●关于南京大屠杀
我们正在努力,以反映与谦卑。
【はやし浩司 2012-02-21朝記】(南京虐殺事件について)
●新しい話し方?(最近の若い女性の話し方)
●フガフガ・ジャパニーズ
12年ほど前から(=2000年ごろから)、若い女性の間で、少し変わった話し方をする人が目立ち始めた。
当初は、東京を中心とする、都会の人たちの話し方と思っていた。
それがこの浜松にも、伝染してきた。
私が最初に気がついたのは、クリスマスのときのことだった。
どこかのコンビニで、何かを買ったときのこと。
その女性は、「メリークリスマス」を、「フンムリー・クルスモ~ス」と言った。
子どもの世界には、発語障害という言葉がある。
いろいろな障害に分類されている。
数も多く、そののち自然に治っていくのが、サ行障害児(サカナ→シャカナ)、
治りにくいのが、カ行障害児(カギ→タチ)など。
ほかにダミ声、吃音(きつおん)などもある。
が、この新しい言い方は、それらのどれにも属さない。
鼻から大半の空気が漏れるように、出ていく。
口をほとんど動かさない。
のどの奥の方から、声を出す。
そのためフガフガした言い方になる。
たとえば、
「いらしゃいませ」は、「ヒィラッシャイモ~セ」となる。
「ありがとうございました」は、「ハリガトウ・グザイモシタ」となる。
特徴は、声が内側にこもる。
「アイウエオ」に応じて、口が正しく(?)動かない。
鼻から息が漏れる。
子音だけの話し方をする。
若い女性に多いことから、後天的に、そういう話し方になると考えられる。
が、驚いたことに、最近では、男性でも、そういう話し方をする人が目立ち始めた。
数日前には、あるコンビニで、40歳代の男性がそういう話し方をしているのを知った。
私は中学生のときから、10年間ほど、合唱団に属していた。
そういう経験から言うと、こうした発声の仕方では、合唱は無理。
今はどうなっているか知らないが、40年前だったら、そのまま合唱団からつまみ出されてしまっただろう。
さらに言えば、この発声方法では、英会話は無理。
中国語の発音となると、さらに無理。
ともあれ、言葉にせよ、発音の仕方にせよ、そのときどきの時代の人たちが決めていく。
「こういう話し方はおかしい」と断言することは、控えたい。
が、あえて言えば、……つまり私の意見としては、お・か・し・い。
なお発声方法は、習慣によって決まる。
そういう発声をしていると、そういう発声方法になる。
たとえば幼児でも、ふざけてダミ声を出していると、その声がそのままその子どもの、ふつうの話し方になってしまう。
ダミ声になってしまう。
(そういう意味では、クレヨンしんちゃんの話し方は、子どもにはまねをさせないほうがよい。)
幼児期は、正しい発音で発声させる。
これは幼児教育の基本のひとつ。
●映画『タイム』
昨夜、映画『タイム』を見てきた。
星は2つの、★★。
あえて劇場まで足を運んで……という映画ではない。
が、発想は面白かった。
25歳を過ぎると、人は、時間を買いながら生きる。
自分のもち時間がなくなると、自動的に体は機能を停止し、その人は死ぬ。
私はその映画を見ながら、「時間」イコール「クレジットカード」のことかな、と思った。
つまり、「金の切れ目が、縁の切れ目、命の切れ目」と。
現実に、この世界は、そうなっている。
クレジットカード(=全財産)の残高がゼロになれば、生きていくのさえ、むずかしい。
それをわかりやすくしたのが、『タイム』。
……その中に、こんな気になるセリフがあった。
「労働者には、1日働いたら、1日分の給料しか与えない」(記憶)と。
つまり労働者は、1日働くと、「24時間」という給料を与えられる。
その給料で、つぎの1日を、生き延びることができる。
言い換えると、労働者は、毎日、働かざるをえない。
社会はそういうしくみになっている。
が、これとて、現実そのもの。
現代社会そのものが、そうなっている。
お金がなければ、何一つ、行動に移すことができない。
極端な言い方をすれば、人がお金(マネー)を使うのではない。
人が、お金(マネー)に使われている。
平たく言えば、人が、お金の奴隷になっている。
映画『タイム』は、それをたいへんわかりやすい形で、映画化した。
そういう点では、評価できる。
●家の売却
オーストラリアの友人が、自宅を売却した。
奥さんは、5、6年前に他界。
2人の娘も、結婚。
今は、大きな家に、ひとりで住んでいる。
それで、その家を売った。
いろいろ話してくれるが、その売り方が、おもしろい。
日本のそれとは、かなりシステムがちがう。
そのシステムが、おもしろい。
まず「land Valuer(土地価値査定人)」というのがやってきて、土地と家の評価をする。
(税金も、それで決まる。)
その価格で、不動産屋に、期間限定で売りに出す。
それまでに買いたい人は、不動産屋に、オークション形式で希望価格を提示する。
期限がくると、それを開示。
いちばん高い価格を示した人と、売主は、売買の交渉に入る。
「日本のほうがわかりやすいな」と思ってみたり、反対に、「日本もまねをすればいいのに」と思ったりする。
この先、オーストラリアで家を買ったり、売ったりすることはないだろう。
だから話としては、興味本位。
「おもしろいな」と思ったところで、思考停止。
●ハナの死
ハナが死んで、もう1か月になる。
今でも、ときどき庭を見たとき、こう思う。
「どうしてハナはいないのだろう?」と。
が、すぐ我に返り、「ハナは死んだんだ」と、自分に言って聞かせる。
ハナの餌が、大きな箱いっぱい、まだ残っている。
今は、その餌を、毎日、庭にまいている。
それをヒヨドリや、ムクドリ、さらにカラスまで食べにくる。
スズメも食べる。
それを見て、また涙が、ホロリ。
毎日、一日も欠かさず、私を迎えてくれた。
最期の最期の日まで、私を迎えてくれた。
ヨタヨタとした足どりで、私を迎えてくれた。
目も、ほとんど見えなかったはず。
それでも迎えてくれた。
そんなハナが、今は、もういない。
最期は、ふとんの中で息を引き取った。
午後11時40分ごろのことだった。
その少し前のこと。
ハナに、「また元気になったら、海へ行こうな」と声をかけた。
「海」と言っただけで、元気なころは、興奮状態になってしまった。
が、そのときもそうだった。
私が「海」と言ったら、懸命に体を動かそうとした。
顔を動かし、私の方を見つめた。
ひとみが左右に大きく動いたのが、よくわかった。
ハナのいない庭を、今、ぼんやりとながめている。
畑の上では、スズメたちが、餌を食べている。
ムクドリも来ている。
庭の景色だけは、そのまま。
が、光は消えた。
殺風景な、どうしようもないほど殺風景な景色。
冬の冷たい風が、キンモクセイの木々を、小刻みに揺らしている。
●大和ミュージアム
息子が、TAMIYAの戦艦大和を完成させた。
350分の1の巨大な模型である。
その祝いをかね、x日、広島県の呉市にある大和ミュージアムに行くことにした。
ホテルの予約も済んだ。
あとは切符だけ。
3人分で、往復9万円(新幹線)、プラス、ホテル代。
息子というより、私の方が楽しみにしている。
私が生まれたころには、まだ戦艦大和は、人々の記憶にしっかりと残っていた。
話もよく聞いた。
当時の私は、子どもながらに、こう思った。
「戦艦大和といっしょに死ねるなら、本望」と。
それくらい戦艦大和には、あこがれた。
その夢が、近く、かなう。
●南京事件
名古屋市の河村市長が、「南京事件はなかった」と発言したとか。
ときどき、こういうバカなことを発言する首長が現れる。
いわく、『河村たかし名古屋市長は20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったのではないか」(ロイター伝)と発言した。
ロイターが伝えているとことろから、すでにこのニュースは、中国本土にも広がっているはず。
が、南京事件、南京虐殺事件はあった。
かりにそれが小さな事件であったとしても、どうしてそのとき、その場に、日本兵がいたのか。
日本人は、そのあたりから、自らを反省しなければならない。
南京虐殺事件はなかったと主張する人たちは、かならず、その数字をあげる。
「30万人というのは、ウソ」と。
3万人でもよい。
3000人でもよい。
300人でもよい。
300人でも殺したというのが、問題。
それについては、何度も書いてきた。
原稿をさがしてみる。
日付は、2005年5月11日になっている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●南京虐殺事件
日華事変の最中、1937年(昭和12年)の12月12~15日。
当時のK内閣は、南京攻略に対して、三光作戦を発令した。
三光作戦というのは、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)という作戦をいう。
その結果、日本軍は、中国全土で、強姦、虐殺、略奪をほしいままにした(エドガー・スノー「アジアの戦争」)。
その「アジアの戦争」によれば、南京だけで、4万2000人以上、また南京への進撃途中で、30万人以上が、日本軍に殺されたという。
うち、そのほとんどが、「無抵抗の婦人、子どもであった」(同書)という。
どうやら、このあたりが、最大公約数的な事実のようである。
で、ここで注意しなければならないのは、日本側は「南京では、30万人も殺していない」と主張しているのに対して、スノーは、「日本軍は南京に向って、南京を攻略する過程で、30万人殺している」「南京では、4万2000人」と書いている点である。
ここに時間的錯誤がある。
また、「三光作戦」というのは、現存したし、それに基づいて、日本軍は、中国人(中国軍ではなく、中国人)を、(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくした)というのは、動かしがたい事実である。
これに対して、こんな記事(04年11月)を書いたことがある。改めて、ここに掲載する。
+++++++++++++++++
10年ほど前のことだが、こんなことを言ってきた女性(当時、35歳くらい)がいた。
「先生、どうして中国人は、ああまで日本を悪く言うのですか! 私は許せません。日本軍が南京で殺したのは、30万人ではありません。せいぜい、3万人です!」と。
そこで私が、「3万人でも、問題でしょう。3000人でも、300人でも問題でしょう。どうしてそのとき、日本軍が中国にいて、三光作戦を展開したのですか」と。
あれこれ議論をしたあと、最後に、その女性は、こう叫んだ。
「あんたは、それでも、日本人か!」「即刻、教育者をやめろ!」と。
もちろん南京虐殺事件だけではない。
中国全土はもちろん、東南アジア(マレーシア、シンガポール)でも、日本軍は同じようなことをしている。
しかし日本は、一度だって、アジアの人たちに向って、その戦争責任を認めたことはない。
ナーナーですませてしまった。
戦争責任ということになれば、その責任は、天皇まで行ってしまう。
天皇を最高権威として、つまり日本国憲法の象徴としていだく日本としては、これは、まことに、まずい。
が、しかし、ものごとは、逆の立場で考えてみようではないか。
あるとき、平和に暮らしていた日本に、となりの軍事大国K国が、侵略してきた。強大な軍事力をもつ、K国である。
そしてそのK国が、K国の言葉を強要し、金XX神社参拝を強要し、それに従わない日本人を、容赦なく処罰した。
三光作戦とやらで、大阪の人たちが、30万人近く、殺された。(3万人でもよい。)そのほとんどが、婦人や子どもたちである。
……という私のような意見を、現在の文部科学省大臣は、「自虐的史観」と言うらしい。
「日本人が、どうして日本を悪く言うのか」と。
しかしどう冷静に考えても、私はK首相の言っていることのほうが、おかしいと思う。
わかりやすく言えば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなことを繰りかえしながら、「不戦の誓いを新たにするものだ」とは!
そんな詭弁(きべん)が、はたして、世界で通るのだろうか。
(少なくとも、韓国、中国の人たちは、そう見ている。)
だいたいにおいて、私の姉夫婦ですら、父親がY神社に、A級戦犯として、祭られている。
にもかかわらず、一度も、Y神社を参詣していない。
むしろ、無実の罪で、処刑させられたことを、うらんでいる! それを「不戦の誓い」とは……!?
むしろ、K首相の行為は、中国人や韓国人の逆鱗に触れ、戦争の火種にすら、なりかねない。
日本軍による大陸侵略戦争を、肯定する人は、いまだに多い。
「日本が、道路や鉄道を敷いてやった。学校や公共施設を作ってやった」「日本のおかげで、中国や韓国は発展したではないか」と。
しかしもし、こんな論理がまかり通るなら、日本よ、日本人よ、逆に、その反対のことをされても、文句を言わないことだ。
あの中国にしても、5500年の歴史がある。
韓国にしても、2000年以上の歴史がある。
私たちが使っている言葉は、韓国を経由して日本へ入ってきた。漢字は、まさに中国語。その漢字から、ひらがなが生まれ、カタカナが生まれた。
文化の優位性ということを言うなら、日本は、中国や韓国に、もとから、かないっこないのである。
……私は、今、かなり過激な意見を書いている。
自分でも、それがよくわかっている。
しかしこれだけは、よく覚えておくとよい。
もしこれだけの警告にもかかわらず、K首相が、Y神社を参拝するようなことがあれば、日中関係や日韓関係はおろか、アジアの国々からも、日本は、総スカンを食らうだろうということ。
いや、総スカンどころでは、すまないかもしれない。先にも書いたように、「戦争の火種」にすら、なりかねない。
K国に、日本攻撃の口実を与えることになるかもしれない。
韓国のN大統領ですら、公式の場で、K首相のY神社参拝に触れ、「日本人よ、いい気になるな」(04年春)と、K首相を口汚くののしっている。
つまり、この問題は、それくらいデリケートな問題だ、ということ。
日本の首相がすることだから、あなたや私も、その責任を負うことになる。
「私には関係ない」ではすまされない。
最後に一言。
K首相は、「心ならずも戦場で倒れた人への慰霊の気持ち」と述べている。
だったら、なぜ、「心ならずも日本人に殺された人への慰霊の気持ち」と言わないのか。
たしかに300万人もの日本人が、あの戦争で死んでいる。
それは事実だが、しかしその日本人は、同じく300万人もの外国人を殺している。
しかも、日本の外で!
先週も、韓国の新聞は、慰安婦問題についての最高裁判決、日本の文部科学大臣の、「(教科書から日本批判の記事が減って)、よかった」発言などを、トップで紹介している。
が、日本では、それを知る人すら、少ない。
それでもK首相が、Y神社参拝をつづけるというのなら、どうぞ、ご勝手に。
私は、もう知らない!
知ったことではない!
ついでに、もう一言。H元首相の1億円政治献金問題がある。日本S医師連盟から、旧H派への1億円の小切手が渡された。
だれがどう見てもワイロなのだが、H元首相は、「記憶にないが、事実なんだろう」(041130)と逃げてしまった。
そういう政治家を見るたびに、私は愛国心とは何だろうと、考えてしまう。
いざ、戦争ともなれば、若者たちを戦場に立たせ、自分たちは、イの一番に、その戦場から逃げてしまう。
H元首相の、ニンマリと笑った顔を見ていると、そんな感じがする。
そういう政治家の大の仲間が、「正義」だとか、「不戦の誓い」だとか言うから、おかしい。
本当に、おかしい。
(04年12月1日記)
(補記)
しかし……。この無力感は、いったい、どこから来るのか?
「もう、考えるのも、いやになった」という思いすら、ある。
何も「不戦の誓い」くらいなら、Y神社へ行かなくても、できるはず。
だいたいにおいて、「不戦の誓い」とは、何か?
相手を怒らせ、敵意をかきたてるようなことをしながら、「不戦の誓い」とじゃ?
私には、K首相が、まったく、理解できない。
(補記)
日本S医師会(日歯)側から自民党旧H派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反(不記載)の罪に問われた同派政治団体「HS研究会」(平成研)の元会計責任者・TT被告(55)の判決が12月3日、東京地裁であった(04年)。
OD裁判長は禁固10月、執行猶予4年(求刑・禁固10月)を言い渡した。
++++++++++++++++++++
話を石原S氏にもどす。
石原氏は、「なぜ中国の教科書に、文革の記述がないのか」と、中国を批判している。
「(文革で)2000万人の同胞を殺した記述がないのは、おかしい」(97P)と。
しかしそれこそ、いらぬお節介。
つまり石原氏は、中国だって、国内でひどいことをしているではないか。
だったら、日本軍がしたことなど、問題にするなと言いたいのだろう。
あるいは、日本人が、日本の教科書に何を書こうが、日本人の自由だ、と。
そして結論的に、「日本には経済力がある。中国など、問題ではない」という趣旨の文章がつづく。
また「尖閣諸島に自衛隊を常駐させろ」と説き、もし中国軍が攻撃してきたら、日米安保条約が発動されて、アメリカ軍が応戦してくれるなどと、説く。
「尖閣諸島は、日米同盟の試金石になる」とも。
きわめて自己中心的な国家論である。
平和論である。忘れてならないのは、古今東西、「戦争」というのは、こうした政治家によって始められているということ。
あのネール(インド元首相)は、こう書いている。
『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。
それについて書いたのが、つぎの原稿である。
●平和教育
人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。
「利己」と「利他」を比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。
同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで決まる。
経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。
自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達成することができる。
もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかにすれば、相手国の平和を守ることができるか。
それを考えられる子どもにすることが、真の平和教育ということになる。
私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。
つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。
反省に始まり、反省に終わる。
とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。
満州の植民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。
もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。
それはわかるが、日本人のこの無責任体質は、いったい、どうしたものか。
たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。
日露戦争を特集していた。
その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、いっさい、出てこなかった。
中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災難である。
私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。
「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。
「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……」と。
そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、どうなるのか。
日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろうか」と。
日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。
意味のない戦争だった。
死んだのは、何十万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。
そういうムダな戦争をしながら、いまだに「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。
この日本人のオメデタサは、いったい、どこからくるのか。
日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。
それはそれで幸運なことだったと思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。
そもそも、そういう人の立場を、理解することさえできない。
そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。
中には、「日本の朝鮮併合は正しかった。
日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。
もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言わないことだ。
ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わないことだ。
……という視点を、相手の国において考える。
それが私がここでいう、平和教育の原点ということになる。
「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもない。
またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。
日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。
そして何をするだろうか。
それをまず反省しなければならない。
そして相手の国の立場で、何をすべきか。
そして何をしてはいけないかを、考える。
あのネール(インド元首相)は、こう書いている。
『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。
考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。
どういう状態を平和というか、それすら、よくわからない。
が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがっている。
今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。
こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。
休息期間でしかない。
私たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つぎの戦争が画策されている。
過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。
そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和教育である。
++++++++++++++++++
【母親のみなさんへ……】
勇ましい好戦論にだまされてはいけない。
振り回されてはいけない。
それがわからなければ、あなたの子どもが、戦場に行く姿を想像してみればよい。
あなたは子どもの安否が心配で、夜も眠られなくなるだろう。
で、石原氏は、「日本の尖閣諸島が中国に攻撃されたら、日米安保条約は発動されるべき。
アメリカは、当然、中国に反撃すべき」という論法で記事を書いたのち、こうつづけている。
「ニューヨークタイムズの記者が、当時のモンデール駐日米国大使に、『尖閣諸島で、扮装がさらにエスカレートしたら、日米安保条約は発動するのか』と質問したところ、大使は、言下に、『NO』と答えた。
国会議員を辞職したばかりの私は、(この言葉に)、驚きと同時に怒りを感じましたが、なぜか日本政府も、国会も、それを問題としなかった」(99P)と。
ならばあえて言おう。
私の息子の嫁は、アメリカ人。
孫もアメリカ人。
今度生まれてくる二人目の孫も、アメリカ人。
その孫たちが、日本の尖閣諸島を守るために、極東のアジアへやってきて、中国軍と一戦を交えると言ったら、私は、こう言うだろう。
「来なくていい。来るな。こんなところで、命を落すことはない。ぼくたちで、何とかするから」と。
石原氏の論文には、そういう原点的なものの視点が、欠けている。
記事の中には、「お国のために……」という表現すら、ある。私たち1人ひとりの命を、まるで、モノのように考えている感じすら覚える。
……と書いても、私のような意見は、この日本では、少数派。
たいていの人は、石原S氏のような人の意見に耳を傾け、それに同調する。
しかし念のために申し添えるが、私は、だからといって、左翼ではない。
もちろん社会主義者でも、共産主義者でもない。
ただおかしいものは、「おかしい」と言っているにすぎない。
あとの判断は、読者のみなさんに任せる。
みなが、それでよいというのなら、それでよい。私も、それに従う。
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 南京事件 南京虐殺事件 はやし浩司 三光作戦 はやし浩司 平和論 平和主義 はやし浩司 平和とは はやし浩司 平和について はやし浩司 ネール首相 はやし浩司 ネール元首相)
2012-02-21日記
Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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