2012年2月12日日曜日

*The Density of Life

●映画『ドラゴン・タツーの女』(はやし浩司 2012-02-11)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今日は、怠惰な1日だった。
起きたのが、午前9時。
そのあとすぐ30分の運動。
あとはルーティーン(日課)。
一息ついたのが、午後1時ごろ。

そのあと居間で居眠り。
3時ごろになって、ワイフが映画に行こうと誘った。
昨日公開された、『ドラゴン・タツーの女』。
それを聞いて、「『チンチン・タツーの男』のほうがいい」と、私。

……ということで、映画館へ。

今、時刻は午後11時10分。
山荘へやってきた。
途中、幸楽苑で、ラーメンを食べた。
いつも1人前を、2人で分けて食べている。
それでも量は多いほど。
満腹感で、腹の中が今も、ゴボゴボしている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浪曲

 今、私は浪曲の練習をしている。
子どものころは、毎日のように聞いていた。
祖父が、好きだった。
祖父は、自分では歌わなかったが、町に歌手がやってくると、かならず聞きに行った。
私もついていった。
それが今でも、耳に残っている。

「♪旅ゆけば、駿河の道に、茶の香り」と。

 「♪駿河の国に」と歌う人も多いが、初代広沢虎造も、二代目虎造も、「♪駿河の道に」と歌っている。
そのほかの歌詞は、そのときどきの録音によって、微妙に異なっている。
理由はいろいろ考えられる。
たとえばもともと決まった歌詞などなかった。
そのときの気分で、歌詞を変えた。
当時は、そういう時代だった、など。

 今では、YOUTUBEで、広沢虎造の浪曲を、自由に聞くことができる。
初代虎造のは少ないが、二代目虎造の録音になると、いろいろな時代の歌い方を楽しむことができる。
それを聞いていると、心はそのまま子ども時代に、タイムスリップする。
祖父が、そこに立っているような気分になる。

●韓国語

 ところでその浪曲を練習しながら、こんなことに気づいた。
最初の部分で、こう歌うところがある。

「♪海道いちの親分は~エ」と。

最後の部分に「エ(e)」という発音が入る。
なぜだろう。
民謡の中にも、ときどき似たような「エ」が入ることがある。
ご存知の方も多いと思うが、「エ」は、韓国語の「は」に相当する。
「私は、浩司です」の「は(wa)」である。

 日本語と韓国語は、兄弟言語。
こういうとことに「エ」が入っても、おかしくはない。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりほんの100年ほど前までは、日本語の中に、韓国語がまざっていた、と。

 こういった話は言語学者の分野。
私にはここまでしかわからない。
気にはなったので、ついでにここに書きとめておくことにする。

●テンポ

 浪曲の歌い方は、現代の私たちから見ると、かったるい。
テンポが遅いというより、のろい。
が、当時はそのようには、思わなかった。
浪曲がのろいとは、思わなかった。
生活のすべてが、浪曲のテンポで動いていた。
違和感は、まったくなかった。
時間にも余裕があった。

 居間にいると、息子がやってきたので、少し歌ってみせた。
あきれたような顔をして、私の顔をながめた。
で、私はこう言った。

 「昔はね、自転車屋でもね、客がいても、親父なんか将棋を指していたよ」、
「ときには客も、その将棋に加わることがあったよ」と。

 当時は、今より、はるかにゆっくりと時間が流れていた。
テレビで見る歌舞伎も、相撲も、落語も、みな、そうだった。
浪曲はそういう時代の歌だった。
当時の私は、ふつう以上に活発な子どもだったが、それでも、それを「のろい」と思ったことはない。

●密度

 こう考えてみると、時間とは何か。
改めて考える。

 今までの私の理論によれば、密度を2倍にすれば、時間も2倍になる。
反対に、密度が2倍薄くなれば、時間も2分の1になる。
そういうふうになる。

が、もしそうなら、昔の人たちは、同じ50年でも、現代の私たちより短い50年を生きていたことになる。
情報量にしても、比較にならない。
「多い」というより、今、私たちは情報の洪水の中で生きている。
しかし、本当にそう考えてよいのか。
つまりその分だけ、反対に、私たちは昔の人たちより、長く生きていると考えてよいのか。

 そこで問題は、「密度の内容」ということになる。
「情報の質」も、無視できない。

 いくら密度が2倍といっても、つまらないことで濃くしても、意味はない。
くだらない情報に振り回されても、意味はない。

●感動

 「情報」については、わかりやすい。
良質な情報と、粗悪な情報がある。
その区別なら、そこらの高校生でもできる。
問題は「密度」。

 10時間を、20時間にして生きたからといって、「密度が濃い」ということにはならない。
寝食も惜しんで、パチンコをする、とか。

となると、何が密度を決めるのか。
密度は何によって、決まるのか。
私は、そのひとつが、「感動」と考える。
感動の質と量が、密度を決める、と。

 私も自分の人生の中で、1日を1年のように長く感じたことがある。
オーストラリアの大学に留学していたときのこと。
けっして大げさな言い方をしているのではない。
本当に、そう感じた。

 毎日が驚きと感動の連続。
だからある夜、こう思った。
ちょうど3か月目の、ある夜のことだった。
ヘトヘトになった体をベッドに横たえた。
その瞬間、「まだこんな毎日が、9か月もつづくのか!」と。
私はそれを思ったとき、心底、自分が誇らしかった。
うれしさが、ドッと腹の底からわいてきた。

●人生を長く生きる

 言い換えると、人生を長く生きるためには、2つのことに気をつける。

(1) 情報の選択
(2) 感動の創造

 情報の選択を誤ると、時間を、無駄にする。
くだらない情報に引き回されるだけ。
また感動のない生活は、生活そのものをマンネリ化する。
それこそ10年を1年のようにして生きるようになる。

 あとは、そのときどきの各論ということになる。
つまり生き方の問題。

……とは書きつつ、このところ感動が少なくなってきた。
自分でも、それがよくわかる。
そこで「創造」。
自ら創りだす。

●悠々自適?

 その感動は、つねに緊張感を伴う。
緊張感の中から、感動が生まれる。
言い換えると、いかにして生活の中に緊張感を創るかということ。
その緊張感がないと、人生は、そのままだらしなくなる。
反対の視点に自分を置いてみると、それがよくわかる。

 老後は孫の世話と庭いじり。
悠々自適の年金生活。
が、そんな生活からは、感動は生まれない。
10年を1年どころか、1日にして生きるだけ。

●緊張感

 となると感動は、日々の緊張感の中から生まれる。
前向きに生きていくという緊張感の中から、生まれる。
新しいことに興味をもち、新しいことに挑戦していく。
新しい人々との出会いをいとわず、その人たちのために生きていく。

 が、このときひとつの大きな条件が生まれる。
「無私無欲」という条件である。
功利、打算が混入したとたん、感動は霧散する。
もちろん生きていくためには、収入が必要。
仮に収入のためではあっても、収入を、極力意識しない。
脇へ追いやる。
その努力は怠らない。

 もしそれができれば、ゆるやかな時間であっても、密度の濃い人生ということになる。
そうでなければ、そうでない。

わかりやすく言えば、東海道を歩いていっても、それで時間を無駄にしたことにはならない。
新幹線で行っても、それで時間を有効に使ったことにはならない。

●夢

 話題を変える。

 今朝、ハナ(犬)の夢を見た。
先月、他界した。

どこかの家で、大きな鳥かごを見ていたときのこと。
足元に、ハナがやってきた。
まだ中型くらいの大きさだった。
いつものように頭をさげ、私の体に、自分の体をこすりつけてきた。
が、見ると、横に、白と黒のブチの犬がいた。
丸々とした雑種の犬で、私が「ボーイフレンドか?」と声をかけると、うれしそうに尻尾を振った。
私は両方のハナとその犬と、交互にさすってやった。

 涙があふれた。
そこで目が覚めた。

●ハナ

 ハナのボーイフレンドを考えなかったわけではない。
ときどきワイフと、「どうしようか」と話し合った。
しかしいつも私たちの年齢を考えた。
犬といっても、20年は生きる。
そのつど、自分の年齢に20歳を加え、こう思った。
「20年後に、めんどうをみられるだろうか」と。

 だからハナは、ずっとひとりぼっちだった。
それが、今になって、私を責める。
自分たちのつごうで、ハナにつらい思いをさせてしまった。

●マムシ

 もっとも晩年のハナは、息子といつもいっしょだった。
息子が庭へ出ると、かたときも、息子のそばを離れなかった。
ハナも、さみしかったのかもしれない。
今にして思うと、ハナの気持ちがよくわかる。

 ハナは、庭先の、ヤマモモの木の下に埋葬した。
墓も立てた。
その墓に息子とワイフは、毎日、線香をたて、供養している。
私も祈っている。

 ……いつだったか、私が庭の畑で作業をしているときのこと。
ハナがけたたましく吠えた。
見ると足元にあった枯草の下で、マムシがとぐろを巻いていた。
もしあのときハナが吠えてくれていなかったら、私はマムシにかまれていた。
「命の恩人」と思うようになったのは、そのときからだ。

 そのハナは、もういない。
が、ハナの墓に参るたびに、こう祈る。
「もうすぐ、ぼくも、そちらへ行くからな」と。

 西洋では、飼っていた犬が、天国で私やあなたを案内してくれるという。
ほかの犬のことは知らない。
しかしハナなら待っていてくれるはず。
仕事に出かけるときは、どこかいいかげんだった。
しかし仕事から帰ってくると、一日も欠かさず、私を裏口で迎えてくれた。

 律儀な、どこまでも律儀な犬だった。

 おかしなものだ。
死んだ父や母より、遠くに住む息子たちより、ハナのほうが恋しい。
ハナに会いたい。
私には、かぎりなく、よき友だった。

●映画『ドラゴン・タツーの女』

 「ドラゴン・タツー」というのは、少し大げさ。
タツー(刺青)が、とくに意味をもつわけではない。
それに謎解きといっても、それほど奥があるわけではない。
言うなれば、「つじつま合わせ」。

 それにその「女」にしても、まさにスーパーレディ。
ハイテク機器を自由に使いこなす。
その女は、意味ありげな雰囲気で登場し、最後は、ふつうの女で終わる。
星は、3つの★★★。
少し甘いかな?
ダニエル・クレイグ主演ということで、かなり期待して行った。
期待が大きかった分だけ、がっかり。

 先にも書いたように、「意味ありげ」で始まり、「ふつうの映画」で終わった。
が、あまり「意味のない」映画。
やはり「チンチン・タツーの男」のほうが、よかった。

●2月12日(日曜日)(2012)

 日は替わって、12日。
昔はこんなことはしなかった。
が、今は、(2012)と年号を書き入れる。
でないと、あとで、いつの原稿だったか、それが、わからなくなる。
このところ、そういうことが多い。
たとえば古い原稿を探したようなとき、日付はわかっても、何年に書いた原稿かがわからない。
その前後をスクロールしながら、書いた年数を知る。
その手間に、けっこう時間がかかる。


 これもネット時代の特徴のひとつかもしれない。
ネットで検索すると、1年単位、10年単位の原稿が、どっと見つかる。
原稿が、大きな塊(かたまり)となって、画面に現れる。
「時間」の概念が、ネット上では、かなりちがう。
この世界では、「1年前」「10年前」という数字は、あまり意味をもたない。
逆に考えれば、こんなことも言える。

 ……たとえば、そんな人がいるかどうかは、わからない。
が、10年後、あるいは20年後、「はやし浩司」で検索し、私の書いた原稿を読む人がいたとする。
そのとき、その人は、時空を超え、パソコンのモニターをはさんで、私と対峙する。
そこには、時間はない。
距離もない。
「私」と、直に対峙する。

 ……ボロボロになった本を、遠くから買い寄せて読む。
時間をかけて読む。
が、それは昔の話。
その反対が、ネットの世界ということになる。
だから、最近は、年数を、できるだけこまめに、書き込むようにしている。
その数字だけが、過去になった「今日」を示す。

●W・ヒューストンの死

 たった今、ネットに、こんなニュースが流れた。
W・ヒューストンが亡くなった、と。
48歳だったという。

48歳!

 若すぎる。
死因その他は、「不明」とのこと。
芸能界は、しばらくW・ヒューストン一色になるだろう。
それにしても、なぜ?
グラミー賞受賞式の前日だったという。
賞と何か、関係があるのだろうか?

●貧乏の怖さ

 私の息子たちも含めての話。
最近の若い人たちは、貧乏の怖さを知らない。
知らないから、家族第一主義に、安易に走りやすい。
「仕事より、家族が大切」と。

 それはそれで結構なことだが、「仕事あっての家族」。
たしかにお金(マネー)では、幸福は買えない。
しかしお金(マネー)がなければ、不幸になる。

 とは言っても、一時的な貧乏なら、まだ何とかなる。
気力や体力で、乗り越えることができる。

怖いのは、ジワジワと、長い年月を経てつづく貧乏。
精神はもちろん、肉体をもむしばむ。
それが怖い。

私は経験している。
家中が、暗く、よどんだ空気に満たされる。
「明日は今日より、よくなる……」と。
そんな淡い期待も、その翌日には、こなごなに破壊される。
それが来る日も来る日も、繰り返される。

 当然、ものの考え方も、影響を受ける。
卑屈になる。
ゆがむ。
いじける。

 ……この不況下。
どこへ行っても、暗い話ばかり。
そういう話を聞くたびに、私は自分の少年時代を思い出す。
いやな時代だった。
本当にいやな時代だった。

●ボットン便所

 だから私はがんばった……と書けば、意図は見え見え。
しかし総じて言えば、団塊の世代は、それゆえに、がんばった。
が、その結果が今。

 若い人たちは、飽食とぜいたくの世界で、自分を見失ってしまった。
今のこの日本の繁栄にしても、いつまでもつづくものと思っている。
が、私たちはそうでない。
現在の日本経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いているようなもの。
その下には、あのボットン便所が待っている。
そうなったとき、つまり日本経済が崩壊したとき、今の若い人たちは、それに耐える力はあるだろうか。
そのときになっても、「仕事より家族が大切」と言っていられるだろうか。

●帰り支度

 ワイフが帰り支度を始めた。
窓の外には、紺色の青い空が広がっている。
気温は、3度前後。

 朝風呂に入った。
ほどよい気(け)だるさが、心地よい。
このままコタツの中で眠りたい。

 ……そう帰りには、久しぶりに、パソコンショップへ寄ってみよう。
もう何か月も行っていない。
東名高速道路のインター近くにある、「N」というパソコンショップ。
パソコン関連グッズのほとんどは、私は、その店で買っている。

(補記)

●プリンターのインク

 ところで今度、別の会社から、プリンターのインクが販売されることになった。
プリンターといえば、エプソン、キャノン、ブラザーの各社が製品として出している。
が、インクが高価。
エプソンのインクでも、6色セットで、5000~6000円もする。
それを、1セットあたり、たったの1600円前後。

 販売しているのは、福岡市に本社をおく、「ジーストリーム」。
電話:092-402-7360
さっそく「楽天ホビナビ」を通し、2セット買ってみた。
価格は3333円プラス代引き手数料。
1セットで、3333円かと思ったら、2セットでこの価格。
この価格なら、この先、インク代は心配せず、プリンターを使うことができる。

問い合わせ先は、「インクナビ」本店へ。

http://www.inknavi.com/

(注意)エプソン用のインクはそのまま使えるが、キャノン用のインクは、ICチップを張り替えなければならない。
また相性については、Yellowだけ使ってみたが、まったく問題なくセットできた(エプソンEP902A)。
「どうしてインクは、こんなに高いのか!」と、日ごろ不満に思っている人は、一度、使ってみたらよい。

(はやし浩司 2012-02-12 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 貧乏の恐怖 貧乏の恐ろしさ はやし浩司 貧乏の怖ろしさ 映画「ドラゴンタツーの女」 はやし浩司 プリンターのインク インクナビ はやし浩司 浪曲 旅行けば 駿河の道に茶の香り)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。