●日本大使館前の従軍慰安婦像
韓国政府は、日本大使館前に従軍慰安婦像を設置した。
日本でもそうだが、公共の道路に「像」を設置するには、管理者である国の許可が必要。
「民間団体が勝手に設置した」という理屈は、残念ながら、通らない。
今朝も書いたが、敵対国でも、そこまではしない。
しないという点で、今回の従軍慰安婦像の設置は、常軌を逸している。
●無視
従軍慰安婦像の設置で、笑われるのは、この日本ではなく、韓国である。
「韓国というのはおかしな国だ」と、まともな神経の持ち主なら、みな、そう思うだろう。
「抗議」というよりは、「露骨な嫌がらせ」。
だから無視すればよい。
やりたいように、させておけばよい。
そのほうが、「韓国というのは、そういう国」ということを、世界のみならず、日本国民にも教えることができる。
韓流何とかで、浮かれているお馬鹿日本人の頭を、少しは冷やすことができる。
お人好し外交をつづける現政権も、少しは自分の愚かさに気がつくだろう。
●武士道
武士道を批判すると、どっと抗議の書き込みがふえる。
嫌がらせも多い。
そういうのを読んでいると、武士道が、今、カルト化している(?)。
そんな印象をもつ。
が、さらに私は、あえて反論する。
江戸法制史を学んだことがある人なら、みな知っている。
当時の日本は、拷問と自白のみによって、罪刑が確定していた。
が、ひとたび拷問が始まれば、自白するまで……つまり死ぬまで拷問はつづいた。
途中でやめれば、江戸幕府の沽券(こけん)に傷がつく。
名誉が失墜する。
だから江戸時代の拷問は、これまた世界でも類をみないほど、過酷かつ残虐なものであった。
先にも書いたように、自白すれば、即、処刑。
処刑の仕方も、罪状に応じて、これまた残虐きわまりないものであった。
そういう時代をさして、「武士道」とは?
つまり武士が説くところの「恥」とは、「沽券(権威)に対する恥」をいう。
正義のためでも、自由のためでも、博愛のためでも、平和のためでもない。
もちろん人間のためでもない。
「文武」の「文」は、自らを特権階級に仕立てるため。
平民には文字の読み書きすら教えなかった。
「文武」の「武」はもちろん、自らの特権階級を守るため。
刀をもった人間が、いかに恐ろしい存在であるかは、10年ほど前に佐賀県で起きた、少年によるバス・ハイジャック事件を思い出してみれば、わかるはず。
繰り返すが、だからといって、歴史は歴史。
それなりの評価をくだすことは重要。
私とて、武士道をすべて否定しているわけではない。
しかしおかしな復古主義に毒されてはいけない。
私も、あなたも、かつては、その武士階級に虐げられた平民の子孫である。
農民の子孫である。
そんな私やあなたが、武士道を礼賛して、どうする?
どうなる?
それがわからなければ、もう一度、福沢諭吉の書いた『学問のすすめ』※を紐解いてみることだ。
(注※)『学問のすすめ』
『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし』(書き出し部分を抜粋)と。
あの時代にあって、ここまで書いた福沢諭吉の勇気に驚く。
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年12月16日金曜日
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