【生きる目的と意味、そしてその生き様】(はやし浩司 2012ー01-01)
●前向きに生きる
前向きに生きるということは、簡単に言えば、過去を引きずらないということ。
そのためには、つぎの7つを守る。
(1) 失ったものを、嘆かない。
(2) 去った人を、追わない。
(3) ないものを、ねだらない。
(4) 亡くなった人を、思わない。
(5) 過去を、くやまない。
(6) 失敗を、気にしない。
(7) 自分の不幸を、数えない。
が、それだけでは足りない。
生き様そのものを変える。
自分に対しては、つぎの3つを守る。
(1) あるがままの自分を認める。
(2) 負けを認める。
(3) 今を原点として、生きる。
人間は、希望さえあれば、生きていくことができる。
が、希望は、だれにでもある。
今、ここに生きている、そのこと自体が、希望。
目が見える、音が聞こえる、風を感ずることができる……それが希望。
人と心を通わせることができる、ものを考えることができる……それが希望。
その希望は、自ら創り出すもの。
待っていても、やってこない。
日々の弛(たゆ)まない鍛練こそが、希望を生む。
肉体の健康、しかり。
精神の健康、しかり。
他人に対しては、つぎの5つを守る。
(1)人を、恨んではいけない。
(2)人を、ねたんではいけない。
(3)人に、ねだったり、甘えてはいけない。
(4)人を、うらやましがってはいけない。
(5)人に、へつらい、自分を裏切ってはいけない。
さらに老後の、しっかりとした設計図をもつ。
そのためには、つぎの4つを守る。
(1) 私は私と割り切り、自分を他人と比較しない。
(2) 年齢という数字を、気にしない。
(3) 最後の最後まで、居直って生きる。
(4) 孤独死、無縁死を、恐れない。
あとは日々、平穏を旨とし、取り越し苦労にヌカ喜びをしない。
時の流れの中に身を置き、その流れに身を任す。
命は、そのまま天に任す。
朝、起きたときに、やるべきことがある人は、幸福と思え。
今日1日、今週1週間、今月1か月、今年1年、やるべきことがある人は、幸福と思え。
それを「真の幸福」という。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
さあ、あなたも勇気を出し、足を一歩、前に踏み出そう。
明るい未来に向かって、まっすぐ歩こう!
『心を解き放てば、体はあとからついてくる』(アメリカの格言)。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福論 前向きに生きる 老後の生き様 過去を振り返らない はやし浩司 失ったものを嘆くな)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●人を恨まない
H・フォスディック(Henry Fosdick)はこう言った。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat.
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで心が腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方は、いろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
人を恨めば、人生を棒に振る。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげている。
が、それでも恨みが消えないときは、どうするか。
●真の自由
過去を引きずったとたん、人生は監獄になる。
が、だれしも、恨み、つらみはある。
失ったことを嘆き、不運を悔やむ。
が、そういうときは、それから逃げてはいけない。
とことん、恨め。
とことん、憎め。
とことん、過去を悔やめ。
身がボロボロになるまで、恨め、憎め、過去を悔やめ。
恨んで恨んで、憎んで憎んで、悔やみたいだけ悔やめ。
自分を燃やし尽くせ。
すべてのエネルギーを燃やし尽くしたとき、あなたはその先に、恐ろしく静かな世界を見る。
それはあなたの魂が解放された、無の世界。
そのときあなたは、はじめて、真の自由を知る。
●運命
今、あなたが苦しんでいるなら、幸いと思え。
あなたが悲しんでいるなら、幸いと思え。
あなたは今、まさに真理のドアを叩いている。
そのドアの向こうでは、真理が、あなたがドアを開いてくれるのを待っている。
息を潜(ひそ)め、静かに待っている。
大切なことは、苦しみや悲しみから、逃れようとしないこと。
逃れようとしたとたん、運命はキバをむいて、あなたに襲いかかってくる。
が、あなたが苦しみや悲しみに、真正面から立ち向かえば、運命はシッポをまいて、向こうから退散していく。
方法は簡単。
あるがままを、そのまま受け入れる。
そこに運命があるなら、その運命をそのまま受け入れる。
書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という。
もちろん闘うことができる運命であれば、それと闘う。
「逃げろ」という意味ではない。
闘う。
ふんばる。
そこに人間の生きる価値があり、美しさがある。
が、どうにもならない運命というものもある。
もしそうであれば、負けを認める。
受け入れる。
とたん、あなたはそこに真理が待っていることを知る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ネズミを追い出すために はやし浩司 運命論 真理 負けるが勝ち 希望とは 希望論)
●2012年01月01日
さあ、ともあれ、2012年は始まった!
友よ、仲間よ、力を合わせて、前に向かって歩こう。
馬鹿は、相手にしない。
愚か者は、相手にしない。
欲望の奴隷となり、道を見失った人間は、相手にしない。
どうせ、その程度の、つまらない人生しか歩めない。
そんな愚劣な人間のために、時間を無駄にしてはいけない。
私たちはそういう人を、憐れんでやろう!
人生は山登りに、似ている。
下から見れば、低い山でも、登ってみると、意外と遠くまで見渡せる。
それと同じ。
あなたが勇気を出し、山に登れば、下にいる人間が、さらに小さく見える。
あなたは前だけを見て、前に向かって進めばよい。
ただひたすら前に向かって、進めばよい。
それですべての問題が、解決する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 2010-01-01 はやし浩司 前向きの人生)
Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2011年12月31日土曜日
*My Articles written around 2002
●2002年(9年前)の電子マガジンより
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
電子マガジンの過去版に目を通す。
創刊は、2002年3月。
その3か月後に書いた原稿。
今、読み返してみると、あのころの
私が鮮明に、よみがえってくる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【以下、2002年 3月期のマガジンより】(1)
件名:子育て情報(はやし浩司)3-22
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子育て最前線の育児論
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(206)
子どもへの虐待
親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛する心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言っていた。しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)そうだ。
妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているという。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)
だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれながらにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由とは言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にあるのではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまりにもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかないということになる。
子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(208)
悪筆、言ってなおらず
年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきりとわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。(縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。)
悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけない子どもはいくらでもいる。以前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだったのだ。しかしそれがM君の本来の文字だった。
運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。
そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。
なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれが正しいもち方ということにはならないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(218)
頭をよくする方法
ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。
その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。
また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(219)
読書のしつけ
子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。
(1)まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。
たとえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲームの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学者の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私が出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)
(2)レベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかしちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるなら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。
せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)
(3)教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も国語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽しみやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。
(4)まず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみせる。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むようになる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。
なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)のうち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二九%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せている。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(222)
アルバムをそばに置く
おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。
ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見ていた。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。
学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあった。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(236)
一芸論
子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろなことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学三年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。Tさん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。
中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではないが、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助ける」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園で、ゴルフばかりしていた。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。
一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「これについては、あいつしかできない」という状態にする。
ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(237)
一芸は聖域
子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」というもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんなケースがある。
H君(中一)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまった。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍くなってしまった……。
子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されていることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それを奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。
また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそうであるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。
これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学への転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされている。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。
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→トップページ→「アメリカの読書指導」へおいでください。
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近況
29日から2週間の春休みです。まとまった休みは、この春休みと、夏休みです。この春休みのよいところは、夏休みの間と違って、旅行するにも、格安で、また行楽地がふだんよりもすいていることです。いろいろ計画があります。このマガジンは、今のところ毎週発行していますが、春休み中は、気が向いたら(失礼!)、不定期にときどき発行するつもりでいます。そのときはよろしくお願いします。皆さんの子育てでお役にたてるよう、できるだけ実用的な記事を集めました。
愛知万博、名古屋市パビリオンの答申が、去る3月25日に終わりました。
哲学者の山折先生や、解剖学の養老先生、宇宙学の松井先生、キャスターの草野さんなどにお会いできたのが、何よりも収穫でした。隣の席でいつもすばらしい意見を聞かせてくれたのが、藤井フミヤ氏でした。私にはたいへんよい経験になりました。私をのぞいて、皆さん、第一級の世界でがんばっておられる人たちでした。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(238)
フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ
勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇~三〇分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。
では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)
が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイプの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。
要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせながら、少しずつ学習に向かわせる。英語には、「火をともして、引き出す」という格言がある。家庭教育の鉄則にもなっている。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(244)
子どもの嫉妬
嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。
嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小二)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。
ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。
乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにする。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(256)
子どもの携帯電話を考える
携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているので、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並べると……
(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化する。
(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無視する。
(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。
(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロールしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。
(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわからない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりする。
(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話に固執する。
(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしようとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。
(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。
(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざその人と直接対面すると、何も話せない。
(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。
(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。
(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(259)
子どものウソ
子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して
考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。
で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。
(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。
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では、次回もご愛読くださいますよう、お願いします。
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件名:子育て情報(はやし浩司)3-30
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子育て最前線の育児論
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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
昨日(29日)、島田市の青年会議所の方と、講演の打ち合わせをしました。
「何とか多くの人に来てほしい」とのこと。私はあまり講演会場への
入場者の数にはこだわっていないのですが、熱意に打たれました。
皆さんの中で、もし興味があれば、5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi//、「ニュース」のところに
書いておきました。
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。
4月3日に、読売新聞と中日新聞(全国版)に、広告が載るとの連絡が
出版社のほうからありました。どうか、ご覧ください。
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子育てアドバイスから、いくつかを選んでお送りします。
1~300作は、サイト、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ の
ほうで紹介しています。トップページから、「ワンポイント」へと
お進みください。
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近況
数日前、バンクーバーのM氏より手紙が届く。カナダでも日本語を学ぶ高校生が急減しているという。日本語クラスを閉鎖した学校もあるという。国外での「日本離れ」は、今、急速に進んでいる。こうした現状を、日本人はどれだけ知っているだろうか。東京の株式市場に上場している外国企業も、125あまりから、現在は36社(90年)程度にまで減っている(2000年1月)。今年に入って、マクドナルド、ネスレ、ドレスナー銀行も日本からの撤退を決めている。アジアの経済の中心は、シンガポールに移ってしまった。いまだに「日本は経済大国だ」「アジアの中心だ」と思っている人が多いのには、驚かされる。日本の教育改革は、30年は遅れた。
教育がにっちもさっちもいかなくなって、いまごろ「改革」を叫んでも、その成果が出るのは、さらに20年後、30年後。私はもう知らないぞ! ……と言いつつ、今日もかろうじてがんばっています。
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県)、あるいは
(株)静岡教育出版社 ℡054-281-8870(ファミリス販売部)までお申し込みください。
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一冊 300円プラス送料76円……現金書留にてお申し込みください。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(260)
子育てじょうずな親
子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。
結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。
子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。
そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういう
リズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。
数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(261)
内弁慶、外幽霊
家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。
子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなる
ことがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。
もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。
このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。
本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(262)
灯をともして、引き出す
恩師のT氏が教えてくれた言葉だ。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。
一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米では、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、いろいろな場面で表れる。
たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しかしアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。
たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディできていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。
同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(263)
大学の独立法人化
やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。アメリカではもう三〇年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、
学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。
たまたまある日、二人の学生が遊びにきた。二〇〇一年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう一人は一九九九年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。
「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。
そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。
きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。
できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに二〇年後、三〇年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(238)
フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ
勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇~三〇分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。
では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)
が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイプの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。
要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせな
がら、少しずつ学習に向かわせる。英語には、「火をともして、引き出す」という格言がある。家庭教育の鉄則にもなっている。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。
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また次回も、よろしくご愛読ください。おかげさまで、このマガジンも、少しずつですが読者がふ
えています。これもみなさんのおかげです。ありがとうございます。
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教育改革には二つの意味があります。制度の改革と、意識の改革です。この浜松市という
地方に住んでいて、制度の改革を訴えても、まさに「犬の遠吠え」。日本は中央集権国家なのです。地方に住んでいる私たちが、それを受け入れてしまっている! 数年前に、駅前に公立の大学ができましたが、学長以下80人の教官すべて、東京からきた人です(学生課調べ)。こういうことばかりしているから、地方はいつまでたっても「地方、地方」とバカにされるのです。みなさん、意識の改革をすすめましょう。みなさんの意識が変われば、日本も変わるのです。
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アメリカの図書(読書指導)について、調べました。→http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→トップページ→「アメリカの読書指導」へおいでください。
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近況
29日から2週間の春休みです。まとまった休みは、この春休みと、夏休みです。この春休みのよいところは、夏休みの間と違って、旅行するにも、格安で、また行楽地がふだんよりもすいていることです。いろいろ計画があります。このマガジンは、今のところ毎週発行していますが、春休み中は、気が向いたら(失礼!)、不定期にときどき発行するつもりでいます。そのときはよろしくお願いします。皆さんの子育てでお役にたてるよう、できるだけ実用的な記事を集めました。
愛知万博、名古屋市パビリオンの答申が、去る3月25日に終わりました。
哲学者の山折先生や、解剖学の養老先生、宇宙学の松井先生、キャスターの草野さんなどにお会いできたのが、何よりも収穫でした。隣の席でいつもすばらしい意見を聞かせてくれたのが、藤井フミヤ氏でした。私にはたいへんよい経験になりました。私をのぞいて、皆さん、第一級の世界でがんばっておられる人たちでした。
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(おまけ)
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(244)
子どもの嫉妬
嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。
嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小二)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。
ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
電子マガジンの過去版に目を通す。
創刊は、2002年3月。
その3か月後に書いた原稿。
今、読み返してみると、あのころの
私が鮮明に、よみがえってくる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【以下、2002年 3月期のマガジンより】(1)
件名:子育て情報(はやし浩司)3-22
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子育てアドバイスから、いくつかを選んでお送りします。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(206)
子どもへの虐待
親だから……というふうに、ものごとは決めてかかってはいけない。「親だから子どもを愛する心があるはず」とか。先日も朝のワイドショーを見ていたら、キャスターの一人がそう言っていた。しかし実際には、人知れず子どもを愛することができないと悩んでいる母親は多い。「弟は愛することができるが、兄はどうしてもできない」とか、あるいは「子どもがそばにいるだけで、わずらわしくてしかたない」とかなど。私の調査でも子どもを愛することができないと悩んでいる母親は、約一〇%(私の母親教室で約二〇〇人で調査)。東京都精神医学総合研究所の調査でも、自分の子どもを気が合わないと感じている母親は、七%もいることがわかっている。そして「その大半が、子どもを虐待していることがわかった」(同、総合研究所調査・有効回答五〇〇人・二〇〇〇年)そうだ。
妹尾栄一氏らの調査によると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているという。(妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数字で示している。妹尾氏は、
「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%であったという。)
だからといって、子どもの虐待が肯定されるわけではない。しかしこの虐待の問題は、もう少し根が深いのではないか。その一つのヒントとして、今の母親たちの世代というのは、日本が高度成長をやり遂げた時期に乳幼児期を過ごしている。そしてそのうちの大半が、かなり早い時期から親の手を離れ、保育園や保育所へ預けられた経験をもっている。つまり生まれながらにして、本来あるべき親の愛情が希薄な状態で育てられている。もちろんそれだけが理由とは言えないが、子育てというのは本能でできるようになるわけではない。親の温かい愛情に包まれて育ってはじめて、親になったとき、自分も子どもを温かい愛情で包むことができる。このことを考え合わせると、子どもを虐待する親というのは、そもそもそういう温かい愛情を知らない親と考えてよい。そしてその理由として、日本が戦後経験した、いびつな社会構造にあるのではないかと考えられる。私たち日本人は、仕事第一主義のもと、「家庭」や「家族」をあまりにもないがしろにし過ぎた。つまり今にみる子どもへの虐待は、あくまでもその結果でしかないということになる。
子どもを虐待する親もまた、自分ではどうしてよいかわからず苦しんでいる。世間一般は、子どもを虐待する親を、ただ一方的に責める傾向があるが、その親たちもまた現在の社会が生み出した犠牲者と考えてよい。虐待に対する一つの見方としてこの原稿をとらえてほしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(208)
悪筆、言ってなおらず
年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきりとわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。(縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。)
悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。そもそも運筆能力のない子どもに書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになるが、今度は時間ばかりかかって、先へ進めなくなってしまう。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけない子どもはいくらでもいる。以前、M君(小二男児)がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て心底驚いた。文字がめちゃめちゃだったのだ。しかしそれがM君の本来の文字だった。
運筆能力を養うためには、塗り絵がよい。塗り絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。その塗り絵で訓練すると、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。
そうなればしめたもの。(塗り絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもには塗り絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。
なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。
鉛筆は、親指とひとさし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれが正しいもち方ということにはならないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(218)
頭をよくする方法
ふつう頭のよい子どもは、発想が豊かで、おもしろい。パンをくりぬいて、トンネル遊び。スリッパをひもでつないで、電車ごっこなど。時計を水の入ったコップに入れて遊んでいた子ども
(小三)がいた。母親が「どうしてそんなことをするの?」と聞いたら、「防水と書いてあるから、その実験をしているのだ」と。ただし同じいたずらでも、コンセントに粘土をつめる。絵の具を溶かして、車にかけるなどのいたずらは、好ましいものではない。善悪の判断にうとい子どもは、とんでもないいたずらをする。
その頭をよくするという話で思いだしたが、チューイングガムをかむと頭がよくなるという説がある。アメリカの「サイエンス」という雑誌に、そういう論文が紹介された。で、この話をすると、ある母親が、「では」と言って、ほとんど毎日、自分の子どもにガムをかませた。しかもそれを年長児のときから、数年間続けた。で、その結果だが、その子どもは本当に、頭がよくなってしまった。この方法は、どこかぼんやりしていて、何かにつけておくれがちの子どもに、特に効果がある。……と思う。
また年長児で、ずばぬけて国語力のある女の子がいた。作文力だけをみたら、小学校の
三、四年生以上の力があったと思う。で、その秘訣を母親に聞いたら、こう教えてくれた。「赤ちゃんのときから、毎日本を読んで、それをテープに録音して、聴かせていました」と。母親の趣味は、ドライブ。外出するたびに、そのテープを聴かせていた。
今回は、バラバラな話を書いてしまったが、もう一つ、バラバラになりついでに、こんな話もある。子どもの運動能力の基本は、敏しょう性によって決まる。その敏しょう性。一人、ドッジボールの得意な子ども(年長男児)がいた。その子どもは、とにかくすばしっこかった。で、母親にその理由を聞くと、「赤ちゃんのときから、はだしで育てました。雨の日もはだしだったため、近所の人に白い目で見られたこともあります」とのこと。子どもを将来、運動の得意な子どもにしたかったら、できるだけはだしで育てるとよい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(219)
読書のしつけ
子どもの読書のしつけについて、いくつかのコツがある。
(1)まず方向性を知る……子どもには子どもの方向性がある。その方向性をうまく利用する。
たとえばサッカーが好きな子どもには、サッカーの本を与える。ゲームが好きな子どもなら、ゲームの攻略本でもよい。児童文学書などを無理に与えても、たいてい失敗する。私もあの文学者の書いた本が、どうも性に合わない。最近はほとんど読んだことがない。(これはたまたま私が出会った文学者というのが、どの人もまともでないという印象を受けたためだと思う。)
(2)レベルをさげる……つぎに子どもに与える本は、思い切って一、二年、レベルをさげる。親は書店へ行くと、どうしても一、二年レベルの高い本に手を子どもに買い与えようとする。しかしちょっとしたこの無理が、子どもを本から遠ざける。しかし子どもを本好きにさせようと考えるなら、レベルをさげる。(もともとレベルというのは、いいかげんなものだということもあるが、いわゆる児童文学者というのは、本当に子どものレベルを知っていて本を書いているのではない。
せいぜい漢字の使い方で、年齢別にしているに過ぎない。)
(3)教科書がよい……本を買うなら、少し大きな書店へ行くと、いろいろな学校の教科書を売っている。どうせ買い与えるなら、教科書がよい。内容も吟味されているが、値段も安い。何も国語の教科書に限らない。算数でも社会でもよい。理科でもよい。最近の教科書は子どもが楽しみやすいように工夫してあるので、読み物としてもそれなりにおもしろい。
(4)まず親が読んでみせる……子どもに本を与えるときは、まず親がおもしろそうに読んでみせる。これを動機づけという。動機づけがうまくいくと、あとは子どもが自らの力で本を読むようになる。こうなればしめたもので、あとは子ども自身に任せればよい。
なおちなみに経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇
年調査)によれば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)のうち、五三%が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また同じ調査だが、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題について無回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二九%! 文部科学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)とコメントを寄せている。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(222)
アルバムをそばに置く
おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。
ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見ていた。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つまりアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。
学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあった。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあった。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情をしているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(236)
一芸論
子どもには一芸をもたせる。しかしその一芸は、つくるものではなく、見つけるもの。いろいろなことがあった。S君(年中児)は父親が新車を買ってきたときのこと、車の中のスイッチに異常なまでの興味をもった。そこで母親から相談があったので、私はパソコンを買ってあげることをすすめた。パソコンはスイッチのかたまりのようなもの。案の定S君はそのパソコンにのめりこみ、小学三年生のときにはベーシックを。中学生になるころには、C言語をマスターするまでになった。Tさん(二歳児)もそうだ。お風呂に入っても、お湯の中に平気でもぐって遊んでいたという。そこで母親が水泳教室へ入れてみたのだが、まさに水を得た魚のようにTさんは泳ぎ始めた。そのTさんは中学生のときには、全国大会に出場するまでに成長した、などなど。
中に「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるかのように、勉強から遠ざかってしまう。そのためだけというわけではないが、子どもには一芸をもたせる。その一芸が子どもを側面から支える。さらに「芸は身を助ける」の格言どおり、その一芸がその子どもの天職となることもある。M君(高校生)は、不登校を繰り返し、ほとんど高校へは行かなかった。そのかわり近くの公園で、ゴルフばかりしていた。で、それから一〇年後、ひょっこり私の家にやってきて、いきなりこう言った。「先生、ぼくのほうが先生より、(お金を)稼いでいるよね」と。M君はゴルフのプロコーチになっていた。
一芸を子どもの中に見つけたら、お金と時間をたっぷりとかける。子どもの側からすれば、「これだけは絶対、人に負けない」という状態にする。また周囲の子どもの側からすれば、「これについては、あいつしかできない」という状態にする。
ただしここでいう一芸というのは、将来に向かって前向きに伸びていく「芸」のことをいう。モデルガンやゲームのカードを集めるというのは、ここでいう芸ではない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(237)
一芸は聖域
子どもの一芸は、聖域と思うこと。この聖域を踏み荒らすようなことがあると、子どもの心は大きな影響を受ける。よくある例が、「成績がさがったから、(好きな)サッカーはやめさせる」というもの。こういうケースで、サッカーをやめさせればさせたで、成績はかえってさがる。こんなケースがある。
H君(中一)は毎日、学校から帰ってくると、パソコンに向かって作曲をしていた。が、成績がさがったこともあり、父親がそれを強引に禁止した。とたん。H君の情緒は不安定になってしまった。まず朝起きられなくなり、つづいて昼と夜が逆転し始めてしまった。食事も不規則になり、食べたり食べなくなったりするなど。何とか学校へは行くものの、感情的な反応そのものが鈍くなってしまった……。
子どもが一芸にのめりこむ背景には、そうせざるをえない子ども自身の心の問題が隠されていることが多い。いわば自分の心のすきまを生めるための代償的行為ともいえるもので、それを奪うと、子どもによってはここにあげるH君のようになる。H君は学校で疲れた心を、音楽を作曲することでなぐさめていた。それを父親が奪ってしまったのだから、H君の症状は当然といえば当然の結果でもあった。
また一芸が、子どもによってはいわば生きがいそのものになっていることが多い。ある女の子(中学生)は手芸で、また別の男の子(小学生)はスケボーで自分を光らせていた。もしそうであるなら、それを奪う権利は親にもない。さらに……。
これからはプロが生き残る時代といってもよい。少なくとも世界は、そういう方向に向かって進んでいる。たとえばアメリカでは、大学でも入学後の学部変更や、さらには大学から大学への転籍すら自由化されている。より高度な勉強を求めて、大学から大学へと渡り歩いている学生すらいる。「学歴」にこだわる理由そのものがない。そしてそれが今、国際間でもなされている。日本もやがてそうなるのだろうが、そういう意味でも子どもの一芸を大切にする。
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では、次回もご愛読くださいますよう、お願いします。
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1~250作は、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/のトップページより、
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件名:子育て情報(はやし浩司)3-28
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子育て最前線の育児論
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
この原稿に取り組んでいます。お申し込みは、学校の先生まで(静岡県)、あるいは
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アメリカの図書(読書指導)について、調べました。→http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→トップページ→「アメリカの読書指導」へおいでください。
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近況
29日から2週間の春休みです。まとまった休みは、この春休みと、夏休みです。この春休みのよいところは、夏休みの間と違って、旅行するにも、格安で、また行楽地がふだんよりもすいていることです。いろいろ計画があります。このマガジンは、今のところ毎週発行していますが、春休み中は、気が向いたら(失礼!)、不定期にときどき発行するつもりでいます。そのときはよろしくお願いします。皆さんの子育てでお役にたてるよう、できるだけ実用的な記事を集めました。
愛知万博、名古屋市パビリオンの答申が、去る3月25日に終わりました。
哲学者の山折先生や、解剖学の養老先生、宇宙学の松井先生、キャスターの草野さんなどにお会いできたのが、何よりも収穫でした。隣の席でいつもすばらしい意見を聞かせてくれたのが、藤井フミヤ氏でした。私にはたいへんよい経験になりました。私をのぞいて、皆さん、第一級の世界でがんばっておられる人たちでした。
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(238)
フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ
勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇~三〇分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。
では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)
が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイプの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。
要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせながら、少しずつ学習に向かわせる。英語には、「火をともして、引き出す」という格言がある。家庭教育の鉄則にもなっている。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(244)
子どもの嫉妬
嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。
嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小二)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。
ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。
乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにする。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(256)
子どもの携帯電話を考える
携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているので、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並べると……
(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化する。
(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無視する。
(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。
(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロールしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。
(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわからない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりする。
(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話に固執する。
(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしようとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。
(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。
(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざその人と直接対面すると、何も話せない。
(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。
(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。
(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(259)
子どものウソ
子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害による虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのように錯覚してつくウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして表れる。習慣的な万引き、不要なものをかいつづけるなどの行為障害と並べて考える。これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して
考える。空想的虚言については、ほかで書いたのでここでは省略する。
で、行為障害によるウソは、ほかにも随伴症状があるはずなので、それをさぐる。心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症というが、ふつう神経症による症状は、つぎの三つに分けて考える。
(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、虚言癖(日常的にウソをつく)、不安症状(理由もなく悩む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。
(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号ととらえて警戒する。
(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
こうした症状があり、そのひとつとして虚言癖があれば、神経症による行為障害として対処する。叱ったり、ウソを追いつめても意味がないばかりか、症状をさらに悪化させる。愛情豊かな家庭環境を整え、濃厚なスキンシップを与える。あなたの親としての愛情が試されていると思い、一年単位で、症状の推移を見守る。「なおそう」と思うのではなく、「これ以上症状を悪化させないことだけ」を考えて対処する。神経症による症状がおさまれば、ウソも消える。
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では、次回もご愛読くださいますよう、お願いします。
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件名:子育て情報(はやし浩司)3-30
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いつもこのマガジンをご愛読くださり、感謝しています。
昨日(29日)、島田市の青年会議所の方と、講演の打ち合わせをしました。
「何とか多くの人に来てほしい」とのこと。私はあまり講演会場への
入場者の数にはこだわっていないのですが、熱意に打たれました。
皆さんの中で、もし興味があれば、5月18日、島田市おおるり会館へ
午後2時においでください。お待ちしています。詳しくは
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi//、「ニュース」のところに
書いておきました。
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「子育てストレスが子どもをつぶす」リヨン社・1300円+税が
発売中です。どうかよろしくお願いします。
4月3日に、読売新聞と中日新聞(全国版)に、広告が載るとの連絡が
出版社のほうからありました。どうか、ご覧ください。
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子育てアドバイスから、いくつかを選んでお送りします。
1~300作は、サイト、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/ の
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お進みください。
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近況
数日前、バンクーバーのM氏より手紙が届く。カナダでも日本語を学ぶ高校生が急減しているという。日本語クラスを閉鎖した学校もあるという。国外での「日本離れ」は、今、急速に進んでいる。こうした現状を、日本人はどれだけ知っているだろうか。東京の株式市場に上場している外国企業も、125あまりから、現在は36社(90年)程度にまで減っている(2000年1月)。今年に入って、マクドナルド、ネスレ、ドレスナー銀行も日本からの撤退を決めている。アジアの経済の中心は、シンガポールに移ってしまった。いまだに「日本は経済大国だ」「アジアの中心だ」と思っている人が多いのには、驚かされる。日本の教育改革は、30年は遅れた。
教育がにっちもさっちもいかなくなって、いまごろ「改革」を叫んでも、その成果が出るのは、さらに20年後、30年後。私はもう知らないぞ! ……と言いつつ、今日もかろうじてがんばっています。
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静岡県教育委員会発行雑誌「ファミリス」での連載が、2002年度も続くことに
なりました。どうか、ご購読くださいますよう、心からお願いします。全力をあげて
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子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(260)
子育てじょうずな親
子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てじょうずな親」「子育てべたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。
結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。
子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。
そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつど現れる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういう
リズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。
数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てじょうずな親という。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(261)
内弁慶、外幽霊
家の中ではおお声を出していばっているものの、一歩家の外に出ると、借りてきたネコの子のようにおとなしくなることを、「内弁慶、外幽霊」という。といっても、それは二つに分けて考える。自意識によるものと、自意識によらないもの。緊張したり、恐怖感を感じて外幽霊になるのが、前者。情緒そのものに何かの問題があって、外幽霊になるのが、後者ということになる。たとえばかん黙症などがあるが、それについてはまた別のところで考える。
子どもというのは、緊張したり、恐怖感を覚えたりすると、外幽霊になるが、それはごく自然な症状であって、問題はない。しかしその程度を超えて、子ども自身の意識では制御できなくなる
ことがある。対人恐怖症、集団恐怖症など。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。その図式はつぎのように考えるとわかりやすい。
もともと手厚い親の保護のもとで、ていねいにかつわがままに育てられる。→そのため社会経験がじゅうぶん、身についていない。この時期、子どもは同年齢の子どもととっくみあいのけんかをしながら成長する。→同年齢の子どもたちの中に、いきなりほうりこまれる。→そういう変化に対処できず、恐怖症になる。→おとなしくすることによって、自分を防御する。
このタイプの子どもが問題なのは、外幽霊そのものではなく、外で幽霊のようにふるまうことによって、その分、ストレスを自分の内側にためやすいということ。そしてそのストレスが、子どもの心に大きな影響を与える。家の中で暴れたり、暴言をはくのをプラス型とするなら、ぐずったり、引きこもったりするのはマイナス型ということになる。こういう様子がみられたら、それをなおそうと考えるのではなく、家の中ではむしろ心をゆるめさせるようにする。リラックスさせ、心を開放させる。多少の暴言などは、大目に見て許す。とくに保育園や幼稚園、さらには小学校に入学したりすると、この緊張感は極度に高くなるので注意する。仮に家でおさえつけるようなことがあると、子どもは行き場をなくし、さらに対処がむずかしくなる。
本来そうしないために、子どもは乳幼児期から、適度な刺激を与え、社会性を身につけさせる。親子だけのマンツーマンの子育ては、子どもにとっては、決して好ましい環境とはいえない。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(262)
灯をともして、引き出す
恩師のT氏が教えてくれた言葉だ。子どもは、「灯をともして、引き出す」。そしてこれが欧米流れの教育の基本でもある。エデュケーションの語源は、「EDUCE(引き出す)」である。
一方、日本語(中国語)では、「教え育てる」が基本になっている。どちらがよいとか悪いとか言っているのではない。「教育」に対する考え方が、基本的な部分で正反対だということ。日本では、子どもをある特定の形につくりあげるのが教育ということになっている。一方、欧米では、子ども自身の方向を認め、その選択を子ども自身に任せているということ。この違いは、いろいろな場面で表れる。
たとえば日本では、先生は、「わかったか?」「よし、ではつぎ!」と言って授業を進める。しかしアメリカでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」と言って授業を進める。そのため日本では、子どもに子ども自身の考えをあまりもたせない。一方、アメリカでは、子どものときから、子どもの言葉で子どもに話させる。わかりやすく言えば、日本の教育は、まず学校があって教師がいる。そこへ生徒がやってくるという図式で成り立っている。一方、欧米では、まず子どもがいて、その周囲に教師がいて、学校があるという図式で成り立っている。わかりにくい話かもしれないが、要するに「学校中心」か、「子ども中心」かという話になる。だから……。
たとえばアメリカでは、学校の先生が落第を親にすすめると、親は喜んでそれに従う。「喜んで」だ。これはウソでも誇張でもない。事実だ。むしろ子どもの成績が落ちたりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。「うちの子はまだ、進級する準備ができていない(レディできていない)」と。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。
同じ「教育」といっても、外から見た「形」はよく似ていても、その中身、つまり意識は日本と欧米とでは、まるで違う。そういうことも考えながら、「灯をともして、引き出す」の意味を、もう一度考えてみてほしい。あなたもきっと、「なるほど」と納得するはずだ。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(263)
大学の独立法人化
やっとというか、日本でも大学の独立法人化が動き出した。教官の身分が保証されないという理由で、反対意見も多いが、しかしこんなことは日本以外の国では常識。アメリカではもう三〇年も前から、大学入学後の学部変更は自由。転籍も自由。それも即日に転籍できる。で、
学生たちはより高度な授業を求めて、大学の間をさまよい歩いている。そのため学科のスクラップアンドビルドは、日常茶飯事。やる気のない教官はどんどんクビになっている。学生に人気がなければ、学部すら閉鎖される。その結果だが……。
たまたまある日、二人の学生が遊びにきた。二〇〇一年にアメリカの州立大学を卒業したA君。もう一人は一九九九年に横浜の国立大学に入学したB君。そのB君を見て、A君が驚いた。「よくアルバイトをする時間があるな」と。アメリカの大学生にしてみれば、アルバイトなどは考えられない。実によく勉強する。毎週金曜日に試験があるということもあるが、毎晩夜遅くまで勉強しても、それでも時間が足りないそうだ。アメリカでは、オーストラリアでもそうだが、一単位ずつお金を出して講座を買うシステムになっている。(実際にはまとめて買うが……。)そのお金は、たいてい奨学金でまかなう。だから私たちがモノを選んで買うように、彼らもまたよい講座を選んで買う。そういう意識があるから、いいかげんな講義を許さない。私も一度、オーストラリアの大学で日本語を教えていたことがある。そのとき一人の学生が私にこう聞いた。
「『は』と『が』の違いを説明してほしい」と。「私は行く」と、「私が行く」はどう違うかというのだ。
そこで私が「わからない」と答えると、その学生はこう言った。「君は、この講義でお金を受け取っているのか」と。それで私が「受け取っていない。私はボランティアだ」と言うと、「じゃあ、いい」と。だから教えるほうも必死だ。
きびしさがあってはじめて、質は高くなる。ぬるま湯につかりながら、「いい教育」はできない。
できるはずもない。しかし今まで、日本の大学教育は、そのぬるま湯につかりすぎた。教授人事も、「そこに人がいるから人事が慣例化している」(東大元教授)で、改革ということになったが、それにしても遅過ぎた。今の改革が成果を生み出すのは、さらに二〇年後、三〇年後ということになる。そのころ世界はどこまで進んでいることやら。日本はどこまで遅れていることやら。考えれば考えるほど、暗澹(たん)たる気持ちになるのは私だけではあるまい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(238)
フリ勉、ダラ勉、時間ツブシ
勉強が空回りするようになると、子どもはフリ勉、ダラ勉、時間ツブシをするようになる。フリ勉というのは、いかにも勉強していますというような様子だけを見せる勉強をいう。しかしその実、何もしない。ダラ勉というのは、簡単な計算問題を一〇~三〇分もかけてするなど。あるいは描かなくてもよいようなグラフを、いつまでも描きつづけたりする。さらに時間ツブシというのは、勉強のあいまに、シャーペンの芯を出したり入れたり、ときにあちこちに落書きをしたりしながら時間をつぶすことをいう。小学校の低学年で一度、こういう症状を見せると、その修復はたいへんむずかしい。それがその子どもの勉強方法として定着してしまうからである。無理、強制が日常的につづくと、子どもはそうなるが、この段階でそれに気づく親はまずいない。「やればできるはず」「そんなはずはない」と子どもを追い立てる。その悪循環がますます子どもをして、勉強から遠ざける。
では、どうするか。一度、こういう症状を示し始めたら、あきらめる。つまりそれがその子どもの能力と思い、あきらめる。しかもその時期は早ければ早いほどよい。小学一年生でも早過ぎるということはない。……と書くと、たいてい「まだ一年生ですよ!」と言う親がいる。しかし一年生だから、あきらめる。もう少し年齢が大きくなって、自意識でコントロールできるようになると、自分で勉強に向かうようになる。しかしその前に勉強グセをつぶしてしまうと、ここに書いたように修復そのものがむずかしくなる。(あるいは不可能になる。)
が、それで終わるわけではない。さらに症状が進むと、ごまかすのがうまくなる。学校ではいつもカンニングをして、その場をごまかすようになる。しかもそれが天才的に(?)うまくなる。先生の目を盗み、隣の子どもの答などを、そのまま丸写しにしたりする。小学二年生で、このタイプの子どもは、二〇人もいれば必ず一人はいる。もうこうなると、学力が身につくことなど、望むべくもない。
要はそういう子どもにしないこと。そのためには無理、強制を避ける。動機づけ(子どもに興味をいだかせるような努力)をしっかりとしながら、達成感(やり遂げたという喜び)を感じさせな
がら、少しずつ学習に向かわせる。英語には、「火をともして、引き出す」という格言がある。家庭教育の鉄則にもなっている。それはある意味でたいへんなことだが、子どもに勉強させるのは、それくらいたいへんなことだということを、まず親が自覚すること。またその前提で、子どもの勉強を考えること。
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また次回も、よろしくご愛読ください。おかげさまで、このマガジンも、少しずつですが読者がふ
えています。これもみなさんのおかげです。ありがとうございます。
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MMMMM ┏━━━━━━┓
(( MMMMM ┃よろしく! ┃
q ⌒ ⌒ p┗━━━┳━━┛
ぺこり /(゛∪ ∪″)\ ┛
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 ̄ ̄  ̄ ̄
教育改革には二つの意味があります。制度の改革と、意識の改革です。この浜松市という
地方に住んでいて、制度の改革を訴えても、まさに「犬の遠吠え」。日本は中央集権国家なのです。地方に住んでいる私たちが、それを受け入れてしまっている! 数年前に、駅前に公立の大学ができましたが、学長以下80人の教官すべて、東京からきた人です(学生課調べ)。こういうことばかりしているから、地方はいつまでたっても「地方、地方」とバカにされるのです。みなさん、意識の改革をすすめましょう。みなさんの意識が変われば、日本も変わるのです。
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アメリカの図書(読書指導)について、調べました。→http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
→トップページ→「アメリカの読書指導」へおいでください。
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近況
29日から2週間の春休みです。まとまった休みは、この春休みと、夏休みです。この春休みのよいところは、夏休みの間と違って、旅行するにも、格安で、また行楽地がふだんよりもすいていることです。いろいろ計画があります。このマガジンは、今のところ毎週発行していますが、春休み中は、気が向いたら(失礼!)、不定期にときどき発行するつもりでいます。そのときはよろしくお願いします。皆さんの子育てでお役にたてるよう、できるだけ実用的な記事を集めました。
愛知万博、名古屋市パビリオンの答申が、去る3月25日に終わりました。
哲学者の山折先生や、解剖学の養老先生、宇宙学の松井先生、キャスターの草野さんなどにお会いできたのが、何よりも収穫でした。隣の席でいつもすばらしい意見を聞かせてくれたのが、藤井フミヤ氏でした。私にはたいへんよい経験になりました。私をのぞいて、皆さん、第一級の世界でがんばっておられる人たちでした。
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(おまけ)
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(244)
子どもの嫉妬
嫉妬はたいへん原始的な、つまり本能に根ざす感情であるだけに、扱い方をまちがえると、その子どもの人間性そのものにまで影響を与える。「原始的」というのは、犬やネコをみればわかる。犬やネコは、一方だけをかわいがると、他方ははげしく嫉妬する。また「人間性」というのは、情緒面のみならず、精神面にも大きな影響を与えるということ。そしてそれは多くのばあい、行動となって表れる。
嫉妬が「内」にこもると、子どもはぐずったり、いじけたりする。ひがみが強くなったり、がんこになったりする。幼児のばあい、原因不明の身体の不調(発熱、下痢、嘔吐)を訴えることもある。「外」に出ると、いじめや動物への虐待となることが多い。嫉妬がからんでいるばあいには、それが相手に向けられたときには、「殺す」というところまでする。残虐かつ陰湿になるのが特徴で、容赦しないのが特徴。弟に向かって自転車で突進したケースや、弟を逆さづりにして頭から落としたケース、さらに妹の人形をバラバラにしてしまったケースや、妹をトイレに閉じ込めてしまったケースなどがある。一人、妹にお菓子と偽り、チョークを口の中に入れた女の子(小二)もいた。また動物への虐待では、飼っていたハトの背中に花火をくくりつけ、ハトを殺してしまったケース、つかまえてきたカエルを地面にたたきつけて殺してしまったケースなどがある。
ふつう子どもが理由もなく(また原因がはっきりしないまま)、ぐずったり、ふさいだりするときは、愛情問題を疑ってみる。そういうときは抱いてみるとわかる。最初は抵抗する様子を見せるかもしれないが、強引に抱き込んだりすると、そのまま静かに落ち着く。
乳幼児期は、静かで穏やかな生活を大切にし、嫉妬と闘争心の二つはいじらないようにす
る。中に、わざと子どもを嫉妬させながら、親への依存心をもたせる人がいる。一昔前の親がよく使った方法だが、依存心をもたせるという意味で、好ましくないことは言うまでもない。
。
2011年12月30日金曜日
*Home Coflict
●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。
最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。
おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。
最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。
頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。
「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。
プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!
私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。
『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。
人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。
で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●浜松の言葉
前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。
浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。
ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」という言葉がある。
「ノ~?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。
が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。
「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」と。
聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。
ほかにもある。
浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。
たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ~?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。
これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。
全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。
●恋愛主義
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。
先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。
『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。
●お涙ちょうだい
ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。
おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。
昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。
父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。
息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。
●幻想
こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。
その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたから」と。
それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。
息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。
先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさえ、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。
もちろんその逆もある。
●山城新吾
少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。
そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「やさしさがないなとは思う」とは?
++++++++++++++++++
俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。
++++++++++++++++++
『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。
07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。
その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。
生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。
なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される……』と。
この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。
何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。
この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。
こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。
こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えてよい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。
問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。
マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。
「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。
(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強い。)
むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。
恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。
私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アメリカ文化の侵襲
……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。
(まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。
私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たちがいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。
が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。
父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。
私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。
●死ぬ間際
死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?
数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。
死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。
その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。
そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。
●12月30日、金曜日
これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。
私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。
2011/12/30朝記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の心理学)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。
最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。
おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。
最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。
頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。
「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。
プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!
私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。
『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。
人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。
で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●浜松の言葉
前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。
浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。
ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」という言葉がある。
「ノ~?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。
が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。
「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」と。
聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。
ほかにもある。
浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。
たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ~?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。
これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。
全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。
●恋愛主義
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。
先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。
『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。
●お涙ちょうだい
ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。
おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。
昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。
父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。
息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。
●幻想
こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。
その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたから」と。
それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。
息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。
映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。
先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさえ、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。
もちろんその逆もある。
●山城新吾
少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。
そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「やさしさがないなとは思う」とは?
++++++++++++++++++
俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。
++++++++++++++++++
『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。
07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。
その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。
生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。
なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される……』と。
この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。
何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。
この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。
こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。
こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えてよい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。
問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。
マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。
「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。
(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強い。)
むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。
恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。
私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●アメリカ文化の侵襲
……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。
(まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。
私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たちがいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。
が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。
父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。
私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。
●死ぬ間際
死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?
数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。
死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。
その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。
そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。
●12月30日、金曜日
これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。
私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。
2011/12/30朝記
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の心理学)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 12月 30日号(2)
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(前号からのつづきです。)
【シャドウ論2】
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●人形子(にんぎょうし)(2008年6月記)
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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。
あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。
そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。
そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。
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ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。
できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。
やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。
先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。
学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。
そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)
冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。
が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。
というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。
つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。
こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。
一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。
親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。
「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。
「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。
自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。
「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。
学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。
しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。
では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。
が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。
何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。
非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。
(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)
たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。
このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。
「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。
しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。
(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)
++++++++++++++++++++++++
【引きこもりvs家庭内暴力】
++++++++++++++++
将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。
それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。
問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。
この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。
思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。
そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。
つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。
が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。
ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。
中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。
そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。
が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。
ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。
そこであなたの子どもは、どうか?
あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。
子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。
賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)
+++++++++++++++++++++++
●「人形の子」論
+++++++++++++++++++++++
●あるお母さんからのメール
++++++++++++++++++
親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。
読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。
お名前を、Vさん(母親)としておきます。
Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。
Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。
本当に、そうだと思います。
最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。
乳児期から幼児期にかけては、
(1) 心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2) 愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。
Vさんからのメールをお読みください。
++++++++++++++++++
【Vさんより、はやし浩司へ】
はやし先生、こんばんは!
今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。
私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4~5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。
隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。
先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。
両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。
当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。
というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。
そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。
父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。
そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。
また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。
では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。
私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。
母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。
私はといえば、まったく正反対。
母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。
生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。
小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。
内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。
サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。
心療内科の先生はおっしゃいました。
「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。
思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。
今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。
今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。
時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。
なぜなら、私はY男の母親なのだから……。
こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。
父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。
しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。
ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。
また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います
で、父もあきらかな強迫性障害者です。
強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。(以上、2008年6月記)
Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●講演では……
次回の講演時間は、90分。
シャドウ論にはふれても、ここに書いたことまでは、話せない。
あちこちを端折(はしょ)る。
あるいは時間の関係で、話せないかもしれない。
(ここまでのページ数は、34頁(40字x36行x34頁)。)
もともに話したら、これだけで講演会は終わってしまう。
どうしようか?
言い換えると、講演というのは、いかに端折るかの闘い。
時計を見ながら、「ここまで!」とか、「ええい、ままよ!」と投げ捨てるような形で、そ
の話題から遠ざかる。
で、最後に一言。
心の別室というのは、実はだれにでもある。
大小、程度の差はあるが、だれにでもある。
だから大切なことは、まず自分の心の別室に気づくこと。
子どもについても、そうである。
あなたの子どもは、どうだろうか。
心の別室をもっていないだろうか。
もっているとしたら、その別室には、どんな思いが入っているだろうか。
この原稿を手がかりに、それを探ってみたらよい。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教
育評論 はやし浩司 心の別室論 ユング シャドウ論 シャドー論 抑圧された心、は
やし浩司 いい子論 よい子論 心をゆがめる子ども 子供)
(付記)
●ゆがむ子どもの心
+++++++++++++++
F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)
今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。
つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。
「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。
一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」
とか、さらっと普通の口調で言ったんです。
「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。
「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。
毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。
5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。
最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。
半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。
どうぞよろしくお願いいたします。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「抑圧は悪魔を作る」
イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。
その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)と
いうのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。
ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも
大きな影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。
もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めていると
みる。
が、このタイプの子どもは少なくない。
●I君(小6)のケース
I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。
が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。
●M子さん(中1)のケース
M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。
が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。
見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何
枚も描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。
ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。
M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆ
がめていた。
●抑圧
心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)
++++++++++++++++++++
よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。
こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。
が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。
++++++++++++++++++++
●抑圧
自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。
もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。
●上書きされない
ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。
が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。
また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。
もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。
●子どもの世界でも
「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。
心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。
そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。
●兵士のばあい
話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。
が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。
●教授の殺害事件
今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。
この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。
●心の別室
ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。
人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。
●では、どうするか
すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。
別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。
シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。
たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。
もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。
あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)
(付記)
心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。
……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。
もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。
(追記)
同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。
●「抑圧」(pressure)
+++++++++++++
昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。
++++++++++++++++++
が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。
だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。
が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。
そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。
こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。
ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。
親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。
人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。
話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●思春期の子どもの心理
抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。
内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不
平、不完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が
原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。
思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。
●すなおな子ども
「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。
たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。
お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてし
まった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。
しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。
その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗
りつぶしてしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。
「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息
子がそんなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。
●YSさんのケース
それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。
どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦
を巻いていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。
心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を
与えろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。
●自我の同一性
自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」など
と言ってくるので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。
これは反抗期なのでしょうか?
A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致さ
せようとします。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。
それが「思春期の反抗」と考えてください。
(悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするの
はしかたないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めてい
るのだ」と、一歩退いて子どもを見ます。
この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子
どもは親の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケース
も目立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。
親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子ど
ものうしろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。
悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。と
たん、肩の荷が軽くなりますよ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●言葉として発散させる
YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。
あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流してい
く。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。
たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。
そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。
で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が
猛省する。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意
する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断
すること。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。
以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 抑圧 心の別室 はや
し浩司 自我の同一性 はやし浩司 残虐な言葉 思春期の子どもの心 心のゆがみ ね
ずみを殺すために家に火をつける はやし浩司 内的抑圧 外的抑圧)
Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 12月 30日号(2)
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(前号からのつづきです。)
【シャドウ論2】
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●人形子(にんぎょうし)(2008年6月記)
++++++++++++++++++++
A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。
あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。
そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。
そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。
++++++++++++++++++++
ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。
できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。
やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。
先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。
学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。
そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)
冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。
が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。
というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。
つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。
こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。
一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。
親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。
「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。
「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。
自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。
「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。
学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。
しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。
では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。
が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。
何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。
非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。
(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)
たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。
このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。
「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。
しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。
(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)
++++++++++++++++++++++++
【引きこもりvs家庭内暴力】
++++++++++++++++
将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。
それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。
問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。
この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。
思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。
そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。
つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。
が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。
ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。
中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。
そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。
が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。
ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。
そこであなたの子どもは、どうか?
あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。
子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。
賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)
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●「人形の子」論
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●あるお母さんからのメール
++++++++++++++++++
親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。
読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。
お名前を、Vさん(母親)としておきます。
Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。
Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。
本当に、そうだと思います。
最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。
乳児期から幼児期にかけては、
(1) 心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2) 愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。
Vさんからのメールをお読みください。
++++++++++++++++++
【Vさんより、はやし浩司へ】
はやし先生、こんばんは!
今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。
私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4~5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。
隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。
先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。
両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。
当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。
というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。
そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。
父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。
そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。
また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。
では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。
私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。
母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。
私はといえば、まったく正反対。
母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。
生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。
小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。
内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。
サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。
心療内科の先生はおっしゃいました。
「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。
思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。
今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。
今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。
時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。
なぜなら、私はY男の母親なのだから……。
こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。
父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。
しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。
ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。
また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います
で、父もあきらかな強迫性障害者です。
強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。(以上、2008年6月記)
Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●講演では……
次回の講演時間は、90分。
シャドウ論にはふれても、ここに書いたことまでは、話せない。
あちこちを端折(はしょ)る。
あるいは時間の関係で、話せないかもしれない。
(ここまでのページ数は、34頁(40字x36行x34頁)。)
もともに話したら、これだけで講演会は終わってしまう。
どうしようか?
言い換えると、講演というのは、いかに端折るかの闘い。
時計を見ながら、「ここまで!」とか、「ええい、ままよ!」と投げ捨てるような形で、そ
の話題から遠ざかる。
で、最後に一言。
心の別室というのは、実はだれにでもある。
大小、程度の差はあるが、だれにでもある。
だから大切なことは、まず自分の心の別室に気づくこと。
子どもについても、そうである。
あなたの子どもは、どうだろうか。
心の別室をもっていないだろうか。
もっているとしたら、その別室には、どんな思いが入っているだろうか。
この原稿を手がかりに、それを探ってみたらよい。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教
育評論 はやし浩司 心の別室論 ユング シャドウ論 シャドー論 抑圧された心、は
やし浩司 いい子論 よい子論 心をゆがめる子ども 子供)
(付記)
●ゆがむ子どもの心
+++++++++++++++
F県に住んでいる、YSさん(母親)から、
こんな相談が届いた。
転載許可がもらえたので、そのまま紹介する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
おはようございます。
前回は夫との事についての返信ありがとうございました。
今のところ、ごくごく普通に(?)過ごしています。
(腹の立つこともありますが…。)
今回は、小1から不登校中の次女(小5)のことで、少し気になることがあったので
相談させてください。
つい最近、次女がとても怖いことを言い出しました。
「ナイフとか銃とかで、人を殺してみたい。あと、魔法が使えたら一回死んでみたい。
一回死んで、魔法で生き返る。飛び降りるのとか楽しそう。」
とか、さらっと普通の口調で言ったんです。
「魔法が使えなかったら、生き返らないね。」って言ったら、
「魔法が使えなかったらそんなことしない。」とは言っていましたが、とても不安で
怖くなりました。
「この世がつまらない?」って聞いたら、「べつに。」だそうです。
毎日家で普通に元気に過ごしているようにみえますし、会話も普通に
しています。
他に気になるような症状などはないと思っているのですが…。
これが本音ならどうしたらいいのか怖くなってしまいました。
5年生になってからの担任が熱心(?)で、今までよりも少し学校に関する
刺激は増えているかなとは思いますが、そのせいもありますか?
学校のことを聞いてみても、特別嫌そうな顔はしませんし、イヤだと言ったことは
すぐに引いてしつこくはしていません。
最近アニメが大好きで、アニメばかり見ているのですが、(ガンツという殺し合いの
映画も見ました)、戦いモノがあったりもするので、その影響?とも思ってはいますが…。
半年ほど前にも「火をつけてみたい。」と言ったことがあったので、
次女の心の中はどうなっているのかとても不安です。
どうぞよろしくお願いいたします。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「抑圧は悪魔を作る」
イギリスの教育格言に、『抑圧は悪魔を作る』というのがある。
心理的な抑圧感が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったもの。
その一例として、H・フォスデックも、つぎのように言っている。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat(人を恨む(憎む)と
いうのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ)』と。
ゆがんだ感情(劣勢感情、陰性感情、劣等感情)は、脳内ホルモンの分泌そのものにも
大きな影響を与える。
サイトカインを例にあげるまでもない。
サイトカインは、脳内ストレスを引き起こす。
それだけではない。
低体温を引き起こし、免疫機能を低下させる。
もちろん精神活動にも大きな影響を与える。
YSさんの子どものばあい、表面的にはともかくも、かなりこころがゆがみ始めていると
みる。
が、このタイプの子どもは少なくない。
●I君(小6)のケース
I君は、父親が中学校の教師だった。
それもあって、教育熱心な家庭環境で生まれ育った。
ふだんは静かで、それなりに勉強もよくできた。
私の指示にも、素直に(?)従った。
が、ある日、そのI君のノートを見て、びっくりした。
そこには血を出してもがき苦しむ人間の顔が、実にリアルに描かれていた。
ほかに「死」「殺」などの文字も並んでいた。
現実にそこに見る(I君)と、ノートに見る(I君)は、あまりにもかけ離れていた。
私はそれに驚いた。
●M子さん(中1)のケース
M子さんは早熟で、体格もすでにおとなになっていた。
そのM子さんが、教室にプリクラ・ブックを置き忘れていった。
で、私はそれを「忘れ物コーナー」に置いた。
が、翌日、そのブックが、騒動の種になった。
別の子どもがそのノートを開いた。
見て、ワーワーと騒ぎ出した。
ほかの子どもたちも騒ぎ出した。
見ると、メモページには、全裸の女性が椅子に縛られ、性的拷問を受けている絵が、何
枚も描かれていた。
残虐な絵もあった。
そのM子さんの絵も、絵というよりは、写真を思わせるほど、リアルな絵だった。
ただM子さんは、頭もよく、行動的で活発。
絵から想像するような陰湿さは、みじんもなかった。
M子さんは、脳内で起きている性的エネルギーを、自ら抑圧し、それが原因で、心をゆ
がめていた。
●抑圧
心理学でいう「抑圧」を、安易に考えてはいけない。
私は「心の別室」と呼んでいる。
それについて書いた原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)
(電子マガジン・2009年7月15日より)
++++++++++++++++++++
よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。
こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。
が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。
++++++++++++++++++++
●抑圧
自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。
もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。
●上書きされない
ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。
が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。
また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。
もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。
●子どもの世界でも
「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。
心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。
そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。
●兵士のばあい
話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。
が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。
●教授の殺害事件
今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。
この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。
●心の別室
ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。
人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。
●では、どうするか
すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。
別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。
シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。
たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。
もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。
あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)
(付記)
心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。
……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。
もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。
(追記)
同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。
●「抑圧」(pressure)
+++++++++++++
昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。
++++++++++++++++++
が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。
だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。
が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。
「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。
そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。
こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。
ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。
親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。
人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。
話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●思春期の子どもの心理
抑圧は、(1)内的抑圧と、(2)外的抑圧に分けて考える。
内的抑圧というのは、欲望、願望、希望などが原因で起こる、もろもろの欲求不満、不
平、不完全燃焼感などを抑圧することをいう。
外的抑圧というのは、たとえばきびしい家庭環境、威圧的、権威主義的な親の育児姿勢が
原因で起こる、もろもろの欲求不満、不平、不完全燃焼感をいう。
思春期前夜から思春期にかけては、この双方が、子どもの内部で起こりやすい。
それが結果として、子どもの心をゆがめる。
●すなおな子ども
「すなお」というより、「さわやかな」と言い換えたほうがよいかもしれない。
このことは幼児を観ると、よくわかる。
たとえば「野原と森、それに赤い屋根の白い家」を描かせてみる。
そのとき心がさわやかな子どもは、見ても、ほっとするようなやさしい絵を描く。
そうでない子どもは、どこか不気味。
もう30年前のことだが、こんなことがあった。
お父さんとお母さんの絵を描かせていたときのこと。
M君(年中児)が、お父さんの顔を描き始めるとすぐ、その顔を真っ黒に塗りつぶしてし
まった。
で、別の紙をあげ、もう一度描かせてみたが、結果は同じだった。
しばらくしてから母親に理由をたずねると、母親はこう言った。
「実はあの前の夜、夫が蒸発しまして」と。
当時は突然の家出を、「蒸発」といった。
その前後にも、似たような子どもがいた。
年長児の男児だったと思う。
その子どもは、父親の顔を描くのだが、体、とくに腕から手の部分を、鉛筆で真っ黒に塗
りつぶしてしまった。
母親に理由を聞くと、母親はこう言った。
「主人(=父親)は、子どものころ大きな事故を経験し、右手が使えません。しかし息
子がそんなことを気にしているとは、夢にも思っていませんでした」と。
●YSさんのケース
それが内的抑圧によるものなのか、それとも外的抑圧によるものなのかは、わからない。
というのも、年齢的に、思春期に入っている。
脳内で起きている変化によるものであれば、内的抑圧になる。
しかし環境的に考えると、外的抑圧になる。
どちらであるにせよ、先に書いた、欲求不満、不平、不完全燃焼感が、怒濤のごとく渦
を巻いていると考えられる。
そのはけ口があればよいが、そのはけ口もない。
YSさんの娘は、きわめて閉塞的な環境の中で、袋小路に入ってしまっている。
心理カウンセラー的な言い方をすれば、スポーツでも何でも、自分を発散させる場所を
与えろということになる。
が、実は、これと並行して、「自我の葛藤」の問題もある。
●自我の同一性
自我の同一性についても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
Q: 最近わが子の親に対する話し方が気になります。
たとえば、私が何か「こうしなさい」と注意すると、「そんな法律がどこにあるの?」など
と言ってくるので、ついつい怒ってしまうこともしばしば……。
これは反抗期なのでしょうか?
A:思春期最大のテーマは、「同一性の確立」(エリクソン)です。
(私はこうでありたい)という理想の自己像と、(現実の私)、つまり現実自己を、一致さ
せようとします。
一致した状態を「自我の同一性」と言います。その第一歩が、おとなの優位性の打破です。
それが「思春期の反抗」と考えてください。
(悪態)もそのひとつ。「そんな法律がどこにあるの?」と。
それを許せということではありません。
それができないほどまでに、子どもを抑えてはいけないということです。カリカリするの
はしかたないとしても、「ああ、うちの子は、今、児童期から青年期へと、脱皮を始めてい
るのだ」と、一歩退いて子どもを見ます。
この時期、親意識(とくに「親に向かって何よ!」式の悪玉親意識)が強すぎると、子
どもは親の前では仮面をかぶるようになります。
自我の確立に失敗し、非行に走ったり、親子の間にキレツが入り、親子が断絶するケース
も目立ちます。
最悪のばあいには、自我の崩壊……。
ナヨナヨとした軟弱な人間になることもあります。
親には3つの役目があります。 ガイドとして子どもの前に立つ。 保護者として子ど
ものうしろに立つ。 そして3番目が重要ですが、友として子どもの横に立つ、です。
悪玉親意識を捨て、子どもの友になるつもりで、子どもの横に立ってみてください。と
たん、肩の荷が軽くなりますよ。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●言葉として発散させる
YSさんの娘が慢性的な抑圧状態にあることは、まちがいない。
が、こうした抑圧は、多かれ少なかれ、どの子どもにもある。
それがない子どもは、いない。
YSさんは、自分の子どもを「異常」と思う必要はない。
平たく言うと、「この時期の子どもによく見られる現象」ということになる。
あまりおおげさに考えないこと。
「バカなこと言ってないで、さっさと自分のことをしなさい」程度に、軽く受け流してい
く。
ただし何らかの行動をともなうようであれば、要注意。
たとえば「殺したい」と言いつつ、ナイフを買い求める。
「死にたい」と言いつつ、その種の本を買ってくる。
あるいはペットなどに、残虐な行為を繰り返す。
リストカットをする。
そういうことがあれば、「観察」の段階を超えているとみる。
学校を通して、専門医もしくは心理療法士を紹介してもらう。
「治療」を考えた指導に切り替える。
で、同時に、「子どもは家族の代表」と考え、原因は家庭にあると考え、YSさん自身が
猛省する。
「家庭は休む場所」「憩う場所」「心を休める場所」と心得、それに適した環境を娘に用意
する。
そのときコツは、娘の中で、心の別室がどのように形成されているか、静かに観察、判断
すること。
子どもの立場になり、子どもの心の中から、子どもを見る。
頭ごなしに叱ったり、注意しても意味はない。
ないばかりか、かえって症状を悪化させるので、注意する。
以上ですが、ここの書いたことを参考に、子どもを観察してみてほしい。
何が子どもを抑圧状態にしているかがわかれば、解決策も自ずと見えてくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 抑圧 心の別室 はや
し浩司 自我の同一性 はやし浩司 残虐な言葉 思春期の子どもの心 心のゆがみ ね
ずみを殺すために家に火をつける はやし浩司 内的抑圧 外的抑圧)
Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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MMMMM
m | ⌒ ⌒ |
( ̄\q ・ ・ p
\´(〃 ▽ 〃) /~~
\  ̄Σ▽乃 ̄\/~~/
\ : ξ)
2011年12月29日木曜日
*We support Mayor of Osaka, Mr. Hashimoto!
【橋下徹市長の行政改革・支持する】「がんばれ、大阪市長、橋下徹氏!」
●あわててダイエット
ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!
ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。
●おせち料理
ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。
HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。
今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれたから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!
●計画
計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、そう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。
BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大阪市長
橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。
++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++
原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合との「闘争宣言」だった。
橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組合批判を繰り出した。
問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。
橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視する発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めることしか、日本再生の道はない」と言い切った。
労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。
市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。
++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++
●目の前で歯磨き
だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。
私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。
しばらくすると職員たちが、食事から帰ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。
その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。
仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!
●橋下市長の闘争宣言
「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞と。
現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。
あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばよい。
それが現在の公務員社会である。
ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。
が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。
「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。
だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。
なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。
『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。
そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●あわててダイエット
ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!
ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。
●おせち料理
ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。
HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。
今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれたから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!
●計画
計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、そう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。
BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大阪市長
橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。
++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++
原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合との「闘争宣言」だった。
橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組合批判を繰り出した。
問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。
橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視する発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めることしか、日本再生の道はない」と言い切った。
労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。
市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。
++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++
●目の前で歯磨き
だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。
私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。
しばらくすると職員たちが、食事から帰ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。
その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。
仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!
●橋下市長の闘争宣言
「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞と。
現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。
あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばよい。
それが現在の公務員社会である。
ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。
が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。
「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。
だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。
なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。
『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。
そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●Dec. 28th 2011
【冬休み】(今年は、遊ぼう!)
●第1日目
昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!
しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。
●年賀状
本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。
途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。
ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。
●ベトナム
オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。
あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。
●舘山寺に向かう
舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。
ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。
ラッキー!
X日は、そのH会館に一泊することにした。
●小食派
若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。
料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。
ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。
●講演
講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。
ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろう。
が、楽しいことも多い。
●講演旅行
何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。
最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。
実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。
大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。
「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。
●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて
かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。
部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?
最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。
が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。
●特異現象
金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。
『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイター)と。
朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝えた。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。
が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。
だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。
どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。
もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。
●心の汗?
肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。
悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。
たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。
だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。
こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。
金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考えた。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。
感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。
●男が男湯で盗撮?
さらに驚いた事件が、これ。
『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi-。ニュース)と。
男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。
どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。
私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。
以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。
男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。
●男心vs女心
ここでクェスチョン。
男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?
ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。
なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるということになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。
●夕食
浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。
が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。
部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。
●DVD『ロシアン・ルーレット』
ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。
10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)
……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。
問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。
(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。
が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。
だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。
(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。
●鈴木M氏
あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。
その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?
それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。
受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。
ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。
「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにしたい」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。
あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。
●深夜
午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。
●リクラゼーション・ルーム
温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。
入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。
ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。
●「街道をゆく」
3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。
立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなくなってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。
盗作した相手に許してもらえた、と。
が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。
●盗作事件
ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)
私の文章が3~5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。
そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせた。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。
力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。
もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。
一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。
こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。
立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。
それにもう一言、付け足すと、こうなる。
「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。
●仮面
人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。
が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)
が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。
そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。
このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。
反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。
●得体の知れない人
私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。
そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。
こんな人もいた。
●辛辣(しんらつ)な書き込み
こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。
「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そこに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。
反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。
まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「~~日記」)。
「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらしい。
「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)に障(さわ)ったらしい。
が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。
それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。
●仮面は仮面
話を戻す。
仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。
こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。
●第2日目
冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。
……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。
では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011-12-29朝記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●第1日目
昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!
しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。
●年賀状
本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。
途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。
ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。
●ベトナム
オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。
あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。
●舘山寺に向かう
舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。
ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。
ラッキー!
X日は、そのH会館に一泊することにした。
●小食派
若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。
料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。
ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。
●講演
講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。
ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろう。
が、楽しいことも多い。
●講演旅行
何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。
最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。
実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。
大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。
「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。
●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて
かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。
部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?
最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。
が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。
●特異現象
金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。
『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイター)と。
朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝えた。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。
が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。
だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。
どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。
もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。
●心の汗?
肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。
悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。
たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。
だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。
こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。
金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考えた。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。
感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。
●男が男湯で盗撮?
さらに驚いた事件が、これ。
『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi-。ニュース)と。
男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。
どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。
私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。
以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。
男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。
●男心vs女心
ここでクェスチョン。
男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?
ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。
なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるということになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。
●夕食
浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。
が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。
部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。
●DVD『ロシアン・ルーレット』
ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。
10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)
……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。
問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。
(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。
が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。
だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。
(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。
●鈴木M氏
あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。
その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?
それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。
受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。
ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。
「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにしたい」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。
あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。
●深夜
午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。
●リクラゼーション・ルーム
温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。
入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。
ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。
●「街道をゆく」
3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。
立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなくなってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。
盗作した相手に許してもらえた、と。
が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。
●盗作事件
ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)
私の文章が3~5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。
そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせた。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。
力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。
もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。
一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。
こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。
立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。
それにもう一言、付け足すと、こうなる。
「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。
●仮面
人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。
が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)
が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。
そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。
このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。
反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。
●得体の知れない人
私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。
そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。
こんな人もいた。
●辛辣(しんらつ)な書き込み
こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。
「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そこに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。
反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。
まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「~~日記」)。
「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらしい。
「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)に障(さわ)ったらしい。
が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。
それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。
●仮面は仮面
話を戻す。
仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。
こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。
●第2日目
冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。
……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。
では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011-12-29朝記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年12月28日水曜日
*Dec 27th 2011
【今日が仕事納め】(明日から、冬休み!)
●サイゼリアで夕食(12月27日)
夜のクラスまでに、1時間半の空きができた。
ワイフと2人で、サイゼリア(レストラン)へ行った。
夕食をとり、1時間ほど、そこで過ごした。
教室の外へ出ると、身を切るような冷気を感じた。
寒かった。
●正月の予定
正月の予定は、とくになし。
温泉地も、この時期はどこも満員。
料金も高い。
だから例年、私たちは静かにしている。
たぶん、今年も、そうなるだろう。
初詣なるものは、この数年、していない。
が、初詣の先取りというのは、している。
12月の終わりに、近くの神社へ行く。
人ごみが平気な人もいる。
そうでない人もいる。
が、私は基本的には、人ごみが苦手。
落ち着かない。
だから先取り。
「今年もよろしく」ではなく、「来年もよろしく」と。
いつもそう祈念する。
●年賀状
「年賀状はどうするの?」とワイフ。
「明日、書くよ」と私。
昔は手書きで、1週間仕事だった。
今は、プリンターを操作するだけ。
片手間で、できる。
楽になった。
が、同時に、ありがたみが消えた。
それもあって、数年前、年賀状廃止宣言なるものをした。
が、それでも(人とのつながり)は、残る。
この1、2年、逆戻り。
出す枚数が、ふえてきた。
ここは自然体で考えるしかない。
なりゆきに任せる。
それが(人生の流れ)。
●保安院
今日のニュース。
保安院が、東京電力に対して、厳重注意をしたという。
東京電力の(いいかげんさ)を、問題にしたらしい。
が、そんなことは、当初から、わかっていたこと。
3・11大震災から、すでに9か月もたっている。
どうして、今ごろ?
私たち一般庶民の目から見ると、保安院も東京電力も同じ。
同じ穴のムジナ。
当初はその両方が、肩を並べて、記者会見に臨んでいた。
●計画停電→料金値上げ→国有化
3・11大震災直後、東京電力は「計画停電」なるものを、実施した。
「私たちをいじめると、停電しますよ」と。
が、そのあと、電力が不足したという事実は、まったくない。
そこであの手、この手を使って、「国」から金(マネー)を出させようとした。
が、それがうまくいかないとわかると、今度は、「料金の値上げ」という言葉を使うようになった。
「私たちをいじめると、料金を値上げしますよ」と。
幼稚な心理。
幼稚な発想。
幼稚な脅迫。
そこで政府は、伝家の宝刀を抜いた。
「国有化するぞ」と。
逆に東京電力を脅した。
が、その前に、責任問題を明確にしてほしい。
これだけの被害を出しながら、責任者がいないでは、すまされない。
東京電力はすでに、こう言って、防波堤を立てている。
「私たちは国の基準に従い、許可を得てやっている(つまり責任はない)」
「私たちは国の指示通りに、行動している(つまり責任はない)」と。
どこまでも狡猾(こうかつ)な東京電力。
●北朝鮮と天皇制
だれもが、そこまでわかっている。
知っている。
しかしそれを口に出して言うことは、この日本では、タブー。
北朝鮮の新しい指導者は、金正恩。
その金正恩……。
独裁制がおかしい?
世襲制がおかしい?
偶像化がおかしい?
権威化がおかしい?
が、私たち日本人は、それを声に出して言うことができない。
言えば、日本という国自体が、自己矛盾の世界に落ち込んでしまう。
北朝鮮という国は、皮肉なことに、戦前、戦時中の日本とそっくり。
日本以上に、日本的?
私が子どものときでさえ、(戦後、10年近くもたってのことだったが)、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られた。
「陛下と言え!」と。
「日本と北朝鮮は違う」と主張する人も多い。
しかしどこがどう違うのか?
それをきちんと説明できる人はいるのだろうか。
日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
言論の自由度にしても、日本は、178か国中、11位(国境なき記者団2010)。
順だけをみれば、まずまず。
が、皇室問題に関しては、どうか?
男系男子?
賛成、反対?
男はよい?
女はダメ?
今どき、こんなアホなことを議論している国は、そうはない。
……おっと、口がすべった。
日本の言論の自由も、ここまで。
この程度。
●北朝鮮を支持?
中国が北朝鮮支持の姿勢を、鮮明にし始めた。
が、こんなことは、最初からわかっていたこと。
6か国協議が始まったときから、私はこう書いてきた。
「茶番劇」と。
「泥棒に、泥棒の管理を任せるようなもの」とも。
その結果が、今。
が、いつか必ず、現在の歴史を振り返るときがやってくる。
そのとき、恥をかくのは、中国。
現在の今の今も、政治犯収容所には、約20万人もの人が収容されているという。
「10年もたたずして、みな死んでいく」(脱北者証言)とも。
単純に計算すれば、1年で、2万人。
50年で、100万人。
あるいはそれ以上。
現在の悲惨な状況は、やがて明るみになる。
そのとき中国は、現在の中国を、どう弁解するつもりなのか。
●「窮乏者の年末」
数日前、どこかの新聞社が、こんな社説を載せていた。
題して「窮乏者の年末」(仮称)。
記事は読まなかった。
読むまでもなかった。
現在、「どうやって年越しをしたらいいのか」と、困っている人は多い。
お金がなくて、途方に暮れている人は多い。
そういう人たちへの、励ましの記事。
表題だけで、中身がわかった。
が、ここでパラドックス。
そういう人たちは、新聞代を払うお金もない。
つまり新聞を読まない。
読まない人に向かって、「がんばれ」と励ましても、意味がない。
貧乏の恐ろしさは、それを体験したものでないと、わからない。
まさに精神の拷問。
長くつづくと、心そのものが腐る。
●リビドーvsサナトス
昨日、善悪論を、心理学の世界で考えてみた。
15枚ほど原稿を書いた。
が、どうもうまく、まとめることができなかった。
そのことを、夕食をとりながら、ワイフに話した。
要するに、生命力が強い人ほど、同時に、破壊力も強いということ。
フロイトは、生命力を「リビドー」、破壊力を「サナトス」と呼んだ。
人は、この2つの力を、同時にもっている。
つまり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、こういうこと。
善への志向性が強い人ほど、悪への志向性が強いということ。
で、それをコントロールする力が、「理性」ということになる。
が、この理性ほどアテにならないものはない。
そこで釈迦は、「精進」という言葉を使った。
正しくは「正精進」。
つまり「中正かつ公正な精進」。
この場合の「正」は、「ごくふつうの」という意味。
わかりやすく言えば、「人が総じてもっている常識的な」という意味。
その常識を日々に、研さんし、磨く。
それが正精進。
それがないと、人は偏(かたよ)ったものの考え方をするようになる。
これが理性のコントロールを狂わせる。
●最後の一仕事
今年も、残すところ、あと1クラス。
それが終われば、冬休み。
帰りにワイフと打ち上げ会。
毎年、そうしている。
……今年も、いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
その「いろいろ」という言葉の中に、ぎっしりと思い出が詰まっている。
が、こうして無事、年を越せることに感謝する。
大きな病気は、しなかった。
みな、健康だった。
来年(2012年)も、現状維持。
それを目標に、がんばる。
がんばるしかない。
さあ、これから教室に戻り、一仕事。
(以上、市内、サイゼリアにて、はやし浩司 2011-12-27夕方記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●サイゼリアで夕食(12月27日)
夜のクラスまでに、1時間半の空きができた。
ワイフと2人で、サイゼリア(レストラン)へ行った。
夕食をとり、1時間ほど、そこで過ごした。
教室の外へ出ると、身を切るような冷気を感じた。
寒かった。
●正月の予定
正月の予定は、とくになし。
温泉地も、この時期はどこも満員。
料金も高い。
だから例年、私たちは静かにしている。
たぶん、今年も、そうなるだろう。
初詣なるものは、この数年、していない。
が、初詣の先取りというのは、している。
12月の終わりに、近くの神社へ行く。
人ごみが平気な人もいる。
そうでない人もいる。
が、私は基本的には、人ごみが苦手。
落ち着かない。
だから先取り。
「今年もよろしく」ではなく、「来年もよろしく」と。
いつもそう祈念する。
●年賀状
「年賀状はどうするの?」とワイフ。
「明日、書くよ」と私。
昔は手書きで、1週間仕事だった。
今は、プリンターを操作するだけ。
片手間で、できる。
楽になった。
が、同時に、ありがたみが消えた。
それもあって、数年前、年賀状廃止宣言なるものをした。
が、それでも(人とのつながり)は、残る。
この1、2年、逆戻り。
出す枚数が、ふえてきた。
ここは自然体で考えるしかない。
なりゆきに任せる。
それが(人生の流れ)。
●保安院
今日のニュース。
保安院が、東京電力に対して、厳重注意をしたという。
東京電力の(いいかげんさ)を、問題にしたらしい。
が、そんなことは、当初から、わかっていたこと。
3・11大震災から、すでに9か月もたっている。
どうして、今ごろ?
私たち一般庶民の目から見ると、保安院も東京電力も同じ。
同じ穴のムジナ。
当初はその両方が、肩を並べて、記者会見に臨んでいた。
●計画停電→料金値上げ→国有化
3・11大震災直後、東京電力は「計画停電」なるものを、実施した。
「私たちをいじめると、停電しますよ」と。
が、そのあと、電力が不足したという事実は、まったくない。
そこであの手、この手を使って、「国」から金(マネー)を出させようとした。
が、それがうまくいかないとわかると、今度は、「料金の値上げ」という言葉を使うようになった。
「私たちをいじめると、料金を値上げしますよ」と。
幼稚な心理。
幼稚な発想。
幼稚な脅迫。
そこで政府は、伝家の宝刀を抜いた。
「国有化するぞ」と。
逆に東京電力を脅した。
が、その前に、責任問題を明確にしてほしい。
これだけの被害を出しながら、責任者がいないでは、すまされない。
東京電力はすでに、こう言って、防波堤を立てている。
「私たちは国の基準に従い、許可を得てやっている(つまり責任はない)」
「私たちは国の指示通りに、行動している(つまり責任はない)」と。
どこまでも狡猾(こうかつ)な東京電力。
●北朝鮮と天皇制
だれもが、そこまでわかっている。
知っている。
しかしそれを口に出して言うことは、この日本では、タブー。
北朝鮮の新しい指導者は、金正恩。
その金正恩……。
独裁制がおかしい?
世襲制がおかしい?
偶像化がおかしい?
権威化がおかしい?
が、私たち日本人は、それを声に出して言うことができない。
言えば、日本という国自体が、自己矛盾の世界に落ち込んでしまう。
北朝鮮という国は、皮肉なことに、戦前、戦時中の日本とそっくり。
日本以上に、日本的?
私が子どものときでさえ、(戦後、10年近くもたってのことだったが)、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られた。
「陛下と言え!」と。
「日本と北朝鮮は違う」と主張する人も多い。
しかしどこがどう違うのか?
それをきちんと説明できる人はいるのだろうか。
日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
言論の自由度にしても、日本は、178か国中、11位(国境なき記者団2010)。
順だけをみれば、まずまず。
が、皇室問題に関しては、どうか?
男系男子?
賛成、反対?
男はよい?
女はダメ?
今どき、こんなアホなことを議論している国は、そうはない。
……おっと、口がすべった。
日本の言論の自由も、ここまで。
この程度。
●北朝鮮を支持?
中国が北朝鮮支持の姿勢を、鮮明にし始めた。
が、こんなことは、最初からわかっていたこと。
6か国協議が始まったときから、私はこう書いてきた。
「茶番劇」と。
「泥棒に、泥棒の管理を任せるようなもの」とも。
その結果が、今。
が、いつか必ず、現在の歴史を振り返るときがやってくる。
そのとき、恥をかくのは、中国。
現在の今の今も、政治犯収容所には、約20万人もの人が収容されているという。
「10年もたたずして、みな死んでいく」(脱北者証言)とも。
単純に計算すれば、1年で、2万人。
50年で、100万人。
あるいはそれ以上。
現在の悲惨な状況は、やがて明るみになる。
そのとき中国は、現在の中国を、どう弁解するつもりなのか。
●「窮乏者の年末」
数日前、どこかの新聞社が、こんな社説を載せていた。
題して「窮乏者の年末」(仮称)。
記事は読まなかった。
読むまでもなかった。
現在、「どうやって年越しをしたらいいのか」と、困っている人は多い。
お金がなくて、途方に暮れている人は多い。
そういう人たちへの、励ましの記事。
表題だけで、中身がわかった。
が、ここでパラドックス。
そういう人たちは、新聞代を払うお金もない。
つまり新聞を読まない。
読まない人に向かって、「がんばれ」と励ましても、意味がない。
貧乏の恐ろしさは、それを体験したものでないと、わからない。
まさに精神の拷問。
長くつづくと、心そのものが腐る。
●リビドーvsサナトス
昨日、善悪論を、心理学の世界で考えてみた。
15枚ほど原稿を書いた。
が、どうもうまく、まとめることができなかった。
そのことを、夕食をとりながら、ワイフに話した。
要するに、生命力が強い人ほど、同時に、破壊力も強いということ。
フロイトは、生命力を「リビドー」、破壊力を「サナトス」と呼んだ。
人は、この2つの力を、同時にもっている。
つまり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、こういうこと。
善への志向性が強い人ほど、悪への志向性が強いということ。
で、それをコントロールする力が、「理性」ということになる。
が、この理性ほどアテにならないものはない。
そこで釈迦は、「精進」という言葉を使った。
正しくは「正精進」。
つまり「中正かつ公正な精進」。
この場合の「正」は、「ごくふつうの」という意味。
わかりやすく言えば、「人が総じてもっている常識的な」という意味。
その常識を日々に、研さんし、磨く。
それが正精進。
それがないと、人は偏(かたよ)ったものの考え方をするようになる。
これが理性のコントロールを狂わせる。
●最後の一仕事
今年も、残すところ、あと1クラス。
それが終われば、冬休み。
帰りにワイフと打ち上げ会。
毎年、そうしている。
……今年も、いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
その「いろいろ」という言葉の中に、ぎっしりと思い出が詰まっている。
が、こうして無事、年を越せることに感謝する。
大きな病気は、しなかった。
みな、健康だった。
来年(2012年)も、現状維持。
それを目標に、がんばる。
がんばるしかない。
さあ、これから教室に戻り、一仕事。
(以上、市内、サイゼリアにて、はやし浩司 2011-12-27夕方記)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
2011年12月27日火曜日
*Good or Bad in psychology
●寒い朝(12月27日)
++++++++++++++++++++
昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。
今日は、12月27日。
火曜日。
昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2~3度ではなかったか。
++++++++++++++++++++
【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)
●心理学で考える、善と悪
●隕石
昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言った。
「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。
●死へのあこがれ(サナトス)
フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。
ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。
この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということになる。
●創造vs破壊
誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。
たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)
すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわかる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。
●フロイト
フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考える。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。
このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。
人間の心理にも、同じように考えることができる。
●プラス型vsマイナス型
幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケースがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこうとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)
フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。
●バランス
要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。
最初の話に戻る。
子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そうあってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。
もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。
●距離感
こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。
先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。
その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。
……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。
(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)
●サナトス
さらに踏み込んで考えてみよう。
フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。
「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれない。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということになる。
つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。
●善人論vs悪人論
このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。
よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。
つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしまう。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。
●バランス感覚
そこで重要なのが、バランス感覚。
私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。
さて、本論。
●老人論
私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。
その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。
実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。
●善人vs悪人
……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。
被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。
善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。
ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。
そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。
今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 リビドー サナトス 善人論 悪人論 善と悪 距離感 はやし浩司 心理学 善と悪)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【善と悪】(2006-04-28記)
●昆虫のような脳みそ
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。
「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
+++++++++++++++++
「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。
いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。
善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。
しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の心の奥底に潜む。
それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。
仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。
悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということも、珍しくない。
この点でも、善と悪は、平等ではない。
恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわしてしまう」と。
T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところから生まれた(?)。
「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。
その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」というタイトルのもあった。
あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。
だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。
このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのものは、即、削除してしまったが……。)
で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテスの男。ハハハ。
++++++++++++++++++
4年前に書いた原稿を、ここに添付します。
++++++++++++++++++
●善と悪
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。
トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。
子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。
たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。
一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。
もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02-10-25)※
++++++++++++++++++++
●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)をここに転載する。
++++++++++++++++++++
●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●数遊び
今日のテーマは、数遊び。
年中児(4~5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。
(1)
(2)
(3)
(4)
++++++++++++++++++++
昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。
今日は、12月27日。
火曜日。
昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2~3度ではなかったか。
++++++++++++++++++++
【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)
●心理学で考える、善と悪
●隕石
昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言った。
「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。
●死へのあこがれ(サナトス)
フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。
ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。
この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということになる。
●創造vs破壊
誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。
たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)
すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわかる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。
●フロイト
フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考える。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。
このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。
人間の心理にも、同じように考えることができる。
●プラス型vsマイナス型
幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケースがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこうとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)
フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。
●バランス
要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。
最初の話に戻る。
子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そうあってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。
もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。
●距離感
こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。
先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。
その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。
……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。
(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)
●サナトス
さらに踏み込んで考えてみよう。
フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。
「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれない。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということになる。
つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。
●善人論vs悪人論
このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。
よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。
つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしまう。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。
●バランス感覚
そこで重要なのが、バランス感覚。
私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。
さて、本論。
●老人論
私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。
その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。
実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。
●善人vs悪人
……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。
被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。
善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。
ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。
そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。
今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【善と悪】(2006-04-28記)
●昆虫のような脳みそ
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「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。
「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
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「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。
たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。
いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。
善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。
しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の心の奥底に潜む。
それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。
仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。
悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということも、珍しくない。
この点でも、善と悪は、平等ではない。
恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわしてしまう」と。
T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところから生まれた(?)。
「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。
その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」というタイトルのもあった。
あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。
だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。
このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのものは、即、削除してしまったが……。)
で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテスの男。ハハハ。
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4年前に書いた原稿を、ここに添付します。
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●善と悪
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。
トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。
子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。
たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。
一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。
もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02-10-25)※
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●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)をここに転載する。
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●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。
その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。
問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。
私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。
「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
●数遊び
今日のテーマは、数遊び。
年中児(4~5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。
(1)
(2)
(3)
(4)
2011年12月26日月曜日
*My G-son and G-daughter in USA
●1日遅れのクリスマス
12月25日。
1日遅れのクリスマス。
ワイフは「老人組はクリスマスなど、しないわ」と居直っている。
「……しかしねエ~」と、私。
それで1日遅れのクリスマス。
25日になって、クリスマスをすることになった。
夕食の材料を買いに行ったついでに、ケーキを一個。
「売れ残りのケーキはありますか?」と聞くと、店員はあっさりとこう言った。
「今日が本番です」と。
ホント?
知らなかった……!
我が家では12月24日の夜に、ずっとクリスマスを祝っていた。
「シャンパーンが1本、あるわ」とワイフ。
●寒い
日昼でも、気温は6度前後。
寒いというより、冷たい。
午後1時ごろ、雹(ひょう)が降った。
が、私はそのころ、昼寝中。
ちょうど1時間40分。
1レム分、ぐっすりと眠った。
今夜は山荘で1泊するつもり。
●岐阜は大雪
従兄が餅を送ってくれた。
「郡上のやきもち」という餅だった。
故郷の温もりが、プ~ンと香った。
礼の電話をした。
あれこれ話をした。
岐阜(関市板取村)では、昨夜から雪が降り始めたという。
「30センチは積もった」という。
「いいなア」と思う気持ち半分。
「たいへんだなア」と思う気持ち半分。
●不景気
従兄は何度も「不景気」という言葉を使った。
「浜松もひどいもんですよ」と言うと、「がんばるしかないねエ」と。
そう、がんばるしかない。
生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。
簡単には死ねない。
だからがんばるしかない。
●乾杯!
……ということで、今夜、1日遅れのクリスマス・パーティを開いた。
ケーキとシャンパーンだけ。
プレゼント交換もない。
食事の終わりに、「メリークリスマス」。
それに乾杯。
それだけ。
棚の上のクリスマスカードも、どこかさみしそう。
「R君から、クリスマスカードは来た?」とワイフに聞くと、「ほら」とそこを指さした。
見ると、棚の上に並んでいた。
「会いたいなア」と私。
「3月に、またオーストラリアへ行こうか?」とワイフ。
「クリスチャンでもないぼくたちが、クリスマスだなんて、おかしいよ」と。
そう言って、自分を慰める。
さみしいクリスマス。
言い訳をする。
●形相
近所に、そのあたりでも評判の意地悪ジー様がいる。
何かにつけ、意地悪。
利己主義というか、自分の家の前にだれかが車を止めただけで、パトカーを呼ぶ。
30分も止めておくと、写真を撮る。
撮った写真を警察へ送る。
私も一度、やられた。
一事が万事。
万事が一事。
……というジー様。
で、そのシー様、今年、80歳くらいになった。
久しぶりにその顔を見た。
散歩の途中だった。
ワイフも横にいた。
が、その顔を見て、ゾッとした。
ワイフも、そうだったとあとで言った。
なぜ、ゾッとしたか……。
……つまり、そういう顔。
ゆがんでいた。
恐ろしい形相をしていた。
「心がゆがむと、顔もゆがむね」と。
そんな話をワイフと2人で、しあった。
●老人心理
老人には老人独特の心理がある。
独特の死生観と言うべきか。
ワイフの父親は、生前、いつもこう言っていた。
「申し訳ない、申し訳ない」と。
「自分だけ生き残り、日本へ帰ってきて、申し訳ない」と。
行きは3000人。
帰ってきたのは、たったの300人。
ワイフの父親は、戦時中、ラバウルへ出兵していた。
その一方で、知りあいが死ぬたびに、「あいつが死んだ」「こいつが死んだ」と喜ぶ人もいる。
表では悲しんでいるフリをするが、それは演技。
仮面。
常人には理解できない心理だが、そういう老人もたしかに、いる。
世間体を気にし、見栄や体裁ばかりを気にする。
だからそういう死生観になるのか。
あるいはそういう死生観をもっているから、そういう人生観になるのか。
ワイフの父親のような老人もいれば、心のゆがんだ老人もいる。
そのちがいは、日々の積み重ねによって決まる。
老人になってから、決まるのではない。
若いころからの生き様によって、決まる。
●小雨
山荘へ向かう途中、小雨が降り始めた。
午後6時だった。
が、外は真っ暗。
路面が鏡のように、街の明かりを照り返していた。
寒々とした景色だった。
よく見ると、雨ではなく雪だった。
●『2012年・マヤ予言の謎』
買い癖。
コンビニへ行くたびに、この種の本を買う。
今夜は『2012年、マヤ予言の謎』(Gakken)。
「予言など当たるわけがない」と思いつつ、ついつい買ってしまう。
よい例が「ノストラダムスの大予言」。
結果は、ハズレ!
あれほどまでに騒いでおきながら、ハズレもハズレ、大ハズレ!
1999年の終わりにあったのは、「2000年問題」だけ。
全世界のコンピューターが狂うと言われた。
が、それも、結局は何ごともなく、終わった。
今夜は、私は、これを読む。
暇つぶしには、この種の本がいちばん。
読んでいるうちに、たいてい眠くなる。
●イスラエルによるイラン攻撃
新年早々というか、ひょっとしたら明日かも知れない。
イスラエルによるイラン攻撃が心配される。
可能性の問題ではない。
時間の問題。
運転しながらワイフがこう言った。
「いつかしら?」と。
私「だれもが、そうでないと思っているときさ」
ワ「じゃあ、いつ?」
私「ぼくはクリスマスの夜と思っていた。が、何ごともなかった。つぎは新年だろうね」と。
こうした奇襲攻撃は、相手がいちばん油断しているときをねらう。
相手が構えていたら、奇襲攻撃にならない。
が、それをきっかけに原油価格の高騰。
とたん、世界経済は、さらにおかしくなる。
●人類滅亡7つの可能性
『2012年、マヤ予言の謎』によれば、人類滅亡には、7つの可能性があるという。
そのまま書き出してみる。
(1) バイオハザード
(2) 小惑星NEOの衝突
(3) スーパー・ソーラーストーム
(4) 超新星ベテルギウスの爆発
(5) エイリアンの侵略
(6) 氷河期の到来
(7) 闇の集団による世界統一
マヤが以上のことを予言しているわけではない。
2012年に起こるかもしれないということで、7つの可能性があげられている。
で、私なりに、その可能性を採点してみる。
(1) バイオハザード……いつ起きてもおかしくないが、2012年とはかぎらない。
(2) 小惑星NEOの衝突……直径が10メートル前後のものは、ありうる。
(3) スーパー・ソーラーストーム……ほぼ確実視されている。規模は不明。
(4) 超新星ベテルギウスの爆発……どうかな?
(5) エイリアンの侵略……地球など侵略しても、意味はない。
(6) 氷河期の到来……海流の流れが変わると、局地的に極寒期に入ることもありえる。
(7) 闇の集団による世界統一……何を今さら! すでに無数の集団が誕生している。
●山荘にて
山荘では、ワイフはいつものようにビデオを見始めた。
私は、TOSHIBAのR631を叩き始めた。
ウルトラ・パソコン。
R631は、週刊アスキー誌で、今年のベスト・バイ賞を受賞した。
この賞に異議はない。
たしかに完成度が高い。
使えば使うほど、愛着がわいてくる。
●騎士道
ワイフの見ているDVDの中に、こんなセリフがあった。
『デビル・クエスト』というDVDである。
主演は、ニコラス・ケイジ。
そのニコラス・ケイジ演ずる騎士が、1人の若者に騎士(ナイト)の称号を与える。
「身が灰塵となるまで……神に忠誠を誓うべし……」(記憶)と。
西洋の騎士道の原点である。
スケールが大きい。
相手は「神」。
「日本の武士道とは、ずいぶんと違うなア」と、私。
日本的に考えるなら、『仏に忠誠を誓うべし』となるのか?
しかし『仏に忠誠』というのも、おかしい。
●死に際の美学
そう言えば、昨日観た映画、『山本五十六』の中にも、武士道を思わせるセリフがいくつか出てきた。
たとえばこんなセリフ。
役所公司演ずる山本五十六が、こう言う。
「武士は、夜討ち(=暗殺)をしかけるときも、相手の枕を一度蹴る。
蹴って相手が起きあがったところで、相手を殺す」(記憶)と。
つまり武士たるもの、宣戦布告もしないで、真珠湾を攻撃するような卑怯なことはしない、と。
これも死に際の美学ということになる。
正確には、「殺しの美学」?
そのときは「うまいこと言うなア」と、感心した。
●卑怯
では、イスラエルはどうか?
一度、宣戦布告をしてから、イランを攻撃するだろうか。
それには前例がある。
一度、イランの核施設を攻撃したことがある。
が、イスラエルはそういう布告をした例(ためし)がない。
いつも奇襲攻撃。
日本流に考えれば、武士道の精神から完全にはずれている。
だいたい西洋の騎士道には、「卑怯」という言葉そのものが、ない。
あえて言えば、「ずるい(sneaky)」という言葉がある。
が、殺し合いに、ずるいも何もない。
●映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』
映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』は、よい映画だった。
直後の評価では、星を3つ、つけた。
しかし1日たった今、少しずつだが、評価が崩れてきた。
私が映画『トラ・トラ・トラ』を観たのは、1970年。
オーストラリアにいたころ。
その『トラ・トラ・トラ』と比べたら、……というか、『山本五十六』は、比較にならない。
つまりお粗末。
「空前のスケールで描く、一大巨編」(公式サイトおよび広告)と言うほど、すごくはなかった。
そのあと発表された映画『パールハーバー』と比べても、そうだ。
比較にならない。
……たしか最後のところで、こんなナレーションもあったように記憶している。
「戦後70年もたち……」「私たちは……を忘れている」(記憶)と。
日本映画の悪いところ。
必ず、こうした説教がましい説明が入る。
説教がましい説明が、映画そのものを台無しにしてしまう。
●卑怯(2)
Weblio辞書には、こうある。
「卑怯を英語に訳すと(おくびょう)、 cowardice(卑劣)。
【形式ばった表現】 meanness卑怯な(おくびょうな) cowardly;
《口語》 chicken(卑劣な)
【形式ばった表現】 mean(不正な)」と。
卑怯イコール、臆病(おくびょう)ということになる。
私は武士道でいう「卑怯」は、「ずるい」のほうに近いと思う。
これは解釈の違いによるものか。
少し気になったので、Weblio辞書を使って、「卑怯」の英訳を調べてみた。
●正月休み
正月休み。
10日も、ある。
どうしようか。
ワイフは「あちこちへ旅行しよう」と言う。
私も、そう思う。
しかし今年は、まだ計画を立てていない。
とくに行きたいところは、ない。
行くとしたら、「ひおき」(民宿)。
岐阜県板取村にある、「ひおき」。
明日にでも電話をしてみよう。
●おでん
時刻は午後9時。
先ほど、ワイフがこう言った。
「9時以後は、何も食べてはだめよ」「太るから」と。
その9時が、近づいてきた。
家からもってきた、おでんが食べたい。
うらめしい。
が、ここはがまん。
現在、体重は66キロ。
適正体重より、2キロもオーバー。
●死生観
ところでこのところ、おかしな死生観が漂うようになった。
たとえばこんなふうに、考える。
何かの大病になったとする。
そのとき私は、どうするか、と。
大病と闘う人もいる。
闘っている人もいる。
しかし私のばあい、闘っても、意味はない。
だからこう思う。
「息子たちにはもちろん、ワイフにも知らせないでおこう」と。
つまり静かに、その時を迎えよう、と。
手遅れなら、手遅れでもよい。
私はもう、じゅうぶんすぎるほど、長く生きた。
無理に生きて、みなに迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んだほうがよい。
たぶん、ワイフも同じ考えだろう。
ああいう性格の女性だから、大病になっても、私には知らせないだろう。
静かに死ぬことだけを望むだろう。
命を天に預ける。
共に命を天に預ける。
ジタバタしない。
……そんな死生観。
●「ああ、これで死ねるのか」
だからといって、誤解しないでほしい。
「死にたい」と書いているのではない。
生きたい。
どこまでも生きたい。
しかし同時に、「死」が、それほど怖い存在ではなくなってきた。
この正月(2011年)に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねるのか」と。
不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
本当に不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
あれほどまでに死を恐れていた私が、穏やかな気持ちだった。
そのほうが、私にとっては不思議だった。
この世に未練はない。
はじめから期待していない。
期待していないから、未練はない。
●孫たち
孫(誠司と芽衣)のビデオ(YOUTUBE)が届いた。
http://youtu.be/1PAtjz0jPsA
送ったプレゼントは無事、届いたようだ。
誠司は「石」に関心をもっている。
芽衣は「料理」に関心をもっている。
この時期、子どもたちは自分の方向性(思考回路)を決定する。
与えるものには、慎重でありたい。
●就寝
今日の総括。
今日は、どうだったか。
一言で表せば、寒い1日だった。
それ以外、印象の薄い1日だった。
とくに成果なし。
平凡な1日。
不完全燃焼感を心の底で押しつぶしながら……、
みなさん、おやすみなさい!
……私たち夫婦は、冬場はいつも、布団乾燥機で布団を暖めながら寝る。
その音が寝室のほうから聞こえてくる……。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 孫 誠司 芽衣 Sage Mae Soichi727 林 宗市 Soichi Hayashi はやし浩司 2011-12-25)
Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司
12月25日。
1日遅れのクリスマス。
ワイフは「老人組はクリスマスなど、しないわ」と居直っている。
「……しかしねエ~」と、私。
それで1日遅れのクリスマス。
25日になって、クリスマスをすることになった。
夕食の材料を買いに行ったついでに、ケーキを一個。
「売れ残りのケーキはありますか?」と聞くと、店員はあっさりとこう言った。
「今日が本番です」と。
ホント?
知らなかった……!
我が家では12月24日の夜に、ずっとクリスマスを祝っていた。
「シャンパーンが1本、あるわ」とワイフ。
●寒い
日昼でも、気温は6度前後。
寒いというより、冷たい。
午後1時ごろ、雹(ひょう)が降った。
が、私はそのころ、昼寝中。
ちょうど1時間40分。
1レム分、ぐっすりと眠った。
今夜は山荘で1泊するつもり。
●岐阜は大雪
従兄が餅を送ってくれた。
「郡上のやきもち」という餅だった。
故郷の温もりが、プ~ンと香った。
礼の電話をした。
あれこれ話をした。
岐阜(関市板取村)では、昨夜から雪が降り始めたという。
「30センチは積もった」という。
「いいなア」と思う気持ち半分。
「たいへんだなア」と思う気持ち半分。
●不景気
従兄は何度も「不景気」という言葉を使った。
「浜松もひどいもんですよ」と言うと、「がんばるしかないねエ」と。
そう、がんばるしかない。
生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。
簡単には死ねない。
だからがんばるしかない。
●乾杯!
……ということで、今夜、1日遅れのクリスマス・パーティを開いた。
ケーキとシャンパーンだけ。
プレゼント交換もない。
食事の終わりに、「メリークリスマス」。
それに乾杯。
それだけ。
棚の上のクリスマスカードも、どこかさみしそう。
「R君から、クリスマスカードは来た?」とワイフに聞くと、「ほら」とそこを指さした。
見ると、棚の上に並んでいた。
「会いたいなア」と私。
「3月に、またオーストラリアへ行こうか?」とワイフ。
「クリスチャンでもないぼくたちが、クリスマスだなんて、おかしいよ」と。
そう言って、自分を慰める。
さみしいクリスマス。
言い訳をする。
●形相
近所に、そのあたりでも評判の意地悪ジー様がいる。
何かにつけ、意地悪。
利己主義というか、自分の家の前にだれかが車を止めただけで、パトカーを呼ぶ。
30分も止めておくと、写真を撮る。
撮った写真を警察へ送る。
私も一度、やられた。
一事が万事。
万事が一事。
……というジー様。
で、そのシー様、今年、80歳くらいになった。
久しぶりにその顔を見た。
散歩の途中だった。
ワイフも横にいた。
が、その顔を見て、ゾッとした。
ワイフも、そうだったとあとで言った。
なぜ、ゾッとしたか……。
……つまり、そういう顔。
ゆがんでいた。
恐ろしい形相をしていた。
「心がゆがむと、顔もゆがむね」と。
そんな話をワイフと2人で、しあった。
●老人心理
老人には老人独特の心理がある。
独特の死生観と言うべきか。
ワイフの父親は、生前、いつもこう言っていた。
「申し訳ない、申し訳ない」と。
「自分だけ生き残り、日本へ帰ってきて、申し訳ない」と。
行きは3000人。
帰ってきたのは、たったの300人。
ワイフの父親は、戦時中、ラバウルへ出兵していた。
その一方で、知りあいが死ぬたびに、「あいつが死んだ」「こいつが死んだ」と喜ぶ人もいる。
表では悲しんでいるフリをするが、それは演技。
仮面。
常人には理解できない心理だが、そういう老人もたしかに、いる。
世間体を気にし、見栄や体裁ばかりを気にする。
だからそういう死生観になるのか。
あるいはそういう死生観をもっているから、そういう人生観になるのか。
ワイフの父親のような老人もいれば、心のゆがんだ老人もいる。
そのちがいは、日々の積み重ねによって決まる。
老人になってから、決まるのではない。
若いころからの生き様によって、決まる。
●小雨
山荘へ向かう途中、小雨が降り始めた。
午後6時だった。
が、外は真っ暗。
路面が鏡のように、街の明かりを照り返していた。
寒々とした景色だった。
よく見ると、雨ではなく雪だった。
●『2012年・マヤ予言の謎』
買い癖。
コンビニへ行くたびに、この種の本を買う。
今夜は『2012年、マヤ予言の謎』(Gakken)。
「予言など当たるわけがない」と思いつつ、ついつい買ってしまう。
よい例が「ノストラダムスの大予言」。
結果は、ハズレ!
あれほどまでに騒いでおきながら、ハズレもハズレ、大ハズレ!
1999年の終わりにあったのは、「2000年問題」だけ。
全世界のコンピューターが狂うと言われた。
が、それも、結局は何ごともなく、終わった。
今夜は、私は、これを読む。
暇つぶしには、この種の本がいちばん。
読んでいるうちに、たいてい眠くなる。
●イスラエルによるイラン攻撃
新年早々というか、ひょっとしたら明日かも知れない。
イスラエルによるイラン攻撃が心配される。
可能性の問題ではない。
時間の問題。
運転しながらワイフがこう言った。
「いつかしら?」と。
私「だれもが、そうでないと思っているときさ」
ワ「じゃあ、いつ?」
私「ぼくはクリスマスの夜と思っていた。が、何ごともなかった。つぎは新年だろうね」と。
こうした奇襲攻撃は、相手がいちばん油断しているときをねらう。
相手が構えていたら、奇襲攻撃にならない。
が、それをきっかけに原油価格の高騰。
とたん、世界経済は、さらにおかしくなる。
●人類滅亡7つの可能性
『2012年、マヤ予言の謎』によれば、人類滅亡には、7つの可能性があるという。
そのまま書き出してみる。
(1) バイオハザード
(2) 小惑星NEOの衝突
(3) スーパー・ソーラーストーム
(4) 超新星ベテルギウスの爆発
(5) エイリアンの侵略
(6) 氷河期の到来
(7) 闇の集団による世界統一
マヤが以上のことを予言しているわけではない。
2012年に起こるかもしれないということで、7つの可能性があげられている。
で、私なりに、その可能性を採点してみる。
(1) バイオハザード……いつ起きてもおかしくないが、2012年とはかぎらない。
(2) 小惑星NEOの衝突……直径が10メートル前後のものは、ありうる。
(3) スーパー・ソーラーストーム……ほぼ確実視されている。規模は不明。
(4) 超新星ベテルギウスの爆発……どうかな?
(5) エイリアンの侵略……地球など侵略しても、意味はない。
(6) 氷河期の到来……海流の流れが変わると、局地的に極寒期に入ることもありえる。
(7) 闇の集団による世界統一……何を今さら! すでに無数の集団が誕生している。
●山荘にて
山荘では、ワイフはいつものようにビデオを見始めた。
私は、TOSHIBAのR631を叩き始めた。
ウルトラ・パソコン。
R631は、週刊アスキー誌で、今年のベスト・バイ賞を受賞した。
この賞に異議はない。
たしかに完成度が高い。
使えば使うほど、愛着がわいてくる。
●騎士道
ワイフの見ているDVDの中に、こんなセリフがあった。
『デビル・クエスト』というDVDである。
主演は、ニコラス・ケイジ。
そのニコラス・ケイジ演ずる騎士が、1人の若者に騎士(ナイト)の称号を与える。
「身が灰塵となるまで……神に忠誠を誓うべし……」(記憶)と。
西洋の騎士道の原点である。
スケールが大きい。
相手は「神」。
「日本の武士道とは、ずいぶんと違うなア」と、私。
日本的に考えるなら、『仏に忠誠を誓うべし』となるのか?
しかし『仏に忠誠』というのも、おかしい。
●死に際の美学
そう言えば、昨日観た映画、『山本五十六』の中にも、武士道を思わせるセリフがいくつか出てきた。
たとえばこんなセリフ。
役所公司演ずる山本五十六が、こう言う。
「武士は、夜討ち(=暗殺)をしかけるときも、相手の枕を一度蹴る。
蹴って相手が起きあがったところで、相手を殺す」(記憶)と。
つまり武士たるもの、宣戦布告もしないで、真珠湾を攻撃するような卑怯なことはしない、と。
これも死に際の美学ということになる。
正確には、「殺しの美学」?
そのときは「うまいこと言うなア」と、感心した。
●卑怯
では、イスラエルはどうか?
一度、宣戦布告をしてから、イランを攻撃するだろうか。
それには前例がある。
一度、イランの核施設を攻撃したことがある。
が、イスラエルはそういう布告をした例(ためし)がない。
いつも奇襲攻撃。
日本流に考えれば、武士道の精神から完全にはずれている。
だいたい西洋の騎士道には、「卑怯」という言葉そのものが、ない。
あえて言えば、「ずるい(sneaky)」という言葉がある。
が、殺し合いに、ずるいも何もない。
●映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』
映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』は、よい映画だった。
直後の評価では、星を3つ、つけた。
しかし1日たった今、少しずつだが、評価が崩れてきた。
私が映画『トラ・トラ・トラ』を観たのは、1970年。
オーストラリアにいたころ。
その『トラ・トラ・トラ』と比べたら、……というか、『山本五十六』は、比較にならない。
つまりお粗末。
「空前のスケールで描く、一大巨編」(公式サイトおよび広告)と言うほど、すごくはなかった。
そのあと発表された映画『パールハーバー』と比べても、そうだ。
比較にならない。
……たしか最後のところで、こんなナレーションもあったように記憶している。
「戦後70年もたち……」「私たちは……を忘れている」(記憶)と。
日本映画の悪いところ。
必ず、こうした説教がましい説明が入る。
説教がましい説明が、映画そのものを台無しにしてしまう。
●卑怯(2)
Weblio辞書には、こうある。
「卑怯を英語に訳すと(おくびょう)、 cowardice(卑劣)。
【形式ばった表現】 meanness卑怯な(おくびょうな) cowardly;
《口語》 chicken(卑劣な)
【形式ばった表現】 mean(不正な)」と。
卑怯イコール、臆病(おくびょう)ということになる。
私は武士道でいう「卑怯」は、「ずるい」のほうに近いと思う。
これは解釈の違いによるものか。
少し気になったので、Weblio辞書を使って、「卑怯」の英訳を調べてみた。
●正月休み
正月休み。
10日も、ある。
どうしようか。
ワイフは「あちこちへ旅行しよう」と言う。
私も、そう思う。
しかし今年は、まだ計画を立てていない。
とくに行きたいところは、ない。
行くとしたら、「ひおき」(民宿)。
岐阜県板取村にある、「ひおき」。
明日にでも電話をしてみよう。
●おでん
時刻は午後9時。
先ほど、ワイフがこう言った。
「9時以後は、何も食べてはだめよ」「太るから」と。
その9時が、近づいてきた。
家からもってきた、おでんが食べたい。
うらめしい。
が、ここはがまん。
現在、体重は66キロ。
適正体重より、2キロもオーバー。
●死生観
ところでこのところ、おかしな死生観が漂うようになった。
たとえばこんなふうに、考える。
何かの大病になったとする。
そのとき私は、どうするか、と。
大病と闘う人もいる。
闘っている人もいる。
しかし私のばあい、闘っても、意味はない。
だからこう思う。
「息子たちにはもちろん、ワイフにも知らせないでおこう」と。
つまり静かに、その時を迎えよう、と。
手遅れなら、手遅れでもよい。
私はもう、じゅうぶんすぎるほど、長く生きた。
無理に生きて、みなに迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んだほうがよい。
たぶん、ワイフも同じ考えだろう。
ああいう性格の女性だから、大病になっても、私には知らせないだろう。
静かに死ぬことだけを望むだろう。
命を天に預ける。
共に命を天に預ける。
ジタバタしない。
……そんな死生観。
●「ああ、これで死ねるのか」
だからといって、誤解しないでほしい。
「死にたい」と書いているのではない。
生きたい。
どこまでも生きたい。
しかし同時に、「死」が、それほど怖い存在ではなくなってきた。
この正月(2011年)に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねるのか」と。
不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
本当に不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
あれほどまでに死を恐れていた私が、穏やかな気持ちだった。
そのほうが、私にとっては不思議だった。
この世に未練はない。
はじめから期待していない。
期待していないから、未練はない。
●孫たち
孫(誠司と芽衣)のビデオ(YOUTUBE)が届いた。
http://youtu.be/1PAtjz0jPsA
送ったプレゼントは無事、届いたようだ。
誠司は「石」に関心をもっている。
芽衣は「料理」に関心をもっている。
この時期、子どもたちは自分の方向性(思考回路)を決定する。
与えるものには、慎重でありたい。
●就寝
今日の総括。
今日は、どうだったか。
一言で表せば、寒い1日だった。
それ以外、印象の薄い1日だった。
とくに成果なし。
平凡な1日。
不完全燃焼感を心の底で押しつぶしながら……、
みなさん、おやすみなさい!
……私たち夫婦は、冬場はいつも、布団乾燥機で布団を暖めながら寝る。
その音が寝室のほうから聞こえてくる……。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 孫 誠司 芽衣 Sage Mae Soichi727 林 宗市 Soichi Hayashi はやし浩司 2011-12-25)
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