【今朝、あれこれ】はやし浩司 2010-11-09
●疲れ
旅の疲れか?
不眠のせいか?
今朝から気分が重い。
年を取ると、疲れがあとになって、出てくる。
疲れが、なかなか取れない。
長くつづく。
食欲がないのは、風邪を引いたから?
今朝は起きるときから、寒気がした。
昨夜から急速に気温が変化した。
小雨が降って、朝方から、台風のような風が
吹いている。
葛根湯をつづけて2袋のむ。
そのあとふとん乾燥機でふとんを暖めて、再び眠りなおし。
目を覚ましたのが、午前11時!
11月は講演会の季節。
今日中にレジュメを2本、完成させる。
催促の電話が、留守番電話に入っていた。
やるしかない!
●電話取材
先週、某雑誌社の記者の女性と、1時間半、話した。
先方が、私の話したことを記事にしてくれる。
このところ、そうした仕事がふえてきた。
楽な仕事だが、私は本来、そういうやり方が、あまり好きではない。
たとえば「子ども」と書くときも、私は「子供」と書くより、「子ども」と
書くほうが好き。
ほかにも漢字の使い方には、あれこれと神経をつかう。
一方、雑誌社は雑誌社で、文体や、文調、漢字の使い方などを統一している。
ある雑誌社では、たとえば「七転び八起き」でも、「7転び8起き」と書く。
さらにクセの強い雑誌社だと、「一方」を、「1方」と書いたりする。
ライターが女性だと、(たいていは女性だが)、できあがってくる文章は
どうしても女性的になる。
私の書く文章は、よく辛口と言われる。
それが女性的になる?
「はやし浩司」の文章が、骨抜きにされてしまう?
●妥協
そうしたやり取りの中で・・・。
読者対象は、小学生をもつ母親という。
が、私たちの世界から見ると、小学生というのは、すでに「完成品」。
たとえば「やる気のない子どもは、どうすればいいか」と聞かれると、
即座に、「手遅れです」と言いたくなってしまう。
しかしそれでは原稿にならない。
ぐいと妥協して、それなりの方法をいくつか話す。
話しながら、誤解を招かないよう、細心の注意を払う。
結構、この仕事も、神経をつかう。
受話器をもとにもどしたとき、手はジワーッと汗で濡れていた。
●エクスペンダブルズ
この1、2週間、映画館に足を運んでいない。
「これは!」という映画が、ない。
いちばん最近見たのは、スタローン主役の「エクスペンダブルズ」。
ランボーのリメイク版といった感じの映画。
作り方の荒っぽさだけが目だった。
ときどき劇場案内に目を通すが、邦画ばかり。
同じ日本人だが、邦画は見るに耐えない。・・・ものばかり。
「今度こそ・・・」と思って足を運ぶが、そのつど期待を裏切られる。
最後に観た、「十三人の刺客」にしても、そうだ。
200人の侍を相手に、「切って切って、切りまくる」。
が、侍といっても、ふつうのサラリーマン。
200人の侍のほうに、むしろ同情してしまった。
親分が悪いからといって、どうして殺されなければならないのか。
「忠義」といっても、中身は「飼い犬根性」。
本来なら13人の刺客のほうに感情移入して楽しむべき映画だったが、
その感情移入ができなかった。
意味のない殺戮映画。
それが「これでもか」「これでもか」とつづく。
途中で眠くなってしまった。
●自分の意見
悪口ばかり書いていてはいけない。
読む人だって、不愉快になる。
昔、ある雑誌社に・・・名前を出しても差し支えないだろう。
主婦と生活社に、井上清という編集長いた。
その編集長がこう教えてくれた。
「ものを書くときはね、あなたはすばらしい、いい人だという
文章を書く。こうして相手を気分よくしたあと、少しだけ、『だけど
こうすればもっとよくなりますよ』とつづける。5%だけでも自分の意見が
書ければそれでよしとする」と。
雑誌の世界では、そうかもしれない。
「あなたはバカだ、アホだ」と買いたのでは、雑誌は売れない。
相手をもちあげる。
相手をいい気分にさせる。
あるいは相手が欲しい情報を書く。
「あなたはすばらしい人だ。
しかしこうすれば、もっとすばらしい人になる」と。
他人に読んでもらうためには、そうでなくてはならないかもしれない。
が、当時、こんな言葉がはやり出した。
「バカママ」という言葉である。
新米の主婦たちの、ドジな話が特集記事で載っていた。
ひとつの例として、「魚を三枚におろす」というレシピを読んで、魚を
3等分した女性の話が載っていた。
それについて私が、「そんなタイトルの記事を書いたら、雑誌が売れなく
なるのではないですか」と聞くと、井上氏は、こう言った。
「あのね、そこが人間の特殊ところなんだよな(失礼!)。
だれも自分のこととは、思わない。
自分が同じようなことをしていても、自分とは思わない。
自分よりバカな人間がいることを知って、いい気分になる」と。
ところでなぜあのバライティ番組が、人気があるか?
バカ丸出しの出演者たち。
視聴者はそれを観て、つまり自分よりバカな人間がいることを知って、安心する。
その安心感が、ストレス解消にもなる。
・・・というのは、私の意見ではない。
ずいぶんと前のことだが、そういう内容のエッセーを書いた評論家がいた。
●正直
が、私はもうひとつ、心がけていることがある。
それはありのままを書くということ。
それについては、すでに何度も書いてきた。
ウソを書いたり、自分を飾ったりした文章を書くと、後味が悪い。
反対に、文章はへたでも、そのときの気持ちを正直に書いたものは、
後で読んだとき、懐かしさを覚える。
これは人生論に通ずる。
ありのままに、正直に生きる。
それがどんな結果になろうとも、それはそれ。
失敗談や、ドジな話にしても、私というより「私」を超えた私、つまり
1人の人間のすること。
何も、まただれに対しても、恥じることはない。
●恥
「恥」という言葉が出たので、一言。
「恥こそ、日本人の精神文化の原点」と説く人がいる。
たとえば学校でのいじめについても、「子どもたちに恥を教えれば、いじめは
なくなる」と。
一見、わかりやすい。
「人をいじめることは、恥ずかしいことだ」と。
しかしそんなことで、いじめはなくならない。
いじめの構造は、もっと複雑。
人間の心が複雑にからんでいる。
さらに言えば、人間に恥など、ない。
だいたい何に対して、だれに恥じるのか?
「恥じる」というのは、たとえて言うなら、まちがえたところを
消しゴムで消すような行為をいう。
私は意地っ張りだから、たとえ結果としてまちがっていたとしても、恥じない。
いじめは悪である。
悪いことをしたら、責められる。
罰を受ける。
それだけのこと。
ロジカルに考えれば、そうなる。
●最大の恥
恥について、もう少し切り込んでみたい。
恥じるということは、あえて自らを否定すること。
内面的な自己否定を、「恥」という。
この論理で考えるなら、最大の恥とは、すなわち「死」を意味する。
わかりやすく言えば、恥が極限に達したとき、そこにあるのは「死」という
ことになる。
その状態で生きていくことは、たいへんむずかしい。
私たちの世界、つまり実存の世界では、自己否定はつねに絶望感をともなう。
ハムレットの中でシェークスピアが書いたように、「絶望か、さもなくば
死か(despair or die)」となる。
私たちは常に前に向かって生きる。
「前」というのは、「生」を意味する。
●友人のカメラ
オーストラリアの友人が、少し前から、カメラのことをあれこれと聞いてきた。
「キャノンのG12を買おうと思うが、いいカメラか?」と。
私はデジタルカメラは、パナソニック製か、ソニー製と決めている。
キャノン製については、詳しく知らない。
で、何度か近くの大型電気店に足を運ぶ。
カタログに目を通す。
で、こういうとき私は、それを調べているうちに、私もそれがほしくなる。
「いいカメラだなあ」「おもしろそうだなあ」と。
で、数日前、「買ったか?」と聞くと、「忙しくて、まだ買ってない」と。
が、突然、昨日、メールが届いた。
それにはYOUTUBEにアップした画像が添付してあった。
孫のジェット君の動画が載っていた。
動き回る孫を追いかけながら、撮る。
ピントがブレない。
露出も安定している。
G12は、やはりすぐれたカメラだ。
が、これまた不思議な現象で、友人がそれを手に入れたとわかったとたん、
そのカメラへの興味を失った。
「やはり、ぼくのほしいのは、ソニーのα(アルファ)」と。
●日米vs中国の、通貨安競争
日本とアメリカの札・印刷機が、フルパワーで回り始めた。
「為替操作」は、一応、暗黙の了解で、禁止されている。
そこで日本とアメリカが取った手段は、中央銀行による「国債の買い入れ」。
政府発行の国債を買い入れた形にして、マネー(現金)を市中にばらまく。
つまり意図的に、円とドルの価値をさげる。
円安、ドル安に誘導する。
原因は、中国。
アメリカやEUが、いくら元安是正を求めても、中国は無視。
我知らぬ顔。
「ならば……」ということで、アメリカが通貨安政策に乗り出した。
日本も同乗した。
(もっともアメリカと日本とでは、規模がちがうが……。
アメリカは100兆円以上、日本は今のところ、数兆円規模。)
わかりやすく言えば、ドルと円が、世界のマーケットにどっと流れ始めた。
が、そこは世界の基軸通貨。
自国の通貨より、ドルや円は人気がある。
そういう国は多い。
要するに通貨の信用度の問題ということになる。
で、困るのが、中進国と呼ばれる国々。
相対的に自国の通貨が、通貨高に向かう。
輸出が不利になる。
それだけではない。
せっかくため込んだドルの価値が下落する。
100万円の価値があると思って買った絵画が、50万円になるようなもの。
が、さらに……。
海外へ出たドル(円)は、投機という形で、それぞれの国に入り込む。
(「投資」ならよいが、「投機」資金となる。)
とたんそれぞれの国々で、ハイパーインフレを引き起こす。
たとえば韓国が怒りまくっているのは、そのため。
「大国は勝手すぎる」と。
(韓国も勝手な国だが……。
中小国であることをよいことに、韓国は、毎日のように為替介入を繰り返している。)
しかしアメリカにせよ、日本にせよ、それで無事すむとは、私も思っていない。
こうした通貨安競争は、基本的には輸出を伸ばすため。
国内の輸出企業を生き返らせるため。
その輸出産業が息を吹き返さなければ、ばらまいた通貨が、いつかすぐ、アメリカ国内、
日本国内へと、逆流し始める。
つまり「ドルも円も、価値がない」と世界が判断する。
そのときが、こわい。
こわいというより、恐ろしい。
アメリカも日本も、プライドをかなぐり捨てて、自国の経済保護に走り始めた。
原因は先にも書いたように、中国。
元安の是正をいくら要求しても、一向に動く気配なし。
元安をよいことに、安価な製品を世界中に売りまくっている。
日本でもアメリカでも、売りまくっている。
つまりこれにアメリカや日本は、音(ね)をあげた。
「このままでは自国の製造業が、メチャメチャになってしまう!」と。
しかしこの方法は、その奥に大きな毒牙をもっている。
先にも書いたように、ばらまかれたドルや円が、正常な(?)投資資金として回ればよい。
しかし投機資金へと回ったら……?
株投機や、土地、家屋の投機資金へと回ったら……?
今すぐというわけではないが、中国も含めて、中進国の政情が不安定化する。
へたをすれば、(その可能性はきわめて大きいが)、中国のバブル経済崩壊の引き金を
引くことにもなりかねない。
さあて、どうなることやら?
ドル、円ともに、そのほかの欧米通貨に対して下落し始めている。
同時に、金、プラチナの現物価格が、急上昇し始めている。
それぞれの国々で、土地や家屋の価格が上昇し始めている。
このまま進めば、世界経済は大混乱。
国際政治も大混乱。
今回の日米の通貨安政策には、そういう危険な側面がある。
Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2010++++++はやし浩司
●他人の不幸をのぞく人
+++++++++++++++++
現実には、いる。
いるから、書く。
他人の不幸をのぞいては、それを楽しむ。
酒の肴(さかな)にして、楽しむ。
みなに話す。
「あいつは、かわいそうな人だよ。
息子が2人いるんだが、2人とも離婚していてね」と。
そんな人たちがいる。
同情しているわけではない。
相手の悲しみや苦しみを、共有しているわけではない。
一応顔をしかめ、悲しそうな声で、そう話す。
が、演技は演技。
その実、それをみなに伝えて、おもしろがる。
+++++++++++++++++++
●BLOGへのコメント
少し前、「他人の不幸をのぞく人」というテーマで、原稿を書いた。
つい数日前は、「下劣な人」というテーマで、別の原稿を書いた。
それについて、BLOGのほうに、いくつか書き込みがあった。
その中のひとつ。
「私の姉がそうです」と。
用もないのに、不幸な人の家に出かけていく。
相談に乗るフリをして、その人の話を聞く。
あるいは「見舞い」と称して、不幸な人の家に出かけて行く。
行って、話を聞く。
さらにこんなこともするという。
その家の人に何か不幸があったと聞くと、すかさず「見舞い」と
称して、菓子などを送る。
500円とか1000円とかの安い菓子である。
送られたほうは、戸惑いながらも、礼の電話をする。
そのときあれこれと相手の状態を聞きだす。
私も若いころ、似たようなことをされたことがある。
のぞくほうは楽しいかもしれない。
しかしのぞかれたほうは、そうでない。
身を切られるような、つらい思いをする。
悲しい思いをする。
そのつらさは、言葉では言い表しがたい。
●最低限のマナー
どんな家庭にも、それぞれ事情というのがある。
その事情は、千差万別・・・というか、複雑。
1日や2日、説明したところで、説明しきれるものではない。
そうした複雑な事情を知らず、そこに自分の判断を加える。
「かわいそうな人だ」と。
しかし先に書いた「離婚」にしても、今どき、離婚など珍しくも
何ともない。
たまたま2人の息子が離婚したとしても、それはそれ。
人生の失敗者でもなければ、敗残者でもない。
ひとつの結果に過ぎない。
その人自身から相談でもあれば、話は別。
そのときは、そのとき。
そうでなければ、そっとしておいてやることこそ、肝要。
知っていても知らぬフリをする。
説教など、もってのほか。
たとえ相手が年下でも、だ。
これは人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。
●私の経験
私もいろいろな経験をした。
その中でも、G県のNさんから届いたメールには、驚いた。
私がした経験と、あまりにもよく似ていた。
転載は不許可とあったので、私自身の体験も織り交ぜて、こちらで文章を書き
なおさせてもらう。
+++++以下、N氏からのメールより(要約)++++++++++++++++
【N氏(55歳)のメールより】
私の実兄が入院したときのことです。
その3日前と2日前に、私はつづけて実兄を病院へ見舞いました。
そのときのことです。
いとこの1人から、電話がかかってきました。
いわく、「Jちゃんが、入院したぞ」「入院したぞ」と。
いやみを感ずる、不愉快な言い方でした。
そこで私が、「おとといも見舞いに行ってきましたから、知っています」と。
そう言い終わらないうちに、そのいとこは、「アッ、そう、ハハハ」「アハハハ」と。
気まずそうな笑い方でした。
もちろんそれを機会に、私はそのいとことは、縁を切りました。
念のため申し添えるなら、そのいとこは、口は出すことはあっても、
金銭的な援助など、そうした援助などはいっさいしてくれたことはありません。
家父長意識だけはやたらと強い。
年長風を吹かして、威張っています。
縁を切りましたから、事実だけをここに書きます。
低劣な人間というのは、そういう人間をいうのですね。
+++++以上、N氏からのメールより(要約)+++++++++++
●魔力
低劣な人間とは、つきあわない。
つきあっても意味がないばかりか、低劣な人間には、恐ろしい魔力がある。
あなた自身を、低劣な世界へと、引きずり込んでしまう。
そして気がついてみると、あなた自身も、同じようなことを言ったり、するようになる。
夏目漱石も、同じような問題をかかえて悩んだことがある(『こころ』)。
低劣な世界では、あなたが学んできた深い人間性や、道徳、哲学、それに
人生論が、粉々に引き飛んでしまう。
もしあなたが高邁(こうまい)であればあるほど、ばあいによっては、
魂そのものが、引きちぎられてしまう。
夏目漱石も、そうだった。
N氏がいとこと縁を切った(=いっさいの交際を打ち切った)というのは、やむを
えない判断ということになる。
言い換えると、人間には、本来的にそうした低劣さが心のどこかに潜んでいる。
嫉妬にからんだ欲望、羨望、恨み、それらが心の底流でウズを巻いている。
さらに言えば、そうした人たちは、いつも相対的な幸福観の世界で生きている。
他人より幸福であれば(?)、幸福。
そうでなければ、そうでない(?)。
それが世間体、見栄、体裁へと進み、ここでいう「相対的な幸福感」へとつながって
いく。
●防衛機制
防衛機制には、いくつかある。
心というのは、外敵に遭遇すると、自ら心を守ろうとさまざまな反応を示す。
それを「防衛機制」という。
「置き換え」「補償」「合理化」「投影」などなど。
それにもうひとつ、私は、「自己慰労」を考える。
「慰労」でもよい。
「自分より劣った人、あるいは不幸な人をみつけて、自らの劣等性や
不幸を慰める」。
心が疲労したとき、自己慰労によって、それを解消しようとする。
それを「自己慰労」という(私の造語)。
(天下の「防衛機制」論の不備を突くようで、申し訳ないが・・・。)
たとえばあのバラエティ番組。
バカ丸出しのような人がいて、これまたバカ丸出しの行為をする。
聴衆を笑わせる。
以前見た番組の中に、1人の男性に多量の下剤をのませて、苦しませる
というのがあった。
その男性はたまたまバスに乗っていて、「降ろしてくれ!」「がまんできない!」
と言って、涙声で叫んでいた。
それを観て、徴収は笑いこげる。
喜ぶ。
自分より劣った人間がいることを知るのは、それ自体、快感(?)。
楽しい(?)。
またそれがああした番組の視聴率が高いという理由でもある。
それがここでいう「自己慰労」ということになる。
●自己慰労
この自己慰労を、防衛機制に含めると、冒頭に書いたような事例が、ひとつの
心理反応として、うまく説明できる。
他人の不幸をのぞいて、それを酒の肴にする人は、まさにその自己慰労をしている
ことになる。
また自分自身がその不幸(?)の最中にいる人ほど、自己慰労しやすい。
自分より不幸な人を見つけては、自分で自分を慰(なぐさ)める。
そのために他人の不幸を利用する。
●紙一重
他人の不幸を笑ってはいけない。
(のぞくなどというのも、もってのほか。)
笑えば笑った分だけ、今度は自分が追いつめられ、苦しむ。
「ああ、自分でなくてよかった」と、思ってもいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、紙一重。
今、幸福だからといって、慢心してはいけない。
今、不幸だからといって、それがいつまでもつづくと考えてはいけない。
いわんや自分の価値観を、他人に押しつけてはいけない。
幸福にせよ、不幸にせよ、それは順繰りにやってくるもの。
ある男性は、ダウン症の子どもをもった両親を、「不幸だ」と決めつけていた。
(自分自身も、重度の自閉症児をかかえていた。)
しかし当の両親は、ダウン症のことなど、どこ吹く風。
いつもみなで連れだって、レストランで食事をしたりしていた。
休みには、みなで旅行をしていた。
私たちはむしろそちらの行為のほうに、すがすがしさを覚える。
親の深い愛情を感ずる。
人間的な深みを感ずる。
(どうして自分の子どもに障害があるからといって、それを「隠さねばならない
こと」と、とらえるのか。
こうした発想は、発想そのものが、バカげている。
が、低劣な人には、それがわからない。)
●加齢とともに
何度も書くが、加齢とともに、人格が完成するというのは、ウソ。
むしろ低劣な人は、ますます低劣になっていく。
低劣になって、やがてすぐ、「メシ(飯)はまだかア!」と叫ぶようになる。
そういう女性(年齢は90歳くらい)が、近くの特養にいた。
美しい顔立ちの人だったが、繰り返し、一日中、そう叫んでいた。
つまり人は、ある日突然、低劣になるのではない。
負の一次曲線的に、徐々に低劣になっていく。
しかもさらに悪いことに、加齢とともに、自分を支える気力が弱くなる。
それまで内に隠していた人間性が、表に出てくる。
60歳を過ぎて、加速度的に低劣になっていく人は、多い。
これがこわい。
……そういう点では、すでに私たちは、その過程にいるのかもしれない。
日々に、低劣になっていく・・・。
●低劣性
数日前、「低俗性と低劣性」について書いた。
低俗的であることは、何も恥ずべきことではない。
俗世間とのかかわりを失ったら、そのとたんにその人は、人間的なハバを
失う。
たまには、(ときどきは)、ハメをはずしてバカになる。
バカなことをする。
しかし低劣性は、別。
低劣性は、人間性の否定と考えてよい。
いくら人間らしい顔をしていても、中身は動物以下。
動物でも、そこまで落ちない。
言い換えると、私たちは常に、その低劣性と闘う。
方法は簡単。
低劣な人と、低劣な話をしない。
常に高邁さを求めて、前に向かって進む。
その一語に尽きる。
(1) 愚痴は言わない、聞かない。
(2) 悪口は言わない、聞かない。
陰口、不平、不満は言わない、聞かない。
近親者のゴシップ、詮索は、タブー。
それを繰り返していると、その人の人間性は、どんどんと腐っていく。
ついでに一言。
50歳を過ぎると、その人のもつ人間性が、明確な方向性を示すようになる。
低劣な人かどうか、方向性がはっきりとしてくる。
つまりそれまでの生き様が、そこで集約される。
大切なことは、それまでに、いかに自分の生き様の基盤を作っていくかということ。
だれのためでもない。
自分のため。
(補記)
この1年以上、地元の観光バス会社が運営する観光旅行には、参加していない。
たいてい何組かのおしゃべりオバサンがいて、(オジサンも多いが)、一日中、大声で
しゃべっている。
そのうるさいことと言ったら、ない。
しかも話の内容が低劣。
「親の三回忌に来ないような息子は、人間のクズ」
「あゆを送ってやったが、礼は電話だけ。あの人は一流大学を出ているかもしれないが、
人間のクズ」
「病気の母を見舞ったが、ふとんの下に浴衣が丸く、ぺっしゃんこになっていた」
「弟は借家の家賃をネコババし、税金は私に払わせている」と。
それに答えて横にいた女性が、「そうよ、そうよ、そういう人は地獄に堕ちるわよ」と。
話の内容もコロコロと変化する。
脳に飛来した情報を、音声を換えているだけ。
で、私が「少し静かにしていていただけませんか?」と声をかけると、こう言った。
「私ら、おしゃべりが楽しみで、旅行に来ているのよねエ」と。
旅行が終わってそのバスを出るときも、こう言った。
「さようなら。おかげで楽しかったです」と。
以来、その観光バスを利用するのを、や・め・た!
Hiroshi Hayashi++++++Nov 2010++++++はやし浩司(林浩司)
【BW公開教室】
●今回は、実験的に、BW幼児教室の様子を、
ハイブリッド画像で、YOUTUBEにアップしてみた。
うまくできたかどうか?
これがテスト版ということになる。
どうかな?
Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司
2010年11月9日火曜日
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