、もうすぐ死ぬほど飛べる日々がやって来るんだろな。地上気温、30度。8500ft上空、気温13度。とりあえずプール行こう。

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●2006年9月

前段。それは飛行機を、最初に空へ上げる人。誰よりも早く飛行機に乗り込む人。

 透き通った青い空のもとに置かれたピカピカの飛行機へ足早に向かう。目に映るのはボナンザと、その向こうに広がる誘導路と滑走路、そしてそこを疾走してゆく大型旅客機だけ。心地よい向かい風を肩で感じながら、次第に時間がゆっくりになっていくのを確かめる。一瞬一瞬が輝き始める。集中力が僕に呼びかける。そうだ、今日も飛ぶんだよ、と。

 どこから見ても本当に美しい機体。その表面を撫でて何かを確かめる。包み込まれるように優しく乗り込んで操縦桿を握ると、僕が飛行機の一部なのか、飛行機が僕の一部なのかわからなくなる。そこから見える景色は、いつもと同じ景色でもあり、まったく違う景色でもある。これは現実なのか、夢なのか。考えている間に手がひとりでに動き出す。流れるようなプロシージャー。それはまさに音楽。飛行機が生まれ変わってゆく。

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●2006年9月

C'Kの1週間くらい前から、左目の目じりがずっと痙攣している。C'Kが終わった今でも、それは続いていて、秋雨前線の雲に覆われたこのところの空のように、気分はどうもすっきりしない。

 C'K当日の朝も、空ははっきりしない雲に覆われていた。C'Kを実施するにはあまり好ましくない天気だが、とにかくこの日にC'Kを終わらせたかったので、最後の最後まで悩んだ挙句、行く決断をした。試験官との相性というものがあって、自分はI教官にぜひ見てもらいたかった。この日以降、I教官は休みに入ってしまう予定だった。

 出題されたコースは、南回りで鹿児島。鹿児島は苦手意識が強く、できれば行きたくなかった空港だ。C'Kの神様は本当によく見ている。大島、枕崎、鹿児島city、鹿児島空港、坊ノ岬、都井岬、白浜。

 上がってみると、案の定コース上は雲だらけ。計画をどんどん変更し、上がっては下がり、右に避けては左に戻り、視程の悪い中、必死に目標を探す。岬だの、駅だの、石油コンビナートだの。鹿屋空港上空を通過後、エンジンフェイル(シミュレート)。『鹿屋空港に緊急着陸します!』でケースクローズ(課題終了)。枕崎変針後、雲は一段と低く、多くなってきて、鹿児島cityまでに2000ft、スパイラルで降下(螺旋降下)。鹿児島離陸後は雲の袋小路に入り込み、管制圏すれすれを迷走。帰りの鹿屋上空で大雨。もうめちゃくちゃだった。泣きそうだった。何度ももう止めたいと思った。

 でも、頑張った。

 天気の悪い日は出来る限り飛ばないほうがいい。でも、得るものが多いのも、自信がつくのも、天気の悪い日だ。最後のVFRナビゲーションで今までで1、2を争う天気の悪さの中を飛んで、無事合格して、大きな大きな自信が身についた気がする。できればもう一度、飛びたいと思った。

 学歴は高卒、これといった資格のなかった僕が、事業用操縦士になった。つまり、飛行機を操縦することによりお金を稼ぐことができるようになったということだ。総飛行時間145時間、総着陸回数324回。短いようで、長い長い1年間だった。

 今の僕は、JISマーク付きのイスみたいなものだ。一定の安全基準を上回っただけの操縦
士。ちょっと行儀の悪い子供が座ったり、ゴツゴツしたところに設置されたりすると、ボキっといってしまう、まだひ弱なイスだ。『ミニマムのプロ』。I教官の講評。そう。ここが、新しいスタートだ。

 協力してくれた同期のみんな、応援してくれたみんな、どうもありがとう。Finalも頑張ります。

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●2006年11月

 仙台課程では、取得しなければならない資格が2つあり、それに加えエアラインへの就職活動も並行して行われる。これが、仙台課程が大変だといわれる所以である。

 航大生だからといって、卒業後、自動的に各エアラインに就職できるわけではない。航大のためだけの特別なスケジュールは確保されるものの、他の一般就活者と同じように、まず4社に履歴書を送り、会社説明会に参加し、SPIや心理適性検査、そして身体検査を受け、一般面接、役員面接を経て、ようやく内定という手はずを踏まなくてはいけないのだ。第一志望の会社に受かる者もいれば、当然、どの会社にも縁をいただけない者もいる。後者は、卒業後、他の航空会社に独自にアプローチをかけていかねばならない。

 つい先日、僕らの一つ上の先輩の一次内定者の発表があった。いくらパイロットの大量退職という追い風があったとしても、やはりまだまだ思うようにいかないのが現実であるようだ。それにしても、エアラインがいったいどういう人材を欲しているのか、いまいち掴みにくいのが僕らの悩みどころである。

 航大の場合、最終内定前に就職がうまくいっていることを確認できる段階が、3つほどある。

 就職活動はまず履歴書を書くことから始まる。その後身体検査と面接が行われ、しばらくすると何人かに再検査の通知が来る。身体検査にはお金がかかるので、再検査が来るということは、面接では合格したものと見込んでいいのだそうだ。

もちろん、身体にまったく異常がなければ、来ない場合あるが。とにかく、これが第一段階。第二段階は、オブザーブだ。オブザーブというのは、会社が学生を何人か指名し、その学生のフライトを、その会社の機長が後席から観察するというもの。当然、会社が見たいと思う学生はほしいと思っている学生なので、オブザーブが来るということは期待していい証拠なのだそうだ。しかし、これはかなり緊張するらしい。

 第三段階は一次発表。これはほぼ内定と見込んでもいいらしい。その後大手2社以外の身体検査、及び役員面接を経て、最終内定の発表となる。

 先輩を見ていて、少しずつ希望が輝いていく人と、翳っていく人がいる。その表情の違いに、果たして3ヵ月後、自分はこのプレッシャーに耐えられるだろうかという緊張感を覚える。夢が現実になる瞬間が近づいている。

 僕らはというと、既に履歴書は提出済み。来週はいよいよ、一週間かけての会社訪問&身体検査に臨む。大鳥居のホテルに8連泊。航大至上初の、一人部屋である。身体検査に向け、各自様々な取り組みをしているようだが、僕も仙台に来て約2ヶ月間、ずっと運動を続け、結果減量に成功した。目標まで、あと少し!

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●2007年1月

 再検査、と聞くと、何だかあまりいい印象を受けないと思うが、ここ航大の就職活動においては、比較的縁起のいいものとして扱われている。なぜなら、見込みのない学生に、お金のかかる再検査をわざわざやらないだろう、というのが定説だからだ。身体検査→面接→再検査という順番を考えれば、再検査が来たということは、少なくとも面接ではOKだったんだなと思っても、大きな間違いではないだろう。

もちろん、身体検査が一発で受かっていれば、そもそも再検査など来ないのだけれども。幸い、と言うべきか、僕はJ社、A社の両方から再検査の通知が来た。

 J社では心エコー検査というものを受けた。心臓にエコー(音波)を照射して、反射してきたものを映像化する装置で、いろんな角度からぐりぐり見られた。自分の心臓を見たのは生まれて初めてだったので、興味津々で画面を見つめていた。どこかで勉強した通り、心室や心房、またその間の弁まではっきり見えて、僕も同じ人間なんだなぁと当たり前のことをしみじみ感じていた。

しばらく無言で作業を続けるドクター。心配したが、最後に『うん、いい心臓だ』と言ってくれたので安心した。『まぁ大丈夫でしょう』と。って、そんなこと言っていいんですか先生。身体検査は通常、結果は本人に知らされない決まりになっている。

 それ以外にも、J社では検尿、A社では腹部エコーと採血の検査があり、これらについては結果は知らされなかったので、どうなっているか不安だ。でも今は、そんなことを心配するよりもフライトに集中しなくては。2日間で両社回ったのだが、滞在時間はそれぞれ15分くらい。それ以外はほぼホテルでくねくねしていただけなので、ゆっくり休むことができた。今週末も金曜・土曜と連続ALL DAY。頑張るぞ!

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興味のある方は、どうか、息子のBLOGをつづけて読んでください。

http://xxxxx

です。

では、よろしくお願いします。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●航空大学校

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日本には、ひとつだけだが、国立の航空大学校が
ある。今は、独立行政法人になっているが……。

テレビのトレンディドラマの影響もあって、
入試倍率は、毎年、60倍前後。

これに合格すると、2年間の合宿生活を通して、
パイロットとしての訓練を受ける。衣食住を
ともにするわけである。

が、訓練のきびしさは、ふつうではない。

そのつど技能試験、ペーパーテストがあって、
それに不合格になると、そのまま退学。留年と
いうのはない。

パイロットといっても、単発機の免許、
双発機の免許、計器飛行の免許、事業用の
免許などなどほか、飛行機ごとに免許の種類が
ちがう。

ライン機ともなると、飛行機ごとに免許の
種類がちがう。もっとも、JALやANAの
ようなライン機のパイロットになれるのは、
その中でも、10~15人に、1人とか。

健康診断でも、脳みその奥の奥まで、徹底的に
チェックされる。

で、あるとき「きびしい大学だな」と私が
言うと、息子は、こう言って笑った。

「燃料費だけでも、30分あたり、
5万円もかかるから、しかたないよ」と。
10時間も飛べば、それだけで100万円!
 
チェック試験に合格できず、退学になった
仲間もいたそうだ。ほんの少し、飛行機の
中でふざけただけで、それで退学になった仲間も
いたそうだ。

無数のドラマを残して、息子が、もうすぐ
その大学を卒業する。今は、就職試験のときだ
そうだが、どうなることやら?

結果はともあれ、息子よ、よくがんばった。
空が好きで好きで、たまらないらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 沖縄旅行記 息子の初フライト 黄色い旗 はやし浩司 黄色い旗 浜松上空 はやし浩司 2010-10ー31)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

2010年10月28日木曜日

*Narcissistic personality

●10月28日(Happy Birthday to Me!)

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今日は、私の誕生日。
満63歳!
おめでたいというより、今まで健康で、生きて
こられたことに感謝。
入院日数はゼロ。
病院のベッドの上に寝たのは、子どものころ、
喉の手術のときと、数年前に点滴を受けたときだけ。
つまり2度だけ。
ありがたいことと思う。

が、この先のことはわからない。
現状維持に心がけ、前に向かって進みたい。

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●「はやし浩司」への風当たり

 このところ私への風当たりが強くなってきた。
BLOGなどへの辛辣なコメントが多くなった。
昨日もあった。
いわく、「ご立派なご宣託、ごちそう様。
あちこちのBLOGへ、同じ原稿を投稿するな。
わずらわしいだろ」と。

 が、これには理由がある。

 今でこそ、BLOGも選別され、優良なBLOGサービスのみが生き残るようになった。
しかし当初は、そうでなかった。
ある日突然、閉鎖されるBLOGも少なくなかった。
そのため、それまで書いた原稿が、みな消えてしまった。
「削除」ではなく、消えてしまった。
そんなことがよくあった。

電子マガジンにしても、安心できない。
大手電機会社の傘下にあったBマガジンも、去年、突然、閉鎖になってしまった。
私はそのBマガジンを、それまで5年近くも書きつづけてきた。

 閉鎖になると、ご存知のように跡かたもなく、文章が消えてしまう。
現在、存続しているBLOGにしても、B・Blogなどは、一度、それまでの原稿が
すべて削除されてしまうというアクシデントがあった(2008年)。

 さらにBLOGによっては、容量というのがあって、一定の容量を超えると削除されて
しまうところもある。
BLOGによって、いろいろな規約、制約がある。
性質もちがう。
G・Blogは、長い文章でも制約なく、載せてくれる。
しかし読みにくいし、読者もふえない。
R・Blogは、一回の転送量に制限がある。
長い文章は、いくつかに分断しなければならない。
が、読者は多い。
こうした性質は、それぞれ、みな、ちがう。

またBLOGによって、読者層もちがう。
若い人たちが好んで立ち寄るBLOGもあれば、若い母親たちが好んで立ち寄るBLOG
もある。
またアクセス数にしても、毎日2000件以上のものもあれば、50件どまりという
のもある。

 HPにしても、規約の変更は、日常茶飯事。
私が主に使っていたHPサービスは、今年になって、突然、HTMLを暗号化すると
言い出した。
が、私が使っているHPソフトは、それに対応していなかった。
私がいかに冷や汗をかいたかは、この世界を多少なりとも知っている人なら、よく
わかるはず。

 こういうニガ~イ経験を重ねているから、私が書くような「原稿的」な記事は、
ひとつのBLOGだけにしぼるのは、心配。
心配というより、危険?
それがよくわかっている。
だから原稿を残すという意味で、複数のBLOGを発行し、同じものを載せる。
が、どうしてそれが、悪いことなのか?
わずらわしいことなのか?

 むしろこうしたコメントを書く人のほうが、私には理解できない。
読みたくなければ、読まなければよい。
「同じ原稿だな」で、すむ話である。
スパムメールのように、原稿の押し売りをしているわけではない。

●自己顕示

 それはそれとして、「はやし浩司は、自己顕示欲の旺盛な人だ」と思う人は、
多いかもしれない。
性格障害のひとつである、「自己愛者」(自己愛性人格障害)の特徴のひとつになっている。
そこで、自己分析。

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●自己愛性人格障害 (DSMの診断基準より)
Narcissistic personality

A 自己の重要さ又はユニークさをおおげさに感じること
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)

B 再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的なあいの空想に夢中になること

C 自己宣伝癖
(例:絶えず人の注意と称賛を求める)

D 批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、劣等感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である

E 以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。

(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
(例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)

(2)対人関係における利己性:

 ●自己の欲求にふけるため、又は自己の権力の拡大の為に他者を利用する。
 ●他者の自己保全や権利をないがしろにする。

(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。

(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。

(注:以上、人格障害 DSM-Ⅲ(第3版)「精神障害診断基準」(DSM-Ⅲ/1980年)
より)

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 ここに書いてあることが、どれも当てはまるから、恐ろしい。
自己中心性が極端にまで肥大化した人を、自己愛者という。
しかし私がそうであると判断するのは、待ってほしい。

 私はすでに捨て身。
こうしてものを書きながら、いつも捨て身。
あと何年、生きられるか?
あと何年、脳みそがもつか?
そんな不安感と闘いながら、こうして文章を叩いている。
自己を顕示しようという意識よりは、私を超えた「私」という人間が、この世に
生きてきたという記録を残したい。
言うなれば、私が書く文章は、1人の人間の墓石のようなもの。
どうせ死ねば、煙にもならない煙となって、私は消える。
ついでに言えば、あなたも消える。

 名誉など、どこにもない。
金銭的な利益を求めているわけでもない。
私は私に与えられた脳みそを、自分で使っているだけ。
それよりも恐ろしいことは、年々、脳みその働きが鈍ってきていること。
それが自分でもよくわかる。
5年前に書いた文章、10年前に書いた文章と比べても、それがよくわかる。
とくに集中力と気力。
それが衰えてきた。

 ものを書くというのは、そういう老化との闘いでもある。
が、希望がないわけではない。
恩師の田丸謙二先生は、50歳を過ぎて中国語を独学し、中国の科学院の総会で、
講演している。
もちろん中国語で、である。
80歳を過ぎて、本を翻訳、出版もしている。
脳みそは使えば、それなりに長持ちするらしい。

 ただ反省すべき点は、いくつかある。
たしかに私は、ときとして極論に走りやすい。
白か黒か、はっきりしないと気が済まない。
好き嫌いもはげしい。
言うなれば、まろやかさがない。
自己愛者といえば、自己愛者ということになる。

 ということで、今朝の私は、BLOGへのコメントを読みながら、おおいに反省した。
63歳という年齢を有意義に生きるためにも、こうしたコメントは大切にしたい。
誤解というよりは、意外と私の盲点をついている。
そんな感じがする。

 おはようございます。
はやし浩司 2010-10-28!
今日も、始まった!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2010+++++++++はやし浩司・林浩司

*Short Essays on Education

●子育て雑感集

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今朝、私のEマガ、10月27日号を読んだ。
1か月前に発行予約を入れたマガジンである。
内容も、1か月前のもの。
それを読みながら、・・・というのは、その
マガジンでは、「雑感集」というテーマで書いた
ので、今日は「子育て」についての雑感を
書いてみたい。

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●10月27日

 10月27日。
本当は、今日が、私の誕生日。
10月27日に生まれたのだが、父が役所へ出生届を出したとき、日にちをまちがえた。
父は、10月28日生まれとして、役所に届け出た。
それで私の誕生日は、10月28日になってしまった。
まちがいに気がついたのは、母の話では、私が小学校に入学するときだったという。
戸籍を調べたら、10月28日になっていた。

 10月27日でも、28日でも、どちらでもよい。
が、私は10月27日のほうが、好き。
子どものころは、ずっと10月27日が私の誕生日と思っていた。
そのときの思いが、今でも心のどこかに残っている。

その10月27日。
つまり、今日。
外では肌寒い風が吹いている。
庭の栗の木も、心なしか元気がない。
灰色の沈んだ空を背景に、葉をゆらゆらと揺らしている。

●Sさん

 先週、18年間私の教室に通ってくれたSさんの、大学合格祝いをした。
若いころは、18年間通ってくれた生徒も、少なくなかった。
が、今は、少ない。
中学生になるころ、あるいは高校生になるころ、進学塾へとみな、移っていく。

そのSさん。
大学が決まっても、まだ来年3月まで、通ってくれるという。
母親から電話があり、母親はこう言った。
「ずっと習慣になっていまして・・・3月まで、よろしくお願いします」と。

 18年というと、私の人生にとっても約3分の1。
(Sさんにしてみれば、全生涯!)
理知的な女の子で、ものごとを何度も頭の中でかみくだいて考える。
もの静かな女の子だが、振り返ってみると、私のそばにいつもいたような気がする。
私のそばにいて、ずっと私をうしろから見つめていた。
生徒というよりは、私の娘。
今にして思うと、そんな感じがする。

●よき親子関係

 「娘」と書いたが、もしSさんが私の娘なら、私はSさんはすばらしい親子関係
を築いたことになる。
Sさんは、何でも話してくれる。
私はSさんに、何でも話せる。
私はSさんの話を真剣に聞くし、Sさんもまた私の話を真剣に聞いてくれる。
それでいてたがいに礼儀をわきまえ、尊敬しあっている。

 一方、そこには、教師と生徒という関係もある。
私はSさんに命令したこともないし、Sさんを叱ったこともない。
何かを教えても、私はいつもそこでじっと待っていた。
Sさんもそれを知っているから、自分ができるまで、黙々と自分の勉強をこなした。

 ・・・そう言えば、Sさんが中学生のころは、そのクラスは生徒は2人だけだった。
経営的な意味では、採算が取れる教室ではなかった。
が、私は気にしなかった。
長く通ってきてくれる子どもについては、利益を考えことはない。
そのときすでにSさんは、8~10年間、私の教室に通っていた。

●A君

 が、みながみな、円満な別れ方をするというわけではない。
けんか別れのような別れ方をする生徒も、いる。
理由というか、原因は、子ども自身にある。

 子どもというのは、教室をやめたくなったりすると、親に、教室の悪口を言い始める。
「先生がまじめに教えてくれない」「ふざけて遊んでばかりいる」と。
子どもの常とう手段と考えてよい。
つまりこうして子どもは、親をして、「そんな教室ならやめなさい」と思わせるようにする。

 一方、私には、こう言う。
こうしたウソには双方向性がある。
「ママが、BW(=私の教室)なんか、やめて、S進学塾へ行けと言っている」と。
印象に残っている子どもに、A君(小4)という子どもがいた。
4、5年も前の話だが、A君は、こう言った。
「BWは月謝ばかり高くて、中身がないとママが言っていた」と。

 そこで私が「君のお母さんが本当にそんなことを言っているかどうか、電話で確かめて
みる」と言うと、A君は、泣きながら「それだけはやめて!」と。

 A君の母親は、A君の話だけしか聞いていないから、それこそ蹴飛ばすようにして、
教室を去っていった。
その月の月謝も、未納のままだった。
 
●バツ

 今朝のニュースにこんなのがあった。
どこかの小学校で、先生がバツ・サイコロというのをしていたらしい。
(今でもバラエティ番組などの中で、ときどき登場する。)
何かのことで悪いことをして先生に注意されたら、そのサイコロを振るのだそうだ。
それによってバツを決める。

 鼻くそをどうのとか、お尻をどうのとか、そういう内容のバツである。
バツの内容が、よくなかった。
それがセクハラ行為にあたるとかで、問題になった。
しかしもし教師と生徒、教師と親の間に、信頼関係があれば、こんなことは何でもない。
「遊び」で終わる。

 私の教室でも、居眠りをしていたり、あくびをしていたりすると、私は布でできた
ボールを投げつけることにしている。
もちろん当たっても、痛くない。
が、それ以上に、自閉傾向のある子どもには、この指導法は、たいへん効果的である。
集中力の欠ける子どもにも、効果的である。
若いころ、オーストラリアの幼稚園で、先生がそういうふうにして指導しているのを見て、
私もまねをするようになった。

 そのオーストラリアの幼稚園では、先生と生徒がキャッチボールをしながら、
授業を進めていた。
が、見方によっては、この方法は「体罰」に当たる。
しかしこの方法が問題になったことはない。
私の教室にはいつも参観している親たちがいる。
その親たちが、笑って見ている。
ボールを投げつけられた子どもにしても、それが楽しいらしい。
ボールを拾って、すかさず、投げ返してくる。

 それに・・・。
それがいやだったら、いつでも教室をやめることができる。
親や生徒の意思で、先生を取りかえることができる。
私もいつも、生徒たちにこう言っている。
「いやになったら、いつでもやめていいよ」と。

●相反した目的

 教師はいつも2つの相反した問題で、悩む。
「どうすれば、子どもたちを楽しませることができるか」という問題。
「どうすれば、子どもたちに学ぶことに耐えてもらえるか」という問題。

 わかりにくい書き方をしてしまったので、もう一度、書く。

(楽しさ)と(苦痛)を、いかに両立させるか、と。

 楽しさを追求すれば、勉強がどうしてもおろそかになる。
一方、勉強ばかりさせると、子どもが逃げてしまう。

 もうひとつ多くの進学塾がしているように、成績で子どもを脅すという方法もある。
「こんな成績では、○×中学には入れないぞ!」と。
しかしこれは邪道。

 で、さらに問題はつづく。

 楽しませようとすると、必要以上に乗りまくってしまう子どもが出てくる。
このタイプの子どもは、「教室」の秩序を、メチャメチャにしてしまう。
授業そのものが、成り立たなくなってしまう。
昔、こんなことがあった。

 B君というやや多動性のある子どもがいた。
こういうときはB君を抑えながら、ほかの子どもたちを楽しませなければならない。
教える方も、たいへん神経をつかう。
が、そのとき異変が起きた。

 私は楽しませているはずなのに、ふとB君の両側の子ども(女児)を見ると、2人も
涙ぐんでいるではないか。
「どうしたの?」と聞くと、「先生が、こわい」と。

 B君には鋭い視線を投げかけていた。
B君をこまかく注意しながら、授業を進めていた。
それが両側にいた子どもに、影響を与えていた。

●親との問題

 学校の先生は、みな、こう言う。
「教育という職業は、すばらしいです。親が介在してこなければ、もっとすば
らしいです」と。

 親と言っても、いろいろな親がいる。
10人のうち、9人まではよくても、残りの1人に問題があると、教師はとことん
神経をすり減らす。
で、その鍵を握るのが、親と教師との間の信頼関係ということになる。
信頼関係があれば、よし。
そうでなければ、ささいなできごとが、そのまま大きな問題となってしまう。

 たとえば体罰にしても、体罰を問題にするのは、体罰を受けた子どもの親ではない。
その体罰を見ていた子どもの親である。
むしろ体罰を受けた子どもの親は、感謝するケースのほうが多い。
(だからといって、体罰を肯定しているわけではない。誤解のないように。)

 しかし今、教師がプリントを丸めて子どもの頭をたたいただけで、親たちは、
「そら、体罰だ」と言って騒ぐ。
それはそれで仕方のないことかもしれないが、こうした親たちの姿勢が、教師を
萎縮させる。
その結果、教育の内容そのものまで、萎縮してしまう。

 で、私の住む地域でも、万事、事なかれ主義が蔓延し始めている。
「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはしません」と。
たとえば小学2年生で、かけ算を学ぶことになっている。
昔は(20~30年前は)、かけ算ができなかったりすると、教師は残り勉強をさせてでも、
子どもに九九を暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
かけ算でつまずくと、そのあと、いろいろな学習でつまずくようになる。

が、今は、それをしない。
通り一遍のことを教えて、それで終わってしまう。
またそういう指導の仕方は、自粛されている。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まって
いる。

 結果、中学生でもかけ算のできない子どもが、続出している。
「七八(しちは)?」と聞かれても、即座に、「56」と答えられないなど。
「約20%の中学生がそうでないか」と言われている。

 教育力の低下がよく問題になる。
たしかに低下している。
しかしその原因の大半は、親にある。
どうして親たちは、もっと自由に、子どもの教育を学校の教師に任せないのか。
親が介在してくるから、話がおかしくなる。
それが「親が介在してこなければ、もっとすばらしいです」という言葉になって、
はね返ってくる。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

*Mental Problems of Children

【不潔嫌悪症・子どもの潔癖症】はやし浩司 2010-10-28

●子どもの強迫症

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今朝は千葉県にお住まいの、Aさんと
いう母親から、こんな相談が届いていた。
この相談を読みながら、私は自分が子ども
だったころのことを思い浮かべた。
私自身にも、似たような経験がある。

子どもの潔癖症に併せて、子どもの不安
について考えてみたい。

++++++++++++++++++

【千葉県のAさんより】

5歳の息子の相談です。

以前から幼稚園には行きたがらない傾向にある子でしたが、最近は特に、いつもと違う行事ごとがあるたびに、不安になり余計に行きたくないとぐずります。

夏ころから爪かみが始まりました。10月の初めに、ムカデに触ってしまい、お家に帰ってよく洗えば大丈夫だよと話した出来事を境に、ここを触ってしまったが大丈夫か? お父さんの肘とぶつかったが大丈夫か? と何かと聞いてくるようになりました。外遊びで夢中になっているときにでも、不安になると遊びを中断し、聞きに来ます。

その後は、トイレでおしっこをする時には、おちんちんを触らずしたり、玄関の取っ手を肘で開けたりするようになりました。会話は常に触ってしまったことの報告ばかりです。私は、大丈夫だよ、大丈夫だよ。と、いつも言っています。私の手は握れます。どうしてこうなってしまったのでしょうか?

幼稚園の先生は気を引くためではないか? 気にすることはない。とおっしゃってくださいますが、心配で、兄弟の中でも、ひときは気にかけ、スキンシップをしているつもりです。今後はどのように接していけば良いでしょうか? 治るのでしょうか? よろしくお願いします。

兄弟関係は、姉10歳 本人 弟8ヶ月です。

【はやし浩司より、Aさんへ】

●神経症

 神経症のひとつと考えてください。(「神経症」の定義もあいまいですが……。
そのため症状は千差万別です。)

私のHPの中に、ある小学校の先生方と協力して作成した、診断シートがあります。
その中に神経症の項目を並べておきました。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page080.html
どうか一度、目を通してみてください。

 なおこうした症状は単独で現われることは少なく、ほかに爪かみのほか、夜尿症、チック、何かの強迫症なども現われることがあります。
シート(上記)で、一度、自己診断してみてください。

●愛情飢餓

 兄弟関係で見ると、下に8か月の弟がいるということになります。
愛情に不安を抱き、それが遠因となり、愛情飢餓状態から大きく不安を抱くようになったとも考えられます。
下の子どもが生まれたことにより、赤ちゃん返り、分離不安などの症状を示す子どもも多いです。

「兄弟の中でも、気にかけ……」ということですが、それまであった自分への愛情が減らされたことが問題と考えてください。
親は、「平等に……」と思っているかもしれませんが、子どもにとっては、「落差」が問題なのです。

 それについて書いた原稿を添付しておきます。

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愛情は落差の問題。

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●愛情は落差の問題

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愛情の量は、落差の問題。

多い、少ないではなく、
ふえたか、減ったで、
考える。

よい例が、赤ちゃん返り。

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 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃんがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型ということができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教しても意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どうして上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だから文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「50%」というのが不満なのだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが問題なのだ。

もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%50%)を貫き、そのつど、上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生活にこころがける。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 赤ちゃん返り 愛情問題 愛情 落差 落差の問題)

●100%の愛情

 精神的に心のより所を失い、たいへん不安定になっています。
子どもは、(おとなもそうですが)、環境の変化にはかなりの柔軟性を示しますが、とくに愛情の変化には、大きく反応し、もろいです。

 もし神経症がひどいようであれば、下の子には少しかわいそうですが、一度、100%の愛情を注ぎなおしてみてください。
(当然、上の10歳の姉にも配慮しながら、です。
上の子は上の子で、嫉妬しやすくなります。)

●私自身のこと

 私も子どものころ、こんな経験があります。

 あるとき、針が足の裏に刺さったことがあります。
針はすぐ抜けたと思うのですが、近所のおじさんにそれを話すと、そのおじさんは、こう言いました。
「折れた針があるかもしれない。その針は、血管を通って心臓に行く。そうなれば死ぬこともある」と。

 私はこの言葉におびえ、自分はもう死ぬのだと思いました。
年齢的には、6歳前後ではなかったかと思います。
はっきりと死の恐怖を覚えたのを、今でもよく覚えています。
おとなには笑い話でも、子どもにはそうでないということです。

 お子さんは、心底、それにおびえているのです。
ですから「何でもない」という言い方で突っぱねるのではなく、子どもの立場になって、真剣に話を聞き、納得するまでていねいに不安を解いてあげることです。

●不潔嫌悪症

 手洗い癖、潔癖症と並んで、子どもにはよく見られる神経症です。
幼稚園でも、休み時間ごとに、手を洗っている子どももいます。
「何でもない」と考えるのではなく、ほかの神経症の前兆、もしくは、たとえば学校恐怖症(ジョンソン)の前兆もありえるという前提で、対処してください。
けっして安易に考えてはいけないということです。

 そのためにも愛情的に不安を抱かないように、つぎのことを守ってください。

(1)スキンシップなど、求めてきたら、すかさず応ずる、です。
一度、ぐいと抱きしめるだけで、効果があります。
「あとでね」とか、「今、忙しいのよ」は、禁句です。

(2)添い寝、手つなぎ、だっこなどは、機会があればそのつどこまめにしてあげます。

(3)不安症状が強いようであれば、Ca,Mg,Kの多い食生活、つまり海産物の多い食生活に心がけます。
とくにカルシュウムは、子どもの心を安定させます。

●恐怖症

 恐怖症は、一度それを経験すると、姿、形を変えて、いろいろな場面で現われます。
私も子どものころ、閉所恐怖症、高所恐怖症でした。
30歳になる少し前、飛行機事故を経験してからは、ちょっとしたことが原因で、よく恐怖症になります。

 先日はワイフが自動車の後部を電柱にぶつけましたが、助手席にいた私は、固まってしまいました。

 お子さんのケースは、恐怖症とはちがいますが、この先、折りにつけ、強迫観念はもちやすくなるかもしれません。
「治そう」と考えるのではなく、「じょうずにつきあう」という考え方で、接してあげるとよいでしょう。
どんな子どもにも、その程度の問題はあります。

 文面からすると、もっとも心配されるのは、学校恐怖症ということになります。
それについて書いた原稿(簡単なもの)を、添付しておきます。
(別の角度から書いた原稿のため、余計な部分もありますが、お許しください。)
詳しくは、また機会があれば、「はやし浩司 学校恐怖症」で検索してみてください。
参考になると思います。

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学校恐怖症(ジョンソン)

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【集団に溶けこめない子ども】

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集団に溶けこめない……。そのため、
集団の中にいると、気疲れを起こしや
すくなる。

さらにそれが慢性化すると、不登校の
原因になったりすることもある。

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●集団の中では……

 小学校の低学年児で、集団に溶け込めない子どもというのは、10人のうち、1~2人はいる。主な症状としては、つぎのような点が、あげられる。

(1) 集団の中では、おとなしく、おだやか。遠慮深い。やさしい。静かで目立たない。
(2) 自己主張が弱く、いつも、ほかの子どものうしろをついていくといった感じ。
(3) 何か話しかけると、柔和な笑みで、答えたりするが、感情表現はいつも、控え目。
(4) 学習態度は比較的よく、そのため、成績も、それほど、悪くない。
(5) 外の世界(学校や塾)では、大声で笑ったり、声を出したりするということはない。

 これらの症状は、家の中での様子とは、正反対のことが多い。家の中では、別人のように活発に行動する。かつ、親に対しては、言いたいことを言ったり、したりする。そのため、こうした外での様子を指摘されたりすると、たいていの親は、それを否定する。「うちでは、ふつうです」と。

 しかしこのタイプの子どもは、その分だけ、ストレスを内へ内へとためやすい。様子だけを見ると、仮面をかぶった子どもに似ている。俗にいう「ぶりっ子」をいう。仮面をかぶった子どもは、いつもどこかで他人の目を気にしている。どうすれば、自分が、いい子に見られるか、それだけを考えている。

 これに対して、集団に溶けこめない子どもは、集団そのものを恐れ、他人の目から、逃れようとする。そのため、ひとり静かに行動し、できるだけ目立たないようにしていることが多い。

 このタイプの子どもは、教える側としては、教えやすい。従順で、すなお。みなに迷惑をかけるということはない。しかしそれは子ども本来の姿ではない。このタイプの子どもは、心を自由に、開けない。みなが大声で笑うようなときども、そのリズムにのれない。そのため、いじけやすく、くじけやすい。心をゆがめやすい。

 そして長い時間をかけて、ストレスを蓄積し、そのストレスが、さまざまな問題を、引き起こす。

 たとえばこのタイプの子どもは、集団の中では、神経疲労を起こしやすい。そしてその結果として、神経症や、心身症による、さまざまな症状を起こす。そしてその症状は、多岐にわたる。「何か、うちの子は、おかしい?」と感じたら、神経症、もしくは、心身症を疑ってみる。

●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。

 その中の一つが、学校恐怖症(後述、参照)ということになる。その学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

●対処のし方

 では、どうするか?

 このタイプの子どもは、心の開放を第一に考えて指導する。たとえば大声を出させる、大声で笑わせる、など。しかしそれは簡単なことではない。友だちどうしの間では、結構、心を開くことができても、集団の中へ入ったとたん、かん黙してしまう子どももいる。教師を前にしただけで、緊張して、体をこわばらせてしまう子どももいる。

 こうした症状を不適応症状というが、その症状して、よく見られるものを列挙してみると、つぎのようなものがある。

(1) 対人恐怖症、集団恐怖症、回避性障害(他人との接触ができない)など。
(2) 緊張性の頭痛、腹痛、下痢、嘔吐など。

 本来なら、一対一、もしくは、きわめて小人数(3~4人程度)のようなていねいな指導が望ましいが、しかしそれにも程度の問題があって、小人数にしたからといって、心を開くということはない。とくに小学校へ入学したあとでは、指導による改善は、ほとんど望めない。おとなになってからも、そのままつづくというケースは、少なくない。

 もしどうしても……ということなら、まったく別の環境の中で、その子どもが心を開けるような、ばしょをさがすしか、ない。スポーツやサークル活動など。一度、その世界で、何らかのこだわりを作ってしまうと、そのこだわりを、消すのは、むずかしい。

 J君(小5)の子どもがいた。彼は、集団の中では、ほとんど心を開くことはなかったが、サッカーをしているときだけは、黙々と、それに励むことができた。

 一方、Cさん(小2)の子どもがいた。小1のはじめから、私の教室へ来たが、小2の途中でやめるまで、一度とて、大声で歌を歌ったり、笑ったりすることはなかった。いりいろな方法で、手を変え、品を変え、私なりに努力はしてみたが、結局は、Cさんの心を開くことはできなかった。

 このことからも、わかるように、集団に溶けこめない子どもの、「根」は、深い。時期を言えば、0歳から、1、2歳前後までに、そういった方向性ができあがると考えてよい。そのため、たいていのばあい、まず母子関係の不全を疑ってみる。

 このタイプの子どもは、母子の間の基本的信頼関係ができあがっていないことが多い。何らかの理由で、絶対的な安心感を、母親に対していだくことができなかった。「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。つまり、それから生まれる、不信感が、子どもの心を閉じさせ、ついで、子どもの心を緊張させるようになると考える。

 しかもなお悪いことに、母親に、その自覚がないことが多い。そういう自分の子どもを見て、むしろ、「できのいい子」と思ってしまうケースが目立つ。そしてそのままの母子関係をつづけてしまう。

 で、問題が起きてはじめて、自分の子育てのどこにどういう問題があったかを知る。(が、それでも気づかないケースも、少なくない。ここにあげたCさんのケースでは、Cさん自身は、私のところへは、彼女なりに楽しんできていた。しかし伸びやかさには、欠けた。母親はそういう姿を見て、「うちの子は、この教室には合っていない」と判断したようだ。

 で、さらに、ここに書いた不適応症状がこじれて、学校恐怖症から、不登校へと進むこともある。この段階でも、親は、自分を反省するということは、ない。子どもの言い分だけを聞いて、「教師の指導が悪い」「いじめが原因だ」と。

●まとめ

 本来なら、集団に溶けこめない子どもについては、それを「悪」と決めてかかるのではなく、その子どもにあった、環境を用意してやるのがよい。苦手なものは、苦手。だれにも、そういう面の一つは二つは、ある。

 何でもかんでも、学校という集団教育の場で解決しようという発想そのものが、おかしい。そういう前提で考える。

 コツは、無理をしないこと。そしてこのタイプの子どもほど、家の中では、態度が横柄になったり、乱暴になったりする。そういうときは、「ああ、うちの子は、外の世界でがんばっているから、こうなのだ」というふうに考えて、理解してやる。

 家の中でも、静かで、おとなしく……ということになると、子どもは、やがて行き場をなくし、外の世界で、さまざまな問題を引き起こすようになる。しかもたいてい、深刻な問題へと発展することが多い。
(はやし浩司 子供の心理 集団 集団に入れない子供 集団に溶け込めない子供 集団が苦手な子供 外で静かな子供 はやし浩司)

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以前、書いた、「内弁慶、外幽霊」の
原稿を添付します。

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●内弁慶、外幽霊

 家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。

といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。

 子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなることがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。

 もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。

 このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。

こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。

とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。

 本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。
(はやし浩司 子供の心理 内弁慶 外幽霊 集団になじめない子供)

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合わせて、学校恐怖症の原稿を
添付します。

原文(英文)は、私のHPのほうに
収録しておきました。

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子どもが学校恐怖症になるとき

●四つの段階論

 同じ不登校(school refusal)といっても、症状や様子はさまざま(※)。私の二男はひどい花粉症で、睡眠不足からか、毎年春先になると不登校を繰り返した。

が、その中でも恐怖症の症状を見せるケースを、「学校恐怖症」、行為障害に近い不登校を「怠学(truancy)」といって区別している。これらの不登校は、症状と経過から、三つの段階に分けて考える(A・M・ジョンソン)。心気的時期、登校時パニック時期、それに自閉的時期。これに回復期を加え、もう少しわかりやすくしたのが次である。


(1)前兆期……登校時刻の前になると、頭痛、腹痛、脚痛、朝寝坊、寝ぼけ、疲れ、倦怠感、吐き気、気分の悪さなどの身体的不調を訴える。症状は午前中に重く、午後に軽快し、夜になると、「明日は学校へ行くよ」などと、明るい声で答えたりする。これを症状の日内変動という。学校へ行きたがらない理由を聞くと、「A君がいじめる」などと言ったりする。そこでA君を排除すると、今度は「B君がいじめる」と言いだしたりする。理由となる原因(ターゲット)が、そのつど移動するのが特徴。


(2)パニック期……攻撃的に登校を拒否する。親が無理に車に乗せようとしたりすると、狂ったように暴れ、それに抵抗する。が、親があきらめ、「もう今日は休んでもいい」などと言うと、一転、症状が消滅する。ある母親は、こう言った。「学校から帰ってくる車の中では、鼻歌まで歌っていました」と。たいていの親はそのあまりの変わりように驚いて、「これが同じ子どもか」と思うことが多い。


(3)自閉期……自分のカラにこもる。特定の仲間とは遊んだりする。暴力、暴言などの攻撃的態度は減り、見た目には穏やかな状態になり、落ちつく。ただ心の緊張感は残り、どこかピリピリした感じは続く。そのため親の不用意な言葉などで、突発的に激怒したり、暴れたりすることはある(感情障害)。この段階で回避性障害(人と会うことを避ける)、不安障害(非現実的な不安感をもつ。おののく)の症状を示すこともある。が、ふだんの生活を見る限り、ごくふつうの子どもといった感じがするため、たいていの親は、自分の子どもをどうとらえたらよいのか、わからなくなってしまうことが多い。こうした状態が、数か月から数年続く。


(4)回復期……外の世界と接触をもつようになり、少しずつ友人との交際を始めたり、外へ遊びに行くようになる。数日学校行っては休むというようなことを、断続的に繰り返したあと、やがて登校できるようになる。日に一~二時間、週に一日~二日、月に一週~二週登校できるようになり、序々にその期間が長くなる。

(注、この(4)の回復期は、ジョンソンの論文にはないものである。私が勝手に加筆した。)

●前兆をいかにとらえるか
 要はいかに(1)の前兆期をとらえ、この段階で適切な措置をとるかということ。たいていの親はひととおり病院通いをしたあと、「気のせい」と片づけて、無理をする。この無理が症状を悪化させ、(2)のパニック期を招く。

この段階でも、もし親が無理をせず、「そうね、誰だって学校へ行きたくないときもあるわよ」と言えば、その後の症状は軽くすむ。一般にこの恐怖症も含めて、子どもの心の問題は、今の状態をより悪くしないことだけを考える。なおそうと無理をすればするほど、症状はこじれる。悪化する。 

※……不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)無気力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられている。
 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動など不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている(「日本教育新聞社」まとめ)。

しかしこれらの区分のし方は、あくまでも教育者の目を通して、子どもを外の世界から見た区分のし方でしかない。

(参考)

●学校恐怖症は対人障害の一つ 

 こうした恐怖症は、はやい子どもで、満4~5歳から表れる。乳幼児期は、主に泣き叫ぶ、睡眠障害などの心身症状が主体だが、小学低学年にかけてこれに対人障害による症状が加わるようになる(西ドイツ、G・ニッセンほか)。集団や人ごみをこわがるなどの対人恐怖症もこの時期に表れる。ここでいう学校恐怖症はあくまでもその一つと考える。

●ジョンソンの「学校恐怖症」

「登校拒否」(school refusal)という言葉は、イギリスのI・T・ブロードウィンが、1932年に最初に使い、1941年にアメリカのA・M・ジョンソンが、「学校恐怖症」と命名したことに始まる。ジョンソンは、「学校恐怖症」を、(1)心気的時期、(2)登校時のパニック時期(3)自閉期の三期に分けて、学校恐怖症を考えた。

【はやし浩司より、Aさんへ】

 以上ですが、参考意見として利用していただければ、うれしいです。
今日は、これで失礼します。

(はやし浩司 子どもの心理 学校恐怖症 対人障害 不登校 不登校児 不潔嫌悪症 潔癖症 神経症 はやし浩司 学校恐怖症 ジョンソン)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

2010年10月27日水曜日

*Heaven & Hell

【浄土論】(極楽浄土vs無間地獄)(Heaven & Hell in our Society)

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……?

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは! あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。

「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。

批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。

スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
(はやし浩司 2010-10-27 加筆)

(補記)

●無縁老人

 地獄と言えば、「無縁老人」という言葉がある。
最近(2010-10-27)、あちこちでその言葉を見たり、聞いたりするようになった。
「独居老人」など、「無縁老人」と比べれば、まだよいほう。
家族、親族、近所のつきあいを、すべて切ってしまった老人をいう。
そういう老人が、現在ふえつつあるという。
が、実態はまだ把握されていない。
都道府県単位で、やっと調査を始めたというのが現状らしい(NHK報道)。

 さらにそうした老人が、認知症になることもある。
認知症老人を相手にした詐欺商法も、横行している。
ただこのばあい、認知症になるから、「地獄」というふうには、考えないほうがよい。
認知症は、あくまでも「病気」。
病気である以上、その老人個人には、責任はない。
むしろ頭のほうがしっかりしたまま、無縁老人になるほうが、こわい(?)。
毎日、毎晩、まさに無間の孤独地獄と闘わねばならない。

●娘が母親のタンス預金を……

 話は一足飛びに結論へ。

 しかしこういう社会を作ったのは、私たち自身。
私やあなたが無縁老人になったからといって、またなる可能性があるからといって、社会を恨んでもしかたない。
息子や娘たちを恨んでもしかたない。
それにこの問題だけは、10年単位、あるいは20年単位で、進行していく。
また解決するにしても、同じように10年単位、あるいは20年単位の時間がかかる。

 国民の意識というより、私たち1人ひとりの意識の問題ということになる。
そこで一部の地域では、そうした老人を保護するために、周辺の住民が定期的に見回ったり、訪問したりしているという。
しかしそれは一部。
が、近くに住む人だから安心というわけでもない。

 私の知り合いの老人(女性、当時85歳前後)は、晩年、軽い認知症になってしまった。
娘が近くに住んでいて、毎週のようにその女性、つまり母親を訪問していた。
傍から見ると孝行娘ということになる。
しかしその老人が亡くなったとき、あるはずのタンス預金が、すっかり消えていたという。
額は定かではないが、数千万円程度の現金はもっていたはず。
その老人の弟氏はそう言っている。
 
 その老人のばあいも、娘だけを責めても意味はない。
そういう娘に育てたその老人にも、責任がある。
「責任」という言葉は、少しきついが、その老人の立場にすれば、恨んでも恨みきれなかったことだろう。
(現在、その娘は、会う人ごとに、弟氏の悪口を言いふらしているが……。)

●風通しのよい社会

 話はそれたが、要するに、この先、私やあなたが、独居老人、さらには無縁老人になる可能性は、ぐんと高くなるということ。
非公式の調査によるものだが、独居老人から孤独死をする人は、今後60%前後になると言われている(某月刊誌)。
とくに団塊の世代以後の人たちが、あぶない。

 今はまだ元気だから、「私はだいじょうぶ」と思っている人も多い。
ある知人は、こう言った。
「いくつかのクラブに入って、友だちを作ることだよ」と。

 しかし高齢者になると、クラブに顔を出すこともできなくなる。
それに友だちといっても、自分が高齢になればなるほど、減っていく。
「友だちがいればいい」という問題でもない。

 そこでそれを解決するために、いろいろな方法が考えられている。

(1)地域社会の復活。
(2)住環境の整備など。

 こういう話になると、どうしても「昔はよかった」ということになる。
昔は、地域に温もりがあり、老人社会を包んでいた。
その温もりが、今、消えた。
親子関係、親類関係も希薄になった。
この傾向は、さらにつづく。

 またここでいう「住環境の整備」というのは、住まいそのものあり方を考えなおそうというもの。
長屋形式の住宅を考えている建築家もいる(某月刊誌)。
隣どうしを、もっと風通しのよいものにする。

●解決策

 今、しみじみと感じているのは、これこそが、地域住民の問題ということ。
地域、地域で、その地域に住む人が、声をあげて立ち上がらなければならない。
「してもらう」という発想を捨て、「私たちがする」という発想に切り替える。
わかりやすく言えば、「私たちが後期高齢者になったとき、だれにめんどうをみてもらうか」という考え方をしてはいけない。
「私たちが今、後期高齢者のめんどうをみる」という考え方に切り替える。
その積み重ねが、10年単位、20年単位でつづいたとき、独居老人、無縁老人の問題は解決する。

 ……とまあ、こんなことを言い出した以上、この活動は、私がしなければならない。
何しろ私がこの町内に住み始めた第1号。
(もう1人、150メートルほど坂下のところに住んでいた人がいたが、その人は、最近、亡くなってしまった。
家も売却され、現在は別の人が住んでいる。)

具体的にはいろいろ考えている。
ひとつには自治体に働きかけるという方法がある。
しかし20年前に私が書記をしていたころと比べただけでも、自治体はすっかり様変わりしてしまった。
この1年間、みなが集まったというような会合はゼロ。
班長たちだけが集まって、そのつど何かを決めているらしいが、私たち住民のところにまでは、何も伝わってこない。

 が、これではいけない。
もうひとつの方法は、とりあえず、地域老人新聞を発行すること。
「老人新聞」というと、どこか暗いから、「地域新聞」でもよい。
すでにこの町内にも、多くの独居老人が住んでいる。
そういう人たちの実態把握から、まず始める。……などなど。

 今夜にでも、ワイフに相談してみよう。
ワイフはこのあたりでも、結構、顔役で、近所の人たちのことをよく知っている。
先ほども、私が「ぼくは、無縁老人になりそう」と訴えたら、すかさず、こう言い返した。
「私は、ならないわ」と。
(ワイフは、楽天的というか、ノー天気派。)

●結論

 極楽浄土にせよ、無間地獄にせよ、それらは結局は私たち自身が、身のまわりに自ら、作り出していくもの。
あの世にあるわけではない。
この世にある。

 政治に頼ったり、宗教に頼ったりするのは、その「後」ということになる。
(はやし浩司 2010-10-27)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

*Short Essays in the Mountain House

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   27日号
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●「オレも年だから……」(老齢期のセルフ・ハンディ・キャッピング)

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同じ仲間でも、ことあるごとに、
「私も年だから……」と言う人がいる。
「この年になったから、もう1人前の
ことはできない」と。

こういうのを心理学では、「セルフ・
ハンディキャッピング」という。
自分からハンディがあることを先に言い、
できないことを前もって、自己弁護する。
人の同情を買うときも、同じように言う
ことがある。

もう何十年も前の話だが、私が電話する
たびに、1人の叔母はこう言った。
「オバチャンも、年だからねエ……」と。
「高齢者になったから、何とかしてほしい」と。

で、今でもその叔母は健在である。
年齢を逆算すると、その叔母は当時は50代。
私自身の50代を振り返っても、私は
そういうような言い方をしたことがない。
(同情を買いたくても、買う相手がいない
こともあるが……。)

で、ここでいう「セルフ・ハンディキャッピング」
というのは、あくまでも自己弁解、自己弁護の
ために使うことをいう。
先手を打って、自分にはハンディがあることを、
強調する。
たとえばテニスに試合前に、「いやあ、最近、
不眠症になってねエ」とか言うのが、それ。

試合に負けても、それは自分の実力のせいではない。
不眠症のせい、と。

これも老人心理のひとつかもしれない。
加齢とともに、こうした言い方が多くなる。
実のところ、この私もふと油断したようなとき、
似たようなことを言うようになった。
瞬間「まずい!」とは思うが、先に口から
出てしまう。

++++++++++++++++++

●生き様の後退性

 生き様が後退的になると、前を見ることよりも、うしろを見ることのほうが、
多くなる。
心理学の世界では、「回顧性」「展望性」という言葉を使って、それを説明する。
55歳前後で、回顧性と展望性が交差するとも言われている。
55歳を過ぎるころから、未来を見るよりも、過去を見ることのほうが多くなる。
冒険よりも保身を好み、革新よりも保守を求めるようになる。

 もちろん若々しく生きるためには、つねに前を見て生きた方がよい。
言い替えると、老後は、(この言葉が好きな人はいないと思うが……)、常に
後退性との闘いということになる。
いかに後退性と闘っていくか。
老後の生き様は、それで決まってくる。

●後退性

 後退性といっても、中身は様々。
先に書いたように、年齢を自己弁護、自己弁解のために使うのも、そのひとつ。
体力的にはそうであっても、ほかの面ではそうであってはいけない。
またそうである必要は、まったくない。
いわんやセルフ・ハンディキャッピングのために、年齢を口実にしてはいけない。

 実は数日前もこんなことがあった。
高校3年生のA子さんが、学校の宿題を出し、「先生、これね……」と言った。
数学の問題だった。
それを見てほぼ反射運動的に私は、こう言ってしまった。
「今朝、旅館の温泉に入ってね……」と。

 そのとき私はかなり体力を消耗したような状態になっていた。
その少し前から、ほどよい睡魔が繰り返し私を襲っていた。
つまり私はそう言うことによって、「その問題を解けないかもしれない」という布石を
したことになる。

●展望性

 そんなこともあって、私は来年度は挑戦的に生きることにした。
いくつかの目標を立てた。
何も「年だから……」という理由で、遠慮することはない。
遠慮してはいけない。
遠慮する必要もない。

 その計画は、今から立てなければならない。
(具体的な内容は、企業秘密!)
その準備にとりかかった。

 今も仕事はたいへんだが、20代のころよりは私を取り巻く環境は、ずっと
よくなっている。
あのころは未熟で未経験だった。
何を書いても、また何を訴えても、だれも相手にしてくれなかった。
が、今はちがう。
相手が親でも、平気で説教できるようになった。
親もまた、耳を傾けてくれる。
こんなチャンスはまたとない。

 が、「敵」は、私自身だけではない。

●郷里の身内

 数日前も、あるいとこから電話がかかってきた。
私が法事で手を抜いていることや、実家の近隣の人たちの葬儀に顔を出さないこと
について、身内の人たちが悪く言っている、と。

 弁解するつもりはないが、(というのもそれこそ生き様の問題だから)、そういうのを
回顧性という。
法事とか、葬儀とか……。
そういうことだけが、一生の一大事と思い込んでいる!
高校を卒業して以来、実家の近隣の人たちとの交際はない。
それに実家は、昨年売却した。

 また法事については、今はそんなことで心を煩わせたくない。
身内の人たちは、ことあるごとに、「実家」「本家」「林家」という言葉を使う。
墓参りのことをとやかく言う人もいる。
しかし墓参りをしないことで、バチが当たるのは、この私。
私のことは心配しないで、どうか放っておいてほしい!
……というのは言い過ぎ。
世間には世間のしきたりというものがある。
私は何も、そのしきたりまで否定しているわけではない。

 が、私は死ぬまで……ギリギリまで前だけを見て生きていく。
55歳前後で展望性と回顧性が交差するというが、それは死ぬ間際でよい。
死ぬ間際になったら、過去を振り返り、法事もし、墓参りもする。
寺にあとの始末を、きちんと頼む。

●賢者の言葉

 で、こういうふうに迷ったときは、いつも世界の賢者たちがどう考えているか、
それを知るとよい。
私はういつもそうしている。

What is life? We are born, we live a little and we die.
EB White、"Charlotte's Web "
人生って何か? 私たちは生まれ、少しだけ生き、そして死ぬ。

To live is so startling it leaves little time for anything else.
Emily Dickinson
生きることは、驚くべきことだ。それは生きること以外に、ほとんど時間を残さない。
(=生きることで精一杯)。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called
'living'.
Terry Pratchett、 "The Last Continent"
人々の全人生は、彼らが死ぬ前に目の前を通り過ぎる。その「過程」を「生きている」と
いう。

Life is one big road with lots of signs. So when you riding through the ruts, don't
complicate your mind. Flee from hate, mischief and jealousy. Don't bury your thoughts,
put your vision to reality . Wake up and live!
Bob Marley、 In Music、Bob Marley
人生というのは、たくさんの看板の立った道のようなもの。そんなわけでわだち(車の跡)
を走っているときは、心をわずらわせないこと。憎しみ、悪戯や嫉妬から逃げろ。自分の
思想を埋めるな。計画を現実のものにせよ。目を覚まして、生きろ!

Life is very interesting, if you make mistakes.
Georges Carpentier、 In Humanity
人生というのは、まちがいを犯すからおもしろい。

Life is raw material. We are artisans. We can sculpt our existence into something
beautiful, or debase it into ugliness. It's in our hands.
Cathy Better, In Art/The Artist
人生というのは、ナマの材料。私たちは芸術家。それを彫って美しいものにすることもで
きる。醜いものにすることもできる。それは私たちの手にかかっている。

Life is a mystery, not a problem to be solved
Albert Einstein、In Mystery
人生は神秘。解こうとして解けるような問題ではない。

●人生は60歳から

 ワイフはときどき、こう言う。
「私は50歳になって、はじめて人生が何であるかわかったような気がする」と。
で、私も最近、こう思う。
「人生は60歳から始まるのではないか」と。

 若い人たちにこういう話をしても信じないかもしれない。
しかし事実だから、話す。

 パソコン雑誌などにも、ときどき若い女性のヌード写真のようなものが載っている。
ああいうものを見て、「美しい」と思うのは、若い人たちだけ。
私はすぐそういった女性の顔を見る。
その奥にある知性をさがす。
が、どれもバカ面(ずら)、アホ面(ずら)、化粧バカ。
脳みそのひとかけらも感じない。
とたんそういった女性の肉体が、ただの脂肪の塊に見えてくる。

 同時にそういったまやかしの(美しさ)に踊らされ、惑わされた自分を思い出す。
が、60歳を過ぎた今はそれがない。
以前、「性欲からの解放」という原稿を書いたことがある。
人は性欲から解放されてはじめて、それまでの自分がいかに性欲の奴隷であったかを知る。
60歳になって、私たちは独立を勝ち取る。
だから「60歳」となる。
「人生は60歳から始まるのではないか」となる。

●人生の無駄

 だからこそ、ここは前向きに生きる。
やっと自分を取り戻した。
自分が自分らしくなった。
自分の「輪郭」が、はっきりしてきた。
どうしてそんなすばらしい人生を、過去のために振り向けなければならないのか。
が、それこそ時間の無駄。
人生の無駄。

 ……ということで、「年だから……」というセルフ・ハンディキャッピングは、
若い人こそ、それを自覚して使うべき。
「私はまだ若いですから……」と。
さらに言えば、若さこそ恥ずべきことであって、自慢すべきことではない。
若い人ほど、人生に謙虚になったらよい。
謙虚にならなければ、人生は、門を開かない。
少なくとも何も老人が使うべき言葉ではない。

 私たちは今まで、堂々と生きてきた。
これからも生きていく。
顔にシワがふえ、体はたるんできたが、それは私のせいではない。
DNAのせいである。
何も恥ずべきことではない。

 だから……今朝も自分の心に誓う。
「私は、『年だから……』という、情けない言葉は使わない」と。

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司 セルフ・ハンディキャッピング)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●2010年、10月1日(金曜日)
満63歳まで、あと20数日弱

+++++++++++++++++++

今日から10月。
初日は、まあまあ。
平凡な滑り出し。
ただここ数日、朝起きがけに、
悪夢に悩まされる。
悪夢といっても、オカルト的な夢ではない。
飛行機に乗り遅れそうになる夢とか、
おかしな連中にからまれて、喧嘩ごしに
なるとか、
そういう夢。
たいていハラハラした状態で、目が覚める。

たぶん私も睡眠時無呼吸症候群とかいう病気に
かかっているのかもしれない。
ワイフがときどき、そう言う。
目が覚めたとたん、ハーハーと深呼吸を繰り返す。
つまりその瞬間、ハラハラドキドキしながら、呼吸を止めている。
そのとき悪夢を見る。
(これは私の素人判断。)
精神状態は、あまりよくないようだ。

+++++++++++++++++++

●山荘にて

 今夜は夜遅く、こうして山荘へやってきた。
ひとりでやってきた。
バスを乗り継いで、やってきた。

で、先ほど村祭りの祝い金を、班長に届けてきた。
10月の第一土曜日か第二土曜日か、いずれかの日に、祭りがある。
明日は第一土曜日。
あわてて祝い金を届けてきた。
が、班長が、「祭りは来週です」と言ってくれた。
ほっとした。

●ひとりぼっち

 美空ひばりの名曲に、「♪悲しい酒」がある。
その歌詞に、「ひとりぼっちが、好きだよと・・・」という箇所がある。
私もひとりぼっちが好きというわけではない。
しかしときに、こうしてひとりぼっちになる。
ひとりぼっちになって、自分の時間をつくる。

 時刻は10時20分になったところ。
軽い頭痛がする。
こういうときは、まず水で頭を冷やす。
ついで湿布薬を貼る。
そのあとまだ頭痛がするようであれば、何かを食べる。
そのあと、頭痛薬をのむ。
幸い、偏頭痛ではなさそうだ。
偏頭痛の痛さは、経験したものでないとわからない。

●孤独

 孤独にも、2種類ある。
肉体的、つまり物理的にひとりぼっちという意味。
これは耐えられる。
もうひとつは、信じられる者がいないという意味。
これは苦しい。
だれにも相手にされないというのも、それに含まれる。
だれにも愛されないというのも、それに含まれる。
つまり、「心の孤独」。

 ときどき私は生徒たちにこう聞く。
「先生(=私)が死んだら、悲しいか?」と。
すると生徒たちはみな、「うれしい」と答える。

それが本音だろう。
私はもともと嫌われ役。
嫌われ役を代行しながら、親たちからお金を受け取る。
だから(教えること)で、孤独がいやされるなどとは思っていない。
実際には、その反対。
生徒たちと面していると、ときどき、言いようのない孤独感に襲われる
ことがある。
生徒は生徒。
とくに私の生徒は年少者が多い。
人間関係を結んだり、育てたりするということができない。

●Sさん

 そう言えば、先週、Sさん(高3)が大学入試に合格した。
小さな声で、「合格が確定しました」と。
もの静かで、理知的な子である。
私の教室に、年中児のときから、14年間、通ってくれた。
Sさんにとってもそうだろうが、私にとってもSさんは、私の人生の一部。

 来週、食事会を開くつもり。
Sさん、おめでとう!
うれしかったよ!

●仕事

 2011年度の仕事を考え始めている。
来年(2011年)は、さらに仕事に没頭してみたい。
「してみたい」ではなく、「する」。

 同時に身のまわりの整理をする。
私は若いころ、骨董品だとか、置き物に凝った。
そういったものが、あちこちにゴロゴロしている。
売るといっても、売り方がむずかしい。
そのうちヒマ(閑)になったら、ネットオークションに、順に並べて
みる。
そういう手もある。

 が、いちばんよいのは、生徒にそのつどあげること。
もっていても、仕方ない。
どうせ死ぬときは、裸。
それも2年前に死んだ、母が教えてくれた。
あれほどモノにこだわった母だが、死ぬときはささいな身のまわりの
日常品だけ。
モノのもつむなしさを、いやというほど、母を通して知った。
・・・学んだ。
 
 で、仕事。
2011年は、自分を完全燃焼させてみたい。
今、いちばん力を入れているのが、幼児教室のビデオ撮影。
「こんな教え方もある」ということを、世界の人たちに見てもらいたい。
この世界には、誤解と偏見が満ち溢れている。
幼児教育というと、先取り教育か受験教育。
さもなければ、子どもをしごく、悪徳教育と考える人は多い。
その偏見と誤解を解いてほしい。

 幼児はたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、立派な人間である。
それをわかってほしい。

 また私がこわいのは、(流れ)が止まること。
仕事がその柱というか、「川」になっている。
これが止まったら、私はそのまま腐ってしまう。
だからつづける。

●車の運転

 今、明日はどうしようかと考えた。
どうしようか?
たぶん朝早く山をおり、県道を走るバスに乗って、街まで行く。
私は車を運転しない。
だからいつもそうしてバスや電車を利用する。
あとはワイフに頼んで、あちこちへ連れていってもらう。

 が、実のところこのところワイフの運転が、こわくてならない。
2週間前には、バックをしているときコンビニのポールに激突。
今日、車がやっと修理されてきたと思ったら、さっそく駐車場で、壁に衝突。
勘が悪いというか、鈍ったというか・・・。
とくに右折がめちゃめちゃ。
すぐ前に対向車が迫っていても、その前を横切る形で、平気で右折する。
相手の運転手にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られることも、しばしば。 

「お前には運転は無理だね」と言うと、すかさず、「相手が悪い」と
切り返す。
「向こうが止まればいいのよ」と。
ワイフは、他罰型。
他責型ともいう。
子どもにも多い。
机の上のお茶をこぼしたりすると、すかさず、こう言い返す。
「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪い!」と。
「ごめんなさい」という言葉が、口から出てこない。
脳が、そういう構造になっていない。
がんこで、融通がきかない。
だから車の運転が、下手!
(私はもっと下手。ハハハ。)

 だからあまりそのことを責めると、いつもこう言い返される。
「私はあなたの運転手じゃないのよ。自分で運転したら!」と。

●思慮深さ

 ワイフだけが一例というわけではない。
しかし総じてみると、脳の老化は、思慮深さの欠落から始まる。
そう考えてよい。

 たとえば先日も、車のドアが内部から開かなくなってしまった。
そこで私が「おい、車のドア、開かないぞ」と声をかけると、すかさず、・・・
つまり私の話もロクに聞こうとしないうちから、「あなたのやり方が
おかしいんじゃない?」と切り返す。

 もう何年も乗った車である。
ドアの開け方など、まちがえるはずがない。

 が、若いころのワイフはそうでなかった。
もう少し思慮深かった。
私の言ったことを聞いてから、おもむろに自分の意見をはさんだ。

 こうした現象は、50歳を超えると、たいていの人に見られるようになる。
中には自分がボケたのを隠すために、わざと利口ぶって見せる人がいる。
さらにアルツハイマー病か何かになると、とりつくろいや、つじつま合わせ、
言い訳、弁解が多くなる。
病気を隠そうとするためである。

 しかし思慮深さの欠落は、それとは趣(おもむき)を、やや異(こと)にする。
脳みそが薄っぺらくなったような感じになる。
もちろんワイフは、それに気づいていない。
脳のCPU(中央演算装置)に関する問題だけに、自分でそれを知るのはむずかしい。

 で、こうして文章にして書いておく。
ワイフのことだから、たぶん、これを読んでも、即座に否定するだろう。
自分では思慮深い人間と思い込んでいる。

 一般論として言えることは、要するに思慮深い人は、口が重い。
逆に言えば、思慮深くない人は、口が軽い。
思いついたことを、ペラペラと口にする。
つまりそうなったら、脳の老化が始まっているとみてよい。
よい例が、観光バスの中などで、間断なく、しゃべりつづけるオバちゃんたち。
一度、ああいう人たちの会話に耳を傾けてみるとよい。

●不眠症

 幸い頭痛が軽くなってきた。
眠いはずなのに、あまり眠くない。
昨日は、4~5時間しか眠っていない。
悪夢のせい。
だから今朝は、4時ごろ目を覚まし、そのまま起きてしまった。

 「不眠症」という言葉がある。
私もその不眠症だが、ここ10年は、居直って生きている。
「無理に眠ることはない」と。
人間という動物は、2、3日なら、眠らなくても、どうということはない。
「不眠、不眠」と悩むと、かえってストレスがたまってしまう。 
万事、成り行き任せ。
眠くなかったら、起きていればよい。
眠くなったら、眠ればよい。

●独居老人

 ところで私の家の近くに、今年85歳くらいになる独居老人がいる。
男性である。
少し前まで、奥さんがいたが、奥さんは現在、特別養護老人ホームに。
ほとんど寝たきりと聞いている。

 その老人のことが、よく話題になる。
先日も、前自治会長と話をした。
道端での立ち話だった。
昔からの知り合いらしい。
その前自治会長も、「あの人ねえ・・・」と言って、苦笑いをした。
若いときから、みなに嫌われていたらしい。

その独居老人の心境を、今、私は模擬体験していることになる。
孤独と言えば、孤独。
さみしいと言えば、さみしい。
しかしそれを認めたら、おしまい。
だからこうして懸命に、何かにしがみつこうとする。
パソコンのキーボードを叩くのも、それ。
もし手の動きを止めたら、本当に孤独になってしまう。
だから眠くなり、どうしようもなくなるまで、文章を叩く。
(読んでくれている人には、申し訳ないが・・・。)

 独居老人と呼ばれる老人たちも、たぶん、毎日そうして生きているのだろう。
ある知人は、こう言った。
「林さん(=私)、人間というのは、何かをしていないと、生きていかれない
動物なんですよ」と。
その何かをしながら、心を紛らわす。
孤独と闘う。

●基本的不信関係

 孤独の話を書いたので、もう少し、それについて書いてみたい。
つまり私のような人間は、自ら孤独にならざるをえない運命にある。
性格がゆがんでいる。
心を開くことができない。
友だちも少ない。
人を信用しない。
私を知る人は、たぶん私のことを明るく、楽天的な人間と思っているに
ちがいない。
そういう面は、たしかにあるにはある。
笑わせ上手。
ジョークもうまい。
しかしそのくせ、全幅に相手に心を開くことができない。
基本的不信関係というか、基底不安というか、それが私の心の
ベースになっている。

原因は不幸な乳幼児期にあるが、今さらそれを恨んでも始まらない。
私はもうすぐ63歳。

●63歳

 63歳・・・平均余命(寿命)から計算すると、あと15年ほどの命。
健康寿命は、それから10年を引いた年齢だそうだ。
それで計算すると、こうして元気でいられるのも、あと5年。
そのあとは病気と闘いながら、徐々に、死んでいく。

 今、いちばん心配な病気は、脳腫瘍。
若いときから、頭痛もち。
何かあると、すぐ頭痛が始まる。
頭痛がない日のほうが、珍しいほど。
そんなときも、長くつづいた。

おかげで、私は頭痛の神様になった。
「神様」というのは、頭痛のことなら何でも知っているという意。
近くに「頭が痛い」という人がいると、とても他人ごととは思えない。
ついあれこれとアドバイスしてしまう。

 その脳腫瘍。
もともとはおとなしいがんだそうだ。
2倍の大きさになるのに、10年単位も時間がかかる。
だったら切らないほうがよい。
仮に今、私の頭の中に脳腫瘍が見つかっても、私は切らない。
あと10年くらいなら、何とか生きられそう。
もし耐えられないほど痛くなったら、そのときは安楽死。
オーストラリアで医師をしている友人に、そのときの薬を頼んである。
「パラダイスxxx」という名前の薬である。
「違法だが・・・」ということらしい。

 ただ長生きはしたい。
しかし問題は、どう生きるか。
母の介護をしているとき、私の脳みその中にトラウマができてしまった。
特別養護老人ホームに通ううちに、自分の未来に自信を失ってしまった。
「私も、ああなるのか」と。

 もしそうなら、長生きも考えもの。
みなに迷惑をかけるくらいなら、早めに死んだほうがよい。
・・・というより、みなに、迷惑をかけたくない。
たとえばこうしてものを書くことができなくなったら・・・。
書いていることが支離滅裂になり始めたら・・・。
そのときは、おしまい。
やがて確実に、そうなるが・・・。

●ホームベーカリー

 今、菓子パンをかじったところ。
とくに空腹というわけではないが、こういうときは何かを口に入れない
と落ち着かない。
だからすぐ太る(?)。
その菓子パンを見ながら、「じょうずにできているな」と。
「どうしたらこういう皮の薄いパンができるのだろう」と、
不思議でならない。

 この数週間、ホームベーカリーというのを買って、パンづくりに
挑戦している。
けっこう、うまくなった。
冷水の代わりに、牛乳を入れてみたり、バターのかわりの蜂蜜を入れたり。
そういう小技(こわざ)も、自由にこなせるようになった。
が、ここにある菓子パンのようなわけには、いかない。
値段も安い。

 まじまじと菓子パンをながめる。
キメもこまかい。
やわらかい。
それにおいしい。
口の中で溶かしながら、「バターを使っているな」「卵を使っているな」
とか、そんなことを考える。

●趣味

 こうして私の趣味は、周期的に変化する。
今は、ホームベーカリー。
一通り、それをマスターすると、つぎに急速に興味を失っていく。
しばらくあれこれと、さまよい歩いたあと、また別の趣味に乗り移っていく。
こんなことを、子どものときからずっと繰り返している。

 だからいろいろなことをしてきた。
していないことはないと言えるほど、いろいろなことをしてきた。
パソコンのソフトにしても、同じようなことがある。

 ひとつのソフトを使う。
それを一通りマスターすると、また別のソフトに手を出す。
だから私のパソコンは、しょっちゅう故障する。
OSをいじったり、レジストリーをいじったりする。
そのたびに故障する。

 だから教訓。
「それなりにサクサクとパソコンが作動するときは、冒険をするな」と。
いつも自分にそう言って聞かせている。

●結膜炎

 今、目の付け根を指でかいたところ。
夏場になると、私は結膜炎になりやすい。
理由はわからない。
で、そういうときは、エタノールを目の付け根にチョンとつけて、
しばらく静かに目を閉じている。
(ぜったいに、みなさんは、まねをしないように!)
たいていそれでかゆみは収まる。

今、それを洗面所でしてきたところ。

 目のかゆみは取れた。
先ほどまで眠かったが、眠気も消えた。
もう少し文章を書いてみよう。

●60%

 先ほど独居老人のことを書いた。
模擬体験をしているとも書いた。
で、統計的な予想によれば、私たち団塊の世代は、約60%が、
その独居老人になるそうだ。

よく「家族主義」という言葉を使う人がいる。
私もその1人だが、若い人たちが言う「家族主義」と、私たちがいう
「家族主義」とはちがう。
両者の間には、ひとつの大きなちがいがある。

 若い人たちがいう「家族主義」には、両親、つまり老人が含まれて
いない。
自分たちという夫婦と、自分たちの子どもだけの世界をいう。
昔は「核家族」と言った。
つまり「核家族主義」。

一方、私が説いてきた「家族主義」には、自分たちの親が含まれる。
親も含めて、家族主義という。
つまり「大家族主義」。

 そのことは今の若い人たちの生き方を見れば、わかる。
「将来、親のめんどうをみなければならない」と考えている若い人たちは、
ほとんどいない。
統計的にも、30%前後。
つまりその結果として、この先、独居老人は、ますますふえる。
あなたも私も、独居老人になる。 
「60%」という数字は、それを表す。

 だから中に、「ぼくは(私は)、家族を第一に考えています」という
若い夫婦がいても、私は「そうですか」と言って、口を閉じてしまう。
「結構なことですね」と言いたいが、それは言わない。

 若い人たちよ、横(夫や妻)や下(子ども)ばかり見ていないで、たまには
上(親)を見ろ。
君たちだって、やがてその上(親)になる。

●暗い話

 暗い話になってしまった。
明るい話をしたい。

 ・・・と書いたところで、指が止まってしまった。
「筆が止まった」と書くべきか。
ざっと見回しても、明るい話がない(?)。
これはどうしたことか?
「世の中、右を見ても、左を見ても、真っ暗闇」。
元気がない。
今年になって、サラリーマンの平均給与もさがったという。
つまり大不況の真っ最中。
おとといは、あの武富士も倒産した。
10年ほど前、あの山一證券が倒産したときも驚いたが、武富士にも
驚いた。
「そういうこともあるのかなあ?」と。

 で、この先どうなるのか?
今日も、TOSHIBAが、有機液晶テレビから撤退するというニュース
が伝わってきた。
「これからは小型の液晶テレビの生産に専念する」と。
「この先は、韓国のS社の独壇場になる」とも。
さらにあのモービル石油が、日本から撤退するというニュースも。
日本が今、どんどんと見捨てられつつある。
国際的に見れば、そういうこと。

 で、本来なら政府が予算をうまく配分して、工業を活性化しなければ
ならない。
(公共投資=道路工事だけが、投資ではないぞ!)
が、その余裕が、まったくない。
国の借金が、あまりにも大きすぎる。
1000兆円を超えている。
日本人1人あたり、1000万円!
そんな借金、返せるわけがない。

 言うなれば、息子や娘たちの事業に出資してやりたい。
しかし肝心の親が、借金だらけ。
だからみな、身動きが取れない。
穴にこもって、じっとしている。
今の日本をおおざっぱに表現すれば、そういうことになる。

●高コスト

 で、本来なら、行政改革(=官僚制度の是正)を、10年前、20年前に
すませておくべきだった。
しかし行政組織がここまで肥大化してしまうと、もう手遅れ。
どうしようもない。

「天下り先」という言葉がある。
しかし天下り先は、何も中央官僚だけの特権ではない。
全国津々浦々・・・小さな役所の役人にもある。

 先日も自衛隊員にも天下り先があると聞いて、驚いた。
公的機関のガードマンや、守衛などとなって、天下っていく。

また最近になってJALは、日本の公務員社会の縮図であると説く人がふえて
きた。
高コスト体質が理由で、JALは破綻をした。
二次破綻も時間の問題。

実は日本の公務員社会そのものが、全体として、高コスト体質になっている。
たとえば役所の役人たちは、どんなに役所にごみがたまっても、窓ガラスが
雲っても、自分たちでは掃除をしない。
若いころそれについて質問したことがある。
「どうして自分で掃除をしないのか」と。
すると役人をしていた友人が、こう話してくれた。
「そんなことをすれば、掃除婦のオバチャンたちの仕事を奪うことになる」と。

 そういった組織が、網の目のように入り組んで、今の公務員社会を作り
あげている。
だから役人の世界では、非効率が当たり前になっている。
つまりその分だけ、高コストになる。
JALが生き残るためには、この高コスト体質から抜け出るしかない。
しかしそれはかなりむずかしい。
世論のみならず、支援銀行までもが、背を向け始めた。

●1人8役

 一方、低コストといえば、私の職場。
私1人が、すべてをこなしている。
教材作りから、指導まで。
掃除はもちろん、宣伝、広告、それにHPづくり。
生徒の送り迎えまでしている。
1人8役くらい?
つまりそれくらいのことをしないと、やっていかれない。

 が、もし私が今、ここで、電話番を雇ったり、デザイナーを雇ったり
したらどうなるか。
見た目にはサービスの向上になるが、とたん、破綻。
1人の人間を雇うということは、たいへんなこと。
私1人が生きていくだけでも、たいへん。
そういう現実が、現場の役人たちは、まったくわかっていない(?)。

●官僚国家

 要するに、日本政府は、高度成長期に先取りする形で、公務員社会を
肥大化させてしまった。
経済がそのまま成長すれば問題はなかった。
しかしここ10年以上、成長は止まったまま。
それが今、裏目となって出てきた。

 山荘周辺の農家の人たちも、補助金が目的で農業をしているようなもの。
農協という組織が、そういった指導をしているのだから、話にならない。
「こういうふうにすれば、補助金が出ますよ」と。

 漁業も林業も、同じ。
実はコンピューター産業も、同じ。
浜松市市内の小さなソフト会社ですら、いかに多く公的機関の仕事を
受注するか。
それで経営の安定性が決まる。

 つまり社会そのものが、ガチガチに硬直してしまっている。
そんな日本に、未来などあるわけがない。
発展するわけがない。

 日本を活性化するためには、野趣味を取り戻すしかない。
わかりやすく言えば、荒っぽさ。
世界中が腰に銃をぶらさげて歩いているのに、日本だけが、オホホで、
通るわけがない。
が、現実には、すべてが逆行している。
規制、規制、また規制。
何をするにも、許可、資格、認可・・・。
その分だけ、さらに公務員社会は肥大化する。
人々は、自由を見失う。

 そう、大学生にしても、職業とは、資格を取って、もらうものと思っている。
ちがう!
職業というのは、自分で作るもの。
「自由」とは、もともとは、「自ラニ由ル」という意味。

●デフレ恐怖

 物価はさがる。
仕事が減る。
その分、収入も減り、経済が動かなくなる。
せっかく手にした現金にしても、多くはタンス預金となり、そのまま
死に金。
内需につながらない。
今は、この悪循環が、かぎりなく繰り返されている。
が、タンス預金をする人を責めることはできない。
将来に不安をいだくから、貯金をする。

 だからこの悪循環を断ち切るためには、人々が感じている不安を
一掃するしかない。
政治家ならそう考えるだろう。
が、具体的な方法となると、みな、頭をかかえてしまう。

あああ・・・。

●捨てる人vs捨てられる人

 世の中には、「捨てる人」と「捨てられる人」がいる。
「捨てる」ではなく、「棄てる」でもよい。
たいていは力のある人、上の立場にいる人が、「捨てる人」になる。
が、実際には、捨てる人は、人を切り捨てながら、自分が捨てられている。
それに気づいていない。

 たとえば、(あくまでも例えだが)、だれかがこう言ったとする。
「あの林(=私)は、偉そうなことを言うが、親の法事すら満足にして
いない。人間のクズだ」と。
ついでに「あんなヤツの書いた文章には、読む価値はない」と。

 そう言いながら、その人は、私を捨てていることになる。
ある種の優越感に浸っていることになる。
そして自分の意見に同調する人たちを周囲に集め、ガードを固くする。

 一方、捨てられた私は、その分だけ、たしかにさみしい思いをする。
しかし本当に捨てているのは、私のほう。
口に出して言わないだけ。
言ってもしかたない。
つまり相手にしない。
「かわいそうな人だ」と思って、それで終わる。

 これは私の持論。
「利口な人からは、馬鹿な人がよくわかる。
しかし馬鹿な人からは、利口な人がわからない」。
だから馬鹿な人は、利口な人が近くにいても、自分と同等と思う。
自分のレベルで相手を判断する。
が、このことは、もうひとつ重要な教訓を含んでいる。

 どんなことがあっても、相手を捨ててはいけないということ。
相手を捨てたとたん、自分が捨てられる。
JALの話を書いたので、ついでに一言。

 今度JALでは、強制解雇に踏み切るかもしれないという。
強制的に、社員のクビを切る。
ニュースとしては、ただのニュースかもしれないが、その内部では今、
想像を絶する地獄絵図が進行中。
私は以前、同じような状況を、ある出版社で直接見聞きしている。
ある社員はこう言った。
「いつ部長から呼び出しがあるかと、不安で不安で、仕事にならない」と。

 そこで社員は、実現性のないアドバルーンばかりをあげるようになる。
何とか目立った企画を立て、クビ切りを避けようとする。
「捨てる人」と「捨てられる人」の間で、壮絶な闘いが繰り広げられる。
が、それは地獄そのもの。

 が、それ以上に恐ろしいのは、一度、そういう人間関係になると、
それまでの関係も、すべて破壊されること。
いっしょにしてきた仕事まで、価値を失う。
他人以上の他人。
つまり憎しみ相手になる。
せっかく創りあげた人生に、大きな穴をあけることになる。
それが長い時間をかけて、ジワジワとその人の心を蝕(むしば)んでいく。

 余計なことだが、こうして山荘でひとりでいると、世の中を捨てて、
ここに来ているはずなのに、実際には反対に、捨てられている。
それが自分でもよくわかる。

●捨てられる前に・・・

 中国では『だまされる前に、相手をだませ』というそうだ。
「だまされたほうが悪い」と。
悪しき拝金主義の弊害ということになる。

 同じように、『捨てられる前に、捨てろ』という考え方もある。
自分が傷つく前に、先に相手を傷つけて、自分が傷つくのを防ぐ。
要するに、『殺される前に、殺せ』ということか。

 これに対する格言が、『負けるが勝ち』。
子育ての世界では、とくに有効な格言である。
子どもの問題、子どもの友人との問題、学校での問題、先生との問題
などなど。
そのつど、『負けるが勝ち』。
「すみません、うちの子のできが悪いものですから・・・」と。
先に負けてしまえば、それ以上、問題が大きくなることはない。
へたにがんばるから、問題が大きくなる。
大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。

 それができる親を、賢い親という。
そうでない親を、愚かな親という。

 相手にまず自分を捨てさせる。
相手がよいように、させる。
そのあと、こちらはその人から去ればよい。
つまり人生というのは、その連続。
満身創痍(そうい)になってはじめて、人生の意味がわかる。
教育も、また同じ。

・・・ところで先ほどから、断続的に睡魔が襲うようになってきた。
ときどきふと目を閉じる。
その瞬間、強い眠気を感ずる。
もうそろそろ床に入る時間のようだ。

 このつづきは、明日の朝にでも考えてみたい。
では、みなさんおやすみ。
時刻はちょうど午前0時10分前。

●10月2日(土曜日)(翌朝)

 今朝は8時に起きた。
軽い吐き気がする。
ときどきゲップも出る。
逆流性食道炎になっているらしい。
寝る前に何かを食べると、ときどきそうなる。

 あとで何かを食べ、そのあと薬をのんでみる。
で、今朝も悪夢を見た。
たいした悪夢ではないが、やはり観光バスに乗り遅れそうになる夢。
もっとも今朝は、うまく観光バスに乗ることができたが・・・。
こういうのを「強迫観念」という。
いつも何かに追い立てられているような気分。
それが抜けきらない。
昔は、「貧乏性」と言った。
のんびりと休日を過ごすということができない。

 「乗り遅れる」というのは、記憶の中にはないが、幼いころ、そういう
経験をしたのかもしれない。
あるいは母子分離不安?
それがトラウマとなって残っている(?)。

●受容体

 先ほどから、朝日が窓越しに、力強く部屋の中を照らしている。
窓枠の影がはっきりと畳の上に映っている。
多分、今日はよい天気。
まだ外は見ていないが、それがよくわかる。

 で、このところまたまた私のビョーキが始まった。
今度は、「時計」。
このところ時計のカタログばかり、見ている。
とくに必要というわけではないが、機能がごちゃごちゃとついているのが、
ほしい。
気圧計、温度計、コンパス、月の満ち欠け、潮の干満表示などなど。
取り扱い説明書が、ズシンと重く、分厚いものほどよい。
カシオでそういう時計を出している。
が、値段が高い。
ネットでも、3~4万円。

 脳の線条体に、「デジモノ」に対する受容体ができてしまっている。
つまり条件反射。
そのモノが欲しいというよりは、その受容体を満たすために、そのモノが欲しい。
アルコール中毒者やニコチン中毒者が見せる反応と同じ。

 だから手に入れてしまえば、満足する。
そのあと、それを使うということは、あまりない。

●北朝鮮

 さて一段落。
パンをかじって、薬をのむかどうか、迷っている。
逆流性食道炎かどうか、本当のところ、はっきりしていない。
痛みはほとんど、ない。
ゲップだけ。
もうしばらく様子をみてみよう。

 で、話をつづける。

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。
「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)
が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前の
ところは何だ!」とやり返される。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。
しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで
片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。

●新聞

 ここではインターネットは使えない。
だから今朝のニュースは、まったく入ってこない。
新聞もない。

 ところで最近は、テレビでニュースを見ることが、少なくなった。
ネットが浸透してくる前は、定時のニュースの時間になると、5分前には
テレビの前に座った。
が、今は、ニュースの時間さえ、気にしない。

 同じように新聞。
新聞に目を通しても、すでに読んだ記事ばかり。
若い人たちから、新聞離れが進んでいる。
すでに10年ほど前、「ぼくは新聞を取っていません」という若者がいた。
どこかのパソコンショップの店員だった。
それを聞いたとき、私は少なからず、驚いた。
「新聞を取っていないとは、どういうことだ!」と。
が、今ではそれが常識になりつつある。

 もっとも私個人は、新聞派。
いくらネットでニュースを読んでも、そのあと新聞で内容を確認しないと、
どうも落ち着かない。
電子の文字と印刷された文字。
安心感がちがう。
そのちがいは、大きい。

 何でもそうだが、私は「言葉」というのを信用しない。
「書かれた文字」を信用する。
これは元法科の学生だったという、その名残かもしれない。
だから生徒たちへの連絡事項も、すべて、一度文書にして渡すように
している。

●禁断症状

 ネット中毒という言葉がある。
私のその中毒者の1人だが、こういうとき軽い禁断症状に襲われる。
ニュースのみならず、ネットから遮断された世界。
そこにポツンとひとりでいると、不安でならない。

 携帯電話を片時も放さないで持ち歩く人の心理状態が、よくわかる。
ある人は、弁当を忘れても、携帯電話だけは忘れないと言っていた。
私もどこへ行くにも、パソコンだけは、忘れない。
それさえあれば、どこにいても、こうして時間をつぶすことができる。
が、ネットは、どうか?

 半日も放置しておくと、メールだけでも100通前後、入ってくる。
大半はSPAMメールだが、そのあとの処理も、めんどう。
丸1日も放っておいたら・・・、ゾーッ!

 それにニュースに触れられないのは、つらい。
今、世界で何が起きているのか。
それを知りたい。
このイライラ感。
この焦燥感。
それこそが、まさに禁断症状。

●パソコン

 で、今日のお供は、TOSHIBAのUX(11インチ)。
ミニ・ノートである。
が、キー幅は、19ミリの通常サイズ。
このところ、これが打ちやすい。
ほかに、同じくTOSHIBAのMX(12インチ)とTX(16インチ)。
もう一台、台湾製のパソコン。
そのつど状況に応じて、使い分けている。

 で、今、ほしいのは、同じくTOSHIBAのMX。
表面がザラザラしているのが、気に入った。
指先が受ける感触がよい。
しかし今は、がまんのとき。
私の予想では、1、2年後には、ノートパソコンはみなこうなる。

(1)キーボードは、セパレート式になる。(キーとキーの間に、
5ミリ前後の隙間がある。)
(2)表面がツルツルパソコンから、ザラザラパソコンになる。
(ツルツルパソコンは、どうも使い勝手が悪い。指先がすべって
しまう。初期のHPのミニノートがそうだった。)
(3)タッチパネル式のキーボードは、普及しない。
   iPadのキーボードがそうだ。
ペタペタと画面を押すような感触では、文章は打ちにくい。
   これも「慣れ」の問題かもしれないが、私のばあい、キーピッチは
   深いほど、打ちやすい。
   2ミリだと、打ちにくい。
   3ミリだと、打ちやすい。
   たった1ミリの差だが、その「差」は大きい。
   タッチパネル式では、0ミリになる。

 もちろんハードディスクは、消える。
すべてSD方式になる。
3Dは、それほど普及しないのでは?
その必要もないし、かえってわずらわしい。
映画にしても、そうだ。

●夫婦

 たった今、庭先で鳥が鳴いた。
ヒヨドリの声?
何か危険が迫ったときに出す声。
何があったのだろう?
少し心配。
光の影が、先ほどよりも弱くなっている。
どうやら雲ってきたらしい。
それに寒い。

 この山荘の電話線は、先日は解約した。
携帯電話もない。
もってくるのを忘れた。
今ごろワイフはワイフで、のんびりと土曜日の朝を過ごしているはず。
基本的には、ワイフは私がいないほうが、のんびりできる。
深層のその奥深い脳の部分では、私を嫌っている。・・・と思う。
昨夜も、「これから山(=山荘)へ行ってくるよ」と声をかけたら、
「どうぞ!」と。
ワイフはめったに、「私も行きたい」とか、「連れてって」とか言わない。
若いときから独立心が旺盛。
男まさり。
ふつうの女性のように(?)、男に甘えるということを知らない。・・・しない。
マリリンモンローのような女性を見るたびに、「バカみたい!」と言って、
吐き捨てる。
つまりかわいげがない。
だからこちらから連絡しなければ、迎えにくるということもない。
私も期待していない。

 考えてみれば、さみしい夫婦だが、夫婦に定型はない。
みな、それぞれ。
よい面もあれば、悪い面もある。
夫婦円満のコツは、要するに求めすぎないこと。

●山荘を売る
 
 先週、この山荘を手放すことにした。
今すぐというわけではないが、加齢とともに通うことが少なくなった。
息子は3人いるが、アメリカにいる息子をのぞいて、都会派。
田舎生活には、見向きもしない。
むしろ嫌っている。
同じように育てたつもりだが、志向性がまったくちがう。

 一方、私は子どものころから田舎派。
都会生活が肌に合わない。
人ごみの中を半日も歩くと、それだけで頭が痛くなる。

 ということで、売ることにした。
もちろん愛着はある。
さみしい。
土地づくりには、6年もかけた。
毎週、終末にはユンボを借りてきて、それで土地を平らにした。
そういう思い出が、ここにはぎっしりと詰まっている。
私の「命」の一部といってもよい。
若いからできた。
そう、あのころの私は若かった。

 いくらで売れるかはわからない。
この先、「ほしい」という人が現れたら、相談して決める。

●UFO

 昨夜は眠る前に、10~15ページほど、UFOについての本を読んだ。
コンビニで買ってきた本である。
寝る前はいつもその種の本と、決めている。
地球を宇宙からながめているような気分になれる。
それがよい。

 学生時代には、たしか早川書房(今でもあるかな?)というところが
出していたSF小説を読みあさった。
当時は、ほかの惑星へ出かけていき、そこで宇宙人と戦うという、たわいも
ない内容のものが多かった。
それを一新させたのが、「2001年・宇宙の旅」。
これは映画だったが、私に与えた衝撃は大きかった。
それにテレビでは、「スタートレック」とか、「サンダーバード」など。

 言い忘れたが、地球を宇宙的な規模からながめなおすということは、
悪いことではない。
それを信ずるかどうかは別にして、視野が広くなる。
またUFOを信ずるかどうかは、私たち個々の問題。
信じたからといって、害はない。
カルト教団のように、組織があるわけではない。
あくまでもロマン。
空想ロマン。

 で、そのUFOだが、そうした本によれば、最近ではさまざまなタイプのもの
があるようだ。
私のいちばん興味をひいたのは、「異型UFOドローンズ」。
まるで針金細工か何かで作ったようなUFO。
YOUTUBEでも紹介されているが、そんなUFOが、スーッと
空を自由に飛びまわっているという。
「どんな原理で飛んでいるのだろう」と、そんなことを考えているうちに
いつも眠ってしまう。

●ダラダラ話

 意味のないダラダラ話がつづいた。
ここまで読んでくれた人に、申し訳ない。
少しまともな話をしてみたい。

先日、ローカル電車の中で、こんな広告を見た。
どこかの大学が出している広告である。
こうした広告がおかしいと言うには、それなりの覚悟が必要。
その大学を敵に回すことになる。
しかしおかしいものは、おかしい。
考えれば考えるほど、おかしい。
その広告は、「多元心理学を(私たちの大学で)
いっしょに学びましょう」という言葉で
結んでいた。
「多元心理学ねえ・・・?」。

●やる気

記憶によるものなので、内容は不正確。
あらかじめ、それを断わっておく。
しかし主旨は、できるだけ正確にここに書く。
わかりやすくするため、箇条書きにする。

(1)「勉強をさあ、やろう」と思っていた。
(2)ところが母親が、そのとき、「勉強しなさい」と言った。
(3)とたん、勉強をしようという意欲がそがれた。
(4)みなさんにも、そんな経験があるだろう。
(5)これは「Rxxxx」と呼ばれる心理現象である。
(6)勉強をすることで、「自由になりたい」と思っている。
(7)その意欲が、母親の言葉で、押しつぶされた。
(8)そこで猛烈な反発が働く。
(9)人間は自由を制限されると、自由を取り戻そうとする。
(10)が、それが思うようにできない。
(11)そのため、やる気を失う。
(12)だからそういうときは、「勉強しなさい」ではなく、「無理をしないでね」
    と言ったほうがよい。
(13)そういう勉強を、あなたもいっしょにしてみないか。
(14)KJ大学。

●やる気論

 「やる気論」については、たびたび書いてきた。
が、一般的には、やる気は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を
使って説明する。

自分が好きなことを、自分の意思でしていると、脳内は、カテコールアミン※
というホルモンで満たされる。
そのホルモンが、脳内を陶酔感で満たす。
それが「やる気」につながっていく。

 が、今度は、その反対の場合を考えてみよう。
たとえばいやなことを無理強いされると、それがストレッサーとなる。
ストレッサーとなって、今度はサイトカインという脳内ホルモンを分泌する。
このサイトカインが、心身にもろもろの変調をもたらす。
頭痛、肩こり、吐き気などなど。
当然、やる気をなくす。

・・・おおざっぱに言えば、そういうことになる。

●疑問

 せっかくやる気になっていた。
ところがそのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
とたん、やる気をなくした。
私にもそういう経験がある。
あなたにもあるだろう。

 そういうことは、よくある。
が、ここで重大な事実の誤謬(ごびゅう=取り違い)がある。
前提として、「やる気が起きていた」ということになっている。
しかし勉強を例にあげるなら、勉強が好きな子どもは、まずいない。
勉強には常に、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力を、「忍耐力」という。
平たく言えば、「いやなことをする力」。

 この段階で、その子どもがもし勉強をすることが好きなら、母親に
そう言われたくらいでは、影響を受けない。
「はい、わかりました」で終わるはず。
が、母親に「勉強しなさい」と言われたとたん、やる気をなくした(?)。
つまりここがおかしい。
もともと「やる気」など、ないと考えるのが自然。
「いやな勉強だが、しかたないからやってやるか」と思っていた。
そのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
その言葉でやる気をなくしたというのなら、私も納得する。
しかしそれは、自由を求める意思とは、本質的に異質なものである。

●自由への葛藤

 人間というのは、身勝手な動物である。
自由であるときは、それが自由であると気がつかない。
またその自由を、使うわけでもない。
が、その自由が抑圧されたと感じたとたん、猛烈な反発心がわいてくる。
それはたしかに、ある。
たとえばこんなケースで考えてみよう。

 もしある日突然、政府がこんな命令を出したとする。
「旅行で隣の県へ行くのを禁止する」と。
とたん、だれしもそれに反発するだろう。
旅行をするつもりがなかった人でも反発する。
「どうしてだめなのか」と。

 それなりの合理的な理由、たとえば戦争が起きたとか、伝染性の病気
が発生したとか、そういう理由があればまだ納得できる。
しかしそういう理由もないまま禁止されると、簡単にはそれに従うこと
はできない。

●相手の問題

 が、そのことと「やる気」は、どこでどうつながるのか。
逆のケースだって、考えられる。
「ようし、がんばろう」と思っていたところ、恋人が、「勉強、がんばってね」と
言ったとする。
そういうときひょっとしたら、その子どもはますますやる気を出すかもしれない。
たまたま相手が母親だったのがまずかった。
となると、それは言葉の問題ではなく、相手の問題ということになる。
さらに言えば、相手との人間関係の問題ということになる。
「自由がどうのこうの」という問題とは、次元がちがう。

●抑圧

 さらに言えば、親子関係には、長い過去というものがある。
その過去の中で、よい関係を築いている親子もいれば、そうでない親子も
いる。
いつも「勉強しなさい」と追い立てられてばかりいた子どももいる。
そういう子どものばあい、親がそう言っただけで、それに猛烈に反発
するだろう。
しかしそれは心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明される。
それまで心の隅に抑圧していたうっ憤(不満や不平)が、そこで爆発する。
ドカーン、と。

●タイプ
 
 が、このとき子どもは、(おとなもそうだが)、2つのタイプに分かれる。
ひとつはそのまま抑えつけられてしまうタイプ。
もうひとつは、暴力的にそれに反発するタイプ。
もちろんその中間型もあるだろう。
ほかにも依存型、同情型、服従型もある。
しかしそのままやる気をなくしてしまうタイプは、あくまでもその中の
ひとつに過ぎない。

 「自由を抑圧されたから」「やる気をなくした」と結びつけるのは、短絡的。
無理がある。
先にも書いたように、某大学の大学案内に書かれた文章である。
当然その道のプロたちが、知恵をしぼり、かつ専門的な知識を総動員
して書いたにちがいない。
が、おかしいものは、おかしい。
またどうしてそれが「多元心理学」なのか?
「多元」というほど、大げさなものではない。

●「無理をしないでね」

 英語では、「がんばれ」に相当する言葉がない。
「Do your best(最善を尽くせ)」が近いが、実際には、
こういうケースのばあい、「Take it easy(気楽に構えよ)」
と言う。

 今、何かのことでがんばっている子どもがいたとする。
歯を食いしばってがんばっている。
しかし思うように成果が出ない。
苦しい。
そんなときだれかに、「がんばれ!」と言われることほど、つらいことはない。
「これ以上、何を、どうがんばればいいのだ!」と。

 そういうときは、たしかに反発する。
が、それとて「自由を求めて・・・」というのとは、異質のものである。

●オペラント

 「やる気論」については、すでにオペラント(自発的行動)論によって
常識的に定説化している。
たとえばここに漢字の得意な子ども(小4)がいる。
自分でも「漢字が得意」と自負している。
そんな子どもに、小6の漢字を10個、書かせてみる。
とたん、「知らない」「書けない」「わからない」といって、瞬間的に
パニック症状を示したあと、急速にやる気をなくす。
もちろんプライドにも、大きなヒビが入る。
中にはふてくされてしまい、不遜な態度を示す子どももいる。

 つまり「やる気論」は、むしろそちら側から攻めるべきであって、
自由論とは、本来、関係ないものと考えるのが正しい。

・・・ということで、この話は、おしまい。
ついでに今日の日誌も、これでおしまい。
これからもう一眠りするつもり。
頭は重くないが、耳鳴りがする。
風邪の前兆かもしれない。
これからうがいをし、葛根湯をのむ。

 2010年10月2日、朝。
午後から行動開始!
ではみなさん、今日もがんばろう!

●変更

 ここまで書いて、パソコンを閉じようとしたら、すでに31ページも
書いていることがわかった。
隙間だらけの31ページだから、本の1ページに換算するわけにはいかない。
しかし31ページ。
編集の仕方にもよるが、50~60ページも書けば、薄い本になる。
がぜん、やる気が出てきた。
どうせここまで書いたのだから、あと少し、つづけて書いてみる。

●ものを書く

 ものを書くとき重要なことは、自分を偽らないこと。
飾らないこと。
ありのままを書く。

 もちろんだれかを傷つけるようなことは、書いてはいけない。
教育の世界では、とくにそうである。
その人個人と特定できるようなことは、書かない。
そこでいろいろな手法を用いる。

 他人の話を自分の話にしてみたり、その逆をしてみたり。
数人の話を1人にまとめてみたり、その逆をしてみたり。
けっしてウソを書いているのではない。

 が、やはりできるだけありのままを書く。

 自分を偽ったり、飾ったりした文章は、あとで読んでも後味が悪い。
しかしどんなへたくそな文章でも、そのときの自分がそのまま出ていれば、
読んでいても、懐かしさを覚える。
「あのときは、ああだったな」と。

 時間を無駄にしないためにも、ありのままの自分を書く。
これはものを書くときの、大鉄則と考えてよい。

●もうひとつ変更

 昼から家に帰るつもりだったが、やめた。
もう一晩、この山荘に泊まることにした。
電話なし、ネット接続なし。
まさに陸の孤島(大げさかな?)。
しかし問題は食事。

 昨夜コンビニで、一食分しか食物を用意しなかった。
それは先ほど、朝食として消えた。
お米が少し残っているはずだから、それを炊こう。
おかずは・・・。
何とか、なるだろう。

 で、こうして山の中にひとりでいると、そこにまた別の世界が
見えてくる。
第一に、私という人間が、いかにワイフに依存していたかがわかる。
2人で一人前?
一体性が強い分だけ、こうして離れてみると、禁断症状に似たものが
現れてくる。

 仏教の四苦八苦のひとつに、愛離別苦というのがある。
「愛する人と別れる苦しみには、相当なものがある」という意。
八苦のひとつ。

よく「妻に先立たれた夫は哀れ」という。
妻には生活力があるが、夫にはない。
あの長谷川一夫(往年の名優)にしても、妻が亡くなったあと、1か月あまりで
この世を去っている。
毎日毎晩、妻の仏壇の前に座っていたという。
何かの本で読んだ話なので、不正確。
しかし似たような話は、よく聞く。

 その愛離別苦。
私は今、それも模擬体験している。
が、問題がひとつある。
「私は本当に、ワイフを愛しているか」と。

 つまり「愛」という概念ほど、曖昧模糊(あいまい・もこ)とした概念はない。
喜怒哀楽のように「形」すらない。
キリスト教徒の人たちは、「愛はある」という前提で話を進める。
しかし愛とは何か。
どこに「ある」のか。

 それを埋める概念が、『許して忘れる』。
人は相手を、どこまで許し、忘れることができるか。
その度量の深さによって、「愛」の深さを知る。

 これは私の持論だが、愛というのはそういうもの。
その度量が、私にはない?
ワイフにもない?
考えてみれば、おかしな夫婦。
そんな夫婦生活を、40年以上もつづけてきた。
これからもつづけていくだろう。
しかしこうして離れてみると、けっこう、さみしい。
「今に迎えにくるかな?」という淡い期待感はあるが、こと私のワイフに
かぎっては、それはない。
言えば、きちんとそれをしてくれるが、それ以上のことは、ぜったいに
しない。
子どものころ、今で言うアスペルガー児ではなかったか?
その疑いはある。
どんなささいなことでも、一度批判したら最後、そのまま殻(ナッツ)に
こもってしまう。
その様子が、小娘みたいで、おもしろい。

 ふだんはやさしく、親切なワイフなのだが・・・。

●今を受け入れる

 こういう心理状態のときは、先のことは考えない。
「ヌカ喜び」と「取り越し苦労」。
これは躁鬱病の人によく見られる現象である。
「多幸感」(私は幸福という満足感)と「絶望感」。
この2つが交互にやってくる。

 だからここは「平穏を旨とすべし」(『黄帝内経』)。
つまり今は、今だけのことを考える。
こうして山の中にひとりでいると、不安感がヒシヒシと襲ってくる。
しかしこの近くの農家の人たちは、そういう生活を当たり前のものとして
生きている。
私にだって、できないはずはない。
それに妻を亡くし、ひとりさみしく生きている男性となると、ゴマンといる。
そういう人たちと比べたら、私が今感じている孤独感など、何でもない。

・・・くだらないことだが、この近くには、何10匹ものサルが住んでいる。
そういったサルにも、孤独感というのはあるのだろうか。
あったら、とてもこんな世界には住めない・・・だろう。

●住めば都

 その一方で、その農家の人たちだが、以前、その反対のことを言った。
隣人のUさん(当時50歳くらい)だが、こう話してくれた。

「私ら、町へ行っても、うるさくて眠れません」と。

 Uさんは結婚式か何かがあって、その夜は浜松市内のホテルに泊まった
そうだ。
その夜のこと。
「通りを歩いてみましたが、飲食店のにおいが臭くて、吐き気がしました」と。

 住めば都というが、山の中に住んでいる人たちは、逆に町の中では生活できない。
一方、ときどき山へやってくる私は、森のにおいに驚く。
湿気を帯びた冷たい風。
その中に樹木のにおいが、プンと香る。
夏場でも、夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から冷たい風が、スーッと
かけあがってくる。
今年も35度を超える猛暑がつづいたが、山荘では扇風機だけでじゅうぶん。
この村にいる人たちも、こう言う。

「エアコンは、客用です。私らは、使わないよ」と。
山荘生活のすばらしさが、まだ私にはわかっていない。

●人生観

 当然のことながら、環境は人生観に大きな影響を与える。
ただとても残念なことに、田舎の人たちの人生観が、都会の人たちの人生観に
影響を与えるということは、まずない。
このマスコミ社会。
情報は常に、都会から田舎へと、一方的に垂れ流されるだけ。
テレビのバラエティ番組を例にあげるまでもない。
ああいう人たちは、田舎にはいない。
言うなれば、都会で作られた、人工のサル。

 実際には、日本は農村文化。
その文化が、今、つぎつぎと破壊されている。
私も、その「結果」。
こういうすばらしい環境にいながら、その(すばらしさ)を満喫できない
でいる。
「どうすればネットがつながるか」と。
そればかりを考えている。

●カンパン
 
 今、戸棚を調べたら、いくつかの食品が出てきた。
その1つが、カンパン。
お米はなかった。
災害時の非常食として買っておいたもの。
缶の上に、白い斑点状のサビが出ている。
品質保存期間を調べたら、「2001年8月」となっていた。
「2010年のまちがいではないか」と、もう一度確かめたが、「2001年」
だった。
封を開けて食べてみたが、どうやら問題はなさそうだ。

 あと干し海苔とマカロニ。
マカロニはゆでてみたが、どこかカビ臭くて、食べられなかった。
今日は何とか、これで生き延びる。

(この間、2時間ほど、昼寝。)

●山荘の夕方

 このところ急速に日が短くなっていくのを感ずる。
加えて山の一日は、短い。
昼寝から起きて、何かをしたわけでもないのに、外を見たら、もう夕暮れ時。

 早い。

 で、こういうところに住んでみると、改めて近隣の人たちとのつきあいの
大切さを知る。
たとえば私の母の実家のある村では、どの家でも、いつも人の出入りがある。
いつも何かの会合がある。
村全体が、ひとつの家族のように機能している。

 一方、都会では、隣にだれが住んでいても、気にしない。
行き来もしない。
しても回覧板を届ける程度。
それでは孤独死をしても、だれも気がつかない。
今の私の家庭がそうだ。
近隣の人たちとの行き来は、ほとんどない。
隣の人が死んでも、気がつかないだろう。

「それではいけない」と、今、つくづくそう思う。

●地域の人たちとのつきあい

 が、現実問題として、そういう(しくみ)そのものが育っていない。
またそういった(しくみ)は、何十年というより、何世代もかけてでき
あがるもの。

 この山荘のある村にしても、それぞれの家が、みな親戚のようなもの。
それぞれの家庭が、「血」でつながっている。
土地にしても、A氏の土地の中にB氏の土地があり、そのB氏の土地の
中にまたA氏の土地があったりする。

もちろんマイナス面もないわけではない。
それぞれの家庭の内情が、筒抜け。
隠しごとができない。
そのためこういうばあい、村の人たちとつきあうときは、最初からすべて
オープンにする。
どう抵抗したところで、勝ち目はない。
あるいは「よそ者」を自称し、距離を置く。

 私のばあい、後者を選んだが、本当は(?)、村の世界に入りたかった。
私は子どものころから、「村」の人たちがもつ暖かさを知っている。
が、いくらこちらがそれを望んでも、村の人たちには村の人たちの考え方
がある。
伝統もある。
ある人はこう言った。
「この400年で、あなたが外から来た最初の人だ。
村の人間と認められるまでには、3代はかかるだろうね」と。
それであきらめた。

●自由

 今、ここまで書いた文章を読みなおしてみた。
雑文もいいところ。
くだらない文章の羅列(られつ。)
たわいもない独り言。
一応、BLOGに載せるつもりで書いた。
しかし今、それを迷っている。
こんな文章を読んで、どうなるのだろう。
読んでくれる人に、申し訳ない。

 が、逆に言うと、こういうことにもなる。
私ほど、マスコミやそういった世界の外にいる人間も珍しい。
だからだれにも遠慮せず、書きたいことが書ける。
たとえば以前、ある宗教団体の機関誌の編集を手伝っていたことがある。
息苦しい世界だった。
言葉の一言一句に、神経を使った。
ちょっとしたミスで、その号すべてが、廃棄処分になったこともある。

 宗教団体だけではない。 
組織がからんでくると、書きたいことも書けなくなる。
たとえばこの日本では、NHKや大手雑誌社の批判は、タブー。
そのとたん、仕事が止まってしまう。
だからそれなりに、みな、シッポを振る。
が、今の私は、自由。
(もともとだれにも相手にされていないこともあるが・・・。ハハハ。)
その自由ぽさを、私の文章の中に感じてもらえば、うれしい。
さて、話を戻す。

●カンパン

 静かな一日だ。
雨戸は閉め切ったまま。
来客もない。
電話もない。
横には、カンパンとお茶の入ったボトルが一本。

 ところでそのカンパン。
こんなにおいしいものとは、知らなかった。
メーカーは、「三立製菓」とある。
本社は、この浜松。
賞味期限は2001年。
それを2010年の今、食べられる。
考えてみれば、これはすごいことだ。
これなら、火星往復旅行にだって、もって行かれる。

フ¬¬~~ンと感心しながら、またひとつ、口の中に入れる。
が、ほめてばかりいてはいけない。

カンパンは、缶詰になっている。
その缶の表面に絵が描いてある。
その絵が、バグパイプを吹いているスコットランド兵。
どうしてカンパンの缶に、(「乾燥したパン」という意味で、「カンパン」とした
のだろうが)、スコットランド兵なのだろう。
「1985年9月、世界食品ゴールドメダル受賞」という文字が光る。
私なら、そのメダルの写真と文字を、缶全面に表示する。

●歩く

 明日、帰るとき、ひとつやってみたいことがある。
山荘から東名西インターまで、12・5キロ。
そこから家まで、さらに20キロ。
家までは無理としても、12・5キロくらいなら、歩ける。
その距離を、歩いてみたい。
このところ運動不足ぎみ。
自分の体がモタモタしているのが、よくわかる。
体重も、62キロ。
あと1キロは、減らしたい。
やや寒いかなという気候だが、ウォーキングには最適。

 少し前まではサイクリングが、私の健康法のひとつだった。
20代のはじめから、通勤には自転車を使っていた。
そのおかげだと思うが、この年齢になっても、成人病とは無縁。
太もも(大腿筋)の太さも、ふつうの人の2倍はある。
腰もしっかりとしている。

 私の年齢になると腹筋も弱り、寝ている状態から上体を前に起こすことが
できなくなるそうだ。
私には当たり前のようにそれができる。
みなも、できるものとばかり思っていた。
だからある人の前で、それをして見せたら、その人はかなり驚いていた。
「どうして、林さん(=私)はできるのですか?」と聞くから、「たぶん
サイクリングのおかげと思います」と答えた。

 自転車をこぐとき、ハンドルを手前に引きながら、ぐいぐいと腹に力を入れる。
足の力だけでは、自転車は走らない。
そのとき知らず知らずのうちに、腹筋を鍛えていた。

 が、最近は歩くことが多くなった。
とくに私のばあい、何かいやなことがあると、すぐ歩き出す。
ボケ老人の徘徊のようなものではないか。
歩いていると、いやなことを忘れられる。
明日は、それをしてみたい。
つまり西インターまでの12・5キロを歩いてみたい。
時速5キロで歩くとして、2時間半の距離。
何とかなるだろう。

●テレビ

 先ほどテレビのスイッチを入れた。
アンテナが折られていることもあって、映りは悪い。
サルたちが、折った。

 時間帯は午後7時台。
あちこちでバラエティ番組をやっていた。
まさにバカ番組一色。
あるチャンネルでは、ドジな失敗ばかりを集めて放映していた。

雪でスリップした車のところへ、また別の車がスリップして激突。
羊が角を電線にひっかけて、宙に浮いていた。
強盗が偽FBIに化けて住宅に侵入しようとしたが、逆に発砲されて退散などなど。

内容からして、アメリカのテレビ局あたりから仕入れてきたものだろう。
それを12~5人のタレントたちが、ギャーギャーと騒ぎながら見ている。

 それはそれとして結構おもしろかった。
しかし意味のない情報。
情報の洪水。
ハハハと笑って、それでおしまい。
数日もすれば、思い出すこともなく、そのまま忘れてしまう。
あとはその繰り返し。

 人間もサルと同じと言うべきか、それともサルも人間と同じと言うべきか。
人間は、言葉をもっている。
その言葉を使って、知識を豊富にもっている。
が、それをのぞけば、人間もサルも、それほどちがわない。
バラエティ番組を見ていると、それがよくわかる。

 ・・・話が愚痴ぽくなってきたので、やはり書くのは、ここまで。
これから風呂に入り、明日に備える。
その前に、もう一度、仮眠する。
少し眠い。
2010年10月2日記

(注※……カテコールアミン)


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