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子育て最前線の育児論byはやし浩司 2月 10日号
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休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【西浦温泉・たつき別館、葵(旅館)へ】(はやし浩司 2012-01-03)
●01月03日、火曜日
ただ今、車の中。
JR浜松駅から、愛知県蒲郡(がまごおり)まで。
そこから名鉄電車に乗り換え、西浦まで。
JR浜松駅から、1時間ほど。
今日はその中にある、『葵』という旅館に一泊。
案内書では、『たつき別館・葵』となっている。
1日1組限定という、ペントハウス(特別室)に泊まる。
西浦温泉は、ほぼすべての旅館を回った。
今回は、その中の、『葵』。
とくに理由はないが、「露天風呂付きに部屋」という文句に、
引かれた。
●義兄の訪問
先ほど、義兄が年始のあいさつに来てくれた。
ちょうど出かけるところで、簡単な会話しかできなかった。
……ゆっくりと話をしたかった。
今度の日曜日に、山荘で食事をいっしょに楽しむことにした。
「一席、もうけますから」と言うと、喜んで、それに応じてくれた。
今朝は、それで失礼した。
玄関先へ出たときには、朝の運動がちょうど終わったとき。
汗をぬぐいながら、「これから西浦温泉へ行ってきます」と言うと、「いいねエ~」と。
●家を出る
「家を出る」ということは、とても大切なこと。
「出る」だけでも、刺激になる。
けっして家の中に引っ込んでいてはいけない。
ボケる。
うつ病になる。
「50代では、年50泊、60代では、年60泊……」を目標にする。
あくまでも「目標」だが、60泊というと、週1泊以上ということになる。
が、幸運なことに、私にとっては、それほど無理な回数ではない。
どこかへ講演に行くときは、講演先のどこかに、かならず一泊するようにしている。
それがだいたい、週1回ほどになる。
ともあれ、これはあくまでも努力目標。
しかしそれくらいの目標を立てないと、どうしてもダラけてしまう。
ジジ臭くなってしまう。
●G神社
JR浜松駅へ向かう途中、G神社の前を通る。
境内に、車が一列になって並んでいるのが見えた。
「車の初詣」!
私たちはそう呼んでいる。
(正確には、「車のお祓い」というのだそうだ。)
一列に並んだ車の前を、神主らしき男性が、何やらお祓いをしながら歩いていた。
が、こんな調査結果を何かの本で、読んだことがある。
そうした「車の初詣」をしたからといって、事故率が下がるわけではない。
お祓いをしてもらった車も、そうでない車も、事故になる確率は同じ。
理由がある。
●迷信
その前に……。
私たちは、こうした迷信とは、まったく無縁の世界に生きている。
若いころから、そうだった。
私は、こうした宗教的行為を、「迷信」と断言する。
が、そう断言するには、勇気が必要。
「迷信」と断言するということは、そういった「力」との決別を意味する。
私たちだけで、生きていかねばならない。
だれも助けてくれない。
万が一のときも、だれにもすがれない。
が、今はちがう。
64歳にもなって、何かに遠慮してものを書くのも、いやになった。
だから「迷信」と断言する。
はっきり、断言する。
冷静に考えてみれば、わかるはず。
運転する「人間」に、お祓いをするなら、まだ理解できる。
金属でできた車に、お祓いをして、どうなる?
神社にしても、最初から断ったらよい。
いくら信者が「やってくれ」と願ったとしても、断ったらよい。
「車には、できません」と。
また「お祓いをしてもらったから、安全」と思ってはいけない。
そう思うことによって、かえって油断が生まれる。
反対に「私たちを守ってくれるものは、何もない」と思うのも、悪くない。
そう思うことによって、運転が慎重になる。
どちらであるにせよ、事故になる確率は同じ。
詳しい調査をしたら、ひょっとしたら、「車の初詣」をした車のほうが、事故率が高いという結果が出るかもしれない。
●生き様
ならば人生の途中で、そうした迷信を捨てることができるかというと、それはできない。
迷信が、生き様の基盤になってしまう。
そういう人たちは、捨てたとたん、不安になる。
車について言えば、不安で、運転もできなくなる。
だから一度依存したら最後、死ぬまで依存するしかない。
宗教いうのは、そういうもの。
もしどうしても……、ということであれば、生き様そのものを変えなければならない。
「依存」から「自由」へ。
「自由」というのは、「自らに由(よ)る」という意味である。
それまで「依存」で生きてきた人が、ある日を境に「自由」に生きるなどということはできない。
●功徳(くどく)
こんな調査結果もある。
「金持ちになれる」をキャッチフレーズに、戦後、勢力を拡大した宗教団体があった。
「この信仰をすれば、庭の枯れ木に、札束の花が咲く」と。
が、実際に調査してみると、その宗教団体の信者のほうが、貧しい人が多かったという。
それについては、2つの考え方ができる。
ひとつは、もともと貧しい人たちが多かったということ。
もうひとつは、彼らが言うところの「功徳(くどく)」などというものは、もとからなかったということ。
今では、日本人全体が金権教の信者のようなもの。
欲得のかたまりのようなものだから、功徳(=信仰によって得られる利益)を、金権に換算する人は少なくない。
もとから宗教に対する、心構えがズレている。
金権を求めるために、信仰をしてはいけない。
またそんなことに「力」を貸す神や仏がいるとするなら、それこそ、その神や仏は、エセ。
ニセモノ。
そんな神や仏は、相手にしてはいけない。
私が釈迦なら、こう言うだろう。
『バラモンよ、拝んで金が儲かると思ってはいけない。
拝んで権力が手に入ると思ってはいけない。
拝むなら自分の心に拝め。
蔵の財より、心の財。
それを求めよ』と。
●JR浜松駅
正月の3日。
JR浜松駅は、混んでいた。
電車の中も混んでいた。
途中から席に座れたが、豊橋の、2、3駅手前でのこと。
「やはり車で来るべきだった……」と、ふと、心の中でそう思った。
●JR蒲郡(がまごおり)
蒲郡(がまごおり)に、着いた。
が、ここで問題、発生。
時計を見ると、午後1時30分。
このまま行けば、旅館へは、午後3時前に着いてしまう。
案内書には、「チェックイン可能時間、15:00~」とある。
「どうしようか?」と聞くと、ワイフは「水族館でも見てこようか」と。
が、外は寒々とした冬の景色。
蒲郡には、その水族館がある。
「西浦の駅で、時間をつぶそう」と私。
「そうね」とワイフ。
●西浦
西浦へは、午後2時、少し前に着いた。
宿へ電話をすれば、迎えに来てもらえるはず。
「どうしようか?」と、またワイフ。
「早く行って、ロビーで待とう」と、私。
●歩く
私たちはしばらく歩くことにした。
駅前で子ども連れの男性に道を聞くと、「この先、『力寿司』という寿司屋があるから、そこを右へまっすぐ行けばいいよ」と。
私たちは教えられたとおりに、歩き始めた。
……西浦の町は、いつ来ても、元気がない。
多くの店は、正月なのか、それともふだんからそうなのかは知らないが、みな、シャッターを下ろしていた。
私たちは、寿司屋の前を右に折れると、そのまま西浦温泉のほうに向かって歩き出した。
●八王子神社
途中、左手に立派な社(やしろ)が見えてきた。
場違いなほど立派な、社だった。
私たちはその神社にひきつけられるように、境内へと入っていった。
「八王子神社」と、大きく石碑に彫り込んであった。
私とワイフは、石段を上り始めた。
何度も「立派な神社だね」と。
●境内
境内で写真を撮っていると、白い着物を着た男性が、親しげに近づいてきた。
「どちらから?」と。
「浜松です」と答えると、うれしそうに、あれこれと説明してくれた。
由緒ある神社だった。
境内には、ほかに3、4人の人たちがいた。
掃除をしたり、あと片づけをしたりしていた。
帰るとき、ワイフがまた同じことを言った。
「こんなところに、こんな立派な神社があるなんて……」と。
●親切な男性
街道を歩いていると、(幡豆(はず)街道という)、うしろから軽のバンが追いかけてきた。
私たちの横に止まると、中から70歳くらいの男性がこう言った。
「乗せていってあげるよ」と。
先ほどまで神社にいた男性だった。
「はあ……」と私。
「西浦温泉まで、乗せていってあげるよ」と。
私とワイフは、そのままバンに乗った。
男「まだ、だいぶあるよ」
私「すみません……。いえね、私、こうして見知らぬ人に車に乗せてもらうのは、この40年で、はじめてではないかと思います」
男「ははは……」と。
そう、この40年間で、はじめての経験だった。
他人を乗せたことはあるが、見知らぬ人に乗せてもらったことはない。
が、居心地は悪くなかった。
先ほどの神社で、賽銭として、もっていた小銭をすべてはたいた。
そのご利益?
●旅館「葵」
一文字で、「葵」。
立派な旅館だった。
玄関を入ると、フロントまで一直線の赤いジュータンが敷いてあった。
ここで訂正……「ペントハウス(最上階)」を思ったが、フロントからつづきになっている、一番奥の部屋だった。
露天風呂付きの部屋。
ドアを開けると、下足置場だけで一部屋分あるほど、中は広かった。
「すごい部屋だな」と。
仲居さんが、露天風呂の使い方を、あれこれ説明してくれた。
●温泉
私たちはいつものように一服すると、そのまま大浴場へ。
大浴場には、私、1人だけだった。
ラッキー!
こういうのを私は子どものころ、「一番風呂」と呼んでいた。
町の銭湯で、そういう言葉を使った。
●銀波荘
部屋からは、渥美湾が一望できた。
少し前に泊まった、銀波荘がすぐ前の眼下に見えた。
その銀波荘の料理は、超一級。
料金も高かったが、それだけの価値はあった。
そんな話をしながら、ワイフと遠くの景色を眺めた。
別の旅館に泊まりながら、隣の旅館をほめるというのも、どうかと思う。
が、銀波荘の料理には、驚いた。
一品、一品に、奥深い趣向がこらされていた。
●人間関係
ここへ来る電車の中で、ワイフとこんな話をした。
人間関係について。
都会に住んでいる人は、あまりそういう話はしない。
理解できないだろう。
しかし人間関係が濃密な田舎に住んでいると、それがよくわかる。
こういう話。
たとえばA、B、C、D、Eさんの5人がいたとする。
五角形を頭の中で描いてみればよい。
そのとき、対角線を描くと、計10本の線が引ける。
具体的には、A-B、A-C、A-D、A-E、B-C、B-D、B-E、C-D、C-E、D-Eと。
それぞれが、別の人間関係を形成する。
実際には、双方向性ができるから、20本の線ということになる。
A-Bの関係と、B-Aの関係が、異なるときがある。
Aさんは、Bさんが好き。
が、Bさんは、Aさんが嫌い、と。
だから20本。
こうして地方の田舎では、複雑な人間関係が形成される。
●評価
たとえば同じBさんを、Aさんは、ほめちぎる。
が、同じBさんを、今度はCさんが、ボロクソに叩く。
同じ人物なのに、人によって評価が、まったくちがう。
ときに、その評価が180度、異なるときがある。
もちろんこの私についても、だ。
Aさんは、私のことを、よい人だと言う。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。
が、私は同じ「私」なのに、Bさんは、私のことを、ボロクソに叩く。
そういう話が、どこからともなく伝わってくる。
そのときたいへん興味深いのは、そういう評価は、若いころはまだ流動的ということ。
が、50歳を過ぎると、それが固定化してくる。
ボロクソに叩く人は、それこそ20年前、30年前の話を持ち出して、叩く。
が、それだけではない。
心のどこかにもっていた(わだかまり)が、50歳や60歳を過ぎたころ、一気に噴き出す。
そのため評価の仕方も、極端になりやすい。
●人間のクズ
たとえば、こんな例。
A氏とB氏は、ほぼ同じ年齢。
が、A氏は、よい家柄の御曹司。
B氏には、その家柄がない。
それもあって、A氏は、子どものころからB氏を、「下」に置いていた。
B氏は、「下」という立場に甘んじていた。
こうして20年、30年と過ぎる。
が、そのころから、B氏はA氏をボロクソに叩くようになった。
「あいつは、人間のクズ」と。
が、肝心のA氏は、いまだにそれに気づいていない。
「私は尊敬されるに値する人間だ」と。
が、ここで先にも書いたように、おもしろい人間関係が形成される。
ふつうは、「好意の返報性」といって、相互に似たような人間関係になる。
A氏がB氏をよい人と思っていると、B氏もまたA氏のことを、よい人と思うようになる。
日本でも昔から、『魚心あれば、水心』という。
英語の格言にも、「相手は、あなたが思うように、あなたのことを思う」というのがある。
ふつうなら、そうなるのだが、先にも書いたように、人間関係はそれほど単純ではない。
とくに濃密な近隣関係にある世界においては、そうだ。
●おもしろい人間関係
で、そのA氏を、C氏は、高く評価している。
「Aさんは、すばらしい人だ」と。
理由を聞くと、「先祖を大切にしているから」と。
A氏は、毎年、盆暮れになると、名古屋からやってきて、墓参りをきちんとする。
が、A氏は、C氏をボロクソに叩く。
「あいつは、墓参りすら、きちんとやっていない」と。
A-Cの関係と、C-Aの関係が、中身において、ちがう。
それがここに書いた「おもしろい人間関係」ということになる。
●表面(おもてづら)
が、さらに興味深い現象が、起きる。
そういう関係にもかかわらず、(たいへん複雑に入り組んだ関係にもかかわらず)、それぞれの人たちは、みな、見た目には、よい人間関係をつづけている。
表面(おもてづら)と、裏面(うらづら)を、巧みに使い分けている。
まさに面従腹背。
ボロクソに叩きながらも、だからといって、喧嘩しているわけではない。
いっしょに飲み食いをしたり、ときには、いっしょに旅行もしたりする。
都会に住んでいる人には信じられないような話かもしれない。
しかしこの浜松という、人口80万人の都市においてすらも、そういう現象が起きる。
それをワイフは、「おもしろい」と言う。
私も「おもしろい」と言う。
私「だけどね、ぼくは、そういうことができない」
ワ「そうね、あなたには、できないわね」
私「そうなんだよ。裏で悪口を言いながら、表では仲よくつきあう……。とてもぼくにはできない」
ワ「私もできないわ」
私「だからね、ぼくのばあいは、その人の悪口を書いたばあい、その人とは、つきあわないことにしている」と。
そう、それは事実。
私は一度でも、その人のことを悪く書いたばあいには、(たとえその人とわからないように書いたばあいでも)、その人とは縁を切ることにしている。
それをしないと、脳みそがバラバラになってしまう。
だから……当然のことだが、その人の悪口を書くときは、最後の最後……。
……というより、めったに書かない。
そんなことをすれば、筆が汚れる。
自分の住む世界を狭くする。
●『道徳的未熟児』?
たった今、あちこちのニュース・サイトに目を通した。
その中に、こんなのがあった。
朝鮮中央通信(北朝鮮)が、こんな論評を出している。
いわく、
『朝鮮中央通信は3日、「大国葬を迎えた朝鮮民族の胸を刃物で刺す日本の道徳的未熟児」という論評で、隣国の大国葬をともに悲しみ慰めることができないとしても、朝鮮民族声援の弔問までも遮断する日本当局の行為は卑劣だと主張した』(ヤフーNEWS)と。
ごちゃごちゃと書いている部分は、無視してよい。
あの国の言っていることは、いつも常識をはずれている。
が、この中にある、『道徳的未熟児』という言葉だけに注目してほしい。
(『道徳的未熟児』だぞ!
この私たち日本人が!)
こうして世界中にニュースが配信されたから、私もあえて書く。
「道徳的未熟児」とは、いったい、どういう子どもや人をさして言うのか。
ためしに「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみてほしい。
一例も、ヒットしないはずである。
「未熟」という言葉はよく使う。
しかし子どもや人をさして、「未熟児」とは言わない。
また言ってはならない。
(この原稿は別として。)
私は幼児教育歴43年になるが、「未熟児」などという言葉は使ったことも、口に出して言ったこともない。
講演などでも、一度もない。
(当然のことだが……。)
タブーというより、禁句。
禁句と意識する以前の、禁句。
こういう言葉を、堂々と使う北朝鮮が、恐ろしい。
1. どういう子どもをさして、未熟児というのか
怒れるよりも先に、あきれる。
それとも北朝鮮には、未熟児はいないというのか。
子どもの3分の1以上が、栄養失調と言われている。
そういう子どもたちが、未熟児になる心配はないのか。
ともかく、この言葉には、驚いた。
私たちがけっして口にしてはいけない言葉。
それが「未熟児」。
もともと私の思考回路の中にさえ、ない。
そういう言葉が、こうして堂々と、活字になっている!
私はそれに驚いた。
●露天風呂
夕食前に、2度目の露天風呂に入った。
雲ひとつない、紺碧の夜空だった。
月が美しく、星もまばたきもせず、その横に散らばっていた。
それを見ながら、決心した。
「露天風呂を作ろう!」と。
以前から計画していたが、二の足を踏んでいた。
とくに理由はないが、その時間がなかった。
しかし作ろうと思えば、1日で、できる。
板を敷き、その上に、風呂釜を置く。
風呂釜は何でもよい。
友人のTH氏は、ドラム缶を置いて、風呂にしている。
(本物のドラム缶だぞ!)
この温泉の露天風呂は、陶器でできた瓶(かめ)。
どこかにそれを売っている店もあるはず。
……しかし、お湯を抜くときはどうすればよいのか。
陶器に穴をあけるのも、たいへん。
ウ~ン?
●「はやし浩司 未熟児」
たった今、「はやし浩司 未熟児」で検索をかけてみた。
これは念のため。
万が一にもその言葉を使っていたら、私は自分の評論生命を絶たねばならない。
そう思いながら、検索をかけてみた。
ヤフーの検索で、557件、ヒットした。
「未熟」という言葉で、ヒットした。
「未熟児」という言葉は、やはり一度も使ったことがない。
それがわかった。
で、その2件目に、つまり557件中、上から2件目で、「脳の未熟化」について書いた原稿が見つかった。
こんな旅行記に、その原稿を載せるのもどうかと思うが、ここに転載する。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「脳の未熟化」(澤口俊之著「したたかな脳」)
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。
私も、そう思う。
言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。
私も、そう思う。
つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。
ただのサルになってしまう。
が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。
いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということ。
先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んだという。
「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。
これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。
服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。
つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。
最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかってきました」(同書、P34)と。
その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。
しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。
言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。
「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。
それを「適齢期」という。
私の経験によればの話だが、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・5歳。
この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになる。そうでなければ、そうでない。
この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。
遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。
一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。
で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。
わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されると考えてよい。
この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。
澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●言語能力
その言語能力で気になるのが、最近の若い人たちの話し方。
鼻から息を抜きながら、フガフガした言い方をする。
たとえば、「いらっしゃいませ」を、「ヒラッアシャハイ、ムァーセ」と。
幼児教育の世界には、「発語障害」という言葉がある。
が、そのどれにも属さない。
ということは、後天的に、こうした言い方は、クセとしてその人に定着する。
若い女性に多い。
「このままでいいのか?」と、考えたところで、思考停止。
言葉というのは、そういうもの。
いつも大衆が、その流れを決めていく。
が、好きか嫌いかと聞かれれば、私は嫌い。
聞きづらいという点で、私はそういう言い方が、嫌い。
日本語が基本的な部分で、壊れつつある。
そんな危機感さえもっている。
フロントでチェックインしていたとき、同時に並んだ若い女性たちが、みな、そんな話し方をしていた。
●夕食
夕食は、海賊焼き。
伊勢エビ、アワビなどの豪華品に、あとは定番。
量は多すぎるほど。
満足したというより、楽しかった。
凝(こ)った懐石料理もよいが、私はこのタイプの夕食のほうが楽しい。
肩も凝らない。
●露天風呂
夕食後、私は再び、露天風呂へ。
ワイフはDVD鑑賞。
これもいつもの定番。
月に白いモヤのような雲が、かかり始めた。
そんなことを考えながら、ぼんやりと空をながめる。
無我の時。
よく誤解されるが、私はいつも、ものを考えているわけではない。
ものを書いていないときの私の頭の中は、カラッポ。
いつも馬鹿話ばかりしている。
ふだんの私を見たら、あなたはこう思うだろう。
「この男は、馬鹿?」と。
(実際、馬鹿なのだが……。)
それが私の特技かもしれない。
ものを書いているときの私の脳みその中は、モヤモヤでいっぱいになる。
が、そうでないときの私の脳みそは、カラッポ。
モヤモヤとカラッポ、それをいつも繰り返している。
そのときが、そうだった。
露天風呂に入っているとき、私の脳みその中は、カラッポだった。
完全にカラッポだった。
●近視主義者
ワイフは、「今を楽しもう」と言う。
私は、悲観論者。
自分の末路を考えると、どうしても悲観的になる。
このちがいは、どこから生まれるのか。
が、私はワイフが楽観論者とは思っていない。
現実主義者でもない。
私は「近視主義者」と呼んでいる。
いつも目先のことしか、考えない。
目先のことしか、見えない。
つまり未来を予測しながら生きるということを、しない。
「何とかなるわ」が、ワイフの口癖。
そういうワイフを、うらやましいと思うときもある。
そういうときは、こう思う。
「ぼくのような変人には、ワイフのような妻がいちばん似あっている」と。
が、そうでないときもある。
私の未来的な絶望感を理解できないときがある。
老後のことを心配したりすると、すかさず、こう言い返す。
「忘れなさいよ」と。
そういうときは、たいへん苛(いら)立つ。
「忘れることができないから、悩んでいるのだ!」と。
が、結局のところ、……いつも、最終的にはいつもそうなるが、ワイフが正しい。
私が負けを認め、それでおしまい。
……この文章をワイフが読むかどうかは、わからない。
わからないが、正直に告白する。
負けを認める。
私が恐れていることは、自分の老後のことではない。
孤独死とか、無縁死でも、何でもよい。
そんなことは、どうでもよい。
私が恐れているのは、いつか、ワイフがいなくなったときの世界、である。
はたして私は、そんな世界に耐えられるだろうか。
●10年、早ければ……
時刻は、午後9時を、少し回った。
ワイフは相変わらず、DVDを見ている。
聞き慣れない言葉である。
ドイツ語のようでもあるが、ドイツ語でもない。
「No」という意味で、「ネイ」と言っている。
雰囲気からして、オランダの映画?
北欧の映画?
よくわからない。
……というか、この世界には、私の知らないことのほうが、多すぎる。
だからときどき、こう思う。
気がつくのが、もう10年、早ければよかった、と。
10年早ければ、もっと新しいことを知ることができた、と。
が、今は、ちがう。
脳みその働きそのものが、鈍くなってきた。
片端(かたっぱし)から新しいことを知り、同時に、片端から忘れていく。
これではいつになっても、前に進むことができない。
このはがゆさ。
このもどかしさ。
DVDの主人公たちは、私たち日本人がもっている価値観と、まったく異質な価値観をもっている。
それを知るためには、彼らとともに生活しなければならない。
苦楽を共にしなければならない。
反対の立場で考えてみると、それがよくわかる。
たとえば「家・意識」。
アメリカ人やオーストラリア人に、日本人がもつ「家・意識」を説明しても、理解できない。
彼らがそれを知るためには、また理解するためには、日本に住み、日本人といっしょに生活しなければならない。
●知的優越感
知的優越感というのは、確かにある。
私も、ある時期、それを強く感じた。
「私は、君たちの知らない世界を知っている」と。
が、今はそれも色あせ、老後の中で、ごちゃ混ぜになってしまった。
ただその一方で、私から見ると、化石のような人に出会うことは、多くなった。
その人が「化石」というのではない。
私の中に残っている「化石」そのままだから、「化石のような人」という。
少し入り組んだ話になるが、許してほしい。
若いときに(外の世界)へ出た人と、反対に、生まれも育ちも、そしてそれ以後も、ずっと(内の世界)に住んでいる人がいる。
(外の世界)へ出た人には、(内の世界)がよく見える。
が、ずっと(内の世界)に住んでいた人には、当然のことながら、(外の世界)がわからない。
わからないまま、(内の世界)を基準にして、ものを考える。
(外の世界)を想像したりする。
こう書くと、(内の世界)に住んでいる人は、こう反論するかもしれない。
「外国のことはよく知っている」「ときどき外国へ旅行する」「テレビでもよく紹介されるから、それを見ている」と。
しかし(外の世界)を知るということと、観光客として、外国を訪れるということの間には、天と地ほどの開きがある。
(外の世界)の人だって、観光客には、自分たちの世界を見せない。
さらに中には、私にこう言う人もいる。
「君は、外国かぶれしている」と。
●化石
そこで私自身を振り返ってみる。
もし私があのまま日本の会社に入り、そのまま60歳を迎えていたら、私はどうなったか、と。
「あのまま」というのは、99・9%の日本人がそうであったように、(外の世界)を知らないまま、日本だけに住み、日本の中で生活をしていたら、という意味である。
が、これについては、何も、想像力を働かせなくてもよい。
そういう人を、あなたの周辺から探してみれば、それでよい。
探して、そういう人が、どういうものの考え方をしているかを、知ればよい。
つまり、それが(あのままの私)ということになる。
が、最近は、そういう人たちが、私には、「自分自身の化石」に見えるようになった。
先に「化石のような人」と書いたのは、そういう意味。
「過去の自分のまま」という意味で、そう言う。
で、私と彼らはちがう……というのは、あくまでも結果論にすぎない。
ここでいう「化石」というのは、私自身の内部で、核になっている「私」を意味する。
固くて、心の中で石のようになっている。
だから「化石」。
●因習
もう少し具体的に話そう。
私は子どものころ、学校が休みになると、決まって母の実家のある田舎で過ごした。
そこには、古い因習が、ぎっしりと詰まっていた。
そこはまさに、(情の世界)。
すべてが「情」を中心に動いている。
(だからといって、因習や情を否定しているわけではない。誤解のないように!)
しかしそれが因習とわかったのは、ずっと後になってからのこと。
30代、40代になってからのこと。
が、もし私があのまま(外の世界)を知らないでいたら、私自身が因習を因習とも気づかないまま、私はそれをそのまま踏襲していただろう。
事実、そのあたりにそれ以後も住み、そこで暮らした人たちは、そっくりそのまま因習を踏襲している。
●智に働けば……
が、ここでいつも、厚い壁にぶち当たる。
そういう化石のような人たちに出会うと、(けっしてそういう人たちが、「下」とか、そういうことを書いているのではない。誤解のないように)、言いようのない無力感を覚える。
あまりにも遠くに住んでいて、どこからどう説明したらよいのか、わからなくなる。
実際には、不可能。
つまり私を理解するのは、不可能。
だから私のほうが、先に引いてしまう。
引いて、私のほうが、彼らに合わせる。
「そうですね」「そのとおりです」と。
が、それはむずかしいことではない。
私の中にある「化石」を、そのまま引き出せばよい。
ちょうど机の引き出しから、古い本を取り出すように、だ。
あとはその化石を見ながら、相手に合わせていけばよい。
ところで夏目漱石は、『草枕』の冒頭で、こう述べている。
『智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される』と。
理性だけを主張していると、他人との衝突がふえる。
しかし相手の情に同調していると、自分を見失ってしまう、と。
たしかにそうだ。
相手に合わせるのは、むずかしいことではないが、いつも後味が悪い。
いや~な気分になる。
●01月04日
今日は1月4日。
時刻は午前8時30分。
西浦駅に向かうバスが、9時に出るという。
今、そのバスを待っている。
まぶしいばかりの白光。
昨夜は遅くまで波の音が聞こえたが、今は、それもない。
窓の外の波を見ると、岸のほうから太平洋側に向かって、動いている。
今日も、北風。
寒い1日に、なりそう。
そうそう、昨日、オーストラリアのB君からメールが届いた。
南オーストラリア州では、ここ2日ほど、気温が41度を超えているという。
41度!
もっともオーストラリアでは、空気がカラカラに乾燥しているから、41度といっても、日陰に入れば、涼しさを感ずる。
夜も寝苦しいということはない。
が、心配なのは、ブッシュ・ファイア(山火事)。
大平原が、それこそ関東平野分ほど、燃えたりする。
それが気圧の移動とともに、あちこちを燃やし尽くす。
それがこわい。
●旅の終わり
あわただしいが、これで旅行記はおしまい。
西浦温泉、たつき別館、『葵』にて。
2012年の英気を、ここで養う。
はやし浩司・晃子
はやし浩司 2012-01-04
(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 西浦 葵 たつき別館 西浦温泉 葵)
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