【Mystery of Grand Cross in Nazca
地球の文明は、宇宙からの人たちによって、開かれた】
(その証拠と考察)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
これらの事実は、私、はやし浩司が、自分で調べて知り得たことです。
無断転載、無断流用は、固くお断りします。
まずつぎのビデオからご覧ください(ガイダンス用)。
はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ナスカのGrand Cross(古代文明の謎、PART2)
【ナスカ平原に残る地上絵。その中でもひときわ目立つ十字架。この十字架の延長線上に、北は、メキシコのテオティワカン(太陽のピラミッド)があり、南は、カンボジアのアンコールワットに残るピラミッドがある。つまり(テオティワカン)ー(ナスカの十字架)ー(アンコールワット)は、真直線でつながる。この原稿では、それを証明する。
なおこの原稿中、(エジプトのギザのピラミッド)ー(ナスカの地上絵)-(イースター島)が一直線に並ぶというのは、既存の事実であり、私が発見したものではない。】
●ナスカの地上絵(世界遺産)
インターネットで、「ナスカ 地上絵」で検索する。
55万件ほど、該当項目をヒットすることができる(2012年7月現在)。
その冒頭にある、「ウィキペディア百科事典」をクリックすると、最初に、つぎの写真を手に入れることができる。
「世界遺産、ナスカとフマナ平原の地上絵』というのが、それ。
(ウィキペディア百科事典より、世界遺産、ナスカとフマナ平原の地上絵)
かなり上空から撮影しているため、この写真では、直線しか認識することができない。
が、その中でも、ひと際目立った直線が2本、ある。
それが、中央部やや右上に見られる「十字架」である。
(ここで、私は2本のクロスした直線を、「ナスカの十字架(Grand Cross in Bazca)」と呼ぶ。
この呼び方は、独特のもので、私のほかにそのように呼んでいる人を知らない。)
なおこの直線は、幅200メートル前後もあり、現地で見ても、それが線であると気づくことはないという。
●ナスカの十字架
ほかにも無数の線を見ることができるが、この2本の線は、ここにも書いたように、際立っている。
つまりかなり上空からでも、このナスカの十字架を見ることができる。
そこでこの十字架の縦の線を、(A線、斜め左上から右下への線、長さ10キロ)とする。
横の線を(B線、斜め右上から左下への線、長さ9・2キロ)とする。
このナスカの十字架は、グーグル・アースを使っても、見ることができる。
グーグル・アースのほうでも、同じように、A線は、ほぼ北から南へ、B線は、ほぼ西から東に向かって走っているのがわかる(上を北極にしたばあい)。
(写真1)
●A線
ナスカの十字架のA線に沿って、1本の線を描いてみる。
方法は簡単で、A線の長さを測定する要領で、A線の下から、上に向かって1本の線を描き込めばよい。
(写真2)
この直線を、正確に描き入れると、即座に、「機首方位、324・74」という数字が示される。
「機首方位」というのは、この直線が向かっている方向を示す。
そこでこの「324・74」を維持しながら、この直線をそのまま延長してみる。
(写真3)
(写真4)
●テオティワカン遺跡(メキシコ)
その方向には、メキシコのテオティワカン遺跡があることがわかる。
(詳しくは、後述)
(テオティワカン遺跡。左奥方向に、ピラミッドが見える。)
(写真5)
直線が、やや左寄りにズレているのは、最初に線を引いたときの誤差と考えられる。
そこで今度は逆に、逆に、(ナスカの十字架のクロス部)と(テオティワカンのピラミッドの頂点)を、線で結んでみる。
(写真6)
(写真7)
こうすると、機首方位……325・25度
地図上の距離……4602・22キロメートルという数字を手に入れることができる。
この「325・25」という数字は、ナスカの十字架を出発したときに得た「機首方位、324・74」と、その差は、0・51度と、ほぼ一致する。
つまりこの直線は、一般に言われているように、「滑走路」を示すものではなく、「標識」として、別のピラミッドの位置を示すものであることがわかる。
A線は、きわめて正確に、メキシコに残る、テオティワカン遺跡のピラミッドの位置を示している。
●B線
では、同じように今度は、B線の先をたどってみる。
B線の西方向には、イースター島がある。
はたしてB線の先には、イースター島があるのか。
もう一度、それをここで確認してみる。
B線の右から左へ、直線をあててみる。
機首方位は、「248・77度」と示される。
つぎに今度は、(ナスカの十字架のクロス部)と、(イースター島の中心部)を、直線で結んでみる。
すると機首方位……243・09度
地図上の距離……3795・72キロメートルという数字を手に入れることができる。
(写真8)
248度と243度。
その差は、5度。
これは誤差の範囲を超える。
かなりずれている。
ということは、ナスカの十字架の横線(B線)は、イースター島の方向を示しているのではないということがわかる。
●アンコールワット
では、今度は、反対に、B線を、右方向(東方向)にたどってみる。
B線の左から右に直線をあててみると、「機首方位……68・63」という数字を手に入れることができる。
が、この方向は、エジプトのピラミッドの方向ではない。
そこで今度は、「機首方位……68・63」という方向を保ちながら、直線を延長してみる。
(写真10)
実際には、「68・63」という数字を維持するのは、容易なことではない。
ほんのわずか手元が動いただけで、大きく数字が変化する。
慎重に、B線を東に向かって延長してみる。
(写真11)
ところが、である。
このB線はインド半島を横断し、インドシナ半島へ入るころから、急にクルクルと上下に動き始める。
距離が、2万キロメートルに近づいたためである。
ご存知のように、地球の円周は、4万キロメートルと定められている。
地球は球体だから、2万キロメートルの場所には、機首方位は無数に存在する。
そこでその一歩手前で直線を止め、目測でその先に何があるかを知る。
(写真12)
写真では、直線方向とはややずれているが、右下にカンボジアの、アンコールワット遺跡があることがわかる。
アンコールワットにも、ピラミッドがある。
そのピラミッドの中心部に、B線の端を置いてみる。
地図上の距離……1万9838・38キロメートル
地上の距離 ……1万9839・15キロメートルという数字を手に入れることができる。
ほぼ、2万キロ!
念のため、どのあたりで2万キロになるか、B線の右端をそのあたりで動かしてみる。
結果、タイとカンボジアの国境付近、ややタイ側に入ったところで、2万0022キロメートルという数字が出てきた。
地球の円周は、赤道部分で、より長くなっていることが知られている。
これは地球の自転により、遠心力が働くためである。
ともかくも、以上のことから、(ナスカの十字架)と、(カンボジアのアンコールワットにあるピラミッド)は、相互に「極関係」にあることがわかる。
ちなみにナスカの十字架は、西経75度10分、南緯14度42分、
アンコールワットのピラミッドの頂点は、東経103度51分、北緯13度25分。
これらの数字からも、「極関係」、つまり、地球の中心部を通る正反対の位置にあることがわかる。
B線の右方向(東)は、正確に、カンボジアのアンコールワット遺跡にある、ピラミッドをとらえている。
以上のことから、ナスカの十字架は、北方向には、メキシコのテオティワカンのピラミッド、東方向には、カンボジアのアンコールワットのピラミッドを指しているのがわかる。
●さらなる謎
が、これで驚いてはいけない。
ここでナスカの十字架と、カンボジアのアンコールワットは、極関係にあると書いた。
が、厳密には、ややズレている。
その距離は、ピタリ、2万0000キロメートルではない。
しかしつぎの事実を知ったら、あなたも驚くだろう。
「これはもう偶然の一致とは言えない!」と。
●ナスカの十字架の南
A線(縦線)は、北方へ延長すると、メキシコのテオティワカンにつながる。
B線(横線)は、東方へ延長すると、カンボジアのアンコールワットにつながる。
しかし、である。
A線(縦線)をそのまままっすぐ下(つまり南方)へ延長すると、今度は、南極を近くを通過し、そのままやはりカンボジアのアンコールワットにつながる。
(ナスカの十字架から、機種角144・20度で、南に直線を引いてみるとよい。)
(ナスカの十字架から機種角145・00度の位置には、アンコールワットのピラミッドがある。)
つまりA線(縦線)の北方には、テオティワカン、南方には、アンコールワットがあることになる。
(テオティワカン)ー(ナスカ)ー(アンコールワット)は、一本の直線でつながる。
ナスカの十字架(Grannd Cross in Nazca)は、テオティワカンとアンコールワットのピラミッドの位置を示す、標識ということになる。
ちなみに、テオティワカンの太陽のピラミッドから、ナスカの十字架までの起首角……144・2±0・1度
。
ナスカの十字架からカンボジアのアンコールワットまでに機首方位……144・2±0・1度。
ぴったし一致する。
●テオティワカンvsアンコールワット
ナスカの十字架が、同時に、テオティワカンのピラミッド、アンコールワットのピラミッドをとらえている。
とするなら、これら2つのピラミッドには、共通点はあるのか。
それともないのか。
(そもそも、文明が相互にまったく隔離された世界のあちこちで、ピラミッドが発見されていること自体、不思議なことである。)
(1)テオティワカンの「太陽のピラミッド」(ウィキペディア百科事典)
(2)テオティワカンの「月のピラミッド」(ウィキペディア百科事典)
(3)アンコールワットのピラミッド(観光案内)
共通点は、ともに巨大であるということ。
ピラミッドに登る人間の大きさから、それがわかる。
あとは主観的な判断ということになる。
●仮説
そこで前回取りあげた(事実)を、もう一度、ここで確認してみる。
イースター島と、エジプトのギザのピラミッドを直線でつなぐ。
その直線は、ズバリ、ナスカの地上絵、とくにナスカの十字架の上を通る。
これは動かしがたい事実である。
(これを疑う人は、グーグル・アースを使って自分で確認してみるとよい。
その正確さに、私は驚いた。)
となると、イースター島の役割は何か。
仮説として考えられるのは、第一の中継地であったのではないかということ(仮説1)。
その中継地から、ナスカの地上図をめざし、そこから各地のピラミッドへ飛行した(仮説2)。
となると、イースター島に立つモアイ(像)は、その標識ということになる(仮説3)。
これらの仮説を証明するためには、(1)正確なモアイの位置と、(2)モアイが示している方向を知らなければならない。
●イースター島
謎を解くため、イースター島にある、モアイについての情報を集めなければならない。
が、残念なことに、たいへん残念なことに、モアイのほとんどは発見当時、みな、倒れていたという。
それではいけないということで、日本の建設会社が重機をもちこみ、立てなおしたという。
なおその重機は今でも、現地に残っていて、現地の人たちに感謝されているという。
感謝されている?
日本の建設会社は、とんでもないバカなことをしたと考えてよい。
ナスカの地上絵を、整地し、消し去った。
それと同じような行為としたと考えてよい。
仮説(1)(2)(3)が、永遠に証明されることはない。
なお定説に従えば、モアイのふもとから多くの人骨が発見されていることから、モアイは墓であったということになっている。
が、逆にも考えられる。
現地の人たちは、その後、墓として利用するようになった、と。
なおモアイにしても、あれほどまでの巨石を、どうやって切り出し、加工し、運搬し、その場所に立てたかについては、「まったくの謎」ということになっている。
たいへん残念なことである。
が、ゆいいつ、そのモアイ像から、かつて、それを利用した人たちの容姿を想像することができる。
(つづきはまたの機会に書いてみたい)
(補記1)
メキシコのテオティワカンのピラミッド(月のピラミッド)と、アンコールワットのピラミッドを比較する。
左が、テオティワカンのピラミッド(月のピラミッド)
右がアンコールワットのピラミッドである。
メキシコとカンボジア……遠く離れた場所で、これほどまでに類似したピラミッドが建設されたのは、本当に偶然と言えるのだろうか。
自分の目で判断してほしい。
(補記2)
●(メキシコのテオティワカン)-(ギザのピラミッド)-(シュメール文明)-(西安)
何度か、確認してみたが、地球儀上(グーグル・アース上)では、一直線には、つながらなかった。
(グーグル・アースの上では、ギザ→シュメール→西安は、一直線上に並ばない。)
そこで一般によく使われている、メルカトール図法による地図の上で、メキシコのテオティワカン、ギザのピラミッド、シュメール文明、西安の4か所を正確に特定してみた。
が、結果は、ご覧の通り。
この4か所は、ほとんど狂いがなく、一直線に並んでいることがわかった。
(メルカトール図法風の世界)
(メルカトール地図の上では、4つの古代遺跡が一直線に並んでいるのがわかる。
左から、テオティワカン(黄)、ギザ(緑)、シュメール(青)、西安(ヤンシャオ)(赤))
●なぜ西安が西安なのか?
私が最初に疑問をもったのは、なぜ西安が西安なのかという疑問。
ヤンシャオ(仰韶)文明は、西安の郊外で発掘されている。
半坡(はんぱ)遺跡というのが、それである。
エジプトのギザについても、同じ疑問をもった。
言い伝えによると、そこで使われた石材は、800キロも遠く離れた採石場から運ばれたという。
常識で考えれば、ピラミッドを建てるにしても、これほど非ロジカルな話はない。
採石場の近くで建てれば、その分だけ、人力の無駄を省くことができた。
が、なぜか、ピラミッドの建造者は、ギザにこだわった。
なぜか?
さらに言えば、ナスカの地上絵についても、言える。
地上からは見ることさえできない絵を、なぜ描いたか。
が、こうしてそれぞれが一直線に並んでいるのを知ると、その理由が浮かびあがってくる。
●さらなる事実
以上は、『ピラミッド』を見た、私の感想ということになる。
が、ここで終わったのでは、ただの受け売り。
そこで私なりに、さらに調べてみた。
で、「驚くべきことに」というほどの言葉はつけられないが、奇妙なことに気づいた。
これがわかったのも、グーグル・アースという最新のサービスがあったからである。
10年前だったら、これだけ調べるだけでも1日仕事。
図書館で悪戦苦闘しただろう。
が、今では、グーグル・アースを使えば、それが瞬時にわかる。
以下、その距離に注目してほしい。
(1)ギザ→イースター島 ・・・1万6168キロメートル
(2)ギザ→ナスカ(地上絵) ・・・1万2365キロメートル
(3)ギザ→ウル(シュメール)・・・ 1615キロメートル
(4)ギザ→西安 ・・・ 7183キロメートル
(5)ギザ→テオティワカン ・・・1万2342キロメートル
(そのほかの距離)
(2)のナスカまでの距離と、(5)のテオティワカンまでの距離は、ほぼ同じ。
また(3)のギザ→ウルの距離を10倍すると、ギザ→イースター島までの距離になる。
ただ西安までの距離だけが、どういうわけか、ほかの距離と関連性がないように思われる。
が、以上が、私の発見によるものである。
わかりやすく言えば、少なくとも、ギザを中心にして、ナスカとテオティワカンは、同心円上にある。
こうした事実を、「偶然」と片づけるには、無理がある。
つまりこうした古代文明は、宇宙から地球を見て、それが一直線であるとわかる人たちによって、作られた。
どうもそう考える方が、自然のようである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ピラミッドの謎 謎のピラミッド 一直線に並ぶ古代文明 ナスカ はやし浩司 イースター島 西安 仰韶 ヤンシャオ 半坡遺跡 はやし浩司 ウル シュメール文化 はやし浩司 黄帝内経(こうていだいけい)の謎 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 謎の古代史 メキシコ テオティワカンの遺跡 カンボジアのアンコールワットのピラミッド)
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年7月31日火曜日
2012年7月29日日曜日
Pyramid in Giza
【古代文明の謎】(改・V2)
(一直線でつながる古代文明)
(エジプトのピラミッド、以下、「ギザ」とのみ記録)
(ナスカ平原の地上絵)
(イースター島)
(イースター島2)
(イースター島→ナスカの地上絵→ギザのピラミッドは、一直線上に並んでいる)
(写真2)
(写真3)
(写真4、以上グーグル・アースより)
(さらに、メルカトール地図の上では、つぎの4つの古代遺跡が一直線に並んでいるのがわかる。
左から、テオティワカン(黄)、ギザ(緑)、シュメール(青)、西安(ヤンシャオ)(赤))
●午前5時
今朝は、午前5時起き。
トイレに起きたら、ちょうどヒグラシが鳴き始めた。
あたりは、まだ薄暗い。
トイレから出たあと、カバンから、3種類のカメラを取り出した。
SONYのビデオカメラ。
PANAの一眼レフカメラ。
それにインターバル撮影ができる、レコロ。
ワイフのじゃまにならないよう、抜き足、差し足で、外に出る。
まずビデオカメラで、風景+ヒグラシの声を撮影。
そのまま15分ほど、ベンチに座って、時を過ごす。
……山の生活を知らない人には、信じられないような話かもしれないが、事実は事実。
この山荘では、真夏でも、クーラーは、無用。
昨日(28日)は、浜松市内でも、35度Cを超えた。
日中は、それなりに暑いが、日が山の端に沈んだとたん、乾いた冷気が谷底からサーッと吹いてくる。
その風を扇風機で、体に当てる。
で、今もそうだ。
数メートル離れたところに扇風機が置いてある。
「弱」になっているが、それでも寒いほど。
その冷気を感じていると、再び睡魔が襲ってくる。
……眠い。
ぼんやりと、あれこれ考える。
というか、思考の焦点が定まらない。
……たった今は、こう思った。
家(市内)に戻ったら、動画を編集し、このページにその動画を挿入しよう、と。
どうか、お楽しみに!
●『ピラミッド』(5000年の嘘)
昨夜、『ピラミッド(5000年の嘘)』というDVDを借りてきた。
数学的事実に基づいた、ドキュメンタリー映画。
「数学的」というのは、あのピラミッドは、まさに数学のかたまり。
それを数学的に証明している。
おもしろいというより、驚く。
驚きの連続。
人によっては、世界観が変わるかも……という映画。
で、その映画の中に、西安が出てきたのには、驚いた。
中国の西安である。
その西安には、無数のピラミッドがあるという。
中国政府が許可していないので、調査はできないということらしいが、その西安には、もうひとつ、大きな謎の文明がある。……あった。
仰韶(ヤンシャオ)文明という文明である。
黄河に沿って発達したので、黄河文明とも呼ばれている。
このヤンシャオには、……というか、この話を書き始めたら、キリがない。
「謎の文明」とだけ、ここに書いておく。
シュメール文明との共通点(たとえば彩色土器)も、多い。
が、何と言っても私が興味をもったのは、「黄帝内経」という書物。
●黄帝内経
中国では、そして世界では、黄帝内経を医学書と考えている人が多い。
しかしただの医学書ではない。
天文学に関する書物である。
それを後の学者たちが、勝手に医学書に書き改めてしまった。
黄帝内経が、本当に「黄帝」の時代から伝わっている書物であるとするなら、西安もまた、特筆すべき都市ということになる。
DVDを見終わったあと、ワイフとこう約束した。
「来年には、西安へ行ってみよう」と。
(ヤンシャオ文明は、現在の西安の当方部で誕生した。「黄河文明」と言われている)
その黄帝内経について書いた原稿を探してみる。
10年ほど前、埼玉県所沢市に、全国から東洋医学の研究者らが集まった
その場で、基調講演をさせてもらった(国立身体障害者リハビリセンターにて)。
間に30分の休憩をもらったが、4時間以上もの長講演だった。
その一部を紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●神々の言葉
私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。
漢方(東洋医学)のバイブルと言われている本である。
東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わないが、しかしこの本がその原点にあることはまちがいない。
その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆であること。
黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(ぎはく)という学者の問答形式で書かれているが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。
そしてその疑問や質問、さらには矛盾につぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。
一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」という形式で書かれている。
つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書いている。
そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。
もし絶対的な権威ということになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。
(そういう部分もあるが……。)
岐伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。
しかしこれには二つの理由がある。
●もともと、医学書ではなかった
黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。
前一世紀の図書目録である、漢書「藝文志」に医書として分類されていることによる。
ここで医書として分類されたことが、正しいかったかどうかということについては、疑問がある。
さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかということについては、疑問がある。
が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。
科学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。
その科学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。
矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点のまちがいもない)にキズがつくことになる。
ここが宗教という哲学と大きく違う点である。
つまり黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。
もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。
しかし断片的な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。
たとえばこの私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるものは、書いていない。
これから先も、多分、書けないだろうと思う。
もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはできない。
できないというより、たいへん困難なことである。
つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。
これは実は聖書についても同じことが言えるが……。
●黄帝内経(こうていだいけい)の謎
私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎのような記述があることを知ったときのことだ。
黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。
岐伯は、「岐伯曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。
これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。
しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。
「地は、人の下にあって、太虚の中にある」と。
「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいのか。
漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前1世紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦752年の常識ではなかったはずである。
ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。
小曾戸氏も薮内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるのが正しい。
「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。
気のひとつである。
その気がない状態を、虚。
さらに何もない状態を太虚という。
今風に言えば、まさに真空の状態ということになる。
●当時の常識
もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。
当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。
恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦心したのではなかろうか。
(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)
その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。
つまりわざと医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。
さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。
この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。
王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかった。
またそう読むことによってのみ、この部分を理解できる。
話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。
当時の私は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえた。
その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前3500年。
今から5500年前ということになる。
(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)
少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。
●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか
黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文句を付け加えた。
これは動かしがたい事実である。
たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほうでは、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には一年のずれを生じます……」とある。
薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと思われる。
つまり、より原書に近いとみてよい。
一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。
この部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られる。
たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……
「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこにもない!)
こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたともとれる。
が、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。
中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。
そういう時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。
ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人すらいた。
コペルニクスが、その人である(1543年「天球の回転について」)。
宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。
さらに中国では、中国式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。
そういう時代的背景を忘れてはいけない。
●地動説
が、それでも地動説の片りんが残った!
私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければならない点は、まさにこの一点にある。
そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについて、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」というように反論する。
しかしこの視点はおかしい。
もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっ先に削除されたであろうということ。
それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられる。
今、あいまいだからといって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されない。
私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向こうにある事実を見ることなのである。
「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。
●365日余で、もとに戻るものは何か
黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とある。
ここで考えることは、「何が、戻るか」である。
今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷わずこう答える。
「地球」と。
そう、地球の公転である。
地球は、太陽のまわりを、365日余で一周し、またもとの位置に戻ってくる。
こんなことは常識。
しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。
第一、私たちは黄帝内経は、医学書であって、科学の本ではないという前提で読む。
第二、私たちは黄帝内経の時代に、そんな常識はなかったという前提で読む。
しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。
こうある。
「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。
この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きについて聞いたものだということがわかる。
季節の移り変わりを聞いたものではない。
いわんや大気の変化を聞いたものではない。
そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほうが正しい。
その理由はいくつかある。
もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く必要はない。
関連性がまったくなくなってしまう。
つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改めて書くまでもないことである。
仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそまさに木に竹をつぐような文章になってしまう!
●回転する
ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。
これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はおろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。
薮内氏自身も、そういう前提で訳している。
だからあえて、わかりにくく訳した。
とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部分である。
何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれは正しいのか。
「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。
もし「左右に(回って)」と訳すと、意味がすっきりする。
「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもどる」と。
地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。
つまり右転している。
北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。
つまり左転している。
こうして右転、左転しながら、回る、と。
黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったものである。
注※…コペルニクス
(ラテンNicolaus Ccpernicus ニコラウスー)本名はコペルニク。ポーランドの天文学者で、ローマカトリック教会の聖職者。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動説を提唱。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。(1473~1543)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●西安
若いときは、そこにある謎を食いさすようにして、人は生きていく。
未来という時間が、永遠にあるように感ずる。
が、私の年齢になると、その先に感ずるのは、いつも袋小路。
だからこう思う。
「結論を出したい」と。
もう少しわかりやすい言葉で言えば、「決着」でもよい。
「決着をつけておきたい」と。
黄帝内経もそのひとつ。
その謎を解く鍵が、西安にある。
ヤンシャオ(仰韶)文明にある。
当時の中国といえば、新石器時代の後期。
火を使うことを知らない部族もいたという。
そのため疫病が絶えなかったという。
そういう時代に、突如として、ヤンシャオ文明が誕生した。
恐るべき知識と技術をもった文明である。
黄帝内経なる書物が、本当にその時代に書かれたものかどうかは別として、(というのも、文字の発明は、ずっとそのあとということになっているので)、西安には、底知れぬ謎が隠されているのは事実。
(実際には、ヤンシャオ文明が生まれたのは、西安の東方部。
現在、西安には、ヤンシャオ文明を知る博物館などがあるという。
最近になって、西安の遺跡から、文字らしきものも発掘されている。)
が、黄帝の時代に、黄帝内経が書かれたのではないと断言することもできない。
当時は、知識は、口頭伝承といって、特別に選ばれた人(多くは子ども)が、言葉を暗記し、それでもって、後世へ伝えていくという方法がとられた。
エジプトのピラミッドと、その西安がつながっている!
……というようなことを、DVD『ピラミッド』は、教えてくれた。
●謎の一直線
DVD『ピラミッド』は、話せば長くなるので、その一部だけを紹介する。
この話を疑う人は、地球儀をもってきて、自分で確かめてみたらよい。
驚くべき事実である。
(1)(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)は、一直線でつながっている。
しかもその直線は、赤道に対して、正確に30度の角度を保っている。
(2)(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(西安)は、一直線でつながっている。
テオティワカンの遺跡(地図)
テオティワカンの遺跡(写真)
これらの文明の跡には、共通した石造物が多いことがよく知られている。
そればかりかその直線下には、数多くの古代文明が並んでいる。
たとえば天空都市と呼ばれるマチュ・ピチュ(クスコ近郊)がある。
ギザとイースター島を結ぶ直線は、このマチュ・ピチュとクスコの間を縦断している。
またマチュピチュは、その直線から17キロしか離れていない(グーグル・アース上で測定)。
(マチュ・ピチュの遺跡・天空都市)
(下部、右中央部から、左下に斜めに走る黄色い線が、ギザとイースター島を結ぶ線。
ラインより、17キロ北方に、マチュ・ピチュの天空都市があることがわかる)
なおDVD『ピラミッド』は、もうひとつ重要な事実を見落としている。
それを付け足しておく。
ここで、(2)(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(西安)は、一直線でつながっていると書いた。
これはDVDの説明を書きとめたものである。
しかしその一直線上に、もうひとつきわめて重要な文明が、存在する。
「シュメール文明(シュメル文明)※」である。
旧約聖書の母体となった文明と考えるとわかりやすい。
(これは私の発見!)
(シュメール文明は、現在のペルシャ湾北部で誕生した)
(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(シュメール文明)-(西安)と並ぶのは、はたして偶然なのか?
(注※)……テオティワカン (Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。
当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で、太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり、各施設が配置されている。(以上、ウィキペディア百科事典より)
(注※)……シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。
初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。
シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。
(以上、ウィキペディア百科事典より)(はやし浩司 2012-07-29記)
●検証
が、鵜呑みは何ごとにつけ、よくない。
そこで私なりに検証してみた。
結果、驚くべきことがわかった。
【1】(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)
これについては、今では、グーグル・アースを使えば、瞬時に確認できる。
私は(1)まずエジプトの三大ピラミッドのひとつである、ギザのピラミッドの頂点に、画びょう(ポイントマーク)をつけた。
(2)つぎにイースター島の中央(イースター島は、三角形になっているので、その中央部)に、画びょう(ポイントマーク)をつけた。
(3)(1)の画びょうと、(2)の画びょう間の、距離を測定する要領で、線を引いた。
で、結果を見て、即、ギョッとした。
(ギザとイースター島を結ぶ直線の直下に、ナスカの地上絵がある)
グーグルアースでは、観光地として、「ナスカ(Nazca)の地上絵」の位置を、そのまま紹介している。
その「ナスカの地上絵」の部分(ペルー、ナスカ郊外)には、あらかじめポイントマークがついている。
そのポイントマークの上を、まさにズバリ、通過した!
100メートルとか、200メートルの誤差もない。
10メートルの誤差もない。
まったくそのまま、数メートル単位の幅で、通過した!
(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)が、地球儀上では、一直線でつながっている。
これはだれも疑うことができない事実である。
(これを疑う人は、グーグル・アース上で、自分で確認してみるとよい。)
【2】(メキシコのテオティワカン)-(ギザのピラミッド)-(シュメール文明)-(西安)
何度か、確認してみたが、地球儀上(グーグル・アース上)では、一直線には、つながらなかった。
(グーグル・アースの上では、ギザ→シュメール→西安は、一直線上に並ばなかった)
そこで一般によく使われている、メルカトール図法による地図の上で、メキシコのテオティワカン、ギザのピラミッド、シュメール文明、西安の4か所を正確に特定してみた。
が、結果は、ご覧の通り。
この4か所は、ほとんど狂いがなく、一直線に並んでいることがわかった。
(メルカトール図法風の世界)
(メルカトール地図の上では、4つの古代遺跡が一直線に並んでいるのがわかる。
左から、テオティワカン(黄)、ギザ(緑)、シュメール(青)、西安(ヤンシャオ)(赤))
●なぜ西安が西安なのか?
私が最初に疑問をもったのは、なぜ西安が西安なのかという疑問。
ヤンシャオ(仰韶)文明は、西安の郊外で発掘されている。
半坡(はんぱ)遺跡というのが、それである。
エジプトのギザについても、同じ疑問をもった。
言い伝えによると、そこで使われた石材は、800キロも遠く離れた採石場から運ばれたという。
常識で考えれば、ピラミッドを建てるにしても、これほど非ロジカルな話はない。
採石場の近くで建てれば、その分だけ、人力の無駄を省くことができた。
が、なぜか、ピラミッドの建造者は、ギザにこだわった。
なぜか?
さらに言えば、ナスカの地上絵についても、言える。
地上からは見ることさえできない絵を、なぜ描いたか。
が、こうしてそれぞれが一直線に並んでいるのを知ると、その理由が浮かびあがってくる。
●さらなる事実
以上は、『ピラミッド』を見た、私の感想ということになる。
が、ここで終わったのでは、ただの受け売り。
そこで私なりに、さらに調べてみた。
で、「驚くべきことに」というほどの言葉はつけられないが、奇妙なことに気づいた。
これがわかったのも、グーグル・アースという最新のサービスがあったからである。
10年前だったら、これだけ調べるだけでも1日仕事。
図書館で悪戦苦闘しただろう。
が、今では、グーグル・アースを使えば、それが瞬時にわかる。
以下、その距離に注目してほしい。
(1)ギザ→イースター島 ・・・1万6168キロメートル
(2)ギザ→ナスカ(地上絵) ・・・1万2365キロメートル
(3)ギザ→ウル(シュメール)・・・ 1615キロメートル
(4)ギザ→西安 ・・・ 7183キロメートル
(5)ギザ→テオティワカン ・・・1万2342キロメートル
(2)のナスカまでの距離と、(5)のテオティワカンまでの距離は、ほぼ同じ。
また(3)のギザ→ウルの距離を10倍すると、ギザ→イースター島までの距離になる。
ただ西安までの距離だけが、どういうわけか、ほかの距離と関連性がないように思われる。
が、以上が、私の発見によるものである。
わかりやすく言えば、少なくとも、ギザを中心にして、ナスカとテオティワカンは、同心円上にある。
こうした事実を、「偶然」と片づけるには、無理がある。
・・・というのが、『ピラミッド』に主題にもなっている。
『ピラミッド』の中で、ナレーターはこう述べている。
「ピラミッドを建設したのは、歴代のエジプトの王と考えること自体、無理がある。
歴代のエジプトの王たちは、すでにあったピラミッドを自分の墓として、利用しただけ」(記憶による)と。
つまりそれが副題にもなっている。
「5000年の嘘」と。
私も、現在のエジプトから推察するまでもなく、あれほどまでの大工事を、エジプト人(アラブ人)がしたとは、どうしても考えられない。
(エジプトでは、そういう話はタブー。
エジプトの人たちは、そういう話をすると、激怒するが・・・。)
こうした古代文明は、宇宙から地球を見て、それが一直線であるとわかる人たちによって、作られた。
どうもそう考える方が、自然のようである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ピラミッドの謎 謎のピラミッド 一直線に並ぶ古代文明 ナスカ はやし浩司 イースター島 西安 仰韶 ヤンシャオ 半坡遺跡 はやし浩司 ウル シュメール文化 はやし浩司 黄帝内経(こうていだいけい)の謎)
Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司
(一直線でつながる古代文明)
(エジプトのピラミッド、以下、「ギザ」とのみ記録)
(ナスカ平原の地上絵)
(イースター島)
(イースター島2)
(イースター島→ナスカの地上絵→ギザのピラミッドは、一直線上に並んでいる)
(写真2)
(写真3)
(写真4、以上グーグル・アースより)
(さらに、メルカトール地図の上では、つぎの4つの古代遺跡が一直線に並んでいるのがわかる。
左から、テオティワカン(黄)、ギザ(緑)、シュメール(青)、西安(ヤンシャオ)(赤))
●午前5時
今朝は、午前5時起き。
トイレに起きたら、ちょうどヒグラシが鳴き始めた。
あたりは、まだ薄暗い。
トイレから出たあと、カバンから、3種類のカメラを取り出した。
SONYのビデオカメラ。
PANAの一眼レフカメラ。
それにインターバル撮影ができる、レコロ。
ワイフのじゃまにならないよう、抜き足、差し足で、外に出る。
まずビデオカメラで、風景+ヒグラシの声を撮影。
そのまま15分ほど、ベンチに座って、時を過ごす。
……山の生活を知らない人には、信じられないような話かもしれないが、事実は事実。
この山荘では、真夏でも、クーラーは、無用。
昨日(28日)は、浜松市内でも、35度Cを超えた。
日中は、それなりに暑いが、日が山の端に沈んだとたん、乾いた冷気が谷底からサーッと吹いてくる。
その風を扇風機で、体に当てる。
で、今もそうだ。
数メートル離れたところに扇風機が置いてある。
「弱」になっているが、それでも寒いほど。
その冷気を感じていると、再び睡魔が襲ってくる。
……眠い。
ぼんやりと、あれこれ考える。
というか、思考の焦点が定まらない。
……たった今は、こう思った。
家(市内)に戻ったら、動画を編集し、このページにその動画を挿入しよう、と。
どうか、お楽しみに!
●『ピラミッド』(5000年の嘘)
昨夜、『ピラミッド(5000年の嘘)』というDVDを借りてきた。
数学的事実に基づいた、ドキュメンタリー映画。
「数学的」というのは、あのピラミッドは、まさに数学のかたまり。
それを数学的に証明している。
おもしろいというより、驚く。
驚きの連続。
人によっては、世界観が変わるかも……という映画。
で、その映画の中に、西安が出てきたのには、驚いた。
中国の西安である。
その西安には、無数のピラミッドがあるという。
中国政府が許可していないので、調査はできないということらしいが、その西安には、もうひとつ、大きな謎の文明がある。……あった。
仰韶(ヤンシャオ)文明という文明である。
黄河に沿って発達したので、黄河文明とも呼ばれている。
このヤンシャオには、……というか、この話を書き始めたら、キリがない。
「謎の文明」とだけ、ここに書いておく。
シュメール文明との共通点(たとえば彩色土器)も、多い。
が、何と言っても私が興味をもったのは、「黄帝内経」という書物。
●黄帝内経
中国では、そして世界では、黄帝内経を医学書と考えている人が多い。
しかしただの医学書ではない。
天文学に関する書物である。
それを後の学者たちが、勝手に医学書に書き改めてしまった。
黄帝内経が、本当に「黄帝」の時代から伝わっている書物であるとするなら、西安もまた、特筆すべき都市ということになる。
DVDを見終わったあと、ワイフとこう約束した。
「来年には、西安へ行ってみよう」と。
(ヤンシャオ文明は、現在の西安の当方部で誕生した。「黄河文明」と言われている)
その黄帝内経について書いた原稿を探してみる。
10年ほど前、埼玉県所沢市に、全国から東洋医学の研究者らが集まった
その場で、基調講演をさせてもらった(国立身体障害者リハビリセンターにて)。
間に30分の休憩をもらったが、4時間以上もの長講演だった。
その一部を紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●神々の言葉
私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。
漢方(東洋医学)のバイブルと言われている本である。
東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わないが、しかしこの本がその原点にあることはまちがいない。
その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆であること。
黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(ぎはく)という学者の問答形式で書かれているが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。
そしてその疑問や質問、さらには矛盾につぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。
一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」という形式で書かれている。
つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書いている。
そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。
もし絶対的な権威ということになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。
(そういう部分もあるが……。)
岐伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。
しかしこれには二つの理由がある。
●もともと、医学書ではなかった
黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。
前一世紀の図書目録である、漢書「藝文志」に医書として分類されていることによる。
ここで医書として分類されたことが、正しいかったかどうかということについては、疑問がある。
さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかということについては、疑問がある。
が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。
科学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。
その科学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。
矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点のまちがいもない)にキズがつくことになる。
ここが宗教という哲学と大きく違う点である。
つまり黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。
もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。
しかし断片的な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。
たとえばこの私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるものは、書いていない。
これから先も、多分、書けないだろうと思う。
もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはできない。
できないというより、たいへん困難なことである。
つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよいが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。
これは実は聖書についても同じことが言えるが……。
●黄帝内経(こうていだいけい)の謎
私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎのような記述があることを知ったときのことだ。
黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。
岐伯は、「岐伯曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。
これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。
しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。
「地は、人の下にあって、太虚の中にある」と。
「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加えたかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいのか。
漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前1世紀ということになると、少なくとも、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだとしても、西暦752年の常識ではなかったはずである。
ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。
小曾戸氏も薮内氏も、「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるのが正しい。
「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。
気のひとつである。
その気がない状態を、虚。
さらに何もない状態を太虚という。
今風に言えば、まさに真空の状態ということになる。
●当時の常識
もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。
当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。
恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さんには苦心したのではなかろうか。
(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)
その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。
つまりわざと医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。
さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこんなところに書く必要はない。
この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べているのである。
王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかった。
またそう読むことによってのみ、この部分を理解できる。
話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。
当時の私は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえた。
その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前3500年。
今から5500年前ということになる。
(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)
少なくとも、この一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。
●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか
黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文句を付け加えた。
これは動かしがたい事実である。
たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほうでは、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には一年のずれを生じます……」とある。
薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと思われる。
つまり、より原書に近いとみてよい。
一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。
この部分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が見られる。
たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……
「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこにもない!)
こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたともとれる。
が、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。
中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。
そういう時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。
ヨーロッパでそれをしたため、弾圧された人すらいた。
コペルニクスが、その人である(1543年「天球の回転について」)。
宇宙創造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。
さらに中国では、中国式権威主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。
そういう時代的背景を忘れてはいけない。
●地動説
が、それでも地動説の片りんが残った!
私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければならない点は、まさにこの一点にある。
そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについて、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」というように反論する。
しかしこの視点はおかしい。
もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっ先に削除されたであろうということ。
それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるがゆえに、今に残ったというふうに考えられる。
今、あいまいだからといって、さらにその内容を負(マイナス)の方向に引くことは許されない。
私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向こうにある事実を見ることなのである。
「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、「改ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。
●365日余で、もとに戻るものは何か
黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とある。
ここで考えることは、「何が、戻るか」である。
今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷わずこう答える。
「地球」と。
そう、地球の公転である。
地球は、太陽のまわりを、365日余で一周し、またもとの位置に戻ってくる。
こんなことは常識。
しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。
第一、私たちは黄帝内経は、医学書であって、科学の本ではないという前提で読む。
第二、私たちは黄帝内経の時代に、そんな常識はなかったという前提で読む。
しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。
こうある。
「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。
この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きについて聞いたものだということがわかる。
季節の移り変わりを聞いたものではない。
いわんや大気の変化を聞いたものではない。
そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほうが正しい。
その理由はいくつかある。
もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く必要はない。
関連性がまったくなくなってしまう。
つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改めて書くまでもないことである。
仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそまさに木に竹をつぐような文章になってしまう!
●回転する
ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。
これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はおろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。
薮内氏自身も、そういう前提で訳している。
だからあえて、わかりにくく訳した。
とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部分である。
何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれは正しいのか。
「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。
もし「左右に(回って)」と訳すと、意味がすっきりする。
「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもどる」と。
地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。
つまり右転している。
北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。
つまり左転している。
こうして右転、左転しながら、回る、と。
黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったものである。
注※…コペルニクス
(ラテンNicolaus Ccpernicus ニコラウスー)本名はコペルニク。ポーランドの天文学者で、ローマカトリック教会の聖職者。ギリシア思想の影響を受け、肉眼による天体観測に基づいて地動説を提唱。著書「天球の回転について」は、教会との摩擦を避けて死の直前に刊行された。(1473~1543)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●西安
若いときは、そこにある謎を食いさすようにして、人は生きていく。
未来という時間が、永遠にあるように感ずる。
が、私の年齢になると、その先に感ずるのは、いつも袋小路。
だからこう思う。
「結論を出したい」と。
もう少しわかりやすい言葉で言えば、「決着」でもよい。
「決着をつけておきたい」と。
黄帝内経もそのひとつ。
その謎を解く鍵が、西安にある。
ヤンシャオ(仰韶)文明にある。
当時の中国といえば、新石器時代の後期。
火を使うことを知らない部族もいたという。
そのため疫病が絶えなかったという。
そういう時代に、突如として、ヤンシャオ文明が誕生した。
恐るべき知識と技術をもった文明である。
黄帝内経なる書物が、本当にその時代に書かれたものかどうかは別として、(というのも、文字の発明は、ずっとそのあとということになっているので)、西安には、底知れぬ謎が隠されているのは事実。
(実際には、ヤンシャオ文明が生まれたのは、西安の東方部。
現在、西安には、ヤンシャオ文明を知る博物館などがあるという。
最近になって、西安の遺跡から、文字らしきものも発掘されている。)
が、黄帝の時代に、黄帝内経が書かれたのではないと断言することもできない。
当時は、知識は、口頭伝承といって、特別に選ばれた人(多くは子ども)が、言葉を暗記し、それでもって、後世へ伝えていくという方法がとられた。
エジプトのピラミッドと、その西安がつながっている!
……というようなことを、DVD『ピラミッド』は、教えてくれた。
●謎の一直線
DVD『ピラミッド』は、話せば長くなるので、その一部だけを紹介する。
この話を疑う人は、地球儀をもってきて、自分で確かめてみたらよい。
驚くべき事実である。
(1)(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)は、一直線でつながっている。
しかもその直線は、赤道に対して、正確に30度の角度を保っている。
(2)(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(西安)は、一直線でつながっている。
テオティワカンの遺跡(地図)
テオティワカンの遺跡(写真)
これらの文明の跡には、共通した石造物が多いことがよく知られている。
そればかりかその直線下には、数多くの古代文明が並んでいる。
たとえば天空都市と呼ばれるマチュ・ピチュ(クスコ近郊)がある。
ギザとイースター島を結ぶ直線は、このマチュ・ピチュとクスコの間を縦断している。
またマチュピチュは、その直線から17キロしか離れていない(グーグル・アース上で測定)。
(マチュ・ピチュの遺跡・天空都市)
(下部、右中央部から、左下に斜めに走る黄色い線が、ギザとイースター島を結ぶ線。
ラインより、17キロ北方に、マチュ・ピチュの天空都市があることがわかる)
なおDVD『ピラミッド』は、もうひとつ重要な事実を見落としている。
それを付け足しておく。
ここで、(2)(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(西安)は、一直線でつながっていると書いた。
これはDVDの説明を書きとめたものである。
しかしその一直線上に、もうひとつきわめて重要な文明が、存在する。
「シュメール文明(シュメル文明)※」である。
旧約聖書の母体となった文明と考えるとわかりやすい。
(これは私の発見!)
(シュメール文明は、現在のペルシャ湾北部で誕生した)
(メキシコのテオティワカン※)-(ギザのピラミッド)-(シュメール文明)-(西安)と並ぶのは、はたして偶然なのか?
(注※)……テオティワカン (Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。
当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で、太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり、各施設が配置されている。(以上、ウィキペディア百科事典より)
(注※)……シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。
初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。
シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。
(以上、ウィキペディア百科事典より)(はやし浩司 2012-07-29記)
●検証
が、鵜呑みは何ごとにつけ、よくない。
そこで私なりに検証してみた。
結果、驚くべきことがわかった。
【1】(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)
これについては、今では、グーグル・アースを使えば、瞬時に確認できる。
私は(1)まずエジプトの三大ピラミッドのひとつである、ギザのピラミッドの頂点に、画びょう(ポイントマーク)をつけた。
(2)つぎにイースター島の中央(イースター島は、三角形になっているので、その中央部)に、画びょう(ポイントマーク)をつけた。
(3)(1)の画びょうと、(2)の画びょう間の、距離を測定する要領で、線を引いた。
で、結果を見て、即、ギョッとした。
(ギザとイースター島を結ぶ直線の直下に、ナスカの地上絵がある)
グーグルアースでは、観光地として、「ナスカ(Nazca)の地上絵」の位置を、そのまま紹介している。
その「ナスカの地上絵」の部分(ペルー、ナスカ郊外)には、あらかじめポイントマークがついている。
そのポイントマークの上を、まさにズバリ、通過した!
100メートルとか、200メートルの誤差もない。
10メートルの誤差もない。
まったくそのまま、数メートル単位の幅で、通過した!
(ギザのピラミッド)-(ナズカの地上絵)-(イースター島)が、地球儀上では、一直線でつながっている。
これはだれも疑うことができない事実である。
(これを疑う人は、グーグル・アース上で、自分で確認してみるとよい。)
【2】(メキシコのテオティワカン)-(ギザのピラミッド)-(シュメール文明)-(西安)
何度か、確認してみたが、地球儀上(グーグル・アース上)では、一直線には、つながらなかった。
(グーグル・アースの上では、ギザ→シュメール→西安は、一直線上に並ばなかった)
そこで一般によく使われている、メルカトール図法による地図の上で、メキシコのテオティワカン、ギザのピラミッド、シュメール文明、西安の4か所を正確に特定してみた。
が、結果は、ご覧の通り。
この4か所は、ほとんど狂いがなく、一直線に並んでいることがわかった。
(メルカトール図法風の世界)
(メルカトール地図の上では、4つの古代遺跡が一直線に並んでいるのがわかる。
左から、テオティワカン(黄)、ギザ(緑)、シュメール(青)、西安(ヤンシャオ)(赤))
●なぜ西安が西安なのか?
私が最初に疑問をもったのは、なぜ西安が西安なのかという疑問。
ヤンシャオ(仰韶)文明は、西安の郊外で発掘されている。
半坡(はんぱ)遺跡というのが、それである。
エジプトのギザについても、同じ疑問をもった。
言い伝えによると、そこで使われた石材は、800キロも遠く離れた採石場から運ばれたという。
常識で考えれば、ピラミッドを建てるにしても、これほど非ロジカルな話はない。
採石場の近くで建てれば、その分だけ、人力の無駄を省くことができた。
が、なぜか、ピラミッドの建造者は、ギザにこだわった。
なぜか?
さらに言えば、ナスカの地上絵についても、言える。
地上からは見ることさえできない絵を、なぜ描いたか。
が、こうしてそれぞれが一直線に並んでいるのを知ると、その理由が浮かびあがってくる。
●さらなる事実
以上は、『ピラミッド』を見た、私の感想ということになる。
が、ここで終わったのでは、ただの受け売り。
そこで私なりに、さらに調べてみた。
で、「驚くべきことに」というほどの言葉はつけられないが、奇妙なことに気づいた。
これがわかったのも、グーグル・アースという最新のサービスがあったからである。
10年前だったら、これだけ調べるだけでも1日仕事。
図書館で悪戦苦闘しただろう。
が、今では、グーグル・アースを使えば、それが瞬時にわかる。
以下、その距離に注目してほしい。
(1)ギザ→イースター島 ・・・1万6168キロメートル
(2)ギザ→ナスカ(地上絵) ・・・1万2365キロメートル
(3)ギザ→ウル(シュメール)・・・ 1615キロメートル
(4)ギザ→西安 ・・・ 7183キロメートル
(5)ギザ→テオティワカン ・・・1万2342キロメートル
(2)のナスカまでの距離と、(5)のテオティワカンまでの距離は、ほぼ同じ。
また(3)のギザ→ウルの距離を10倍すると、ギザ→イースター島までの距離になる。
ただ西安までの距離だけが、どういうわけか、ほかの距離と関連性がないように思われる。
が、以上が、私の発見によるものである。
わかりやすく言えば、少なくとも、ギザを中心にして、ナスカとテオティワカンは、同心円上にある。
こうした事実を、「偶然」と片づけるには、無理がある。
・・・というのが、『ピラミッド』に主題にもなっている。
『ピラミッド』の中で、ナレーターはこう述べている。
「ピラミッドを建設したのは、歴代のエジプトの王と考えること自体、無理がある。
歴代のエジプトの王たちは、すでにあったピラミッドを自分の墓として、利用しただけ」(記憶による)と。
つまりそれが副題にもなっている。
「5000年の嘘」と。
私も、現在のエジプトから推察するまでもなく、あれほどまでの大工事を、エジプト人(アラブ人)がしたとは、どうしても考えられない。
(エジプトでは、そういう話はタブー。
エジプトの人たちは、そういう話をすると、激怒するが・・・。)
こうした古代文明は、宇宙から地球を見て、それが一直線であるとわかる人たちによって、作られた。
どうもそう考える方が、自然のようである。
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Hiroshi Hayashi+++++++July. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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