2012年7月22日日曜日

A High School Boy’s Suicide

【平坦化する人の心】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

久しぶりに、市内(浜松市肴町→田町)の繁華街を歩いてみた。
JR浜松駅から、5~10分の距離である。
大通りから、中通へ。
その間に、車がやっと入れるほどの小通りもある。
が、驚いた。

「テナント募集」の看板が、あちこちにかかげられていた。
シャッターを下ろした店も多い。
荒れた姿をさらしている空き店舗もあった。
夜逃げでもしたか。
そんな感じだった。
さらに……。
すでに更地になり、駐車場になっているところもあった。

「こんなひどい状況とは知らなかった」と私。
「ひどいわね」とワイフ。

店だけではない。
目を少し上に向けると、空き室の張り紙をしたビルも目立つ。
「市内で、30%が空き室になっている」という話は聞いていた。
が、実感としては、50%。

いったい、この日本はどうなってしまったのか?
この浜松は、どうなってしまったのか?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●文化の「根」

 町の活気を維持するのは、商店主たちである。
地元で、店を構える商店主たちである。
デパートやスーパー、それに大型店ではない。
サラリーマンとして働く、店員たちには、「根」をおろす力はない。
商店主たちである。
商店主たちが、その地域に「根」をおろし、ついで「文化」の花を咲かせる。
この「根」こそが大切。

 が、その商店主たちが、どんどんと姿を消している。
シャッター街を例にあげるまでもない。
客にとっては、買い物のしやすい街になるかもしれない。
明るく広い店内。
冷暖房もきいている。
目が合えば、「いらっしゃいませ」とていねいに、おじぎもしてくれる。

が、何か、おかしい。
何か、足りない。
何かが、欠けている。
その欠けた部分が、「地域文化」ということになる。

●祭り

 祭りを例にあげて考えてみよう。
たとえばこの浜松市には、凧(たこ)祭りという、東海地方では最大級の祭りがある。
毎年40~50万人の見物客が集まる。
この凧祭りは別として、ほかにも、いろいろな祭りがある。
が、どれもパッとしない。
言うなれば、お役人が企画したような官製の祭り。
中には、「サンバ祭り」というのもある。
ブラジルのカーニバルを、ミニチュア化したような祭りである。
 
 が、私ですら、見に行ったことがない。
それにもし私のワイフが、その祭りに参加すると言ったら、……というか、参加しない。
ハンカチより小さな水着を身に着け、街中を歩く。
スケベな連中には楽しい祭りかもしれない。
しかしそんな祭りに、「根」など、生えるわけがない。

 ほかにも、「がんこ祭り」というのもある。
全国から、踊り好きの人たちが集まり、それぞれの踊りを披露する。
が、これも官製。
この祭りにも、「根」がない。
「がんこ」というのは、浜松弁で、「大きい」とか、「強い」とかを意味する。

 「根」が生えるためには、その地域の、「下」からの盛りあがりが重要。
近所の人たちが集まり、踊りの練習をする。
その練習の輪が大きくなって、町内の人たち全体が動く。
それが「祭り」となっていく。
その原動力となるのが、「根」。

●平坦化

 かくして祭りでさえも、平坦化した。
凧祭りにしても、役人による規制、規制、また規制で、今ではまったくおもしろくない。
昔の凧祭りを知っている人なら、なおさらそう思うだろう。
今では、それぞれの町内が発行するワッペンを購入し、ちょうちんをもたないと、道路を歩くことさえできない。
練り(行進)にしても、世話役が先導し、コースそのものが決められている。
だれかが笛を吹いたら行進し、まただれかが笛を吹いたら、停止する。

 が、40年前はちがった。
それぞれの町内の練り隊が、随所で衝突した。
怒号と罵声が飛び交い、人の湯気があたりを包んだ。
そのあと、救急車が、何台も狂ったように走り回った。
そのころの祭りを、「犬」にたとえるなら、現在の祭りは、「ウサギ」。
さらにそれ以前の祭りは、「野獣」だった……という。

●季節感

 こうして文化そのものが、平坦化した。
ついでに季節感も平坦化した。
先ほども、ワイフとこんな話をした。
「ぼくたちは、寿司といっても、正月しか食べられなかった」と。

 が、今はちがう。
毎日でも食べられる。
それに冬場でも、スイカが食べられる。
夏場でも、ミカンが食べられる。

●人間関係

 ついでに言えば、人間関係も、平坦化した。
親戚づきあい、近所づきあい、それに親子関係など。
そうした現象を、多くの人は、「都会的」という言葉を使って、説明する。
「進歩」とか、「近代化」とかいう言葉を使う人もいる。
が、都会的って、何?

 日本人は、戦後のあの高度成長期の流れの中で、自ら「根」を切ってしまった。
「都会的」という言葉の中で、自分を見失ってしまった。
それを「善」とするあまり、大切なもの、大切にしなければならないもの、それまで大切にしてきたものを、切り捨ててしまった。
たとえば親子関係にしても、今では、子どもの方が親に向かって、「縁を切る時代」になった。
『親の恩も遺産次第』という言葉も聞かれる。
想像で書いているのではない。
R25がした調査結果を、もう一度ここで読んでみてほしい。
この調査結果には、考えさせられた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

**********以下、R25の調査結果より***********

R25が首都圏・愛知・大阪に住む25歳から34歳の男性300人に実施したアンケートでは、「社会人になって(就職した後)、親からお小遣いをもらったことはありますか?」の問いに対し、「今も継続的にもらっている」が3%、「今もたまにもらっている」が11.3%、「以前にもらったことはあるが、今はもらっていない」が30%、「もらったことはない」が55.7%となっている。

 「今も継続的にもらっている」「今もたまにもらっている」と回答した人に「どれくらいの頻度で、お小遣いをもらっていますか?」と聞いたところ、最も多かったのは「月に1回程度」(27.9%)。以下、「4~6カ月に1回程度」(23.3%)、「2~3カ月に1回程度」(18.6%)、「7~12カ月に1回程度」(18.6%)となっており、わずか1名ながら「毎週もらう」との回答もあった。

「1回にもらう金額」については「1万円以上~2万円未満」が最も多く44.2%。
以下、「1万円未満」(27.9%)、「2万円以上~3万円未満」(18.6%)と、3万円未満との回答が合計90.7%を占めているが、なかには「7万円以上~10万円未満」(4.7%)、10万円以上(2.3%)とかなり親に依存している人も。
ちなみに、親から援助してもらったお金をどのように使っているのかというと「食費」(48.8%)や「交際費」(44.2%)「レジャー費」(37.2%)といった回答が多かった。

 このように、社会人になっても親の財布をアテにして生計を維持している若者は少なからず存在する模様。
なんだか情けないような気もするが、彼らにも彼らなりの言い分があるようだ。

★「時々もらうものに対しては、親が子どもに威厳を保ちたいような感情があるので、喜んでもらっている感じです」(34歳男性)

★「社会人たるもの、必要な資金は自分で調達するべきだが、親の好意に甘えるのも時には必要。親もそれで喜んでくれるのであればなおさら」(28歳男性)

★「こちらから欲しいと言って貰う訳ではないし、これはこれでいいかと」(26歳男性)

★「極力避けたいが、キャッシングとか利用するよりはいいかなと思う」(34歳男性)

★「家族によって違うとは思うが、援助したりされたりすることで繋がりを持っていたいと思う」(26歳男性)

★「ちゃんと働いていて、さらに親から貰えるならいいと思う。使われなかったものは多くの場合、遺産として自分のところに最終的に入ってくるので、いつもらうのかという話」(29歳男性)

 とくに多かったのは金銭の授受によって、別々に暮らす親子のつながりが生まれるという意見。
実際、援助することに喜びを感じる親は少なくないため、仕送りを受け取ることが親孝行になるとの考えもあるようだ。

 また、仕送りではなく、別の形で親から資金援助を受ける人も少なくない。
例えば人生の節目である結婚に際し、費用を親・親族から援助してもらった人は75.8%。
援助額の平均は196.9万円となっている(ゼクシィ「結婚トレンド調査2011」より)。
また、新居を建てる際には54%の人が親・親族からの資金援助を受けており、そのうち1500万円以上の援助を受けた割合は11.4%にも上る(SUUMO「住居に関するアンケート2011」より)。

**********以上、R25の調査結果より***********

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●若者たちの言い分

 若者たちには若者たちの言い分というものがある。
「お金をもらってやるのが、親孝行」とか、「どうせ遺産でもらうのだから」とか、など。

上述(★)印のところを、もう一度、読んでみてほしい。
現在、親子の関係も、ここまで平坦化している。
……と書いても、これは脳のCPUの問題。
平坦化した時代に、平坦化した人間関係しか知らない人に、平坦化を説明しても、意味はない。
理解すらできない。
それが(当たり前)という世界に生きている。
が、その一方で、みながみな、そうええはない。
ここ1週間、私は2組の親子に出会った。
実に温もりのある、2組の親子である。

(1) 歯科医院
 
 その歯科医院には、大先生と呼ばれる70歳前後の医師と、30歳前後の医師がいる。
大先生は、父親、30歳前後の意思は、その娘。
受け付けは、その大先生の三女が受け持っている。
その間を行き来し、看護師をしているのが、母親。
家族経営。

 みなが、実に楽しそう。
和気あいあいといった雰囲気。

(2) 日本料理店
 
 その店は、明治以来の店という。
何代目かは知らないが、現在は、60歳前後の父親が経営している。
家族は、上から長女、長男、二女。
長男は、京都での長い修行を終え、最近、その店で父親を手伝うようになったという。

 私とワイフが行くと、長女と次女、それに母親が、その店を手伝っていた。
小さな日本料理店だったが、そうした団結心は、そのまま料理に表現されていた。
端に並べるような目立たない器(うつわ)ですら、ピアピカに磨かれていた。

 少なくはなったが、そういう形で、親子関係を大切にしている家族もある。

●孤独死

 話はぐんと暗くなる。

 この先、孤独死、無縁死は、当たり前。
私たちの世代は、まだよいほう。
2050年……つまり今から、38年後。
逆算すると、後期高齢者と言われるのが、75歳。
75-38=37歳。
現在、37歳の人たちが、75歳前後になるころの話である。

そのころになると、老人1人に対して、実労働者は、たったの1・2人になるという。
いろいろ対策は考えられてはいるが、そうなったら、介護制度そのものが崩壊する。
(すでに崩壊し始めているが……。)

 が、そんな状況でも、社会に(温もり)があれば、まだよい。
温もりが、人と人をつなぐ。
たとえ孤独死であっても、無縁死であっても、心安らかに死を迎えることができる。
が、そうでなければ、そうでない。
つまり平坦社会においては、結局はそれに苦しむのは、その人、当人ということになる。

●教室で

 今夜、高校生たちと、こんな会話をした。

 「ぼくが子どものころは、親父は店先で、客と将棋を指していた」と。

高「仕事は?」
私「客を待たせていたよ」
高「待っていてくれたの?」
私「そうだ。そこへ別の客が来ると、その客まで、将棋に加わった」
高「怒らなかったの?」
私「怒る人はいなかったね」と。

 私の実家は、自転車屋だった。
道路へ自転車を並べても、怒る人はいなかった。
道路そのものが、仕事の場であり、ついでに言えば、子どもの遊び場だった。
が、今は、ちがう。
どうちがうかは、みなさん、ご存知の通り。

 こんな話をすると、1人の生徒が、こう言った。
「じゃあ、先生、将棋をしてみようよ」と。

●殺風景な光景

 その前に、こんな話もした。
繁華街の一角には、大手進学塾のビルがいくつか並んでいた。
外からのぞくと、スーツに身を包んだ社員たちが、パソコンを相手に、何やら仕事をしていた。
隣の部屋が、学生たちの談話室になっていた。
そこでは4~5人ずつくらいのグループに分かれ、学生たちが何やら話しこんでいた。
全部で、40~50人くらいは、いただろうか。

 見るからに殺風景な光景だった。
味も素っ気もない……。
すべてが事務的。
そんな光景だった。

 その話をしたときのことだった。
1人の生徒が、こう言った。
「じゃあ、先生、将棋をしてみようよ」と。

 一瞬迷ったが、私は、こう答えた。
「そうだな……。塾で、将棋かア……。いいねエ」と。

●時間的パラドックス
 
 私は将棋盤を持ち出すと、1人の生徒と将棋を始めた。

私「時間的パラドックスという言葉があるよ」
高「何、それ?」
私「いいか、こうして将棋を指して、時間を無駄にするだろ」
高「うん、無駄だ……」
私「ところがね、そういう時間のほうが、あとあと記憶の中に、長く残るというわけ」
高「思い出にもなるしね」
私「そう、それを時間的パラドックスという」と。

 高校生たちは、恐らく、私のところで勉強したことは、すべて忘れる。
が、将棋を指したことは忘れない。
無駄にした時間ほど、無駄にならない(?)。

●温もり

 温もりというのは、心のすき間から生まれる。
去年、オーストラリアへ行ったときのこと。
こんなことがあった。

 メルボルン市(オーストラリア)で、オーバーランド号という列車に乗った。
アデレード行きの長距離列車である。
で、その列車が、メルボルンから1時間半ほどのところにある、ジーロンという町
に着いた。
予定より、20分も早く着いた。
そのとき車内アナウンスが流れた。

「20分早く着いた。ここで客が17人乗ることになっている。
その客を待つ」と。

 しばらくすると、何人かの客が、プラットフォームを歩いていくのが見えた。
それがその17人の客だった。
その直後、また車内アナウンス。
「客が乗ったので、出発します」と。

 ご存知のように、日本では、ぜったいにありえない光景である。
私はその「不完全さ」に、たまらないほどの「温もり」を覚えた。

●温もり

 この先、ここでいう平坦化は、ますます進むだろう。
すべてがさらに合理的、事務的になる。
よい例が、ファーストフードの店。
客は、空腹感を満たすことだけを考え、店に入る。
店員との人間関係など、結びようがない。
店員にしても、定期的に、店から店へと移動していく。

 さらにそれが進んだのが、新幹線の駅であり、空港ということになる。
それらしいサービスもしてくれるが、そのサービスそのものが、平坦化している。
冷たい。
どこまでも冷たい。

 だから……先に書いた歯科医院へ入ったとき。
先に書いた日本料理店へ入ったとき。
私は言いようのない、温もりを覚えた。

●進む平坦化

 個人商店が、つぎつぎと姿を消す。
もともと大型店には、勝ち目はない。
年中無休。
夜、9時まで営業。
宣伝の仕方まで、戦略的。
組織的。

 が、その一方で、社会はさらに平坦化する。
人々の心も平坦化する。
教育の世界とて、例外ではない。
この静岡県でも、たとえば子どもが学校でケガをしたとする。

 そのとき首から上のケガは、教師が一度、かならず医院へ連れていくことになっている。
そのあと、その子どもといっしょに家庭まで行き、ケガの説明をすることになっている。
それがマニュアル化されている。
私が子どものころには、そんなケガは日常茶飯事。
教師はもちろん、親たちも、何も問題にしなかった。

 心のすき間が、ますます小さく、ぎこちないものになっている。

●すき間を大切に

 平坦化を防ぐためには、心のすき間を広くする。
もっとわかりやすく言えば、(いいかげんさ)を大切にする。
またそれを許容する、心の度量を広くする。

 ……とは言いつつも、生徒の1人と将棋を指しながら、こうも考えた。

 「10年来のつきあいのある生徒だからいいようなものの、もしこれが進学塾だったら、即、クビだろうな」と。
「学校の教師でも、クビになるかもしれない」とも。
「教師が授業中に、生徒と将棋を指して、サボっていた」とか、何とか。

 ……しかしそれにしても、どうして日本の社会は、こうまでギスギスになってしまったのか。
余裕がないというか、余裕を認めない。
認めないばかりか、余裕のある人を、異端視する。
排斥する。

 その結果が今。

 駅前には、また別の大きなデパートができた。
もうひとつ、別の大きなデパートも建設中。
この先すぐ、シャッターを下ろす商店は、ますますふえるはず。
地域の根は切られ、社会はますます殺伐としたものになる。
人の心も、ますます殺伐としたものになる。

(浜松市の行政担当のみなさんへ)

 「町の活性化」という言葉をよく耳にする。
しかし町の活性化は、個人の商店主によって生み出される。
また個人の商店主を忘れて、町の活性化はない。

 その個人商店主たちを生かさないで、何が町の活性化?
私も、その個人商店の出身だが、私が知るかぎり、行政による保護、補助など、聞いたことがない。
受けたことがない。
考えてみれば、行政そのものが、平坦化している。
すべてが事務的になってきている。
それについては、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 平坦化 地域文化 平坦化 個人商店主 個人事業 地域文化の根 はやし浩司 大型店 シャッター街)
2012/07/22


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【滋賀県大津市での、中2男子の自殺問題について考える】

●強力な負のエネルギー

 自殺するには、それなりの強力な負のエネルギーが必要。
「必要」という言い方も変だが、簡単にはできない。
言い換えると、その中学生は、かなり追い込まれていた。
繰り返し襲い来る絶望感の中で、負のエネルギーを増大させていった。
つまりその中学生は、それほどまでに悩み、苦しんでいた。
その結果として、不幸にも、「自殺」という方法を選んだ。
その子どもの、そのときの気持ちを思いやるに、心の痛まない人はいない。

●大津市での事件

 で、テレビやネット、新聞などの報道を読みながら、最初に私はこう思った。
「これはいじめではなく、犯罪行為だ」と。
つまり当初から、教育レベルの問題ではなく、警察レベルの問題である、と。
事実、こうした問題が起きたばあい、アメリカやオーストラリア、それに欧米では、即、警察が介入してくる。
教育制度のちがいも、大きい。
さらに言えば、教育に対する親たちの意識も、ちがう。

●家出も学校の責任?

 たとえば子どもが家出をしたとする。
小学生でも中学生でもよい。
そういうとき、この日本では、親たちはまず学校に連絡する。
担任の電話番号がわかっていれば、担任の教師に電話をする。

 一方、欧米では、即、警察に電話する。
学校ではない。
警察である。
欧米の学校では、教師たちは、教室内の事件(学校内ではなく、教室内!)については、その教室の教師が、全責任を負う。
が、生徒が一歩、教室を出れば、教師には、いっさい責任はない。

大病院の医療制度を思い浮かべればよい。
医師は、診察室での行為、治療、助言については、すべての責任を負う。
しかし患者が一歩、診察室の外に出れば、医師は、いっさい関係ない。
患者がどこで何をしようが、関係ない。
欧米、とくにカナダの学校は、そういうシステムになっている。

 いわんや学校外での事件については、学校側には、いっさいの責任はない。
何か事件が起きても、責任を問われることはない。
が、この日本では、子どもが家出をしただけでも、親たちは、まず学校に連絡する。
なぜか?
この意識のちがいは、大きい。

●学校は絶対

 その中2の男子は、日常的に、いじめを受けていたという。
親たちも、自分の子どもがいじめを受けているのを知っていたという。
子どもも、ときどき「学校へ行きたくない」と漏らしていたという。
学校に対して、何らかの対策を取るよう、相談もしていたという。
 
 が、私はここで最初の疑問にぶつかる。
ただこう書くからといって、けっして、その親を責めているのではない。
が、欧米なら、(少なくともアメリカやオーストラリアなら)、そういう話を親が知ったら、まず子どもをして、学校を休ませる。
もとから「学校とは行かねばならないところ」という意識が薄い。

 が、この日本では、事情がかなり異なる。
最近も、こんなことがあった。

●拒食症

 ある子ども(小1女児)が、学校で給食を食べなくなってしまった。
病院へ連れて行くと、「拒食症」と診断された。
神経症的な症状のひとつである。

ジョンソンの学校恐怖症の診断基準に照らし合わせるなら、第1段階。
つまりこうした症状が重なり、それが限界に達したとき、第2段階の「パニック期」に突入する。
たいていそのまま第3期、つまり不登校期に入る。

 こういうケースのばあい、原因探しをしても、意味はない。
ともかくも、そのあと医師が出した結論は、こうだった。
「すべてのおけいこごとを、やめなさい」と。
医師は、おけいこごとからくる過負担が、拒食症の原因と考えた。
あるいはそれによって、過負担を少しでも減らし、子どもの心の緊張感をやわらげようとした。

 その話を聞いたとき、私は即、こう考えた。
話がアベコベ、と。
「こういうばあい、オーストラリア人の友人ならどうするだろうか」と。
あるいは「息子(アメリカ在住)なら、どうするだろうか」と。

 学校という場で、拒食症になったら、原因は学校にある。
おけいこごとは遠因かもしれないが、直接的な原因ではない。
オーストラリアの友人や、私の息子なら、学校を休ませる。
学校に相談するとしても、そのあと。
(PTAが、教師の人事権をもつ国(学校)も多い。)

 が、日本人は、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、ものを考える。
子どもに何か神経症的な症状が出ても、「原因は学校にあるはずがない」という大前提で、ものを考える。
(医師のような高学歴者ほど、そのように考える傾向が強い。)

 が、中には、この私のように、集団が苦手な子どもだっているはず。
回避性障害や対人恐怖症の子どもだって、いるはず。
そういうことをいっさい無視して、「おけいこごとはすべてやめなさい」は、ない。
実際、その子どもは、そのあと、おけいこごとをすべてやめてしまった。

●事なかれ主義?

 滋賀県大津市での事件を追いかけてみていると、親のみならず、マスコミにも、似たような意識を感ずる。
みな、「学校とは行かねばならないところ」と考えている。
それを大前提に、今回の自殺問題を考えている。
ある新聞は、こう書いている。
「学校側の事なかれ主義ばかりが目立つ」と。

 本当にそうか?
そう考えてよいのか?
「事なかれ」とは言うが、学校の教師の多忙さは、想像を絶する。
体力の消耗もふつうではない。
活発盛りの子どもを、30~35人も相手にすれば、ふつうの人でも1~2時間でヘトヘトになる。

●重労働

 繰り返す。
 学校、とくに小中学校の教師の忙しさは、ふつうではない。
空き時間にしても、文科省のカリキュラム通りに指導していたら、週に2~3時間もない。
(週に、だぞ!)
だからどこの中学校でも、今では授業中は、職員室に教師はほとんどいない。

 一方、相手は育ち盛りの中学生。
まさに発情期の子どもたち。
そういう子どもたちを相手に、授業をする。
1人や2人ではない。
30~35人!
それがいかに重労働であるかは、外の世界の人には、理解できない。
たとえば女性教師のばあい、50歳を過ぎると、たいてい退職していく。
体力的な限界が、理由と考えてよい。
ある小学校の校長は、こう話してくれた。

「たとえば水泳指導がひとつのきっかけになることが多いですね」と。
つまり水泳指導ができなくなったとき、退職していく、と。

●いじめ

 さらに言えば、学校の教師が子どもたちのいじめを把握するのは、現実には不可能。
教師の前でいじめをする子どもはいない。
教師のいないところで、する。
「指導不足」とか、「監督不行届」という言葉も見える。

その上、(いじめ)と(ふざけ)、さらに(遊び)の境界は、きわめてあいまい。
ベテランの教師でも、見分けるのは、不可能。
今回の事件でも、(いじめ)がつぎつぎと発覚しているが、それはあとになってはじめて、わかること。
「そう言えば、いじめがあった」と。

 さらに教師が現場へかけつけたとしても、いじめられた子どもが、「いじめられています」などとは、ぜったいに言わない。
仕返しを恐れる。
今回の事件でも、一度は、教師が現場へかけつけている。
そのときの様子について、TBS-iは、こんな記事も載せている。

『……滋賀県大津市で男子生徒が自殺した問題で、自殺の6日前、学校側が別の生徒から「男子生徒がいじめられている」と報告を受けたものの、「けんか」と判断していたことが分かりました。

 大津市教育委員会によりますと、男子生徒が自殺した6日前、担任の教師が、「トイレで男子生徒がいじめられている」と別の生徒から連絡を受けました。
教師がトイレにかけつけ男子生徒から話を聞いたところ、男子生徒は「大丈夫」と答えたということです。
学校側はその後、教員らで対応を話し合いましたが、男子生徒と同級生による「けんか」と結論づけたということです。

 「いじめであるという認識は持っていなかった。
通報者はそういった形(いじめ)で言ってきたが、当事者に聞いていくなかで、けんかだと判断した」(男子生徒が通っていた中学校の校長)

 校長は、「私どもの対応は不十分であったと認めざるを得ない」と述べました』(以上、TBS-iより、2012年7月15日)と。

●犯罪行為

 ……こう書くからといって、いじめた子どもを擁護しているのではない。
いじめは、避けられないと書いているのでもない。
先ほども書いたように、今回の事件は、(いじめ)ではなく、(いじめ)の範囲を超えた、(犯罪)。
「犯罪的な行為」ではなく、「犯罪」。
犯罪そのもの。
責められるべきは、いじめを繰り返した子どもたち。
その監督責任のある、親たち。
刑事罰を受けてもおかしくない。
それをさておいて、「学校は何をしていた!」は、ない。

 率直に言えば、学校の責任を追及するにも、限度があるということ。
さらに言えば、こうした(いじめ)の背景には、現在の(学校制度)そのものがもつ、制度的疲労がある。
仮にこうした(いじめ)まで学校側の責任となると、現在の制度と人員では、対処は不可能。
さらにそこまで子どもたちを管理してよいかという問題もある。

●アメリカでは……

 アメリカでは、(ニュージーランドもそうだが)、子どもたちは、1時間ごとに、教室を移動する。
たとえば生物の時間には、生物の教室に、地理の時間には、地理の教室に。
日本でいう担任制度というのは、ない。

 その移動時間。
5分しかない。
たったの5分。
だからアメリカでは、終業ベルなると、廊下は、戦場のようなあわただしさになる。
で、私がなぜ「たったの5分しかないのか?」と聞くと、ニュージーランドから来た留学生(当時、大学生)は、こう教えてくれた。
「生徒どうしの接触時間をなくすため」と。

 そして子どもたちは、学校の門をくぐったとたん、学校との関係をすべて切る。
門から出たら、親の責任になる。
どんな事故が起きても、親の責任になる。
学校ではなく、親の責任。

 これに対して、この日本では、子どもが「行ってきます!」と言って、家を出た瞬間から、学校の責任になる。
法律上は、そうなっている。
たとえば帰校時に、子どもどうしで何かのトラブルがあったとする。
喧嘩なら、喧嘩でもよい。
で、子どもがケガをしたりすると、親は、即、学校に電話する。
中には校長室へ駆け込む親もいる。
「ちゃんと指導してほしい」と。
つまり、ここに無理がある。

●いじめ

 繰り返す。
陰湿ないじめを繰り返し、別の子どもを自殺に追い込んだ子どもは、それなりの刑事罰を受けるべきである。
(もちろんそれを判断するのは、学校ではなく、警察。)
もちろんこの年代の子ども(=18歳未満の子ども)は、少年法の適応を受ける。
収監ではなく保護、刑罰ではなく更正教育。
それが少年法の骨子だが、それを逸脱したばあいには、刑事罰の領域に入る。

(少年法は、量刑の軽減を規定しているが、刑事罰までは否定していない。
たとえば、「死刑をもって処断すべき場合は無期刑にしなければならないとする」など。)

 今回の事件が、それに相当するかどうかは、今の段階ではわからない。
過去の事例をみると、少年院送致程度で終わる可能性は高い。
しかしそれでは、被害者の親はもちろん、世間一般は、納得しないだろう。

●法的合理性

 ともあれ、すべての責任を学校に求めるのは、現実問題として、合理性に欠ける。
「法的合理性」という言葉を使ってもよい。
学校の教師が、直接的にいじめに加担したとか、教唆したというのであれば、話は別。
さらに言えば、こうした(いじめ)の背景には、抑圧された子どもたちの(ゆがんだ心理状態)がある。

 たとえば子どもは受験期にさしかかると、(ちょうどそのころ発情期に重なるのは、まことにもって悲劇的でもあるが)、心が別人のように殺伐としてくる。
加害者と呼ばれる子どもたちにしても、ひょっとしたらそういう社会的環境の犠牲者かもしれない。
(だからといって、こうしたいじめを正当化することはできないが……。)

 要するに私が言いたいことは、つぎのこと。

 日本人も、もうそろそろ、学校絶対主義、学校万能主義という幻想から、目を覚ますべきときに来ているのではないかということ。
学校といっても、中身は、教師というサラリーマン(サラリーマンが悪いというのではない。誤解のないように!)。
その教師に、神に近い監督義務、指導責任を求めるのは、もとから無理がある。
つまりこれが私が先に書いた、「制度的疲労」ということになる。

●学校以外の選択肢

 さらに言えば、現在のように、学校を離れて道はなく、学校以外に子どもたちの進むべき道に選択肢がないというのは、どう考えてもおかしい。
文科省が、すべての子どもを管理している。
そのほうが異常であることに、親も、マスコミも、そして医療関係者、警察も気づくべきときに来ているのではないのか。

 ドイツ(中学校)では、子どもたちはたいてい午前中で授業を終え、あとはそれぞれがクラブに通っている。
サイクリングクラブ、水泳クラブ、各種語学クラブ、科学クラブ……などなど。
フランスでも、イタリアでも、そうである。
仮に学校で子どもが拒食症になったとしても、「クラブをすべてやめなさい」と言う、アホな医師は、少なくともドイツにはいない。
「学校を休みなさい」とは言うだろうが、「クラブをすべてやめなさい」とは言わない。

 もちろん学内での犯罪行為も多いが、あればあったで、即、パトカーが突入してくる。
子ども自身が、学校内部から、警察を呼ぶことも多い。

 言うまでもなく、学校は、「教育」をするところ。
病院が病気を治すように、教育をするところ。
それを生活指導から道徳、はては親の教育まで受けもつから、話がおかしくなる。
だから学校の教師は、そのつど責任を問われる。
「何をしていたんだ!」と。

●方法

 何とも言えないやりきれなさを覚えるのは、私だけだろうか。
まず第一に、学校の教師たちも、すべてを背負い込まないで、こう叫んだらどうだろうか。

「すべてを管理することは不可能です」と。
「私たちにもできることと、できないことがあります」と。

 第二に、その一方で、親やマスコミも、学校万能主義をそろそろ捨てるべきときにきている。
「何でもかんでも、学校」という考え方には、無理がある。
とくに今回のような犯罪が起きたばあいは、そうである。
監督や対応、指導が不十分と、学校を責めるのは簡単。
しかし現実問題として、そこまで監督、対応、指導するのは、不可能。
そもそもそれだけの「時間」がない。
が、もしそこまで監督、対応、指導せよというのなら、教育権の強化しかない。
専門の担当教師を増員するしかない。
警察官による巡回も、許すしかない。
ほかにたとえば小中学校でも、「自宅待機処分」「登校停止処分」「警察への通報」。
さらには「退学、転校処分」を可能にする、とか。
そういう権限を、学校側に与える。

●校長の自殺

 ……たまたま昨日も、どこかの校長が、自殺した。
理由はまだはっきりしていないが、いじめ問題がからんでいる可能性が高いという。
その一方で、S市では、いじめを苦にして、1人の中学生が飛び降り自殺(?)を試みたというニュースも伝わってきている。

 Yahoo・Newsは、つぎのように伝える。

『 S県S市の中学校で、いじめを受けていた男子生徒が校舎から飛び降りて大けがをした問題で、学校側は21日に緊急の保護者会を開きました。

 被害生徒が通う中学校の校長は、つぎのように述べている。
「これまでの私たちのいろいろな教育活動が不十分であることから、こういう問題になっている。足元から見つめ直していきたい」

 中学校によりますと、保護者会には約400人が出席し、「校長の認識が甘い」などといった批判も相次いだということです。
 出席した保護者は、「(学校側は)いじめかどうか、まだはっきりと分かっていなかった感じ」「まだ納得していない保護者もいた」と。

 保護者会に出席した被害生徒の母親は、「学校側は事実をすべて話してくれなかった」と不信感をあらわにしています』(以上、Yahoo・Newsより)と。

 なおアメリカでは、ホームスクーラーが100万人を超え、今では200万人を超えている。
そうした子どもたちのために、州政府は、ホームスクール児ために教師まで派遣している。
「いいじゃないの、学校なんて。行きたくなければ行かなければ。その分、自分で勉強しなさいね」と。
日本も、そうした制度を考えるべき時期に来ているのでは?
つまりそういう意識を、親や教師がもたないかぎり、こうした不幸な事件は、いつまでもつづく。

●(補記)

 たまたま先週のこと。
ある中学生(中1女子)が、こう言った。

「うちのクラスのM君ね、毎日、コンちゃん(=コンドーム)を学校へもってくるよ。今日はね、ラブホテルのポイントカードをもってきて、みんなに見せていた」と。

 高校生がコンドームをもっているというのは、よく聞く話。
放課後の部室は、ラブホテルのようと、みな言っている。
しかしそれが今では、さらに低年齢化した。
中学1年生!

 私はその翌日、その学校に通報した。
生活指導の教師と、10分ほど、話した。
もちろん学校側の指導を責めたのではない。
責めても、意味はない。
ただこうした生徒が1人でもいると、1~2年後には、多くの子どもたちがその影響を受けることになる。

 たとえば市内のX中学校では、毎年、2~3人の女子中学生が、中絶手術を受けているという(X中学生活指導担当教師弁)。
が、この数とて、まさに氷山の一角。
今、この段階で、そのM君(発達心理学の世界では、「アジテーター」(扇動者)と呼ぶ)を、適切に指導することにより、そうした被害者を、少なくすることができる。

 ほかにも生徒の家出、外泊、万引きなどなど……。
学校の教師がかかえる問題は、山のようにある。
いじめ問題は、その中のひとつにすぎない。

 なお教育評論家のO氏は、今回の滋賀県大津市での中学生の自殺問題に触れ、H大学での講演会で、つぎのように述べたという。

「教育委員会に責任がある」「教師がもっと自由に教育できるようにすべき」(報道)と。
そういう意見もあるだろう。
が、私には、的をはずれているようにしか思えない。
もっとはっきり言えば、トンチンカン。

 以上、どこか学校側を擁護するようなエッセーを書いた。
あまりにも学校側ばかりを責める報道ばかりがつづく。
自殺した子どもの立場で考えると、どうしてもそうなる。
その心情は、冒頭にも書いたように、よく理解できる。
が、学校側を責めるだけでは、こうした問題は解決しない。
それを伝えたくて、このエッセーを書いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 中学生の自殺 いじめ問題 はやし浩司 いじめによる自殺 学校側の対応 はやし浩司 制度的疲労)
2012/07/22


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。