2012年7月13日金曜日

Am I crazy?

【ホームページからのアクセスについて】

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7月14日現在、私のHPから、それぞれのページへの
アクセスが、できなくなっています。

サーバーの故障です。
「72時間内に修復する」とのこと。
不便をおかけしますが、今しばらく、お待ち下さい。

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【私は異常者?】

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

このところ、たてつづけに、2つのコメントが届いた。
同一人物からのものと思われる。

ひとつは、「同じ内容のBLOGを5つも発行しているのは、異常だ。
異常者が教育論を説くな」という内容のもの。

もうひとつは、YOUTUBEに関して、「3600本もUPしているのは、どう考えても異常だ。あなたは偏執狂だ」という内容のもの。

反論する。

(1)同じ内容のBLOGを5つ、発行する

 最近は落ち着いてきたが、当初は、無数のBLOG・サービスが、生まれ、そして突然、連絡もなく消滅していった。
そのつど、それまで書いた原稿が、どこかへ消えてしまった。
そういう苦い経験による。
そういう苦い経験があるから、私は複数のBLOGを発行している。

 さらに、それぞれのBLOGには、特長(良い点、欠点)がある。
HTML形式の文章を載せないところ。
量に限界があるところ。
ワクが狭くて、写真など、両端が切れてしまうところ、など。
楽天などは、禁止用語を使うと、UPLOADを拒否されてしまう。
さらにBLOGを発行すると同時に、検索エンジンに載せてくれるところもある。
(=即、グーグルなどの検索エンジンで検索できるようになる。)

 だからどうしても複数のBLOGを出さざるを得なくなる。
そういう理由があって、私は現在、同じ内容の文章を、複数のサービス会社を使って発行している。

(2)YOUTUBEについて

 世界は、広い!
 
 アメリカの学校などは、それぞれの学校が、数千本~1万本以上も、YOUTUBEにUPしている。
それを意識しているわけではないが、どうしてこの日本では、こうして「出る杭を叩く」ような攻撃ばかりするのか?
それで文句があるなら、あなた自身も、この私ではなく、世界を相手に、数千本の動画をUPLOADすればよい。

 YOUTUBEに動画をUPするようになって、もう10年になる。
毎日1本ずつでも、3600本になる。
結果として、その数だけを見て、「異常者」はない。

 さらに一言。

 YOUTUBEもそうだが、BLOGなどは、日本語と英語の両方で、出している。
Goo-Blogがそれである。
が、外国からのアクセスの方が、2~3倍もある。
世界の人口が、日本の50倍以上もあることを思えば、当然のことである。

 私を「異常者」と呼ぶ前に、目を外に向けろ!
目と心を開いて、外の世界を見ろ!
相手は、世界だぞ!

 ということで、今日も始まった。
 

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ぼたんインコ

 ぼたんインコの利口さには、驚く。
毎日、その連続。
4月初旬生まれとして、今日で1か月半。
ほぼ羽毛も生えそろい、成鳥らしくなってきた。

 たとえば言葉。
もちろん人間の話すような言葉はもっていない。
しかし鳴き方で、それを示す。

いやなとき……グアグア
餌を食べるとき……チチチ
何かしてほしいとき……ピーッ、ピーッ
探検するとき……ピヨピヨと小刻みに鳴く
怖いとき……グアーッ、グワーッ、ほか。

 好奇心は旺盛。
そのくせ気が小さい。
大きな物音を聞いたりすると、近くのタオルの中に首を突っ込んで小さくなっている。
犬のぬいぐるみが怖いらしく、5~6メートル離れたところからでも、それを見つけると、威嚇行動に出る。

 いっしょに遊んでやると、うるさそうに私を無視する。
そのくせ私が無視すると、ちょっかいを出してくる。
ワイフは、ときどき「人間の子どもみたい」と言う。
が、この段階では、人間の子どもより、はるかに利口。
ネットの記事などを読むと、成鳥で3歳前後の知能があるという。

 育て方をまちがえると、あの鋭いくちばしで、耳たぶをかみ切ることもあるそうだ。
が、今のところ、うちのインコは、やさしく穏やか。
頬や唇、それに耳たぶをかむときも、力を入れない。
やわかみ。
そのつど、ピーピーと鳴きながら、甘えてくる。

 何とかこのまま育ってくれればよいのだが……と願う点も、人間の子ども、そっくり。

●ニンニク

 この数日、何かにつけ、調子がよくない。
パソコンの前に座っても、ぼんやりしているだけ。
けだるい疲労感。
それなりに運動はしているが、その効果がない。

 ……ということで、昨日は、ビタミン剤を、いつもの2倍のんだ。
というか、こういうときは、ニンニクが効果的。
今日は土曜日だから、夜、そのニンニクを食べるつもり。
刺身にニンニクをつけ、それを白いご飯の上にのせる。
この浜松で覚えた、刺身の食べ方。
それを食べると、視界がパッと明るくなる。
視力がよくなるためではないか?

 一説によると、ニンニクには、興奮作用と鎮静作用が、同居しているそうだ。
それがあの独特の効果となって現われる。
学生時代に、どこかの科学者がそう話してくれたのを、覚えている。

 こういうときは、電子マガジンの編集するのがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【老後vs老後】(人間と人間をつなぐ絆の粘着力)

●5月27日(日曜日)(朝記)

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
時刻は、午後9時ごろだった。
途中、いつものようにコンビニに寄り、いくつかの食料を調達。
山荘に着いてから、それを遅い夕食とした。

●雑談

 昨夜はDVDは、なし。
そのかわり、ワイフと雑談。
気がついたときには、午後11時を過ぎていた。

「風呂はどうする?」とワイフが聞いたので、「明日の朝にしよう」と私。
そのまま雑誌を読みながら、就寝。
で、今朝は、午前4時に目が覚めた。
ふだんなら、もう一度眠りなおすのだが、今朝はそのまま起床。
このところ原稿らしい原稿を書いていない。
それが理由で、起床。
そのまま居間へ。

 パソコン用バッグから、マウス、老眼鏡、目薬を取り出す。
それをコタツの天板の上に並べる。
携帯端末機を、ネットにつなぐ。
サッとニュースに目を通したあと、こうして文章を叩き始める。
時刻は今、ぴったり、午前4:00分。

●離婚

 書きたいことは、いくつかある。
……というか、昨日、「病気と離婚」について、少し書き始めた。
たとえばある精神科医はこう書いている。
「うつ病で医院へやってくる男性の50%は、その段階で、離婚している」と。

 うつ病になったから、離婚したのか、それとも離婚したから、うつ病になったのかはわからない。
ともかくも、事実は、そういうことらしい。
が、さらに深刻な話も。

 夫か妻、どちらか一方の配偶者ががんになると、(がんの段階にもよるそうだが)、離婚率が急に高くなるという。

●心情的に理解できない

 が、夫か妻ががんに罹患したとき、離婚率が高くなるというのは、心情的に理解できない。
こういうばあい、「ふつうなら……」という言い方は避けたい。
しかしふつうなら、離婚しないでがんばる。
妻か夫の最期を見届ける。

 もっとも夫婦の仲ほど、摩訶不思議なものは、ない。
それぞれの夫婦には、それぞれに事情が複雑にからんでいる。
がんでなくても、ふつうの病気でも、それがきっかけで離婚ということもありえる。
また離婚するからといって、薄情(昔風の言い方)と決めつけては、いけない。

 が、全体としてみると、人間関係が希薄になっていることは、事実。
たとえば老親のめんどうをみない息子や娘が、急増している。
親が生活保護を受けながら、息子が優雅な生活を送っているというケースは、多い。
先ほど問題になった、お笑いタレントのKJ(37歳)も、その1人。

 Yahoo・Newsは、つぎのように伝える。

 『お笑いコンビ「次長課長」のKJさん(37)は25日、母親が最近まで生活保護を受給していたことを東京都内で開かれた記者会見で認め、一部を返還する考えを明らかにした。
厚生労働省は今後、扶養可能な親族がいる場合は、家庭裁判所での調停を通じ、民法の扶養義務を果たさせるよう自治体に呼びかけるなど、運用を厳格化することを決めた』と。

●親を棄てる子どもたち

 が、現実はきびしい。
結婚と同時に、「ハイ、さようなら!」と、親を捨てていく息子や娘は、多い。
それについて去年(2011年10月)、私が批判記事をBLOGに書いたら、つぎのようなコメントを書いてきた男性(千葉県・EH)がいた。
題名は、「阿呆」。

「親の面倒をみろというのは、それ自体が束縛だ。
私は、自分の子どもには、そういう思いをさせたくない」と。

 年齢は文面からすると30歳前後。
最近、子ども(性別不明)をもったらしい。

 現在の若者たちは、親のめんどうをみることを、「束縛」ととらえる。
つまり自分に課せられた、民法上の義務を、「束縛」と。
しかもまだ親の面倒を経験したこともないような男性が、未来を先取りする形で、だ。
そしてこう言う。
「自分の子どもは、束縛しない」と。

 ずいぶんと勝手な意見というより、オメデタイ!
が、民法の扶養義務をあげるまでもなく、子どもが親のめんどうをみるのは、「義務」。
「束縛」とか、そうでないとか議論する以前の問題である。

 つまり現在は、子どもが親を棄てる。
配偶者が配偶者を棄てる。
そういう時代になった……と考えてよい。

●パサパサ

 たしかに人間関係が、パサパサし始めている。
友人、親類、親子、それに夫婦。
その夫婦の仲も、粘着度で決まる。
粘着度の低い夫婦もいれば、高い夫婦もいる。

 それについては、たびたび書いてきた。
その中のひとつを、そのまま紹介する。
日付は、2011年6月になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(2011年6月の原稿より)

●人間どうしをつなぐ粘着力

++++++++++++++++++++

心理学の世界には、「共依存」という言葉がある。
それについては、たびたび、書いてきた。
よくあるケース。
暴力的な夫と、その夫に、涙ぐましいほどまでに、
献身的に仕える妻。
「ふつうなら……」ということになるが、一度、
共依存関係ができてしまうと、その関係を
断ち切るのは容易なことではない。
まず、共依存について書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●共依存(改)2011-06-29

酒に酔って暴れる夫。殴られても蹴られても、そういう夫に尽くす妻。
典型的な共依存関係である。
妻に依存することで、自分の立場を確保する夫。
依存されることで、自分の立場を確保する妻。
妻を殴ったり蹴ったりすることで、妻の従順性を確かめる夫。
殴られたり蹴られたりすることに耐えながら、夫への従順性を証明しようとする妻。
たがいに依存しあいながら、自分を支える。
傍から見ると何とも痛ましい夫婦関係だが、親子の間でもときとして、同じことが起きることもある。

家庭内暴力を繰り返す息子と親の関係。
ニートとなり家の中に引きこもる子どもと親の関係。
子どもを突き放すことができない。
親自身も、無意識のうちに子どもに依存しているからである。

(補記)

●共依存

 依存症にも、いろいろある。
よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症など。
もちろん、人間が人間に依存することもある。
さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。
それを「共依存」という。典型的な例としては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。
仕事はしない。
何かいやなことがあると、妻に怒鳴り散らす。
しかし決定的なところまでは、しない。
妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前でやめる。
(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)
それに、いつも、暴力を振るっているのではない。
日ごろは、やさしい夫といった感じ。
サービス精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。
お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけている」と、謝ったりする。
一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。
私は、この人には必要なのだ。
だからこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と思い込み、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。
そして夜、遅く帰ってくる。
子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。
そして仕事から帰ってくるときは、必ず、夕食の材料を買って帰るという。
それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。
そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところがあった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。
本来なら、夫に、依存性をもたせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だった。
当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。
夫は、自分から離れていってしまうかもしれない。
そんな不安感があった。
だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をもたせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きなキズを負うことが知られている。

「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。
このような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないかという不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを身につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェルドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症とも考えられなくはない。
もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような症状は現れる。
で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……という疑問をもつ人がいるかもしれない。
理由は、簡単。

このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。
一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。
世間的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。
だからますます、夫に依存するようになる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。
これが「共依存」であるが、しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。
親子、兄弟の間でも、生まれやすい。
他人との関係においても、生まれやすい。
生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。

親子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。
わざと、弱々しい母親を演じてみせるなど。
娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買ってきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存していたことになる。
こういう例は多い。
息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたりするなど。

前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いている自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。
その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりながら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。
その同じ母親が、その翌日には、友人たちとスタスタと歩いていた!
その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。
いわゆる自立できない親は、そこまでする。

「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。
言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。
決して珍しくない。
で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。
そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像するが、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。
むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、男性のそれより、強烈であることが知られている。
女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。

母と成人した息子がいっしょに風呂に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題にはならない。
こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。
このつづきは、また別の機会に考えてみたい。

(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティックバイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●読み返してみて……

 前述の原稿は、ずいぶん前に書いた原稿である。
「勝手な解釈をしているな」と思うところもないわけではない。
しかしこれは心理学一般に共通することだが、心理学の世界では、数学でいえば、いわゆる「公式」的なことしか書いてない。
具体例が書いてある本というのは、少ない。
さらに「では、どうすればいいか」というところまで書いてある本は、さらに少ない。
「心理学」というのは、そういうものかもしれない。
言うなれば、心の作用を、結晶化したもの。
それを並べて説明したのが、心理学。

 言い換えると、心の作用は複雑。
複雑というより、もろもろの心理作用が、複雑にからみあって、その人の心理作用を決める。

共依存についても、純粋な意味での「共依存」というのは、ない。
だからそのあとは、「それぞれの人の解釈で……」となる。

 こうした勝手な解釈は、アカデミックな世界では許されないことかもしれない。
自分の意見を付け足すことについても、そうだ。
が、しかし逆に言えば、心理学だけで、人間の心の採用をすべて説明できるわけではない。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

●仮面夫婦

 「仮面夫婦」という言葉がある。
私たち夫婦もそれかもしれない。
あなたがた夫婦も、それかもしれない。
表面的には夫婦だが、中身は空っぽ。
形だけの夫婦をいう。

 が、そういう夫婦の方が多いことを思えば、「それが夫婦」ということになる。
結婚当初のように、ラブラブの関係にある夫婦というのは、まず、いない。
またそういう夫婦を基準にしてはいけない。
恋愛は、ロマンス(=夢の中のできごと)だが、結婚は、現実である。

●悪妻

 私は率直に言うが、Nさん(女性、45歳)ほどの悪妻を、ほかに知らない。
まさに悪妻中の悪妻。

 突発的に錯乱状態になり、夫を蹴る、殴るは当たり前。
一足数万円もするようなハイヒールの靴を、夫に投げつけたりする。
さらにはげしくなると、台所からフライパンをもってきて、それを夫に投げつけたりする。

 見るに見かねて、夫の両親と夫の兄が、Nさんを精神病院へ連れて行こうとしたことがある。
しかしNさんは、さらに暴れて、それを拒否。
近所中に聞こえるような声で、泣きわめいた。

 が、一晩……というより、数時間もすると、まったく別人になってしまう。
まったくの別人である。
穏やかで、やさしい。
言葉の使い方も、ていねい。
が、よく観察すると、どこか不自然。
どこか演技ぽい。
別の心を、どこかで押し殺しながら、そうする。

 こんなことがあった。

 夫は、宅配便の運転手をしている。
稼ぎは、それほど、多くない。
そのこともあり、生活費が足りなくなると、Nさんは、夫の実家へ行く。
やや痴呆症になりかけた父親と病弱な母親がいる。
それをよいことに、「100万円、出せ!」「200万円、出せ!」と。
 夫の両親は、ともに80歳を超えている。

会計士として蓄えた財産はあるが、それにも限度がある。
そこで母親が、「5万円くらいなら……」と言うと、Nさんは、その現金を、母親の顔に叩きつけて、その場を去っていったという。

 が、夫は、Nさんと離婚はしない。
2人の子どもがいた。
それにNさんの夫は、心のやさしい男性だった。
妻に蹴られたり、殴られたりしても、オロオロと逃げ回るだけ。

●心の病気

 こういう関係を、どう理解するか。
「共依存」という言葉だけでは、説明がつかない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、多分に心の病気がからんでいる。
夫にしても、そういう妻であるにしても、孤独であるよりはよい。
あるいは夫自身も、何かの心の病気をかかえているのかもしれない。
それに毎日がそうであるというわけでもない。
Nさんが突発的に錯乱状態になるのは、10日に1度くらい。
多くて、5日に1度くらい。
それ以外のときは、先にも書いたように、むしろおだやかで、やさしい。

 そこで私は、……つまりNさんの夫のことを思いめぐらすうち、「心の粘着力」という言葉を思いついた。
もちろん心理学上の言葉ではない。
私が勝手につけた名前である。

●心の粘着力

 人間関係には、ある程度の粘着力がある。
強弱の差はあるかもしれない。
粘着力の強い人間関係もあるだろうし、弱い人間関係もある。
強い人間関係は、「ネバネバ」ということになる。
弱い人間関係は、「パサパサ」ということになる。

 夫婦の関係。
友人の関係。
親類、縁者の関係。
近隣の人たちとの関係。
もちろん親子の関係、などなど。

 最近の若い人たちの傾向としては、前にも書いたが、デジタル型の人間関係が目立つ。
人間関係を、「ON」と「OFF」だけで、割り切ってしまう。
一度、「OFF」にすると、まったくのゼロにしてしまう。

 で、ここではもう一歩、話を進めて、ではどういうときにネバネバになり、またどういうときにパサパサになるか。
それについて考えてみたい。

●ネバネバ

 最近、私とワイフの関係は、加齢とともに、よりネバネバになってきたように感ずる。
「先が短くなった」という思いもある。
積み重ねてきた思い出も多い。
とくに私たち夫婦は、すべてを、2人だけでしなければならなかった。
だれの助けも期待できなかったし、だれも助けてくれなかった。

 3人の息子たちにしても、ワイフは自分で助産院に行き、ひとりで子どもたちを産んだ。
そのあとも、だれにも助けてもらわなかった。

 一方、私は仕事オンリー。
それでも家計は苦しかった。
当時はそういう時代だった。
だから余計に、私はがむしゃらに働いた。
20~30代のころは、休日は、月に1日だけ。
そんな年が何年もつづいた。

 だからというわけでもないが、私たち夫婦は、言うなれば「ネバネバ夫婦」。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、1~2日のうちには、もとに戻る。
もとに戻って、また手をつないで歩く。
が、私がここで書きたい「ネバネバ」は、それとは意味が少しちがう。

 先のNさん夫婦のばあいである。
「ふつうなら、離婚」ということになるが、離婚しない。
「子はかすがい」とは言うが、それもあるのかもしれない。
が、何が2人をつないでいるのか。
そのつないでいるものが、ここでいう「ネバネバ」ということになる。

●理解のワク

 もう一度、共依存の話に戻る。
共依存の関係にある夫婦は、たしかにネバネバしている。
ほかにも、夫婦の間の会話が完全に途切れてしまった知り合いもいる。
まったく、しない。
そこでその夫婦のばあい、息子たちが、夫婦の、(つまり両親の)、連絡係をしている。
が、それでも夫婦。
離婚しないのか、できないのか、あるいはなぜそうなのか。

 そういうのを「仮面夫婦」というが、仮面の向こうに隠されたネバネバは、常識では理解できない。
外見だけからは、わからない。
それこそ私のような人間が、いくら想像力を働かせても、理解できるようなものではない。
理解のワクを超えている。
「私なら、即、離婚」と口で言うのは、たやすい。
しかし、問題は、そんな簡単なことでもない。

●離婚率35・4%

 もちろん反対に、「パサパサ夫婦」というのも、いる。
昔は、「成田離婚」というのも、あった。
新婚旅行から帰ってきたそのとき、成田空港で離婚する。
だから「成田離婚」。

 パサパサといえば、パサパサ。
成田離婚は別として、さしたる理由もないまま、簡単に離婚していく人も、これまた少なくない。

一般論からいうと、(統計的にもそういう数字が出ているが)、身近に離婚経験者がいると、その影響を受けて、その夫婦も離婚しやすいという。
姉夫婦が離婚したとたん、妹夫婦も、離婚する。
親が離婚経験者だと、子も離婚しやすくなる、など。

 何も離婚することが悪いと書いているのではない。
離婚など、今どき、珍しくも何ともない。
厚生労働省が発表している人口動態総のデータによれば、平成19年度に結婚した人の数が約72万人に対して、離婚した人の数は25万5000人ということになっている※。
72万人に対して、25万人。
離婚率でみるかぎり、254832÷719822=35・4%!

 この数字をどう読むかだが、意外と、都会に住む人ほど、離婚率が低いというのも、興味深い(同、統計)。

(注※)結婚届を出す数が、毎年72万人。
離婚届けを出す人が、毎年25万人ということ。
結婚年数や、結婚→離婚を繰り返す人の数などは、考慮に入っていない。

(注※)2010年について
『厚生労働省の「2010年・人口動態特殊報告」によると、つぎのようになっている。
婚姻数……98万2044人
離婚数……36万9140人』

 この数字から、「結婚した10組のうち、4組が離婚する」(厚生労働省)ということになる。(37万÷98万=0・38)

●二人三脚

 私の考えでは、夫婦でも、「形」にしばられることなく、人間関係が破綻したら、さっさと離婚したほうがよいのでは、と思う。
思うだけで、では、実際、自分たちがそうなったら……というときのことを考えると、自信はない。
それでもネバネバとがんばるかもしれない。

 世間体もある?
もちろん子どもたちのこともある?
が、それ以上に、今は、もう夫婦でありつづけるしかない。
二人三脚でも生きていくのがむずかしい。
ひとりになって、どうやって生きていくというのか。

 が、結論から先に言うと、つまり、これがこのエッセーの結論ということになるが、人間関係が、近年、ますますパサパサになってきた。
ネバネバ感が消え、パサパサになってきた。
つまり人間どうしをつなぐ、粘着力が、弱くなってきた。
それがよいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。
その結果は、もう少し先になってみないとわからない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 粘着力 パサパサ人間 ネバネバ人間 離婚率 日本人の離婚率)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司(以上、2011年6月に書いた原稿)

●離婚率

 離婚率の計算はむずかしい。
厚生労働省が発表する人口動態調査にしても、どの部分をどうみればよいのか、それがよくわからない。

たとえば直近の2010年についてみれば、(離婚届数)を(婚姻届数)で割ってみると、約38%という数字があがってくる。
つまり現代は、10組の夫婦のうち、4組までが離婚する時代ということになる。

 一方、厚生労働省は、こんな数字もあげている(人口動態調査)。

「……婚姻率、5・3%(2011年)、離婚率、1・86%」と。

 表のトップに、「人口千対(人口1000人に対して)」という注釈が入っている。
が、ここがよく理解できない。
「率」で示すのなら、「人口千対」は、必要ない。
1000人だろうが、1億人だろうが、率は、変わらない。
それとも、「人口1000人に対して、結婚した人が、5・3人、離婚した人が、1・86人」という意味なのだろうか。
しかし人口動態調査には、「婚姻率」「離婚率」とある。

 ともあれ、こと離婚率をみるかぎり、2002年の2・30をピークに少しずつだが、さがり始めている。
俗説だが、不景気になればなるほど、離婚率は下がるという。
理由は容易に推察できる。

●私たち夫婦

 私たち夫婦も、何度か危機を経験している。
けっして無事というわけではなかった。
言い換えると、仮面夫婦であれ何であれ、離婚の一歩手前でふんばっている夫婦も多いということ。
離婚届けを出す夫婦は、まさに氷山の一角。

 また同じ夫婦でも、いろいろな時がある。
夫婦喧嘩、離婚騒動を、年中行事にしている夫婦だっている。
「離婚していないから、いい夫婦」というふうには、考えていけない。

 で、私たちの結論。
「夫婦も、友人ね」と。

●終の棲家(ついのすみか)

 人生も最終段階に入ってきた。
昨夜もワイフが、「終の棲家はどうするの?」と、数度、聞いた。
家の建てなおしをいう。

 ……といっても、計画は、すでに立ててある。
あとはいつそれを実行するか。
現在の住居地の3分の1を売る。
それで得たお金で、家を建てなおす。
老人向けの家にし、どちらかが独りになっても、生活できるようにする。

 「老人向け」というのは、老人向け。
居間と寝室、風呂、洗面所、トイレを、効率的に結合する。
壁すべてに、手すりをつける。
車椅子のまま、道路へ出られるようにする、など。

 で、最終的に、残された1人が動けなくなったら、有料の老人ホームに身を寄せる。
それが私たち夫婦の、最期の計画。

●「外見(そとみ)だけはなア……」

 が、それよりも深刻な問題。
つまりいつ、どのような形で、「負け」を認めるか。
このところ、そういう問題が、浮上してきた。
というのも、ちょうど2年ほど前、こんな事件があった。

 で、その前に、養老孟司氏について書いておく。
解剖学の権威である。
個人的には、数回、面識がある。
愛知万博の諮問委員をしているときに、会った。
氏の「バカの壁」という本だけは読んだことがある。
それ以外には、知らない。
養老孟司氏を意識したこともないし、目標にしたこともない。

 で、その会に出たときのこと。
だれかが、私にこう言った。
「林君(=私)は、養老孟司の若いときに似ているな」と。
多分白髪まじりのボサボサの頭を見て、そう言ったと思う。
が、横にいたX君(同年齢)が、すかさず、こう言った。
「外見だけはなア……」と。

 X君は、少し、酔っていた。
それを差し引いても、辛辣(しんらつ)な言葉である。
そのときは、ハハハと笑ってすましたが、あとになってその言葉が、私の心に大きな穴をあけたのを知った。

●敗北宣言

 いろいろやってはみたけれど……ということになる。
いろいろやってはみたけれど、所詮(しょせん)、私は、この程度の人間。
それをいつ、どのような形で認めるか。
敗北宣言という深刻なものではないにしても、それに近い。

 といっても、私は何も名声や地位、財力を求めてきたわけではない。
「自由」を求めてきた。
が、その自由も、「死」を前にすると、粉々に吹き飛んでしまう。
いくら「私は自由だ」と叫んでも、そこには限界がある。

 まずやってくるのが、肉体的な限界。
足腰が弱くなる。
歩けなくなる。

 つぎにやってくるのが、精神的な限界。
気力の限界と言い換えても、よい。
脳みその限界と言い換えても、よい。
「死」は、そのあとに、やってくる。

 そうした限界を乗り越えるためには、サルトル※が説いたように、「無の概念」を取り入れるしかない。
徹底して、自分を「無」にする。
「失うものは何もない」という状態にする。
そのとき私たちは、「限界(限界状況)」を乗り越えることができる。
もっとわかりやすく言えば、「私」を消す。
それがここでいう敗北宣言ということになる。
「身を運命に差し出す」。

(注※)サルトル……ジャン・ポール・サルトル
フランスの哲学者。
1905年6月21日生まれ、1980年4月15日(74歳)没。

●孤独

 わかりやすく言えば、「離婚どころではない」ということになる。
たとえて言うなら、崖っぷちに向かって進んでいる車の中で、夫婦喧嘩をしているようなもの。
また仮に離婚したからといって、未来は何も変わらない。
(どちらかに愛人でもいれば、話は別だが……。)
そこで待ち構えているのは、孤独だけ。
そうでなくても、独りで生きていくのは、むずかしい。
さらに言えば、離婚するエネルギーが残っているなら、そのエネルギーは、別のことに使いたい。

 ……というような話を、昨夜、こたつに入って、ワイフとした。

私「あのX君ね、ズバリ、痛いところを突いてくれた」
ワ「……」
私「ぼくはX君が言うように、外見だけの人間だった……」
ワ「でも、あなたは名誉も地位も、蹴飛ばして生きてきたわよ」
私「本当は、そうではない」
ワ「?」
私「そのチャンスがなかった。あれば、シッポを振っていたかもしれない」と。

●今日は今日

 さて今日も始まった。
時刻は、午前5:34分を示している。
ワイフが起きたら、入浴。
そのあと、庭掃除。
それがすんだら、たき火。

 で、昼から、映画を見に行くことになっている。
『MIB(メン・イン・ブラック)』。
楽しみ。

 それから現在、我が家の最大の関心ごとは、ぼたんインコの「ピッピ」。
息子は、昨夜も、「ぼたんインコの飼い方」という本を熱心に読んでいた。
ぼたんインコは、たしかに、かわいい。
「ラブ・バード」ともいう。
頭もよい。
感情は、人間並み。
で、だれかがこう言った。

『インコを飼ったことがない人は、人生の半分を無駄にしたようなもの』と。

 その言葉を知ったときには、「何を、おおげさな!」と思った。
しかし今は、その言葉に同意する。
安心しきって、私の手の中で眠っているのを見るだけで、心が休まる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 サルトル 自由の限界 無の概念 はやし浩司 終の棲家 離婚問題 離婚率)はやし浩司 2012-05-27記


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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

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●「まだ言い張る? 日韓基本条約、協定第二条1」

●まだ言い張る? 日本古地図にも鮮明に「朝鮮海」(中央日報紙・韓国)
(2012-05-24)

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●反日記事

 韓国中央日報紙は、「(日本よ)、まだ言い張るのか」と題して、つぎのような記事を掲載した。
日本海の呼称問題に関して、である。
記事の最後部分(結論)を紹介する。

『西洋の古地図も同じだ。1794年に英国で制作された日本全図(THE EMPIRE OF JAPAN)は東海を「韓国海(COREAN SEA)」と、鬱陵島と独島を韓国の領土と表記している。18世紀後半にフランスで制作されたアジア地図(L’ ASIE)も東海を「韓国海(MER DE COREE)」としている。

1735年にフランス地図学者のダンビル(D’ Anville)が制作した西洋最初の朝鮮全図「朝鮮王国全図」も展示されている。この地図も鬱陵島と独島を朝鮮の領土として紹介している。

ハン・サンホ国土地理情報院学芸研究士は「韓国がIHOに要求する東海・日本海の併記が妥当だということを対内外に広報するため、今回の企画展を開催した」と説明した』(以上、中央日報紙)と。

●一方的記事

 当然のことながら、韓国は、自分たちの都合の悪い記事は載せない。
載せないばかりか、こうした記事を載せ、「日本海は、日本海ではなく、東海である」と主張する。

 しかしこの古地図を見ても、どこにも「東海」とは書いてない。
「朝鮮海」と書いてある。

だったら、なぜ「朝鮮海」と主張しないのか?
朝鮮海と書いてあるからといって、「東海」というわけではない。

 また地図をよく見ればわかるように、「朝鮮海」というのは、日本海全体をさしたものではなく、朝鮮半島の沿岸部をさしたものである。
そういう例は、当時も、今も、世界中である。
たとえばこの遠州地方(浜松→静岡)では、太平洋の沿岸を、「遠州灘」と呼ぶ。
古くは、太平洋のことを、「とうとうみ」と呼んだ。
日本人が太平洋を「太平洋」と呼ぶようになったのは、「Pacific Ocean(平和、泰平な海)」という英語が輸入されてからのことである。

●「東海」は地名ではない

 朝鮮半島の人たちが、朝鮮半島に住み、東にある海を「東海」と呼んだとしても、それは至極当然なこと。
自然なこと。
「東」というのは、方向を示す言葉にほかならない。
「東にある海」ということで、「東の海」→「東海」と呼んだ。

 そこで韓国は、それではバランスが取れないということで(?)、黄海を「西海」と呼び、「黄海(西海)」と、併記している。
が、こちらのほうは、静か。
世界各国に特使まで派遣してまで改名しようとする動きまでは、出ていない。
古地図をつぎつぎと持ち出して……ということまでは、していない。
なぜか?

 理由は簡単。
「日本海」の「日本」という名前が気に入らないのだ。
まさに『坊主憎ければ……』レベルの話。

 が、韓国の人たちよ、これでは整合性がない!
合理性がない。
どうして黄海は黄海のままでよいのか。

 繰り返す。
「まだ言い張る?」というくらいなら、「東海」と書いた古地図を出したらよい。
「朝鮮海」では、話にならない。
どうして「朝鮮海」が、「東海」なのか。
どこでどうつながるのか。

 本当のことを言えば、私たち日本人は、うんざりしている。
慰安婦問題にしても、韓国の人たちの(こだわり)には、ふつうでない異常性を覚える(※)。
日本人は、いくらアメリカ人に原爆を落とされたからといって、アメリカ中に、原爆慰霊碑を建てるようなことはしない。

 日本人の私たちは、抗議と(いやがらせ)の間に、明確な一線を引くことができる。
抗議は抗議。
(いやがらせ)は(いやがらせ)。

 日本海の呼称問題も、その延長線上というより、その枠(ワク)の中にある。

 なお、中央日報紙は、先の古地図の下に、こう書いている。

『1810年に日本江戸幕府が制作した世界地図「新訂万国全図」の韓半島の部分。
当時、日本も東海(トンヘ、日本名・日本海)を「朝鮮海」と表記していたことが分かる(写真=国土地理情報院)』(中央日報紙)と。

 が、だからといって、それがどうしたの?

(注※)日韓基本条約について(「アジアの真実」サイトより)

 『……つまり、日本は韓国に対して戦前資産53億ドル、戦後賠償8億ドルもの巨額の賠償を行っている。
そして日韓基本条約には、以下の言葉が記されている。「戦後処理は完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」(協定第二条1)

 しかし条約締結の後、韓国は日本からの清算金を個人の賠償対象者に支払うことなく、国家発展のために活用した。

「漢江の奇跡」と言われた韓国の経済成長が韓国人の努力とともに、この南北朝鮮を対象として支払われた清算金を原動力としてなされたことは疑うべくもない。

 そして韓国政府は驚くべきことにこの条約のことを国民に知らせていない。
個人に支払わず国家発展に流用したことを隠す為であろうか。
それとも反日感情をいつまでも煽る為であろうか。
もしくはその両方か。

 その為韓国人は未だに日本が賠償責任を果たしていないと思いこみ、憤慨し、日本で終わった賠償問題について訴訟を起こしているのであり、日本と韓国の間の大きな溝の一つはそこにある。
このことを韓国国民はもちろん、日本人も良く知る必要があると思う』と。

 私もこの話は、よく知っている。
当時、(日韓基本条約は、1965年、締結。私は1967年、日韓UNESCO交換学生として渡韓。)、この話は、日本の政府関係者から、直接聞いている。
その額、『無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドル』(同サイト)。

 『この金額は当時のものであるので、貨幣価値を今の時代に換算してみる。また、8億ドルのうち3億の無償分のみに絞って考えてみる。

(円換算)3億ドル×360円(当時1ドル=360円)=1080億ドル
(物価換算)1080億円×10(当時の大卒初任給が約2万円)=1兆800億円』(同サイト)と。

 このお金を、当時の韓国政府は、国民には渡さず、すべて、「国」のために使用した。
「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げたのは、そのあとのことである。

「戦後処理は完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」(協定第二条1)という条文を、今一度、読み返してみてほしい。
中央日報紙よ、まず、この事実を国民に知らせたらどうだろうか。

 最後に一言。

「韓国よ、まだ言い張るのか?」
2012/05/25記


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(前号からのつづき)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●深まる謎


 が、さらに驚くべきことが、つぎつぎと見つかった。
前回は、それに気がつかなかった。
球形のUFOばかりが気になった。
しかしそれだけではなかった。
本来、そこにないものが、2つ、その写真には写っていた。


 「事実」というのは、そういうもの。
調べれば調べるほど、その向こうにある別の「事実」が顔を出す。
それについては、追々書くとして、私は、そしてBT氏は、ついにETのシッポをつかんだ。
少なくとも、私は、そう確信した。


 BT氏が見せてくれた写真を、順に並べてみる。


(1)左側のUFOと、ETらしきもの。
222


(2)(1)の写真を反転したもの。
左上の黄色い物体(ET)の輪郭が、より鮮明にねっている。
11


(3)BT氏提供の写真を再度掲載、確認する。(矢印の部分に注目)
Photo1


(4)右側のUFO。
グーグルアースの測定器を使い、距離を測定したら、290メートルという数字が出てきた。
山の影に入っているところから、山陰ギリギリまでの距離を測定した。
photo2


(5)屋根の上の、2つの大小のUFO。
この家の家人に直接確かめたが、これは枕とか、そういうものではない。
「北側の屋根では、ものは干さない」と断言した。
photo3


(6)屋根の上の黄色いET(?)。
屋根の上に直接、乗っているのが、わかる。
photo4


(7)左下に女性の姿が見える。
何か棒(農作業用の道具?)らしきものをもっている。
道路から撮った写真とすると、この女性は小山の上にいることになる。
しかしここに小山があったのか?
前回、行ったときは気がつかなかった。
あとで4度目の検証にでかけて、自分で確かめてみる。
黄色いETは、屋根の上からその女性を見ているようにも、とれる。
photo5


(8)明度をあげ、ETと、その左下の女性を、見やすくした。
photo5-2


(9)同じく、庭にいる女性。
photo6


(10)うしろ髪が長い女性であることが、この写真からわかる。
この家の家人なのか。
この写真を見せ、確かめてみる。
(報告はあとで……。)
photo6-2


(11)再び、屋根の上のET。
頭の上に左右、2本の角(つの)のようなものがある?
photo5-3


(12)左側のUFOの周辺が、円形に磁場変性しているのが、わかる。
水面に石を落としたように、かすかに波打っているのが、気になる。
photo3-2


(13)右側のUFO。
距離を290メートルとすると、かなり巨大なUFOということがわかる。
その手前下に、軽自動車がたまたま写り込んでいたが、軽くその2倍はあるということになる。
photo2-2


(14)右側のUFOは、山陰に隠れている。
軽自動車がその下に見える。
全体に明度をあげてみた。
Photo1-1


(15)ET(右上)と、女性(左下)
写真のシャープ度をあげてみた。
photo7


●黄色い物体


 左側の屋根の上、斜め左上に、黄色い物体があるのがわかる。
私は最初、それにまったく気づかなかった。
が、写真を拡大し、明度をあげてみると、それも屋根に接してある(いる?)のが、わかった。


 複雑な形をしている。
が、よく見ると、動物的な形である。
しかも頭部らしきところには2本のアンテナ状のものが、くっついている。


 私はすぐBT氏に連絡をした。
BT氏は、その日のうちに、現場へかけつけてくれた。
メールでの返事が届いた。


「今日、行ってみましたが、黄色いものは、ありませんでした」と。
つまり黄色い物体は、この写真の中だけに写り込んでいたことになる。
とするなら、これは何か?


●庭を歩く女性


 さらに左下の女性に気がついた。
それまでは庭の一部と思っていた。
が、先にも書いたように、道路側から、塀を越え、庭先が見えること自体、おかしい。
その家は、南側から大きく回り込み、庭を通って、母屋(写真の家)に入るようになっている。
そこに小山はあったのか?
この写真の通りとするなら、その女性は、小山の上で、何かの農作業をしていることになる。


●最大の謎


 これはBT氏にも、メールで書いたことだが、「なぜ?」。
なぜ、UFOが、この日(2012年5月4日)、ここにいたかということ。
この日は、浜松市内は、凧祭りの真っ最中。
前日の雨もあり、最大限にまで盛りあがっていた。


 その日、浜名湖に近い、このY町で、このような物体が現われた。
なぜ?
目的は何か?


 さらに奇妙なのは、この写真を撮ったとき、BT氏自身、その物体の存在に気づかなかった。
写真をあとで見て、そこに、これらのものが写っているのに気づいた。
なぜ、その場では、気づかなかったのか。
とくに右側のUFOは、かなり巨大なものである。
謎はつづく。
(つづきは、またあとで……。)
2012/05/2朝記。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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