2012年10月27日土曜日

81 謎の絵、インディアン・ヘッド(Indian Head)

【神の神、God of Gods】 2012年10月26日記 http://www.youtube.com/watch?v=lFipYxCslpE&feature=share&list=UU2fHPR-NxuYGd1oMOGXLwFA Aliens' Masterpiece It is simply a matter of you whether you believe it or not, but this is the masterpiece drawn and carved by Aliens. You believe in God whom you have never seen, but why don't you believe in Aliens when you see this picture? Please open your mind and see this picture before you think I am mad. I believe my own eyes. Even a professional artist cannot carve such a picture on the rocks. ○異星人の描いた絵 信ずるか信じないかは、あなたの自由です。 しかし見たこともない神の存在を信ずるあなたが、どうしてこの絵を見て、異星人の存在を信じないのでしょうか。 私の頭がおかしいと思う前に、心を開いて、この絵を見てください。 私は自分の目を信じます。 プロの画家でも、このような絵を岩に彫るのは、不可能ではないでしょうか。 いかがでしょうか。 インディアン ヘッド Indian Head Mystery of 謎のインディアン 異星人の描いた絵 宇宙人の描いた絵 はやし浩司 Hiroshi Hayashi 謎の絵 謎の彫刻 異星人の彫刻 Alien Aliens's masterpiece エイリアンの描いた絵 Hamamatsu japan Japan in Canada 2012/10/27記 Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司 ○奇跡  脳梗塞か何かで、歩けなくなったとする。 そういう人が歩けるようになったりすると、それを「奇跡」という。 「奇跡が起こった」と言って、喜ぶ。 何かの信仰をしている人なら、なおさらそうだろう。 「信仰のおかげ」と。 が、今、歩けることを、「奇跡」と思う人はいない。 歩くことだけではない。 ものが見える。 ものが聞こえる。 ものを考えられる。  賢人は、そのものを失ってから、その価値を知る。 そうでない人は、失ってから知る。 そのありがたさというか、ここに今、私たちがいるという深大さが、このところ身に染みてよくわかるようなった。 床に就いて目を閉じる前、ふとこう思うことがある。 「明日も、ちゃんとものが見えるだろうか」と。 ○神仏  神仏の話が出たので、一言。  今回、(この8月から)、「謎の点と線」を調べている。 その点と線を調べているときのこと。 古代の神仏は、一本の線でつながっていることを知った。 神仏というのは、キリスト、釈迦、その他、もろもろの神をさす。 日本についていえば、神教も仏教も、一本の線でつながっていることを知った。 神教と仏教を、分けるほうがおかしい。 それを疑うなら、奈良の法隆寺の参道を、正確に南に延ばしてみるとよい。 その直線は、まっすぐ那智大社につながる。  その法隆寺と伊勢神宮と比叡山延暦寺をつなぐ。 (法隆寺ではなく、法隆寺から500メートルほど東にある、藤ノ木古墳のほうが、よい。※)  一方、法隆寺と仁徳陵(大仙陵古墳)と高野山金剛峯寺をつなぐ。  こうしてできる2つの三角形は、きれいな相似形を描く。 (なおメルカトル図法の地図の上では、少し誤差が出るので、注意。 調べるなら、球体を前提とした、グーグルアースの上のほうがよい。)  こうした事実を見せつけられると、「神仏は、もとはひとつだった」と思い知らされる。 百歩譲っても、こう言える。 見たこともない神仏を信ずる人は多い。 ならばそこにある事実を、どうして信じないのか、と。 (注※)  歴史的系列がめちゃめちゃと思う人も多いかと思う。 ここに書いたとおりとするなら、仁徳陵と法隆寺は、同時期に造られたということになる。 が、私はこう考える。 たとえば藤の木古墳にしても、法隆寺が建てられるずっと前から、そこにあった。 那智大社にしても、大社が建てられる前から、何らかの「標識」は、そこにあった。 法隆寺にしても、那智大社にしても、それらの「標識」の上に建てられた。 伊勢神宮、真言宗金剛峯寺にしても、そうだ。 仁徳陵にしても、仁徳天皇が作ったなどとは、今ではだれも信じていない。 仁徳陵は、それ以前から、そこにあった。 それを仁徳天皇自身か、その後の人たちが、「仁徳陵」に仕立てあげた。  こういう例は、多い。 あのエジプトのピラミッドにしても、アンコールワットのピラミッドにしても、そうだ。 後の王たちが、権威づけのために、それまであった遺跡を利用した。 自分たちの墓として、利用した。  ちがうかな? ○ひとつの神  異星人の話。 その異星人。 どうして異星人は、ひとつの神(仏でもよいが)にしなかったのか。 人間をこれほどまでに指導しながら、どうも腑(ふ)に落ちない。 理由はいろいろ考えられる。 (1)異星人の間にも、いろいろな宗教があった。 (2)あるいは異星人の間には、統一的な神はいなかった。 (3)もともとは、ひとつの神であったが、人間が自己流の解釈を加え、変形していった。  おととい仏教で教える五戒と、キリスト教で教える十戒を対比して考えてみた。 結果、前にも書いたが、これら両者は、たいへんよく似ている。 日本語になる前に、数か国語の翻訳を経ている。 それを考慮に入れるなら、「ほとんど同じ」と断言してもよい。 イスラム教については、キリスト教と、ウリふたつ。 真言宗(高野山)と天台宗(比叡山)ほどのちがいも、ない。 ちがいを見つける方が、むずかしい。 ○懸命に生きる  話がそれたが、要するに、生きていること自体が奇跡ということ。 私がここにいて、この文章を書く。 あなたがそこにいて、この文章を読む。 それが奇跡。 それ以上の奇跡が、どこにあるだろうか。  何も望まない。 何も願わない。 ただひたすら、ここに生きていることに感謝する。 生きていることを喜ぶ。 分かちあう。  人をねたまない。 恨まない。 人にねだらない。 過去にこだわらない。 未来のないことを恐れない。 失ったものを悲しまない。 足りないものを、嘆かない。 そのときは、そのとき。 今は今として、懸命に生きる。 ○国民年金  話は、ぐんと現実的になる。  実は今朝、国民年金交付の手続きに行ってきた。 職員の人から、いちいち説明を受けなければならないほど、めんどうな手続きだった。 その国民年金。 私が生涯において、はじめて手にする、国からの直接交付金である。 内心では、「こんなもの、もらわなくてもいい」と思った。 その私が、頭をさげ、職員の人の指示に従い、書類を出した。  ……若いころ、失業保険をもらえる立場になったことがある。 しかし私はもらわなかった。 プライドが許さなかった。 さらに低所得者用の雇用促進住宅を勧められたこともある。 しかし私は入らなかった。 プライドが許さなかった。  その私が国民年金?  私はひとりで生きてきた。 今もひとりで生きている。 これからもひとりで生きていくだろう。 お金にしても、貸したり、だまし取られたことは何度かある。 しかし私は1円も、人からお金を借りたことはない。  このことと自分の健康とを対比させるのもどうかと思う。 しかしその分だけ、私は病院のベッドで寝たことは一度もない。 今まで健康で、そして今の今も、こうして健康で仕事ができることだけも、ありがたい。 ありがたいから、ひとりで生きていることを、さみしいと思ったことはない。 つまり「ひとりで生きている」という切迫感が、私自身の健康を守る原動力になっている。 だれにも頼れない。 だれも助けてくれない。 だから自分の体は、自分で守る。 ○ショック  追記。  ……ということで、私は今朝からどうも気分が晴れなかった。 風邪っぽいところもあった。 昨夜、市内のホテルに泊まった。 冷房がききすぎていた。 それでそうなった。 が、それだけではない。 年金をもらうという、その年齢がショックだった。  若いころは、年金をもらうのは、ずっと先のことと考えていた。 ありえない未来……のように思っていた。 その私が年金をもらう。 つまりその年齢になった。 それがショックだった。 いつの間にか、私も65歳。  どのみち、わずかな額。 6万5000円前後。 たったの……!、という額。 そのうち、ハイパーインフレか何かになって、昼食代1食分ということになるかもしれない。 あるいは日本の国家経済が、破たんする。 すでに11月(2012年)危機説がささやかれている。 国庫に残る現金が枯渇する。 そうなれば、年金どころではなくなってしまう。  ……そう言えば、飲食店での食事代が、このところ急騰している。 昨日も駅前で……と考え、インド料理店に入ろうとした。 が、店先のメニューを見て、びっくり。 カレーが、(ライスは別)、1300円。 小皿にもったカレーが、1300円! それにナンと、サラダをつけると、1800円。 どうせ現地から取り寄せた缶詰を、切って温めているだけ。 (ほとんどの店がそうしているが……。) 現地では、2~3人前で、1缶、100円もしないはず。  ハイパーインフレは、すでに始まっている? ○信仰は教えによるもの    話を戻す。  そういう意味では、私は無神論者。 神仏に頼る前に、……というか、頼る気持ちは、みじんもない。 中には、金儲けの神様というのも、いるそうだ。 もしそうなら、つまり金儲けに手を貸すような神様がいたら、その神様なるものはインチキ。 エセ。 受験の神様にしても、そうだ。 ただ肉体や精神の健康については、何とも言えない。 修行に励むことによって、肉体を鍛えることができる人もいる。 神仏を拝むことによって、心を清浄にできる人もいる。 が、信仰というのは、あくまでも己(おのれ)の魂のため。 教えに従ってするもの。 祭事や儀式ではない。 「教え」。  そのワクづくりのために、教会があり、寺がある。 そういうところへ出かけ、己の魂を高めるためなら、……高めることができるなら、それはそれですばらしいこと。 教えの向こうには、宇宙を貫く真理が隠されている。 無神論者とはいうが、私はそこまでの神仏否定論者ではない。 ○レベル  『謎の点と線』を調べているとき、何度か、こう思った。 異星人から見たら、私たち人間は、どのレベルか、と。 「差」でもよい。  異星人と人間……人間と犬くらいの差があるのか。 あるいはその差は、もっと小さいのか。 大きいのか。 ひょっとしたら、人間とサル程度の差かもしれない。 いろいろ考える。 だからこう思ったときがある。 義兄が、「一度、UFOに乗せてもらいたい」と言ったときのこと。  「私たちが山猿を見つけ、その山猿を車に乗せてやろうとは思わないのと同じように、異星人もまた、私たち人間をUFOには、乗せないだろうな」と。 サルと私たち人間の間には、住環境的には、それほど差はない。 しかし異星人と私たちの間には、大きな差がある。  大気のちがい。 重力のちがい。 食物のちがい。 それにこれは私が感じた印象だが、異星人たちは、恐ろしく日光を嫌っている。 異星人たちが降り立っただろうと思われる遺跡には、例外なく、地下道があり、地下室がある。 異星人たちは、日中は、そうした地下室で、日光に当たるのを避けていたにちがいない。  太陽が放つ、紫外線や放射線に弱かったからではないか。 あるいはもともと暗い、光がほとんどない惑星からやってきたせいではないか。 ○インディアン・ヘッド(Indian Head)  ところでカナダに、「インディアン・ヘッド」と呼ばれる、不思議な図形がある。 自然の産物とはいえ、人間の顔そっくり。 そのインディアン・ヘッドに、どういうわけか、今、強く惹(ひ)かれる。 これから仕事だから、それを調べるのは、仕事のあと。 つまり今夜。  私はもう一度、あの絵に、着色をしてみたい。 「絵」として完成させてみたい。 で、あの絵について、一言。 みなは、顔だけを見て、「インディアン・ヘッド(頭)」と呼んでいる。 しかし顔だけを見てはいけない。 あの絵……というより像では、1人のインディアンが、長い杖をもって、そこに立っている。 杖を握る手も、しっかりと描かれている。 そこまで見て、あの絵を判断しなければならない。  で、その絵を見たら、あなたも、こう思うだろう。 「これは自然の産物(Nature Effect)などではない」と。 私の説を疑うなら、ここに添付するビデオを一度、見てほしい。 この絵は、明らかに、私たちが「神」「仏」とあがめる人たちが、直接、自ら描いた絵である。 言うなれば、神の神。 God of Gods(神の中の神)。 神聖な、どこまでも神聖な像である。 ○自然信仰  無神論者がふえる一方で、その無神論者の中から、「自然信仰」という信仰が生まれつつある。 自然を相手に信仰する。 だから「自然信仰」。  だったら、もう一歩話を進めて、「宇宙信仰」にしてみたら、どうか。 天なる神々の、そのまた神々を信仰する。 視点をこの地球ではなく、地球を離れた宇宙に置く。 宇宙から見た地球、さらにはその地表にうごめく人間を見る。 とたん、ものの考え方が、ひっくり返る。 変わる。  たとえばこのところ日中関係が、がぜん、きな臭くなってきた。 尖閣諸島をはさんで、軍事衝突も懸念されている。  ともに何かの信仰者はいるはず。 中国側にも、日本側にも、いるはず。 それでもこうした衝突は、起きる。 過去にもあったし、これからもある。 つまりこのあたりに既存の宗教の限界がある。  が、宇宙に視点を置くと、ものの考え方が、一変する。 国境はもちろん、都市の形さえ見えない。 島の形など、もちろん点にもならない。 そんな島を争って、戦争をする? その愚かさ。 そのバカ臭さ。 「人間は、いつになったら賢くなるのか」と。 そういうふうに考えられるようになる。  ともあれ、「人間も自然の一部でしかない」という考え方は、まちがっていない。 「地球も宇宙の一部でしかない」という考え方は、さらにまちがっていない。 ○原始時代  ついでにこんな話も。  数日前、日本の原始時代がどんなものであったかを知りたかったら、アフリカのA国のA村へ行ってみればよいと書いた。 電気もガスもない。 人々は岩石の上に組み立てられた小屋に住んでいる。  そんな時代に、異星人たちはこの地球へやってきた。 やってきて、私たち人間の指導を始めた。 人間は、異星人にとっては、奴隷的な存在だったという説もある。 結果としてみると、そうだっただろうと思う。 マヤ文明とかインカ文明とかいうが、人間が高度な知識をもっていたわけではない。 むしろ意図的に(?)、そういった知識や技術は、教えてもらえなかった。  そのことも、アフリカのA国のA村へ行ってみればわかる。 (私自身も、ネットで知っただけで、直接行ったわけではない。誤解のないように!) それともあなたは、彼らに、武器を渡し、車を与えるだろうか。 答えは「NO」のはず。 ○異星人は甘くない  その一方で、こんな疑問ももつ。  ではそれから、つまり新石器時代が終わってから、すでに5500年。 この間に、人間は、はたして賢くなったのだろうか、と。 が、この答えも、「NO!」のはず。  数日前も、近くのレストランへ行った。 毎週X曜日は、ワイフとそのレストランで、食事をすることにしている。 そこでのこと。  今では中学生レベルで、生徒たちがたがいに抱きあっていたりする。 その日も、そういう生徒がいた。 1組の、見るからに、ノーミソ(脳みそがないという意味で、「ノーミソ」という)風の男子生徒が、1人の女子生徒をうしろから抱いていた。 それを取り囲むように、4人ほどの男女生徒がいた。 みな、卑猥(ひわい)な笑みを浮かべ、何やらあやしげな話しをしていた。  ああいうのを見せつけられると、時代が逆行しているとさえ感じてしまう。 欲望の奴隷となり、欲望のおもむくまま、行動している。 人間が本来もっているはずの、基本的な(まじめさ)が、どこにも感じられなかった。 が、こうした事実は、人間全体の未来を暗い影で包む。 言うなれば、「悪の影」。  はっきり書こう。  異星人といっても、甘くないぞ。 神や仏といっても、甘くないぞ。 そのとき異星人がそう判断すれば、人間を滅ぼすことぐらい、朝飯前。 事実、この地球には、太古の昔、核兵器がひんぱんに使われたという痕跡が、あちこちに残っている。 シナイ半島、アラビア半島などなど。 モヘンジョダロもそうだろう。 オーストラリアのオルガス山(エアーズロックの隣山)もそうだろう。  人間がもっているような爆発力のある核兵器というよりは、熱線でジワジワと焼き殺すという核兵器である。 それがどんなものであるかを知りたかったら、グーグルアースで、Mt. Olgas(Kata Tjuta)を見てみればよい。 地上ビューモードで、地上に降り立つこともできる。 そこでは巨大な岩石が、アイスクリームのように溶けて流れている。 ○どう死ぬか  だからといって、「生きていることはすばらしい」と言うつもりはない。 生きることはつらい。 さみしい。 その連続。 不安と心配が、交互に押し寄せてくる。 私の年齢になると、どう生きるかということよりも、どう死ぬかを先に考えてしまう。  独居老人、孤独死……。 考えれば考えるほど、さみしくなる。 ゆううつになる。 ○インディアン・ヘッド  ともあれ、今夜は、インディアン・ヘッドのビデオを編集する。 先ほど、岐阜の従弟が、無農薬米を届けてくれた。 また明日は、オーストラリアの友人2人が、浜松へ来てくれる。 私の誕生日を祝ってくれる。  これ以上の至宝が、どこにあるだろうか。  みなさん、ありがとう。 私はみなさんによって、生かされている。  はやし浩司 2012年10月26日記 Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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