【弟子論】
●孔子の論語「三楽について」
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『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と
彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した
書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教
における「四書」の1つに数えられる(以上、
ウィキペディア百科事典より)
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●孔子の「三楽について」
孔子曰、益者三樂、損者三樂、樂節禮樂、樂道人之善、樂多賢友、益矣、樂驕樂、樂佚遊、樂宴樂、損矣。
孔子の曰わく、益者(えきしゃ)三楽(さんらく)、損者(そんしゃ)三楽。礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しみ、人の善を道(い)うことを楽しみ、賢友(けんゆう)多きを楽しむは、益なり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なり。
●三楽
「楽」といっても、内容はさまざま。
○礼楽(れいがく)を節(せっ)せんことを楽しむ。
○人の善を道(い)うことを楽しむ。
○賢友(けんゆう)多きを楽しむ。
×驕楽(きょうらく)を楽しむ。
×佚遊(いつゆう)を楽しむ。
×宴楽(えんらく)を楽しむ。
孔子は、上記(○)を益者三楽、(×)を損者三楽と位置づけた。
田丸謙二先生が説く「弟子」とは、孔子の説いた「賢友」のことか。
釈迦も、キリストもその弟子に恵まれた。
弟子が、釈迦やキリストの教えを広めた。
もし弟子がいなかったら、釈迦もキリストも、その名すら世界に知られることはなかった。
田丸謙二先生は、この三楽を引用しながら、「孔子が論語で言いました三楽の一つは、
本当の弟子を育てることである」と説いている。
その通りだと思う。
私たちがなぜ今、ここに生きているかといえば、子孫をつぎの時代に残すため。
肉体は生殖によって残すことができる。
が、精神は、「弟子」によって、残すことができる。
少なくともほかに伝達手段のなかった、孔子の時代にはそうだった。
が、ここでひとつのパラドックスにぶつかる。
「弟子はどうすればいいのか」というパラドックスである。
弟子は弟子。
師にはなれない。
師になったとたん、弟子は弟子でなくなってしまう。
●師の連鎖
孔子はそれでよい。
釈迦もキリストもそれでよい。
弟子を作り、自分の考えを教え広めることができた。
では、弟子はどうするのか。
単刀直入に言えば、弟子はただ「師」の教えを忠実に後世に伝える伝道者であれば、
それでよいのか。
たとえばキリストの弟子のマタイは、キリストの重要な教えを後世に残した。
しかしマタイ自身は、キリストを超えることはできなかった。
弟子のままだった。
が、もちろんそうではない。
またそうであってはいけない。
弟子はつぎの段階では「師」であり、その弟子も、そのつぎの段階では「師」になる。
それを「師の連鎖」と考えるなら、師の連鎖こそが、人間の精神を高揚する。
田丸謙二先生の弟子は、今度は師となり、また自分の弟子を育てる。
たぶん田丸謙二先生も、そういう意味で、「弟子を育てなさい」と言っている。
●多元化する現代社会
が、師はつねに、自分に忠実な、つまりは自分だけを師とするような弟子を求めやすい。
釈迦もキリストも、そうだった。
(「汝の敵を愛せよ」と教えたキリスト自身は、自分の敵を許さなかった。
これもパラドックスである。)
科学の世界と宗教の世界は、ちがうかもしれない。
しかし現代社会は、釈迦やキリスト、さらには孔子が生きていた時代とはちがう。
私自身にしても、中学、高校、大学と、それぞれの段階で、多くの師に囲まれた。
さらに今というこの時点においても、それぞれの分野に、「師」がいる。
一元的な師弟関係というのは、現実には、存在しない。
(繰り返しになるが、宗教の世界では、師はつねに1人ということになる。)
加えてこれほどまでの情報社会になると、私たちは常に無数の情報を吸収し、
その一方で、これまた無数の情報を吐き出す。
と、考えていくと、(つまり田丸先生流に、自分の頭で、independentに考えていくと)、
師とは何か。
弟子とは何か。
さらに言えば、三楽とは何か、それがわからなくなる。
(もともと私はこういう教条的なものの考え方が好きではないのだが……。)
つまり私はもとから、「弟子」などというもは、考えていない。
私自身が「師」になろうという野心もない。
その力もない。
言い換えると、私は(人)から(人)への一里塚。
どうせ人は死ねばおしまい。
何らかの形で、「私」の影響は残るかもしれない。
が、そこまで。
名前を残したところで、意味はない。
大切なことは、つぎの世代の人たちが、よりよい人生を歩むこと。
それでよい。
●現代という時代の中で
コンピューターとそれにつづくインターネット。
これをさして、「第二の産業革命」と説く人は多い。
(もっともそう評価されるためには、もう少し時代の流れを見なければならないが……。)
しかしコンピューターとインターネットが、私たちの生活を根底からひっくり返し始めて
いるのは、事実。
たとえば私はこうしてものを書く。
書いたものは、瞬時に、世界中の人たちの目に届く。
HPとBLOGの両方だけで、毎月のアクセス数が、2009年の5月、30万件を
超えた。
現在は、もっと多い。
中には、毎日、熱心に私の原稿を読んでくれる人がいる。
ときどきそういう人に出会う。
先日も、あるレストランへ入ったら、そこの店主がこう言った。
「先生(=私)の原稿を、毎日読んでますよ」と。
が、私はそういう人たちに対して、「私は師」と思ったことはない。
また読者イコール、「弟子」と考えたこともない。
読者自身も、そうは思っていないだろう。
それに読んでくれるからといって、私の意見への賛同者とはかぎらない。
多くは、「くだらないことを書いている」と、笑っているかもしれない。
が、それにしても、すばらしいことではないか。
地方の、浜松市にいながら、東京を通り越して、世界に向けて情報を発信することが
できる。
反対に、地方の、浜松市にいながら、世界の最新の情報を、そのまま受け取ることが
できる。
本を書くときのようなめんどうな手続き(出版社とのやり取り全般)も、必要なし。
しかも読者の反応も、これまた瞬時に届く。
これを「第二の産業革命」と言わずして、何と言う?
ずいぶんと回りくどい言い方をしたが、田丸謙二先生の説く「弟子」の時代は、
すでに終ったのではないか。
それを支える「上下意識」も、すでに崩壊している。
少なくとも、一元的な師弟関係の時代は終ったのではないか。
孔子の時代とは異なり、情報の伝達方法そのものが変わった。
今の私は、そう考える。
不特定多数の「師」が、これまた不特定多数の「弟子」をもち、その不特定多数の
「弟子」が、これまた別の世界で、不特定多数の「師」となる。
そういう関係が渾然一体となって、現代社会の人間関係を、網の目のように創りあげて
いる。
それがあえて言えば、現代版の師弟関係ということになる。
●孔子の時代
神格化している孔子を批判すのは、たいへんなこと。
恐れ多い。
しかし孔子の時代と、現代を同一視することは危険なことでもある。
先にも書いたように、「三楽」とか、「益楽」「損楽」と、教条的に考えるのは、私は
好きではない。
あまりにも教条的である。
人間の生活は、もっと多様性に富んでいる。
それぞれがスペクトラムのように、たがいに入り混じっている。
教条のこわいところは、教条によってその人を束縛する点のみならず、それ以外の
思考性を否定するところにある。
あるいは人から考える力、そのものを奪う。
さらに言えば、「楽」とは何か、その定義もあいまい。
孔子が生きていたころのように、情報が恐ろしく貧弱な時代(失礼!)には、それなり
に説得力はあったかもしれない。
が、今はちがう。
PETの発達とともに、人間の脳の働きを、リアルタイムに見ることもできるように
なった。
「欲望」についても、大脳生理学の分野で、科学的な説明がなされ始めている。
視床下部から発せられる信号に応じて、ドーパミンという脳間伝達物質が分泌される。
それが人間の生きる原動力となる。
(生きる)こと自体が、(欲望)の現れと考える。
方向性こそちがうが、真理探究に向かうエネルギーも、享楽に向かうエネルギーも、
中身は同じ。
少なくとも脳内の反応としては、区別がつかない。
ときには、驕楽(きょうらく=傲慢)を楽しみ、佚遊(いつゆう=怠惰)を楽しみ、
またときには、宴楽(えんらく=酒盛り)を楽しむ。
同時に真理探究のも心がける。
それが人間ではないのか。
「悪」と決めつけてはいけない。
……とまあ、居直ってばかりいてはいけない。
が、つまるところ、「教育」というのは、そういうもの。
何も期待せず、何も求めず、我が正しいと思うところを、子どもに伝えていく。
そのあとの判断は、子どもに任せればよい。
くだらないと思って去っていく子どももいれば、すばらしいと言って近づいてくる
子どももいる。
去っていく子どもも、近づいてくる子どもも、弟子は弟子。
賛同してくれないから弟子でないとか、賛同してくれるから弟子と考えてはいけない。
それこそ、「驕楽(傲慢)」と言うべき。
●はやし浩司流「弟子論」
以上が、私が考えた「弟子論」ということになる。
ただ田丸謙二先生は、私の住む世界とは、まったく異質の世界に住んでいる。
田丸謙二先生の住んでいる世界は、学問の世界。
真理探究の世界。
そういう世界では、真理の積み重ねが必要不可欠。
つまり人間関係は師弟関係で結ばれる。
またそれがないと、「体系(=組織)」が確立しない。
一方私が住んでいる世界は、俗世間。
そもそも「師」として残すようなものは、考えていない。
また残せるようなものは、何もない。
またそこに私の信奉者がいたとしても、私はその名前はおろか、存在すら知らない。
ゆいいつの指標は、読者がふえているということ。
が、それとて、数字の話。
YOUTUBEの動画だけでも、このところ毎日800件(インサイト)もアクセス
がある。
が、「800件」という数字があるだけで、実感はない。
つまりそれが現代流の、師弟関係(?)と考えられなくもない。
……ということで、このエッセーの結論。
田丸謙二先生は、「弟子を育てろ」と私に教える。
しかし今の私には、それについてどう答えたらよいのか、わからない。
ただひとつはっきりしている点がある。
それは私は、田丸謙二先生の、弟子の一部。
「1人」ではなく、あくまでも「一部」。
田丸謙二先生の書いた原稿を、できるだけ末永く残す。
教えを守り、この先、ひとつずつ考証しては、自分の考えを書き足していく。
1人のIndependent Thinkerとして……。
●弟子の一部として
恩師、田丸謙二先生のような先生の意見に異議を唱えるのは、本当に恐れ多いこと。
このままこの原稿をボツにしようかとも考えた。
が、私は私。
Independent Thinker。
このまま保存する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 弟子論 師弟関係 はやし浩司 孔子 三楽 はやし浩司 三楽 賢友)
Hiroshi Hayashi+++++++March. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●将棋の話(将棋に見る独裁者)
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将棋では、相手から駒を取ったら、その駒は、
即、今度は自分の駒になる。
自分の駒となって、相手を攻撃する。
(その反対のばあいも、そうである。)
が、この忠誠心のなさ。
薄情さ。
俗世間の言葉を借りるなら、これほどまでの
裏切り行為はない。
……と考えたところで、ハタと筆が止まる。
「これは日本の武士道の精神に反する」と。
そこで将棋の歴史を調べてみる。
現在、私たちが「将棋」と読んでいるゲームは、
平安時代の昔には、すでにあったようだ。
ウィキペディア百科事典には、つぎのように
ある。
「平安時代から五角形の板に墨で字を書く
という形式を保ち、ほとんど変化していない。
現在発掘されている駒で年代が特定されて
いるもののうち、もっとも古いものは奈良県
の興福寺旧境内跡から発掘されたものである」と。
つまり武士道が確立する前から、将棋は
あった。
もしそのとき武士道が確立していたら、
ルールは大きく違っていたはず。
武士道の精神が少しでもあるなら、将棋のように
コロコロと主君を替えるなどいうことはありえない。
たとえば西洋のチェスのように、一度
取られた駒は、死んでおしまい。
「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)である。
言い換えると、平安時代の昔には、
主従関係も、江戸時代のそれよりは、
はるかに緩(ゆる)やかで、いいかげんなもので
あったということになる。
主君など、だれでもよい。
そのときメシを食わせてくれるのが、主君。
その主君にために働く。
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●独裁者
ご存知のように将棋では「王(おう)」もしくは「玉(ぎょく)」が取られたら、
おしまい。
そのため金将、銀将以下みな、ときとばあいに応じて、どんどんと自爆攻撃を
しかけていく。……犠牲になっていく。
おとりになることもある。……犠牲になっていく。
つまり将棋の世界に見る「王」「玉」は、まったくの独裁者。
自分の身代わり、もしくは後継者の存在すら許さない。
つまり将棋の差し手は、ゲームをしている間、完全な独裁者になる。
独裁者になりきって、将棋を指す。
ほかの駒への情け容赦は、無用。
自爆攻撃を命令するのも、指し手。
おとりに駒を差し出すのも、指し手。
自分という「王」を守ることだけを考えて、将棋を指す。
相手の「王」を殺すことだけを考えて、将棋を指す。
将棋を指していると、ときどき自分が独裁者になったような気分になるのはそのためか。
あるいは独裁者の気持ちがよく理解できる。
●ルールの変更
そこでルールを変更してみたら、どうだろう。
いろいろ考えられる。
(1)駒の置き方は自由にする。(「歩」の位置はそのままで、試合の直前まで、相手に
見せないようにする。)
(2)駒の上下関係はなくす。(ただし、動きは今まで通りでよい。)
(3)相手の駒を取ったら、自分の駒として使うことができる。(このルールは従来通り。)
(4)相手の駒をすべて取ったら、勝ち。(「王」を取ったら、勝ちというのではない。)
こうすれば、将棋も、ずっと民主的になる。
言うなれば「民主将棋」。
……というか、私はときどきこのルールで、学生時代から将棋を指している。
最初は、将棋盤の上に、ついたてを立てておく。
「歩」だけは、従来通りに置き、そのほかの駒は、1段目、2段目に自由に並べる。
ついたてを取った瞬間、ゲームが始まる。
結構、このルールはおもしろいので、もし将棋を指すのが好きな人がいたら、一度、
ためしてみたらよい。
●独裁者論
将棋は独裁者vs独裁者のゲームである。
あとの駒は、すべてその独裁者のためにある。
が、将棋がおもしろいのは、策略、謀略、罠、おとりが、一手ごとに、複雑に交錯
するところにある。
囲碁やチェスもおもしろいが、「奥深さ」という点では、将棋にはかなわない。
が、将棋のおもしろさは、それにとどまらない。
将棋の世界を通して見ると、独裁者と呼ばれる人たちの心の動きが、よくわかる。
つまり独裁者の立場を、模擬体験できる。
たとえば北朝鮮の金xx。
リビアのカダフィなどなど。
(1)独裁者はまず、身辺を親衛隊で固める。
忠誠心だけの、脳なし(能ではなく「脳」)の親衛隊であればあるほど、よい。
あるいは特別に優遇する。
(2)独裁者がいちばん恐れるのは、クーデター。
軍部の反乱。
そのため軍の中枢部には、親族を配置する。
あるいは判断力のない老兵を、象徴的に配置する。
(3)自分をかぎりなく神格化し、絶対化する。
が、ここで誤解してはいけないのは、独裁者自身が、それを望んでいるのではないと
いうこと。
独裁者を取り囲む、取り巻きが、それを望み、独裁者を神格化、絶対化する。
国全体を宗教国家化するという方法もある。
あるいは既存の宗教を利用する。
少し前に亡くなった、F氏(北朝鮮から亡命してきた政府高官)は、こう言っていた。
「金xxを支えているのは、取り巻きの20人程度。
多くても100人程度」と。
つまりそういう人たちが「王の世界」を構成する。
(4)警戒すべきは、知識階級。
独裁者がもっとも恐れるのは、知識階級。
『庶民は宗教を信じ、知識階級は宗教を疑う。が、独裁者は宗教を利用する』
(西洋の格言)と。
知識階級が、独裁者の神格性、絶対性を疑う。
そこで、つまり知識階級を抑え込むためには、2つの方法がある。
ひとつは物理的な方法で、抑え込む。
粛正という手段で、闇から闇に葬る。
ポルポトの大虐殺は、こうして始まった。
もうひとつは、知識階級そのものを独裁者の権威で、権威付けする。
その権威で、知識階級を懐柔する。
独裁者名で、「~~賞」を授与する。
●されど、おもしろい
私の寝床の枕もとには、SONYのPSPが置いてある。
このところ毎朝、床から起き上がる前に、PSPを相手に将棋を指す。
それが日課になっている。
ぼやけた頭を覚醒させるには、この方法は、たいへんよい。
プラス、私のような凡人でも、独裁者の気分を楽しむことができる。
とくに相手の王を追い込み、グサリととどめの一発!……そのとき覚える快感は、
ほかのゲームでは味わえない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 将棋論 独裁者論 独裁者の論理 将棋の論理)
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