(参考原稿)【自立と自律】
●自立と依存
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自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。
一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。
一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。
たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。
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たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。
「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。
ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。
M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。
が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。
これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。
親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。
「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。
あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。
ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。
一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。
だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。
そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。
さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。
ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないようだ。
オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。
「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひとつになっている」と。
●自立と自律
自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セルフ・コントロールの問題ということになる。
さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切なバロメーターにもなっている。
自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。
その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなると言われている。)
さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。
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それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。
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●教育を通して自分を知る
教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。
まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたたましく吠える。
●人間も犬も同じ
……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。
一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。
●施設で育てられた子ども
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。
が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。
●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。
つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。
●まず自分に気づく
読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。
が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)
● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。
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心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。
心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立 子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル・デプリベイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落 臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期後期 自立期Maternal Deprivation 母性欠落 母性欠損)
Hiroshi Hayashi+++++Nov.2010+++++はやし浩司
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