2012年8月6日月曜日

Spoiled Children(1)






☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ        
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β      
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○  
.        =∞=  // 

□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年8月 8日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【発情期にわかる、子どものドラ度】

●子どもの世界「女の子の発情期」(はやし浩司 2012-06-09)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

最近の中高校生は、ズバリそのまま、無修正の動画を見ている。
雑誌や本ではない。
DVDでもない。
スマフォ、つまりスマートフォンを使い、ズバリ、そのまま。
しかもここに書いたように、動画。

しかも相手は、小学生や中学生の女の子。
そういう女の子が、堂々と画面に出てくる。
違法意識はまったくない(?)。
「お前たちは、こんなのを見ているのか!」と叱ると、「みんな、見ているよ」と。
平然と言ってのける。

私はスマフォは使っていない。
外では、DOCOMOの携帯端末を使っている。
それでも費用は、月額6000円前後。

私「費用はいくらくらいかかるのか?」
子「全部で、1万円弱くらいかな?」
私「親が払っているのか?」
子「そうだよ」と。

あまりにも日常的。
ありふれた光景。
平気で、私に見せる。

子「先生も、見ているんだろ!」
私「バカ、もう見飽きた!」と。

瞬間、「これでいいのか?」と思ったが、それが(流れ)。
時代の流れ。
そんなものに逆らっても、川の中に、竹竿一本立てるようなもの。
勝ち目はない。
意味もない。
が、宗教、哲学のない国民、ここに極まれり。

帰りにワイフとこんな会話をする。

私「日本人が、ますますバカになっていくように思う」
ワ「考えないわね……」
私「すべてが欲望のおもむくまま……。そんな感じがする」
ワ「欲望第一主義ね」と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●発情期前夜

 昨日、小学6年生のYさん(女児)を教えていて、いつもと様子がちがうのに気づいた。
少し前から、「?」とは感じていた。
カラフルなノートに、プリクラで撮った写真を貼り付けて遊んでいた。
それをたしなめると、甲高い声で、キャッ、キャッと騒いだ。
それまでは静かで、落ち着いた子どもだった。
それが時折、突発的に興奮状態になる。

 が、昨日は、それがさらにはげしくなった。
顔が上気し、軽い興奮状態。
ソワソワ……というよりフワフワした状態。
まじめな会話をしようとしても、取りあわない。
私の言葉を茶化し、あやしげな笑みを浮かべる。
もちろん勉強など、そっちのけ。

 Yさんも、発情期に入った。
(私はもう、「思春期」という言葉を使うのをやめた。
「発情期」のほうが、ずっとわかりやすい。)
発情期に入ると、様子が変わる。

 あとでワイフにそれを話すと、ワイフもそれに気づいたらしく、こう言った。
「女の子は、むずかしいわね」と。

 男児のばあいは、スマフォならスマフォでもよい。
まだ解消する手段をもっている。
が、女児には、それがない。
ないから、いきなり(遊ぶ)という行為に直行する。
カゴの中に押し込めようとしても、無理。
不可能。
体の内部から、燃えるような欲望がわきあがってくる。
本人自身の理性の力など、腸から出るガスのようなもの。

 ならば、じょうずに(遊ばせる)ということになるが、これもむずかしい。
同年齢の男児(男子)にしても、異性(女性)を、そういう対称としてか見ていない。
いまどき「純愛」などという言葉を使おうものなら、「何、それ?」と問い返される。

 が、危険と言えば危険。
一歩、家の外に出れば、誘惑の猛攻撃にさらされる。
だいたい、おとなたちが、ものを考えない。
そういう子どもを餌食にして、遊ぶ。
欲望のおもむくまま、行動する。
その結果が「今」であり、それが子どもたちの世界を侵襲している。

12年前(2000年ごろ)に書いた原稿がある。
そのころ、この浜松市でも1人の女の子(中2)が、HIVに感染し、エイズを発症した。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

四割の善と四割の悪(中日新聞にて発表済み)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【四割の善と、四割の悪】

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。
子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。
おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。
子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。
時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。
あるいはそういうワナにハマりやすい。
ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。
自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。
親だってそうだ。
子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。
しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。
人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。
言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。
無数のドラマも、そこから生まれる。
旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。
「希望を与えるため」と。
もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。
それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。
たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。
そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。
高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。
「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。
するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。
うちの娘はまともだからね」と。
私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。
子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。
そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。
子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●堕落(だらく)

 堕落という言葉の意味を知らない人に、堕落を説いても意味はない。
かえって、それを説く私たちのほうを、バカに見る。
欲望というのはそういうもの。
欲望の奴隷になりながら、奴隷になっていることにさえ気づかない。
西洋風に言えば、悪魔に魂を売り渡している。

 が、あのソドムとゴモラにしても、現代の日本ほど、堕落していなかった(……と思う)。
ソドムとゴモラというのは、天からの硫黄と火によって滅ぼされた都市をさす。
旧約聖書の中では、ヤハウェの裁きによって滅ぼされたということになっている。
「甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である」(ウィキペディア百科事典)とある。

 が、ここでひとつの疑問。

 「性の乱れ」を、堕落と考えてよいのか。
こと「性」に関して言うなら、あらゆる動植物に共通する本能。
それがあるからこそ、私たちは、今、ここに存在する。

 が、それには節度があるべき。
……と考えやすいが、「節度」ということになるなら、この地球で節度を守っていたら、あっという間に、自然淘汰されてしまう。
貪欲に生きてこそ、やっと自分の種族を守れる。

たとえば魚にしても虫にしても、1匹の子孫を残すために、何万匹、何万匹もの子孫を作る。
人間の男が射S(精)する精S(子)にしても、1度に億の数。
(BLOG禁止用語に抵触するため、(精)(子)としました。)
悲しいかな、貪欲に生きてこそ、私たちは子孫をつぎの時代に残すことができる。

 もし「乱れ」ということになるなら、道徳規範の乱れということになる。
となると、何も、「性」だけの問題ではないということにもなってしまう。
「性の乱れ」は、その一部にすぎない。

●道徳規範

 ならば道徳規範とは何か。
いろいろ言われているが、基本的には、「自ら考える力」によって決まる。
が、この「力」は弱い。
とくに子どもたちの世界では、弱い。
というか、考える力そのものが、未熟。
未完成。
が、中には、自らをコントロールする力をもっている子どももいる。

 こんな女子(中1)がいた。

●お年玉

 「お年玉はぜんぶ貯金する」と言った女の子(中1)がいた。
「どうして?」と聞くと、「お金をためて、フルートを買う」と。

 その女の子は、どこかでフルートの個人レッスンを受けていた。
またフルートという楽器は、かなり高額である。
それでそう言った。

 さらに印象に残っている女の子(小3女児)に、こんな子がいた。
以前、書いた原稿を探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

一部、内容がダブりますが、
お許し下さい。
日付は2007年になっていますが、
実際に書いたのは、2000年ごろです。

なおこの中に書いた、自動販売機での女の子は、
そののち女医になり、父親といっしょに、
医師をしています。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの世界を守るために……

 性にめざめるころ、そのまま性の世界にのめりこんでしまう女の子と、そうでない女の子がいるのがわかる。

 どちらがよいとか、悪いとか、そんなことを言っているのではない。

 ただ、現代という時代においては、子どもたちを取り巻く環境が、ますます劣化しているということ。
売春や援助交際は、すでに日常化している。「出会い」と呼ばれる、フリーセックスも、今では珍しくも、何ともない。

 が、問題は、性病。その中でも、エイズの問題がある。

 「まさか……」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、自分の娘が、そのエイズに感染する。
それはもう、病気という病気ではない。
十字架という、十字架ではない。
もしあなたが、「うちの娘や、息子は、そういう病気とは無縁」と思っているなら、その考えは、甘い。
改めたほうがよい。

 2015年までには、この日本でも、エイズ感染者は、若者を中心に、数万人以上になると、予測されている。
が、それで止まるわけではない。さらに感染者数は、ふえる。
発症者もふえる。
死亡者も、ふえる。

 そこであなたは、「学校で……」「教育で……」と考えるだろう。
しかしこの問題だけは、学校や教育では、どうにもならない。
はっきり言えば、学校や教育の、その外の世界の問題である。
性にめざめる子どもを、おさえる方法など、ない。
それは道徳や倫理を超えた世界の問題である。

 が、対処方法はないわけではない。

 子どもは、自ら、考える子どもにする。以前、こんな子ども(小3女子)がいた。

 たまたまバス停で、出会った。
そばに、自動販売機があった。
そこでその女の子に、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その女の子は、こう言った。

 「いいです。今、ジュースを飲んだら、お母さんがつくってくれた、夕食を食べることができなくなります」と。

 少ないが、そういう子どももいる。
また、私たちは、自分の子どもを、そういう子どもにしなければならない。

 コツは、ただ一つ。欲望に耐えられる子どもにする、こと。

 が、現実は逆である。

 子どもが生まれると、親はもちろんのこと、親類縁者たちが集まってきて、「蝶よ、花よ」と、子どもに手をかける。お金をかける。
時間をかける。

 目一杯、子どもの欲望を満足させてしまう。
こうした安易な子育て観が、子どもをして、欲望に対して、抵抗力のない子どもにしてしまう。
性にめざめるころ、その性にのめりこんでしまう子どもというのは、そういう子どもをいう。

 これは私のあくまでも印象だが、小学5、6年生を境に、いわゆる「飛んでしまう女の子」には、それ以前に、ある一定の特徴がある。

 その第一は、どこか派手になる。
第二に、妙におとなびていて、それでいて、おとなをなめるような言動が見られるようになる。
第三に、それなりに「女」としての魅力を、自ら、意識している。

 概して言えば、頭がよいほうに属する。
あるいは何かにつけてませていて、物知り。
どこか、チャカチャカしている。
ファッションにも敏感。そんな感じである。

 このタイプの子どもは、小学5、6年生になると、急速におとなびてくる。
目つきまで、変わってくる。以前だが、私にこんなことを言った女の子(中学2年生)がいた。

 「先生は、まじめエ?」と。そこで私が、「まじめだよ」と答えると、「何、言ってるの。子どもがいるくせに」と。

 そのときは、その意味がわからなかった。
しかししばらくしてから、その意味がわかった。
その女の子は、「先生は、セックスをしているのか?」という意味で、私にそう聞いた。
その女の子のいう、「まじめ」というのは、そういう意味だった。

 で、その女の子も、いつも携帯電話を片手に、男遊びを繰りかえしていた。
が、ここで大きな問題にぶつかる。
そういう事実を、親に伝えるべきかどうかという問題である。

 この世界には、「内政不干渉」という大原則がある。
私の仕事は、親から委託された仕事を、委託された範囲でする。
それ以外のことは、相談や、質問があるまで、しない。
またしてはならない。親に伝えれば、伝えた段階で、私と生徒の信頼関係は、そのまま崩壊する。

 それに確たる証拠があるわけではない。
遊んでいるらしいというのは、あくまでも、カンである。
目つきとか、あやしげな言い方、そういうもので、それがわかる。
その女の子も、筆箱の中に、金製の飾りをもっていた。
多分、どこかの男に買ってもらったものだろう。

 私が、それを指でつまみながら、「これは、何だ?」と声をかけると、「ウフン~。いいじゃア~ン……」と。
なまめかしい声だった。

 が、こういうケースでも、つまり性にめざめたとしても、それはそれ。
おとなになるために、だれしも経験する、「春」である。
関門である。中学生だから早いとか、高校生だから遅いとかいう判断をしている間に、そういう子どもも、あっという間に、おとなになる。
おとなの仲間入りをする。

 が、エイズは、そうではない。そうはいかない。
体の中に、時限爆弾をかかえるようなものである。
しかも感染という方法で、まわりの人たちを、どんどんと不幸にしていく。

 S市内のある中学校で、一人の女の子がエイズに感染しているとわかったときのこと。
その話は、生徒から生徒へと、またたく間に、広がってしまった。
もちろん親たちにも。

 とたん、その学校は、パニック状態。その女の子が、その学校の男子生徒の何人かとも、関係していたからである。
さらにこれは、アメリカのある州立大学での話だが、その大学のフットボ-ルクラブの学生、60人について調べたところ、何と、15人もの学生に陽性反応が出たという。

 15人といえば、25%である。
いくらエイズ大国とはいえ、これには、大学当局も驚いた。
そしてそのあと、その大学は、その対策に追われ、とても授業どころではなくなってしまったという。

 そういう現実が、この日本でも、もう目の前に迫っている。

 では、どうするか?

 私たち一人一人の親が、賢くなるしかない。
その賢さで、子どもを包むしかない。
もっとわかりやすく言えば、自ら考え、行動し、責任をとる子どもにする。
その見本を、日常生活の中で、私たち親が示す。

 子どもの世界を守るためには、もう、それしかない。

 そうそう、こんな話も、もれ伝わってきている。

 そのS市で、エイズになった中学生の親だが、娘がエイズとわかったとき、近くの神社へ行き、(オハライ)なるものをしてもらったという。
そしてその神社の神主の指示に従い、神棚の位置をかえ、子ども部屋には、別の大きな神棚を置いたという。

 この話からも、その親が、いかに狼狽(ろうばい)し、理性を失ったかがわかる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人間商品

 人間の商品化が進んでいる。
まさに商品。
自ら商品を意識する、歌手やタレントだけの話ではない。
ごくふつうの、どこでもいるような子どもでさえ、商品化している。
もちろん商品にするのは、親。
またそういう目でしか、見ていない。

 今では、小学生や中学生の娘に、美容整形をほどこす親など、珍しくも何ともない。
親がだぞ!

 で、今週もこんなことがあった。

 私は毎週、ほとんど書かさず、あるパソコン週刊誌を買っている。
今週号は、その表紙を3人の女の子が飾っていた。
が、私はその顔を見て、ワイフにこう言った。

「みんなお面をかぶっているみたい。区別がつかない」と。

 3人とも人形風の顔をしていた。
かわいいというより、作られた顔。
コミック雑誌から抜け出たような顔をしていた。

 で、よく見ると、みな整形を施しているのがわかった。
不自然な鼻、小鼻、鼻の穴。
それに目。
その上に化粧に化粧を重ねている。
元の顔など、どこにもない。

 が、何よりも気になったのは、幼児よりも幼稚な表情。
顔だけの顔。
私は知性のひとかけらも感じなかった。
つまりこれを「商品」と言わずして、何という。
まさに人間商品。

●賢い子どもにするには

 今朝は時間がないので詳しく書けないが、要するに、幼児期前期の育て方で決まる。
エリクソンが説いた、「自律期」である。
この時期に子どもの基本的な方向性が決まる。
逆に言えば、その子どもがスポイルされるかどうか、つまりドラ息子、ドラ娘になるかは、そのときに決まる。

 子どもの性質ではない。
親の育て方で、決まる。

 たとえば少し前、私のクビを切った中学生がいた。
私に向かってこう言った。

「先生を、(親に頼んで)、クビにしてやる」と。

 私はすかさず、その子どもを退塾処分にした。
「お前のようなガキにクビを切られてたまるか。さっさと帰れ」と。
(私は「ガキ」という言葉を使った。)
それまでにも、その中学生は、たびたび私に暴言を吐いた。
私を、ただの塾教師としてしか見ていない。
(たしかにそうだが……。)
が、その一言で、キレた。

 ……かわいそうな子どもだと思う。
人間の価値を、見栄えや、財産でしか判断しない。
中身を見ない。
いくつか塾をかけもちしていた。
私が「~~だ」と教えても、「○○進学塾では、こう言った」と、まるで取りあわない。
もちろん宿題など、出しても無駄。
少し暑くなれば、「クーラーをかけろ」と。

 それなりの成功者(?)になればよいが、そうでなければ、苦しむのは、結局はその子ども自身ということになる。

 私が20代のはじめ、家庭教師をしていた子ども(中3)に、こんな子どもがいた。
この原稿の中に出てくるM君の話は、中日新聞に載せてもらった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【少子化の中で、スポイルされる子どもたち】

【ドラ息子、ドラ娘論byはやし浩司】

●甘やかしと、きびしさ

+++++++++++++

極端な甘やかしと、極端なきびしさ。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしにより、規範そのものが崩れる。
一方、アンバランスなきびしさが、子どもを反抗的にする。

わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。

+++++++++++++

 一方で甘やかす。
子どもに気を使う。
過干渉というよりは、子どもの機嫌を取る。
『子どもをだめにするためには、子どものほしがるものを何でも与えよ』という。
しかしこのタイプの親は、『子どもがほしがる前に、何でも与えてしまう』。

しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。
はじめは、小さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。
(甘やかす)→(ますますきびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
 
 このタイプの親には、共通点がある。

(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)

(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)

(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)

(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)

(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)

(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)

(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)

 これらの特徴と併せて、

(8)一貫性がない。

そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびしく接したりする。

A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。

 A君の父親は、もの静かな人だった。
一方、母親は派手好き。
裕福な家庭で、生まれ育った。
ほしいものは、何でも買い与えられた。

 A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。
近くに祖父母もいて、A君の世話をした。
A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。

 母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えていた。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。
いや、するにはしたが、とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほめたりした。
「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。

 が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。
あと片づけをしない、ほしいものが手に入らないと、怒りを露骨に表現するなど。
母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。
A君は、それに泣いて抗議した。

 A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。
夫の収入だけでは足りなかった。
A君の母親は、実家の両親から、毎月、5~8万円程度の援助を受けていた。
夫には内緒、ということだった。

 A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。
そのためA君の母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。
そのころすでにA君は、オーバーヒート気味だったが、母親は、それに気づかなかった。
「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。

 A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。
好き嫌いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。
簡単なゲームをさせても、ルールを守らなかった。
そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたりした。

 人格の完成度が遅れた。
他人の心が理解できない。
自己中心的。
ほかの子どもたちとの協調性に欠けた。
幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そうでないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。

 小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。
そのころになると、母親にも乱暴を繰りかえすようになった。
母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。
ものを投げつけることも重なった。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。
学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。

 ……という例は、多い。
今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないということ。

『溺愛は、親を盲目にする』。
A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。

 こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処できる。
アドバイスもできる。
しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問題があります」とは、現実には、言えない。
言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変えることは、不可能。
親にとっても、容易なことではない。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから、はじまっている。
そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。

 が、やがて行き着くところまで、行き着く。
親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなくなる。
が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。
「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。

 A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。
小学5、6年になるころには、まさに王様。
食事も、ソファに寝そべって食べるようになった。
母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。
母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えていた。
「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。

 本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。
が、A君の父親は、静かで、やさしい人だった。
家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。
仕事から帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
 
 ……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに気づくか、それが大切。
早ければ早いほど、よい。
できれば3、4歳ごろには、気づく。
(それでも遅いかもしれない。)

 というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
1年や2年はかかる。
あるいは、もっと、かかる。
さらに親自身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。
それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。

 ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのものを、もみ消してしまった。
あちこちを回り、お金で解決してしまった。
また別の子ども(高1男子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。
そのときも、母親が、一晩で、事件そのものをもみ消してしまった。

こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。
で、やっとそのころになると、自分の(まちがい)に気づく。
それまでは、気づかない。
ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その1人かもしれない。
が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関係ない」と、無視する。
これは子育てがもつ、宿命のようなもの。

 そこで教訓。

 あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。
責めるべきは、あなた自身。
反省すべきは、家庭環境そのもの。
あなたの育児姿勢。
家庭のリズム。
あなたの人生観、それに子育て観。
 子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。
なおるはずもない。
この問題は、そういう問題である。

+++++++++++++++

ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。
一部ダブりますが、お許しください。

+++++++++++++++

●子どもをよい子にしたいとき
 
●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。
それを一口で言ってくれ。
私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。
「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。
私はしばらく間をおいて、こう言った。
「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。

 そのとおり。
子どもは使えば使うほど、よくなる。
使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。
それだけではない。
忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。
「日本の子どもたちは、100%、スポイルされている」と。
わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。
そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わない。
片づけない。
シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。
朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。
つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。
「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。
ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1) ものの考え方が自己中心的。

自分のことはするが他人のことはしない。
他人は自分を喜ばせるためにいると考える。
ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。
自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。
いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。

(2) ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。

目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。
あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。
生活習慣そのものがだらしなくなる。
その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3) ものの考え方が無責任。

他人に対して無礼、無作法になる。
依存心が強い割には、自分勝手。
わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4) バランス感覚が消える。

ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるからである。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。
本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。
生活への耐性そのものがなくなることもある。

友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。
子どもが二~四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。
寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。
そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。
その子どものお母さんは、こう話してくれた。
「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。
なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。
「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。
買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。
洗濯も今では全自動。
料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。
テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。
子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。
たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。
そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。
そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほうがよい。
やらせることがないのではない。
その気になればいくらでもある。
食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。
そこで洗わせる。
フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。
庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。
そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。
要はそういう子どもにすること。
それが、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。
子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1) 生活感のある生活に心がける。

ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。
あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。

(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。

(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。

(4)生活のルールを守らせる。

(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、

(6)バランスのある生活に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。

あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。
チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。
ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
それを忘れてはならない。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。